洛陽から南方に二、三十里も進めば、周囲は緑深い土地となる。元より漢の都が洛陽に置かれたのは、周囲を山岳と関に囲まれた要害であるためだ。
天子の乗る馬車が、華琳の待つ本陣の前で止まった。先駆けの光禄勲府の兵が、周囲をさっと取り囲む。
馬車の手綱を取っているのは、奉軍都尉の馬超である。奉軍都尉は天下一の御者であり勇士が任命される役職で、天子の車馬を司る。実際には名誉職と化して久しいが、馬超に掛かれば実質を伴う。馬の扱いに精通しているだけあって、御者をさせても馬超は抜群に上手かった。
同じく、弘農王の馬車も停止する。こちらの御者は騎都尉の馬岱が務めている。
「お待ちしておりました」
馬車を降りた天子と弘農王を、華琳は本陣の中へと導く。後から朝廷の重鎮、帝の侍従と近臣達が続いた。朝具国の王である楼班と蹋頓の姿もある。いまだに大尉の任を解かれていない麗羽も、当然という顔で付いてくる。
本陣前は開けた平原で、そこへ向かって建てられた壇上の席に天子と弘農王が着座した。平原の奥は三方が山に囲まれている。
壇の周辺では、馬超と馬岱が光禄勲府の兵に指示を与えている。光禄勲府の長は月であるが、それは曹操軍から派遣された彼女に与えられた肩書のようなものだ。現場での兵の運用は今や馬超と馬岱によるところが大きい。
「陛下、将兵に開始の号令を頂けますか?」
壇上、天子の席の隣りに立ち、華琳は伺いを立てた。
「うむ。―――皆の者、朕のためによくぞ集まってくれた。今日は日々の鍛錬の成果を存分に発揮せよ。これより、狩りを始める」
「―――はっ」
帝の言葉を合図に、流流が旗を振った。いつもの曹の牙門旗ではなく、漢の一字が記された大旗である。
しばしの時を置いて、銅鑼に太鼓、そして喚声が山の向こうから湧き起こった。いくつかの中継点を経て、旗の合図は視認出来ない山の裏側まで伝えられている。
「半刻(15分)ほどで獲物がまいります。それまでごゆるりとお過ごしください」
三方の山から追い立てられた鳥獣は、平原へと逃げ落ちる。そこを兵で囲い込んで本陣前の狩場へと誘導するのだ。巻狩りに最適なこの地は、それもそのはず漢朝歴代の天子達の狩場であった。
「手配、御苦労であった。姉上、今日は勝負です」
帝が上機嫌で隣りに座る姉―――弘農王劉弁―――に声を掛ける。帝はいたく御満悦の様子だった。
この狩りを機に再び弘農王を宮殿での生活へ誘う意向を、今上帝は事前に華琳に明かしている。今、洛陽の宮中に住まう皇族は帝一人きりで、あとはわずかに先々代の帝―――今上帝と弘農王の父―――の后や側室、太后といった女達がいるだけだ。血の繋がった存在を帝が欲するのも分からなくはない。
「陛下と競うなど、恐れ多いことです」
そんな無邪気な今上帝とは異なり、弘農王の表情は冷ややかなものだった。
元々は仲の良い姉妹だったと聞くが、帝位を追われ、洛陽からも追い出されたという恨みは根深いようだ。弘農王府は弘農郡弘農県に置かれ、そこが廃帝の今の居城だった。弘農郡にはかの有名な函谷関があるが、弘農県は関の西に位置し、いわゆる関中と呼ばれる地域にあたる。
関の中、と書くがそれは前漢の都長安を基にした見方で、都が函谷関より東の洛陽に移された現在では逆に関の外に締め出された形となる。今上帝にとっては政争から姉を守るための処置も、当の本人にとっては追放されたとしか思えないのだろう。
「陛下などと他人行儀な。昔と変わらず、真名でお呼び捨て下さい」
「大勢の臣下の前で、陛下の真名を軽々しく口にするわけにはまいりません」
「……確かに、姉上の申す通りです」
素っ気ない弘農王の反応に、帝が消沈する。
「―――おーほっほっほっ、陛下。それに殿下。本日はお招きにあずかり、光栄ですわっ! おーほっほっほっ!」
「袁紹か。相変わらず、元気が良いな」
「おお、袁紹。久しいな」
麗羽が気まずい雰囲気もお構いなしに、檀下から高笑いを響かせる。帝はどこかほっとした様子で、麗羽に応対する。
弘農王の表情もいくらか晴れている。麗羽は十常侍張譲と大将軍何進が争った政争においては、何進の右腕を務めていた。何進は弘農王にとっては伯母に当たる。何進が謀殺された結果、弘農王は廃立されることとなったのだ。
庶民の出で門閥をもたない何進が十常侍と曲がりなりにもやり合えたのは、名門袁家の仲立ちで士大夫を多く取り込めたことが大きい。本来外戚の何進も、清流派を気取る者達には嫌悪の対象なのだ。その意味で当時の弘農王にとって麗羽は最大の後ろ盾であったとも言える。
「本日は名門袁家の射術、御覧に入れますわ、おーほっほっほっ! そこの宦官の孫娘には、とても真似出来ませんことよっ、おーほっほっほっ!」
麗羽のお蔭で一瞬和みかけた空気は、宦官と士大夫の対立―――かつての政争―――を想起させる本人の発言によって、すぐに台無しとなった。
初めに追い立てられてきたのは大きな鹿で、射止めたのは袁紹だった。
帝と弘農王が互いに譲り合い、結果主催者である華琳が弓を取るように促された。そこを横から進み出た袁紹がかっさらっていったのだ。
華琳に対して礼に欠き、帝に対しても不敬であるが、何故か何となくそれが許されてしまうのが袁紹だった。
「あれも名家の力というやつなのかな」
「いやあ、本人の人徳だろう」
誰にともなく呟いた蘭々の言葉を、兄が受けた。
蘭々は虎彪騎を率いて華琳の護衛、曹仁は獲物を追い立てる勢子の任に付いているから、今日は顔を合わせる予定はなかった。ここまで顔を出したということは最初の一頭だけに兄が自ら追い立て、仕留められる姿までを確認しに来たという事だろう。
「ふん」
「……はぁ」
そっぽを向いていると、溜め息一つを残して曹仁は持ち場へと戻っていった。
曹仁と華琳の仲を受け入れる覚悟は決めたつもりで、それで自ら切り出した。しかしいざ現実のものとして目の前に現れると、どうにも耐え難いのだった。
「―――――! ―――――!!」
狩り場から喝采が上がる。
二頭目、三頭目の獲物が同時に飛び込んできて、帝と弘農王がそれぞれに射止めていた。
射―――弓術と、御―――馬を御すことは、古来より君主には必須の嗜みとされる。当然戦に明け暮れる将兵らと比べられるものではないが、二人とも馬上に揺られながらも危なげなく弓を使えている。
そこからは、続々と獲物が追い立てられてきた。廷臣の面々も加わり、本格的に狩りの様相を呈し始める。
曹操軍で狩りに参加しているのは、華琳に月、詠の三名のみだ。いずれも司空、光禄勲、執金吾と漢朝の重臣である。他の者は勢子の役か、警護の任に当たっていた。
「――――――――――!!!」
ひときわ大きな歓声に曝されたのは蹋頓だ。
飛び出してきた三匹の兎を、一息に全て射抜いている。騎射なら天下で五指には入る腕前なのだから、当然と言えば当然だろう。
蘭々は曹操軍の三名にもう一度目を向けた。
詠は涼州出身だけあって馬術は人並み以上であるが、馬上で手綱から手を放すことに抵抗があるようだった。十分に狙って射ることが出来ずにかなり苦戦している。
意外に腕が良いのが月で、ほとんど狙いを外すことが無い。董卓の武の虚像を作り上げた張繍が死に、月がその名を受け継いだ。張繍の名を少しでもかつての本人の実像へ近付けようと、月は最近では武の修練を重ねているという。
とはいえ、三人の中ではやはり華琳の技量が突出している。
この従姉は、昔から何をやらせても人後に落ちるということが無い。華琳は蘭々には憧れであり、その存在は妹分として誇らしく、そして今は少し疎ましかった。
狩りに興じる華琳から視線をわずかに下へ背けた。すると、華琳の愛馬である絶影が蘭々の目を強く引きつけた。
連銭葦毛とか、星葦毛とか呼ばれる絶影の毛並を、華琳は気に入っているようだった。しかし全身を覆う灰色がかった白に、黒い毛が逆巻く紋様は、蘭々の目にはいつも暗雲が立ち込めるような、どこか不吉なものとして映る。
「―――曹純様っ」
小隊を指揮するはずの白騎兵が一騎駆け寄ってきた。耳打ちされた報告内容に、蘭々はすぐさま華琳の隣りまで馬を進めた。
「華琳さまっ、斥候からの報告ですっ。後方から騎馬隊が近付いてきます」
「騎馬隊? いったい誰の隊よ?」
十里(5km)四方を歩兵七万で囲み、内部を二万の騎兵が小隊を組んで駆け回っている。小隊の一隊が大鹿でも見つけて、予定に無い動きをした。蘭々の言葉を、華琳はそう解釈したようだった。
「いえっ、我が軍ではありません!」
「―――っ、何ですって?」
蘭々の声に、華琳のみならず周囲の視線が集まる。
「―――数、およそ五百っ! 近いです! 漢旗を掲げています!」
そこへ新たにもう一騎白騎兵が飛び込んできて叫んだ。そして報告を証明するように、白騎兵の駆けてきた方角を見やれば、勢子を務める曹操軍の小隊よりも一回り大きな騎馬集団が、こちらへ向かって駆けてくるのが見えた。
「馬超っ、聞こえたわねっ! 陛下の周囲を固めなさいっ! 蘭々っ、虎彪騎を前面に押し立てて!」
「ああっ」
「はいっ」
五百騎に向かい合うように、虎豹騎の三百騎を整列させた。虎豹騎の後ろには、虎士に囲まれた華琳が、さらにその後方に馬超ら光禄勲府の兵に守られた帝達がいる。
蘭々は華琳の隣に留まった。虎豹騎の中に赴くべきだが、何となく嫌な予感がして華琳の側を離れたくなかった。報告を受ける直前に、絶影の毛並を目に止めてしまったが故か。命令の声は十分に届く距離のため、華琳も特に咎めはしなかった。
旗に描かれた漢の字が判別出来、人馬の輪郭も見て取れる距離まで五百騎が迫った。
漢旗を掲げるが故に、歩兵の包囲陣からも駆け回る騎馬隊からも看過されたか。いや、そんなことは関係なく、単純に速い。報告が間に合わない速さで、五百の騎馬隊は接近してきていた。
「ああ、だから指揮を取ってるはずの白騎兵が自ら伝令に走ってきたのか」
蘭々は一つ合点が行って、小さくひとりごちた。
「―――蘭々」
「はい。虎彪騎全騎、突撃に備えて」
五百騎は一切速度を緩めることなく、残すところ一里余りの距離まで迫っている。虎彪騎を動かすなら、もうあと二呼吸か三呼吸で時宜を得る。早ければ守るべき華琳と天子から距離が離れ過ぎ、遅ければ十分な加速を得ぬままに五百騎とぶつかることになる。
虎士も最後の防壁として華琳の前面に展開する。季衣と流流は左右から華琳を挟み、半歩だけ前に出た。
「―――んん~、あれ? おーい、曹操!」
光禄勲府の兵を隔てて、馬超が緊張感の無い声を上げた。
「何よ? 陛下の守りは大丈夫なの?」
華琳は正面から視線を逸らさず、苛立たしげに返す。
「ああ。というか、あれ、敵じゃないぞ。ウチの連中だ」
「ウチの連中?」
「ああ。先頭にいるの、あれ、あたしの母様だ」
「馬騰と衛尉府の兵ということ?」
「ああ」
三公九卿の中では、衛尉の馬騰だけが唯一巻狩りに参加していなかった。宮殿の守護が任であり、天子不在とあっても太后ら女達は残っている。光禄勲府の兵が天子の護衛に出払う以上、自らが留守を預からねばならない、というのが不参加の理由だった。
「洛陽で何かあったのだろうか?」
やり取りに声を差し挟んだのは帝だ。
虎彪騎による攻勢の機は、すでにすっかり逃してしまっている。敵襲ではないと聞いて、極限まで高まっていた緊張感も薄らいでいく。
絶影が落ち着きなく揺らす尻尾が蘭々の視界の片隅に入った。思わず目を向けると、やはり黒の斑模様は暗雲が垂れ込むようだ。
突如、蘭々は言い様の無い不安に襲われた。
「季衣っ、流流っ! ―――華琳さまっ!」
叫んでいた。季衣と流流がこちらを振り返る。遅れて華琳も、蘭々の方を向いた。その目が一瞬驚愕に見開かれたのは、覆いかぶさるように飛び付く自分のせいだろう。
「――――! ――――!!」
にわかに背後で喚声が上がり、虎彪騎に乱れが生じた。後ろを振り返る者までいる。
―――曹操が倒れたか。
声は士気を昂ぶらせる鬨の声ではなく、悲鳴に近い。五百騎が脚を緩める様子も無く正面から迫る中、突撃の命令も下らず、代わりに不安を煽る叫び声まで聞こえたとあっては、如何に音に聞こえた虎彪騎とあっても狼狽は無理もない。
そう謀った張本人としては、当然彼らの不幸な現状を斟酌してやるつもりはない。馬騰は槍を一度中天に掲げ、真っ直ぐに振り降ろした。
「――――――!!」
こちらは正真正銘の鬨を上げて、虎彪騎へ突っ込んだ。
左右から一騎ずつが前に出て、虎彪騎の布陣を切り開いていく。以前なら馬騰自らが先頭に立ったところだが、病を得てからは無理はしていない。二騎が倒れても、すぐに代わりの二騎が前へ出る。そのあたりの調練は廉士―――龐徳が徹底させていた。
この状況で潰走に至らないのはさすがと言えるが、まともな反攻にも出れずに虎彪騎は縦断された。
次いで控えるのは曹操の親衛隊虎士だ。いずれも武芸達者の勇士ばかりであるが、その数はわずか数十騎に過ぎず、やはり動揺している。馬ごとぶつかるつもりで追い立てていくと、すぐに曹操の姿が目に入った。
虎彪騎と同じ具足を身に付けた少女が、曹操の身体にもたれかかっている。顔は見えないが、髪の色や体格が曹操とよく似ていた。虎彪騎の隊長曹純で間違いない。曹純の背には、矢が一本突き立っていた。曹操をかばったということだろう。肝心の曹操は無傷のようだった。
「おりましたっ、曹操です!」
前を行く二騎も曹操を認め、左右から挟み撃ちするようにわずかに進路を変更した。その二人が、巨大な岩にでも衝突したように馬上から消し飛んだ。いや、実際に一抱えもある鉄の塊が二人を襲っている。曹操の親衛隊長許褚と副隊長典韋の得物だ。
「―――っ!」
馬騰は、咄嗟に馬上に身を伏せた。頭の上を二本の鎖が過ぎる。体勢を立て直した時には、すでに曹操の横を走り抜けていた。
互い違いの敵へ向けて投げられた許褚と典韋の得物―――鎖付きの投擲武器は、馬騰の眼前で交差しその身に絡みつこうとしてきたのだ。
「まあ良い。―――陛下に拝謁賜るっ!」
曹操の首には拘泥せず、馬騰は敵味方関わらず周囲の全員に聞かせるように叫んだ。
虎彪騎と虎士を抜ければ、正面には光禄勲府の兵と彼らに守られた天子が控えるのみだ。光禄勲府は帝の近衛であるが、その長官は張繍である。実体は曹操軍の洛陽駐留部隊に過ぎない。馬騰は構わず兵を突っ込ませた。
「母様っ! これは一体!?」
「翠かっ。陛下はお側におられるか? 廷臣の方々は?」
混戦の中から、聞き慣れた声が響く。精鋭五百騎の中でもさらに選りすぐりの五十騎を引き連れ、声のした方へ馬を進めた。
「あ、ああっ。それよりいったい何を―――」
争乱の及ばぬ静寂の空間に出た。中央に十数騎。翠が、そして廷臣らに取り囲まれるようにして帝がいる。同じ宮殿仕えの具足を着込み相争う兵達は、帝の周囲には闘争を持ち込もうとしなかった。馬騰は五十騎を用いて、さらにその空間を押し広げさせる。
「馬騰、これは一体何の騒ぎだ?」
「陛下、馬上にて失礼いたします。長らくお待たせいたしました。奸臣曹操の手より御身をお助けする用意、ついに整いましてございます」
「何を申すか。曹操はよく朕に仕えてくれておる」
「陛下っ、騙されてはなりませんっ! 曹操は陛下の威光を己が覇道に利用したいだけの奸賊っ! 諸侯を平らげた後は、必ずや陛下に禅譲を迫りますぞ!」
帝の隣りで外戚の董承が叫ぶと、廷臣達の何人かが同調して口々に曹操を罵倒し始める。
大半が予め馬騰が誼を通じた共謀者であるが、そうでない者も幾人か含まれていた。朝廷での曹操の評判は決して良いものではない。
「―――まったく、ずいぶんな言われようね」
その雑言も、ただの一言で鎮まった。
虎士を引き連れ、曹操が姿を現した。周囲では体勢を立て直した虎豹騎も混戦に参入している。
「そっ、曹操っ! 陛下の御前であるぞ、武器を下げよ」
「何か思惑があるとは思っていたけれど、まさか私の暗殺だなんてつまらない手を貴方が選ぶなんてね、馬騰。すこし過分に評価し過ぎていたかしら。私を殺して陛下を手中に収めたところで、我が軍が黙ってはいないわ。その天下は一月ともたない」
叫ぶ董承を無視して、曹操は馬騰だけを見つめてくる。
「ふっ。さて、どうだろうな?」
「―――っ、馬騰、貴方もしかして、ボクと同じことを考えている?」
曹操の周りには張繍と賈駆、徐晃、虎士を率いる許褚と典韋、そして典韋に身を預けるようにして曹純の姿もあった。声を上げたのは、賈駆である。同じ涼州人、加えてかつて自らも起草した計画だけにいち早くそこに思い至ったようだ。
「長安への遷都」
馬騰が答えるより先に、曹操が賈駆の言葉に反応する。さすがに頭の回転が速い。馬騰は肯定と賛意を込めて微笑して見せた。
「確かに貴方の領分に接した長安ならば、我が軍の報復に抗うことも可能かもしれないわね。なによりそれは、貴方達涼州の民の―――」
「―――そう、夢よ。賈駆が長安遷都を計画したと聞いた時には、董卓に味方しておくのだったと心底後悔したものだ」
高祖劉邦は長安を都として、大敗を喫したとはいえ異民族との戦にも自ら兵を率いた王であった。光武帝の将器は高祖を遥かに凌ぐが、都を置いたのは西涼からは函谷関で隔てられた洛陽である。異民族に対しても懐柔策が取られ、積極的な攻勢は行われなくなった。といって、国境付近の異民族が容易く大人しくなるわけもない。西涼の民には漢朝から見捨てられたという思いが残り、それが二百年を経た今も叛を生んでいる。
長安遷都。それは西涼の民が渇望し続けたことだった。
「――――――!!」
馬騰から見て右、曹操から見て左、混戦する人馬の壁が血煙を上げて崩れた。赤く染まった白が飛び出し、ちょうど対峙する二人の中間近くで止まった。
「仁、早かったわね」
「……曹子孝か」
曹操の言う通り、想定よりも早い。それは兵を糾合することなく、自らが率いる小隊百騎のみで駆け付けたためだろう。そしてその百騎も、混戦に捉われてしまっている。
「―――誰がやった?」
何度か左右を見比べた曹仁が、一点を見据えて言った。意味が取れず、問い掛けに返す言葉はなかった。
「誰が俺の妹を傷付けた?」
「―――兄貴?」
典韋にもたれる様にして何とか馬上に留まっていた曹純が、身動ぎした。曹仁の視線の先はそこだろう。
「お前は答えなくて良い。休んでいろ。―――華琳?」
「後ろから射られたものだから、分からないわ」
頭を振る曹操を見て、曹仁はこちらへ馬首を返した。
「馬騰か? それとも馬超、お前か?」
「まさか」
翠がぶんぶんと首を左右に強く振った。馬騰は、肯定とも否定とも取れる曖昧な微笑を返す。
「―――私だっ!」
帝の隣で男が叫ぶ。董承である。
「お前か」
「おお、そうよ。天子を誑かし、国政を壟断する奸臣を裁く正義の矢よ! 曹操を狙ったものを、詰まらぬ邪魔が入ったわ」
董承は堂々と言ってのけた。暗殺という己が行為を恥じるどころか、義挙と嘯く。元を糺せば馬騰が唆したようなものであるが、董承はすっかりと自己を正当化し、そんな自分に酔ってもいる。
「もういい、黙れ」
曹仁が吐き捨てるように言う。身体が、いや、曹仁自身ではなくその乗馬白鵠が、一回り小さく縮んで見えた。
「―――まずいっ!」
馬騰が叫んだ瞬間には、曹仁は董承の眼前まで迫っていた。徐々に加速する馬の疾駆ではなく、武術の踏み込みのような爆発的な一歩で瞬時に間合いが詰められていた。
「―――っ、我らには天子様が」
董承が口に出来たのはそこまでだった。肩口に槍を突き込まれ、馬上から董承の姿が消える。
「曹仁っ! そのまま陛下を確保してっ!」
「―――っ!? ああっ! 陛下、失礼致しますっ」
賈駆が叫び、曹仁が天子に手を伸ばす。廷臣達は皆腰が引けて、天子の身柄を身体を張ってまで確保しようとする者は一人もいなかった。曹仁は天子の小さな体を悠々と小脇に抱え込む。
「翠、曹子孝を止めろっ!」
「えっ、あっ、あたしっ?」
命ずるも、翠の動きに精彩がない。
曹仁が曹操達の元まで馬を走らせるのを、申し訳程度に数歩追いすがっただけだ。許褚と徐晃が曹仁に代わって前へ出ると、翠は完全に足を止めた。
「兄妹そろってお手柄ねっ! 妹は華琳様の暗殺を防ぎ、アンタは天子様をお救いして馬騰の目論みを阻んだわっ」
賈駆が興奮気味に叫ぶ。
「そんなことより、蘭々の具合は?」
「心配しなくても、急所は外れているわ」
「そうか。華琳が落ち着いた様子だったから、そうだろうとは思ったけど。―――っと、陛下、重ねて失礼をいたします」
曹操の言葉で、曹仁は怒気を納めて帝を自分の馬の前に座らせた。曹操が隣りへ馬を寄せる。
「陛下、馬騰らに降伏を勧めて頂けますか?」
「う、うむ。馬騰、矛を納めよ。決して悪い様にはせね。曹操にも乱暴はさせない。朕が約束しよう」
「―――陛下、衛尉馬騰これにて官職を返上致したく。病身に宮仕えはやはりこたえました。これよりは娘を連れ故郷へと戻り、余生を過ごしたく思います」
帝に視線を向けられ、曹操が何事か小さく囁く。帝は小さく頷くと、口を開いた。
「……馬騰、許そう。故郷にて、静養に努めるが良い」
曹操は馬騰の退官―――撤退を受けた。
あくまで曹操の首と帝の身柄に固執するという手もある。曹操軍の兵力はぞくぞくと集結してくるだろうが、今この瞬間この場ではまだこちらに利がある。しかし頼みの翠がこの戦場に気乗りしていなかった。曹操の疑いを避けるため、娘であり最大の武器でもある翠には今回の襲撃を伝えていない。闇討ちという後ろ暗さを持つ戦場へ急に立たされた翠は、明らかに士気に欠けていた。
いくら兵力で優位に立っていても、翠抜きで虎士の布陣をくぐり抜け、許褚に典韋、曹仁をも退け曹操を討つのは難しい。病に冒された自らの痩身に、今は気力が漲っているが、それでも武の衰えは隠しようもない。馬騰に翠の代わりを務めるのは不可能だった。
―――ここは次善の策で良しとしよう。
馬騰は姿の見えない蒲公英の働きを信じて、撤退を申し出た。
そして曹操は曹操で現状の不利を悟り、馬騰の仕切り直しの提案を飲んだ。
「またすぐ、会うことになるわね」
「おう、西涼にてお待ちしている」
「―――ばっ、馬騰殿っ、わ、私達は一体どうすれば?」
馬首を西へ向けた馬騰に、廷臣の一人が詰め寄った。馬騰と通じていた者の一人だ。
「付いて来られるのなら、共に西涼まで参られよ」
「そっ、そんな」
廷臣は色を失った。西涼騎兵の最精鋭に、付いて来られるはずもない。
「翠。帰るぞ、西涼へ。お前には、やってもらわねばならないことがある」
「あ、ああっ」
翠は最後に何か言いたげな視線を曹操たちへ向けると、馬騰に従って馬を進めた。空馬を二頭引いた兵が駆け寄ってきて、翠に手綱を渡す。翠の三頭の愛馬のうちの二頭、麒麟と黄鵬で、残る一頭の紫燕に翠は跨っている。
馬騰と翠が混戦を抜け出ると、五百騎も速やかに離脱して付いてくる。ほとんど数を減らしてはいなかった。精鋭というのもあるが、それ以上に光禄勲府の兵と同じ具足が、同士討ちを恐れる敵の攻撃から鋭さを奪ったのが大きいだろう。
「ちょっと、待ってよ、藍伯母様、お姉様っ!」
兵の中から蒲公英が飛び出してきて、翠の横へ馬を並べた。
「蒲公英、首尾は?」
「うん、ばっちり。後はお姉様、お願いね」
「何の話だ? というか、たんぽぽは今回の事、知ってたのかよ」
翠が不機嫌そうに言う。
「そう怒るな。翠にはここからは二人乗りで遅れずに付いて来てもらわねばならん。三頭を乗り継げば、翠の腕なら難しいことではあるまい」
「二人乗り? 天子様は取り返されたのに、一体誰と?」
「ふむ。そうだな、我らの天子様、といったところだろうか」
首を傾げる翠の元へ、兵に半ば追い立てられるようにして一騎が引き出されて来た。
軍医による処置は半刻(15分)程で終わった。
具足の隙間を抜けて蘭々の背中に突き立った矢は、幸いにも肺腑までは届いておらず、大きな血管を傷付けることもなかった。
大言を吐いた董承の弓勢が口ほどにもなかったことと、真桜の作った軍袍のお蔭だ。
鉄糸を編み込んだ軍袍はかつて曹仁を助け、今度は蘭々の命をも守ってくれた。本来斬撃への備えであって、刺突や矢のような一点への攻撃に対して有効なものではないが、鉄糸は矢尻を絡め取り深部への侵入を拒んでいた。幸運と言うよりも、華琳を救うために跳び付いた蘭々の動きが、結果として飛んでくる矢に鉄糸を纏わりつかせることとなったのだろう。
「……」
曹仁は眠る蘭々の頭の向きを直してやった。
肺腑に届きこそしなかったが、傷は決して浅いものではなく、蘭々は処置が終わると青白い顔で意識を失った。
背中の傷であるからうつ伏せに寝かせているが、息苦しいのか度々寝返りを打とうとする。その度に曹仁は傷に障らぬよう寝かし直し、枕の向きを変えてやった。
本営に並び建てられた幕舎の一つで、少し前に幸蘭や春蘭達も本陣に合流して、見舞いに顔を出していた。今は曹仁以外の者は隣の本営で、華琳や詠達から状況の説明を受けている。
曹仁は、蘭々が治療を受ける間に事のあらましを聞き終えていた。
馬騰率いる衛尉府付きの五百騎が本陣を襲撃した。言うまでもなく元は馬騰が西涼から引き連れてきた精鋭騎馬隊である。
初め、正体不明の軍勢として現れた五百に警戒し、華琳は虎豹騎と虎士を帝の前面に押し立てた。しかし一団が友軍―――馬騰と衛尉府の兵―――であると馬超が指摘し、一瞬兵の緊張が緩んだ。そこへ、守るべき後方から華琳を狙う矢が飛んだ。射たのは先刻打ち倒した董承で、虎士の面々も含め全員が前方の五百騎に視線を注ぐ中、蘭々だけが飛矢に気付いて身を挺して華琳を守ったのだ。そしてその混乱に乗じて、五百騎は軽々と虎豹騎と虎士を撃ち破った。
「……敵を欺くにはまず味方からか」
先日、蘭々に語ったばかりの言葉を思い出した。中華の兵書の言葉ではないが、華琳が荊州を相手に企てたように、馬騰が曹操軍に対して用いても不思議はない。
華琳の見るところ、馬騰は董承ら廷臣たちと密約を交わす一方で、娘の馬超には襲撃を秘したようだった。確かにその動きには覇気が無く、曹仁が董承を打ち倒し天子を奪還した際にも、手をこまねいていた。馬超の邪気のない言動は華琳に疑念を抱かせず今回の襲撃成功の一因となったが、こちらに対してもいくらか利したということだ。何より、もし矢を放ったのが董承ではなく馬超であったなら、狙い過たず華琳を射抜くか、軍袍ごと蘭々を刺し貫いていただろう。
その馬騰と馬超に対して、華琳は霞隊一万騎に後を追わせている。西涼騎兵最高峰の五百騎相手には、如何に霞と言えど追い付くのは難しい。こと馬術に限って言えば、あの五百騎は白騎兵とも同等だろう。しかし馬騰が西涼に行きつくには、函谷関を抜けるか、険しい山中を越える必要があった。衛尉は朝廷の高官であるが、軍を引き連れて関を抜けるまでの権限は持たない。馬騰は西涼での再戦を期していたようだが、どこかで霞の追跡に捉えられる可能性も高かった。
「……」
蘭々の首筋に浮いて玉になった汗を拭いてやる。外はいくらか肌寒いくらいの陽気だが、血を失った体が冷えないように火を入れた幕舎内は暑いくらいだった。
「お兄―――兄貴か」
「気がついたか」
額を拭いてやると、蘭々がゆっくりと目を開いた。
「―――っ」
「無理をせず、横になっていろ」
体を起こそうとする蘭々を曹仁は押し留めた。
「華琳さまは?」
「お前のお蔭で傷一つないから心配するな」
状況を簡潔に語ってやる。矢を受けた後の記憶は、靄がかかったように曖昧なようだ。
「そっか。まあ、華琳さまが無事なら何だって良い。……兄貴、絶影は良い馬だな。華琳様の危機を、教えてくれた」
蘭々が青い息を吐きながら言った。
「絶影が?」
「うん。あの毛並みを見ていたら、ぶわっと暗雲に視界が覆われたみたいになって、そしたら胸がざわついて」
「そうか」
蘭々の言葉はいまいち要領を得ないが、怪我人に詳しい説明を求めるつもりもない。曹仁は軽く相槌を打ちながら、寝乱れた髪を手櫛でといてやった。
「…………華琳様に付いてなくて良いの? 暗殺にあったばかりの恋人をほうっておいて大丈夫?」
しばらく気持良さそうにされるがままになっていた蘭々が言った。
「こんな時にいらん気を回すな。妹は妹らしく、兄貴に甘えてれば良いんだよ」
「そうやって季衣や流流、鈴々、呂布のところの陳宮なんかも可愛がってるくせに。今さら妹の一人や二人―――」
「―――馬鹿。妹分が何人いようが、妹はお前だけだろうが」
「……そっか。そうだよな。兄貴はもっと俺や姉ちゃんに優しくすべきなんだよ。華琳様とはいつか別れるかもしれないし、他の皆とも仲違いするかもしれないけど、俺はいつまでたっても妹なんだから」
言うだけ言うと、蘭々は満足そうに目を閉じた。曹仁は極力妹の御希望に答えるべく、優しく髪をとかし続ける。
しばらくそうしていると、再び汗が浮き始めた。曹仁は首筋をぬぐい、汗で張り付いた前髪を掻き上げて額を拭いてやった。
「あ、兄貴、そういうのはいいから。か、代わりに姉ちゃんを呼んできて」
「どうした、急に?」
蘭々が曹仁から顔を背けながら言った。
「傷が痛むのか?」
身を乗り出した曹仁の視線から逃れるように、蘭々が体を丸める。
「おい、大丈夫か」
「だ、だから、出てってくれ。汗いっぱいかいてるし、服も、こんなだし。……は、恥ずかしい」
「―――っ、すまん」
軍袍を解かれた蘭々は肌着に近い恰好だった。それが汗でぴったりと肌に密着している。
「ね、姉ちゃん、呼んできて」
蚊の鳴くような声でもう一度蘭々が繰り返す。
「ああ。……着替えも持ってくるよう頼んでおこう」
「余計な気を回さなくていいから、はやく出てって!」
気を利かせたつもりがかえって怒らせたようで、最後はいくらか元気な声で曹仁は幕舎から追い出された。
幕舎の入口には、虎士が二人護衛についてくれている。曹仁は二人に軽く頭を下げ、本営へ向かった。華琳の話もそろそろ終わるころだろう。
「……陛下?」
本営前まで来た曹仁を、後ろから小さな影が追い抜いていった。従者達が慌てて付き従っている。
「―――曹操っ、姉様がおらぬっ!」
一歩遅れで舎内に足を踏み入れた曹仁が聞いたのは、珍しい天子の叫び声だった。