「―――母様!」
「なんだ、騒々しい」
寝室に、翠が駆け込んできた。
「倒れたって、廉士に聞いたよ」
「あいつめ、黙っていろと言ったものを」
「廉士の目を盗んで、兵に混じって駆け回ったらしいじゃないか」
「目を盗んでとは人聞きの悪い。いずれ長安郊外での決戦は避けられない。大将軍である私が、実際に動いて戦場の検分をしておくのは当然であろう」
馬騰は長安に建てた漢王朝より大将軍の地位を与えられていた。かつて天子の外戚に与えられた将軍とは名ばかりの権力の椅子ではなく、洛陽の王朝を打倒する戦を担う本来の意味での将軍位である。
大将軍旗下の兵として、長安には三万騎を詰めていた。馬騰軍の二万と韓遂軍の一万である。軍への志願者は後を絶たず、他に新兵だけで五千近くも集まっている。
「まさか、戦に出るつもりなのか」
「何を今さら。洛陽で曹操を襲撃し、陛下をこの手で御救いしたことを忘れたか?」
「あの後も数日寝込んだじゃないかっ」
自分の命令には忠実な廉士が翠に口を割ったのは、娘からの制止で馬騰が大人しくなることを期待してだろう。
「―――あまり藍を責めないでやってくれ、孟起殿」
「―――っ、居たのか、韓遂っ、……殿」
翠が身を仰け反らせた。
寝台に寄り添う韓遂の存在に気が付いていなかったようだ。天蓋の影に隠れて、翠からはちょうど見え難い位置ではある。馬騰が、韓遂に目配せをしてあえて会話に割り込ませたことにも当然気付いていない。
「ふふっ、そう固くならず、気軽に伯母上と呼んでくれて良いのだぞ」
「誰がっ―――」
「―――翠、私なら平気だから、早く軍へ戻れ。渭水の流域を、警戒中のはずであろう」
怒号し掛けた翠を馬騰は視線と言葉で制した。
―――韓遂を生涯の敵と思い定めているのなら、その宿敵の前でそうも簡単に感情を曝け出してどうする。韓遂は、言葉一つで容易くお前の思考を誘導するぞ。
教訓の一つも垂れたくなるが、韓遂の手前それは出来ない。
「むむむ」
「何がむむむだ。私を労わる気持ちがあるのなら、いらぬ苦労をかけるな」
「でも……」
「本当に、気分は悪くないのだ。心配するな」
嘘ではなかった。
病を得てから絶えず続いていた不快感が晴れ、気分は爽快と言っても良いくらいである。ただ身体を蝕む病魔が去ったわけではなく、どころか確実に進行しているらしかった。結果、気が向くままに無理をし過ぎた。翠や廉士に言われなくても、しばらくは大人しくしているつもりだった。戦本番を前に力尽きてしまっては本末転倒というものだ。
「……わかったよ」
翠が肩を落とし、とぼとぼと部屋を出て行った。
優しい言葉の一つもかけ、頭の一つも撫でてやりたくなるが、ぐっとこらえた。それをすれば翠の心はすっと晴れ、多少なり覚えた今日の気後れや反省などすっぱりと忘れてしまうだろう。
手のかかる子ほど可愛いと言うが、その通りだった。
いずれ自分を継ぐという立場があるから、甘やかして育ててはこなかった。しかし従妹の蒲公英と比べると思慮に欠く性格に育った。蒲公英にも軽率なところはあるが、自重さえ覚えれば一端の為政者にもなれるだろう。翠が政を為す姿は、馬騰には想像が付かない。
しかし、駄目な子だが、戦場での才能は自分の全てを受け継いでいる。いや、自分以上の天稟を持っていた。
あえて欠点を上げるなら、先刻も韓遂の姿が目に入らなかったように、戦場でも一つのことに捉われ過ぎて周りが見えなくなる瞬間があることだった。しかし危地を察する嗅覚自体は抜群に優れている上、少々の障害など食い破る力を持っているから、これまで窮地に追い込まれたことはない。
「ははっ、相変わらず嫌われたものだな」
韓遂が笑みをこぼした。
翠は、韓遂が当然の顔で連合軍第二位の地位に付き、馬騰に対しても対等の義姉妹という態度を改めない事に不満を鬱積させている。翠ほどあからさまに表には出さないが、蒲公英や廉士も良い気分ではいないだろう。
翠らには明かしていないが、馬騰に入朝を勧め、天子の奪取と長安遷都、あわよくば曹操の殺害までをほのめかしたのは他ならぬ韓遂であった。実際の計画は全て馬騰が進め、そこに韓遂は一切の関与もしていないが、初めに長安遷都を口にしたのは確かに韓遂であった。
韓遂の命で馬騰が動いたわけではないし、韓遂の献策を馬騰が容れたというのも違う。謀士として知られる韓遂では、曹操の警戒心を煽り為し得ないことであり、それを代わりに馬騰がやったと言うだけの話だ。やはり関係としては対等が相応しく、公の立場としては実際に功を上げた馬騰が上、韓遂が下に立ったというだけだ。
それは叛をけしかけながらも決して矢面に立とうとはしない韓遂のいつもの手口であり、馬騰がそれに乗せられたとも乗ってやったとも言える。
今、長安に馬騰は二万、韓遂は一万の兵を入れているが、馬騰軍は他に翠が一万騎を率いて前線へ出ている。韓遂は全軍で一万騎である。
西涼の両雄と並び称されるが、馬騰が西涼連合最大の三万騎を有するのに対して、韓遂は一万騎を従えるのみだった。兵力で言えば他の軍閥と変わりない。二人に次ぐ第三の軍閥と目される成宜などは、単純な保有兵力で言えば韓遂よりも上だろう。しかし西涼に叛の気運が高まり、軍閥同士で手を結ぶような事態となると、決まっていくつかの勢力が韓遂の配下としか思えないような動きをする。今回の連合では馬玩、梁興、楊秋辺りが韓遂の下に付いていた。韓遂の手勢と三軍閥の兵力を合わせると、馬騰の兵力三万に匹敵する。韓遂に従うのは常に同じ軍閥というわけではなく、それぞれに敵対と協調を繰り返しながらも、ここぞという時には必ず韓遂を頭に抱く第二の勢力が形成されていた。
韓遂は馬騰よりも十歳ばかりも年長だが、馬騰軍が小勢力であった頃から西涼第二の軍閥の長として存在していた。当時は北宮伯玉、辺章、王国など言った者達が最大勢力であり、韓遂と共に漢朝への叛乱を試みた彼らは、ある者は官軍に討たれ、ある者は韓遂の裏切りによって滅ぼされている。しかし、決して韓遂自身が第一の地位に取って代わることはなかったのだ。
自らは叛乱の矢面に立たず、最大限の実権は握る。そして首をすげ替えることも辞さない。それが韓遂という女だった。
「しかし、賈駆をこちらへ引き込めなかったのは痛かったな」
韓遂が、話題を翠の入室前へ戻した。
曹操軍が攻城を開始すると、潼関はわずか一日で落とされていた。ほとんど断崖に近い崋山を踏破し、城壁の上へ敵軍が奇襲を掛けたという。関の構造を熟知した手際は、賈駆の立案であろう。
「何度か言葉を交わす機会はあったのだが、歯牙にも掛けないという態度でな。まあ、西涼にいた頃はこちらが董卓の召集を無視していたわけだし、それも仕方あるまい」
軍閥化した豪族達をまとめ上げようと手を尽くす董卓と腹心の賈駆に、当時の馬騰達は面会すらも拒み続けていた。だから互いに西涼で名を成していながら、馬騰が賈駆の顔を知ったのは洛陽の朝廷においてである。賈駆の方は、皇甫嵩の幕僚として戦を覚えたというから、馬騰の顔ぐらいは元より知っていたかもしれない。皇甫嵩とは、何度も戦で対峙していた。
「曹操に討たれた董卓の腹心で、西涼の生まれ。長安遷都を最初に企画した謀略の士。こちらに靡いてもおかしくはなかったのだが」
「あの戦では、私も翠を連合側に派遣しているからな。我ら二人が応じなかったが故に、董卓は西涼を一つにまとめ得なかったというところもあるし」
「曹操以上に我らが憎いか」
馬騰は無言で頷き返した。
「その曹操だが、潼関を落としたというのに、なかなか本隊は姿を現さないな」
これ以上追及しても詮無い事と、韓遂が話題を切り替えた。
「袁紹軍との戦の最中に、孫策と劉備が呼応したことがよほど応えたのだろう。正直、あそこから曹操が巻き返せるとは私にも思えなかった」
「孫策や劉備が此度も起ってくれていると助かるのだがな」
人の行き来を規制し、情報を遮断しているから、こちらからも曹操領の状況は掴み切れていない。
「少なくとも曹操が洛陽を動かぬうちは、様子見であろう。しかし、我らで一度でも曹操軍をはね返せば」
そうすれば、間違いなく今は傍観を決め込んでいる勢力も動く。長安の王朝に帰順とまではいかずとも、かつての反董卓連合のように反曹という形でなら結び付ける。そしてその中心に立つのは、東の天子を擁する曹操に対して、西の天子を擁する西涼軍であった。
「―――藍様、お入りしても良いでしょうか」
室外から声が掛かった。廉士の声である。
「……嫌われ者は退散するとしよう」
ちらと視線をやると、韓遂が腰を上げた。
詠の策に従って事を進めると、潼関はあっさりと奪取出来た。
張燕率いる元黒山族の二千が夜襲を掛けると、城壁に身を寄せた敵兵の抵抗は弱々しかった。長矛や弓を交錯させる籠城戦には慣れていても、本来は騎兵である。歩兵同士でのまともなぶつかり合いには不慣れな様子であったという。
敵兵を城壁から追い落すと、真桜の工兵隊がその日のうちに西側から壁面を伝う階段を崩し、二日後には東からの階段を完成させて見せた。
潼関を落としはしたものの、戦況が大きく変わったわけではない。依然として城壁を隔てて両軍が睨み合いを続けていた。城門を開けた瞬間に、敵軍は間違いなく襲いかかってくるだろう。潼関を確保し攻守の決定権を得た形だが、関を抜けて攻勢に転じるには一時寡兵で敵軍と当たらねばならない。華琳から腰を据えた戦をするように言われていることもあって、しばしの様子見である。
「今日は、錦馬超がいないわね」
曹仁の隣へ来て詠が言った。
城壁上から望む敵軍は、今日も五万の騎馬隊を揃えている。野戦ならいつでも受けて立つとばかりに、馬防柵の類を設けることもなく、前衛の二万は終始騎乗のまま鼻先をこちらへ向けている。後方の三万はさすがに馬を降りているが、馬だけ兵だけを一つ所にまとめることはなく、兵馬一対での待機だった。馬を日常の足代わりに生きる騎馬民族の備えなのか、漢族の陣とは異なる様相である。
敵陣に立つ旗は日によって異なるが、兵力はおおよそ五万で一致していた。旗と兵力を照合すると、七万の兵が交代で潼関前に詰めている計算となる。この場に姿の無い二万は、潼関から長安までの間を索敵しつつ駆け回っているのだろう。適度に走らせねば馬の脚が萎えてしまうし、曹操軍が渭水を渡河して長安を攻める、あるいは軍の背後を突く可能性を考慮しているはずだ。
「華琳様からはまだ何も?」
「ああ」
潼関を落としたことは、洛陽にも使者を送って知らせていた。潼関から洛陽まで五百里(250キロ)、往復で一千里であるから、早馬を飛ばせば五日もあれば書簡のやり取りは可能である。華琳からは、追って指示を与えるまではやはり潼関に腰を据えていろと返書があった。それからすでに二十日近くが経過しているが、華琳からの新たな指令はない。
その間にやったことと言えば、何度か城門をわずかに開き、敵が寄せたところで城壁上から矢を降り注ぐ、というだけだ。与えられた損害は微々たるもので、今や容易く誘いには乗ってこなくなった。この十日余りはただ睨み合いだけが続いている。
「馬超がいない今日は、攻め時ではあるんだがな」
陣中に錦の旗が無い日は、敵陣から放たれる気組みがいくらかぼやけて感じられた。
馬超がいるといないとで、軍の格そのものが違って感じられる。異なる軍閥の集合体である西涼軍は、烏合とは言わないまでもどこか纏まりに欠ける。しかし錦の旗が一つ立つと、それだけで一本芯が通るようだった。戦場における求心力は桁外れで、確かに恋にも匹敵するものがある。
「そうね。後衛で待機する兵も、馬超がいる時はもう少し動きがきびきびしている気がするわ。炊煙も今日みたいにばらばらにではなく、一斉に上がるし」
曹仁が何となく感じたものを、軍師の詠は理ではっきりと捉えていた。
「普通に話す分には、ただの可愛らしい女の子にしか見えないのにな。まあ、それを言ったら恋も同じか」
「戦場での姿を知っていて、それでも恋や馬超を可愛らしいと言えてしまうのは、華琳様や幸蘭、春蘭に囲まれて育ったあんたに限った話だと思うわよ」
「そうか? 恋や春姉の可愛さなんて、万人向けだろう?」
容姿はともかく華琳と幸蘭の性格が一般的な可愛さの範疇に含まれ難いことは、曹仁も理解している。
「人懐こい虎を可愛いと思うか怖いと思うかは人それぞれよね」
「虎か。まあ猫科だし可愛いよな。子供の虎なんて、頭と手足が大きくて人形みたいだし」
「……まあ良いわ」
詠はため息交じりに呟く。
性格も見目も文句なしに可愛らしい月と幼馴染だけあって、詠の評価は厳しいようだ。
「それにしても、ボクがいた頃には、馬超は馬騰の後継者としては物足りない、西涼の盟主足り得ないって評判を良く聞いたものだけれど。軍を率いるとまったくの別人ね」
「へえ、そんなふうに言われていたのか。まあ、恋や春姉寄りの人間だからなぁ。今回の首謀者である馬騰や、それ以上に悪知恵が働くという韓遂と比べると、物足りなさを感じるのも分からなくはないか」
「今回の蜂起、西涼の独立を保つというのが第一の目的でしょうけど。もう一つ、馬騰は自分が健在なうちに、西涼の連合軍を馬超に率いさせたかったのかもしれないわね。戦場での馬超を知れば、その下に付くことに不満を抱く者は少ないでしょう」
「確かにな。敵ながら、実に華がある。不在の今日は敵陣が萎れて見えるほどだ」
眼下からは、ぽつぽつと炊煙が上がっては消えていた。
翌日、ようやく華琳からの指示が届いた。
城壁の上に建てられた望楼を仮の軍議の間とし、曹仁は諸将を呼び寄せた。
「華琳様はなんて?」
「それが、良く分からないのだけどな」
詠に指令書を手渡す。
「これだけ? 確かに何をするつもりなのかさっぱりね」
書簡には、出撃の用意をして期日を待てとだけ書かれていた。
詠と同じく参謀の春華、副官の角、白蓮、そして諸将へと書簡が回し読まれていく。
「期日とされているのは二日後ね。いったい何を待てというのかしら? まったく、不親切な指示をするわね」
詠がぼやく。
「この文末の記号のようなものにも、何か意味があるのでしょうか? 何でしょう、この歪んだ逆三角形のようなものは?」
優が、しげしげと書面を見つめながら言った。
「いや、それは」
「何か心当たりが?」
口ごもる曹仁を、詠が見咎める。
「……ハートマークと言って。その、俺の世界で、心臓を意味する記号だよ」
「あんたの世界、というと天の国の記号? ……心臓ねぇ。この戦の要となる作戦、とでも言いたいのかしらね?」
「……まあ、そんなところなんじゃないか?」
言葉を濁す曹仁に、皆が胡乱な眼を向ける。
視線を逸らして眺め下した敵陣には、今日は錦の馬旗が靡いている。前衛でなく後方待機の三万の中だが、やはり最も目を引いた。
二日後、出陣の用意をして“何か”を待った。
城門前にはまず曹仁の騎馬隊、次いで蹋頓の烏桓兵を並べている。城壁の上には沙和の隊から弓が得意な者を選んで詰めさせていて、これはいつも通りの布陣である。敵陣からは特に昨日までと変わったところは見受けられないはずだ。
当初、潼関までの行軍時と同じく凪の重装歩兵を先頭に、曹仁の歩兵部隊、真桜の工兵隊という並びを計画していた。重装歩兵で一時敵の騎馬隊を受け止め、その間に曹仁隊と工兵隊が協力して馬防柵を設置し陣営を築く構えである。騎馬隊を先頭へ置く布陣へ変更したのは、春華の献策があったためだ。今回の遠征が二段構えとなったのは春華の発案を華琳が容れたためで、これから起こることも恐らく彼女は把握している。
「さてと、何が起こるのか」
曹仁は望楼に登って、関の前後へ視線を落とす。
第二陣が到着するか、伝令でも届くなら後方―――函谷関側からとなる。しかし思わせぶりな指令は、前方―――敵陣での異変をも予感させる。春華の視線も前方に定まっており、後方を気にした素振りもない。
異変に気付いたのは、ちょうど日が中天に差し掛かろうという頃合いだった。
「……何だ?」
前方向かって左側―――潼関南壁から連なる崋山の稜線の端から何かが覗いた。兵も騒ぎ始める。敵前衛の旗が、一瞬大きく揺らいだ。それが旗手の、いや敵兵全員の動揺を示していた。
「ええっ、どうして!?」
ようやく気付いた詠が叫ぶ。にわかにはその光景を信じ難いようで、眼鏡を上げたり下げたりして何度も見返している。
曹の牙門旗を掲げた騎馬隊が、姿を現していた。
「すぐに出る! 騎馬隊が出た後は凪さんの重装歩兵から順に出て、城門前を確保っ」
曹仁は叫ぶように指示を飛ばしながら、階段を駆け下りた。下から五段を残したところで、階段横に付けた白鵠に跳び乗る。
城門の向こうでは、西涼軍五万騎に対して華琳と霞の三万騎である。奇襲で優位に立つとはいえ、敵の立ち直りが早ければ不利な状況に陥りかねない。
城壁を下り際にちらと探った敵陣では、すでに錦の馬旗の周りに兵が集結しつつあった。馬超とあの五百騎に関しては、騎乗するや即戦闘も難なくこなすだろう。
「開門っ!」
開かれた門扉の狭間を、膝を掠らせるようにして潜り抜けた。白騎兵が続く。
敵陣。城門へ向けて整然と並んでいた馬の鼻先が、乱れている。中にはこちらへ尻を向けている兵もあった。
潼関から西は西涼軍の支配地であり、関の正面に布陣し、渭水からの敵の上陸には警戒網を張っているはずだ。現れるはずの無い敵軍が湧いて出たとしか思えないのだろう。河水を渡渉しこちらの思考の死角を衝いた馬超に対して、今度は曹操軍がやり返す格好だった。
突っ込むと、大した抵抗もなく敵陣が割れた。混戦を避けようとするのは、騎馬隊の本能的な動きと言っても良い。
二万の前衛を抜けると、空隙があった。その先に、騎馬の群れ。三万騎は、すでに曹の牙門騎を目指して駆け出していた。
迎撃の陣を布いていた前衛と違い、待機を命じられていた後方の兵は襲撃の混乱の中でとっさに頼るべき者―――馬超に従ったということか。馬と馬の間隔はばらばらで、足並みはお世辞にも揃っているとは言えないが、三万騎である。それだけでも華琳と霞の騎馬隊とは同数であった。
三万の最後尾には、すぐに追いついた。満足に隊列も組めていないから、互いが障害となって折角の西涼の良馬も脚を活かしきれていない。
五百騎の錦の馬旗はずっと先行している。少し遅れて馬騰軍の一万騎、大きく放されて他の西涼軍閥の二万騎だった。
二万は、迂回しようにも大きく膨れすぎている。蹴散らしながら進んだ。
疾風のような白鵠の脚をしてもどかしかった。遅れていた曹仁隊の一万騎も追い付いてくる。
紺碧の張旗と錦の馬旗が交錯するのが見えた。張旗が、わずかに進路を逸らされた。馬旗は真っ直ぐ突き進んでいく。進む先は、曹の牙門旗だ。
「―――っ、華琳っ!」
先日自らが狙われた時以上の怖気が、背筋を走る。思わず視線を逸らしたくなるような光景を、曹仁はかっと目を見開いて見据えた。
「――――?」
ぶつかる直前、錦の馬旗がくるりと進路を変えた。左へ折れ、少し駆けたところで止まる。馬騰軍の一万騎がそこへ集結した。曹仁隊に後方から追い撃たれる二万騎もそちらへ向かい始める。
戦場に睨みを効かせるような錦の馬旗に、曹仁は追撃を切り上げた。同じく軍を止めた曹の牙門旗と錦の馬旗の間を遮る位置に曹仁隊一万騎を並べる。城門前の敵兵は、曹仁隊に縦断されたところを霞の二万騎と蹋頓の二万騎に挟まれ、すでに潰走に入っていた。
馬超は二万騎が合流を果たすと、まずその二万から後退させ、馬騰軍一万騎を下げ、自らは五百騎でしばし戦場に留まると悠然と駆け去った。
結果を見れば、大勝と言えた。曹仁隊だけで二千騎近くを討ち取り、霞と蹋頓の挟撃はそれ以上の戦果を上げているだろう。
「華琳っ、無事か?」
「ええ」
曹仁は曹の牙門旗の元へ白鵠を走らせた。季衣と流流を隣に侍らせた華琳は、曹仁の心配などどこ吹く風とけろりとした表情だ。
「さっきのは?」
「どうせ馬超は先頭を来るでしょうから、こちらも虎豹騎に連環馬の具足を付けさせて前を走らせていたのよ」
「ああ、あれか」
「真っ直ぐ向かって来てくれたなら捕えられたのだけれど、貴方よりも鼻が利くわね」
反董卓連合の戦場で相対した曹仁に、華琳が用いた手だった。曹仁は見事にはまり、騎馬隊の動きを封じられている。
「戦勘なら恋並み、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない」
「あの呂布も最後は罠でからめ捕れたけれど、馬超はどうかしらね」
華琳は思案顔で呟く。出来れば殺さず捕らえたいのだろう。
「それで? いったいどこから現れたんだ?」
曹の牙門旗を目にした瞬間からの疑問を、曹仁は口にした。
「それは―――、いえ、その前に、ふふっ」
華琳は思わせぶりに言葉を切ると、微笑んだ。
「貴方に会いたがっている子がいるから、先に引き合せましょう」
「―――っ」
手振りで促された視線の先には、曹の牙門旗以上に意外な人物が立っていた。