「黄祖さん」
「……ん」
起こすつもりはなかったが、小さく囁いた声に反応して黄祖が目蓋を開いた。
「おお、劉備殿か。それに、厳顔殿のところにいた魏延殿だな。見舞いに来てくれたのか、ありがたい」
病を得たという話は江陵にも届いていたが、久しぶりに見た黄祖はすでに隠しようもなく死の匂いを身に纏っていた。
軍営の一室である。
太守を務めていた江夏郡の夏口には屋敷もあったのだろうが、樊城に移ってからはずっと軍営暮らしらしい。身の回りのことは従者に任せ、同じく荊州軍で将を務める息子の黄射にも任地を動かないよう厳命を下しているという。
「一度、襄陽でしっかりと休息を取られた方が良いんじゃないですか?」
樊城は戦のための要塞で、病人が暮らすには如何にも不向きだった。黄祖が横たわる寝台も兵達が使う物と大差ない。
「孫堅を討った時に始まった、武人としての生を全うしたいのです」
黄祖はそれだけ言って目をつぶり、いつしか再び眠りに落ちていった。
「わざわざ江陵からお越し頂き、ありがとうございます」
部屋を出ると、入り口の脇に立っていた黄忠が静かに頭を下げた。今は樊城で黄祖の副官をしている。
「ちょうどこちらに来る用事もありましたから。一度一緒に戦っただけの私に見舞われても、黄祖さんは迷惑だったかもしれませんけれど」
「いいえ。長く独りで夏口を守り続けた方ですから、黄祖殿にとって戦友と呼べるような者は多くはありません。劉備様は間違いなくその御一人です」
「そうですか、なら良かった」
ほっと一息ついた桃香を見て、黄忠がゆったりと微笑む。
「……それで、用というのは西涼からの勅書のことですわね?」
「はい。襄陽の宮殿には、先に朱里ちゃん達に行ってもらっています」
朱里、雛里、星、焔耶を伴って、勅書―――今は天子を名乗るかつての弘農王により発せられた―――に揺れる襄陽へと赴いた。兵は二百騎を率いるのみで、愛紗と鈴々には江陵で兵をまとめてもらっている。
襄陽へ着くと、桃香は漢水を越えて樊城と行き来する連絡船に乗せてもらった。病が篤いと江陵にまで聞こえている黄祖の見舞いである。あまり大勢で押しかけるのも気が引け、焔耶だけを護衛として伴っている。
「劉備様は、やはり荊州に反曹の軍を挙げて欲しいのでしょう?」
「はい、劉備軍としては。私自身は、自分でも気持ちをまだ決めかねています」
桃香は一度頭を振った。
「姉妹を引き裂くような西涼軍のやり方は好きじゃないし、今の天子様のことは嫌いじゃないから。でも、華琳さんを倒す最後の機会になるのかもしれない」
曹仁を主将として西涼への遠征軍が出陣していた。十三万の大軍ではあるが第一陣と称していて、第二陣の本隊を自ら率いると華琳は公言している。朱里と雛里は華琳の不在を衝き洛陽に攻め上るべきと考えていて、今頃は荊州首脳陣の説得に掛かっていることだろう。桃香はそれを止めはしなかった。
洛陽のある河南尹と荊州とは境を接している。間に河水の支流洛水や山々が存在し難路が続くが、その分洛陽まで曹操軍の拠点らしい拠点はなかった。朱里と雛里は洛陽攻めに十分な成算をもっているようだった。
「桔梗から文をもらいましたが、襄陽の文官達は別の心配に忙しい様ですわね」
「別の?」
襄陽には立ち寄っただけですぐに連絡船に飛び乗ってしまったから、宮中で交わされる議論の趨勢などは桃香の耳に入っていない。
「勅に乗じ、洛陽の天子を討つという大義名分を掲げた孫策が、進軍路に当たる我らに攻め込んでくるのではないかと」
「そんな話に」
「ええ。桔梗などは、守ることばかり考えた文官達の弱腰にだいぶ鬱憤が溜まっているようですわ」
「ああ、桔梗様ならそれはそうでしょうね」
黄忠が苦笑を浮かべ、焔耶が首肯を返す。
焔耶にとって厳顔は、かつての上官である。一兵卒の頃から目を掛けられ副官になるまで鍛え上げられたというから、単に上官と部下というよりも師匠と弟子と言う方が近い。
「―――さてと、そろそろ船の時間ですわね」
しばしの歓談の後、黄忠に促されて船着き場へ向かった。今度は樊城から出る連絡船に乗せてもらい、桃香達は襄陽へ取って返す。
連絡船は片舷三艪の合計六艪で、艪主が六人乗り込むと他に四、五人で満杯となる。その分だけ船足は速く、見る間に対岸の襄陽城が近付いてくる。
襄陽と樊城は漢水を挟んだ南北に位置し、それぞれ城郭の北壁と南壁の一部が船着き場となっている。船で兵や物資を送り合うことで、互いが互いを支え合う堅城である。
船着き場には、兵が五百人も乗せられる大型の艦がそれぞれに十数隻も並んでいる。それより一回り小さい中型船は二十艘余り、伝令や斥候用の艀や、蒙衝と呼ばれる船首に杭の付いた攻撃用の小型船はそれ以上にあった。
劉表陣営にとって要の地とは言え、過剰とも思える軍備である。孫策軍との船戦を避けて長江を遊弋させていた船隊を引き上げた―――その過程で一部は孫策軍に撃沈されているが―――ためである。長江北岸に位置する江陵もかつては水軍基地であったが、今では中型船数艘を残すのみだった。
「桃香様、お手を」
襄陽へ着くと、焔耶の手を借りて連絡船を降りた。
城内は騒然としている。文官達が始終交わす論争が漏れ伝わるらしく、住民達は不安を口にし合っていた。
「劉備様、曹操と孫策が攻めてくるというのは、本当なのでしょうか?」
宮殿へ着くと、顔馴染みの門番までが不安を漏らした。さすがに情報が錯綜しているようで、華琳の名まで口にする。
「いやぁ、どうだろう?」
桃香は曖昧に返して、宮中に足を踏み入れた。
「―――桃香様」
議論を中座してきたらしい朱里と雛里が、小走りで桃香を出迎えた。ひどく慌てた様子である。
「どうしたの、二人とも」
「状況が変わりました」
二人が事態を説明する。
華琳から劉表に、荊州北部を進軍するという連絡が入っていた。
それは本当に連絡としか言いようのないもので、天子の名を借りた勅命でも、武力を背景に降伏を迫る文面でもないという。
曰く、天子の勅命により西涼の叛徒鎮圧の軍を発する。華琳率いる第二陣は、南方へ迂回して武関を抜ける路を行く。進軍に際しては漢の高祖の戦勝にあやかり、その経路をなぞる。以上の事、荊州刺史劉表に事前に通達する。
文面上はそれだけで、ひどく事務的な書簡だったという。
「高祖様の進軍路と言うと―――」
「荊州は南陽郡の宛を落とし、郡内を広く転戦した後、北上して武関を抜いています」
「……だから門番の人達、華琳さんが攻めてくるだなんて言っていたのか」
南陽は当然劉表支配下の郡であるし、なにより南陽郡と南郡の境界に位置するのが本拠であるこの地、襄陽である。漢水を挟んだ対岸の樊城は南陽郡に属するのだ。つまりは襄陽の眼前まで曹操軍が迫るということだった。
漢朝の正常な統治下にあってはただの連絡事項も、群雄割拠の現状においては立派な脅し文句である。
「洛陽への侵攻か静観か、ではなく曹操軍への抗戦か降伏か、に議論は移っています。そして、すでに大勢は曹操さんへの降伏に傾いています。厳顔さんをはじめ抗戦を訴える武官も残ってはいますが」
武官の中ではまだしも重きを置かれている黄祖が樊城から動かずにいるし、文官の意見を覆すのは難しいのだろう。
「う~ん。……とりあえず曹操軍に関しては、放っておけばいいんじゃないかなぁ? 華琳さんのことだから、こちらが何も行動を起こさなければ、多分本当に文面通りただ通り過ぎてくれるよ」
朱里と雛里がはっとした表情を浮かべ、しばし黙り込んだ。
「……降伏か抗戦かという選択に捉われて、その可能性を見落としていました。確かに西涼と交戦中の今、曹操さんが荊州とあえてことを構えたいとは思えません。―――曹操さんのことだから、自分にも他人にもあえて苛烈な選択を迫ってもおかしくない。そんな印象に引きずられ過ぎていたね、雛里ちゃん」
自分達の考えを確認し合うように、朱里と雛里が交互に語る。
「降伏してくれれば、労せずして後顧の憂いの一つを取り除くことが出来る。仮に抗戦となっても、あの曹操軍を相手に野戦で迎え撃つなど今の荊州軍にはあり得ない。籠城する荊州軍をよそに、宣告通り軍を北上させてしまえば良い」
「つまり荊州軍が抗戦を選ぼうと、実質は曹操軍の進軍を黙認するのと同じ。あれは、降伏か抗戦かではなく、降伏か黙認かを迫る書簡ということ。荊州軍が勝手に動揺し、降伏してくれるならこれ幸いと貰い受け、仮に抗戦を選んだとしてもこれを放置し軍を進め、武関を抜けて西涼軍の意表を衝くという利はなおも残る」
「じゃあ私達がすることは、まずは黙って曹操軍をやり過ごし、華琳さんが関中に入ってから改めて洛陽攻めの軍を発する。あるいはいっそ文官達は捨て置き抗戦派の武官を糾合して野戦を仕掛け、荊州を戦場に華琳さんとの決戦に挑む。そのどちらか、―――でしょうか?」
雛里がそこで、伺いを立てるように桃香を見た。
「さすがに勝手に荊州軍を動かしちゃうのは、お世話になっている劉表さんに悪いかな」
「それでは、まずは何としても降伏という意見を覆すことですね。―――桃香様、軍議の間に参りましょう」
朱里は勢い込んで言うと、踵を返した。
「そういえば、星ちゃんは?」
軍議の間へ向かう道すがら、二人の護衛に付けた星の姿が見えないことに気付いた。
「……星さんには兵を何人か連れて民の様子を見に行ってもらっています。噂が広まれば、暴動なども起きかねませんから」
わずかな間を置いて雛里が答える。他にも事情がありそうだが、それ以上問い詰めることはしなかった。
軍議の間に籠もる日々が、数日続いた。
朱里達の意気込みとは裏腹に、議論は曹操軍に降伏という方向で収束へ向かいつつあった。朱里と雛里が説き伏せようにも、以前一度散々に言い負かされた文官達は初めから対話を拒絶していた。二人が口を開きかける度、降伏を主導する蔡瑁らは客将という立場を持ち出して発言を封じるのだ。
劉表がいればこうも露骨に二人の意見が封殺されることもなかっただろうが、間の悪いことに黄祖と時を同じくして病に臥せっていた。
それでも城に籠っていれば曹操軍は攻め掛けては来ない、ということだけは伝えたが、一笑に付された。華琳と言う人間を知らなければ理解出来ないのも無理はなく、また曹操軍を相手に静観を決め込む胆力は荊州の文官達にはない。
「劉琦さんを連れて来るべきでした」
朱里がこぼす。
劉表の長子である劉琦は朱里や雛里とは同年代であるが、二人の学識にすっかり心酔し、今や門弟が如く付き従っている。学問好きで聡明でもあるが、生来の病弱で気も弱く、舌戦などには向かない人間だ。それでも、朱里達を取り成すことは出来ただろう。
父の見舞いも兼ねて劉琦も襄陽へ来たがったが、朱里達が説得して留守を頼んでいる。劉表が病に伏せる以上、蔡瑁が強引に劉琦の排除に動きかねない。劉表の跡目は劉琦でなければ次子の劉琮で、蔡瑁は劉琮の外戚に当たるのだ。敵地である襄陽城内で劉琦を守りきれるという保証がなかった。
その劉琦を伴えば良かったと朱里が後悔する程に、議論は抗戦派が押されていた。さすがに発言を封じられては朱里と雛里にも為す術なく、このまま降伏ということで決定が下されるかに思えた。
しかしこの日、宮中が騒然とした。
一つに、国境から曹操軍が荊州内に侵攻したという報告が入った。十万を超える大軍で、民も兵も城に籠もって難を逃れているという。今のところ曹操軍は南進するのみで、城攻めの報告はない。書簡にあった通り、確かにただの行軍である。伝令の情報から蔡瑁らは襄陽に至るのは八日から十日後と予測しているが、曹操軍の通常の行軍なら五日後には姿を現すだろう。
そしてもう一つ、城外に総勢二万余りの兵が集結し、戦支度を整え駐屯を始めた。厳顔ら抗戦派の将軍達が、任地より兵を呼び集めたのだ。これが蔡瑁らには相当な圧力となったようで、声高だった降伏派の主張は勢いを失い、決定は先延ばしとなった。
翌日、城内にさらなる衝撃が走った。
襄陽に荊州北部全域から十数万の民が集結していた。しかもさらに続々と人は集まり続けている。
非常の事態に城門が閉ざされたため、締め出された民は城壁の周りを囲む格好となった。民は口々に反曹操を叫んでおり、城内にもその声は響いてきた。
襄陽城内の喧騒を思えば、周囲の城邑や村にも事態が伝わっていても不思議はない。しかしそれにしても、十数万の民が自発的かつ同時期に集結するものだろうか。
荊州北部に曹操軍の統治を嫌った人間が多く集まっているのは事実としてある。長江に隔てられた江南や要害に囲まれた益州、異国と言う印象すらある西涼を避けると、華琳の支配の及ばぬ地は他にないのだ。江陵にも毎日十数人が劉備軍への参加を訴えて押しかけて来ていて、厳しい選抜と調練を経てなお、徐州での敗戦で失った兵力を補い増員にまで至っていた。単に移住を求める民だけならその十倍にも及ぶ。
だから下地として反曹の声を上げる民が多いのは分かるが、それでも違和感は拭いきれずに残る。
「……朱里ちゃん、雛里ちゃん、何かした? そういえば星ちゃんがずっと戻っていないけど」
「……すいません、勝手に」
二人は顔を見合わせると、代表して朱里が謝罪を口にした。
「ううん、良いよ。必要な事なんだよね?」
「はい」
扇動する者が混じるとなれば、合点が行く話だった。二人と星のことだから、当然劉備軍は表に出ることなく、あくまで民の自発的な運動としか見えない形を取っているのだろう。
民の声でもって文官達に翻意を促すのか、それとも別の意図があるのか。二人が語らない以上、桃香も問い質しはしなかった。聞けば、顔にも行動にも出る。
「しっかし、二人はずいぶん強くなっちゃったなぁ。はわあわしてる姿をしばらく見てない気がするよ」
「はわわ」
「あわわ」
特に含むところのない発言を二人は皮肉と取ったようで、久しぶりにお決まりの台詞を口にした。
その日の議論は、民草の後押しを受けて抗戦派の勢いが盛り返し始めた。それでもやはり、降伏派の意見を覆すまでには至らず、その日の軍議は解散となった。
翌日も、議論は五分のまま進行した。一度は決まりかけていただけに、降伏を主張する蔡瑁は終始焦れた様子でいる。発言を封じたとはいえ、やはり朱里と雛里が気になるのか、ちらちらと末席にいる桃香達の方へ窺うような視線を走らせてくる。
「劉表様が病床におられるというのに、勝手に戦端を開くなど以ての外であろう」
蔡瑁が上擦った声を上げる。
「何を言うか。病床の劉表様に無断で荊州を明け渡すなど、それ以上に言語道断であろうがっ」
「――――っ」
厳顔が言い返すと、蔡瑁は言葉を詰まらせた。
「蔡瑁殿、皆さん少々議論に熱が入り過ぎの御様子。ここは休憩を挟み、一度頭を冷やしてから議論を再開されては」
「う、うむ、そうしよう。皆の者、しばし休まれよ」
「―――っ、逃げるか、蔡瑁っ」
降伏派の文官の助け舟に乗ると、厳顔の制止に聞く耳も持たず蔡瑁は軍議の間から足早に立ち去る。退室の間際にも、ちらりとやはり窺うような視線を桃香達に残していった。
劉表不在の現状では、蔡瑁が軍議を取り仕切る立場にある。抗戦派は最初から圧倒的に不利な状況にあるのだ。
残された者達でぽつぽつと話し合い、休憩をはさんで午後からまた議論の再開ということになった。
荊州の文官達は優雅なもので、普段は洛陽の朝廷に倣って正午を過ぎると仕事は終わりだった。午後の空いた時間は詩文を捻ったり、経書を読んで意見を戦わせたり、彼らの言うところの学問の探究に費やされるのだ。しかしさすがに逼迫した今の状況下ではそうもいかず、連日昼夜を問わず議論が続いていた。
「とりあえず、私達も部屋に戻ろっか」
朱里達を促して軍議の間を後にする。
桃香達が宮中での宿舎にあてがわれたのは中庭に建てられた離れの一棟で、居心地は悪くなかった。
「人数分のお昼ご飯をお願い」
「はい」
侍女も一人付けられていて、桃香が昼食を頼むときびきびとした動きで室外へ出て行く。
床に伏す劉表に代わって蔡瑁の差配だろうが、意外にも待遇は悪くなかった。護衛に伴った二百騎にも宮殿内にある近衛の兵舎に部屋を与えられている。
「何だか蔡瑁さん、ずいぶん強引だったね」
食事を待つ間、先程の軍議で感じた些細な違和感を桃香は口にした。
「そうですね。都合が悪くなると議論を切り上げてしまうのはいつも通りですが、普段はもう少し体面を気にします」
「抗戦派の兵と反華琳さんの民に囲まれて、余裕がなくなって来てるのかな」
「そうですね、厳顔さんの返しも良かったですし。これは午後には抗戦派が巻き返すかもしれません」
豪放磊落を絵に描いたような猛将であるが、厳顔は意外にも弁が立つ。降伏派がこれまで決定に持ち込めずにいたのも、厳顔の弁舌によるところが大きい。
「厳顔さんは荊州軍の中ではずっと不遇だったみたいだけど、あの調子なら普段からもっと文官達をやりこめられそうなものなのにな。焔耶ちゃん、何か聞いてる? ……焔耶ちゃん?」
「―――ああ、はい、そうですね」
焔耶が慌てて答える。珍しく桃香の言葉に上の空の様子である。
「今回は荊州軍自体の消失の危機とあって弁を振るっておりますが、本来武人はあまり政に口出しするものではないとお考えのようです。文官達の不平不満などは平気で口にされますが、といって政での決定に逆らわれたこともないですし。あえて言えば、ワタシを桃香様の元へ行かせてくれたことくらいでしょうか。あれで、筋は通される方です」
焔耶は続けて話ながら、静かに立ち上がった。
「どうしたの? 焔耶ちゃん」
「……気にせず会話を続けて下さい」
囁くような声で言って、焔耶は静かに窓際へ移動した。
「えっと、―――そうだ。朱里ちゃん達の先生って、この辺りに住んでるんだよね?」
「はい。襄陽城から南西に五、六十里も進むと見えてまいります山中に、水鏡先生の私塾はあります」
途切れた会話を強引に取り繕って雑談を交わしていると、焔耶が行きと同じく静かに窓際から戻ってきた。
「……兵に囲まれております」
焔耶が小声で言う。顔を突き合わせるようにして、静かに話した。
「いったい誰が?」
「蔡瑁さんの手の者でしょうね。桃香様の身柄、―――あるいは首を、曹操さんへの手土産とするつもりでしょう」
朱里が答える。
「そんなことで私の首を手に入れても、華琳さんは喜ばないと思うけどなぁ。それどころか、そんなことで討たれた私にも、討った蔡瑁さんにも激怒するかも」
「傍から見る分には、桃香様は反曹の中心人物のように思えるでしょうからね。これ以上ない手土産と見なされても仕方ありません」
「私達の宿舎を離れに据えたのも、いざという時に兵を動かしやすいという思惑があったからだと思います。―――焔耶さん。敵はどれくらいの数がいるか分かりますか?」
雛里が問う。
「そこかしこの茂みや東屋の影に、百や二百は潜んでいそうだ。私一人で相手を出来なくもないが、三人を守りながらとなるとつらいな。いっそ、まずは私が一人で飛び出して、先に蹴散らしてきた方が良いかな」
「いえ、焔耶さんは桃香様のお側に付いていてください。きっとすぐに―――」
室外から激しい物音が鳴り響いた。
「―――桃香様っ、御無事ですかっ!?」
「星ちゃん?」
窓から顔を覗かせると、中庭に馬を乗り入れた星の姿があった。劉備軍の兵も集まっていて、伏兵を追い散らしている。
「大事無いようですな。もう周囲の敵は払いましたぞ。外に出て下さって結構です。」
桃香達が中庭に出ると、的盧、それに焔耶や朱里達の乗馬も引かれてくる。
「星ちゃん、戻っていたんだね」
「はっ、実は民が城へ詰めかける前日には城内へ戻っておりました。朱里と雛里に、蔡瑁が何か仕掛けてくるかもしれないから、いつでも兵を動かせるように兵舎の方で待機しているように言われておりましてな」
「軍営の方にも兵は現れましたか、星さん?」
雛里が問う。
「ああ。まずは劉備軍の兵士を抑えねば不安だったのだろう、本命のこちらよりもよほど多くの兵で囲みに来たぞ。突き破ってきたが、一千ほどはいたのではないかな」
「私達の兵をあえて宮中に招き入れた時点で予想は付いていましたが、やはり宮殿内の兵は全て蔡瑁さんの掌握下にあるようですね。急いで宮殿を出た方が良さそうです」
「こうなった以上、蔡瑁さんは武官の意見など無視して、一気に降伏の決定を下すつもりでしょう。荊州軍が降れば、曹操軍はこれ幸いと荊州北部全土を併合に掛かるはず。ここは江陵へ戻り、曹操軍の攻撃に備えましょう」
「……ふむ」
朱里と雛里の言葉に、星が何か言いたげに首を捻る。
「どうかしましたか、星さん?」
「いやなに、逃げるのも良いが、このまま蔡瑁を討ってしまうという手もあるのではないか? 野戦ならばともかく、宮殿内での戦いとなれば兵力はたいした意味を持たん。劉備軍二百に私と焔耶で十分に蔡瑁の元へ辿り着けよう」
「おおっ、それは良いな。蔡瑁の奴はいつかぶっとばしてやりたいと思っていたんだ」
星の提案に、焔耶が賛同する。ぶんと愛用の巨大な金棒、鈍骨砕を振って意気込みを表した。
「それは私達も考えないではなかったのですが―――」
朱里と雛里は一度桃香に窺うような視線を送ると続けた。
「雛里ちゃん、どうかな?」
「襄陽城内の兵は一万。そのうち、宮殿内に二千。これは星さんの話からして、全て蔡瑁さんに付いていると考えるべきでしょう。残る八千の去就は今のところは不明。あとは城外の二万の兵。これは蔡瑁さんに冷遇されてきた武官達の率いる軍ですので、劉表さんと劉琮さんの身柄さえ押さえてしまえばこちらに付いてくれる可能性は高いです。特に厳顔さんの五千は確実、―――と考えて大丈夫でしょうか、焔耶さん?」
「うう~ん、どうかな? さっきも言ったけど、桔梗様は適当に見えて、あれで案外筋目にこだわる方でもあるから。力付くでという事態になると、組織としての荊州軍を優先して敵対してくるかも」
「そうですか。いくら劉表さんを抑えるとはいえ、兵が二百だけでは心許無いですね。それでは、城外の民を引き入れましょうか。あれは反曹の民ですので、桃香様のお言葉に従う者は多いはずです。これで、ひとまず襄陽は確保出来ます」
雛里はそこで口を噤み、朱里が代わって口を開く。
「その後は、桃香様の言う通り曹操軍は一先ず放置し、江陵より劉琦さんを呼び寄せ、正式に劉表さんの跡継ぎとして擁立します。そうなれば荊州北部は実質私達のものということになります。厳顔さんや他の将軍達も、劉琦さんの命令になら抵抗なく従うでしょう」
「おおっ、上手くいきそうじゃないか」
焔耶が喝采を上げる。
「―――ま、待って待って。それって、まずは劉表さんと劉琮さんの親子を人質にして、荊州軍の人達に言うことを聞かせるってことだよね? 荊州の民を荊州の兵に対する楯にするってことだよね?」
桃香はそこで慌てて口を挟んだ。星と焔耶がはっとした顔をする。
「そういう言われ方をされますと、確かに少々悪辣ではありますな。いや、無粋なことを申しました」
「ワタシも、私情に捕らわれて勝手を言ってしまいました」
星と焔耶が頭を下げた。いつも飄々としている星にしては珍しく、意気消沈した様子である。
「ごめんね。劉備軍のためにはそれが良いのかもしれない。でも、我儘かもしれないけど、私が嫌なの」
「いえ、我儘などではありません。そんな桃香様だからこそ、ワタシ達は付いていくのですから」
焔耶が力強く言う。
「それに、単に感情だけの話ではありません。これまで築き上げてきた劉備軍の輿望を台無しにしかねません。それは私達にとって唯一曹操さんにも優る武器であり、たかだが荊州半分と引き換えには出来ません」
朱里が言う。
「うん、そうだね。……それじゃあ、決まりかな? ―――さあ、逃げようっ」
桃香の一言で、皆一斉に皆が動き出した。
宮殿の中を馬で駆け抜けるという、ちょっと新鮮な体験を味わいつつ宮門へ向かう。途中、遮ろうとする兵もいたが、星がちょっと馬首を向けるだけで射抜かれたように動きを止めた。実戦の経験をろくに積んでいない兵達である。宮門の衛兵も、あえて遮りはしなかった。
宮殿から城門までは最短経路―――大通りを真っ直ぐ進んだ。
武装集団の出現に、ただでさえ敵軍襲来の不安に苛まれている住民から悲鳴が上がる。しかし集団が劉備軍であると知れると、それは歓声に変わった。
襄陽には宮殿に軽く立ち寄るばかりで、長く留まったことはない。今回の滞在はこれまでで最長となったが、それも宮中に籠もるばかりで街の人間と関わりを持つことはなかった。襄陽の住民にとって桃香達は講談に聞いた英雄であり、その姿を一目見ようと大通り沿いに行列が出来た。
「こそこそするつもりはなかったけど、それにしても随分派手な逃走となっちゃったね」
「好都合です。蔡瑁の奴は格好つけの根性無しだから、これだけ民の目がある中で桃香様に手を出しては来ないでしょう」
焔耶が言う。やはり蔡瑁に対しては当たりが強い。
そのまま民を引き連れるようにして進み、城門前へ着いた。門番の兵が遮るように並んでいる。五百程で、敵意よりも戸惑いを感じさせる。
「―――劉備様、いずこへ行かれるおつもりでしょうか? 申し訳ありませんが、今この城門を開けるわけにはいかないのですが」
門番の長らしい中年の男が進み出た。気の弱そうな愛想笑いを浮かべている。
「私達は客将であって、荊州軍に所属するわけではありません。何の権限があって、我らの進行を遮るのですか?」
朱里が言う。
「しかし、城門を閉ざせという命令が、まだ解かれておりません」
桃香達を捕えるための行動ではなく、やはり民の流入を防ぐための処置を継続しているにすぎないようだ。反曹を叫ぶ声は、今日も城壁の外から聞こえている。城外の民は昨日からさらに集まって、すでに二十万に達しているという。
「その命令は、私達を縛るものではありません。私達にも私達の都合と言うものがあるのです。もしこれ以上―――」
「―――門番さん」
朱里の言葉を遮ると、桃香は的盧から降りて、門番の長と正面から顔を合わせた。
「城門を閉ざせという命令は、何のためのものかな?」
「それは、……押し寄せた民を城内へ際限なく迎え入れてしまえば、混乱をきたすからではないかと」
「うん、そうだよね。でもそれじゃあ、その城壁の外いる人達はどうなるの? あと数日もすれば曹操軍がすぐ近くまで来るっていうのに、同じ荊州の人間をこのまま締め出して置くの?」
「―――そうだ、入れてやれ!」
「―――同じ荊州の仲間を見殺しにするのかー!」
背後から、民の声が上がる。
「しかし、私の権限で勝手に入れるわけには」
「うん、わかってる。それに、二十万近い民を収容する力は今の襄陽にはない」
「では、どうすれば―――」
「私達を外へ出して。家へ帰るように言って上げる。民がいなくなれば、城門を閉ざして置く理由もなくなるでしょう?」
「しかし、劉備様達を外へ出すために城門を開けたら最後、一斉に民が押し寄せてきませんか?」
「大丈夫大丈夫。私を信じて」
桃香はあえて気軽に返した。
「……分かりました」
門番の長は桃香の顔と背後の劉備軍、さらにその後ろを埋め尽くす襄陽の民を何度か見比べた後、意を決したように言った。
門番の兵達が忙しなく動き始める。閂が外され、城門がゆっくりと開いていく。
桃香達が外へ出るよりも早く、民が城門に詰め寄せた。
「りゅ、劉備様」
「大丈夫、大丈夫」
予想以上の民の熱狂ぶりに内心気圧されながらも、桃香は門番の長の訴えるような視線に笑みを返した。
そうする間にも、身体をもつれさせるようにして十数人が城内に潜り込んだ。城門前に居並ぶ兵と襄陽の民を見て、先頭の勢いがいくらか弱まる。しかしすぐに後方から押し出され、足が完全に止まることはない。
「―――みんなっ、落ち着いてっ!!」
桃香は有らん限りの声を張った。
「……劉備様だ」
城内に入り込んだ者の中に、桃香の顔を知る者がいたらしく誰かがぽつりと呟く。
「劉備様? ……劉備様だってよ」
「おいっ、劉備様だぞっ、劉備様だっ」
「お前ら、押すなっ! 劉備様にぶつかっちまうっ」
それはたちまち民の中に伝播した。
やがて城門はすっかりと開き切ったが、すでに群衆が強引に足を進めることはなくなっていた。
桃香は城門の外、民の只中へと足を進めた。焔耶に星、朱里、雛里、劉備軍の兵士達がそれに続く。城門へ詰め掛けていた人々は、今度は桃香の元へと押し寄せ始めた。
城壁から少し離れたところで止まった。振り返ると、すでに城門に殺到する民の姿はなく、門扉がゆっくりと締められ始めている。
「劉備様っ、一体荊州はどうなってしまうのですか? 曹操は、本当に来るのでしょうか?」
口々に問うてくる。遮ろうとする焔耶を手で制し、桃香は民の前へ出た。
「皆、落ち着いて。劉表さん達は曹操軍とは争わない道を選んだよ。戦にはならないから、安心して家に戻って」
「降伏ということですか? それでは、この荊州も曹操の領地となってしまうのですか?」
「それは、劉表さんや蔡瑁さん達の交渉次第かな? 同盟と言う形になるのか、曹操軍に組み込まれてしまうのか。ただ、曹操さん嫌いの皆がここにいると、悪い方に話が進んでしまうかもしれない。不安は分かるけど、ここは劉表さん達を信じて、一端引き上げてあげて欲しいの」
桃香が言うと、周囲にいる民の興奮はいくらか治まった。
華琳に同盟という選択肢はないだろう。小勢力であった頃から、独力だけで勝ち抜いてきたのだ。しかし今は反曹を掲げる者達を家に帰すため、詭弁を弄した。
いくら曹操軍の統治を拒んだところで、華琳が民に刃を向けるとは思わない。しかしこうして集まった者達の熱狂ぶりを見るに、民の方から手を出しかねなかった。そうなれば華琳も鎮圧のために軍を動かさざるを得ない。目の前の人々のためにも、そして宿敵であると同時に親友でもある華琳のためにも、そんな事態は避けたかった。
必死に声を張ったが、二十万の集団の隅々にまで声を届かせ、一時で落ち着かせるとはいかない。桃香は同じ台詞を繰り返しながら、民の中を進んだ。
「あれ、貴方は―――」
視界を過ぎる人の顔の中にどこかで見知った顔があり、桃香は足を止めた。
「御無沙汰しておりますっ、劉備様。私なんかを覚えていて頂けるなんて」
「やっぱり。許県で料理屋をやっていた人だよね」
威勢の良い返答に、すぐに思い当たった。天下の方々を彷徨い歩いた桃香であるが、店の場所まではっきりと思い出せる。何度か通ったなかで一度、お忍びの華琳を伴った記憶があったからだ。
「どうして荊州に?」
「どうにも許での生活が息苦しく思えてしまいましてね。それで、店に来て頂いたこともある劉備様が荊州にいると聞いて、私も曹操の領土から逃げてまいりました」
男はたぶん、桃香の同行者の中にその曹操領の主がいたことには気付いていないのだろう。ふらふらと気軽に街を歩き回る桃香と違って、華琳の顔はそれほど民の間に知れ渡ってはいない。
「へえ、せっかく繁盛していたお店なのに、もったいない」
わざわざ華琳を連れていくほどだ。味も評判も良い店だった。
「許にいると、皿の上の料理やお客さんではなく、他店の売り上げばかり気にしてしまっている自分に気が付きましてね。私もお客さんも、もう少しゆったりと料理と食事を楽しめる店を作りたいと思いまして」
成功を収めた人間ですら、窮屈と感じる世界。やはりそれが、手放しで正しいとは思えない。
「そっか。それじゃあ、荊州に来て、望みの店が出来たのかな?」
「はい。劉備様も、是非一度いらしてください。店名は変わっておりません、場所は―――」
男は襄陽より西へ数十里向かった先の城邑の名を口にした。
「うん。しばらくは難しいと思うけど、いつかきっと行くよ」
曖昧な返答に感ずるところがあったようで、男が問う。
「―――そうだ。劉備様は、この後一体どうされるのですか? 劉表様が曹操に降るといっても、劉備様達は当然降伏などしないのでしょう?」
「ああ、そうです、劉備様は―――」
「劉備様はどこへ―――」
男が言うと、周囲の者達も口々に疑問を漏らした。
桃香が華琳に降るなどとは、民は想像だにしないようだ。いつの頃からか、市井の目は桃香を反曹の象徴と見なし始めていた。
「私達は、とりあえず江陵に戻るよ。あそこなら、曹操軍相手にもしばらくの抗戦は出来るだろうし」
「―――」
がやがやと騒がしかった民が、しんと静まり返った。気遣わしげな視線が桃香の全身に注がれる。
「えっと、みんな、そんなに心配してくれなくても大丈夫だよ。私には頼りになる妹や仲間達がいるし、江陵には劉琦さんもいるし」
「……劉備軍には、料理屋は必要ありませんか?」
「え?」
意を決した表情で言った男の言葉の意味が分からず、桃香は首を傾げた。男が叫ぶように続ける。
「劉備様っ! 是非私も、江陵へお連れ下さい。兵に混じって戦うのは難しいかもしれませんが、美味い飯を作って、戦う者達を励ますことぐらいは出来ますっ」
周囲の民も男に続いた。
武具を作れると言う鍛冶屋。城壁等の補修に自信を見せる大工。兵として戦うという農夫。
「劉備様、私は何もお手伝いすることは出来ません。ですがいざという時、身を挺してでも御身をお守りいたします」
老婆が言う。
「僕は、すぐには力になれないかもしれないけど、いつかきっと劉備軍の一員として働きます」
少年が言う。
「……良いのかな? 力を借りちゃっても」
「もちろんです。皆、曹操の支配に抗いたいのです。劉備様と共にいたいのです」
料理屋の主人が言う。
今ここにいる二十万の民が寄せる期待が、本当の自分ではなく劉玄徳の虚像に向けられたものであることを桃香は理解していた。期待を寄せられるほどに、自分は何かをしたわけではない。あえて言うなら、華琳に抗ったということだけだ。
また現実として、江陵へ急ぎ帰還しようというこの時に、二十万もの民衆を引き連れて行こうなど無謀の極みだろう。
―――それでも。
背後にいる朱里と雛里へ振り返った。二人はすこし困ったような表情を浮かべた後、一度顔を見合わせ、そして小さく頷いた。
「ようしっ、それなら、皆で行こうっ!」
理由など分からないが、この民と共に歩むべきだ。直感に従い桃香が叫ぶと、わっと歓声が湧き上がった。