「寝床の用意が出来たぞ」
「ご苦労」
帷幕に人影が映り、外から曹仁の声が聞こえた。華琳は鷹揚に返した。
「蘭々、そんなもので良いわ。交代しましょう」
「俺は自分でするので結構です」
「毎日毎日同じことを言わせないでちょうだい。大切な妹に身体を拭わせておいてお返しもしないとあっては、私が幸蘭に怒られてしまうわ」
「ひゃんっ! ちょっと、華琳さまっ、やめっ」
「うふふ」
湯に浸しかたく絞った手拭いで背筋を撫でると、蘭々が可愛らしい嬌声を上げた。
「あんまり蘭々をいじめるなよ」
「兄貴、ひゃっ、たっ、助けてっ」
「助けてと言われても。入って良いのか?」
「それはっ、……駄目だけど」
「じゃあどうしようもないな。―――華琳、ほどほどにな」
声を残して、外の気配が消える。
幽州で長城を越えて、すでに十日余りが経過している。
楼班とそのお付きの兵の案内で烏桓の地を進み、三日前には蹋頓との合流も果たした。ここまでは何度か斥候隊との小競り合いはあったものの、大規模な戦には至っていない。蹋頓と漢族の遠征軍と対するため、烏桓の族長たちは兵力を集結させているという。今はその集結地へ向けて軍を進めていた。大軍を動かすのに向いた地形で、敵は決戦の構えで待ち受けているという。このまま進めば、二日後にはぶつかる予定だ。
華琳自らの出陣に関して、当然反対の声も多く上がった。文官筆頭の桂花と軍の総大将春蘭も珍しく声を揃えた。反対を押し切っての出陣には、軍師としては唯一華琳に賛同した稟を伴い、率いる軍は騎馬隊のみとした。将軍にも曹仁と霞、虎豹騎を率いる蘭々と虎士の季衣と流流を連れるだけである。
行軍は中原でのそれとは全く別物となった。当然街道など整備されているはずもなく、山に平野、わずかな森に砂丘までと地形の変化に富んでいる。雨は極端に少なく、数日乾いた岩山が続くこともあり、そうした土地ではあえて難路を選んで湧水を求める必要もあった。案内する者が無ければ二倍三倍の時を要したであろうし、渇きによって敵の一人にも会えないままに撤退もあり得ただろう。遊牧の民である烏桓は実に良く自分達の土地を把握している。
騎兵のみでの強行軍には、普段中原の戦で使うようなしっかりとした幕舎を運ぶ余裕はない。野営の度、曹仁が華琳と華琳に近侍する蘭々、季衣、流流、稟、それに楼班のために樹間や石洞に天幕を張って寝所を整えた。曹仁や霞は、兵や馬と一緒に吹き曝しの中で寝ているらしい。その点では雨が少ないのは幸運とも言えた。
そんな状況であるから、当然風呂はもちろん水浴びも満足には出来ない。野営になると曹仁が大釜に湯を用意してくれた。行水とはいかないまでも、顔と髪を洗い身体を拭うことは出来る。華琳と女性の将軍達、それに虎士の面々―――大半が女の武人―――にだけ許された特権である。自身は当然のように兵と起居を共にする曹仁であるが、華琳と妹の蘭々、そしてすでに妹分とも言える季衣と流流に対しては甘いのだった。
「あははははっ、流流、くすぐったいよっ」
「もうっ、季衣、動かないで」
「楼ちん、ウチらも洗いっこするか?」
「い、いえっ、大丈夫です。遠慮しておきます」
帷幕の中に曹操軍の要職に付く女性が、稟を除いて全員揃っていた。楼班もいる。稟は半裸の華琳を目にすると決まって鼻血を噴くため、後ほど虎士達と共に使ってもらうことになっていた。
季衣と流流は仲良く交互に背中を擦り合っている。霞は胸を揺らしながら豪快に背中を拭い、対照的に楼班は隅で小さな体をさらに小さくしていた。
華琳は一門の中でも最も自分と似た肢体を持つ蘭々をしばし弄ぶと、衣服を身に付け幕外へ出た。ふらふらとした足取りの蘭々と、季衣に流流も付いてくる。
「何だか最近、兄貴にしては随分気が回るよね」
寝所に入ると、蘭々が言う。
天幕の内は火が焚かれ、外より暖かかい。長城を越えて数日過ぎた辺りから朝晩の寒暖差が激しくなり、夜はかなり冷え込むようになった。
いつも通り、火を囲む様に華琳の分だけでなく人数分の寝床が用意されていた。これだけは十分に運んできた秣を布で包み、即席の寝台代わりとされている。
「そうかしら? 昔から幸蘭達に躾けられて女の扱いは悪くなかった気がするけれど」
「うん、兄ちゃん、初めて会った時から優しいよ」
「そうだよ。妹の蘭々だけじゃなく私や季衣にも良くしてくれるし」
「うーん。確かに義勇軍をしていた時も、俺や桃香さん達は出来るだけ屋内に泊れるように気遣ってくれてはいたかな。でも湯を用意してくれたり、寝床を整えてくれたり、昔よりずっと細かい気配りまでしてくれるようになったと思う」
三人に否定され、蘭々が首を捻る。
「まっ、いいか。便利だし」
言うと、蘭々は寝床に飛び込んだ。厚く敷いた秣は下手な布団よりも余程弾力があり、蘭々の身体が寝台の上で跳ね上がる。
「それ、面白そう。ボクもやるー」
「ああっ、こらっ、暴れないの、季衣」
蘭々と季衣が騒ぎ立て、流流が制止役に回る。いつもの調子で夜は更けていった。
翌日は、朝から山越えとなった。ぽつぽつと疎らに灌木が生えるのみの岩山である。
騎乗のまま平然と山道を上って行く烏桓に対して、曹操軍の兵は時に轡を取って歩いて進んだ。
「馬の質にそれほど差があるとは思えないのですが、一体どうしたわけでしょうか?」
稟が首を捻った。首筋にはすでに薄っすらと汗が浮かんでいる。旅生活が長く、馬術は文官の中ではかなり上等な部類であるが、さすがに今回の行軍はきつそうだった。
「馬術に対する考え方が違うようね」
「考え方、ですか?」
「つまり、―――蘭々、後は任せたわ」
説明し掛けて、虎豹騎に指示を出す蘭々の姿が目に入った。虎豹騎の乗馬はいずれも良馬揃いであるが、唯一の重騎兵だけに進軍に手間取ることが多くなっている。
「はい。うちの兵と烏桓の兵の肩を見比べて、稟さん。何か気付かない?」
「はい。…………烏桓の兵の方が、上下に揺れている?」
稟は目を眇めて先行する烏桓の集団を観察しながら答えた。
「正解。つまり、馬が跳ねているということ。中華では、跳ねる癖のある馬は調教で矯正してる。乗り心地が悪いし、下手をすると振り落とされてしまうから。それに、馬にも乗ってる人間にも無駄な体力を使わせる」
「烏桓ではその調教をしていないと」
「うん。だから平原の戦では烏桓の馬の方が多分消耗が早いし、馬の質が同等で真っ直ぐ一直線に駆けるだけなら中華の馬術が勝る。でも傾斜や起伏が激しいこんな道では、跳ねる方が効率的に進める場合も多い」
「なるほど。生活環境の違いが、馬術にも表れているというわけですね。さすが蘭々様、虎豹騎の隊長だけあってよく見ていますね」
得心した様子で、稟は二度三度と首肯した。
「へへっ、まあね。…………まあ、全部兄貴の受け売りになんだけど」
得意気な顔で受けた蘭々は、やはり得意気な顔で兄からの入れ知恵を告白した。
曹操軍との合流から五日、予定通り原野を挟んで四万余りの軍と対峙した。互いに丘の上の高みに陣取り、戦機をうかがっている。
それぞれに単于の地位を主張していた族長達は、蹋頓が帰還し兵を集め、さらには曹操軍の兵を呼び寄せたとなると団結した。大きな部族が三つで、それぞれに単于を名乗る者がいて、小部族がそのいずれかの傘下に加わることで三つの大集団を為している。一緒に戦場には出てきても連係はせず、三つが横一列に並んでいた。この戦で前単于―――蹋頓の首を挙げた者が単于に立つという暗黙の了解のうえでの同盟だろう。そういう烏桓族の持つ単純さは、蹋頓には愛おしくさえある。
対するは蹋頓の一万五千騎に、曹操軍からの援軍が曹仁と張遼の一万ずつに、曹操自らが率いる五千の計二万五千騎である。数の上では拮抗し、練度においては圧倒している。
二万のうち半数の一万という予想を覆し、自分の呼び掛けに一万五千が答えてくれた。残りの五千は今は敵軍で、各出身部族の軍に点在している。
「惜しいな」
「何か言ったか?」
轡を並べた曹仁が聞き返した。
巨漢の蹋頓の横に並ぶと子供のようにさえ見える小男だが、槍を取っても軍を指揮してもこの男がすごいのだ。つまりは修練で強くなったということで、烏桓では見ない類の男である。
「惜しいと。俺の鍛えた五千騎を一つにまとめる者がいれば、脅威と為り得た。後に続く者を育てなかった俺の失策だったな。曹操軍では隊長が死ねば副官が、副官が死ねばさらにその下の地位の者が指揮を引き継ぐのだろう?」
烏桓の男達は教えるまでもなく誰もが騎射を良くし、漢族の兵なら音を上げるような長駆を苦にもしない。だから蹋頓が兵に教え込んだのは、隊としての戦い方だった。全員で隊列を組んで動く。あるいはばらばらに散ってまた一つに集まる。全員で一つの的を狙う。あるいは広範囲に矢を降り注ぐ。それだけ叩き込んだだけで、蹋頓の軍は他の烏桓の兵とはまるで違った強さを発揮するようになった。だから各部族の軍に点在してしまっている五千は、蹋頓の調練を受ける前の男達と何も変わりがない。
「まあな。でも、あんたは単于だったのだからそれも当然だろう。うちだって、曹孟徳の代わりはいない」
「曹操殿に何かあれば、代わりは貴殿ということになるのでは?」
「まさか。器じゃないし、華琳に何かあるなら、その前に俺は死んでるさ」
着なれない毛皮の套衣が気になるのか、襟元をいじりながら曹仁が答える。
この辺りが、烏桓には持ち得ない漢族の強みだろう。官渡の決戦では初め二十五万の兵力を誇った袁紹軍が十万足らずになるまで兵を失っている。しかし兵は袁紹が降伏するまで彼女に従い、最後には血気盛んに突撃を敢行した。烏桓族の兵なら、最初の連環馬での大敗の時点で潰走し、再び集結することはなかっただろう。実際蹋頓が倒れると、次期単于である楼班を袁紹軍の本陣へ置き去りにして逃げ散っている。しかもそれが蹋頓が育て上げた烏桓族の中では唯一軍令を徹底させた二万なのである。
遊牧の民である烏桓族には帰属意識が希薄で、忠誠心というものが育ちようもない。主君の代わりに死ぬなどという殊勝な人間はいないのだ。
「―――さてと、そろそろ降りるか」
曹仁が小さく頷き返すのを見て、蹋頓は一万五千を前進させた。丘を駆け下り、そのまま原野の真ん中まで進んだところで足を止める。曹操軍二万五千の力は借りず、この軍だけで勝負を決するつもりだった。
まともに丘からの逆落としを受ける位置で、敵軍に緊張が走るのが兵のざわめきから見て取れた。
敵はすぐには仕掛けて来なかった。牽制し合っている。敵である蹋頓をではなく、互いにだ。
真ん中の集団が動いた。他の二つよりいくらか数が多く、一万七、八千というところだろうか。負けじと、左右の集団も丘を駆け下り始めた。協調した動きではなく、やはり功を競い合っている。すぐに隊列も何もなく猛然と駆け始めた。
蹋頓は一万五千を丘の麓まで後退させた。背後の丘には、曹操軍の二万五千が依然控えている。蹋頓に動かす気が無くとも、敵は逆落としを警戒せざるを得ない。先行していた中央の集団は慌てて足を止め、他の二隊もそれにならった。先に飛び込んだ集団は逆落としに曝され、他の者達の露払いとされかねない。
蹋頓は中央の集団目掛けて、一万五千騎を走らせた。同時に一斉に矢を放つ。敵軍からはぱらぱらと力無い矢が返ってくるだけだ。逆落としの勢いを強引に殺したばかりであるから、隊列が乱れて咄嗟に弓が十分に引けないのだ。蹋頓の一万五千はどんなに激しい動きの後でも陣形を乱すことはない。
「全軍、右周りに敵を射尽くせっ!」
一万五千の先頭がぐるりと馬首を右へ向けた。
烏桓の戦は、接近しながら数射を放った後に刀で斬り合うか、距離を保って矢を射続けるかのどちらかだ。今回は兵には後者の動きをさせた。矢の威力が最も発揮される左方向に相手を捉えたまま、右回りに敵陣を周回させる。
「曹仁殿、頼む」
「ああ」
白騎兵の具足の上から、毛皮の套衣を纏った曹仁が短く応じた。曹仁の白騎兵百騎には、唯一例外として一万五千騎の中に加わってもらっている。
敵味方合わせて六万の兵というのは、烏桓の青壮の男のおおよそ全てだった。烏桓族の男は誰もが兵として戦う。農耕や商業を担う者が別にいる漢族の軍とは違うのだ。兵の死は、烏桓族全体の衰退を意味していた。そうでなくても、同族の民はなるべく殺したくはない。
白騎兵を使うように助言をくれたのが同行した曹操軍の軍師郭嘉である。蹋頓の力を誇示するために、烏桓の装束で白騎兵に蹋頓の部下を装わせたのも郭嘉の発案だった。
右折する一万五千騎の中程から、白騎兵と共に蹋頓は飛び出した。馬上に立ち上がって、敵味方の全てにその存在を明らかとする。
敵軍三隊のうち、中央の集団へ突っ込んだ。矢戦に備えていた敵兵は、刀を取ってもいない。
縦断し後方へと駆け抜けた。この突破力は烏桓の用兵にはない。
敵中央の隊から急速に戦意が霧散していく。蹋頓の手には首が一つあった。単于を自称した男の首だ。
元々、戦と言えば漢土へ侵攻しての略奪と考える多くの烏桓兵にとって、この戦は面白味のないものだった。族長の命でやむなく参加した者がほとんどだろう。単于を名乗る三名の首を挙げれば、それで戦は終わりだった。
敵軍の周りをぐるりと半周してきた一万五千騎が駆けて来て、白騎兵もその動きに合流した。
中央に戦意を失った集団を抱えた敵軍は、大きな動きを制限されている。あと二回同じことを繰り返すのは、そう難しい事ではなかった。
「―――うへ」
華琳が一口含んで、らしくない声を上げた。
「うん、確かに癖があるな」
その華琳から押し付けられた椀を受け取ると、曹仁は普通に飲む下した。
「貴方、飲めるの?」
「ああ。俺の国では牛の乳やそれを発酵させたものは普通に飲んでいたからな。これも癖はあるが、飲めない程ではない」
祝勝の宴で振る舞われた馬乳酒である。馬の乳を発酵させた酒で、独特の酸味はお世辞にも口当たりが良いとは言えなかった。漢の人間はそもそも乳の類を飲まないから、華琳の口には合わないのだろう。稟も顔をしかめ椀を置いている。
一方で中華でも北辺出身の霞などは飲み慣れた様子で、大椀になみなみと注がせている。
「ばたーは美味しいけど、さすがにこれは」
「俺もこれは無理」
左隣りの華琳に続いて、右隣りからも手が伸びて来て曹仁の前に椀を置いた。自分の分も含めて三杯の馬乳酒が曹仁の前へと集まった。
「食わず嫌いは良くないな、蘭々。一口だけでも飲んでみたらどうだ、ほら」
味見をした華琳とは異なり、蘭々は匂いを嗅ぐだけで投げ出している。
曹仁は手にした椀を蘭々の顔の前に突き付けてやった。蘭々の視線が曹仁の顔と椀の間を忙しなく行ったり来たりする。
「なんだ、兄の飲み掛けが嫌か? なら新しい方を―――」
「―――そっ、そういうんじゃないからっ! わかった、味見だけな」
蘭々が椀に口を付けたので、曹仁は唇を濡らす程度にそれを傾けた。
「……あれ、意外と飲めるかも」
「おっ、それなら返そうか」
「そんなに沢山はきついから、この飲み掛けの分をもらうよ」
引っ手繰る様にして、蘭々が曹仁の手から椀を奪い取った。あまり強い酒ではないし、まだ舐めるほどしか飲んではいないはずだが、蘭々の頬はすでに赤らんでいる。
「―――お待たせいたしました」
給仕が焼いた羊の肉を運んできた。
骨付きの肋肉で、突き出た骨を掴んで食べることが出来る。柔らかく癖のない肉質は子羊のもので、岩塩と香料を効かせて遠火でじっくりと焼き上げている。中原で食べる牛や豚の料理よりもむしろ上品なくらいで、華琳と蘭々もこちらは気に入った様子で手を伸ばしている。
子羊を潰す料理は、羊を何よりも大切にする遊牧民族にとっては最高の饗応料理といったところだろう。
「一万頭の羊かぁ」
肉を口に運びながら、曹仁は呟いた
戦にはほとんど犠牲も出さずに勝てた。蹋頓が懸念していた敵軍の死傷者も、矢傷を負った兵が二、三千で、死者は五百にも満たない。四万騎同士が勝敗を決するまで戦った犠牲としては、まずは穏便な結果と言える。
単于を自称した三人の首は、いずれも蹋頓自らが挙げている。三つの部族には代わりの族長を立て、贖いとして戦に加わった兵と同じ数の羊を差し出すよう命じた。合わせて一万頭余りとなる。
他方、三人に付き従っただけの族長とその兵は、改めて蹋頓と楼班への服従を誓わせるだけで帰した。寛大過ぎる処置は思わず不安になるほどだが、蹋頓に言わせれば戦で十分な力を見せつけた以上、逆らうことはまずないという。
「羊で贖わせるというのは、遊牧の民ならではね」
華琳が言った。
「一万頭も急に増えて、世話しきれるものなのか?」
曹仁は正面に座る蹋頓に視線を送った。
穹廬の中には車座に曹操軍の諸将が腰を降ろしており、烏桓族からは蹋頓と楼班だけが宴に参加していた。華琳の正面が楼班で、楼班の右隣に蹋頓、そして同じく華琳の右隣が曹仁だった。
「一人で百頭以上も扱える者もいるのでな。もっとも、今回受け取る一万頭は、俺に従ってくれた兵の属する部族へ贈るつもりだ」
「それは、一族としては敵対した連中ってことじゃないのか?」
一万五千のうちに蹋頓と楼班の部族の兵は数千のみで、後は部族を越えて召集した混成部隊だった。大半の部族が敵へ回った先刻の戦では、兵の出身部族も当然敵対している。
「厚く遇することで敵を味方とする。漢族の戦から俺は学んだ」
華琳が麗羽を決して辱めず、そのことで袁紹軍の領土だけでなく田豊や沮授、張郃や高覧と言った文武の人材をも手にしたことを言っているのだろう。
「悪くない手ね。単于の元での活躍が部族への恩恵に繋がるとなれば、部族内でのその者達の立場も自然と強まるでしょう。そして子飼いの兵の発言力が強くなれば、それはそのまま単于の力ともなる」
「なるほど、そこまで考えてはおりませんでした。まだまだ俺が漢族から学ぶべきことは多いようです」
蹋頓が謙虚に頷いた。
すでに曹操軍の兵を率いている張郃や高覧に言わせれば、蹋頓と言うのはもう少し野心に溢れた不敵な男であったらしい。自ら虜囚とされた敗戦がよほど応えたか、曹仁が言葉を交わした蹋頓は不遜な気配を漂わせたことはない。中華の兵法や軍法に関心が強く、辞を低くして貪欲に学び取ろうとしていた。それが志の高さから来る行動なのだとしたら、確かになかなかの野心家と言えよう。
宴は夜半まで続いた。馬乳酒が飲めない華琳や稟のために漢族の酒―――烏桓の地では貴重な―――も供され、料理も引っ切り無しに運び込まれる。
酒の回った霞が決戦で出番のなかったことを蹋頓と曹仁、それに策の立案者の稟にぼやく。蘭々は虎豹騎の重装備で険阻な山道を進んだ今回の遠征の苦労を言い募り、帰路にまた同じ苦難が待ち受けていることを嘆いた。
宴が終わると、それぞれに宿舎代わりの穹廬へ案内された。
穹廬には男女の別なく家族単位で暮らすのが基本らしく、曹仁は華琳と蘭々と同じ一幕へ通された。当然周囲は虎士の泊まる穹廬で囲まれている。
「――――んっ」
蘭々は中に入るなり横になると、すぐに小さな寝息を立て始めた。結局それなりに杯を重ねていたし、本人の言葉通り行軍の疲れが溜まっているのだろう。
移動式の住居である穹廬は、簡単に言ってしまえば幕舎を立派にしたものだが、居心地は普通の家屋に劣らなかった。
円形の骨組みの上に羊の皮を縫い合わせた幕を被せ、さらにその上に羊毛で作られる分厚い布を乗せ、最後に狼の毛皮で覆っている。それで外気からはほとんど完全に遮断され、室内は適度な温かさが保たれていた。
床にはやはり羊の毛織物が敷き詰められ、その上にさらに毛皮が広げられている。板敷きか石畳の中華の家屋よりもその点は快適だった。
「これが穹廬かぁ」
曹仁は改めて室内を見渡した。
「妙に感慨深げね?」
「昔から、一度泊まってみたいと思っていたんだよ。確か俺のいた世界でも、穹廬に暮らしている人達はいるはずなんだ」
「へえ。建築技術も随分発展していると聞いていたけれど、穹廬は変わらず使われているのね」
曹仁が座ると、拳一つ分ほど隔てて隣に華琳も腰を降ろした。普段なら引っ付いて、と言うより曹仁の膝の上に華琳が座るところだが、寝ているとはいえ妹のいる室内ではさすがに憚られる。
「この遠征、わざわざ華琳が出張るだけの実りはあったのか?」
戦の矢面には蹋頓が立ち、華琳は一切口出ししなかった。蹋頓と楼班に恩を売ることは出来ただろうが、それも配下の武将の派遣で十分という気はする。
ここから国境の長城まで戻るのにもう半月、鄴まではさらにもう半月、行き帰りを合わせると二ヶ月間も中華の政から主宰者が失われていたことになる。
「中原の覇者である曹孟徳が外征した。中華の歴史における意義は大きいわ。君主自ら長城を越えたのは、そうね、高祖劉邦以来じゃないかしら?」
「歴史的意義ねぇ? …………本音は?」
「私だって中華の外の世界を見たいわよ」
華琳がしれっとした顔で言う。
「ははっ」
思わず苦笑する曹仁に、華琳が続けた。
「次は西域にも行ってみたいわね。手前までは、高順が道案内を出来るはずよね。ああ、まずは韓遂をどうにかするのが先か。公孫賛は手を焼いているようだし」
戦も政も、まずは自分の欲求有りきなところが実に華琳らしい。
「ああ、そうそう、貴方の国の料理を味わえたのも収穫の一つね」
曹仁の顔を見て、華琳が言い足す。
進軍の途中、渤海の沿岸を進む機会があった。曹仁は漁師から生きた鰺三尾を購い、華琳達に刺身を振る舞った。
醤油は馴染みの拉麺屋に頼み込んで譲ってもらった。塩か大豆の醤(ひしお)―――味噌―――で汁を作る拉麺屋が多い中、その店では曹仁の国で言うところの醤油拉麺を提供しているのだ。秘蔵の味ということで詳細は教えてもらえなかったが、味噌の上澄みから作った調味料だという。ごく親しい人間に振る舞うだけという約束を交わした後、小瓶でわずかに譲り受けたのだった。
山葵はさすがに手に入らなかった。辛味の強い大根などでの代用も考えたが、そもそも華琳は辛い物全般が大の苦手であることに思い至って今回は見送っている。
「悪くなかっただろう?」
「そうね。ご飯と一緒に食べるのを、寿司と言っていたかしら? あれは面白いわね」
実際に食べさせてみるとそれなりに好評で、季衣は言うに及ばず華琳と流流からも及第点が出た。刺身だけでなく寿司も作ると、そちらは一層高評価で握るそばから誰かの―――主に季衣の―――胃袋の中へ消えて行った。生魚の不慣れな食感が、ご飯と合わさることで薄らぐらしい。霞は酒の肴に合いそうな刺身が気に入った様子で、行軍中で飲めないことをしきりに悔しがっていた。
「なら帰りも寄って行くか? 今度は蘭々にも食わせたいな」
蘭々だけは頑なに拒否して、試食の場に顔も出さなかった。馬乳酒の件と言い、無頼を気取ってはいても蘭々の根っこの部分はやはり幸蘭に蝶よ花よと育てられたお嬢様である。
「出来ればあの料理も、本場で食べてみたいところだけれど」
「ああ、行けたらいいな。向こうの家族にも、華琳を紹介して。姉ちゃんに蘭々、春姉と秋姉も連れていって、両家の顔合わせをしたり」
「両家の顔合わせって、それはつまり、……そういうことよね?」
「ええと、……まあ、そうなるな」
「相変わらず気が早いわよ。まだ幸蘭と蘭々にすら秘密にしているというのに」
「うん、確かにちょっと気が早かった」
曹仁の言葉を最後に、穹廬の中がしんと静まり返った。
拳一つの距離がとてつもなく遠く、もどかしく感じられる。華琳もそれは同じなようで、視線は絡まったまま離れない。
「―――んんっ」
沈黙は、意外なところから破られた。何度か名前を呼んだせいか、背を向けて寝ていた蘭々がごろりとこちらへ寝返りを打つ。
「……ふぁ? なんだか、兄貴と華琳さま、近い。―――んん」
蘭々は一瞬寝ぼけ眼を開いて呟くと、すぐにまた寝息を再開させた。
「……これでも近いか」
「……そのようね」
その日は念のため、蘭々を真ん中に挟んだ川の字で眠りに就く二人だった。