「―――次の者」
目元を拭いながら退室する信徒を見送ると、張衛は室外に声を掛けた。
「ししっ、失礼します」
入れ替わりにそのそと現れたのは呆けた表情の大柄な男で、動作だけでなく頭の回転も鈍そうに見える。姉の張魯の前にやはりのったりとした動きでひざまずく。それでも人一倍小柄な姉とは頭の高さが変わらなかった。
「弟をよろしくお願いしますね」
「い、命に代えてもお守りいたします」
「貴方も、死んではなりませんよ」
男の捧げ出した掌の上に、姉が一握りの米をぱらぱらと落しながら言う。
「もっ、もったいないお言葉ですだ」
男は米の入った拳を固く握り締めると、やはり涙を流しながら退室していった。
「今の人で最後ですね?」
「はい。御勤めお疲れ様です、姉上」
「―――ふぅ、ちょっと手が疲れました」
姉は手を組んでぐぐっと腕を伸ばした。信徒の前では決して見せない姿である。
「でも、まだまだ続けられます。もう少し―――」
「いえ、五百人で十分です」
「むぅ」
姉が唇を尖らせた。やはり張衛にしか見せない姿で、幼い容姿の姉がやると本当に子供にしか見えない。
西涼へは、五百騎での出陣となった。その五百人に対する出陣前の儀式―――教祖張魯が手ずから米を下げ渡す―――を終えたところである。
五斗米道の元へ馬騰の使者として馬超と馬岱が訪れてより、半年以上が経過している。その間に、両陣営が危惧した通り曹操が袁紹を下し、天下の過半を領することになった。そして馬騰は漢室に―――曹操に―――降り、朝廷に官職を得た。
馬騰が洛陽に住居を移してからも、書簡のやり取りだけは続けてきた。曹操の暗殺計画と長安遷都の腹案を明かす書簡が届いたのは、決行当日の事である。さらに十日余りの後、援軍の要請を携え使者が訪れた。曹操の暗殺には失敗したものの、董卓に廃された先帝を擁立して長安に入ったという。
長安は曹操軍の支配下にあり、雍州牧の公孫賛の居城となっていた。全てが計画通りとはいかないまでも、曹操軍の重要拠点を陥とし初戦は完勝と言えるようだ。一連の状況を鑑みて、張衛は自ら兵を率いての出陣を決めていた。
中原の戦が落ち着けば、周辺勢力の併呑が始まる。五斗米道に独力で漢中を維持出来るほどの力はなく、同盟相手が必要であった。そして現状手を取り合える相手は、馬騰達西涼軍をおいて他にいない。
姉は初め遠征に反対していたが、説得の末に出兵と決めてからはせめて一万を動員するように主張した。弟である自分を案じてのことだろう。姉の気持ちは有り難いが張衛はそれを断り、手近にいる兵の中から馬を乗りこなせる者だけを選んで旗下とした。
姉が漢中の信徒達へ呼び掛ければ、兵として戦える者だけでも五万近く集めることが出来る。しかし最近になって益州牧劉焉との間で、何度も小競り合いが発生していた。
これまで劉焉とは友好といかないまでも、敵対には至っていなかった。州の入り口に位置する漢中に居座る五斗米道は、劉焉にとって都合の良い風除けのようなものであったのだ。しかしこの数年、五斗米道の治める漢中を楽土と信じて、益州各郡から民の流入が相次いだ。移民は劉焉の政の拙さによるものだが、劉焉は張魯が宗教の力で民を惑わしたと逆恨みしているようだ。隙を見せれば、大規模な攻勢を仕掛けて来ないとも限らない。
「出陣は、明日の早朝でしたね?」
「はい、夜明けとともに。桟道を通りますので、明るいうちに少しでも進まなくてはなりませんから」
「それじゃあ、今日は早めに休みましょうか」
「そうですね、そうさせて頂きます。……先日お伝えしましたが、姉上のお見送りは結構ですよ」
「むぅ」
姉がまた唇を尖らせた。
五百での出陣には、もう一つ曹操への言い訳という意味合いも含まれている。
西涼軍が曹操軍を破り、群雄割拠の様相が続くのが五斗米道にとって最も望ましい展開であるが、敗れた場合のことも考えねばならない。勢力で言えば、圧倒的に曹操が優勢なのだ。
漢中は五斗米道の教義がそのまま国の形をとった理想の世界である。信徒の中には、漢中の外では生きていけないような者達もいる。しかし曹操に降伏し、今とは違った形で五斗米道を残す道も考えておかねばならなかった。
五百であれば、張衛の独断という言い訳も立つ。衆人環視の中に姉が兵を送り出す姿を晒すべきではなかった。
そうした意味では、教祖が米を下げ渡す出陣の儀式も本当はやりたくなかった。しかし劉焉との小競り合いで分かったことだが、五斗米道の信徒は戦には徹底的に向いていなかった。五斗米道の教義自体が、他者と競い合い蹴落とすことの対極に位置するのだから当然と言えば当然である。信徒を一端の兵として戦わせるためには、儀式による士気の昂揚が不可欠であったのだ。
「そんな顔をしても、駄目なものは駄目です」
「わかっています」
姉が到底納得したとは思われない口調で言う。
自分が漢中を空ける間、姉がこうして感情を曝け出せる相手もいなくなる。そう思えば、不機嫌そうな横顔も愛おしいものだった。
翌早朝、義舎の前に五百騎を整列させた。
「これより、西涼の盟友馬騰殿の援護へ向かう」
五百騎に、張衛は語り掛けた。
「この戦は、直接漢中を守る戦いではない。しかし今後も我らの信仰を守り続けるためには必要な戦いだ。皆の力を貸してくれ。―――全員、用意は良いか?」
少し間を置いてぱらぱらと声が返ってくる。
日頃調練に明け暮れている兵ではないから、行動の全てに戸惑いがある。それは西涼まで向かう道すがら鍛え直すしかない。とはいえ張衛自身軍略は兵書を読みかじったわずかな知識を持つだけだ。足並みをそろえて前進し、きっちりと整列、きびきびと返答する、それぐらいを仕込めれば上出来だろう。
「では行くぞ」
馬を北へ向けた。しばらくは長閑な田園風景が続き、その後は名高い蜀の桟道を走ることとなる。おおよそ三百里の桟道を、以前漢中を訪れた馬超と馬岱は二日で駆け抜けたと聞いていた。今回の進軍でも同じ経路を辿るが、十日近くは掛かるだろう。
沿道には、見送りの人間が列を為していた。誰も歓声を上げて送り出すようなことはしない。教祖張魯の弟である張衛を拝むように、跪いて組んだ手を掲げている。
「あのぅ、張衛様」
「なんだ?」
兵が一人、張衛の隣りへ進み出た。昨日、最後に姉が米を下げ渡した大男だった。
「今回の出兵に張魯様は来られないので?」
「もちろんだ。信仰のために手を汚すのは我らだけで良い。教祖様がその手を血に染められることはない」
「そうでしたか。確かに、仰られる通りですね。信仰は我らの心の中にあるもの。我ら自身で守らねばなりません」
「うむ、そういうことだ」
男は張衛の言葉を良い様に解釈してくれたようだ。
男の首元に紐がのぞく。懐に収められて見えないが、この男だけではなく信徒の兵の誰もが首から小さな麻袋をぶら下げている。儀式で受け取った米を、兵糧とは別に残しているのだ。後生大事にしまっておく者もいれば、戦で苦しいときに一粒二粒口に放り込む者もいる。
張衛の首に、麻袋は下がっていない。実際のところ、張衛自身は五斗米道の信者というわけではなかった。信徒達が神仙と崇める姉も、張衛にとっては当然生身の人間である。張魯自身も自分が特別な人間とは思っておらず、祖父の代から受け継いだ医術と教義に従った生き方をしているだけに過ぎない。そして五斗米道の教義は、神仙や教祖を崇めよと言った類のものではなく、弱きを助け誠実に生きよと言う、単に人道を説くだけのものなのだ。米を下げ渡す儀式も、それらしく見えるよう張衛がでっち上げたものに過ぎない。
元は細々とした互助集団に過ぎなかったものが、次第に教祖が神聖視され始め、張魯の代で一郡を覆う宗教組織となったのだ。信仰に対する考え方は、張魯や張衛の思惑を越えたところで信徒達が勝手に作り上げていったところがある。それは今や張魯にすら、おいそれとは覆すことが出来ないほどに育ちきっていた。
「―――っ」
考え事をする張衛の目に、幼い少女の姿が飛び込んで来た。見送りの人並みに紛れ、粗末な着物に頭巾で顔を隠しているが間違いない、姉の張魯である。
―――見送りは不要といったものを。
素知らぬ顔で横を駆け去る張衛に、姉が小さな手を振った。
張魯は十をいくつか過ぎた頃から、身体の成長が止まった。それ故に人々からは神仙と崇められている。亡くなった母も死ぬ間際まで十代の容色を保っていたから、そういう家系なのだと張衛は理解していた。
山道に至ると見送りの人並みも絶え、自分達の馬が立てる馬蹄の音だけが響いた。
二つ峰を越え、桟道へ入った。騎乗して通るのは張衛も初めての経験となる。徒歩でも、ほんの数十里先の山中まで移動した経験しかない。今回は三百里を駆けることになる。五百騎の中で特に馬術に長けた者五十人を先導として進ませた。五十一騎目が張衛で、後に四百五十騎が一列に並んで進む。
岩肌に張り出した木造の道は、馬車が走ることも想定して平坦な板が渡してあり、馬で駆ける分には不都合はなかった。しかし横幅は細い場所では半丈(1.5メートル)ほどに過ぎない。五百騎は恐る恐る進んだ。
三十里(15キロ)ほどで一度桟道が途絶え、再び山道に出る。そこで一度休息を命じた。
馬を降りて、初めて山風の冷たさに張衛は気付いた。ずっと握り締めていた手綱が汗で湿っている。我ながら、たかが行軍に相当に緊張していたようだ。
一列縦隊であるから、わずか五百騎といえども桟道への出入りだけで相当に時間を要する。再び馬の背に乗った時には、すでに日は西に傾き始めていた。二、三里もすると、また桟道の入り口に至った。暗闇の中で桟道を進む危険を避け、その日はそこで野営とした。
翌日は、いくらか落ち着いた心持ちで景観を眺めることが出来た。
桟道から下を覗くと、清んだ水の流れが見える。秦嶺山脈と呼ばれるこの地を源とし、幾筋もの川が流れ出している。そして川が形成する渓谷に張り巡らされたのが蜀の桟道であった。
益州と外部との交通は、西涼から桟道を経て漢中に入るか、あるいは荊州から長江を遡上して巴郡へ入るか、というたった二つに限られる。蜀の桟道は漢中の五斗米道にとっても益州全体にとっても、重要な交通路であった。
「……見張りの者ぐらいは置いておくべきだったな」
これまで旅の商人であれ他勢力の使者であれ好き勝手に行き来させてきたが、さすがに油断が過ぎるというものであった。初めて本格的に桟道を辿り、張衛はその重要性を再認識した。
それから七日で桟道を抜け、西涼へ入った。平地を隊列を組んで行軍する。山岳に囲まれた漢中の民の目には、見なれない地平が続く。
張衛自身、益州を出たのはこれが初めてである。常に日の位置を確認し、地図に照らし合わせながら進んだ。漢中では山並みを望めば方角が判別出来たが、平地の続く土地ではそうはいかない。
漢中を発し山脈を越える桟道は幾筋もある。一番東の子午谷に面した道―――子午道―――を通ると、山道を抜けた先がすぐに長安となる。しかし最も起伏に富み、難路であった。張衛は子午道は避け、比較的平坦な道の続く褒斜道を選んで進軍していた。褒射道の先は五丈原に通じていて、そこから西へ向かえば馬超から聞かされた馬騰の本拠地楡中となる。しかし、馬首は東へ向けている。今は西涼の軍閥は皆、長安に集まっているはずだった。
移動しながらも常に十騎ずつの斥候を四方に放った。曹操軍が長安より西に進出しているとは考え難いが、長安守備隊の敗残兵がうろついていないとも限らない。
馬で駆けながら斥候を出すというのも初めての事で、前方に出した十騎は容易く合流するが、左右後方の十騎とは何度となくはぐれ掛けた。その都度行軍を止めることとなる。兵の経験不足ももちろんあるが、何より自分の指示の出し方が悪いのだ。
「……ふむ」
張衛は少し考えて、左右の十騎は単に隊の進行方向に対して真横へ走らせるのではなく、まず斜め前へ駆けさせてから反転して真横へ戻らせることとした。そして後方の斥候には、他の方向の者達よりも少し速く引き返らせる。それで、四方の斥候がほぼ同時に戻り、過たず四方の情報が入るようになった。
試行錯誤を繰り返し、二日が経過した。
「張衛様、あれを!」
兵の声に、張衛は地図へ落としていた視線を上げた。
前方へ出した斥候が、二百騎余りに追い立てられてくる。
「如何いたしましょう? 蹴散らしますか?」
数で勝り、行軍でいくらか自信も付けたのか、兵が勇ましいことを言う。
最後に出陣の儀式をした大男である。行軍を続けるうちに、自然と副官の様なことをさせていた。鈍臭さにいらいらさせられることもあるが、姉に似て小柄な張衛の隣に侍らせておくと、他の者への良い目印となった。
「私が話してみよう。皆は動かずに」
平原を堂々と駆ける様は敗残兵とは思われない。西涼の軍勢だろう。友軍である。
一騎で進み出た。斥候の十騎は張衛の横を駆け抜け、味方の中へと逃げ込んでいく。
追いかけてきた集団は、張衛の前に一騎を残して左右に二つへ分かれた。さらにそれぞれが二つに分かれ、張衛達の四方を取って止まった。五百騎は、五十の小隊四つに囲まれる形となった。
これが戦をするために鍛え上げられた騎兵の動きというものだろう。五斗米道の兵には到底不可能な動きである。五百騎は身を寄せ合うようにして萎縮している。兵力の多寡など関係なく、ぶつかれば容易く蹴散らされてしまいそうに見える。
「私は五斗米道の張衛と言う。馬騰殿の招きにより援軍に駆け付けた。我が兵を追い立てる貴殿らは何処の兵であるかっ」
正面に残る一騎に対して声を上げた。
年の頃は三十代半ば過ぎの、筋骨隆々とした男だった。骨格で言えば副官にした大男とそう変わらぬが、体付きは大違いだ。二の腕など、張衛の頭ほどの太さもある。
「ほう、馬騰のところの兵だったか。どおりでふぬけた行軍をするわけだ」
男が返す。
「馬騰殿の部下と言うわけではないっ。五斗米道より参った援軍である。貴殿は? 名乗る程の名も持たぬかっ?」
「なんだと、俺を知らねえのか?」
男が眉を逆立てた。
「だから、先程から名を尋ねておるっ」
「……ふんっ。まあ馬騰のところの奴らは俺の影に怯えてちょろちょろと逃げ回るばかりだから、顔を知らぬ者がいてもおかしくはないか。―――聞いて驚け、俺が閻行様だ」
「……閻行、殿とな。聞かぬ名だな」
「なんだとっ、まさか、この俺を知らねえのか?」
「申し上げた通り、我々は五斗米道の、漢中の人間だ。申し訳ないが、西涼の諸兄方についてそこまで精通しているわけではない」
「つまり、知らねえってことかい。こいつは驚きだ。西涼一の豪傑の名も知らずに、援軍に来るとはな」
男がわざとらしく肩をすくめた。
「錦馬超殿の名なら存じ上げているし、お会いしたこともある」
「ちっ、てめえも勘違いしている輩か。その馬超をただの一合で叩きのめしたのが、この俺、閻行様だろうが」
「貴殿が馬超殿を?」
「おうよ」
閻行と名乗った男は得意気に胸を反らす。改めて観察するも、とても馬超に敵う強者とは思えなかった。
武術に関して、張衛自身は得手とも不得手とも言えない。こうして兵を率いる時もあると思い、下の者に侮られない程度に剣の修練は積んであるが、それだけだ。しかし医術を修める者として、他人の筋骨を観ることには自信があった。
閻行の身体は恵まれた体格に鍛え上げた筋肉を乗せ、如何にも強そうだ。しかしどこか不恰好だった。触診しなければ断定は出来ないが、氣血に乱れが生じているのではないだろうか。氣血の乱れは身体の動きをも乱し、生じた不具合は不揃いな筋肉を付け、骨格をも歪める。そして筋骨の不整がまた、氣血の乱れを増長させる。
その点馬超は―――
「―――お前らー、そこで何をしているっ!」
脳裏に思い浮かべた途端、当の本人の声が聞こえてきた。
十数騎を従え、馬超が駆けてくる。
閻行と比べると、馬超の身体は吹けば飛ぶようだった。手足の筋肉など、張衛と変わりない。しかし指先まで調和した動きは、触るまでもなく雄渾な大河が如く氣血が全身に行き渡るのを感じさせた。
「馬超殿。御無沙汰している」
「おお、張衛じゃないか。そうか、援軍に来てくれたんだな。―――他の兵は?」
「五斗米道の神兵五百。これで兵は全てだ」
「ん、そうか。まあ、何にせよ、わざわざ教祖の弟自ら来てくれるとはありがたい。母様の元へ案内しよう」
援軍がわずか五百騎とは思わなかったのだろう。馬超は一瞬困ったように眉をひそめながらも、すぐに朗らかな笑みを浮かべた。
「よろしく頼む」
「何やら揉めていたようだが、そこのあんたもそれで良いな。この者は母様の客人だ」
「おうおう、馬超っ! てめえまでこの俺を知らぬ顔かっ?」
馬超の言葉に、閻行がいきり立つ。
「……誰だ?」
馬超が、小声で張衛に囁いた。同じく小さく張衛は返した。
「閻行と仰る方だ。馬超殿に勝ったことがあると吹聴しておりましたが」
「―――ああ、あの」
馬超が、ちらりと率いてきた十数騎に視線を送った。兵達の中に紛れて、馬岱の姿が見えた。身を隠しているようでもある。
「やり合ってからかなり立つが、ずいぶんと成長したみたいだな。こんなちんちくりんだったのが、胸も背も伸びてすっかり大人の女じゃねえか。なんなら、もう一度お相手してやろうか?」
閻行の言葉にも視線にも、下卑た性根が見え透いていた。
「……ふんっ、お前は韓遂の奴の部下だろう。今は味方同士だ、詰まらない争いを起こすな。曹操は内輪揉めしていて勝てるほど、甘い相手じゃない。いくぞ、張衛」
相手にせず、馬超が馬首を巡らせる。
「ああ。―――そうだ、閻行殿。身体に不調を抱えてはおらぬか? 左肩の古傷が原因と見たが。私は医人だ。支障があるようなら、一度見てやろう」
閻行からの返答は待たず、張衛は急いで兵の元まで下がると移動を命じた。
「長安までは十里といったところだ」
先導は兵に任せ、馬超が張衛の隣に付いた。張衛を挟んだ反対に馬岱も並ぶ。
「案内は有り難いが、何か用でもあったのでは?」
「うん? ああ、今こうしているこれが、まさにあたしの役目さ。この辺りは今、西涼中からいろんな勢力の兵が集まってきているからな。当然仲の悪い奴らもいる。争いがあったらさっきみたいに間に入ったり、新しく来てくれた者を母様の元へ案内するために、長安の周りを見回ってたところだ」
「そうか。それではちょうど良い所で出くわせたわけだな」
そういう役割であれば、馬超ほどの適任も無いだろう。
「ところで、本当にあの男に負けたのか?」
「まあ、そういうことになっているな」
馬超はつまらなそうに言うと、張衛越しに馬岱を睨みつける。馬岱は視線から逃れるように首をすくめた。
なにやら事情があるようだが、本人が口を閉ざす以上詮索は避けた。
「せっかく喧嘩を売ってきてくれたんだから、やっちゃえば良かったのに」
馬岱が小声でぼそりともらす。
「たんぽぽっ!」
「―――っっ、はーいっ、ごめんなさーい」
「まったく、誰のせいでこんなことになったと。少しは反省しろよ」
悪びれた様子のない馬岱に、馬超は溜め息をこぼした。
「でもお姉様、本当によく我慢したね」
「仲裁役が自ら喧嘩するわけにもいかないだろう。それに、韓遂のところの奴らとやり合うなって、母様と廉士に耳が痛くなるほど言われたからな」
「ああ、どうりで」
馬岱が納得顔で頷いた。
韓遂というと、馬騰と並ぶ西涼の重鎮である。馬騰とは義姉妹であり、仇敵でもあると聞き及んでいた。今は同じ西涼の仲間として長安に入っているのだろう。確かに馬超の気性では、しつこいくらいに戒めて置かなくては問題を起こしかねない。
「さて、見えてきたぞ」
四、五里も駆けたところで、馬超が言った。
「あれが長安」
数里の距離を置いてなお圧倒される巨大な城郭だった。
山で覆われた漢中ではまず見られない巨大な建造物である。益州州都の成都へは何度か赴いたことがあるが、それと比べてもずっと大きい。さすがにかつての漢の都である。
城壁はすぐに視界に収まりきらないほど大きくなった。
「……おや」
「ははっ、がっかりしたか?」
近付いて見ると、城壁にはいくつも亀裂が走り、壁の表面は風化してざらざらとした砂の質感を露わにしていた。剣を突き立てれば穴でも掘れてしまいそうだ。
「これでも曹操軍がかなり補修していってくれたんだけどな」
今も補修作業は継続されていて、軍袍姿の兵士が忙しなく行き来していた。
兵は外で待たせ、張衛一人が馬超の案内で城門をくぐった。馬岱も城外に残って、兵の面倒を見てくれている。
二騎で連れ立って進む城内の家並みも雑然としていた。都を洛陽に譲って二百年近く、過去の栄光は残滓を留めるばかりだった。
しかし住民達は活気に満ちている。大通りには溢れるぐらいに人がいて、馬上に馬超の姿を認めては歓声が湧き起こった。
馬超と言えば西涼の英雄であるが、この盛り上がりはそれだけで説明の付くものではないだろう。錦馬超という連呼の他に、漢の帝を称える声も聞こえる。当然、洛陽にいる帝のことでは有り得ない。長安に弘農王を導いたことが、馬超の人気をさらに高めていた。
馬騰が曹操に勝てば、再びこの地が漢の都となる。いや、すでに復位を宣言して帝を名乗る弘農王政権の都であった。この国は今、東と西―――洛陽と長安に、二人の天子が並び立っていた。
歓声をかき分け導かれた宮殿も、やはり壮麗でありながらも古びた堂ばかりである。人の行き交う区画は現状では一部のようで、張衛が案内されたのはその中では一番大きな建物の一室だった。
「張衛、中へ」
先に報告に入った馬超の声で、室内へ足を踏み入れた。
軍議のための部屋のようで、壁には長安周辺の地図が張られ、真ん中に置かれた卓上にはさらに細かい地形図が広げられている。卓を挟んでこちら側に馬超が立ち、向かい側には女が二人並んで座り、従者のように男一人ずつが従っていた。
病と聞いているから、左に座る白髪の女性が馬騰であろう。書簡のやり取りはあれど、実際に会うのはこれが初めてであった。
「それじゃ、あたしはこれで」
言い置き、馬超が早々に部屋を出て行く。すれ違いざまに、小さく舌打ちするのが聞こえた。
「良く来てくれた。顔を合わせるのは初めてだな、私が馬騰だ」
「五斗米道の張衛です。お初にお目に掛かります」
これから同盟を結ぶ先の頭領となれば、姉の張魯と同格と言うことになる。張衛は失礼のないよう言葉を改め、頭を下げた。
「しかし、わずか五百の兵か。それで恩を売られてもな」
馬騰の隣の女が言った。
「失礼ですが、貴方様は?」
「ああ、失礼した。韓遂だ」
「韓遂殿でしたか。ご高名は聞き及んでおります」
馬超の舌打ちの理由が知れた。鷹揚に微笑む馬騰と比べると、韓遂はどこか偏狭な印象のある女だった。
「さて、兵力の話ですが、恥ずかしながら数を集めたところで五斗米道の兵はあまり戦場でものの役には立ちません。ならば下手に参戦するよりも、西涼と五斗米道が手を結んだ、それを示すことこそが肝要かと。むしろ漢中に留め置いた方が我らの兵力は生きましょう」
「ふむ。桟道を伝って背後から湧き出しかねない。確かに曹操軍にとってそういう存在でいてくれた方が、戦場で足を引っ張られるよりはましか」
用意しておいた口上に、韓遂は理解を示した。言い訳ではあっても、正論でもあるのだ。
「張衛殿には明日、我らの天子様にお目通り頂く」
話は決まりとばかりに馬騰が言う。韓遂はもう口を挟まなかった。