洛陽より出兵し、函谷関まで軍を進めた。
曹仁は西涼討伐軍の第一陣、蹋頓率いる烏桓の援軍二万騎を含む総勢十三万の主将を命ぜられていた。
華琳自らが率いる遠征の予定が、急遽二段構えの進軍に変更され、突然の主将抜擢である。袁紹軍との決戦でも大軍を委ねられる機会はあったが、あの時は予め華琳と煮詰めた策で一戦したのみで、あとは官渡城に籠もっているだけであった。進軍し、相手次第で野戦、または攻城という状況下で十万を超える兵力を動かすのは初めてのことである。まずは慎重に軍を進めた。長安まではまだ遠いが、すでに長安に立った偽帝―――弘農王のかつての領土の内であり、ここから先はいつ敵の襲撃を受けてもおかしくはない。
騎兵は烏桓兵以外には曹仁旗下の一万騎だけで、残る十万は全て歩兵である。主力はあくまで歩兵ということだ。
騎兵は斥候、索敵と割り切り、曹仁は珍しく歩兵と共に進んだ。
歩兵の先頭には凪の重装歩兵一万五千を置き、その後ろに本隊として曹仁の二万と真桜の工兵一万、次いで張燕の黒山賊隊一万五千、沙和の新兵隊二万、張郃―――優の二万が続く。
洛陽には留守部隊の十万に加えて、遠征の第二陣として華琳自らが率いる一万騎と、袁紹軍の騎兵を組み入れて二万騎に増員した霞の騎馬隊、さらに歩兵四万が控えている。二段構えへの変更は、やはり孫策や劉表の動きが気になるということなのか。袁紹軍との大戦では呼応して起った孫策軍と劉備軍に悩まされたのは記憶に新しい。偽帝から発せられた反曹操反今上帝の勅書が届けられたのは、西涼の軍閥だけではないのだ。
「曹仁将軍、全ての兵が関を通過し終わりました」
曹仁の元へ、最後尾の隊を率いる優が自ら報告に来た。十三万の兵が関を潜り抜けるのには、四刻(2時間)余りの時間を要した。
「ご苦労さまです。―――俺は函谷関を抜けるのはこれが初めてですが、優さんは?」
かつて反董卓連合との戦では、詠の計画した長安遷都に付き合うこととなったが、その時も曹操軍の追撃を受けて函谷関まで十数里というところで断念している。
「私もです。冀州の生まれで、黄巾の乱では河北を転戦し、その後はずっと袁紹様の下におりました」
簡潔で過不足の無い話し方を優はする。実に軍人らしい軍人である。
春蘭や霞のような軍人である前に武人の顔を持つ将も多い中で、組織としての軍を体現した存在と言えよう。古株の曹操軍の人間では秋蘭や凪に近い。
といって決して武勇に劣るわけでもない。官渡の決戦の最終局面においては、華琳の元へと突撃する麗羽を守って春蘭との打ち合いを演じていた。さすがに劣勢に追い込まれながらも、数十合も手傷一つ負うことなく戦い抜いている。堅実な用兵と同じく剣の方も実着な戦い振りだと言う。
整った顔立ちと明瞭な物言いも相まって、最近では華琳のお気に入りの武将の一人であった。
「優さんはこれが我が軍における初陣となりますね。官渡で袁紹軍十万を率いた経験を活かし、俺の指揮に不足を感じたならいつでもご助言下さい」
「はっ」
短く返すと、優は隊の元へ下がっていった。
「ちょっと、そういうことはボク達に頼みなさいよね」
優の姿が兵の中へ消えたところで、詠が文句をつけた。
今回の遠征では幕僚に詠と春華を、副官には角に加えて白蓮が参加している。
涼州出身の詠はこの地に明るく、軍師としては打って付けである。雍州牧の白蓮は言うまでもなく現在の西涼の情勢に最も精通した一人である。華琳の指名だが、そうでなくても曹仁から要請したであろう二人だった。
春華は、本人のたっての希望を華琳が聞き届けたらしい。上機嫌で角と轡を並べている。角は戸惑いの表情だ。
「もちろん、頼りにさせてもらうさ。状況が許せば、俺は騎兵を率いて打って出る。その時、全体を見据えて指揮を飛ばすのは詠に任せる」
「ふん、当たり前よ」
詠が強気で応じる。
「白蓮さんには、逆に俺が本隊を動けない時に、代わりに騎馬隊を率いてもらうかもしれない」
「ああ、まかせてくれ」
白蓮が力強く頷く。騎馬隊の指揮には自信があるのだろうし、雪辱に燃えてもいるのだろう。本隊には白蓮子飼いの白馬義従三百騎も同行していた。
「春華は、―――そうだな、優さんと違って本当の本当に初陣だから、まずは戦場の空気に慣れるところからかな」
「ええ。幸い、同じ軍師の中でも天下で五指には入ろうという賈駆様がいらっしゃいますから。お勉強させて頂きます」
「ふん、仕方ないわね」
詠が満更でもない顔付きで受ける。
春華は先日参内するや早速荀彧の不興を買っている。妖艶でどこか気怠げな風情が、特に同じ女性の目からは挑発的に映るらしい。加えて春華本人も角以外の人間にどう思われようが構わない、という心持ちでいるから質が悪い。
軍内での揉め事だけは避けたいがため、今回はあらかじめ角の口から言い含めさせている。その甲斐あってか、今のところ幕僚の長である詠を立てる姿勢を崩していなかった。
「それでは、進軍を再開する」
旗を振って合図を送ると、先頭の重装歩兵から動き始める。
函谷関を抜けて十数里は峡谷が続き、やがて北の稜線が途切れ、代わって大河が視界に流れ込んできた。河水である。まずは河水に沿って進軍し、潼関―――河水の屈曲点に作られた関所―――を目指すこととなる。
潼関から西の情報は白蓮の帰還を最後にほぼ途絶えている。
高順の正体を看過した馬騰だけはあって、商人の往来も規制されていた。飛脚の情報網は完全に断たれ、幸蘭の諜報部隊が山越えで得るわずかな情報が時折もたらされるばかりであった。
潼関以西が馬騰の、函谷関以東が華琳の手にある以上、狭間のこの地は両勢力の争闘の場に相応しい。
洛陽から函谷関、潼関、長安はほぼ東から西へ一直線に並んでいる。洛陽から長安まではおおよそ九百里(450km)あり、洛陽から函谷関までが三百里、潼関から長安までが四百里で、残る二百里が両関の狭間であった。関の周辺は当然険阻な地形によって狭まるが、中間付近では南北に二十里以上も開けた場所もある。十万騎ともされる西涼軍全てで展開するにはいくらか手狭だが、一万や二万の騎馬隊が駆け回るには十分過ぎる広さだった。
曹仁は白騎兵百騎の下に騎兵百騎で百の小隊を作り、函谷関から潼関までの空間をくまなく走り回らせた。そして急な奇襲にも対応出来るよう、烏桓の援軍には歩兵の後方を少し離れて進んでもらう。函谷関を抑える以上、後ろから襲撃を受ける心配はない。
十分な警戒をして進むも、奇襲を受けることも、斥候から敵発見の報がもたらされることもなく、四日の行軍で潼関へ無事に到着した。
「さすがに潼関まで素通りとはいかないか」
河水の屈曲点に作られたこの関は、地続きで洛陽から西涼へ至る唯一の直進路を守るものである。
関の北側では、北から流れてくる河水が東に向きを変え、その流れは函谷関の北を抜け、洛陽を経て海まで続いていく。一方で西からは長安の北を通って渭水が走り、潼関の北、ちょうど河水の屈曲点にて合流を果たす。丁字を逆にしたような形で河川が流れ、その交点に建てられたのが潼関ということだ。
そして関の南には、崋山と秦嶺山脈がそびえている。つまり潼関を抜ける以外、北は大河に南は峻岳に阻まれているのだった。
西涼へ至る他の経路としては、大きく南へ迂回して関中南方の関所である武関を抜ける道―――かつて函谷関を避けた高祖劉邦が関中平定に用いた進軍路―――がある。しかしそのためには荊州北部の劉表の支配地―――敵地を通り抜けねばならない。今回、曹操軍が選び得るのは潼関を抜くこの経路しかないのだった。
「詠、あの旗は馬超のものではないが、誰か分かるか?」
騎馬隊からの報告にあった通り、潼関には三本の旗が掲げられていた。馬の文字も見えるが、錦の旗ではない。
「たしか馬玩のものね。馬騰の旗印とは意匠が異なるし、馬岱は恐らく馬超の副官として一緒に動くでしょうから、間違いないわ。他の二つ、楊の旗は楊秋、成の旗は成宜でしょうね」
「いずれも主だった軍閥の一つだったな。白蓮さん、それぞれの今の兵力はどれくらいだったかな?」
「馬玩、楊秋、成宜。どこも七、八千騎といったところだな。成宜だけいくらか多いかもしれないが、それでも一万は超えないはずだ」
「すると二万から二万五千騎ほどは馬を降りて関に籠っているということか」
「いいえ、潼関に籠もれる兵は五千が限度よ。城壁の上に三千、その上の望楼に二千。残りは城壁の向こうで陣を布いているんでしょう」
詠が曹仁の言葉を訂正する。
「そうか。砦ではなくあくまで関だったな」
ぶ厚い城壁が一面そびえるのみで、兵を満載させる構造は持たない。戦の形としてまずは攻城となるが、実際には壁一枚を隔てて両軍が対峙しているだけということだ。
「五千、それも騎兵が馬を降りたからといって侮れないわよ。西涼の兵は羌族出身の者も多いけれど、その羌族を相手に長城へ籠もっての防戦に当たってきた兵も多い。籠城戦の経験は、中華のどこの軍よりも豊富と考えて良いわ」
西涼出身の詠が得意気に言った。
「なるほどな。中原の人間が黄巾の乱が起こるまでほとんど実戦を知らずに来たなかで、西涼ではその間にも異民族との戦が続いてきたわけか。かつての董卓軍の強さが、そして西涼で乱が絶えない理由が分かる気がするな」
蹋頓の援軍と曹仁隊の騎兵を本隊の左右に付け、歩兵の陣立てはそのままに滞陣を命じた。
潼関から敵軍が出撃してくることを想定して重装歩兵の凪隊がそのまま前衛に残り、続く本隊の曹仁隊と真桜の工兵部隊が攻城を引き受ける。修正の必要は感じなかった。
本営にはすぐに幕舎が張られたが、敵は目の前の関と天険である。視界をふさぐ幕舎内には入らず、野にそのまま卓と床几を並べて軍議の間とした。
正面に潼関―――函谷関には劣るとはいえ高さ十丈(30メートル)余りの巨大な城壁がそびえ、左には霊峰崋山、右に河水を望むという壮大な景色が広がっている。
「馬超の気性なら、ここに至るまでに一度は野戦を挑んでくるものと思ったんだけどな」
諸将が集まると、曹仁はいささか拍子抜けした思いを口にした。
「野戦なら潼関を抜いた後、嫌になるほどやることになるわよ」
「その潼関に錦馬超の旗がありませんが、馬騰達もここは抜かれる前提で布陣していると思われますか?」
詠の言葉に優が問う。
「抜かれるというよりも、潼関自体は確保しつつ河水と渭水の北岸を戦場とするつもりでしょう。関に籠もっての戦も得意とはいえ、やはり西涼軍の本領は野戦」
詠が自前の潼関周辺の地形図を卓上に広げた。かつて西涼に割拠しただけあって、相当に詳細なものだ。
「都合三度の渡河か。その度に敵が待ち受けているだろうが、力押しで門扉を破るよりは犠牲は少なくてすむか」
曹仁達が陣を築いた関の東側では北に河水が流れ、西涼軍の布陣する西側では渭水が流れている。渭水には水門が築かれているため、河水から渭水へと流れを遡上して潼関の裏に直接回り込むことは出来ない。しかし河水北岸へ渡河した後、もう一度今度は北から流れてくる河水を西に渡って渭水北岸に至り、最後に渭水を南に渡河すれば潼関の裏へ回ることが出来る。
「あんた、馬鹿正直に向こうの思惑に乗るつもり?」
詠が呆れたように言う。
「と言うからには、何か考えがありそうだな」
「確認するけど、華琳様が来る前に潼関は落としてしまって構わないのよね?」
「華琳には腰を据えた戦をしろと言われている。が、攻めるなと言われたわけではない。腰を据えるためにも、むしろ潼関は押さえておきたいところだな」
「……あんたと華琳様が二人して腰がどうのと話している様を想像すると、なんだかいやらしいわね。―――もうっ、軍議の席でおかしなことを言わないでよねっ」
頬を上気させた詠が、半眼で睨みつけてくる。曹仁と華琳の仲は、すっかり全軍に知れ渡っていた。
「いや、勝手に想像して勝手に怒られても困るが」
「とにかくっ、潼関は落として構わないということね? ―――なら張燕、この山を越えられる? 神仙術の修行者などが登る道はあるはずなのだけど」
照れ隠しなのか、詠は無駄に勢い込んで地形図を指して言う。
潼関の南面、曹仁達の進軍方向に向かって左手には、古来より霊峰と名高い崋山がそびえる。急峻な岩山であり、その威容から神仙の住まう山と見なされてきた。
張燕は地形図を覗き込んだ後、視線を上げて実際の山並を見やった。黒山を根拠とした賊徒出身の張燕とその兵は、曹操軍内で最も山地での進軍と戦闘を得意とする部隊である。
「……やれないことはないだろうが、一万五千全てを引き連れてというのは厳しいな。千や二千では、関の裏を取ったところであまり意味はあるまい?」
「ううん、それで十分。山伝いに潼関の城壁の上に出られる場所があるわ。当然、兵に守らせてはいると思うけど、たいして警戒はしていないでしょうし、山地からの奇襲ならお手の物でしょう?」
「ずいぶんと詳しいな」
曹仁は口を挟んだ。
「そりゃあ、長安遷都を最初に考えたのはボクだし、そうじゃなくたっていざとなったら月を連れて西涼に逃げ戻るつもりだったもの。守りの要の潼関については、ちゃんと調べ上げているわよ」
「なるほど。やはり詠に付いて来てもらったのは正解だったな。洛陽で文官の真似事ばかりさせられていたけど、軍師としては確かに天下で五指に入る」
「ふふん」
数日前の春華の台詞を曹仁が繰り返すと、詠が得意気に鼻を鳴らした。
軍師と言うと朱里、雛里、周瑜が曹仁の頭にはまず思い浮かぶが、詠もこの三人に負けていない。軍略と言うより謀略によるところが大きいが、一度は月に天下を取らせたのだから、実績で言えば詠の方が上とすら言えた。
「本命は山からの奇襲として、敵の目を逸らしたいわね。正面からの攻城は当然として、やはり渡河の真似事くらいはしましょう。真桜、筏はすぐに作れるわね?」
「もちろんや」
詠を中心に軍議が進行する中、議論に加わる様子も無く末席で静かに佇む春華に目が留まった。
「―――春華、ずいぶん静かにしているが、何かないか? 遠征での働きが悪いようなら地方へ飛ばすと華琳に脅されているんだろう?」
「うふふっ、御心配には及びません。遠征前ではございますが、すでに華琳様には軍師として一つ献策させて頂き、お認め頂きましたわ」
「へえ、そうだったのか。遠征前というと、今回の遠征が二段構えになったのは春華の献策か?」
「ふふっ。まあ、そんなところでしょうか」
春華が曖昧な笑みを返した。まだ何かありそうな様子だが、密計の類と言うところか。
「されど、主人の直属の上官である曹仁様からの問いとあらば、何かしらお答えすべきですわね。とはいえ我が軍の作戦に関しては、さすがは賈文和様。新参の私などが口出しする余地もございません。―――そうですね、それでは一つ、敵の気持ちになって考えてみましょうか。私、そういうのは得意ですのよ」
言うと、春華は顎に手をやって暫時黙り込んだ。
「……私が馬騰であれば、もっと騎兵と地の利を活かす戦を考えます。潼関での籠城、河岸に待機しての迎撃、いずれも西涼軍に有利な戦ではありますが、まともなぶつかり合いとなります。そして潼関ならば、曹操軍は洛陽から容易く増員を得ることが出来るのです。いずれは兵力の差に屈することになりましょう」
「それはそうだけれど、この地でボク達を阻まなければ長安まで迎撃に向いた地はないわよ」
同じ軍師として興味をそそられたのか、詠が口を挟む。
「ええ、ですから潼関も長安も捨て置き、本拠を涼州奥深くに置きます。途中の拠点も防衛など考えず取られるに任せ、遠路進軍する曹操軍に徹底的に野戦で奇襲を繰り返します。兵站を断つのも良いでしょう。なにせ曹操軍は、弘農王殿下を是が非でも取り戻さなければいけないのですから、敵が下がれば下がった分だけどこまでも突き進まざるをえません。そうして一度曹操軍を撤退まで追い込んでしまえば、西涼の民にこれだけ望まれているのですから、奪われた城を取り返すのはそう難しい事ではないでしょう」
「ふん、現実に潼関に兵を込め、長安を都と宣言しているじゃない」
詠がすかさずちくりと制した。
「そうなのですよね。せっかく我が軍を好きなだけ誘い込める人質を得たというのに、何故洛陽からさして距離も離れていない長安になど都を置いたのでしょうねぇ? 馬騰が本拠としてきた楡中であればさらに千里以上も離れておりますのに」
「そりゃあ、天子を擁し漢の都とする以上は長安しかないわよ」
かつて同じく長安遷都を企画しただけに、詠は当然という物言いだ。
「はぁ、そういうものですかねぇ?」
「そういうものよ」
心底理解出来ないという顔で、春華が言った。涼州人の漢室に対する複雑な感情に思いが及ばないらしい。
司馬家の人間は漢の忠臣として知られるが、春華からは漢室に対する思い入れのようなものが一切感じられなかった。
華琳も漢室の権威をただ権力として利用してきた人間である。しかしことさら軽んじて見せるのは、漢室の存在を完全に黙殺など出来ないからだろう。漢朝開闢の功臣曹参と夏侯嬰の血を受けているのだ。望む望まざるにかかわらず、漢室を当たり前の存在として常に身近に感じて育ってきている。異邦人ながら幼少期を曹家で過ごした曹仁にしても、漢室に対する忠はなくとも礼は持ち合わせているのだ。
しかしそれを言うなら司馬家も古い家柄で、その血筋は楚漢戦争において高祖と共に項羽と戦った諸王の一人にまでさかのぼる。高祖による中華統一の後、一族は漢室に仕え代々高官を輩出してきた。養子であるから春華自身に血の繋がりはないが、それは長兄以外の他の姉妹も同じだと聞いている。本人の気質によるのだろう。
「そうなると、―――奇襲のために距離を稼げないのなら、距離の代わりに時間を作る。そして襲撃の効率を高める、でしょうか。例えば、どこぞの関所にでも籠もって敵を足止めし、油断している敵に効果的な奇襲を仕掛ける、ですとか」
「―――っ、曹仁、周辺に敵兵はいないのよね?」
「函谷関を抜けてからは、河岸から山の麓までくまなく斥候に走らせている。函谷関からここまでの間に、十人を超えるような集団は見つかっていない」
「なら大丈夫、よね。……蹋頓王。念のため聞くけれど、さすがにあの山は羌族の騎兵でも越えられないわよね?」
詠が崋山を指して問う。
単于の地位を楼班に譲った蹋頓は今は王位を号している。烏桓にとって単于は皇帝の意であるから、漢朝の爵位と同じくその下には王位がくる。
「我らには無理だ。つまり、羌族の者にも無理であろう。同じ馬上に生きる民ではあるが、烏桓の地の方が山岳に富むと聞いている。山越えの馬術では我らが上だろう」
「ふぅ、さすがにそうよね。―――まったく、張奐様の弟子だか何だか知らないけれど、おかしなことを言わないでよね」
詠が安堵の吐息をもらしながらに言う。
張奐は皇甫嵩の伯母の親友であり、皇甫嵩にとっては用兵の師匠筋の一人と言って良い。その皇甫嵩の弟子が詠である。そうでなくても張奐自身が西は涼州から東は幽州まで北の国境全域を転戦し、羌族から匈奴、烏桓、鮮卑と主だった北方異民族全てを下した驍将である。涼州出身の詠には子供の頃からその盛名に馴染みがあるはずだった。張奐の弟子という春華の触れ込みには、思うところがあるのだろう。
「うふふっ、申し訳ありません。私ならそうするというだけの話で、―――あら、なにやら、馬蹄の音が聞こえてまいりましたような」
曹仁は思わず床几から腰を浮かせた。隣で牛金も目を剥いている。
「ちょっと、何よ。二人して司馬懿の話に乗っちゃって」
「春華、耳の方は健在か?」
「ええ。一里先で針が落ちる音も聞き逃しませんわ」
「優さん。隊の指揮に戻って、後方からの襲撃に備えてくれ。連係して潼関からも敵が出てくるかもしれない、凪さんも隊の指揮に付いてくれ」
「はっ」
優と凪が一度直立して駆け去っていく。
「陳矯、騎馬隊にいつでも出れる用意をさせておいてくれ。蹋頓殿も頼む」
「はいっ」
背後に控えていた陳矯に命じた。蹋頓も従者を一人、隊へ走らせている。
「ちょっと、本気なの? 函谷関を抑えているのだから、敵が来れるはずがないじゃない」
「まあ、そのはずなんだけどな」
春華に目をくれると、小さく頷き返された。
「詠は当時の事情を聞いていると思うが、春華は昔、目が見えなくてな。代わりにわずかな音でなんでも聞き分けたものさ。一里先の針の落ちる音、なんてのはさすがに言い過ぎだがな」
「あら、ばれましたか」
春華が悪びれもせず言う。
「だからって、こんな―――」
「―――敵襲ーー!!」
「なっ」
兵の叫び声が、詠の言葉を遮った。
諸将の並ぶ卓の前に駆け込んできて兵が続ける。歩哨が錦の馬旗を捉えたという。
報告を聞く間に曹仁の視界にも馬蹄が立てる砂塵が映り込んできた。錦の馬旗―――鮮やかな錦の飾り布に黒染めで馬の一字―――が遠目にも目を引く。
「優さんはもう隊に戻っているな。―――よし、俺も出る。それに蹋頓殿」
「おう」
「張郃隊で受けて、左右から騎兵で挟む。ほんの数呼吸分だが早く動けたのが良かった。ここで敵の主力―――錦馬超を潰せるかもしれん」
「私も行くっ」
「白蓮さん。じゃあ、白馬義従を率いて俺の騎馬隊に同行してくれ。角、うちの隊の歩兵はいつも通り任せた」
「はっ」
「全軍の指揮は詠。潼関から挟撃の兵が出てくるかもしれない、そっちも注意しておいてくれ」
「……わかったわ」
納得のいかない表情の詠の返答を背中で聞き、曹仁は本隊右翼の騎馬隊の元へ白鵠を走らせた。白蓮と白馬義従三百騎もそれに続く。
「先鋒は私が」
「―――ああ、任せた」
騎馬隊の先頭に付こうとした曹仁に、白蓮が遮るように前へ出た。
自身が十三万の遠征軍の主将であることを思い出し、曹仁は白蓮に前を譲った。弓騎兵の白馬義従は前方に置く方が使い勝手が良くもある。
「……しかしいったい、どこから湧いて出た」
白馬義従三百騎に続く位置に付いて、曹仁は一人ごちた。敵軍の全容が見える距離まで近付いている。一万騎というところか。斥候の兵が見落すはずもない大軍だった。それが、ついさっき曹操軍が進軍して来たばかりの道を駆けてくる。
先頭に馬超がいるのが分かる。顔や具足で判別を付けるよりもずっと早く、一人、浮かび立つように感じられた。
「西涼では恋並みの武名、そう語ったのは照だったな」
反董卓連合との戦では、何度も干戈を交えた。あの時、こちらは照―――張繍と二人掛かりの指揮で二千騎、馬超は三千騎を率いていた。数の上では曹仁達が劣勢だが、二千の内の四百は、今の白騎兵の元となった董卓旗本の精鋭である。戦力ではむしろ優勢と言って良かっただろう。それでも、しばしば追い込まれることがあったのだ。
「ぶつかる」
隣で、陳矯が小さく呟く。
馬超が、そして先頭の数百騎が、ぐぐっとせり出すように前へ出た。
「あれは、洛陽に伴っていたあの五百騎か」
曹操軍十万の囲いの中から弘農王を奪い去った五百騎である。白騎兵にも劣らぬほどの精鋭揃いで、虎豹騎と虎士にぶつかり天子の近衛と混戦を演じながらも、数騎の犠牲にとどめている。
五百騎が優の歩兵部隊にぶつかる。鋭利な刃物が柔らかな肉に突き立つように、何の抵抗も感じさせずすっと歩兵の陣に分け入っていく。一拍遅れて突っ込んだ一万騎が、それをさらに押し広げる。
「これは想像以上だ。―――出るぞ」
優の二万で受けるどころか、馬超の鋭鋒は後に控える沙和隊、張燕隊、そして本隊まで届きかねない。
旗を振らせて蹋頓にも合図を送らせると、曹仁は白鵠を走らせた。
こちらの動きに気付いた一万騎が、即座に下がり始める。見極めも早ければ、転進も速い。だが、届く。張燕隊を尻目に、沙和隊の横を駆け抜け、優の二万の真横に至る。
「―――っ!」
眩い光が、目の前に飛び出した。白銀に輝く馬超の十文字槍だ。
刹那、馬超と目が合った。片手で馬上から身を乗り出すようにして振るわれた槍が、曹仁の首元目掛けて伸びてくる。
「くっ」
曹仁は大きく身を仰け反らせて避けた。
白鵠の脚が止まり、続く一万騎も脚を鈍らせざるを得なかった。白馬義従と一万騎のあるか無きかの隙間を、馬超は強引にこじ開け五百騎ともに眼前を駆け去っていく。
孤立した白蓮の白馬義従も脚を緩める。馬超の五百騎がその横を駆け去って行く。白馬義従からはぱらぱらと矢が飛ぶも、空しく地に落ちた。
視線の先で一万騎も、烏桓の騎射を逃れ狭道の左隅―――河水の岸辺を駆けていた。本来は、曹仁の一万騎が詰めるはずの空間である。馬超の五百騎がそこへ合流していく。
「追撃しますか?」
陳矯が聞いてくる。
「いや、追いつくのは難しいし、何より危険だ。一万がどこからか現れたんだ。この先に二万や三万が伏せていても、不思議はない。―――どこへ向かうのかだけ知りたい。百騎程で後だけ追わせてくれ」
「わかりました」
陳矯が兵に指示を飛ばす。
陳矯はいまだ曹仁の従者だが、兵からは角に次ぐ立場と見られていて、気付けば曹仁もそのように扱っていた。
「それにしても、相変わらず思い切りの良い用兵をするものだ」
一万騎は後退させつつ、馬超自身は優の二万を突っ切って曹仁の頭を抑えに来たのだ。二万を踏破した上で曹仁の前に飛び出したのは、絶妙の機を捉えたものだった。飛び出すのがわずかでも早ければ一万騎で後ろを取れた。遅ければ一万騎に横合いから衝突して、こちらに相応の被害を与えつつも壊滅していただろう。敵陣只中にあってまるで無人の野を行くが如く、融通無碍の用兵ぶりである。
「こんな形で挟撃を阻まれるとは」
「案外、俺の旗が見えたから大将首を狙いに来ただけかもしれないけどな。会心の笑みでも浮かべているかと思えば、しくじったという顔をしていたよ」
「一瞬、曹仁将軍が討たれたかと思いました」
「馬超の槍がもう三寸も長ければ危なかったな」
陳矯と話しながら、本営へと向かった。白蓮も白馬義従を率いて後ろを付いてくる。
「しかし敵兵を物ともしないあの動き。私は呂布殿の赤兎隊を思い出しました」
「恋が赤い兎なら、馬超は、―――やはり馬か」
血に濡れた赤い兎にたとえられた恋の汗血馬二百騎に倣うなら、馬超の騎馬隊から受ける印象はそのまま馬だ。ぶつかる瞬間に五百騎が飛び出す様などは、馬がぐいと首を伸ばすかのようだった。
「すると最後は首一つで食いついてきたことになるか。……嫌な馬だな」
想像して思わずげんなりした曹仁を、陳矯が不思議そうに見つめる。
本営付近では、真桜の工兵部隊が忙しなく動いていた。正面だけだった馬防柵を、後方へ設置する用意を始めているようだ。
「無事だったのね。―――ふんっ、負傷でもしてくれれば、このままボクが指揮を取れたのに」
本営へ着くと、詠が安堵の表情を覗かせた後、いつもの憎まれ口で出迎えてくれた。
他には角と春華だけで、他の将は部隊からまだ戻っていないようだ。
「潼関から兵は出て来なかったみたいだな」
「ええ。開門さえしてくれれば、そのまま城門を確保する算段は立っていたのだけれど」
「やはり詠の読み通り、潼関自体は堅守しつつ、野戦で勝負を挑んでくるか」
「そのようね。ただ戦場は、どうやら河水を渡った先だけではないわね。一万騎もどうやって隠し遂せたのかしら?」
「その件でご報告が」
折りよくやって来た優が口を挟んだ。
「馬の身体、それに兵の足元も濡れておりました。詠殿、この辺りに河水を渡渉出来る場所はありませんか?」
「渡渉? まさか、いくらなんでも。ううん、そうか。雨が少なく、雪もとけない今の季節なら―――」
渭水を含む複数の河川が合流し水量の豊かな流域であるから、渡渉の可能性は端から除外していた。しかし河水は元々、同じく大河の長江とは異なり渡渉点を多く持つ川でもある。
中華北方は南に比べて雨量が少なく、北辺に至ると砂漠地帯も珍しくはない。そのため河水の水量は長江よりも遥かに少なく、加えて黄土を含む大量の土砂を運んでもいるのだ。事実、河水を挟んだ袁紹軍との戦では、両軍ともにほとんど船を用いる必要がなかったのだ。
「なるほど。水量が少ない時期にだけ現れる渡渉点か。この寒い時期によくやるものだ。しかし、さすがの詠も実際に馬で駆け回っている連中の地の利にはかなわないか」
「―――っ、う、うるさいわねっ」
詠が眉をひそめて睨みつけてくる。
用意周到で狡知にも長ける。しかしどこか一つ抜けたところを見せるのが詠だった。
「なんにせよ、お手柄だったな、春華。歩哨より先に敵の接近を聞き分けるとは」
「ふふっ、本当に来てくれて助かりましたわ」
「……ん?」
「やっぱり。いくら耳が良いと言ったって、味方の兵が周囲を動き回る中で、敵の騎馬隊の馬蹄だけ聞き分けるなんて変だと思ったのよ。初陣で、良い度胸してるじゃない」
詠がため息交じりに応じる。
「春華っ!」
「うふふっ、ごめんなさい、あなた」
呆気にとられる曹仁に代わって角が叱りつけると、春華は何故か嬉しそうに微笑んだ。