二十万の民を引き連れ、江陵へ向けて進発した。
おおよそ三百里(150km)の行程で、劉備軍の二百騎だけで駆け戻るなら二日、昼夜兼行の強行軍なら一日で走破し得る距離だった。歩兵を率いていたとしても五日である。
しかし民と共に進むとなると、その歩みは遅々としていた。
「ごめんね。他の人達もいるから、今はここまで」
的盧の背から幼子と荷物を降ろした。
「いいえ、助かりました。ありがとうございました」
兵の馬に乗せられていた老夫婦も下馬すると、深々と頭を下げた。それを見た幼い孫も真似をして、ぺこりと頭を下げる。
「ふふっ。それじゃあ、私は行くね」
可愛らしい姿に微笑むと、桃香は的盧に跨り、来た道を取って返した。
劉備軍二百騎は三手に分け、朱里と雛里には五十騎を率いて先導を任せている。
桃香は焔耶と五十騎を従え、二十万の中程を行き来しては民に励ましの声を掛けて回っていた。坂道などでは遅れがちの者を的盧に乗せ、轡を取って共に進んだ。焔耶は兵に任せるように言ったが、的盧の太く頑丈な脚はこんなことにこそ向いている。
そして最後尾では星が百旗を率いて殿軍を務めるとともに、進軍に付いて来れない者達に力を貸していた。遅れる者があまりに多いようなら応援を呼ぶように伝えているが、今のところ星から要請はない。
背後を振り返っても、もう襄陽の城郭は見えない。出発から六刻(3時間)余り、十里程は進んだのだろうか。
少しずつ、日が落ち始めている。兵でもない民に、夜間の行軍は不可能だろう。
通常の兵士であれば日に十二刻、距離にして五十里を歩く。曹操軍ならもっと速く、少数精鋭の劉備軍はさらに速い。しかし民にそれを求められるはずもない。
結局江陵行きの初日は、それから一刻歩いたところで野営となった。
「皆、頑張ってくれているね」
夜、朱里に雛里、星、焔耶と火を囲んだ。
「そうですね。正午過ぎから歩き始めて七刻。途中で休憩もはさんだとはいえ、良く歩いてくれたと思います」
朱里が言い、雛里が続けた。
「とはいえ、今日進んだ距離は十二、三里といったところでしょうか。今日は初日だけにまだ体力に余裕がありましたが、明日以降はさらに遅くなるはず、おそらく一日かけて今日と同じ程度にしか進めないでしょう」
「すると、江陵に着くのは二十日も先か。やっぱり軍みたいにはいかないね。どうしたって、体力の無い人に会わせないといけないからなぁ」
兵士でなくても、若者なら一刻に五里歩くことは難しくない。しかし荷を負い老若男女入り混じっての進軍となると話は別だった。
「そうですね。兵糧も、どこかで一度手配しなくてはいけません。皆さん、野宿も覚悟で襄陽に集まってくれた方々なので、数日分の食糧は持ってきているようですが、二十日となるとこちらで用意しなくては」
朱里が言った。
民は、身を寄せ合うようにして寝ている。夜は相当に冷え込む季節だが、雨が少ない時期なのは幸いだった。暖かい格好をして固まっていれば、寒さだけなら凌ぐことが出来る。
「そういえば、朱里ちゃん達は元々、こうして集まってくれた人たちをどうするつもりだったの?」
出立時のごたつきで聞けずにいたことを問う。
「桃香様が最初になさろうとした通り、曹操軍が襄陽に至る前に解散してもらうつもりでした。ただ、洛陽を攻めるにせよ、江陵へ退くにせよ、一部は義勇兵として伴えればと思っていました」
「義勇兵に?」
朱里の言葉に聞き返すと、今度は雛里が返した。
「はい。星さん達に動いてもらっていたのは、兵として使えそうな人間に目星を付けておいてもらうためでもありました。二、三千ならすぐにも募ることが出来そうだと伺いましたが―――」
雛里が星に窺うような視線を送る。
「うむ。劉表殿が軍事に関心が薄かったせいか、荊州は在野に血気盛んな若者が多いですな。なかなか見込みがありそうな者達が多く見つかりましたよ。実は今日も、私が殿軍に付くより前に、率先して最後尾に陣取った若者達がおりました。彼らの手助けがなければ、何人の脱落者が出たことか」
「……そんな人達が。考え無しに出発しちゃったけど、私は本当に色んな人達に助けられているな」
「それは、桃香様御自身がこれまでに多くの人々を助けてきたからこそでしょう。お気付きになりましたか? あの村の者達が何人かいましたよ」
「……うん、いたね」
焔耶が言うあの村とは、徐州で華琳に敗れ、流れ流れて行き付いた荊州の小さな集落のことだ。戦などとは縁遠いのどかな村であった。賊の要求を、唯々諾々と呑もうとしていたのだ。そんな者達が、自分との出会いで自ら苦難の道を選んだ。気が咎めないではないが、それが自身の天命であり、武器であると桃香はすでに受け入れていた。
翌日、空が白み始めるとすぐに移動を再開した。雛里の予見通り、昨日よりもさらに民の足は鈍っている。
日が中天に差し掛かる頃、殿軍の星が男を一人伴い桃香の元へ駆け付けた。
「桃香様、襄陽より荊州軍がこちらへ向けて発しました。おおよそ一万、厳の旗っ」
「ちっ、桔梗様か」
焔耶が舌打ちする。
筋目にこだわると言う、焔耶による厳顔評が耳によみがえってくる。荊州の民を大勢引き連れて逃げる客将の姿は、厳顔の目にどう映っているのか。
「とりあえず、朱里ちゃん達を呼ぼう」
「私が―――」
先触れに伝令を飛ばそうとすると、星が連れてきた男が頭を下げて駆けていった。
「あの男は? 兵ではないようだが」
中肉中背の、何でもない恰好をした男だった。駆け去る端から、すでに外見の印象は薄れている。
「ああ、焔耶は会うのは初めてか。雛里の使っている、諜報等を得意とする部隊の者だ」
「そんな奴らがいたのか」
雛里は、桃香の眼前では極力使わないようにしている気配がある。焔耶は桃香の護衛に付くことが多いため、これまで顔を合わせずにきたのだろう。
「ふふっ、流浪の我らが普段どうやって曹操軍や孫策軍の情報を得ていると思っていたのだ?」
「それもそうか。外から見ているよりもずいぶんとしっかりした組織だよな、劉備軍は」
「朱里と雛里がいるからな。曹操軍の文官筆頭荀彧と孫策軍の大都督周瑜が、二人して数千の軍のために尽力していると考えてみるがよい」
「なるほどなぁ」
焔耶は感心しきりの表情で、何度も首を縦に振った。
「それで星ちゃん、厳顔さんはどれぐらいで追い付いてくるかな?」
「襄陽を見張っていた先程の者が、進路を見届けるやすぐに馬を飛ばしてきたそうです。おおよそ十五里、時間にして三刻といったところでしょうか」
「そっか、ならまだ少しは余裕があるね」
「ところで焔耶よ。厳顔殿の隊は、確か五千ではなかったかな?」
「うん? ああ、確かに。するとやはり桔梗様が独断でワタシ達の援軍に発ったとは考えにくいな。蔡瑁に言われて、他の将と連係して捕えに来たのか」
「ふむ。そういえば先程の男も、出陣前に多少の混乱があったようだと言っていたな。蔡瑁に近い将でも監視役に付けられているのかもしれんな」
考えて答えが出る疑問でもない。そこで会話は途切れ、横を通り過ぎていく民に手を振り励ましの声を掛けながら朱里と雛里の到着を待った。二十万の民の行列となると、先頭と後尾では五里以上も離れている。
「……それにしても、いやに遅いな、あの二人。何をしているんだ。あの桔梗様が迫っているというのに」
一刻ほど待つも、姿を現さない二人に焔耶がぼやく。
「そう苛々するな、焔耶よ。―――おや、あれは?」
星が額に手をかざし、目を細めた。桃香も改めて前方に視線をやる。
「……騎馬隊? えっ、鈴々ちゃん?」
前方よりやってきたのは、張旗を掲げた騎馬の一団だった。先頭で元気に手を振る鈴々の姿も見える。
張旗が駆けるのに合わせて、民の歓声が波の様に押し寄せてくる。劉備軍を語る講談では、燕人張飛はいつも大立ち回りの大活躍を演じる人気の登場人物である。
「―――お姉ちゃ~んっ!」
「鈴々ちゃん、どうしてここに?」
桃香達の眼前で、鈴々が馬から跳び下りた。張旗もそれに合わせてぴたりと止まる。行軍の脚を止めた形がそのままきれいな隊列を取るのは、劉備軍の精鋭である証だ。
「愛紗に言われて、お姉ちゃんを守りに来たのだ」
「―――っ、江陵には逐一情報は伝えてありましたから、愛紗さんが気を回してくれたようですっ。江陵に残した騎兵八百騎、全て送り込んでくださいました」
鈴々と一緒に駆けて来た朱里が言った。雛里と二人して、息を荒げている。わずかな距離とはいえ、鈴々や騎馬隊に合わせて駆けるのは相当にきつかったようだ。
「さっすが愛紗ちゃん、ちょうどよかったね」
劉備軍六千のうち騎馬隊は一千であるから、桃香達が率いる二百騎も含め、全騎がこの地に揃ったことになる。
「お姉ちゃん達と義勇軍が数千だけって愛紗からは聞いてたから、すっごく大勢でびっくりしたのだっ」
「ははっ、そうだろうね。―――さて、どうする? 朱里ちゃん、雛里ちゃん」
「厳顔さんなら民を攻撃することはないと思いますが、一応我々は殿軍に付きましょう。先導には五騎だけ残してきましたので、進軍はこのまま続けます」
ようやく呼吸が落ち着いた様子の雛里が答えた。
「うん、わかった。それじゃあ下がろうか」
「桃香様、お待ちを。―――雛里、相手は一万、戦うなら騎馬隊の脚を活かしてこちらから仕掛けるべきだ。いくら劉備軍が精強と言ってもたった一千騎、しかも民を背にして足を止めて向き合うなんて、桔梗様を甘く見過ぎだっ」
「あ、あわわっ」
「まあまあ、焔耶ちゃん」
雛里に詰め寄る焔耶を、桃香は宥める。
「まだ厳顔さんが敵になると決まったわけじゃないんだから。数が少なくたって私達は軍なんだから、民の背を守るのは当然だし」
「し、しかしっ」
「厳顔さんはあれで焔耶ちゃんのことが大好きだし、たぶん大丈夫だよ」
「いやっ、そんな甘い御方ではっ」
「まあまあ」
「ううっ、分かりました。ですが、私か鈴々、星の側を離れないで下さいね」
腕を回して肩をぽんぽんと叩くと、焔耶は顔を赤らめ、勢いを弱めた。
「決まりですな。それでは下がりますか」
「厳顔のおばさんが相手かー。」
星と鈴々が気負いなく言って、馬首を回す。
「星、鈴々っ、桔梗様の豪天砲は知っているな? 桃香様と桔梗様の間に、ワタシかお前達のどちらかが常に身を置くからな」
「わかったわかった」
手をひらひらと振りながら、星が軽い口調で返す。
「それと鈴々っ、桔梗様の前ではおばさんとか言うんじゃないぞ。黄忠様ほど気にされているわけではないが、激怒しかねん。桔梗様に敵対する気が無くても、その一言で敵に回りかねないからな」
「なんでなのだ? おばさんはおばさんなのだ」
「いいからっ、絶対言うなよ」
「はーい、わかったのだ」
道すがら受ける民の歓声に手を振って応えながら後退した。下がるに従って、女子供や年老いた者が増えてくる。しかし最後尾近辺になると、一転して若い男達が増えた。
「おおっ、趙雲様」
星を見て、男達から声が上がる。
「星ちゃん、この人たちが?」
「ええ」
義勇軍に仕立て上げるべく、星が目を付けていた男達だという。今回の民の集結は、星や兵が彼らに秘密裏に働きかけ、表だっては彼らが近隣の住人を扇動することで実現している。
三千人ほどの男達は大抵両手に大荷物を抱えており、中には子供や老人を背負っている者までいた。
「―――趙雲様、もしかしてその御方が」
他の者よりいくらか身なりが良い若者が言った。
「うむ。我が主、劉玄徳様だ」
「おおっ」
男達は足を止め、頭を下げた。
訓練を受けた兵のように規律のある動きではないが、他の民のような浮ついた感じもしない。星が目を付けた義勇兵の候補だけはあった。
「進んで殿軍に付いてくれたんだってね。みんな、ありがとう」
「荊州の者が荊州の人間を助けるのは当然のことです」
大柄でいかにも豪胆そうな男が言った。
「御自身とは無縁の子供達を救うために、一千もの賊に御一人で立ち向かうことと比べたら、何ほどのことでもありません。荊州の民は、劉備様の勇気と仁愛を決して忘れません」
利発そうな青年が続ける。
あの村での話だろう。現実には桃香が一人で出来たことなどわずかな時間稼ぎで、賊の数も二百であった。
華琳が実際以上に暴君として語られるのに対して、桃香の活躍はいつも潤色をもって伝えられた。以前は一々訂正したものだが、今はそれが自分の一つの武器であると理解している。ほとんど唯一と言っていい、華琳に勝る武器だ。
共に戦いたいと言う男達を説き伏せて先に進ませ、最後尾に付いた。
「最初に桃香様に気付いた生まれが良さそうな者が鄧芝、武骨な感じの男が廖化、弁の立ちそうなのが宗預。この辺りの若者のまとめ役のような者達です」
星が言った。わざわざ名を口にしたのは、いざ彼らを兵とする際には、隊を率いる地位に就けるつもりだからだろう。
「ずいぶん毛色が違う三人だったね。廖化さんなんかはうちにもよくいる力を持てあました暴れん坊って感じだけれど、宗預さんは分別のある普通の若者って感じ。鄧芝さんは、襄陽の宮中にいてもおかしくないかな」
「それでうまい具合に住み分けが出来ているのですよ。鄧芝などは光武帝の功臣筆頭鄧禹の後裔だというから、まあ名家の出ですな。荊州の豪族や役人の倅で、劉表や蔡瑁の元への出仕を望まなかった者達の代表といったところ。廖化は仰られる通り、我らと同じ侠客の出ですな。荒くれ達には人気がある男です。そして宗預がそのどちらにも属さない真っ当な若者達を牽引すると。あの三人がいたお蔭で、随分と楽が出来ました」
話しながら、前を行く民の行列を眺めた。当然、先頭は遥か先で、全ては視界に収まりきらない。
華琳やかつての袁紹は、兵だけでこれ以上の数を動かした。未だ六千を率いるのみの桃香には、想像も付かない話だった。
しばしして、ただでさえゆっくりとした進軍がさらに遅れ始めた。
「先頭が、来る時にも通った隘路に差し掛かったようですね」
朱里が言った。
江陵までの帰路にはいくつかの狭道や橋を越える必要がある。二百騎で駆け抜けた往路には気にもならなかったが、二十万の民の通行となると相当に時間を取られるだろう。
「左には漢水で、右に見える山が、―――荊山だっけ? 華琳さんに勉強を教わっていた時に、なにかで聞いた憶えがあるな。何だったかな?」
「韓非子ですね。いわゆる和氏の璧が取れたのが、荊山です」
「ああ、そうだった。和さんが玉の原石を見つけて楚の王様に献上したけど、なかなか信じてもらえなくて刑を受けちゃうんだよね。三人目の王様にやっと認められて、楚の国宝となって、その後どこか別の国に譲られて、ええと、完璧の逸話を生んだんだよね?」
「楚から趙に譲られ、趙は秦によって奪われかけます。その際に藺相如が知略と胆力でもって守り抜き、それを持って完璧という言葉が生まれました。世代を経て、始皇帝によって天下が統一されると、結局は秦の手に渡ることとなりましたが。伝説では、始皇帝の命で玉璽に作り替えられ、それが漢王朝にも伝わる伝国璽であるとか。その伝国璽は確か今、―――雛里ちゃん?」
「うん。何進大将軍と宦官達の政争のごたごたで紛失したとされています。それが、反董卓連合の際に洛陽へ乗り込んだ孫策軍によって発見されたという話もあります。もしかすると、今も孫策さんが秘匿しているかもしれません」
「ほう。その話が本当なら、もし孫策が西涼軍に付いて、玉璽を弘農王殿下に献上したなら、長安の王朝の正当性は一気に高まるな」
星が口を挟んだ。
「そうですね。玉璽が孫策さんの元にあるかもしれないという噂は、華琳さんも間違いなく掴んでいるでしょう。あるいはそれもあって華琳さんは、荊州を急ぎ取りに来たのかもしれません。荊州北部を取り、武関さえ抑えてしまえば、孫策さんと馬騰さんが直接連携をとるのは難しくなりますから」
雛里が少し考え込むようにしながら答える。雛里は桃香以外では劉備軍の中で唯一華琳から真名を預かっていて、その戦略に関する理解は深い。
「よく分からないけど、孫策のお姉ちゃんが手に入れた物を誰かに貰ってもらって、その下に付くのか? なんだが似合わない気がするのだ」
「う~ん、確かに鈴々ちゃんの言う通りかも。でも周瑜さんなら利害によってはそういうこともしそうかな」
「―――桃香様、お話中に失礼致します。そろそろ桔梗様の軍が見えて来そうです」
会話に加わっていなかった焔耶が言った。
焔耶は劉備軍の将の中では、唯一華琳と面識がない。孫策や周瑜とも戦場で対峙したことはあっても、人となりを詳しく知りはしないだろう。
うっすらと厳の旗と軍勢が見えてくる。幸い、民に動揺は見られない。厳顔が自分達を傷付けるはずがないという信頼があるのだろう。
厳旗がおおよそ一里の距離まで迫ったところで、一千騎の足を止めた。民との距離がじわじわと離れるが、やはり行軍は遅々としている。数十歩を隔てて厳旗と対峙した時、民との距離は半里と開いていなかった。
一万の軍勢から、一騎進み出た。
「趙雲殿だけでなく、張飛殿もみえられたか。どちらでも良い、ワシとお相手願えぬか?」
大音声で呼ばわるということもなく、厳顔は平素と変わらぬ口調で言った。
星と鈴々が顔を見合わせ、頷き合うと数歩前へ馬を進めた。
「お相手というと一騎打ちですかな、厳顔殿? せっかく兵力で勝るというのに、むざむざその利を捨てますか」
「何も劉備殿を慕っているのは民ばかりに限った話ではない。荊州の兵も劉備殿とは本気では戦えんわ。無理に命じたところで、本来の力の半分も発揮してはくれまいよ」
「そう仰られるからには、厳顔殿ご自身は本気で我らを討つつもりというわけですか」
「戦場に感傷を持ちこむほど、若くはないのでな」
「ふむ。桃香様、よろしいですか?」
星が、桃香へ向き直って聞いた。
「なるべくどっちも怪我をしないように戦ってね」
「厳顔殿は軽くあしらえる相手ではありません。なかなか難しい注文ですな。とはいえ一騎打ち自体はお受けしてもよろしいのですな? では、そういうことならここは私が―――」
「待つのだ、星っ! 鈴々だってやる気十分なのだっ」
「お主は江陵から駆け付けたばかりで、疲れておろうが」
「へっちゃらなのだ。星の方こそ、慣れない大勢を連れての行軍で疲れてないかー?」
「……ふむ、よかろう。それなら厳顔殿にどちらと戦いたいか決めてもらおうではないか。それなら平等というものだろう?」
「わかった、それでいいのだ」
鈴々が頷くと、星が口元をにんまりとゆがめるのが見えた。
如何に燕人張飛の盛名があるとはいえ、厳顔のような熟練の武人が年少の鈴々を相手に選ぶとは考えにくい。
「そういうことです、厳顔殿。私―――常山の昇り竜こと趙子龍と、若輩者の張翼徳、どちらとの対戦がご所望か?」
「厳顔のおばさん、決めて!」
「おばさっ―――!?」
「あっ、こらっ、鈴々っ!」
桃香の隣で焔耶が叫ぶも、時すでに遅しだった。
「ほほう、ワシがおばさんとな。なかなか言うてくれるではないか。―――ようし、決めたぞ。張飛殿、お相手願おうかっ」
「おうなのだ!」
鈴々と厳顔が馬を進めた。示し合わせたようにそれぞれが右に折れ、桃香達から見て横並びに対峙した。
豪天砲の仕掛け―――射出される杭が桃香達へ向くことを避けるための鈴々の誘導に、厳顔が乗った形だ。
「策士、策に溺れるってやつだな」
すごすごと引き返してきた星に、焔耶が言った。
「ふっ、年少者に譲ってやったまでのこと。後々駄々をこねられても困るのでな」
負け惜しみを言いながら、星は桃香達と馬を並べ観戦と決め込む。
鈴々が蛇矛を構える。
丈八蛇矛の柄尻近くを握った両手を高く掲げ、矛先を相手へ向けて垂らす。自身の身の丈の二倍を優に超える長柄で、身体の前面を覆う形だ。普段は無造作に肩に担ぐか、脇に手挟むだけだから珍しい。それだけ厳顔を警戒しているということなのか。
対する厳顔は片手で大剣の柄を、もう片手で刀身に備え付けられた装置から生えた持ち手を握っている。豪天砲を抱きかかえるような構えで、切っ先は真っ直ぐ鈴々へ向けられていた。鉄杭を射出する機関を備えた大剣、それが豪天砲である。
「大丈夫だよね、鈴々ちゃん。厳顔さんもすごく強いとは思うけど」
愛紗、星、鈴々が一騎打ちで負ける姿など桃香には想像も付かない。知における朱里と雛里同様に、武における三名に対する桃香の信頼は絶大だった。しかしその三人も認める焔耶を育てたのが、厳顔なのである。
「呂布でも出て来ない限り、あやつへの心配は無用でしょう。悔しいですが、才能という点においては我らの中でも突出しております。それこそ呂布と同等か、それ以上やもしれません」
珍しく星が手放しに近い褒め言葉を口にした。
「やっぱり? いやぁ、私もそうじゃないかとは思っていたんだけどね、ふふふっ」
「存外姉馬鹿ですな、桃香様は」
「しかし星、豪天砲を構えた桔梗様を相手に、あの距離でああして居付いてしまうのは一番良くないとワタシは思うが。もっと距離を取るか、左右に動き回って狙いを絞らせないようにするべきだろう」
「そ、そうだよね。私も見せてもらったけど、それこそ目に見えないくらい速いもんね、あの杭」
焔耶の言葉に、もう一度不安がむくむくとわいてくる。馬体にして四つか五つほどの距離を隔てて、鈴々は厳顔と対峙している。この距離では、豪天砲の杭はほとんど放たれた瞬間には的を射抜いているだろう。
「ふむ。確かに反応の良さでどうにかなるものではないが、あれで戦いに関しては頭も回る。何か考えが、―――動きますぞ」
鈴々が馬を走らせた。距離が詰まる。わずかに丈八蛇矛が揺れ動いて、立て続けに甲高い金属音が鳴り響いた。
「―――くっ」
迫る鈴々に、厳顔が豪天砲を構え直す。今度は柄を両手で握り込む通常の大剣の構えだ。馳せ違う。
「……いやはや、あの距離で弾かれたのは始めてだぞ」
馬首を巡らしながら、厳顔が言った。やはり桃香の目には捉えることが出来なかったが、豪天砲は確かに放たれ、それを鈴々が弾いたようだ。
「へへん。とんでくるのは切っ先が向いた方なんだから、矢よりも簡単なのだ」
鈴々が得意気に胸を反らした。先刻までの大仰な構えを解いて、いつも通り蛇矛を肩に担いでいる。
「なるほど」
星が呟く。
「どういうことかな?」
「あの射出機構は弓矢とは違い、指先で狙いの調整などは出来ぬということです。飛んできた杭を弾いたのではなく、豪天砲の切っ先が向いた先へ、あらかじめ蛇矛の柄を構えていただけ、ということでしょう」
「ふふん」
もう一度、鈴々が胸を反らした。
「そんなに簡単な話ではないと思うがな。そのうえ、これではもう撃てそうにないのう」
厳顔が豪天砲を眼前まで持ち上げる。すれ違いざまの鈴々の一撃で、刀身が大きく歪んでいた。
「ならどうするのだ? 降伏するか?」
「接近戦でお相手する、と言いたいところだが、こうも刀身が曲がってしまってはそれも少々厳しそうだ。―――もう良いわ、一思いにすぱっとやれい。降伏するくらいなら首を刎ねられる方を選ぶわ」
厳顔が、首筋に手刀を当てる仕草で言った。簪の飾りがつられて揺れる。
しゃらしゃらと音を立てる揺れ飾りのついた一本と、真っ赤な玉の一本、そして花を象った一本。厳顔は三本の簪で婀娜っぽく髪をまとめ上げている。
「ん~? なんだか、妙に諦めが早いのだ。おばさん、本当に厳顔のおばさんかー?」
「ええい、おばさんおばさんとうるさいわっ。小童が、まったく―――」
ぶつぶつとくさしながら、厳顔がこちらへ馬首を回した。視線の向いた先は桃香、ではなくその隣に侍る焔耶である。
「焔耶よ。元副官であるお主に、兵を託したい。なあに、先程も申した通り、兵は劉備殿を慕っておる。ワシの隊だけで来るつもりが、我も我もと集まって、結局一万の兵となりおったわ。ワシさえいなくなれば、大人しく劉備殿に従うだろう」
蔡瑁の命令で桃香達を捕えに来たわけではなく、厳顔は自らの意志で劉備軍の援軍として来てくれたらしい。しかしそれなら、鈴々や星に一騎打ちを挑む理由はない。
「し、しかし、桔梗様っ」
「なんじゃ、今は劉備軍の一員だからと、最後の頼みも聞いてくれんのか? なんと恩知らずな奴よ」
厳顔がわざとらしく肩をすくめてみせる。
「そういうことではありませんっ! 最初からっ、死ぬおつもりだったのですね? 荊州軍の将として筋を通し、同時にワタシ達へも助力してくれるために」
「何のことやら―――」
「桔梗様っ!」
「……荊州の将として、民を守り敵と対するが我が節義。されど社稷への忠節も捨て難し。仕方があるまい」
焔耶の剣幕に言い逃れは出来ないと思ったのか。厳顔が答える。
「そんなっ」
「武人の別れよ、言葉は要らぬ。―――さあ、張飛殿」
「さあ、と言われても、困るのだ。お姉ちゃんに怪我をさせるなと言われているし、鈴々も気乗りしないのだ」
「戦場で気乗りするもしないもあるまいに。ならば劉備殿、張飛殿にワシを斬るようお命じ下さい。張飛殿が気乗りしないというのなら、趙雲殿でも、貴殿が御自ら剣を取ってくれても良い」
「う~ん、私も気が乗らないな。ここはお互い何も見なかった、何もなかったことにして、襄陽に引き返してもらえると一番有り難いんだけどな」
「それでは民を守れませぬ。是が非でも一万は受け取って頂かねば。襄陽が明け渡されれば、曹操が劉備殿を放って置くはずがない。すぐに追撃が掛かりますぞ。曹操軍は騎兵だけでも三万、歩兵は十万を超えると、劉備殿も聞き及んでおりましょう」
「―――厳顔さんがこの二十万の民を守りたいと思うのは、何故ですか?」
朱里が言った。
「それは、荊州の民であるからだ。荊州の民を守ることこそ、荊州軍で将にまで上り詰めたワシの果たさねばならぬ務めだ」
「しかし、彼らは荊州の政の決定に逆らい、私達劉備軍と共に歩もうという人達です。荊州軍にとっては叛徒に近いのでは? それに加担しようというのなら、厳顔さん御自身もすでに荊州軍の将であって将でないようなものではありませんか?」
「だから、主家に通すべき筋などすでに失われていると言いたいか。兵のみならずワシごと協力しろと、そう言うか、諸葛亮殿」
「はい。さもなくば、二十万の民などお見捨てになるべきです」
「ふうむ、痛いところを衝いてきおる。さすがは伏竜と呼ばれるだけのことはある。しかしな―――」
厳顔が首を捻って考え込む。朱里の言葉を理解しつつも、納得は出来ていない様子だ。
襄陽で座していれば、忠節だけは守ることが出来る。死を決して劉備軍に兵を送り届けようとしたのは、つまりは民のためだ。そんな厳顔の本心は、聞くまでもなく桃香には分かる。社稷、主家という言葉にも、厳顔の真意が滲んでいる。劉表、あるいは蔡瑁といった個人に対する忠義ではなく、あくまで厳顔自身の武人としての生き方の問題なのだ。
「意地になってはいませんか?」
「つまらぬ意地を張るのが、武人と言うもの」
「……わかりました。それならその意地もお悩みも、私がすぱっと断ちましょう」
靖王伝家の柄に手を掛け、的盧を前に進めた。
「おお、やってくれるか、劉備殿」
「はい。……ええと、もう少し首を前に傾げてもらって良いですか?」
「こうか?」
厳顔の簪がまた揺れる。
「そうそう、そんな感じ。ああ、ちょっと行き過ぎた。ごめんなさい、あんまり剣には自信がないものだから」
「かまわん。さあ、すぱっとやってくれ」
「はい」
「桃香様、まさか本気ですか? ―――お待ちくださいっ」
焔耶の制止を振り切り、的盧が軽快に駆け出した。靖王伝家を抜き放つ。
「おおっ、なかなか見事な」
剣を抜く動作だけは堂に入っていると、曹仁にかつて褒められた。気を良くして、鏡の前で何度も繰り返してみたものだ。
厳顔が、すっと目蓋を閉じるのが見えた。馳せ違う。
「―――荊州軍の将、厳顔はこれで死にました」
的盧が足を止め、桃香は靖王伝家を鞘に収めた。
「……むっ、生きている?」
「桔梗様っ、御無事ですか?」
焔耶が厳顔の元へ駆け寄る。
「ああ。確かに斬られたと感じたのだが」
「ワタシからもそう見えました。でも―――」
焔耶が厳顔の顔を指差す。はらりと、髪が厳顔の顔に掛かっていた。
「……髪? いや、簪だけか」
「厳顔さんの真名と同じ、桔梗の髪飾りですよね? これを斬り落とされたから、ここで一度厳顔さんは死んだ。……とまあ、そんな感じでどうでしょうか?」
下馬し、両断され地面に落ちた髪飾りを拾い上げながら桃香は言った。
「ふふっ、そうか。ここで一度死んだか。―――焔耶よ。穴を掘ってくれるか? それに、手頃な大きさの石も探してきてくれ」
「穴に石? 手頃な大きさとはなんですか?」
「ワシの亡骸を地面に曝して置くつもりか? 墓穴と墓石だ、早う用意せい」
「―――はっ、はい」
焔耶が慌てた様子で駆け出して行った。