橋を南へ渡り切ったところに、鈴々は張旗を突き立てた。
曹操軍の斥候が姿を見せたのは、それから半日近くが経過した頃だ。鈴々は橋の欄干に腰掛け、脚をぶらつかせていた。
斥候は張旗と鈴々の姿を確認すると、それ以上は近付かずに引き返していった。
橋の南岸で草を食ませていた馬を呼び寄せ、北側の袂から数歩橋を渡った位置に鈴々は陣取った。
しばしして、再び馬蹄の響きが接近してきた。今度は引き返さず、橋の袂近くまで来てようやく制止する。
「おう、鈴々。こんなところで一人で何をしている? 雛里達とはぐれて迷子にでもなったか?」
星である。騎兵二百と諜報部隊の兵を数十人伴っている。
「むむっ、鈴々はそんなに子供じゃないのだっ。星の方こそなかなかやって来ないから、曹操軍にやられちゃったかと思ったのだ」
「ふっ、愛紗やお主であるまいし、単身大軍に挑むほど無謀なことはせんよ。遠目にしたが、三万騎は連れておるな。斥候に見つかりそうだったので、しばし身を潜めてやり過ごしていた」
「斥候なら、さっきここにも来たのだ」
「ふむ、私がやり過ごしたのもそれだろう。なるほど、お主がここに陣取ることで、これより先の状況はまだ彼奴らに捉まれてはいないわけだ。雛里達は今どの辺りに?」
「今朝ここで別れたから、もう四、五刻(2~2.5時間)もあれば着くと思うのだ」
「ふむ。曹操軍は一刻以内、おおよそ半刻後にはここへ参ろう。少々際どいか?」
「星は先に行って、雛里達と合流するのだ」
「先に? お主はどうするつもりだ?」
「ここでしばらく、曹操軍を足止めするのだ」
「……聞いていなかったのか? 曹操軍は三万の大軍だ。付け加えるなら、先陣はあの夏侯惇、夏侯淵の姉妹」
星が呆れ顔で言った。
「相手にとって不足無しっ、なのだっ! 星が言ったのだ、鈴々は万人に匹敵するって」
「万夫不当と例えたのは私、お主のことは一騎当千と言ったのだがな。だいたい、たとえ一万に敵することが出来ようと、それでも二万残るではないか。まったく、お主の身に何かあってみろ、桃香様や愛紗に私が何と言われることか」
ため息を溢しながら、星が馬を寄せてくる。その蹄が橋の袂に掛かった瞬間、星がやにわに手綱を引いた。
一瞬だけ、鈴々は星に向けて気を放っていた。星はそれを鋭敏に感じ取った。
星は足元へ目を落し、次いで鈴々とその周囲に視線を走らせた。
「なるほど、そういうことか」
橋―――長坂橋と名がある―――の前後は、袂に近付くにつれて道がすぼんで隘路を形成している。右に山が、左に鬱蒼と茂る林が迫っていた。橋は幅二丈(6m)、長さ十丈足らずの小さなもので、下は渓谷となっていて、底を漢水の支流が走る。
「橋を落としてしまうという手もあるが」
「それじゃあ、せいぜい一刻しかかせげないのだ」
「ふむ。確かにそうであろうな」
渓谷と言ってもそれほどの深さはないし、川も大きなものではない。橋が無いならないで、渡渉点を見つけるのはそれほど難しい事ではないだろう。
「私も手を貸そうか?」
「いらないのだ。かえって邪魔になるだけなのだ」
「邪魔っ。……ふっ、まあ、確かにそれはそうだろうとも。―――よしっ、我らは鳳統達に合流するぞ」
忌々しげに呟いた後、星は後ろを振り返って兵に告げた。
「よろしいのですか?」
兵の一人が躊躇いがちに問う。
「ああ。一人でやりたいというのなら、勝手にやらせておくのが一番だ。ほらっ、先に行け」
「はっ」
兵がおずおずと鈴々の横を抜けて対岸へ渡っていく。
「三刻、いや二刻だ。それで十分だからな」
「わかってるのだ」
最後に橋を渡る星がすれ違いざまに呟くのへ、鈴々は大きく首肯して返した。
無理をするつもりはない。三刻、いや余裕をとって四刻だけ足止め出来れば、それで馬首を返すつもりだった。
馬蹄の響きが後ろへ遠ざかり、ちょうど半刻余りが過ぎた頃、今度は正面から近付いてきた。
「さすが星。時間ぴったりなのだ」
曹操軍の騎馬隊が姿を現した。足を緩めず百歩の距離まで迫り、そこで制止する。聞いていた通り二本の夏侯旗を掲げ、数は五千騎ほどだ。
星がよほどしつこく嫌がらせをしたのだろう。曹操軍はすぐには攻めて来ず、警戒を強めている。
鈴々は蛇矛の柄の真ん中を握って横向きに構え、その拳を曹操軍へ向けて突き出した。
「鈴々は、燕人張飛っ!! 万人の敵なのだ! 命の惜しくない奴から、かかってこい!!」
一吼えした。それでさらに慎重になってくれるなら良し。かかってくるなら、それはそれで良しである。
敵軍の前線で動きがあった。夏侯惇が出ようとして、夏侯淵に押し留められているようだ。
「どうしたっ! こないのかー!? 曹操軍は、臆病者の集まりかー?」
小馬鹿にするような口調で言うと、夏侯惇がさらにいきり立つ。敵将が単騎向かってきてくれるなら、それに越したことはない。しかし冷静沈着な夏侯淵がやはり押し留め、兵に指示を与えている。
五千騎の中から、五筋の縦列で兵が突出した。何の滞りもない極めて自然な動きで、練度の高さをうかがわせる。やがて五筋はまとまり、横並びに五騎の一つの太い縦列となった。ちょうど、橋の幅を埋め尽くす隊列だ。
それぞれの列は二十騎ほどが飛びだしたところで途切れた。つまり百騎ということだ。
「万人と言ったのに、舐められたものなのだ」
騎兵が迫る。
いずれも立派な馬に乗っている。劉備軍の騎兵は元より、鈴々や愛紗の乗馬よりも上等そうだ。放浪と食客の繰り返しで、これまで良馬を買い求めるような余裕はなかった。
「―――――! ――――!!」
敵兵が喚声を上げた。
鈴々の胸中では別の声が蘇る。鈴々の姿に沸き立つ民の歓声だ。自分を見て民が少しでも前へ進む力を得てくれたのなら嬉しかった。その代りに、自分はここに踏み止まる力をもらっている。
蛇矛を構え直した。中ほどを握っていた拳を、石突きに近い端まで滑らせる。ぐっと手首に圧し掛かる重さが、たのもしい。幾十の戦場を共に駆け抜けた蛇矛は、頼りになる相棒だった。
「――――――っ!」
百騎の先頭五騎、その蹄が橋の端にかかった。
数日進軍を続けると、民の行列に偏りが生れはじめた。
大掴みに分類するなら、先頭近くには若者が集まり、中央には家族連れ、そして後方には老人や病人、戦乱で傷を負った者達である。
先頭の若者達には軽装の者も多く、日に四、五十里は問題なく歩けるだろう。家族連れの集団は体力のある者が子供や老父母を支えながらの行軍で、大荷物を抱える一団も多く、一日に三十里も進むのが限界だろう。最後の集団はさらに遅れるが、幸いにも数は多くなかった。
五日目の朝に、雛里は弱者の切り離しを決めた。
江陵の愛紗から、黄忠が船団を率いて現れ、帰順を求めていると報せが届いたためだ。桃香の名の元、雛里と朱里は即座に黄忠の受け入れを決め、同時に仕事を依頼した。船団を率い、漢津―――漢水の船着き場―――まで来ることだ。切り離した者達は、漢津から船で江陵まで向かってもらう。
漢津は、襄陽と江陵のおおよそ中間点の長坂橋を渡った先で東へ進路を変え、さらに十里ほど進んだ先にある。道程は半分に短縮される。老い、傷を負った者達の負担を減らすことにもなる。桃香もそれで賛同してくれた。
民からは反発が出るのも覚悟の上であったが、桃香、そして厳顔に伴われて合流を果たした伊籍や馬氏の五姉妹ら荊州の役人達が根気強く説いて回ると、ほとんど不満の声が上がることはなかった。家族連れの中からも、息子や孫達の足を引っ張ることを嫌った年寄り達や、乳飲み子を抱えた母親が志願し始めた。
伊籍は文官の中では少数派の反蔡瑁の人士の代表格である。劉表と同じ兗州の出身で、彼に従って荊州へ赴任している。つまりは荊州派閥に対する劉表子飼いの文官であり、一時は蔡瑁にも匹敵する発言力を有していたという。しかし劉表が荊州派に近付き、後継も劉琮と見なされつつある昨今はかなり苦しい立場に置かれていた。義に篤い人柄で、異郷人ながらも荊州の民からは慕われている。
一方、馬氏の姉妹は南郡生まれの南郡育ち、生粋の荊州人である。五人ともに字に常の一字を持つことから、荊州の人々からは馬家の五常と呼び親しまれている。
「大師姉、九度目の護送隊が出立致しました」
「わかりました。―――季常ちゃん、手伝ってくれてありがとう」
雛里は五常の四番手、馬良に頭を下げた。
弱者の集団は雛里の指揮で進んだ。桃香も残りたがったが、桃香が残れば全体の足が後ろへ引かれかねない。説き伏せ、朱里と一緒に先頭を進んでもらっている。
雛里の補佐には馬良が、護衛には八百騎を率いた鈴々が付いた。厳顔の合流で兵力は増したが、そのほとんどが歩兵である。本隊から大きく引き離される集団の護衛には回せなかった。
集団の移動は遅々としているが、平行して輜重車を使っての護送も行っていた。厳顔が食糧を満載した五十台の輜重車を襄陽から持ち出しており、輜重は兵や若者達に背負わせ、空いた車が利用された。足の弱い者から順に護送隊へ回し、いま残っているのは年を取ってはいても比較的力のある者達ばかりとなっている。
漢津までの護送隊を十度、漢津から江陵までの航行を二度で集団全員の移送が完了する。すでに長坂橋も渡り終え漢津までは五、六里というところであるから、九隊目を送り出したばかりの護送隊もすぐに戻って来るだろう。船も一度江陵までの移送を終え、すでに漢津で二度目の船出の用意を終えている。あと一息というところだった。
「いえ、士元大師姉のお役に立てて光栄です」
「ふふ」
馬良が恭しく頭を下げる。師姉―――姉弟子と呼ばれ、照れ臭さに雛里は笑みを溢した。
五つ子の五常は見分けがつかないほど似た顔立ちで、服装まで同じだった。そんな中で馬良だけは右の眉尻の毛が白みがかった灰色をしていて、他の四人とはっきり区別がつく。
五姉妹は朱里と雛里の師、水鏡先生こと司馬徽の私塾出身者であった。お揃いの服も塾生で揃えた装束である。朱里と雛里が着ているのも同じ装束であるから、五人のみならず二人も同じ格好をしているのだった。
五人は朱里と雛里の卒塾後に入塾しているから、直接の面識はない。しかし伝説の卒塾生として二人のことは今も塾生の噂の種であるらしく、五人は朱里と雛里を“大”師姉と呼んで憚らなかった。
五常とは儒学の貴ぶ五つの徳目のことで仁、義、礼、智、信を指す。不思議と五姉妹はそれぞれが五常を体現したような性格をしていた。
長女の伯常はお姉さんらしく思いやりがあり、二女の仲常は文官と言うよりも義侠の豪傑が似合いそうな大らかで大雑把な質、三女の叔常は一転して堅苦しくらいに礼儀正しいといった具合である。ただ四女の季常と五女の幼常だけは順序が逆転したようで、季常が信の人、幼常が智の人であろう。
集団を切り離そうと初めに言い出したのは幼常―――馬謖で、やはり三組に分け、最も遅い組は近くの邑にでも残していこうと主張した。それは雛里が考えつつも口に出さずにいたことでもあった。
華琳が残された老人や病人に危害を加えるはずはない。華琳の為人を知る雛里達には自明のことであるし、曹操軍の政を冷静に見つめる目があれば理解出来ることだ。しかし闇雲に反曹を叫ぶ民にとって、ここに残れというのは死ねと言われるに等しい。才が勝ち過ぎ、少々軽はずみと言うのが雛里の持った馬謖の印象である。
雛里が漢津からの船での移動を、朱里が空いた輜重車を使っての護送を提案し、合わせて桃香の承認の元で実行へ移された。
率先して民を説いて回ったのが季常―――馬良で、物珍しさはないが実直な言葉は人々の心を動かした。機知に富んだ馬謖を差し置いて、馬氏の五常、白眉もっと良しとの評判を得ているのも肯ける話だった。
朱里は五人のうち馬謖を特に気に入ったようで、何くれとなく指示を与えている。雛里は雛里で、馬良に護送の指揮を委ねていた。
―――少し朱里ちゃんに似ている。
馬良の印象である。
片や馬謖は自分に似ているのかもしれない。
朱里と自分に大きな能力の差はない。同じ先生に付き、同じことを、同じように学んできたのだ。それでも互いの興味の対象がまったく同じにはならない。朱里は民政に、雛里は軍略により強く惹かれた。それは朱里が自身の才覚よりも信義に重きを置くからであり、雛里はその信義すらも知略の糧とする詭道の世界に魅せられた。
「鳳統様」
護衛に付いている兵が、後方を指差した。
こちらへ駆けてくる小隊の姿が見えた。集団のさらに後方で、曹操軍の足止め工作をしていた星である。二百騎と諜報部隊三十名を率いている。
「雛里」
「星さん、曹操軍の規模と所在は分かりますか?」
「三万騎。曹操自らが率い、先陣には夏侯惇、夏侯淵。後詰に張遼。すでに長坂橋の近くまで来ているぞ。いやぁ、少々欲張り過ぎて、危うく追い付かれるところであった」
言いながら、星は爽やかな笑顔で額の汗を拭った。華のある武人だが、妨害工作などにも向いた性質だ。
「それは危ないところでした」
長坂橋を越えたのは今朝方早くのことだ。半日ほども経過しているが、老人達の脚ではそれから十里と進めてはいない。騎馬隊なら一刻と掛からず追い付いてくるだろう。
長坂橋は襄陽から江陵への進軍路における最後の隘路である。長坂橋と名が付けられてはいるが、どこにでもあるような小さな橋だった。ただ漢水の支流によって穿たれた荊山の渓谷に架けられており、荊州南北を結ぶ交易路としての重要度は高い。
橋を越えしばし進むと、荊山はゆるやかな裾野となり、林を縫う二筋の道に分かれる。そのまま南に下れば百五十里で江陵に、東に向きを転ずれば十里程で漢水にぶつかり、川に沿って数里進むと漢津へと行き着く。
「鈴々ちゃんは?」
長坂橋を一目見た鈴々は、敵を迎え撃つのに最適と言ってその場に留まった。兵も不要と言って聞かず、雛里の元へ残している。
「今頃、曹操軍とぶつかっているのではないかな」
「おっ、置いてきたんですか?」
「手助けを申し出たのだがな。あやつめ、この私のことまで邪魔者扱いしおってな。頭にきたので、放って来てやった」
「あわわっ、なっ、なんてことを」
「ははっ、冗談だ。いや、邪魔者扱いされたのも、放って来たのも本当の話だがな。まあ、鈴々の申す通り、あの地ならあやつ一人に任せておけば良い」
「そんなっ。相手は華琳さんが率いる三万騎、それも夏侯惇さんや夏侯淵さん、張遼さんがいるんでしょう?」
「ふむ。まずい事があるとすれば、その手練れ三人が三人掛かりで向かって来た場合だろうな。あとは遠巻きにして矢を一斉に射込まれるぐらいだが、強行軍の軽騎兵だ。弓の数は多くなかろう」
「……わかりました。ならここは鈴々ちゃんの武と星さんの言葉を信じて、私は私の仕事に移りましょう」
武芸のことは、雛里が頭で考えて理解出来るというものでもない。
「季常ちゃんは、最後の護送隊と一緒に漢津へ向かってください。先に船で江陵へ入り、民の受け入れの手伝いをお願いします」
「はっ。―――大師姉は、ご一緒されないのですか?」
「はい。私にはまだやることがあります。星さん、兵を率いてお手伝い願えますか? 強制はしません。少々危険で、―――卑怯な仕事となりますから」
「軍師殿の頼みとあらば、引き受けぬわけにはいくまいな」
星は仔細も問わず、軽く首肯した。
退き鐘を打たせると、数騎が這う這うの体で引き返してくる。いずれも華琳本隊の兵であり、曹操軍中でも虎豹騎や白騎兵に次ぐ精鋭である。
「これほどのものとはな」
秋蘭は思わず感嘆の吐息を漏らした。
「ぬぬ」
普段なら兵のふがいなさに当たり散らしかねない春蘭まで、低く唸るだけだった。あの様を見ては、色を失った兵を責められない。むしろ退き鐘が鳴るまで良く踏み止まったと、秋蘭は褒めてやりたいくらいだった。
ただ一騎にて威を張るは、張飛である。今も橋上に陣取り、“通せん坊”でもするように蛇矛を真横に構えている。
瀬踏みに繰り出した百騎の先頭が橋に一歩踏み込んだ瞬間、その惨劇は開始された。かつて人であった肉塊が四、五丈も跳ね飛び舞った。
張飛は小枝でも振るうように容易く蛇矛を操った。一丈八尺と称する他に類を見ない大長物である。必然、蛇矛の先端は秋蘭の目をして捉えきれぬほどの速さと異常なまでの暴威を孕む。
場所が良くなかった。
長さ十丈足らずの小橋の横幅は、二丈余りしかない。橋の真ん中に陣取る張飛の蛇矛の間合いは、橋上を容易く覆い尽くしていた。そして蛇矛の形成する暴風圏に入り込んだ者は、例外なく命を絶たれるのだ。橋の袂で、巨大な化け物が口を開けて待ち構えているようなものだった。
戻ってきた兵はわずか十数騎である。たった一度の接触で百騎近くを討たれたということになる。百歩の距離を置いた張飛と曹操軍の間を、主を失うも暴威を免れた馬が十数頭、所在無げに彷徨っている。
「もっと早く鐘を打たせるべきであったか」
一呼吸で五騎を、二呼吸目で十騎を張飛が肉塊に変えた瞬間、多少の犠牲を払う覚悟を決めた。力押しで破れると、浅慮にも考えてしまったのだ。騎兵を具足ごとひしゃぎ、弾き、砕く。そんな力技が、いつまでも続くとは思えなかったのだ。 犠牲が五十騎を越えた段になってようやく、百騎全てを飲み込むまで暴威に終わりはないのだと秋蘭は悟った。
「さて、―――どうする、姉者?」
「むむむ」
春蘭はまた低く唸るだけだった。
「仁が呂布に対した戦法と少し似ているな。あれは結局、仁が疲労困憊するまで続き、最後には呂布の力押しに敗れたわけだが」
外から見える現象はまったく異なるが、当人達の意識は似通ったものであろう。つまりは相手より長大な得物を持って、隙間ない連撃で空間を埋める。曹仁が管槍を用いた突きで呂布との距離を確保したのに対して、張飛は強引な薙ぎ払いで橋上一円を死地へと変えた。
曹仁が技と工夫で一個の武人に対して行ったことを、張飛は天性の膂力で軍勢を相手に実現させていた。
「まあ、呂布を相手取るのもそれはそれですさまじいことではあるが」
この場にいない弟分の心情を慮って、我知らず秋蘭は言い訳めいた言葉を溢した。
「しかし呂布が攻めあぐねるわけだ。単純なだけにこちらの取れる選択も少ない。呂布のように相手が疲労するまで付き合うというのは、犠牲が大き過ぎるし」
春蘭ではないが、あの橋に陣取る限り張飛は本当に万夫不当と言えるのではないか。疲れ果てるまでの間に、千でも二千でも屍を重ねるだろう。指揮権を委ねられているとはいえ、華琳直属の本隊の兵をむざむざと死地へ送り込むわけにもいかない。
「ふむ。ここは一つ、試してみるか」
有効と思える手立てはある。
長大な間合いを有する張飛の蛇矛よりも、さらに遠くから攻撃を仕掛けることだ。つまりは、弓である。
騎兵だけの強行軍ゆえに弓兵を伴ってはいないが、いつも通り秋蘭の手には愛弓の餓狼爪があった。
「九十歩というところか」
百歩の距離で兵を止め、秋蘭と春蘭はいくらか先行している。自分なら、当てるに苦はない距離だ。
秋蘭は矢籠から三本の矢を引き抜いた。二本は指で手挟み、一本を弓に番える。深からず浅からず息を吸い、―――矢継ぎ早に三矢を放った。
「やはり通じないか」
張飛は手首だけで蛇矛を旋回させると、三矢ことごとくを弾き落としていた。
「……十歩の距離まで近づけば」
近間から射続ければ、如何な武人もいずれは傷を受ける。しかしそれは、ほんのわずかに張飛が踏み込めば蛇矛の間合いにも成り得る。
躊躇いがあった。蛇矛を恐れているわけではない。それでも張飛はその場を動かないという直感があるからだ。
実際にはほんの一時、ほんの数歩、橋の袂を離れたところで大勢に影響はしない。すぐに駆け戻れば、こちらがどんなに上手く兵を動かしたところで、わずか数騎が橋を渡る程度のものだ。しかしあの幼く純粋な武人はそうは考えないだろう。同種の人間を姉に持つだけに、秋蘭には張飛の心情が手に取るように理解出来た。
この場を一歩も譲らぬというのが今の張飛の矜持であり、あの超人的な武の拠り所ともなっている。それを逆手にとって、一方的に矢を打ち込み続ける。そんな戦いを、自分は肯定し得るのか。
「……これも、華琳様のためか」
「気が進まんのなら、無理にやる必要はないぞ、秋蘭」
ずっと低く唸っていた春蘭が言った。
「しかしな、姉者。華琳様自らが率いる軍の進攻をたった一騎に阻まれるなど、あってはならないことだ。先陣の責を果たさねばならないだろう?」
「心配するなら。責なら私が果たす」
ぶるぶるっと身を震わせると、春蘭はゆっくりと馬を進めた。
「はははっ、張飛か。落とし穴を埋めるばかりの詰まらぬ仕事に、ようやく華琳様へ捧げるに相応しい獲物が現れてくれたなっ!」
春蘭が大笑し、馬を走らせた。
ずっと唸っていたのは恐怖に慄いていたわけでも、思い悩んでいたわけでもなかった。張飛と言う極上の標的を見つけた喜びに打ち震えていたのだ。
「姉者! 一人で戦うつもりか!?」
秋蘭は叫ぶように言った。
「ああっ、手出しするなよ、秋蘭! ―――はぁっ!」
喜々として叫び返すと、春蘭はさらに馬を加速させた。
今度は制止しなかった。春蘭の一騎打ちというのは、悪くない。
尋常ならざる武威で嵩上げしたところで、実際に技量が向上するはずもない。兵を相手には有効であっても、春蘭相手には通用すまい。呂布のいない今、春蘭の剣は天下一かもしれないのだ。
春蘭と張飛との距離が狭まる。春蘭が七星餓狼を肩に担ぐように構えた。
「我こそは覇道の先駆け、曹操軍が大剣、夏侯元譲なり! 張飛! いざっ、しょ―――」
上空から蛇矛が襲いかかり、口上途中の春蘭の身体が地面にめり込んだ。
「……いや、さすがは姉者」
兵の叫び声が響く中、秋蘭は平静に呟いた。
春蘭の馬の脚が潰れている。一瞬にして馬の高さが消失した故に、春蘭の身体ごと押し潰されて見えたが、実際に潰されたのはそこまでで、春蘭は中腰に構え、自らの足でしっかりと地面に立っていた。左手は七星餓狼の柄を握り、右手は峰に当て、肩ごしに蛇矛を受け止めている。
「―――――っっ!!」
獣の咆哮を上げた春蘭が、蛇矛を跳ね上げた。張飛の身体ごと、いやその乗馬すらも仰け反らせている。
刹那の衝撃さえ受け止めてしまえば、常人離れした張飛の膂力も大きな意味は持たなかった。押さえつける力は張飛の体重に蛇矛の重量を加えた重さ以上とは成り得ない。
「くっ、なかなかやるのだ、お兄ちゃんのお姉ちゃん!」
堪らず後退し掛けた馬を、張飛は股を引き締めて強引にその場に留まらせた。やはり、一歩も譲る気はないのだろう。
「まだまだっ!」
馬を失った春蘭が、距離を詰める。春蘭の利はそこにある。
呂布と対した曹仁は、白鵠の脚を頼りに絶えず距離を取り続けた。しかし後退を禁じた張飛にはそれが出来ない。春蘭が前に出れば出ただけ、蛇矛本来の強みは失われていく。一度剣の間合いまで踏み込まれてしまえば、小回りの利かない蛇矛は圧倒的に不利だった。
「甘いのだっ!」
張飛が、蛇矛を再び春蘭目掛けて打ち付けた。七星餓狼に受けられたそれを、今度は押しつけることなく引いて、すぐに次の、それも弾かれればさらに次の攻撃の軌道に入っている。
「燕人張飛、あれほどのものか」
秋蘭の賞賛は、今度は張飛に向けられたものだった。誇張でもなんでもなく真実小枝でも振るう様に、張飛は片手で軽々と蛇矛を振り回す。
春蘭に対して横向きに馬を立たせると、左手で手綱をしっかと握り、股倉に力を込めて馬上に小さな身体を据え付ける。あとは残る右手で猛然と蛇矛を打ち振るった。
春蘭の右を襲った矛が、次の瞬間には左を突いている。無造作に、無作為にありとあらゆる角度から蛇矛が飛んでくる。勘の良い春蘭が、翻弄されていた。
振るう張飛は軽々としたものだが、実際に受ける衝撃は一丈八尺の蛇矛の重さに化け物じみた膂力である。受けながらじりじり前に出ようとしていた春蘭の足が、完全に止まっていた。どころか、右に左に下にと身体を振り回され、その場に留まることすら至難の様子だ。春蘭のそんな姿を目にするのは、人生の大部分を共に過ごしてきた秋蘭をして初めてのことだった。
いや、やはり春蘭もまた見事と賞賛を贈るべきだろう。あの張飛の連撃を受け続けるなど、常人にはおよそ不可能な話だ。あの場に千の兵を送り込めば千を、相応の武人を多勢で送り込めばその全員を、差し向けた分だけ張飛はこちらの戦力を喰らい続けるだろう。一人立ち向かう春蘭はやはり一騎当千の武人なのだ。
「……姉者、悪いが加勢する」
春蘭を死なせるわけにはいかない。曹操軍の武の象徴をこんなところで落とさせるわけにはいかないし、なにより最愛の姉である。
秋蘭は五矢を放った。いずれの矢も先刻の三矢以上の力を込めている。
五矢は張飛の身に迫るまでもなく、ことごとく打ち落とされた。張飛は飛矢を気に止めてすらいない。超重量を感じさせない軽やかさで絶え間なく振り回される一丈八尺の大長物が、張飛の前面に幾重にも軌跡を重ねている。殊更弾くまでもなく、あらゆる角度から春蘭を攻め立てる無軌道な連撃の嵐がそのまま絶対の防御網を形成していた。
「―――っ」
秋蘭は小さく舌打ちすると、馬を走らせた。
「くっ、しゅうらっ、ぐぐっ」
春蘭が喘ぐように叫ぶ。
手を出すなと言いたいのだろうが、それを言葉にする余裕もないようだ。無視して馬を進め、十歩の距離の内へ踏み込んだ。
蛇矛の巻き立てる禍々しい風が体を打つ。濃密な武威と相まって、空間そのものが歪んで感じられた。そこへ幾ら矢を射込もうと、張飛まで届くという気がしない。
矢籠から一矢を抜き取り、餓狼爪に番えた。
―――せめて一矢の勝負を
次の矢があるとは考えなかった。
いつもより拳一つ分、深く引く。思い切り胸を反らすような、不恰好な構えとなった。
すぐには放たない。深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。張飛の武威を、こちらも矢ではなく威で射抜く。
「――――ん」
張飛が初めてわずかに秋蘭を気に掛けるのが分かった。大きく息を吸って、吐く。自然と弦から指が離れた。
張飛が矢を弾いた。先刻と違い、矢を弾くためだけに蛇矛を跳ね上げた。
「おおおおっっっ!!」
春蘭が雄叫びを上げて前に出た。剣の間合い。春蘭にしては珍しい小さな構えから繰り出される突き。猛々しい怒号とは対照的に、極限まで無駄をそぎ落とした動きだ。
「―――んりゃぁああっっ!!」
直後、跳ね飛ばされたのは春蘭であった。剣の間合いに踏み込まれてなお、春蘭の突きよりも速い斬り返し。
「ぐうっ、まだまだっ、―――っ!」
秋蘭の馬の足元まで転がった春蘭は弾かれたように立ち上がり、すぐに七星餓狼を杖にして屈み込んだ。
深く踏み込んでいた分、刃ではなく柄の、それも手元近くで打たれただけだ。幸いにもわき腹で、軽装の春蘭が纏う数少ない具足の上からでもある。そんな状況で、ただ右腕の膂力一つで春蘭を蹲らせていた。
「…………」
さすがに額に汗した張飛は、わずかな逡巡の後、馬首をこちらへ返した。
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。さすがにこの好機に、橋を離れて先陣の将を討ちに来るか。
「―――下がりなさいっ、春蘭、秋蘭!」
背後から華琳の声。同時に大軍の立てる馬蹄の音がどっと響いた。