「それで桃香―――劉玄徳は?」
襄陽の船着き場に着くと、荊州の群臣数十名が跪拝して待ち受けていた。その筆頭と思しき男に華琳は問い掛ける。
「はっ。劉備の奴めは、恩知らずにも突如我らに奇襲を仕掛けてまいりまして。城門を破り、荊州軍の兵士と民を強奪して逃げて行きました。八日前のことになります」
「ふうん」
冷たく一瞥をくれると、男は華琳を仰ぎ見ていた顔を再び伏せる。勢い余った額が地面を打ち、鈍い音を立てた。
大方曹操軍への手土産にでもしようとして返り討ちにあった、というところだろう。
「民と言うのは、城外に集まっていたという、この私―――曹孟徳嫌いを標榜する者達のことね?」
「はっ」
今度は顔を上げず、突っ伏したまま男が答える。
男の言葉に、特に目新しい情報はなかった。
二十万近い数の民が襄陽城外に集まり、反曹の声を上げていることは斥候から報告を受けている。華琳に関して流布する諸々の悪評――天子を籠絡し苛政を布くという半ば事実の評判と、麗羽が陳琳に筆を取らせた華琳への罵詈雑言を並べた名檄文、講談の英雄劉備の宿敵としての奸賊たる曹孟徳像―――が入り混じり、短絡的に嫌う者も多いだろう。しかし華琳の支配地を自らの意志でもって抜け、荊州へと至った者も中には含まれるはずだ。彼らがどんな言葉を口に上らせるのか、華琳は多少の期待感を持って襄陽へ足を進めてきたのだった。
しかし民の集結を報じた数日後、斥候からはその離散が報告された。一日置いて、民の集団の中に紛れ込ませていた幸蘭の手の者から、詳しい情報も届いている。反曹の民は桃香に従い、江陵を目指して目下南進中だという。
「劉琮にはすぐに会えるのかしら?」
「はっ、宮殿にてお待ちです」
先導に立った男の後を、苛立ちを足音に乗せて進む。男はびくびくと震えている。
樊城郊外にて、降伏の旨を記した書状を華琳は受け取った。差出人の名は劉琮で、曹操軍の進攻中に父の劉表は病で命を失っている。その後、いざ漢水を渡江すべく入城した樊城で、華琳は三日の足止めを食った。
理由は二つある。
まずは数日前に樊城の城主がやはり病没したためで、死んだのは荊州で唯一名の通った将の黄祖である。荊州軍は聞きしに勝るまとまりのなさで、黄祖が亡くなると、樊城の兵の多くがその亡骸を奉じ、船を強奪してどこかへ消えたという。黄祖は荊州軍の将ではあるものの、江夏郡太守として独り孫策軍と対し続けてきた人物である。その旗下は半ば独立したものであったという。兵に黄祖への忠義はあっても劉表、ましてやその息子の劉琮に従う理由はなかった。船を得て江賊にでもなるか、―――そうはならないなら行先は一つだろう。
一方で、対岸の襄陽にも当然水軍は存在する。その指揮官である文聘という将が船を動かすことを拒み、大半の水夫もそれに従った。文官らの熱心な説得を受け、文聘がようやく船を動かしたのが三日後の今日の朝であった。
いずれにせよ、以前から知られていた荊州の文官と武官との不和が、曹操軍の進攻と劉表、黄祖という二つの重しが取り外されたことで、一息に表面化していた。単に荊州を奪うだけならそれは好都合とも言えるが、速やかに譲り受け西涼に攻め入るつもりであった華琳としては余計な手間を増やされた思いである。
宮殿に至ると、門前に少年が一人跪いていた。
「劉琮ね。立ちなさい」
「はっ」
拱手したまま、するすると劉琮は立ち上がる。十を過ぎたかどうかという年頃だが、儒学家として名高い劉表の息子だけあって容儀は整っている。
「州牧の印璽を、曹司空にお返しいたします」
劉琮の言葉を合図に、宮殿の中から女官二人に捧げ持たれて木箱が一つ運ばれてきた。
「華琳様、ボクが―――」
手を伸ばしかけた華琳を遮る様に季衣が前へ出て、箱の蓋を開け布に包まれた印璽を取り出した。しばし手をはわせ、危険が無いと判断すると華琳へ捧げ渡す。
「確かに受け取った。なに、そう悪いようにはしないわ。そうね、このまま荊州牧というわけには行かないけれど、どこかもう少し落ち着いた土地の太守か州牧にでもなってもらいましょうか」
「はっ、ありがとうございます」
「宮殿内を案内してもらえるかしら?」
「はい。どうぞ、こちらへ」
ほっと肩の荷が下りた様子で、劉琮が先を促した。
兄との跡目争い、そして荊州という今後の火種を抱えた土地は、年端もいかない少年には重荷でしかなかったのかもしれない。
劉琮としばし語らった後、臣下の中から主だった者を呼び出して面会した。
初めに件の文聘を招いた。涙を流して無念を口にした後、処罰を求められた。言葉を尽くし説き伏せ、最後には臣従を誓わせた。
続いて謀略でもって劉表に荊州を取らせた蒯越、同じく蒯良、文人として名の知れた王粲、儒学者の宋忠、それに船着き場で華琳を出迎えた蔡瑁らと面談した。全員が簡単に頭を垂れ、臣従を口にした。いずれも気概に欠けるが、それなりの能力は有していそうだ。
謁見の間は、儒学者劉表の趣味なのか派手さはないが荘厳な造りをしていた。最後に呼び出した蔡瑁を足下に残したまま、華琳は桂花に水を向ける。
「何人か欠けている者がいるわね、桂花」
「はい。武官では黄忠に厳顔。文官では伊籍、それに馬氏の五姉妹などもおりません」
華琳の遠征時には留守を任せることが多い桂花だが、今回は久しぶりに軍に伴っていた。
劉表が降れば荊州北部は曹操領の一部となる。戦乱から遠ざかっていたこともあって、荊州には人が多い。特に南陽郡は州都襄陽のある南郡より栄えており、中華最大の郡である。許や陳留にも匹敵する城邑がいくつもあった。速やかに曹操領の一部とすべく、桂花が現場の指揮に当たる。遠征に伴う華琳の参謀役は稟で、許には風、洛陽には月を残している。
「黄忠には、樊城で黄祖将軍の副官を命じておりました。兵と共に船を持ち去ったものと思われます。厳顔は兵を率いて劉備軍の後を追って出奔いたしました。伊籍ら文官達もそれ以来見ませんから、おそらく厳顔と共に出奔したものと思われます」
見下ろされる形の蔡瑁が、小さく縮こまりながら口を開いた。華琳が玉座に着き、季衣と流流だけでなく桂花に春蘭、秋蘭も一段高くなった段上に侍らせている。
「人望が無いわね、貴方」
「はっ、申し訳ありません」
「……まあいいわ。劉玄徳が相手では、人気で負けるのは仕方のないことよ」
虐めて楽しい相手でもない。華琳は苛立ちを収めると、気を取り直して問い掛けた。
「黄忠、厳顔という将の力量は?」
「はっ。取り立てて功名のある者達ではありません。しかし黄祖将軍は力量をお認めのようで、副官にも二人のいずれかをと望まれました」
「―――華琳様、黄忠の名には私に聞き覚えがあります」
秋蘭が口を挟んだ。視線で先を促す。
「弓の名手です。私が初めて弓を取った頃には、すでにかなり名が知れ渡っておりました」
「へえ、すると老将かしら?」
「いえ、若き天才少女という評判でしたから、私と十歳も年は離れていないはず。―――蔡瑁殿、間違いないか?」
「はっ、確か三十前後であったかと。弓を良く使うという話も、聞いたことがございます」
「孫堅を討った黄祖も認める将にして、弓の達人か。よくもこれまで無名で通してきたものね」
「それは……」
蔡瑁が口籠る。優秀な武官ほど、蔡瑁に疎んじられ閑職に追いやられていたというのは本当らしい。
功を成し自身の地位を脅かすのを恐れたというのもあるだろうが、そもそも文を志す者はとかく武を軽視する風潮がこの国にはある。乱世から目を逸らし続けた荊州ではそれは一層顕著であろう。
その点桂花は、軍師も務める稟や風と違ってほぼ完全な内政家ではあるが、武官と言うだけで―――春蘭や曹仁のような私情が挟まる場合を除いて―――蔑むようなことはない。
「もういいわ、下がりなさい」
「はっ」
蔡瑁が拱手して退室する。
「桂花。今日会った者達の処遇は貴方に任せるわ」
「はっ。……目ぼしい者はいませんでしたか?」
「水軍の戦に長けた者が欲しかったのだけれど、文聘くらいかしらね。黄祖が死んだのが悔やまれるわ。文官では蒯越、王粲辺りは悪くないわね。あとは、……そういえば、雛里達の師の司馬徽が荊州にはいるはずじゃなかったかしら?」
「出仕はしていないようです。山奥で私塾を開き、半ば隠遁生活を送っているとか」
「隠者か、気に食わないわね。才覚があるのなら、それを世に現すべきよ」
隠れることで名を不朽のものとした人物はこの国に数多い。とりわけ高名なのは伯夷、叔斉の兄弟であろう。互いに王位を譲り合い、遂には国を出奔した王子だ。儒教の聖賢とされ、悪逆の主―――殷の紂王討伐の軍を発した臣―――周の武王を諌め、聞き届けられずに山中で餓死したという。
華琳に言わせれば、綺麗ごとに酔い、汚れを避けて自死しただけの人間だ。まことに賢人であるならば、国を継いで民を安んじれば良い。悪逆を討つ武王を口先だけ諌め、自身は何を為したというのか。
桃香を見よ。掲げた綺麗ごとを為すために、血に塗れるも恐れない。民のため民を戦場に駆り出す。矛盾を抱えながらも雄々しく立っているではないか。賢人とは程遠い桃香の形振り構わぬ生き方が、華琳には好ましい。
「では召集致しましょうか?」
「そうね。―――いえ、やめておきましょう」
隠者の山から竜と鳳が出た。そう考えれば司馬徽自身の才覚は秘されようと、ただ無為な生き方と否定もし切れない。それは雛里達を通じて、自らの才を世に現していると言えなくもないだろう。
「……西涼への遠征が終わったら、こちらから尋ねてみましょう」
「そんなっ、華琳様自ら足を運ばれるだなんて。たかだか私塾の主、呼び付けてやれば良いではないですか」
「いえ、天下に名高い伏竜鳳雛を育てた場所にも興味があるわ。それに隠者というのなら、その本質は宮中などではなく、隠れ住む山中でしか覗き得ないでしょう。桂花、貴方も興味があるのではない?」
「それは」
桂花が口籠る。華琳が厚遇したこともあって、桂花は雛里と諸葛亮に対抗心を抱いている。その才の源流となれば、気にならないはずもない。
「ふふっ、その時は二人で行きましょう。正確な位置を確認しておきなさい」
「―――はいっ!」
二人で、という言葉に気を良くしたようで、桂花は興奮気味に首肯した。
荊州の人士についてさらにいくつかやり取りをすると、あとは桂花に丸投げした。
漢王朝から派遣された州牧であった劉表とその後を継いだ劉琮とは異なり、蔡瑁らは荊州の豪族である。速やかに荊州の併呑を遂げるには彼らの助力は不可欠だろう。その過程で桂花によって使える者、使えない者の選別も為されることとなる。
「華琳様。騎馬隊の渡江、完了したで」
「ちょうど良かったわ」
折りよく、霞と稟が報告に姿を現す。
「韓浩は?」
「出立しました」
稟が答えた。
遠征軍の第二陣、歩兵四万は本陣付きの副官韓浩に率いさせて先に武関へ向かわせた。関中との連絡網が断たれているとはいえ、曹操軍の荊州侵攻という大きな動きは、いずれ必ず馬騰らも知るところとなる。のんびりしている時間はなかった。だが、騎馬隊だけで少し足を伸ばす余裕ぐらいならあろう。
「では桂花、あとは任せたわよ」
「―――はい」
いささか不服そうな表情で、桂花が頷いた。
ひとまず襄陽と樊城を抑え、人材と生産力の宝庫である南陽郡を得た。桂花としては、これ以上の南征は蛇足と言う思いがあるのだろう。
荊州侵攻の最大の標的は、襄陽と樊城という二大拠点を確保する事であった。
弱腰の劉表が治める故にこれまで問題視して来なかったが、曹操軍の最重要都市である本拠許と漢朝の都洛陽は、荊州勢力からはほとんど無防備に曝された状態にあった。
長安より発せられた偽勅で、孫策が劉表と手を結んだならその兵力は十万を超える。桃香が呼応すれば、さらに劉備軍の精鋭と数万の義勇兵が加わる。それが許と洛陽を直接叩ける位置に出現するのだ。
そこへ献策してきたのが司馬懿―――春華だった。
偽帝討伐を名目に、荊州へ攻め込む。襄陽と樊城を抑えてしまえば、これを無視して洛陽と許を直接攻めることは出来ず、当面の安全は保たれる。同時に、武関を抜けての西涼への侵攻も可能となる。
攻守両面において聞こえは良いが、西涼勢力との交戦中に、あえてもう一つ戦線を抱え込むということだ。はじめ、戦の現実を知らない小娘がひねり出した空論に思えた。しかし春華の語る計画に、華琳は結局不備を見出すことは出来なかった。荊州攻略の中心となる軍は、洛陽を守るために集結させた春蘭の十万。これは元より荊州攻めに用いようと考えていた兵力でもある。それに西涼遠征軍の一部も第二陣として加わる。
先送りにした侵攻を、予定通りに実行するというだけの話だった。そして襄陽と樊城を手にしたことで、ひとまずの目的はすでに達した。
だからこれからやることは確かに蛇足である。華琳自身は早々に西涼へ足を向け、残る部隊を率いる春蘭達に荊州の平定は任せておけば良いのだ。
―――すぐそこに桃香がいる。
しかしそう思うと、華琳には放置など出来なかった。
襄陽の城門を抜けると、霞の二万騎と遠征軍第二陣の本隊となる華琳旗下の一万騎が整然と居並んでいた。本隊には虎豹騎三百騎、虎士五十騎、春蘭の旗本百騎も含まれている。
春蘭と秋蘭は西涼遠征には伴わず、襄陽と樊城の守将を任せることとなるが、本人達の志願で劉備軍の追撃には加えることとした。
虎豹騎は、華琳自らの指揮である。蘭々は背中の傷の糸も抜け、本人曰く全快であるが、大事を取って洛陽へ残してきた。
「桃香とは、おおよそ一年ぶりね。いえ、徐州での戦も入れれば、せいぜい半年と少しか」
「華琳様、ウチの先陣でええんですよね?」
「ええ、そうね―――」
「―――華琳様っ、お待ちください! 霞はこの後、涼州までお供するのでしょう? ならばここは私に、華琳様の剣として働く場をお与え下さいっ!」
「そうは言うても春蘭、百騎しか連れ取らんやん。そんなん先陣やのうてただの斥候やんか」
「むむっ。―――何の、我が旗本はそれぞれが一騎当千! そして私は万夫不当! つまり合わせて、ええと、うむむ、―――そうっ、二万騎の軍勢だっ!!」
「十一万だ、姉者」
「あう。……と、とにかく、大軍勢だ! これなら文句はあるまいっ!」
「……本隊の兵から五千騎を連れて行きなさい、春蘭。霞もそれで良いわね?」
「はぁ、なんや競い合うのも馬鹿らしゅうなってもうたし、かまへんです」
「では春蘭、先駆けは任せたわよ」
「はっ、お任せくださいっ!」
ため息交じりの命令に、春蘭は喜び勇んで駆け去って行った。
「一度、子供達に混じって学校に通わせた方が良いかもしれないわね」
「それは、―――っ、あ、あまりに姉者が哀れ。御容赦願えませんか?」
子供達と机を並べる春蘭の姿を想像したのか、秋蘭は口元を押さえ笑いをかみ殺している。
「ふふっ、冗談よ。我が軍の頂点にいる将軍に、そんな外聞の悪い真似はさせられないわ。子供達の教育上も良くないでしょうし」
華琳の口からも、自然と笑みが漏れる。
「そうですね。春蘭様でも将軍になれると知れば、勘の鋭い子は才能の違いに行き着いてやる気を失うでしょうし、それが分からない子達には勉強なんて必要ないと勘違いさせてしまうかもしれません」
同盟国の単于である楼班の教育係を務め、学校でも教鞭を取る機会のある稟が言う。
「―――さてと、貴方は先陣に加わらなくて良いの、秋蘭? 春蘭の補佐に付いても良いのよ」
笑いがおさまるのを待って、華琳は問う。
「姉者とは襄陽でも一緒ですから。しばしの別れを前に、華琳様と共に居りたく」
「ふふっ、可愛いことを言ってくれるわね。では本隊に付きなさい」
「はっ」
春蘭の五千騎から二、三里(1~1.5km)離れて華琳率いる本隊の五千騎が続き、最後に霞の二万騎が進んだ。
二十里ほどを駆けたところで、先駆けの春蘭隊に追いついた。隘路である。左に川―――漢水が流れ、右に山―――荊山が聳えている。
焦らず、のんびりと馬上に揺られた。高祖にならって南陽を巡撫するという建前があったため、ここに至るまでもあまり行軍を急がせてはいない。さらに樊城では三日の足止めを余儀なくされた。今さら焦ったところで仕方がなかった。追う相手は、二十万の群衆を引き連れているのだ。江陵に至るまでには、必ず追い付く。
悠々と構えていると、縦列に並び替えた春蘭の五千騎が狭道へ駈け込んでいった。山上からの伏兵を警戒したようで、疾駆に近い速さである。
荊山はいくつかの峰が連なる山脈で、漢水に沿うように南北に横たわる。山頂付近には岩肌も目立つが、麓は木々に覆われていた。中原とは生える樹木が異なるのか、華琳の見慣れた山並みよりも緑が深い。
隘路は山裾に被り、わずかに上り坂となっている。進軍していく春蘭隊の姿は良く見えた。
赤紫に夏侯と大書された旗が、ふっと消えた。五千騎の列はそこで行き詰り、押し合い、遂にはぴたりと脚を止めた。
「何かしら?」
「敵の伏兵、というわけではないようですが」
秋蘭が、弓兵の鋭い目を凝らすも判然としないようだ。
しばし報告を待つも、伝令が届く気配もない。
「姉者に状況を知らせるよう、伝えてくれ」
秋蘭が、春蘭の元へ伝令を駆けさせる。普段なら春蘭の隣にいる秋蘭が抜かりなく報告を上げる。それだけに春蘭一人では失念しかねない。
「華琳様ー! ほっ、報告が遅くなりましたっ!」
すぐに春蘭自ら慌てて馬を走らせてきた。やはり異変への対処に追われ、報告を忘れていたらしい。
「進軍が止まっているようだけれど、一体何が?」
「はっ。行く手に落とし穴が見つかりました。今、兵に埋めさせています」
「落とし穴? 被害は出たの?」
「十騎ばかりが脚を取られて転倒いたしました」
「貴方は大丈夫だったの?」
ただの行軍中でも常に先頭を駆けようとするのが春蘭である。
「もっ、もちろんですっ! 罠などにはまる私ではありません!」
「へえ、それならそれはどうしたの?」
華琳は自身の額を指差しながら問う。春蘭の秀でた額の一角がうっすらと赤らんでいた。
「これはその、落とし穴は跳び越えたのですが、ちょうど山から伸びた枝に」
「姉者、それも含めて罠なのではないか?」
「はっはっはっ、そんなはずがなかろう。木の枝を自在に伸ばすなど、人の所業ではないぞ。秋蘭もおかしなことを言う」
「だからそういう場所を選んで―――。いや、まあそれならそれで良い。しかし尖った枝でもあれば大事だ。今後は気を付けてくれよ。大将自ら先頭を行くのは避けてくれ」
「う、うむ」
刃物や毒でも仕込まれる場合を想定しての秋蘭の言葉だろう。
春蘭のような戦の嗅覚に優れた将に対しては罠、それも二段仕込みの罠は有効な手の一つである。その最たる存在と言って良い呂布の敗因も、馬防柵の影に仕込んだ落とし穴に嵌ったことだった。人の臭いが介在しない分、鼻の働きも鈍るのだろう。
「華琳様、御安心下さい。枝の奴めは、華琳様の進軍の邪魔にならぬよう、我が手で成敗しておきました」
華琳の神妙な顔に、春蘭は何を勘違いしたのか胸を張った。
「……ええ、ありがとう」
貴方を案じていたと言うのも癪で、華琳は曖昧な笑みで返した。
春蘭が前線に戻り、進軍が再開された。心配した秋蘭も、結局は春蘭の補佐に付いていった。
坂道を上って降ると、荊山の稜線が右に幾らか退き、進軍路が開けた。少し進んでは罠を見つけて止まりの繰り返しで、二、三里足らずの隘路を抜けるのにかなりの時間を要している。
「民に合わせての進軍というのは、よほど暇を持て余すようね」
罠の配置は執拗で徹底していた。単に暇に飽かせて並べ立てたというだけでなく、巧妙でもある。最初に春蘭の額を打った木の枝以外にも、見え透いた落し穴の数歩先に草木で念入りに覆い隠された陥穽が掘られていたり、あるいはその逆であったり、警戒して脚を緩めると今度は何もなかったりするのだった。単純だが、実に人の隙を突くのが上手い。
凝った細工をする資材はないようで、せいぜいが落とし穴や草を結んで足を掛ける罠程度のものだ。しかしそれがまた神経を逆撫でするようで、華琳の耳にまで春蘭の怒号が何度も届いた。
「この人を食った感じは、たぶん星ですね」
「趙雲か。貴方と風は、確か一緒に旅をしていたことがあったのだったわね」
「はい。黄巾の乱が起こる前ですから、かれこれ五年も昔になりますが」
「趙雲とは、あまり親しく話す機会はなかったわね。地道に罠など仕掛けて回るような人間には見えなかったけれど」
「確かに一見すると怠惰な人間ですし、それも間違いではありません。ただ妙に凝り性な面もあるというか。特に人を茶化すための労は厭いません」
稟が懐かしくも忌々しげに言う。
風との三人旅となると、からかいの対象は生真面目な稟と言うことになるのだろう。
その後も進軍は思うように捗らず、さらに十里余り進んだところで春蘭に野営に入るよう命じた。
「華琳様、夜間の先駆けをお認め下さいっ! 必ず劉備軍の尻尾を捉えて御覧に入れます!」
春蘭が本隊に駆け込んできて叫ぶ。捗々しくない進軍に責任を感じているのもあるだろうが、それ以上に罠の連続で溜まった苛立ちのぶつけどころを求めているようだ。
「暗闇の中を罠に飛び込んでいくつもり? 今度はたんこぶではすまないわよ。日が登るまで我慢なさい」
春蘭の額の赤くなっていた部分が、ぷっくりと膨らんでいる。
「ううっ、分かりました」
「だから言ったろう、姉者」
追い付いてきた秋蘭が言う。
思わぬ障害にあったとは言え、半日で三十里は軍を進めている。騎馬隊の進軍速度としては十分だ。
翌日も、隘路に差し掛かる度に執拗な罠は続いた。とはいえ兵も対処に慣れ始め、初めの頃ほどに時間を取られることもなくなっている。
日が中天に差し掛かる頃に、春蘭と秋蘭が連れ立って報告に現れた。
「山上に趙旗が?」
「はっ」
「ふむ。罠だけでは飽き足らず、ついに迎撃に現れたか。それとも―――」
「華琳様っ! 攻撃の御命令をっ!」
春蘭が鼻息も荒く言い募る。
「……そうね、任せるわ」
「はっ!」
春蘭と秋蘭が先陣へ駆け戻っていく。
思うところはあったが、口には出さなかった。警戒して置くに越したことはない。
馬を降りた五千が、山の中へ消えて行く。戦況が見て取れるよう、本隊をいくらか前進させた。山上の、ちょうど緑が途絶え岩肌が露出し始めたところで、これ見よがしに趙旗が風に揺られている。
「あからさま過ぎますね」
稟も同じことを感じたらしく、小さく呟く。
一刻(30分)ほどで、山上の趙旗の根元に人影が駆け寄っていくのが見えた。遠目に判然としないが、赤くはためくのは春蘭の軍袍だろう。刹那、何やらきらめいたかと思えば、趙旗が傾ぎ、倒れた。
「―――くそっ、馬鹿にしおって!」
さらに半刻して山を下りてきた春蘭が、趙旗を足元に叩きつけた。旗竿が中程から断たれているのは、七星餓狼で怒りに任せて斬り落としたためだろう。
「旗が一つ掲げられるのみで、兵の姿はまったくありませんでした」
半ば予想していたのだろう、秋蘭が冷静に報告する。
「それに旗も―――」
姉が投げ捨てた旗を秋蘭が拾い上げ、広げる。
軍が掲げるには安っぽい作りをしていて、よくよく見れば趙旗ではなく肖の部分が月になっていた。
「確かに、人を食った真似をするわね」
「申し訳ありません」
華琳の言葉に、何故か稟が謝罪を口にする。
「まさか、このまま罠とありもしない伏兵で時間を稼ぐつもりかしら?」
「諸葛亮と鳳統がそこまで我々を侮ってくれているなら、むしろ助かると言うものですが」
「そうね。桃香一人ならそれくらいの甘い見積もりを立てても不思議はないけれど、雛里達がいるものね」
秋蘭の言葉に華琳は同意した。
劉備軍が出立した直後には、民の中に潜り込ませた諜報の兵からも報告が入っている。日に十数里という遅々とした進軍であったという。行列が整えられ諜報の者も抜け出すのが難しくなったのか、報告はこの数日は絶えている。しかし進軍速度が落ちることはあっても、劇的に改善されるとは思えない。江陵まではあと十日は時を要するだろう。
「とはいえのんびりしてやる理由もないわ。―――進軍を再開しましょう」
次第に仕掛けられた罠の数が減り、代わってさらに二回趙旗が見つかった。やはり肖が月になった偽の旗である。
一度はやはり山上に、一度は打ち捨てられた小さな砦―――漢水流域は古くからの交通の要衝であるから、廃棄された城跡の類が多い―――に旗は立てられていた。いずれも兵が伏せるには絶好の地形を抑えていて、看過することも出来ずその都度確認に時間が割かれることとなる。七十里を進んだところで日が落ち、その日は野営を命じた。
春蘭が昨日以上の剣幕で夜を徹しての追撃を訴えたが却下し、翌日は日が昇ると同時に進軍を再開した。
正午までに砦に一度、山上に二度趙旗を見つけているが、罠の数は目に見えて減っている。罠を仕掛ける余裕が無くなりつつあるのか。すると、かなり近くまで迫っていると考えていいのか。
「というより、とっくに追い付いていないとおかしいのだけれど」
すでに百五十里ほども南下している。民が襄陽を発して十日。当初の想定では数十里手前でその姿を捉えているはずだった。
「なにか仰いましたか、華琳様?」
稟が華琳の呟きを聞き付ける。
「いえ、何でもないわ。桃香はいつも私の予想を裏切ってくれる、と思っただけよ」
「―――曹操様っ!」
先陣から伝令が駆け込んできた。交戦中でもない限り、春蘭は華琳に会いに極力自ら報告に来る。つまり今は先陣を離れられない理由があるということだ。
「いい加減本物の趙雲でも現れた?」
「いえっ、張飛です! 張飛が、単身この先の橋に陣取っておりますっ!」
「単身ですって?」
報告は、やはり華琳の予想を裏切ったものだった。