「あれね?」
「そのようです」
華琳が短く問うと、秋蘭も短く返した。
視線の先、進軍路からをわずかに逸れた位置に数十人の集団を認めた。騎兵が五騎ばかり、形ばかりの見張りとして付いている。
負傷した春蘭に代わって先鋒を任せた霞から、劉備軍に付き従った民衆の最後尾の一団を補足したと知らせが届いていた。
長坂橋での張飛の奮戦からすでに丸一日が経過していた。
落ちた橋を修復し、再び通行可能にするのに然程の時間はかからなかった。元よりあまり深い渓谷ではなく、加えて今は兵馬の亡骸で埋まっている。精神的な抵抗を除けば谷底に降りるのは容易く、数刻のうちに橋脚を補強し橋桁の修繕を終えた。
一夜を明けた今日は、ほとんど一日駆け通しだった。
山河が入り組んだ複雑な地形は抜け、周囲は見渡す限りの平原であり、足元には適度に踏み固められた道がある。二十万の人間が踏破したことで出来上がったばかりの大道で、騎馬隊の大軍が進むには格好だった。さすがに劉備軍にも余裕がなくなってきたのか、春蘭が散々に悩まされた罠の類も見られない。
劉備軍に唯一残された抵抗は、趙旗の乱立だけだった。進軍路周辺のわずかばかりの丘陵や草深い地、朽ちた砦跡などの兵が伏せ得る場所には決まって趙旗が翻っている。
霞にはそれらすべてを無視するように命じていた。現実に兵を率いて趙雲が籠もっていたとしても、劉備軍の有する騎兵はわずかであり、歩兵ならばいなしてしまえば済むことだった。趙旗発見の報告はすでに十数度に及ぶが、ここまで一度も脚を緩めず進軍してきた。
「ようやく尻尾を捕らえたか」
「いかがされますか?」
「そうね。すこし話を聞いてみましょうか。とりわけ熱心な桃香信者、あるいは私のことが特に嫌いな者達のようだし」
桃香の足手まといになることを恐れて、自ら離脱した集団だという。健気な民に多少付き合ってやるのも悪くない。
「しかし、朱里と雛里が脱落する者達を見落すものでしょうか?」
稟が言った。文官の中では馬術の達者であるが、さすがに疲労をにじませている
「見落したのではなく、見逃したと? 確かに進軍路上に点々と民の群れが残されていれば、追撃の脚を緩めざるを得ないわね」
「……いえ、あの朱里と雛里が、民をそのように扱うはずはありませんね。お忘れください」
稟が頭を振って自らの発言を打ち消す。
「……ふむ」
桃香達が曹操軍の庇護下にあった頃、軍師二人には文官仕事の手伝いや学校での指導に協力してもらっている。桂花は頑なに二人との交流を拒んでいたが、稟と風はかなり親交を深めていた。その稟の目から見て、二人がやりそうにない企てと判断したようだ。
華琳の見解はまた別だった。諸葛亮はともかく雛里ならやるかもしれない。有効と思える策が思いついたなら、試したくなるのが軍略家と言うものだ。華琳に民を害する気がないのも当然見抜いているだろう。
「まあ、とりあえずは会ってみましょうか」
集団の横で軍を止めると、虎士を伴って馬を進めた。
「貴方達、もう良いわ、隊へ戻りなさい。張遼将軍に、この先は本隊に構わず先行する様に伝令を」
見張りの兵に言った。
華琳が民と話すこと自体が、足止めの意図を有するかもしれないのだ。
「さてと、―――劉玄徳の民達よ、顔を上げよっ!」
縮こまり身を寄せ合っていた者達が、おずおずと視線を上げた。
霞の報告にあった通り、老いた者ばかりだ。年端もいかぬ少女も一人混じっているという話だったが、姿が見えない。猛将で聞こえた張文遠に睨まれては、怖くて大人の影に隠れざるを得ないのだろう。
「私が誰か分かる者はいるか?」
「……私は以前、許に住んでおりました。貴方様が劉備様と共に街を歩かれているのをお見掛けしたこともございます、曹操様」
「私も陳留でお見掛けしました」
「私も」
老人の一人が言うと、何人かが続いた。
「つまり貴方達は、私の政を嫌って我が領地から去った人間というわけね?」
「……はい」
「何か言いたいことがあるのなら、耳を貸すわよ」
曹孟徳の風聞を恐れて逃げ惑うだけの者達とは違い、聞く価値のある言葉を口にするかもしれない。
「…………税が重すぎます」
「そうだ、一度にあんなに持っていかれては」
しばしの沈黙の後、一人が税に対する不満を言うと、そうだそうだと十人余りが続いた。華琳の姿こそ見たことが無くても、曹操領内に暮らした経験を持つ者は少なくないらしい。
「以前は、何度も臨時徴税や労役を課されていたでしょう。差し引きすれば、そう変わりはないはずよ。―――他に何かないか?」
「私の家族は、他の者達より多く税を納めるよう言われました」
「それは貴方の土地が豊かだったということでしょうね。他の者よりも、多くの収穫があったのではない? それでも痩せた土地の持ち主と同じだけしか税を納めたくはない? それとも痩せた土地の持ち主からも自分と同じだけ税を搾り取らせたいか? ―――他には?」
「……孫と三人で畑を耕していた息子夫婦は、孫を学校に取られ、手が足りずに農地を手放すこととなりました」
「効率の良い農法を公布しているわ。家族三人を養う位の収穫は難しくないはずよ」
農具の改良や肥料の使い方、二毛作などの曹仁の知識を元に確立した農法は、惜しみなく領内全てに触れて回った。特に規制を掛けてはいないため、それは他領にも浸透しつつある。互いの領民を飢餓に貶めながら覇を競うつもりはないし、やがては自領に併呑するのだ。
「我々には学がなく、難しいことを言われても分かりません」
「なら学校に通いなさい。大人でも希望者は受講出来るし、夜間の講義だってあるわ」
「しかし、そう簡単に今までの暮らしを変えることは……」
「今、国が変ろうとしている。それは私の領に限った話ではない。貴方達も変わらずにはいられないわ。認識なさい」
他に、商売敵が増えて店が傾いたと言う者がいた。商いの道は競争であり、商業の活性化の段階で多少の篩に掛けられるのは仕方がないことだ。商業の推奨をやめる理由にはならない。
酒家や工人なども、それぞれの苦難を口にした。どれも個人の事象に過ぎない。それぞれには同情の余地もあるかもしれないが、全てに対応出来るはずもない。
桃香は、街を歩き回ってはそうした個々の問題一つ一つを汲み上げようとしていた。見上げたものではあるが、桃香という優れた資質ある個人だから出来たことだ。為政者が個々の事情を顧み過ぎては、政は立ち行かない。
「なかなか面白い話が聞けたわ。何か褒美でも取らせましょう、流流―――」
とはいえ、これ以上は実のある話を聞けそうにない。華琳は会話を切り上げに掛かった。
「―――お待ちください!」
一人―――最初に華琳の名を言い当てた老人だ―――が、声を張り上げた。七十、八十にも見える外見に反して、声には意外に張りがある。華琳は老人の言葉の続きを待った。
「劉表様は朝廷より正式に任命された荊州刺史。漢朝の司空であらせられる曹操様が、何故あってお奪いになるのです?」
「へえ。私に議論を吹っ掛けるつもり?」
やはり足止めでもしたいのだろうか。霞を先行させているし、もう少し付き合ってやるつもりに華琳はなった。
それにしても民が漢室の建前を持ち出すというのは意外である。荊州は学問の都と呼ばれてはいても、それは名士達だけのものである。曹操領内の様に上下の別なく門徒が開かれているわけではない。
「劉表ね。そういえば、貴方達は十日も前に襄陽を発っているからまだ知らないのね。死んだわよ、劉表。私が攻め滅ぼしたのではなく、病でね」
「そうでしたか」
急な病ではなくしばらく臥せっていたというから、老人達に大きな動揺は見られなかった。
「主を失った荊州の地を、天子の元へお返しするだけのこと。漢朝の臣下として、私は何もおかしなことはしていないわ」
「しかし、まだ劉琦様と劉琮様、二人の御子息がございます」
「私に荊州刺史の印璽を手ずから返上したのはその劉琮なのだけれど、この際それは置きましょう。……そもそも刺史とは朝廷より任命される役職であって、親が亡くなったからといって子へ受け継がれるものではないわ。親から子へ世襲されるというなら、それは役人ではなく王よ」
「それはっ、…………」
「納得してもらえたかしら?」
建前に建前で返すと、老人は押し黙った。
「さてと、ではこれで話は終わり―――」
「―――華琳様っ!」
声に後ろを振り返ると、本隊に残してきた秋蘭が軍の後方を指差し叫んでいる。目を凝らすと、地平に何かが見えた。
「おおよそ一千騎。趙旗を掲げています」
「さすがね、秋蘭。私にはまだ点としか見えないわ。最後に報告を受けた趙旗が当りだったようね」
趙旗が立てられていたのは比較的規模が大きく損壊も少ない城塞の跡地で、これ見よがしに城門が開け放たれていたという。
話す間にも、点は少しずつ大きくなっていく。距離は五里(2.5km)ほどだろうか。
「貴方達、そこでじっとしてなさい」
老人達に言い置き、命令を飛ばす。
「秋蘭、四千騎を率いて左翼に」
「はっ」
「春蘭は―――」
「―――行けますっ!」
秋蘭からその隣へ視線を移すと、勢い込んで春蘭が叫んだ。
「ならば四千騎を率いて右翼に。一度受け、包囲して仕留めるわ」
慌てず、陣を組んだ。騎馬隊による奇襲は想定の一つである。とはいえ、これだけ開けた地形では奇襲は奇襲足り得ない。
春蘭、秋蘭を両翼にして鶴翼に構えた。中軍へと誘い込む受けの陣形で、騎兵の戦では言うまでもなく悪手であるが、包囲殲滅を狙った。一千騎は劉備軍にとっては騎馬隊のほぼ総数であり、犠牲を払う価値はある。
囮となる中軍は二千の騎馬隊に曹の牙門旗、さらにその後方には劉備を慕う民の群れである。奇しくも人質を取ったようなもので、無視は出来ないはずだ。
一千騎。一里の距離まで迫っていた。寡兵で真っ直ぐ突っ込んで来る。
胸騒ぎがした。どこかで、似たような戦況を戦った。そんな気がした。
大魚が網に掛かろうとしていた。それも想定の中でも最良の形で。
「……あわわ」
自ら決断し踏み出した非道の策が、いま形になろうとしている。思わずいつもの口癖が漏れた。
隠れていた男の背から顔を覗かせると、十数歩の距離に、虎士の五十騎に囲まれただけの華琳の後姿がある。その虎士も前面へ厚く配置され、後方は手薄だった。許褚と典韋も華琳の前に二人並んでいる。ほんの数人を抜くだけで、華琳に剣が届く。
さすがに自分に老婆の扮装は無理があり、いつもより一層幼い村娘に扮した。黄忠の娘の璃々が着るような、ほとんど幼児向けの服に身を包んでいる。悲しいかなあまり違和感はない。鈴々などは出会った頃と比べるとだいぶ背も伸び、身体も女性らしい丸みを帯び始めているが、自分と朱里はほとんど成長しなかった。
張遼と視線があった時には、さすがに気付かれたと思った。疑念を抱かれずに済んだのは、元々の気弱な性格が幸いして演じるまでもなく体が震え、慌てて身を隠したからだろう。
華琳が自ら尋問に現れたのは、予想通りの展開であった。気骨ある民を装えば、華琳なら直接言葉を交わす。その思いは確信に近かったが、その後の迎撃の布陣も含め想定した通りに事は進んでいた。
天の御使いも天子も有している華琳だが、今、天佑はこちらにある。
「皆さん、用意は良いですか」
星の騎馬隊が上げる喚声と馬蹄の音が轟き、小声で話す必要はなくなっていた。
「はっ」
老人姿の兵達が懐に手を入れる。得物はそれぞれ短刀が一本だけだ。見咎められても護身用と言い逃れが出来るように、どこででも手に入る簡素なものだ。
「―――趙子龍見参! 曹操殿っ、お覚悟めされよっ!」
馬蹄と喚声に混じって、星の良く通る声が響く。
曹操軍の騎馬隊に視界を阻まれて見えないが、その姿が目に浮かぶようだった。決して返り血を浴びることのない純白の衣装と、対照的に真紅の刀身を持つ槍。
「我こそは北方常山にその名も高き昇り龍なり! 龍の牙をその身に受けよっ!」
ただでさえ目を引く出で立ちの星が、これ見よがしに叫ぶ。
計画を明かした時には異議こそ唱えないものの不服そうであったが、今は一身に戦場の視線を集めてくれている。
三十人は元々戦闘には不向きとされた者達だから、まともにぶつかれば曹操軍の兵には敵わない。ましてや相手が虎士ともなれば、たった数人でも勝算は薄い。
静かに近付いて、懐に飛び込んで突き刺す。三十人の短刀は粗末で切れ味も悪いが、切っ先だけはよく尖らせていた。兵も武術というよりも忍び寄って殺す、そんな技を仕込まれている。
騎馬隊の駆ける馬蹄の響き、喚声、星の長口上がさらに間近に迫る。
視線は華琳の後姿に釘付けになっていた。手振りで、前進を指示する。華琳まで、十歩を切った。まだこちらに気付いた様子はない。
―――よし、今です。
とれる。そう確信して、口を開きかけた。その瞬間、華琳の頭の左右で束ねた髪が揺れた。
「―――っ」
華琳がこちらを振り返った。攻めに転じようと考えていた矢先だけに、とっさに顔を伏せることも出来なかった。視線と視線がかち合う。
―――雛里。
華琳の口が、確かにそう動くのが見えた。
「突撃してくださいっ!!」
あとはもう、破れかぶれでそう叫ぶしかない。
兵と共に雛里は駆け出した。
常になく間近で聞こえる喚声、怒号、呻き。恐怖と興奮で、その後のことを雛里ははっきりとは覚えていない。しかし火を見るよりも明らかな勝負の行方は、すぐに決したらしかった。
「久しぶりね、雛里」
「……お久しぶりです、華琳さん」
兵と共に、華琳の前に引き立てられた。諜報部隊の兵で生き残ったのは、わずか三名である。
すでに星の騎馬隊は駆け去っている。幸い、追撃は受けていない。双方ともここまでの進軍でかなり馬の脚に負担を強いているし、歩兵の待ち伏せも警戒したのだろう。
しかし見極めの上手い星らしくもなく深追いが過ぎ、二百から三百の犠牲は出したようだ。本来は注目を集めるだけ集め、交戦は避けて一兵も損なわずに離脱するはずだった。退避が遅れ、星は曹操軍の両翼に捕まることとなった。
自分の存在が、星の足枷となった。襲撃に参加する者は、言うまでもなく成否に係わらず死兵である。
今回の作戦は桃香の許可を受けていない。朱里にも話していない。二人に明かせば反対されただろう。協力者の星にも雛里が自ら奇襲部隊に加わることは告げていないが、勘の鋭い星のことだ、察するところがあったのだろう。
騎馬隊の殿に付いた星は、雛里が知る限り初めて純白の衣装を血で赤く染めていた。
「ずいぶん無茶をしたわね。貴方自ら率いる必要があったのかしら?」
華琳が当然の疑問を口にした。隣で稟も頷いている。
「華琳さんが後ろを振り向いたのは、私や兵の偽装が甘かったからでしょうか? それとも何か他に不審な点がありましたか?」
質問に質問で返した。答え難い問いでもあったし、死ぬ前に軍師としての疑問を解いておきたかった。
「いえ、振り向いてみるまで貴方の存在には気付かなかったし、兵の偽装も見事よ。貴方も、……ふふっ、なかなか可愛らしい格好ね。疑いの眼差しを向けていなければ、一目で貴方と見破るのは難しかったでしょう」
子供向けの衣服に身を包む雛里を見て、華琳は愉快そうに微笑んだ。
「……それでは?」
恥ずかしさに耐えながら、雛里は先を促した。
「似たような状況をほんの一月ほど前に経験したわ。妹の柔肌に傷を残すことになった、私にとっては痛恨事ね。それで、嫌な予感がしたのよ」
「…………あっ、馬騰の」
自身の立てた計画が、伝え聞いた巻狩りでの襲撃とよく似ていることに雛里は思い至った。長駆し正面から向かってくる星が馬騰で、油断させて背後を衝く雛里と諜報の兵達が董承ら廷臣達だ。
天佑とも思えた絶妙な配置が、かえって華琳にかつての襲撃を想起させた。やはり天意は、二つの天を有する者の上にあるのか。
「最後に議論を吹っかけさせたのは、趙雲が来るまでの時間稼ぎね?」
「……はい」
「その前に兵が口にした私の政への不満は? あれも適当に批判の言葉を並べただけ? それとも貴方の考えの代弁と取って良いのかしら?」
「いいえ、劉備軍に加わってくる兵や民から聞いた本当の言葉です。民の叫びそのものです」
「つまり貴方の本意ではないということね」
多少意地の悪い気持ちで民を持ち出すも、華琳はむしろ上機嫌で小さく首を縦に振り、言葉を続けた。
「劉備軍が出奔した時、私は貴方だけは残ってくれるものと思っていたのよ?」
「―――っ」
何と返すべきか分からず、雛里は言葉を詰まらせた。
それは、雛里が襲撃部隊に留まった理由でもあった。
曹孟徳の天下。曹操軍で過ごす間に、それも悪くないと思ってしまった。距離を置いた今も、その思いは否定しきれず胸の内にわだかまっている。
桃香より先に、華琳に出会っていたらどうなっていたか。そんな想像をしてしまうことすらあった。
心の内深くに巣食った華琳を、締め出す必要があった。華琳を討つ以外、それには方法がないように思えた。今はまだ、劉備軍は曹操軍に戦場では勝てない。仮に対等な条件だとしても軍略家としての自分が、華琳に勝てるかどうかも分からない。卑劣な策を用いるしかなかった。しかし相手は当代の英傑にして、桃香と秤に掛けかねないほど雛里の中で大きく育ってしまった華琳である。雛里にとってそれは、自らの命を擲つことで初めて許容し得る策だったのだ。
死ぬのは怖いが、自分がいなくなっても朱里がいる。それは、自分がいるのとほとんど同じことだった。桃香の軍師で朱里の親友の自分のまま死ぬ。雛里はそう思い定めた。
「聞かせてもらえるかしら? 何故私の元を去ったのか」
「……確かに私は、華琳さんのことが嫌いじゃありません。その政も否定し切ることは出来ません。でも、―――桃香様ほど好きでもありません」
「貴様っ、華琳様を愚弄するかっ!?」
「―――春蘭」
「……はっ、申し訳ありません」
黙って会話を聞いていた夏侯惇が柳眉を逆立てるのを、華琳が制した。
「らしくもなく、いやにはっきりと物を言うわね。乱世の荒波に再び揉まれて、鍛えられたのかしら?」
「どうせ死を待つ身です。言いたいことは言わせてもらいます」
「ふーん。それで、この私を拒絶するほどに、いったい桃香のどこが好きなの?」
意を決して告げるも、華琳は軽く肩をすくめるだけで聞き流した。
「桃香様は、すごくないんです。愛紗さん達みたいに強くないし、朱里ちゃんみたいに賢くもない。強くて頭の良い華琳さんとは全然違うんです」
「雛里、それではまるで褒めていないけれど」
稟が口を挟んだ。
「華琳さんなら、分かると思います。華琳さんだって、桃香様のことがお好きなはずですから」
雛里は矛先を華琳へ転じた。
「……そうね。分からないでもないわ」
華琳が、渋々という感じで頷いた。
「桃香は不思議ね。身体もおつむも弱いし、人一倍怯えたり落ち込んだり、心だって特別強そうには見えない。そのくせ、この乱世でほとんど唯一私と対等であり続けている。だから桃香は私の友であり、―――最大の敵だわ」
華琳への嫌いじゃないは理屈だ。しかし桃香への好きは理屈ではなかった。言葉にして説明するのは難しいが、心惹かれる。
「華琳さんには、桃香様と一緒に進む道もあるはずです」
「あった、と言うべきね。私は一度、それを提示した。私の元で、桃香が民を労わるという道を。出て行ったのは貴方達でしょう?」
「もう一度歩み寄ることは出来ませんか? 華琳さんが改革の手をほんの少し緩めてくれれば、桃香様もきっと力を貸してくれるはずです」
「本来百年、千年掛かる変革を、十年二十年で遂げようとしているのよ。これ以上脚を緩めることは出来ないわ」
「その十年二十年というのを、五十年とすることが何故出来ないのですか? あるいは子や、孫の代に託すことは? 華琳さんの理想が正しいものであるならば、一代で遂げずとも必ず後に続く者が現れるはずです」
「いやよ、そんなの。次代が私の理想の世界を築いたところで、肝心の私がそれを見ることも、そこで遊ぶことも出来ないじゃない」
「華琳さん一人の我儘に、民を付き合せようというのですか?」
「ええそうよ。私が勝ち取った私の国であり、私の民よ。私が思い描くより良い未来のために、今を多少は犠牲にしてもらうわ」
華琳のこうした物言いは、嫌いではない。むしろ好きといっても良いかもしれない。雛里は桃香になったつもりで話した。でないと、華琳の言葉に引き込まれかねない。
「今を苦しみ、不満の声を上げている民など、十年後のより良い世界のための過程に過ぎないと華琳さんは仰るのですか?」
「いいえ、それも一つの結果よ。拙いながらも民が政に対する不満と自らの希望を口にした。それは一つの進歩と言えるわ。民が国の有り方に口を出せる。それこそ私の望む未来の一つよ。少なくともその桁外れの人気でもって、民に不満すら抱かせることなく、苦難の道を共に歩ませる。そんなやり方よりもよほど真っ当だとは思わない?」
「しかし、変革に対応出来る民ばかりではありません。簡単に変わることの出来ない人たちもいるんです」
「簡単に変わることが出来ない? ならば桃香に従った二十万の民は何? 私の政を否定する最たるものである彼らこそが、これまでの暮らし全てを捨てて最も困難な道を自ら選んだじゃない」
「……っ」
「桃香も貴方も、民を弱い者、守らねばならない対象と見過ぎよ。元より民は強い。弱く哀れで虐げられる存在だと、誰が決めた」
雛里は何度か口を開きかけ、結局無言のままうなだれた。覚悟を決めた二十万の行列を見た後では、否定する言葉は見つからなかった。
「―――そういえば、さっき妙な事を言っていたわね?」
黙り込んだ雛里に、華琳が語調を緩めて話し掛ける。
「確か、死を待つ身がどうだとか。雛里、貴方何か病でも患っているの?」
「董承やその同士達は死を賜ったと聞いていますが」
「ああ、そういうこと。あれは陛下の御膝元で行われた暗殺未遂だもの。今回の件とは状況が違うわ。私達と貴方達はすでに交戦中の敵同士で、貴方がやったのは伏兵や間諜の延長に過ぎない」
「しかし―――」
「何より私が、貴方のような才人を殺すとでも思ったの? 捕虜、いや客分として、しばらく私の幕下にいなさい」
曹孟徳の幕下に置かれる。軍略を学ぶ者として思わず湧き立ち掛けた心を、雛里は懸命に鎮めた。