曹操軍が兵を繰り出した。
「お姉ちゃん達は見限って、今度は数でくるか? へへん、いくら来たって鈴々はへいちゃらなのだ」
鈴々は踏み出しかけた馬の脚を止め、ぐっと股倉に力を込めた。意志を組んで、馬は橋上で四肢を踏み締める。
「姉者っ」
「はっ、放せ、秋蘭っ! 私はまだっ」
「華琳様の思し召しだ」
夏侯淵が、蹲る姉の腕を取って強引に馬上へ引き上げた。夏侯惇は拒絶するも、その抵抗は弱々しい。並の人間なら身体がひしゃげて、口から臓物を吐き出していてもおかしくない。
本気で蛇矛を振ったのは、実に久しぶりのことである。夏侯惇はさすがに強かった。もしかすると愛紗や星と同じくらいに強いのかもしれない。夏侯淵の矢も思わず寒気がするほどで、嵩にかかって攻め立てられたなら無傷ではすまなかっただろう。
「くそっ、張飛っ! これで勝ったと思うなよ!」
夏侯淵に後ろから抱きかかえられた夏侯惇は、捨て台詞を残して去っていく。入れ替わりに、曹操軍の騎兵が橋へと押し寄せる。
眼前に敵が迫る中、鈴々はいくらかほっとしていた。
夏侯惇と夏侯淵。言うまでもなく曹仁の従姉である。戦場で敵として行き合った以上、曹仁本人ならまだしも、その族人を討つことに躊躇いはない。躊躇いはないが、進んで殺したいわけでもなかった。
もっと言えば、敵兵であっても命を奪いたいとは思わない。自ら道を外れた賊などと違って、兵の大半は善良な民でもあるのだ。
「でも、追って来るというなら話は別なのだっ!」
敵騎兵の馬の脚が橋の際に差し掛かった。鈴々は躊躇なく蛇矛を振るった。
右から左に振るって先頭の五騎を、左から右へ返して二列目の五騎を。あとは延々と同じことの繰り返しである。
蛇矛は手に張り付いたようで、力任せに多勢を薙ぎ払ってもびくともしない。散らす命の重みだけをわずかに手の平に感じさせた。
宙を舞うかつて人であった肉塊は、左右の山並みや木々に降り注いでいく。馬は、時に兵と一緒に馬首を刎ねられ、時に恐慌を来たし自ら橋の下へと転落していく。馬だけなら橋を渡らせてしまってもいいが、鈴々の横をすり抜けて行こうとするものはいなかった。それぐらいなら自ら断崖へと足を運んでいく。
曹操軍の兵の目には、そして無垢なる動物の目には、自分はもう人と映っていないのかもしれない。
お気に入りの髪飾りと同じ虎か、得物に因んで大蛇か、それとも現実に存在しない幻想の獣の類か。人外に堕ちることも、躊躇いはない。
「うりゃりゃりゃりゃぁあああーーっ! 」
蛇矛を振りたくる。
―――そんなに強いお二人は、もっとたくさんの人を救えると思います。
昔、桃香に言われた。
初めて会った桃香は、民を背に賊徒と対峙していた。腰が引け脚は震えながらも、靖王伝家を手に賊に立ちはだかっていた。
愛紗と二人、容易く賊を打ち払った。そんな命の恩人に対して、桃香が言い放った言葉だ。得意気な自分を見透かされた気がした。それは自分の蛇矛などよりずっと強い言葉で、今も鈴々の行動を定める一番の拠り所となっている。
とはいえ、難しいことは考えても分からない。志は桃香に、手立ては愛紗や朱里、雛里に任せておけばいい。自分の出来ることは、結局は民を背に蛇矛を振るうことだけなのだ。
今、自分の後ろには二十万の民がいる。それはまさに、たくさんの人だった。
「鈴々は燕人張飛っ! 命が惜しくない奴から、掛かってくるのだっ!!」
鈴々は、敗走の劉備軍にあって一人気勢をあげた。
「しかし、良く走るものだな」
徒歩で騎馬隊と並走する諜報の兵達の姿に、星が感嘆の息を漏らした。
「鳳統様に、そのように鍛えられておりますから」
兵の一人が、息も乱さずに応える。
「ほう、雛里にそのような調練の才能があろうとはな」
「いえ、兵の皆さんが各々頑張ってくれただけです」
謙遜でも何でもなく、雛里は事実を口にした。
領地を持たない劉備軍に大軍の維持は難しく、必然厳しい選抜の末の少数精鋭となる。桃香の盛名を慕って兵に志願する者は多いが、大半は戦闘に向かず兵には不適とされた。そんな中から雛里は桃香への信奉心が特に強い者達を見繕い、目端が利く者や我慢強い者を選んで諜報部隊に誘い入れた。
目端が利く者は敵中に潜り込み、我慢強い者は千里を駆け地を這い情報を集める。ここにいる三十人は、特に我慢強さを買った者達である。
普通の兵が戦闘の調練を受ける間、野山を駆け回ったり、城壁をよじ登ったりという訓練ばかり繰り返させた。それは普通の調練より地味で苛酷なものであったが、雛里が厳しく監督するまでもなく兵達は黙々と日々の課題を熟した。桃香への並外れた忠誠心が故であろう。
具足を纏わぬ軽装と相まって、今では日に二百里(100km)の行軍は当然で、必要とあらば三百里だって駆ける。人間の脚であるから、さすがに疾駆する馬には容易く追い抜かれる。しかし粘り強く休みも欲しない走りは、一日を通せば騎馬隊の通常の行軍よりもずっと速かった。
「それにしても、何とも異様な光景だな」
「ふふっ、確かにそうですね」
雛里は改めて周囲に視線を向けた。
一千騎の騎馬隊は普段通りの装いであるが、諜報の兵三十人の衣服は護送していた老人達の物と取り換えている。元より小柄で細身な者が多く、色あせた衣服を纏って膠で顔に皺を作ってやると、かなりの高齢に見えた。背を丸めて俯くような姿勢を取らせれば、まるきりの老人である。
今はその老人の扮装をした者達が背筋を伸ばして馬と並走しているのだから、確かにかなり奇妙な光景であった。
漢津へ向かう道を折り返し、分岐点へ戻り江陵へと進路を取っている。数日前には桃香達が十数万の民を率いて通過した道である。
「……鈴々ちゃんは無事でしょうか?」
「ははっ、心配性だな、雛里は」
気掛かりを口にすると、星が笑い飛ばした。
「星さんは心配しなさ過ぎです」
何事もなく曹操軍が進軍していれば、すでにかち合っているはずだった。つまり鈴々がただの一騎で曹操軍三万騎を足止めしているということだ。
「無茶で無謀に見えて、あやつも引き際くらい弁えておるさ。その点で言えば鈴々よりも愛紗の方が危ういほどだ。一人で何でも背負い込もうとし過ぎるからな。―――それは、軍師殿二人にも言えることだが」
「―――っ」
星が一瞬、刺すような視線を送ってきた。
「ふっ。まあ何にせよ、よほど不測の事態でも起きない限り、鈴々の心配はするだけ無駄というものだ」
肩をすくめながら星はまとめた。
「むむっ」
敵軍から受ける圧力がいくらか強くなった。
「さすが曹操。なかなか度胸があるのだ」
百歩離れて兵を繰り出すだけだった敵本陣が、三十歩の距離まで迫っていた。先頭には曹操の姿がある。本陣の前進に伴い全軍も脚を進めており、三万の軍の放つ圧力が鈴々の武威を押しやってくる。
「我慢比べなら負けないのだっ!」
前へ出るということは、当然鈴々の武威をまともに受けるということでもある。振るう蛇矛には、曹操の首をも刎ね飛ばそうという気を込めた。曹操も周りにいる兵も、青い顔をしている。
曹操の隣には以前と同じく許褚と典韋の姿があった。許褚は怒りの形相で睨みつけてくる。典韋は何とも言えない複雑な表情だ、ひょっとすると、多少なり自分の身を案じてくれているのかもしれない。虎士の周囲を重装の騎兵―――虎豹騎が囲んでいるが、蘭々の姿はない。馬騰の襲撃で負傷したというから療養中か。
「張飛っ! かく―――」
曹操軍の兵の口上を、言い終わらぬうちに斬り捨てた。本陣の前進に後押しされ、兵はいくらか士気を盛り返している。しかし、問題にもしなかった。
左右に薙ぎ、突出した一騎を突き上げた。
欄干に身を削るようにしながら橋の際を駆ける敵。欄干ごと斬り伏せた。
蛇矛の間合いの外から槍を投げる者。馬体にしがみ付いて身を隠す者。鞍の上に立ち、跳び上がる者までいた。考えるまでもなく蛇矛は最適な軌道を描き、それぞれを屠った。
すでに五百人は斬ったのか。いや、それ以上か。二百人を超えたところで、数えるのはやめていた。
殿には、自分で立つと決めた。
桃香が知っていれば、許してはくれなかっただろう。愛紗なら、馬鹿なことを言うなと叱りつけただろうか。
愛紗とは、同じ村に生まれて同じ師匠に武芸を習った。師匠は元官軍の兵士で、鈴々と愛紗の父親とは親友同士だった。鈴々は早くに両親を亡くしたから、師匠と愛紗に育てられたようなものだ。二人で村を出る時、師匠は愛紗に青龍偃月刀を、鈴々に丈八蛇矛を贈ってくれた。腕の良い鍛冶屋に細かく注文を付け、師匠自らも鍛冶場に籠もって鍛えさせた逸品である。初めて握った瞬間から、年来の得物のように手に馴染んだ。
偃月刀と蛇矛を手に悪を討ち、江湖に二人の名がそれなりに知れ始め、得意絶頂になっている頃に桃香と出会った。その日から全てが始まったのだ。
桃香は弱かった。弱いが、民のために敵と立ち向かうことを恐れなかった。初めて会った時は百の賊徒に立ち向かっていた。それからはほとんど片時も離れず生きてきたが、曹操軍との戦に敗走し、一度だけ離れ離れとなった。数ヶ月を経て再会した時、やはり桃香は賊と対峙していた。わずか数人の兵を連れ、二百の敵に立ち向かっていた。
自分の武は桃香の百倍、いや万倍だ。ならば自分は、一万だろうが百万だろうが押し返してみせる。
「――――――!!」
喉から言葉にならない雄叫びが漏れる。
満腔に氣が満ちていた。様々な記憶が、脳裏に過ぎる。やがてはそれも治まり、頭の中は空白となった。
戦場の喧騒もどこか遠い。真っ白な空間で一人蛇矛を振るう。矛先の向かう先は敵兵ではなく、戦乱の世そのものだ。
すでに己も敵も無く、鈴々は、無人の野でただ蛇矛を振るった。
胸の奥深く、一番大事にしまってあるものだけが、きらきらと光彩を放っている。それは、流亡の道を共に歩もうとする民であり、志を同じくした友であり、生死を共にと誓った姉であった。
「―――っ」
つっと頬を滴る汗の感覚に、鈴々は思考を戦場に引き戻された。
蛇矛を振るう腕が高熱を発している。いつの間にか呼吸も乱れていた。
足元に視線を落とすと、向かってくる敵兵の影が伸びている。天を仰ぐと、荊山の稜線に太陽が沈み込もうとしている。
正午過ぎに曹操軍と対峙し、それから四刻(2時間)は確実に経過していた。
無性に桃香と愛紗に会いたかった。二人は、よくやったとほめてくれるだろうか。
敵をこれまでよりも引き付け、蛇矛を振った。敵兵が背後に吹き飛び、後続ともつれる。
――――時間稼ぎは十分なのだ。
手綱を引いて馬首を返そうとした時、ぐらっと身体が傾いた。
張飛の乗馬が地面に倒れ込んでいた。
「それはそうか」
華琳は小さく首肯した。考えれば当然のことだった。
張飛自身は軽量とはいえ、背中であの長物をぶんぶんと振り回されながら馬は姿勢を保ち続けていたのだ。全力で疾駆するよりも、脚にかかる負担は大きかったのではないか。
兵が、ここぞとばかりに攻め寄せた。馬上の高みを失い、どこまで騎馬隊の圧力に耐えられるのか。
「―――ううっ、りゃあああぁっっ!!」
張飛は迫る騎兵の足元に蛇矛を突き立て、跳ね上げた。横渡しにされた橋板が一枚剥がれ、馬が次々に転んだ。転倒を免れた馬も棹立ちになって脚を止め、そこに後続が詰めかけ、橋上は混乱をきたした。
その隙に、張飛は倒れ伏した乗馬の元へ駆け寄ると轡を取った。立たせようと試みているようだが、馬は首を振って拒絶している。脚の骨が折れているのかもしれない。
張飛は一瞬の躊躇いの後、すっと馬を抱き締め、離れた。馬体がゆっくり橋の上に倒れ伏す。
身を寄せた瞬間、蛇矛の先端が馬の胸に吸い込まれるのが辛うじて華琳の目に移った。先刻までの気の高ぶりが嘘のように、静かで悲しく、優しくもある一突きだった。脚を折った馬は、どんなに手厚い介護を施しても長くは生きられず、衰弱して死ぬことになる。
「見事なものね」
さすがに関羽の薫陶を受けた武人である。天性の膂力に物を言わせるただの獣ではなかった。獅子奮迅の働きぶり以上に、そんな静かな所作に華琳の心は打たれた。
いまだ混乱する騎馬隊に背を向け、張飛は対岸へ向けて走った。転倒の際に地面と馬体に挟みでもしたのか、張飛もわずかに右脚を引きずっている。
袂へ着くと、張飛は先程と同じく蛇矛を突き立て橋板を外した。そして蛇矛を思い切り振りかぶる。橋板の剥がれたそこは、当然橋桁が露わとなっている。
「―――張飛、待ちなさい!」
咄嗟に声が出ていた。
「むっ、なんなのだ? 止めても無駄なのだ、この橋は落とさせてもらうのだっ」
橋桁―――ひと抱えもある丸太を矛で斬り落とす。常人にはまず不可能な所業だが、今の張飛なら苦にもしないだろう。
「そうではないわ。―――皆、下がりなさい!」
華琳の一声で、橋上でもつれ合っていた騎兵たちは落ち着きを取り戻し、後方から順に華琳の後ろまで下がった。
「なんのつもりなのだ?」
いつでも橋を落せるように蛇矛を振りかぶったまま、張飛が問う。橋を落し、痛めた足を引きずって逃げ延びるつもりなのだろう。
「良いものを見せてもらったお礼を上げましょう。―――流流、私の替え馬があったわよね?」
馬の代えは万一のために常に用意されているが、絶影が他の馬より早く休息を必要とすることなどなく、まず使うことはなかった。
「はい。……お持ちしますか?」
「華琳様。我が軍の兵をあれほどに討った者に下賜などされては、士気に障ります」
普段なら速やかに華琳の意を察する流流が躊躇いがちに問い、稟も続いた。
「ふむ」
稟の言葉に、軽く頷き返すと華琳は改めて戦場を見据えた。
「この光景を、よくもあの子一人で」
咲いては散る真っ赤な花が、目に焼き付いて離れない。辺りは死屍累々といった有様だった。飛び散った肉片が周囲の木々に掛かり、赤い実が枝を撓ませている。流れた血は地面をどす黒く染め上げ、大地を持って吸い容れきれずに血溜りを成している。
屍山血河の中心で、一人少女が威を張っていた。その手にはあまりに不釣り合いな一丈八尺という規格外の大長物。小柄な少女の体躯の優に二倍を超え、目方にしても彼女の体重と変わりないだろう。
虎士と虎豹騎を伴って前線へ出た。単騎にて殿軍を務める健気な少女を一目見ようという、軽い気持ちであった。
先陣まで進むと、春蘭と秋蘭が張飛と対峙する様が目に飛び込んだ。曹操軍が誇る武人が年若い少女を相手に二人掛かりとは、と思わず眉をひそめた。しかし直後目にしたのは、膝を折る春蘭の姿であった。
咄嗟に兵へ突撃を命じていた。過ちであったとは思わない。あのまま手を拱いていれば、春蘭と秋蘭を失うことになっていただろう。
突撃させた騎馬隊と入れ違いに下がってきた秋蘭には兵を下げる様に進言されたが、拒絶した。少女一人を相手に我が軍を後退させるなどあってはならないと、意地を張ったのだ。
しかし、そんな詰まらぬ意地はすぐに張飛の武威を前に消し飛んだ。それでも軍は止めなかった。橋を最初に渡り切った者には二千金の褒賞を、功成らならず散った者も家族の生活を保障し、志願者を募り突撃を継続した。
殿にただ一騎などという布陣をしかれては、策を弄せば弄しただけこちら恥をかくだけだ。結局のところ、力押しで破るしかない。ならば途中で手を休めては、無駄に犠牲が拡大するだけだった。
ただ一個の人間の武がどこまで辿り着けるのか、という好奇心も少なからずあった。
結果張飛は、実に九百騎近くの兵を屠った。秋蘭の放った瀬踏みの小隊からも百馬が討たれているから、誇張なく本当の一騎当千である。そして馬が潰れさえしなければ、その数はさらに増えていただろう。
「あれではまるで―――」
まるで、あの呂布を見ているようだった。
曹操軍と最後に対峙した時、呂布は馬を失い地面に投げ出され、利き腕の右肩には矢を受け、左腕には前日の曹仁との一騎打ちで傷を負っていた。しかしそんな満身創痍の状態で、五千の陣に飛び込み、五百を斬り伏せ、華琳の眼前まで迫ってきた。
地の利を有し、心身ともに充実していたとはいえ、張飛の上げた戦果はその呂布をも凌ぐ。
「あんな天が気まぐれで産み落としたような存在が、他にもいたのね」
桁外れの怪物が劉備軍に育っていた。
蓋世の徳を身に宿す長女。武人としても将としても極めて高い水準で完成された次女。そんな二人の姉の影に隠れていた三女もまた、やはり規格外だった。
「……あのちびっこめ~。ボクとやった時は、手を抜いていたなー」
季衣が苦々しげに呟く。
桃香達が曹操軍の元にいた頃には、季衣と張飛は喧嘩友達のようなものであった。言い争いから発展して取っ組み合い、最後には武器を持ち出すこともあり、干戈を交える姿を幾度となく華琳も目にしている。季衣と互角か、せいぜいわずかに上手と言ったところで、稽古で曹仁を圧倒していた関羽ほどに絶対的な印象は残っていない。
「なんなのだー!? 用がないなら、鈴々はもう行くのだ!」
張飛が叫ぶ。
「待ちなさい、張飛! ……稟、尚武の心に敵も味方もないわ」
春蘭に視線を向ける。一番悔しい思いをしているのは春蘭だろう。
「武勇において、張飛は私よりも上っ。呂布と同格。それはっ、認めざるを得ません。称えざるを得ませんっ」
春蘭も張飛の武に呂布の姿を見出したようだ。喘ぐように声を絞り出した。張飛に打たれた脇腹がまだ痛むのだろう。
「よく言ったわ。―――我が軍の兵(つわもの)達に、単身にて比類無き武を打ち立てた張飛を称える者はいても、この戦いの結果に不服を抱く者などいない!」
華琳は春蘭に頷き返すと、兵に聞かせるように、あえて大きく叫んだ。
「―――。――――! ――――!! ――――――!!!」
兵の中からぱらぱらと賛同を示す声が上がり、それは最後には大喚声となった。
これから先も張飛とは戦場で見えることになる。畏怖と敬意。兵に抱かせるなら後者であろう。
「流流」
「はっ、ご用意いたします」
流流が駆け出していく。
「さてと。張飛、勇力絶人。実に強いわね」
馬の用意が整うまでの間、華琳は張飛に語りかけた。
「そっちの二人も、なかなかなのだ。愛紗や星と同じくらい強かったのだ」
張飛は振りかぶっていた蛇矛を下し、矛先で春蘭と秋蘭を指した。
「ちびっこー! お前、ボクとやるときは手を抜いていたな! 情けを掛けたつもりかーっ!?」
華琳の隣で季衣が叫んだ。
「なんで春巻き頭相手に、情けなんて掛けないといけないのだ! けちょんけちょんにするつもりで戦ってたのだ!」
「嘘付けー!」
「むむっ、鈴々は嘘なんてつかないのだっ!」
「落ち着きなさい、季衣」
今にも飛び出していきそうな季衣を宥める。
「ふんだ。春巻き頭も愛紗や星やお兄ちゃんのお姉ちゃん達ほどではないけど、その次くらいには強いのだ。手なんて抜いてないのだっ」
張飛が頬を膨らませて言う。
先刻までの鬼神の戦い振りからは一転、年相応か、それ以上に子供っぽい振る舞いだ。そんなところも、呂布を思わせる。
「ふふっ。しかしその関羽と趙雲も、もはや貴方の相手ではないのではない?」
「そんなことないのだ。鈴々の方がちょびっと上だけど、愛紗と星も強いのだ」
「そうかしら? 最近あの二人と手合せをしたことは?」
張飛一人が年少であることを思えば、半年や一年もあれば他の二人と大きく差が開いていても不思議はない。
「いっつもしてるのだ。勝ったり負けたり、……負けたりなのだ」
張飛が言い難そうに答える。どうやら勝率は関羽達に分があるようだ。
「そう、不思議な話ね」
「?」
張飛が小首を傾げる。
おかしなことを言っているという自覚はないようだ。二人掛かりで挑んだ春蘭と秋蘭を一蹴しておきながら、その同格と評する関羽達には分が悪い。しかし張飛の一人突出した武は、単に相性などと言う言葉で説明が付く域ではなかった。
「……ふむ。無意識に力を抑えているということかしら?」
姉や武の先達に対してはわずかに譲り、喧嘩友達の季衣とは対等の勝負をしてみせた。そしてそれを、本人は自覚すらしていない。
「器用なんだか不器用なんだか。ふふっ、桃香の妹らしいわね」
「―――華琳様」
流流に引かれ、馬が一頭連れられてきた。鞍が乗せられ、轡もかまされている。
水に濡れた烏の羽のような艶やかな黒毛で、足元だけが靴でも履いたように純白の毛に覆われ、蹄も白かった。
轡を取って、前に引き出すように離してやると、とことこと歩き出し、そのまま橋を渡って張飛の元まで迷わず辿り着いた。
「どうかしら?」
張飛はしばし額と馬の鼻面を突き合せるようにすると、顔を上げた。
「気に入ったのだ。名前はあるのかー?」
「ないわ。……そうね、黒毛で足元だけ白いから、踢雪烏騅とでも―――」
「じゃあ、白黒にするのだ!」
「……まあ、もう貴方のものよ。好きに名付けなさい」
「それじゃあ、有り難く貰っていくのだ!」
蛇矛を一閃し、大地に突き立てた張旗を掴むと、張飛は馬の上にひょいと飛び乗った。
「さあ、行くのだっ、白黒っ!」
橋が崩れる轟音が鳴り響いたのは、張飛が背を向け駆け出すのと同時だった。