曹操軍は鄴で一度軍を整えると、洛陽へ凱旋した。遠征に参加した軍のみならず、群臣を引き連れ十万の兵力を従えている。
大規模な凱旋は、烏桓の単于である蹋頓と次期単于である楼班を伴うが故だ。烏桓の王が自ら漢の朝廷へ赴くのは光武帝の御世以来のことである。今回の入朝を機に、正式に楼班が単于として冊立される運びとなっていた。
「それにしても、この軍勢はさすがに大袈裟じゃないのかなあ?」
十万の兵力の真ん中で、蘭々は隣を進む兄にこぼした。
普段なら先導役を務める曹仁と白騎兵だが、今回は蹋頓と楼班の護衛として中軍に加わっている。虎豹騎も同様の任に就いていて、こうして二人轡を並べていた。
烏桓も自前の兵力を伴っているので、本来護衛の必要はない。遠征を経て親交を深めた曹仁と蘭々を近くに配置したのは、華琳なりに烏桓の二人に気を使っているのかもしれない。
「華琳には、考えがあるんだろうさ」
「考えって?」
曹仁がちょいちょいと手招きをする。蘭々が馬上で身を傾けると、その耳元で曹仁が囁いた。
「荊州攻め、あるいは西涼か」
「―――ああ」
言われると、素直に納得するしかなかった。
現在中華に、曹操軍以外の主だった勢力は四つ。そのうち最大の勢力を誇るのが揚州全域と荊州南部を治める孫策軍。次いで、雍州から涼州にかけて点在する西涼軍閥。これは単純な兵力なら孫策軍よりも上かもしれない。一枚岩とは言い難いところがあるが、馬騰が朝廷に帰順した今となっては大方が韓遂に従うだろう。残る二勢力が荊州北部の劉表と益州の劉焉。二人とも漢朝より派遣された正式な州牧であり、戦乱の中をここまで生き長らえている。
このうち、益州だけは現状曹操軍と領地が隣接していない。孫策軍とは言うまでもなく長江を隔て南北で広く境を接している。一方、洛陽のある司隷は南端で荊州と、西端では西涼勢力に面していた。中華の中心とされる洛陽であるが、曹操領内においては西南の端に位置していた。荊州または西涼を攻める際には、軍の集積地と成り得るのだった。
「まあ、おそらく荊州かな。西涼を攻めるには少々兵力が心許無いし、荊州軍の意識は今は南の孫策軍へ向けられている。防備を整える間も与えず、一気に攻め落としてしまおうというのだろう」
「それなら、初めから言ってくれれば良いのに」
「敵を欺くにはまず味方から、と言うだろう」
「そんな言葉、聞いたことがないぞ」
「あれ、こっちの世界の言葉じゃなかったか。確かに孫子も呉子もそんなこと言ってなかったな」
「ふ~ん、兄貴の国の言葉か。……まず味方から、身内から欺く、ね」
「多分な。とはいえ秋姉や軍師連中は想定くらいはしているだろうが」
「一門の人間にくらい教えてくれたって」
「いや、そこが一番まずいだろう。春姉に教えたら、全軍に布告したようなもんだ。凱旋と進軍じゃ、明らかに気の入り方が違うからな」
「でも、家族に隠し事は良くないと思うな」
「それで兵の命が一人でも二人でも助かるなら、安いもんだろう」
蘭々は半眼で睨むも、曹仁は気付かない様子で返した。
最近の曹仁と華琳の態度に蘭々は一つの不審を抱いていた。本人達から言い出す時を待ち、遠征中にも何度か水を向けたが、結局聞き出せないまま時間ばかりが過ぎて行った。
「……兵と言えば、兄貴は白騎兵を今の百騎から増やさないのか?」
胸中でそれを追及したい気持ちと、深追いしたくない気持ちがない交ぜとなり、結果蘭々は今回も目を逸らした。
「うん? ああ、虎豹騎はさらに増やすんだったな」
いささか強引に話題を転じると、曹仁は特に訝る様子も無く受ける。
編成当初は二百騎だった虎豹騎だが、河北併呑後の軍の再編時に三百騎まで定員を増している。さらに今回の遠征で烏桓族との同盟は確実なものとなり、北方からの馬の買い入れが容易となった。虎豹騎には優先的に良馬が回され、最終的には五百騎まで増員する計画が立っている。
一方で、白騎兵は曹操軍に帰順した時と変わらず百騎のままである。驚嘆すべきことに、ここまでの戦場で一騎も欠けることがない。逆を言えば、増員は元より補充すらただの一騎も受けつけていなかった。
「あれはそもそも俺が鍛え上げたものではないからなぁ。二、三人ならともかく、百や数十の単位であいつ等くらいの兵を育てるのは、俺には無理だ」
曹仁は周囲に配された白騎兵に目をやりながら言った。
「へえ。……まあ、兄貴じゃそうかもな」
白騎兵の練度は、並び称される虎豹騎の指揮官である蘭々の目にも異常の域にある。虎豹騎は重騎兵であり、隊としてのまとまった動きを徹底させている。同じく精鋭で知られた華琳の近衛隊虎士は、個々人の判断力と武勇に優れた集団だ。そして白騎兵は、その両方を兼ね備えた部隊だった。
元々は董卓の近衛も兼ねていたというから、それ故であろうか。今は騎馬隊としてまとまって動くことが多いが、校尉相当の扱いで兵の指揮や調練を委ねられることもある。精兵から近衛の勇士、そして指揮官までと、実に多くを求められるのが白騎兵だった。
元々はそれが五百騎いたというのだから、それを育て上げた張繍というのは相当な人物だったのだろう。時には死を伴うような厳しい調練と、厳格な選抜が繰り返されたはずだ。曹仁も曹操軍の将軍の中では調練が上手い方である。しかしそこまでの峻烈さはこの兄にはない。
「そういうことだ。有り難く使わせてもらっているが、俺にはあんなものは育てられんな。まったく我が友ながら大した男で、大層なものを残していった」
蘭々の考えを読んだように、曹仁が肩をすくめながら軽い調子で言った。
「曹操、陛下がお呼びだ」
凱旋に楼班の入朝、単于冊立の諸儀式を終え退廷するところで、馬超に呼び止められた。
「奉軍都尉自らのお出迎えとは光栄だわ。武辺一辺倒だったわりに、宮仕えも上手くこなしているようじゃない」
先導する馬超の背に、華琳は投げ掛けた。
光禄勲府に属する奉軍都尉の馬超は近衛部隊の隊長の一人であり、天子の近臣である。
「どこが。今だって部下の仕事をかっさらって出て来たところだぞ。天子様の周りはどうも堅っ苦しくてなぁ。天子様はお気を使って下されるけど、それがまた申し訳ないし」
馬超があけすけに返す。
個人的には数度言葉を交わした程度の間柄であるが、馬超とは反董卓の戦を共にしている。宮中の者達よりは心を許せる人間と華琳は認識されているらしい。
「ふふっ、そんなことだと思ったわ。馬岱の方はどう? あの子はそつなくこなしそうだけれど」
「そうなんだよ。あいつが要領良くやってのけるものだから、余計にあたしの立場が無い。―――ほら、着いたぞ」
宮中の奥まった一室の前で馬超が足を止めた。華琳も何度か通されたことがある、天子の私室の一つだ。
「はぁ。―――陛下、曹操をお連れしましたっ」
よほど天子の側仕えが苦痛なのか、一つため息を落としてから馬超は訪いを入れる。
お付きの従者がすぐに戸を開けて招き入れてくれた。室内には他に数名の侍従が控えており、馬岱の姿もあった。
「姉上を招いて何か催したいのだ」
一通り挨拶を済ませると、天子は切り出した。無用の形式を嫌う華琳の質を、天子は理解している。
「姉上と申しますと、弘農王殿下ですか?」
「うむ。姉上には色々と苦労を掛けた。出来ればこれを機に、また宮中で暮らしてもらえればと思うのだが」
天子が探るような視線を向けてくる。後ろ盾である華琳の意向を知りたいのだろう。
弘農王劉弁は、大将軍何進と十常侍の政争の果てに廃された先帝である。今上帝にとっては姉に当たり、今は亡き何進にとっては姪に当たる。帝位を廃された後は、弘農郡―――洛陽のある河南尹と長安のある京兆尹に挟まれた要地―――の王位が与えられている。
普通、皇族に与えられる王位は形式上の物に過ぎない。かつて陳留王であった今上帝が洛陽の宮殿に暮らしていたように、封地に赴くことも無ければ、代わって政を取り仕切る相も本人ではなく朝廷の意向で任命される。しかし現在の弘農王劉弁においては少し事情が異なっていた。即位後間も無い今上帝によって、封地への移住が命ぜられている。これは当時の今上帝の後見であり、朝廷の支配者でもあった張譲から姉の身を守るための処置であろう。しかし洛陽の宮中以外を知らずに育った弘農王には、慣れない土地での暮らしは気の休まるものではないはずだ。
「それはよろしかろうかと思います。姉妹というのは、共に暮らすに越したことはございません」
「おお、そう思うか。そういえば曹操にも兄弟姉妹が多いのだったな」
「正確には従姉弟になりますが。そうですね、姉のようでもあり、妹のようでもあり、弟、のようでもあります。―――して、催しには何かお考えが?」
「うむ。せっかく曹操が軍を率いてきたことだし、巻狩りでもどうかと思うのだが。お主の軍を借りることになるが」
「巻狩りですか。ええ、構いませんとも。我が軍はすなわち陛下の軍なのですから」
華琳も出席する必要があるということだが、快諾した。
この後荊州への侵攻を密かに予定している華琳としては、洛陽での滞陣は短期間に留めたかった。しかし巻狩りとなると話は別である。
巻狩りは四方を兵で囲み、追い立てられた獲物を狙う狩猟である。形骸化してはいるが君主の行う軍事調練の一つだった。
つまり華琳のその後の侵攻に対し、天子が兵への教練をもって承認した様に世の人の目には映ろう。荊州の中枢には清流派を気取る学者達が多く、彼らの多くは漢室への忠誠を捨て切れずにいる。揺さ振りをかけるのも悪くはない。
またそれ自体が軍事調練であるから、開催後はすぐにも進軍へ移行出来る。
「そうかそうか。それは良かった。良い提案をしてくれた、馬超」
「はっ、ありがとうございます、陛下」
天子の言葉に、馬超が直立して返す。どうやら巻狩りは馬超の発案のようだった。
華琳は寸時、馬超の、そしてその背後にいる馬騰の意図に思いを巡らす。しかし暢気に微笑む馬超の姿に、華琳はすぐに思案を打ち切った。とても策謀を巡らせる人間には見えない。
少なからず馬超自身の気晴らしも兼ねての提案であり、天子はそれを見透かしつつも採用した、という流れか。本人の言葉通り宮仕えが合っているとは言い難いが、馬超はそれなりに上手くはやっているようだった。
「後の計画は張繍と賈駆、そして曹操に任せたく思うが、それで良いか?」
「はっ、お任せください」
「頼ん―――」
天子の言葉が途切れ、身体がぐらりと揺らいだ。
「陛下っ」
忽然と馬超が天子に寄り添い、その身体を支えた。一足飛びで間合いを詰める動きは、さすがは荒くれ者の多い西涼にあって錦と称えられるだけある。
「騒ぐでない。少し、目眩がしただけだ」
超常の天子が姿を現していた。
「―――っ。……式典でお疲れになったのでしょう。今日はもうお休みになられたほうが」
天子の声音の変化に馬超は一瞬戸惑ったようだが、すぐに動揺を打ち消した。側近くに仕えているのだから、時に天子が様相を一変させることは聞かされているのかもしれない。
「大事ない。それより馬超、それに他の者も、朕は曹操と話がある。しばし席を外してくれぬか?」
「……わかりました」
人外の気配にはさしもの馬超も怯んだか、大人しく部屋を後にした。他の者達もそれに続く。
「ようやっと中華の大半を手中に収めてくれたのう」
室内に二人以外がいなくなると、天子は行儀悪く脚を崩しながら言った。
「そうね」
荊州北部さえ落としてしまえば、後は江南に西涼、巴蜀を残すのみだ。古来、それらの地は蛮族の住む土地とされていたのだ。中華の中心地はほぼ全て曹操軍が押さえていた。
「しかし大乱が収束に向かいつつあるというに、朕に力が戻らぬ」
「確か、民の生きる喜びや生への渇望が貴方の力の源だったわね」
「そうじゃ。お主の急峻過ぎる改革は、民に日々の生活を楽しむ余裕を与えぬ」
「何が言いたいのかしら?」
「もそっと、のんびりとはやれんものかの?」
「お断りするわ。余裕がないのは今のうちだけよ。民が自ら変革する楽しみを知れば、いずれはこれまで以上の力を貴方は得るわ。その時になって感謝なさい」
「ふうむ。あの劉備が目指しているような、みんな仲良くみんなが笑顔という政をしてもらえると、手っ取り早く力を貯えられるのだがのう」
「……貴方、桃香におかしなことを吹き込んでないでしょうね?」
「朕の正体を明かしたのは、お主と曹仁だけよ。なんじゃ、朕のせいで劉備がお主の元を離れたとでも思うたか?」
「そんな小さな事を言っているわけではないわ。あの子は、民の事だけ思っていればいいのよ。世界がどうとか、世迷言で桃香の志をわずかなりとも変質させていたなら、私は貴方を許さないわ」
「はっはっ、朕に対してよう言うた。お主のそういう不遜なところ、朕は面白く思っておるぞ」
「言ってなさい。用が終わったのなら帰るわよ」
「おう、民を慈しむ件、心の片隅にでも留め置くがよいぞ」
腰を上げた華琳に、天子はもう一度繰り返した。
「春蘭が兵の配置を無断で動かして、それで桂花は兵糧の手配を誤ったと」
「はいっ、華琳さま。春蘭の奴が、許可も得ないで勝手に陣を動かすものだから、配給が滞り一部の兵が騒いでおりますっ」
「馬鹿者め。貴様の決めた配置では、いざ奇襲を受けた時に身動きが取れぬわっ」
「あっ、あんたにだけは馬鹿呼ばわりされたくないわよっ! 領内のどこに私達を襲う敵がいるっていうのよっ、この馬鹿っ!」
「なんだとっ!」
曹操軍の臨時行政府と化した曹家邸宅の大広間で、春蘭と荀彧がいがみ合う。
曹仁は苦笑交じりに高みの見物と決め込んだ。秋蘭ら親族、他の文官武官達も静観の構えだ。
凱旋後すぐの荊州出陣という諸将の予想を裏切り、洛陽滞在は長引いた。弘農王劉弁を招いての巻狩りが企画され、そのために兵が駆り出されることとなったためだ。
今は弘農王の上洛待ちで、十万の曹操軍は洛陽城外に野営を張り、巻狩りの準備を進めていた。軍事調練の一環とはいえ、やはり戦場そのままの動きというわけにはいかず、そのための訓練は必要だった。特に曹仁の騎馬隊は白騎兵が指揮する百騎百隊の編成で、最終的に獲物を帝らの眼前に追い立てる役目を与えられている。ともすれば戦場を想定した普段の調練以上に兵は緊張感を持って訓練に当たっていた。
「二人とも、黙りなさいっ!」
「―――っ!」
春蘭と荀彧が揃って華琳の前に頭を垂れる。
「桂花。確かにこの地は我らが領内とは言え、天下はいまだ定まってはいないわ。いつどこで敵に襲われようと、驚くには値しない。上に立つ者が戦の気構えを失えば、それは必ず兵にも伝わるわよ。我が軍が精強たり得るために、自分がどうあるべきか。それが分からない貴方ではないはずよ」
「……はい」
「春蘭。…………貴方は、布陣を変更したのならちゃんと報告する様に」
「……はっ」
この二人がいがみ合って叱責を受けるのは珍しくもない光景であるが、このところそれがとみに増えていた。切っ掛けは大抵華琳まで上げる必要も無いような些細な失敗であるが、お互い相手の失態をあげつらって罵り合いを始める。結果華琳に平身低頭することとなる。元々犬猿の仲の二人だが、最近は相手の一挙手一投足がとにかく癇に障る様子だった。
「もういいわ。以後、気を付けなさい」
「はい」
「……どうしたの? もういいと言っているの。顔を上げなさい」
許しを与えても、うなだれたまま動こうとしない二人へ華琳が訝しげに眉を顰めた。
「あ、あのう、華琳さま」
春蘭がおずおずと口を開いた。ちらちらと荀彧へ向けられる視線が厳しい。
「最近、私はお仕置きもご褒美も頂いておりません。わ、私は何か華琳さまを怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか?」
「何よっ、あんたなんてまだましでしょう!」
荀彧がいきり立つ。
「私なんて洛陽に着いてからまだ一度もっ、ううんっ、その前からずいぶん―――」
「何だとっ! 私だって一ヶ月以上も―――」
またも口喧嘩を始めかけた二人が、互いの台詞にはたと動きを止めた。
「か、華琳さま、ひょっとして閨房に新たに人をお加えですか?」
代表して荀彧がおずおずと切り出した。
「……」
無言のまま、華琳が目線だけ動かして曹仁を見た。曹仁の視線はずっと華琳の顔へ注がれていたから、はからずも見つめ合う形となる。
華琳の顔が、ゆっくりと上気していく。
「華琳さま、お顔の色が―――」
「いいでしょう、今日は二人同時に可愛がってあげるわ。今から閨に来なさい」
「ええっ、桂花とですか? 秋蘭との方が」
「何よっ、私だってあんたと一緒なんて願い下げよっ!」
「不満があるのなら、別に来なくても構わないのよ」
「―――おっ、お待ちくださいっ!」
二人は声を揃えると、戸外へ向けさっさと歩き始めた華琳の後へ続いた。
季衣と流流も華琳を追って辞去し、それを合図に他の者も退室していくと、室内には華琳と春蘭を除く一門の者―――幸蘭に秋蘭、蘭々、そして曹仁だけが残された。
「そ、それじゃあ、俺も軍営に戻―――」
「―――あーあっ、あの二人の鈍感ぶりにも困ったもんだっ」
何となく気まずい沈黙を感じた曹仁が退散し掛けたところで、室内に調子っぱずれの声が響いた。声の主は蘭々で、頭の後ろで手を組んで投げやりな視線を天井へと向けている。
「ふふっ、本当ですね。ころっと誤魔化されてしまって」
「それが姉者の可愛いところでもある。華琳様が寝室に男を招くなど、思いもよらないのだろうし」
「まあ、それはそうでけれどね。あれが我が軍の文武の筆頭二人だと思うと、少し不安になりますけれど」
蘭々の言葉を受けて幸蘭と秋蘭が何気ない口調で交わす会話が、一つの共通認識の上に成り立っていることに曹仁は気付いた。
「えっと、その、……き、気付いてたのか、姉ちゃん達」
「ちゃんと教えてくれれば良いのに、兄貴の馬鹿っ」
「―――っっ」
蘭々は膨れっ面で言うと、曹仁の脛を蹴り上げた。甘んじて受けるも、腰を入れた蹴りは想定した以上に鋭かった。
蘭々は痛みに耐える曹仁には目もくれず、そのまま室外へと駆け出していく。
「あらあら、蘭々ちゃんったらお行儀の悪い」
「姉ちゃん、いつから気付いて?」
「私が仁ちゃんの変化を見逃すはずがないでしょう? 蘭々ちゃんは最近になるまで気付かなかったようですが、私はその日のうちに気が付きましたよ。あれは、そう、劉備軍の皆さんが出て行ってから三十三日目。ちょうど蘭々ちゃんが手作りのお菓子を振る舞ってくれた日でしたね、うふふっ」
「うぐっ、そっ、そんな具体的な日付まで」
幸蘭の笑みに、背筋に冷たいものが走る。
蘭々のお菓子の件はともかく、桃香達が出奔してからの日数など曹仁も把握してはいない。とはいえこの姉のことだから、適当に言ったわけでは断じてないだろう。
「私は、それから数日後かな。ちなみに役向き上、季衣や流流も気が付いているし、目聡い風に耳聡い稟、この手の話なら二人に劣らず鋭い沙和も気付き、当然沙和に知られれば凪と真桜にも伝わると」
秋蘭が涼しい顔で言った。
「それじゃあ、まだ気付いていないのは……」
「姉者と桂花、あの二人だけだな。いや、霞も調練調練で宮中にあまり顔を出さないから、気が付いていないかもしれんな」
「あと気が付いていないのは、―――とっくに皆が気付いていることに気が付いていないのが二人。いえ、これで仁ちゃんが抜けて、あとは華琳さま御一人になりましたね」
幸蘭が笑顔で秋蘭の言葉を引き取った。
「それで、その、……良いのかな、姉ちゃん?」
「相手が華琳様では、文句の付けようもありません。ええ、本当に、まったく。どこぞの馬の骨を連れて来たのなら、叩き出した上に寝取り返してやりましたのにっ」
「お、怒ってないか?」
「私が怒る理由がどこかにあるかしら? 弟と主君が揃って幸せを手にしたのですから、笑顔で祝福するだけです。―――ああ、仁ちゃんが自分の口でちゃんと報告してくれなかったのは、私も不満ですけれど」
幸蘭がうふふと、口元だけで笑った。
「ごめん、照れ臭くて。でも、姉ちゃんが祝福してくれて嬉しいよ」
曹仁はあえて幸蘭の言葉を額面通りに受け取ることにした。幸蘭は拍子抜けした様子で眉を顰め、再度口を開く。
「ええ、仁ちゃんの幸せは私の幸せです。―――それに華琳さまならご自身が漁色家ですから、仁ちゃんが少しぐらい他の女の子に手を出しても文句は言えないでしょう? 私と蘭々ちゃんは二番目と三番目で構いません」
そして笑顔でさらりと怖いことを言ってのけるのだった。
明くる日、華琳に状況を説明し、春蘭には曹仁から、荀彧には華琳から全てを打ち明けた。
荀彧は予想通り、華琳が男性と関係を持つことに強い反発を示した。といって、華琳自身を責められはしないため、曹仁への風当たりが一層増すこととなった。
予想外だったのは春蘭の反応で、多少の嫉妬は覗かせつつも好意的に受け止めてくれた。その心酔ぶりから荀彧と一括りに考えてしまいがちだが、秋蘭との関係を容認していることからも分かる通り、春蘭には華琳を独占しようという感情は薄い。また荀彧のように男性というだけで嫌悪の対象とするわけでもない。弟分の曹仁が相手であれば、拒否感の湧きようもないらしかった。
春蘭はむしろ華琳と曹仁の房事に興味を引かれた様子で、秋蘭も交えて一度四人で、などと提案するほどだった。曹仁はすぐさま拒絶したが、秋蘭は案外乗り気、華琳も条件次第―――曹仁からは華琳以外に手を出さないなら―――と、曹家一門の良識の欠如が浮き彫りとされる結果となった。