「それでは、姉上にお会いしたのだな。御様子はいかがであった?」
「はっ、お健やかな御様子でした。さしもの逆賊馬騰も分を弁え、殿下に甲斐甲斐しく尽くしているようでした」
「そうか、それは良かった。公孫賛よ、曹操と協力し引き続き雍州の平穏に努めよ」
「はっ」
白蓮の返答に帝が満足気に退廷していった。
「―――白蓮」
華琳に目で促され、謁見の間から司空府の執務室まで移動した。
「すまない、華琳」
「頭を上げなさい、白蓮。全ては私が馬騰に踊らされたがためよ」
室内へ入るや、帝の御前でも交わした会話を白蓮と華琳はもう一度繰り返した。
「いや、急に馬騰が殿下をお連れした時点で、もっと警戒して置くべきだった」
「すでに馬騰の手勢は軍の中に入り込んでいたのでしょう? 警戒してどうなるものでもないわ。馬騰が入朝した時にはすでに綿密な計画が動き始めていて、私がそれを見抜けなかったということよ。貴方に非はないわ」
「兵を集めた時に、もう少し厳しく審査しておけば―――」
華琳の断定的な言い様に距離感を覚えてしまうのは、麗羽に幽州を追われて以来の僻み根性によるものだろうか。
華琳とは奇妙な縁で、長らくこうして真名で呼び合うことはなかった。
華琳と麗羽が洛陽の学舎で席を並べていた頃、白蓮は故郷幽州で盧植の開いた私塾に通っていた。その頃同門で親交を深めたのが桃香である。私塾を出た後、桃香は世直しと見聞の旅を始め、白蓮は中央に登って官職を得た。華琳や麗羽とは同時期の任官となる。
当時、華琳はすでに漢朝での栄達に関心が薄れていたようであったが、白蓮と麗羽は真名を許し合い、互いに切磋琢磨して出世を争った。名門の後押しを受け中央で身を立てる麗羽に対して、白蓮は北辺で異民族を相手に武功を重ねた。白馬義従と名付けた精鋭弓騎兵を率い、異民族から白馬長史と恐れられたのもこの頃である。我ながら活躍したもので、黄巾の乱が起こる頃には一郡の太守にまで上り詰めていた。さらに反董卓連合を経て幽州牧として一勢力を築くに至った。そこまでが白蓮の人生の絶頂期である。
その後は袁紹軍の突然の侵攻に抗えず領土を失い、劉備軍に命を拾われることとなった。以降は桃香達と行動を共にし、彼女らが華琳の元を出奔する際に袂を分かち、今も曹操軍に残留している。
麗羽を幼馴染に持ち、桃香を親友とした華琳に対して、白蓮にとっては桃香が幼馴染で、麗羽が親しい友人である。華琳ともいくらでも親しくする機会はあったが、不思議と二人が直接親交を深めることはなかったのだ。
それが真名で呼び合うようになった切っ掛けは麗羽で、白蓮が雍州牧に就任し任地へと赴く前夜、珍しく気を回した彼女が酒宴を開いてくれた。他に招待を受けた者が華琳と曹仁である。白蓮と曹仁も、麗羽の紹介を経て古くからの付き合いだ。昔馴染みを集めての酒宴であった。
―――付き合いも長いというのに、貴方達まだそんな他人行儀な呼び方をしておりますの?
その席で、麗羽が呆れたように言った。四人の中で真名を許し合っていないのは白蓮と華琳だけ―――曹仁には真名がないが、三人全員から真名を預かっている―――であった。
そうして特に劇的なことなど何もなく、その場の話の流れで真名を交換し合うこととなった。それが何となく自分らしいと感じてしまうのは、自嘲が過ぎるというものだろうか。
いずれにせよ、真名で呼び合うようになったところで急に気心が知れるわけでもない。幾分遠慮がちに、敗戦の責任の被り合いが続いた。
「はぁ、こんな言い争いをいつまでも続けていても仕方ないわね。―――そんなことより、戦の詳しい話を聞かせてちょうだい」
「ああ、そうだな」
華琳が頭を振って話題を切り替えると、否やはなく白蓮も天子の御前でした報告を詳細に語り直した。
わずか十数日の間に天下は急変し、今や長安に漢の大旗が掲げられ、中華に二人の帝が並立している。図らずも白蓮は騒動の当事者の一人となっていた。
「まず馬騰らが長安に姿を現したのは、巻狩りが開かれたという日から数えて四日後ということになる」
「洛陽から長安までは九百里というところだったわね。お荷物―――弘農王殿下を抱えて、よくそれだけの日数で駆け抜けたものだわ。こちらの伝令が届くよりも早いとは」
「馬車の姿はなかったから、大方馬超あたりが二人乗りで運んだんだろうな」
「そうして函谷関と潼関の手形代わりにもしたわけね」
弘農王擁する馬騰ら一行は、函谷関を悠々と抜け、追撃する張遼隊を振り切ったという。
洛陽から長安に至るには、函谷関の他にさらにもう一つ、潼関と呼ばれる関も超える必要がある。しかし函谷関も潼関も弘農郡に属する城郭であり、名目上とはいえ弘農王はその郡の支配者なのである。両関の守兵にその通行を押し留める権限もなければ、理由もなかった。郡の主とその護衛を称する一団は、守備隊の長と数語のやり取りを交わすのみで速やかに関を抜けている。
そうして一行は、遮る者も無く長安へと到達した。長安は曹操軍の領内では西端の城邑である。それより先が西涼と呼ばれる地域であり、曹操軍の支配どころか漢王朝の威光も満足に届かぬ土地となる。
雍州の州都長安は、州牧である白蓮と旗下の軍勢の駐屯地となっていた。弘農王の突然の訪問を受けた白蓮は、皇族に対する礼でもって城内へと迎え入れた。直後牙を剥いた馬騰に、城内にいた兵のおよそ半数が呼応し、抗う術もなく白蓮は城外へと追い立てられた。
「城内の兵を指揮していた者は分かる?」
「ああ、龐徳という男だ。馬騰の側近で、涼州ではそれなりに名の知れた武人だ。私も将の一人に引き上げていた」
長安に駐留するに当たって、子飼いの白馬義従と曹操軍から一万の兵を引き連れていった。加えて、現地でも兵を募った。各地に軍閥勢力が形成された雍州ではそれほど兵が集まるとも思えなかったが、州牧の職掌には州内の兵権も含まれている。新たに白蓮が州牧に就任したことを喧伝し、また中央から率いてきた兵で上から締め付けるだけという印象を民に与えないための施策であった。
しかし思いがけず多くの者が募兵に答えた。元馬騰軍の兵達で、頭領が漢朝に従うのなら自分達もと集まったのだ。その言葉を疑うことなく、白蓮は自軍に彼らを引き入れた。
「馬超にすら隠していたみたいだから、兵に計画を明かしてはいないでしょう。彼らの言葉は本心よ。恐らくその龐徳だけが、計画を聞かされていたのでしょうね」
「はぁ、それでいざとなったら兵がみんな馬騰と龐徳に付いてしまうってのが、私の人望の無さだよな。これでも州牧としての数ヶ月間、兵も民も可愛がってきたつもりなんだけどなぁ」
「それだけ西涼人の中央への叛意が根深いということでしょう。そこにいたのが私だったとしても結果は同じよ。…………桃香だったら、分からないけれど」
「まあ、あのぽわぽわっとした顔を見せられて、敵愾心を持ち続けるのは難しいだろうなぁ」
華琳の呟きに半ば冗談―――半ば本気―――で返すと、白蓮はその後の戦況に話を戻した。
白蓮は敗走する兵をまとめ反撃を試みるも、長安の民はこの地に新帝を立てると宣告した馬騰に賛同し、西涼各地に蟠踞する軍閥へも勅が飛ばされた。自軍だけでの長安奪取を不可能と悟った白蓮は、潼関の確保へと向かった。函谷関より西に位置し、洛陽から長安を結ぶ最後の関所となる潼関を抑えれば、曹操軍は長安まで遮るもの無く進軍出来る。
「とっさに潼関を抑えようとしたのは悪くないわ」
「ははっ、その結果同じ手に二度やられたってわけだけどな」
白蓮は寒々しい笑みをこぼした。
白蓮が潼関へ入城した時、すでに弘農王の命で潼関の守備隊は馬騰の手の者に交代されていた。錦馬超率いる馬騰軍の兵が門前に迫ると、呼応して城門が内側から開いた。
「あらかじめ関所を押さえることも出来たのにそうしなかったのは、潼関より内に敵を留めたくなかったということかしらね」
一兵に至るまで曹操軍を締め出し、潼関以西は今や完全に馬騰の領域であった。
ここまでが、巻狩りの日からわずか十日の出来事である。馬騰はよほど周到に準備を整えていたのだろう。
「馬騰は、どれくらいの兵力を集めて来るかしら?」
戦の報告を終えた白蓮に華琳が問う。
「騎兵のみで六万から七万。韓遂も呼応するならさらに三万騎ってところだろうな」
「騎兵十万か。雍、涼のたかだか二州にしては多いわね」
「西涼でも特に北辺の人間は遊牧の異民族と交わり、暮らしぶりも彼らに似通っている。少壮の男は皆馬術を良くするし、戦ともなれば全員が騎兵として戦う」
「なるほど、烏桓の男達と同じね。練度は―――」
さらに西涼軍についてやり取りを重ね、労をねぎらわれて白蓮は華琳の執務室を辞した。
「公孫賛様。探しておりました」
そのまま宮中からも退出しようとしたところで、大尉府の属官に呼び止められた。今夜、太尉が帰還を祝って宴を開いてくれるという。
「わかった。有り難く出席させて頂くと伝えてくれ」
白蓮はため息交じりに属官へ返した。
大尉の地位には未だ麗羽が就いている。敗走に関して無遠慮な発言に曝されることは目に見えているが、誘われれば無下には断れないのが白蓮の性分だった。
「お招きにより、参上いたしました」
「忙しい中、呼び立ててすまぬな、曹操」
白蓮を執務室から送り出してすぐに、帝から呼び出しを受けた。女官に連れられて向かったのは、帝の数ある私室の一つである。
「姉上のことであるが」
人払いを済ますと、思い詰めた表情で帝が切り出した。
「天子を名乗られたのは、却って好都合というものです。これで馬騰らにとっては大事な玉体であらせられますから、質とされたり、危害を加えられる心配は無用となりました。ご安心を、必ずや馬騰の手より取り戻して参ります」
公孫賛からもたらされた馬騰による弘農王擁立の情報は、華琳には諜報より伝えられた既知の報であった。しかし天子にとっては初めて聞かされた話である。長安遷都を企図した馬騰に連れ去られたという時点で想像に難くないが、現実として耳にした衝撃は大きかったようだ。利発な天子であるが、蘭々や季衣達よりもなお年若いのだ。
「好都合とな。……なるほど、戦に勝ちさえすれば無事取り戻せるということか」
「はい」
それから先の事は、天子が自ら決めることだった。華琳に厳罰を望む気持ちはない。擁立する者さえ現れなければ無力に等しいのだ。
「董承らの処遇は?」
「死罪以外は有り得ぬでしょう」
宮中における馬騰の協力者は十数人に及んだ。主だった者では董承、王子服、呉子蘭といった元々の廷臣達と、白波賊出身の韓暹の名が上がる。とりわけ衛将軍の董承は三公の華琳や車騎将軍の楊奉にも並ぶ地位であり、韓暹の征東将軍もそれに次ぐ高位の将軍職である。
今上帝とは遠縁に当たる董承は、天子を中心に外戚が権勢を振るうかつての朝廷の姿を取り戻そうと馬騰の計画に賛同した。一方の韓暹は同じ白波賊出身の楊奉との朝廷における重きの違いに不服を抱いたが故である。いずれも己が実力も現実も顧みない小物であり、弘農王を連れて包囲を脱する馬騰に捨て置かれ、曹操軍に捕縛されている。
「……彼らも馬騰に騙されたようなものだが。仮に馬騰の計画通りに全てが進み、曹操は暗殺に倒れ、朕が囚われの身となったとして、長安で開かれる朝廷で彼らが厚遇されたとは思えぬ」
「そうですね。私が馬騰なら、やはりあの場に置き去りにします。報復に逸る我が軍の前に暗殺の実行犯を放置し、追撃の目を逸らしたでしょう」
「ならば―――」
「陛下、戦に負ければ兵は死ぬのです。暗殺は戦ですらない、卑劣な闇討ちです。彼らは卑劣な戦いに挑み、そして敗れたのです」
「……道理は通さねばならぬか」
天子はため息交じりに頷いた。
もっとも、馬騰や馬超らを戦の末に捕えたとしても、華琳は死罪を求めるつもりはなかった。馬騰に対しては恨みの感情はなく、してやられたという感嘆の気持ちがあるだけだ。その後の展開を見ても周到な計画の上に動いており、同時に華琳の首と今上帝の身柄というこれ以上ない香餌にすら固執しない柔軟さも備えている。馬超の武と合わせ、いずれも有為の人材である。董承や韓暹などとは違った。欲に駆られた彼らには、幼い今上帝にすら想像の付く末路が見えていない。
「姉上の話に戻るが、朕も何か詔(みことのり)を発すべきであろうか」
白蓮が、弘農王が発し西涼一帯にばら撒かれたという詔勅の写しを持ち帰っている。
詔勅はまず、董卓による自身の廃位の不当を訴え、董卓軍を撃破した後に皇位を正さなかった反董卓連合の面々―――特に現政権の高位にある華琳や麗羽を責め立てることから始まっている。次いで自身が帝位に戻ること、高祖劉邦の選んだ長安に都を遷すことを書き連ね、最後に事に当たり尽力した馬騰の忠義を褒め称え、読む者にも長安に入朝し洛陽の偽帝を討つよう迫っていた。
「そうですね。では、草案をご用意いたします。元袁紹の配下で、筆を取らせれば異才を有する者がおります」
「あまり姉上を貶めることの無い様に」
「そういえば、陛下の前でも一度読み上げさせたのでした。よくよく申し付けておきます」
曹孟徳を悪しざまに罵る檄文を、天子の前で筆者自らに朗読させた。元袁紹軍の能文家、陳琳である。
読まされた当の本人は、処刑を覚悟の最後の晴れ舞台という気概であったらしい。もちろん華琳の方にも、意地の悪い報復の気持ちがまったく無かったわけではない。しかしそれ以上に軽佻な内容に反して高い格式を備え、節回しも小気味良い名文であったためだ。
「では、草案が出来上がりましたらお持ちします」
「うむ、任せた。―――待つのじゃ、曹操」
室外に足を踏み出しかけたところで、背後から呼び止められた。
「出たわね」
「化け物か何かのような言われようじゃのう」
「似たようなものでしょう」
「ふむ、まあ、違いないかの」
超常の天子は、さっそく足を崩しながら楽しそうに笑い声をあげる。老若男女入り混じった大集団が唱和したような独特の声音は相変わらずだ。
「ちょうど良かったわ。貴方に聞きたいことがあったのよ」
「そうじゃろうと思うて、こうして出て来てやったのよ。長安の帝のことじゃろう?」
「ええ。弘農王も天子を名乗る以上、今頃は貴方と同じ存在を身中に飼っているのかしら?」
「飼ってとはまた、失礼な言い様じゃのう」
天子はやはり上機嫌にひとしきり笑うと、今度は一転、神妙な顔付きを作って続けた。
「高祖の血を受け継ぎ、王朝の祭祀を行う者が天子じゃ。そうじゃの、長安には都であった頃の祭壇が残っておろうから、弘農王がそれを再建し、正式な手順で祭祀を執り行ったならば、距離的に長安に近い者や、弘農王に心を寄せる者の意志の力は、向こうに流れ込むじゃろうな」
「その時は、貴方が二人生まれるというわけ?」
「そういうことになるの。事実、王莽めに帝位を簒奪され、それから光武帝が漢朝を再興するまでの間には、朕が複数存在した期間もあった」
「それで問題はないのかしら?」
「問題はあるの。一つであった力が分かたれれば、当然それぞれの力は弱まる。朕が表に出ることも難しくなるかもしれんし、この外史が突然消えてなくなることもあるかもしれん。―――それに、曹仁をこの世界に留めて置くのも難しくなるであろうな。だからこそ、お主にはもう少し民を安んじて欲しいと言うておる」
「……脅しているつもり?」
「事実を言うたまでじゃ」
天子が憎らしいすまし顔で言う。
「ふんっ、忠告として受け取っておくわ」
聞くべきことは聞いた。立ち上がり背を向けた華琳に、天子が言い足す。
「まあ、今回はあまり心配あるまい。かつてあの体におったこともあるから分かるが、弘農王は進んで面倒な祭祀など執り行う質ではない」
「ああ、そう」
振り返らず気の無い調子で返しながら、華琳は内心安堵していた。それも、この超常の存在には筒抜けなのだろう。華琳は足を止めず、帝の私室を辞去した。
後宮を出ると、待機していた季衣と流流が駆け寄ってきた。
「――――っ」
華琳の傍らで直立した季衣のお腹から可愛らしい音が鳴った。
洛陽に滞在中は、午前中は朝議に参加し、朝廷での仕事を片付ける。そして午後からは曹家の邸宅に戻り、曹操軍の主として働くこととなる。食事はその合間で、日によって早い日もあれば遅くなる日もある。今日はすでに昼食には遅い時間となっていた。
「ふふっ、宮中でやることは全て終わったし、屋敷へ戻る前にどこかで食べていきましょうか」
「やったぁ!」
季衣が諸手を挙げて喜びを表現した。
曹家の屋敷は、華琳の祖父で大長秋曹騰が当時の帝から下賜されたものである。宮殿からほど近く、帝からの信任の厚さがうかがえる。
宮殿から屋敷までの道中に飲食店はほとんどない。少し足を伸ばし、季衣の案内で大通りを脇道に何本か逸れた先の飯屋へ入った。
昼食には遅い時間だが、店内はそれなりに混雑している。若い男が多く、華琳が姿を認めると店の外まで聞こえていた喧騒が波が引く様に静まった。非番の兵達であろう。
各地に常駐させた守備隊を除いても、今や曹操軍の動員兵力は三十五万を数える。西涼への遠征には十八万を率い、さらに洛陽に留守の部隊として十万を残していく。合せて三十万に近い兵を洛陽に集結させていた。非番の者だけでも数万の人間となる。洛陽城内はこの数日、常にない賑わいを見せていた。
「―――あっ、華琳さま。華琳さま達も今からお昼?」
静けさの中、一つの卓から声が掛かった。
蘭々が上機嫌で手を上げ、曹仁が居心地が悪そうに目を逸らしている。側に牛金と無花果の姿もあるから、どうやら曹仁隊の兵が集まっているらしい。
「悪いわね。―――皆、私達の事は気にせず、食事を楽しみなさい」
無花果が気を利かせて、曹仁と蘭々の近くの席を空けさせる。一声呼び掛けて、華琳は横並びに座る二人の向かいの席に腰を降ろした。元の喧騒からは程遠いが、少しずつ兵が会話を再開し始める。
「季衣、適当に」
「はい。すいませーん、注文お願いしまーす。えっと、これと、これ、それに―――」
季衣が給仕を呼び止め、さっそく注文を始める。
「華琳、よくこんな店を知っていたな」
「季衣に連れられてきたのよ」
「ボクは恋に教えてもらったんだよ。―――あっ、あとこれと、これも下さい」
季衣が品書きからひょいと顔を上げて言う。
「ああ、そういうことか」
曹仁が皇甫嵩の元で客将をしていた頃からの馴染みの店だと言う。
向かいの席には拉麺のどんぶりが一つきり、蘭々の前に置かれている。曹仁はすでに食事を終えているようだ。
「あーん」
言いながら、蘭々が口を少し大きめに開ける。曹仁が箸で麺を掬い、それを匙に乗せて蘭々の口内に慎重に差し入れた。
「―――うん、おいしい。でも、ちょっと熱いから、次はふーふーして少し冷まして」
「はいはい」
妹からの注文に口では投げやりに返しながらも、曹仁はどこか嬉しそうに微笑んだ。
腕を使うと背中の縫合後が突っ張ると言って、巻狩りの日以降、食事の度に蘭々は曹仁に介護を要求していた。
二人の間に流れていた気まずい空気が払拭されたのは喜ばしいことであるし、自分を守るために傷を負ったことを思えば、蘭々の多少の我が侭ぐらいは笑って許すべきところだろう。
しかし二人の関係を皆に告白―――というよりも単に露見しただけであるが―――し、これからは公然と“いちゃいちゃ”を迫ってくるだろう曹仁に対し、宥めすかしつつも節度を保った範囲で多少は、などと考えていた華琳としては面白くない。それも、天子から曹仁の事で詰まらない脅しをかけられた直後ともなると、腹に据えかねるものがある。
「仁、いくら怪我人とは言え、すこし甘やかし過ぎではなくて?」
「―――そんなことはないです。華琳さま、兄が妹をいくら甘やかしたって、過ぎるなんてことはないんです」
曹仁に返答の間を与えず、蘭々がすまし顔で割って入る。
「……こんな大勢が見ている前で」
「麗しい兄妹愛であって、やましい事をしているわけではないんですから、隠すことなんてないんです」
やはり蘭々が遮るように言い切った。それでも多少の気恥ずかしさはあるのか、耳をうっすら赤く染めている。
「蘭々も、よりにもよって拉麺なんて食べさせ難いものをわざわざ頼んで」
「だって食べたかったんだもん。兄貴も、可愛い妹に我慢なんてさせたくないと思いますし」
ならばと標的を蘭々に切り換えるも、どこか吹っ切れた様子で曹仁の妹という立ち位置を強調する。
「―――はぁ」
華琳にとっては面倒な小姑がまた一人増えたということになる。嘆息を漏らすも、悪い変化ではないのだろう。
蘭々と埒も無い会話を交わす間に、華琳達の前にも料理が運ばれてくる。季衣に注文を任せたから、卓上にずらりと皿が並んだ。
季衣のお奨めで、流流も口を挟まなかった時点で心配はしていないが、大衆向けの幾分粗野で雑多な味付けではあるが悪くない。
「ああ、そうだ。牛金」
「なんでしょうか、曹操様」
ふと思い出し、曹仁の隣―――蘭々とは反対側―――に座る牛金に声を掛けた。
「貴方、司馬家の次子と付き合いがあると聞いたのだけれど」
「……はい、ございますが」
「司馬家の次子って、春華のことか?」
曹仁が口を挟む。
「あら、仁。貴女も知り合い? それも、真名まで預かっているの?」
「ああ。といっても、俺はそれほど親しいわけではないんだが。―――いずれ、親友の妻になるかもしれん」
言いながら、曹仁が牛金の脇を肘で軽く突いた。
「な、懐かれてはいますが、そういう関係では」
「春華の方はお前のことを愛してるけどな。ちょっと偏執的な域で」
「むっ、娘か妹のようなもので。家族愛の延長でしょう」
牛金が巨体をひと回りもふた回りも縮めるようにして弁解する。
「それで、その司馬懿なのだけれど。前々から司馬家の兄妹の噂は聞いていたし、先日桂花から正式に推挙されたのもあって、司空府に召喚したのよ」
漢臣にして豪商で知られる司馬家の八兄妹は、世間では司馬八達と呼称されている。長兄以外は当主司馬防の実子ではないというが、八人共に字に“達”の文字を持ち、全員がその才智と侠骨で洛中に名を轟かせていた。とりわけ次子にあたる司馬懿は最も世知に長けると言われている。父親や兄妹が洛陽の再建という慈善事業に奔走して財産を食い潰す中、司馬懿は一人で司馬家の商いを取り仕切り、家族の浪費を賄うだけでなく身代を数倍に増やしたという。
「病を理由に断られたわ、何度もね。まあ、仮病でしょうけれど」
「それは、も、申し訳ありません」
「別に貴方が謝ることじゃないわ。私もよく使った手だし、そのことで責めはしない」
司馬懿に対して保護者の様な感情を抱いているのは事実のようで、牛金はさらに肩身が狭そうにしている。
「しかし、荀彧が推挙? それじゃあ、よほど才覚を買っているんだな。ああいう、艶っぽい美女を華琳に推挙するなんて」
牛金の様子を見かねたのか、曹仁が軽口を挟んだ。
「艶っぽい美女? 桂花は容姿については何も言っていなかったけど。へえ、それはますます欲しくなったわね」
「おいおい、臣下の女に手を出すなよ」
「冗談よ、冗談。―――でも、牛金があまりにもたもたしているようなら、先に手を出してしまうかも。まだそういう関係ではないのでしょう?」
「それは、その、困ります」
牛金が巨体に似合わぬ消え入りそうな声を出す。
「あら、困るの? なら早くもらってあげることね」
「これはその、い、妹分に手を出されたら困ると言う事でして。兄貴だって蘭々にお手が付くのは抵抗があるでしょう?」
「……まあ、それは確かに。でも姉貴分ならすでに二人、華琳の餌食に掛かっているぞ」
「うっ、そ、そうでした。―――し、しかしやはり、俺が春華とそういう関係になると言うのは。……やはり妹です」
「それを言うなら春蘭と秋蘭も私の姉のようなものだし、仁は弟分よ。何か問題があるかしら?」
「そ、それは」
牛金が口籠る。
「そうそう、妹に手を出したって悪い事なんて何にもないよ。むしろどんどん出していくべきだよ。ねっ、兄貴」
「い、いや、それはどうだろうか」
黙って聞いていた蘭々が口を挟むと、今度は曹仁が口籠る番だった。
翌日、司馬懿が司空府へと出頭した。
「あら、病の方はもう完治したのかしら?」
「はい、すっかりと」
悪びれもせず返すと、司馬懿がうっすらと微笑む。
曹仁の言う通り、確かに艶のある美女だった。細身ながらも均整のとれた肉付きで、わずかに傾げた首筋が妖しい魅力を放つ。
「むむ」
隣に控えさせた桂花が、敵意の籠もった視線を注いでいる。有為の人材として推挙はしても、思うところはあるらしい。
「今日はどういう風の吹き回しなのかしら?」
「お礼を、と思いまして」
「お礼?」
「はい。主人から昨日の話をお聞きしましたわ。私と主人の仲を、応援下さったようで。心より感謝いたしますわ」
主人と言うのは、牛金の事だろう。昨日の今日でまさか婚姻もあるまいが、無粋な突っ込みは避けた。
「お礼と言うのなら、言葉などではなく是非態度で示して欲しいものね」
「はっ、お仕え致します」
司馬懿が拱手して頭を下げた。
「あら、ずいぶんとあっさり心変わりしたものね」
「曹操様は御理解のある主君のようでしたから。それならば出仕した方が主人と一緒の時間を持てると思いまして」
外見だけでなく中身の方も曹仁の言った通りで、牛金への偏執的な愛情に満たされているようだ。
「さしあたって、まずは主人も従軍するこの度の遠征軍に、私も加えて頂きたく」
「あんたねっ、勝手なことばかり言うんじゃないわよっ!」
声を張り上げたのは桂花だ。足を踏み鳴らして一歩前へ出ると続ける
「私の推挙を散々無視しておいて、のこのこ自分からやって来たと思ったら、一体何様の―――」
「―――桂花」
「―――っ、出過ぎた真似を致しました」
桂花は一旦矛先を収めると、華琳の隣へ下がった。内心の怒気は収めようがない様で、司馬懿に依然刺々しい目を向けている。
司馬懿の方は突き刺さる視線をどこ吹く風と受け流し、口元には涼やかな笑みさえ浮かべていた。
「それで、司馬懿。遠征に付いて来たいということは、貴方武官志望ということかしら? 文官として、桂花の下に付いてもらうつもりだったのだけれど」
「私の出自について、お聞き及びでしょうか?」
「ええ。悪いけれど、曹仁と貴方の亭主を問い質させてもらったわ。なかなか凄惨な人生を送っているわね」
曹仁らと司馬懿が出会った経緯に関して、昨日の飯屋であらましは聞いていた。
盲目の孤児で、張譲が囲う暗殺集団の中で育ったという。政争の果てに張譲が破れ、部隊も曹仁、呂布、張繍らの活躍で壊滅した。その後の彼女の面倒を見たのが牛金であり、養子として受け入れたのが司馬家当主の司馬防である。
「うふふっ、ならばお聞きでしょう。私は張奐様の元で軍師として育てられました」
亭主という言葉に気を良くしたのか、上機嫌で司馬懿が言う。
「張奐殿ね。お会いする機会はなかったけれど、お祖父様とは親交があったはずよ」
「大長秋であらせられた曹騰様ですわね。反骨が過ぎ、敵も多かった張奐様に何かと便宜を図って下さったとか」
張奐は皇甫嵩や盧植の一つ上の世代を代表する漢の将軍である。北辺の国境を転戦した伝説的な名将であり、学者としても名高い。学識は盧植に匹敵し、戦歴は皇甫嵩に劣らず、加えて自ら大斧を振るっては匈奴の兵を震え上がらせた武人でもある。
「よろしい、参軍として幕下に加えましょう。貴方自身ではなく、張奐殿とお祖父様の目を信じるが故よ。今回の遠征の間に私をうならせる献策の一つもないようなら、二人の顔にも泥を塗ったことになる。その時は最下級の役人として地方へ飛ばすわよ」
「はいっ、承りました」
そうなれば当然大好きな主人とも離れ離れと言うことになるが、司馬懿は朗らかに応じると拱手した。