桃香は江陵の城門をくぐった。二十万の民の最後尾であり、新たに加わった一万の劉備軍の先頭だ。
「桃香様、おかえりなさいっ!」
「璃々ちゃん、ただいまっ!」
城内で一番に出迎えてくれたのは、黄忠の一人娘璃璃だ。跳び付いてきた璃璃の小さな体を、桃香は抱き止める。
「これ、璃璃。劉備殿はお疲れだ。あまり御迷惑を掛けるでないぞ」
桃香と共に入城した厳顔が、璃璃をたしなめる。
「ははっ、良いんだよ、厳顔さん。璃璃ちゃん、お手伝いありがとうね」
「えへへっ、どういたしましてっ」
民の受け入れ作業を幼いなりに手伝ってくれていたのは、城門の影からずっと見えていた。
桃香は二十万の先頭に立って江陵に至り、自身は入城せずに城門前に陣取ると、最後の一人が通り過ぎるまで民に感謝と労いの言葉を掛け続けていた。その間ずっと、璃璃は桃香達に声を掛けるのを我慢して、城内でお手伝いに徹していた。子供らしからぬ気の回しようには頭の下がる思いである。
「―――皆、よくぞここまで民を、我が主君を守ってくれた。この関雲長、貴様達を我が軍に歓迎する。長旅の疲れもあろうが、今少し奮起してくれ」
愛紗が、桃香達に続いて入城してくる兵達に呼び掛けている。民の受け入れと並行して手筈を整えていたのだろう、兵は数十から数百人単位で城の各所へ配属されていく。
桃香の視線に気づくと、愛紗は部下に後を任せこちらへ駆け寄ってくる。
「桃香様、お疲れ様でした。よくぞご無事で」
「愛紗ちゃん。……うん、私は無事なんだけど、雛里ちゃんが」
「朱里と、それに諜報の兵からも話は聞いております」
二刻ほど前に星からの伝令が、そしてほぼ時を同じくして雛里と行動を共にしていた諜報部隊の兵が帰陣した。華琳に対しての奇襲とその失敗、そして雛里の捕縛という事態が伝えられた。兵は一度は雛里と共に曹操軍に捕らえられ、解き放たれたという。
報せは誰にとっても思いがけない顛末であったが、特に衝撃を受けたのはやはり雛里の盟友朱里であった。色を失った朱里は、馬謖の付き添いで先に入城させ休ませている
「華琳さんのことだから、悪いようにはしないと思うけど」
「そうですね、それが救いです。星から、何か新しい情報は?」
「ううん。華琳さん達もかなり近くまで来てるみたいだから、伝令のやり取りはもう難しいんじゃないかな」
「そうですか。まあ星なら一人でも上手くやるでしょう。」
星と一千騎は城外で遊撃の扱いとしている。無理に入城を試みれば曹操軍とかち合いかねないし、可能性は低いが華琳がそのまま城攻めを開始したなら城外の騎馬隊の存在は頼もしい。そこまでが、星が受けた雛里からの最期の指示だという。
「さてと」
差し当たっての連絡事項はここまでと、愛紗は気を取り直すように一度喉を鳴らし、大きく息を吸った。
「―――こらっ、鈴々っ、起きないかっ!!」
「んにゃっ、あっ、愛紗?」
愛紗の大喝に、桃香の隣で馬の背に伏していた鈴々ががばりと顔を上げた。
焦点の定まらない目できょろきょろと辺りを見回すも、重さに耐えきれないという感じですぐに再び目蓋が落ち、ふらふらと身体を揺らしはじめる。
「り―――」
桃香はしーっと口元に指を当てて、愛紗を制止した。
「眠らせておいてあげて。ずいぶん大変だったみたいだから」
「何でも長坂橋に一人陣取って、三万騎を押し止めおったらしいぞ」
厳顔が言った。
「本人の言う事だからどこまで信じて良いものか分からぬが、夏侯惇と夏侯淵を二人まとめて追い払い、一千騎を打ち倒したとか。まあ、その前に軽く捻られたワシとしては、全て真の話と信じたいところよ。ほれ、曹操に褒美と言って駿馬も貰ってきたことだしな」
厳顔が鈴々の乗馬を示す。馬上の鈴々は再び寝入っている。
「無茶をして。あとで叱っておかねば」
「おいおい、話を聞いておったか? 一人大活躍だったのだぞ」
「良いのだ、厳顔殿。桃香様が甘やかされる分、私が厳しくしなくては。こやつはすぐに調子に乗って、無茶ばかりを繰り返しかねんからな」
「はっはっ、なるほど。劉備殿と関羽殿、それに童っぱで三姉妹であったな。しっかり者の次女とは損な役回りではないか、関羽殿」
「―――あら、桔梗、劉備軍の皆さんとずいぶん仲良くなったのね。それに一万の兵に兵糧まで持ち出すだなんて、見事に荊州軍を裏切ってくれたわね」
「紫苑か。お主こそ、船団を率いての合流とはやるではないか」
やはり民の受け入れに尽力してくれていた黄忠が、しずしずとこちらへと歩み寄ってくる。
「璃璃、劉備様はお疲れよ。こちらへいらっしゃい」
「……はーい、お母さん」
璃璃は名残惜しそうに桃香の側から離れると、黄忠の隣まで下がった。
「黄忠さん、来てくれて本当に助かりました。船団がなければ、今頃どうなっていたことか」
「黄祖殿の命令に従ったまでのこと、お気になさらないでください。―――劉備様、黄祖殿からので伝言です」
黄忠は神妙な面持ちで言うと、ちょっと声色を変えて続けた。
「江陵に籠もられるなら、軍船は一隻でも多い方が良い。樊城の水軍は元を糺せば江夏郡の太守として儂が一人で作り上げたもの。水夫も、儂が鍛え上げた者達。劉表様の命ならばともかく、倅の劉琮や蔡瑁の命令などで曹操軍に引き渡す道理はない。曹操軍に渡すくらいならば、共に戦った劉備殿にお譲りする。―――以上が黄祖殿から劉備様への伝言。そしてまた、御遺言でもございます」
「それじゃあ、やっぱり黄祖さんは」
「はい。曹操軍が城下に迫る前日。劉備様が襄陽を起たれた二日後になります」
黄忠が船団を率いて現れたと聞いた時から、予感はしていた。
「それと、これもお伝えしておかなければなりませんわね。黄祖殿の亡骸は、孫策軍へと引き渡しました」
「そんなっ」
「これも黄祖殿の御遺言ですの。夏口を抑え長江を支配下に置く孫策軍が、荊州水軍の通行を見逃してくれるはずもない。仇敵である自分の亡骸をもって認めさせろと」
「私達のために……」
「―――はっはっはっ、自分の亡骸をも利用するとは。周到な黄祖殿らしいな」
桃香が声を失っていると、厳顔が大笑した。
「ええ、本当に。―――劉備様。黄祖殿は常々、孫堅を討ったことで否応なく定められてしまった武人としての生に倦み、同時にそれを全うする事を標としておりました。孫家への亡骸の引き渡しは、おそらく本人が何より望むところであったのでしょう」
「生涯の仇敵に亡骸を委ね、戦友に力を残す。武人としては最高に近い死に様でしょう。劉備殿、旧友として黄祖殿に代わってお礼申し上げる」
「……確かにそんなものかもしれませんね」
桃香には分かり難い理屈だが、同じ武人の愛紗は小さく頷き、一応の理解を示した。先日の桔梗の振る舞いを思えば、荊州人の気質というのもあるかもしれない。
「ところで、江陵には黄祖殿に言われて船を届けに来ただけか、紫苑?」
笑いを収めると、桔梗が言った。
「……なんのことかしら、桔梗?」
「ただ船を届けるだけなら、わざわざ璃々を連れてはこまい」
「これから曹操軍の占領下に入る樊城に残して置くわけにもいきませんでしょう? 私が劉備殿に船を届けたと知られたら、璃々の身に何が起こるか」
「お主のことだ、信頼出来る預かり先の一つや二つ用意していよう。これから戦場となりかねない江陵に伴うよりは、よほど安全な避難先をな」
「さあ、どうかしらね?」
二人の間に、奇妙な緊張が走った。
「ふふっ、そう構えるな。警戒せずとも、ワシはもう荊州軍へ戻るつもりはない。荊州軍の厳顔は劉備殿にすぱっと斬り捨てられたわ」
「斬り捨てられた?」
「まあ、その話はいずれ酒の席の肴にでも供しよう。その前にやることがあろう?」
「そうね。もしかしてわざわざ待っていてくれたの、桔梗?」
「付き合いも長い。どうせなら共にと思ってな」
二人は目語を交わし、二度三度頷き合うと、桃香の方へ向き直って拱手した。
「劉備様、私は姓を黄、名を忠、真名を紫苑と申します」
「劉備殿、ワシは姓を厳、名を顔、真名は桔梗」
「えっ、えっ? 二人とも急にどうしたんです?」
「我らの真名、そして我らの身命を、これより劉備様にお預けいたします。お受け取りいただけますか?」
「我ら二人、劉備様の臣下の末席にお加えください」
黄忠と厳顔は、拱手した両手を掲げ、深々と頭を下げた。
江陵の二里(1km)手前で、先着した霞隊と華琳は合流した。
視線の先では、原野を大河が両断している。対岸はかろうじて山影が見えるだけで、ともすれば大地そのものがそこで途切れていると錯覚してしまうほどだった。
中華最大の河川長江へ至るのはこれで数度目だが、河水に慣れ親しんだ華琳の目をして壮観だった。
そしてその長江の岸沿いに巨大な城郭が鎮座している。こちらは目にするのは初めてであるが、江陵で間違いない。水運を利した物資の一大集積地であり、城の規模としては州都の襄陽をも上回る。つまり衣食においても住においても、一時的に二十万の民を受け入れる余裕は十分に有しており、そしてすでにその収容を終えていた。
「追い付けなかったか」
騎乗のまま華琳は呟いた。この場に長居するつもりはない。
「すんまへん、華琳様」
「貴方に追い付けないのなら、他の誰でも追い付けないわ、霞。私の見積りが甘かったという事よ。大したものね、雛里」
「わ、私は何も。船団を率いて黄忠さんが合流してくれた幸運に恵まれたことと、何より桃香様の人徳です」
すでに時間稼ぎは十分と、ここまでの進軍の道すがら雛里は問われるままに劉備軍の行軍計画を明かした。
二十万の民を引き連れての移動は日に十五里までが限度で、襄陽から江陵までの三百里を当初二十日をかけて進むはずであった。それは、華琳の予想とも合致している。
しかし現実に要した時は、わずか十二日に過ぎない。
進軍五日目、襄陽より七十里を進んだ地点で、老人や病人といった弱者の切り離しが行われていた。日に十五里の遅々とした進軍の最大の要因を除いた集団は、日に四十里近くを歩き、先頭は切り離しより六日目となる昨日、最後尾も霞が江陵に到着した今日の正午までには入城を遂げていた。華琳が到着したのは、霞隊からさらに六刻(3時間)遅れである。
一方で切り離された弱者の集団は、ちょうど道半ばに存在する漢津から船による移送で先立って江陵入りを果たしている。華琳達が最も肉迫したのがこの集団で、張飛の奮戦も彼らを逃がすためであった。
雛里の言う通り、船団の合流があって初めて取り得る案であるし、桃香の人徳が無ければ弱者の切り離しを民が肯んずるとも思えない。また如何に足手まといを切り離したからといって、なおも女子供を含む集団を日に四十里も歩かせるのも至難である。華琳が同じことをやろうと思えば軍で脅しつけるしかないが、それでも自発的に歩いた彼らほどに足を速めてはくれないだろう。
「しかし、私の政を苛烈と言って逃げ出しておきながら、桃香と共にならば三百里の逃避行も物ともしないというのだから、不思議なものね。これが、好きと嫌いじゃないの違いかしら?」
「あっ、あわわっ」
昨日の雛里の台詞を持ち出してやると、雛里が身を縮こまらせた。
「さてと、せっかくここまで来たのだから、まぬけ顔の一つも拝んで帰ろうかしらね」
「わ、私は」
「……貴方はここでお留守番よ。霞、雛里を見ていてちょうだい。季衣、流流、行くわよっ」
馬を走らせると、虎士がすっと周囲を囲んだ。春蘭と秋蘭も何も言わず付いてくる。
雛里に別れの言葉の一言二言交わさせてやろうとも思ったが、昨日の様子を見るに桃香と引き合せては暴走しかねない。自棄になって無理な逃走でもはかられては、さすがに黙って見逃がすわけにはいかない。結果、雛里を傷付けかねなかった。
「―――華琳様、この辺りで」
秋蘭が、華琳の前へ回り込んで絶影を制止した。江陵の城壁まではまだかなりの距離がある。
「秋蘭?」
「敵軍には、黄忠が合流しています」
「弓の名手だったわね。しかし城壁からはまだ半里―――五百歩近くは離れているわよ」
「私と同等の腕を持つ者なら、四百歩までなら届きます。もし黄忠の腕が私より上ならば、この距離でも油断は出来ません」
「ふむ」
言われて、華琳は目を凝らした。
江陵の城壁上に並ぶ兵の姿がかろうじて見て取れた。しかしその中に弓を構えた者がいるかどうかまでは判別が付かない。
「おいおい秋蘭、この距離だぞ。届くと言ってもそうそう当たりはせんだろうし、へろへろの矢など飛んできたところで怖くもなかろう」
春蘭が口を挟んだ。
「……姉者。狙い通りに当て、命を取れること。私の言う“届く”とは、そういうことだ」
「あう」
春蘭に対して、珍しく強い口調で秋蘭が返す。弓の使い手として譲れない部分なのだろう。
「どうしますか、華琳様。楯を用意させましょうか?」
流流が言う。
「いえ、こちらは襄陽からここまで足を運んできたのだもの。ここからは、向こうに出て来てもらいましょう」
ここへきて楯に守られ進むというのも様にならない。華琳は思い切り息を吸った。
「―――桃香! 私が来たわ! 出て来なさい!」
腹の底から声を出したが、城内までは届かないだろう。虎士にも唱和させた。
しばし待つと、城壁上に並ぶ兵の列が割れ、何人かが姿を現した。一人、何となく目を引かれる。それが桃香だという事が、不思議と華琳には分かった。そう思って目を向ければ、髪も赤みがかって見えてくる。
「桃香っ! 私が呼んでいるのよっ、早く出て来なさい!」
もう一度呼び掛けるも、桃香はじっとしている。
「何をしているっ! この私が来たというのに、そんなところで高みの見物を気取るかっ!」
やはり動く様子の無い桃香に、華琳は少々苛立った。
「この私の誘いを断るなんて、いつからそんなに偉くなった! ―――出て来ないなら、捕虜を殺すわよっ!」
城壁の上でようやく動きがあった。なにやらもめているようにも見える。
やがて、城門が薄く開き桃香が姿を現した。二名が続く。三人とも騎乗していて、ゆっくりとこちらへ駆けてくる。
次第に三人の姿がはっきりと見えてくる。供の二人は諸葛亮と関羽で、桃香が跨っているのは的盧だった。遠目にも足の太い独特の輪郭は目立つ。
「季衣と流流は虎士を連れて百歩―――いや、二百歩下がりなさい。護衛は春蘭と秋蘭だけで良いわ」
「……はいっ。春蘭様、秋蘭様、後をお願いします」
季衣と流流は気の進まない様子ながら、顔を見合わせて頷き合うと後退した。
桃香達は特に急ぐ様子もなく、五百歩の距離をゆるゆると詰めてくる。徐州では顔を合わせていないから、おおよそ一年振りとなるか。
「もうっ、華琳さんの嘘つき。雛里ちゃんを殺すつもりなんてないくせに」
桃香がごく自然に口を開いた。
「ふふっ、そう思うなら出て来なければ良かったじゃない」
「あんなこと言われて放って置いたら、皆に愛想を尽かされちゃうもん」
「へえ」
ちょっとした嫌がらせのつもりであったが、桃香はそれと理解した上で、人々の求める劉玄徳像を守るために城を出た。
「むむっ、何か言いたげな顔」
「貴方、少しは頭を使うことを覚えたのね」
「何それ、ひっどーい!」
桃香が頬を膨らませた。
「宿題を出しても放ったらかしで、街で遊び回っていたじゃない」
「それは」
「盧植にも聞いたわよ、昔からそうだったって」
「ほ、本人がいないところでそういう話をするのは、良くないと思うな」
「あら、それなら盧植も交え三人で話し合いの場でも設けましょうか?」
「ううっ」
二人掛かりで責められる様でも想像したのか、桃香がうめく。
「そっ、そうだ。鈴々ちゃんに良いお馬をありがとうっ」
「……いいえ、こちらこそ良いものを見せてもらったわ」
露骨に話題を切り替える桃香に、華琳も苦笑交じりに返す。
「一千騎くらい倒したって言っていたけど」
桃香は春蘭と秋蘭の方へちらと一瞬視線を走らせた。二人を負かしたことも聞いているようだ。
「張飛が何と言ったか知らないけれど、おおよそ言葉通りと思って良いでしょう。呂布と同等。状況によってはそれ以上かもしれないわね」
「えへへ、そう思う?」
緊張感の無い笑みを桃香が浮かべる。
「ふふっ。―――まったく、貴方といると調子を崩されるわ。何にせよ、久しぶりね、桃香」
春蘭に秋蘭、関羽と諸葛亮の物言いたげな視線に気付いて、華琳は空気を改めた。
以前と変わらず気負いなく話しかけてきた桃香に、つい華琳も乗せられてしまっていた。いや、庇護者と客分という立場でなくなったためか、桃香の態度はむしろ一層気安く感じられるくらいだった。代わりに敵同士となったが、つまりそれは完全に対等な関係と言うことでもある。
「うん。久しぶり、華琳さん。それで、さっそくで悪いんだけど、―――雛里ちゃん返して」
「いやよ」
「だよねぇ。でも、そこを何とか」
「駄目」
「私と華琳さんの仲じゃない」
「今は敵同士ね」
「こんなに頼んでるのに?」
「―――あっ、あのっ、何か返還の条件などあるなら、仰って下さいっ!」
諸葛亮が割って入った。
またも桃香の調子に引き込まれかけていた華琳は、これ幸いと標的を諸葛亮へ変える。
「……そうね、劉琦の身柄と引き換えになら、考えてあげなくもないわよ」
「―――っ、それは」
諸葛亮が口籠る。
劉琦は、今後の荊州統治を考えた時、まず邪魔となる存在だった。本人にどれだけの才覚、力量があるのか知らないが、荊州を平穏に保ってきた劉表の長子なのだ。劉備軍が劉琦を前面に押し立てて進軍すれば、手向かいせず門を開く城邑も少なくないだろう。
「破格の条件よ。わずか一州。いえ、孫策に南を抑えられているからその半分ね。それだけで鳳雛がその手に戻るなら、ずいぶん安いものだと思うけれど」
華琳もたかだか荊州北部の安寧と引き換えに雛里を手放すつもりはない。当然諸葛亮の沈黙の理由もそこにはない。劉琦がいなくても雛里と二人、知略軍略で荊州を奪い取るくらいの気概は持っているはずだ。
諸葛亮が気にしているのは、桃香の名声だろう。ここで劉琦と仲間を引き換えにしては、これまで積み上げてきたものも地に落ちかねない。
「せっかくまけてあげると言っているのに。これが嫌なら正当な対価を要求するしかないわよ」
「それは?」
諸葛亮が勢い込んで尋ねる。
「雛里と等価のものなんて劉備軍に、いえ、天下広しといえどもたった一つしかないでしょう?」
「……私、ですか?」
自分の顔を指差す諸葛亮に、無言で頷き返した。
「……私と雛里ちゃん。雛里ちゃんなら―――、私は―――」
諸葛亮がぶつぶつと呟きながら思い悩み始めた。
「はい、そこまで」
桃香がぱんっと大きく手を打った。
「―――っ、桃香様」
「華琳さん、あんまり朱里ちゃんを苛めないでよね」
「酷い言いぐさね。ご希望通り条件を言っただけよ。それで? 劉備軍の長として、貴方が代わりに答えてくれるというわけかしら?」
「うん。雛里ちゃんはしばらくお預けします」
「とっ、桃香様っ」
「大丈夫だよ、朱里ちゃん。華琳さんが雛里ちゃんを悪く扱うはずがないし」
「いえっ、私の心配はそれだけでは―――」
「それも雛里ちゃん自身が決めることだよ」
「……桃香様はたまに、優し過ぎて残酷です」
「そうかな? でも、その方が良いと思うから」
しばしの沈黙の後、諸葛亮は首肯した。
雛里が多少なり曹操軍に対して好意を抱いていることは、桃香も諸葛亮も気付いているのだろう。
「というわけで華琳さん、しばらくの間、雛里ちゃんはお預けするよ」
「何か伝言でもあれば預かるわよ、諸葛亮」
「……それでは、桃香様の隣で待っている、とだけ」
「わかったわ」
当面の問題は、これで話し終えた。
「……それで、貴方はこれからどうするつもりなの、桃香?」
「これから? とりあえずずっとお風呂に入れなかったから入って、久しぶりに布団で―――」
「そうではなくて。江陵に二十万も民を集めて、何をするつもり?」
「何を? う~ん、特に考えがあって集まってもらったわけじゃないからなぁ」
「相変わらず計画性がないわね。民もよくそんな貴方に付いていこうと思えたものね」
「それだけ皆が華琳さんの政に不安を抱いているってことだよ」
「ふん。荊州の人口はおおよそ六百万。北部だけでも三百万を超えるわ。それに私の領地から荊州に移り住んだ者達もいるわね。私の統治下には今、二千万近い人間がいる。二十万など微々たるものよ」
「微々たるもの?」
桃香が眉をひそめた。
「ええ、そうよ。二千万の中からわずか二十万が逃げ出したというだけのこと。百人が百人とも満足する政などあり得ない。一人の不平を聞けば、九十九人に不公平を強いることになりかねない」
「それじゃあただの算術の問題だよ。百人に一人であっても、現実にこの世界を生きている人達なんだよ。苦しんでいるのを、放って置いて良いわけがない」
「だから私は、彼らに勉学の場を与え、政に参画する機会を与えたわ。自分の手で自らを、同じ境遇の者達を救うことが出来るようにね。それすら拒み、逃げ出したのが貴方の庇う二十万よ」
「逃げ出した逃げ出したって言うけど、民にとってはそれだって戦いなんだよ。それが華琳さんには分からないのっ」
「分からないわね。逃げるくらいなら、声を上げればいい。勉学に励んで政を変えれば良いっ」
「それが出来ない人がいるんだよっ。華琳さんは小っちゃいくせにいつも高いところに踏ん反りがえっているから、下々に生きる人間の気持ちが分からない!」
「―――っ、無駄に脂肪を溜めこんで、重くて跳び上がることもできないような貴方なら、さぞかし下々の気持ちが分かるんでしょうねっ!」
「むむっ、私だって跳ぶことくらい出来るもん」
桃香が馬上で飛び跳ねるように身体をぴょんぴょんと揺らした。豊満な胸も合わせて上下に振るえる。
「……脂肪の塊をゆらすんじゃないの、見っともない」
「んん? 華琳さん、ひょっとして羨ましいんですか?」
桃香は得意顔で言うと、胸の下に手をやってそれを突き出すようにした。
「ふ、ふんっ、仁はこれくらいの大きさが好きだと言ってくれたわ」
「―――っ」
桃香がはっと息を飲んだ。関羽と諸葛亮も眉をひそめ、複雑な表情を浮かべている。
「……そこで曹仁さんの名前を出すのは、ずるいんじゃないかな。私の気持ち知ってるくせに。―――ううっ、涙出そう」
桃香が肩を落とす。口調も態度もわざとらしく思えるが、言葉通り目には薄ら涙が浮かんでいた。
「……今のは私が悪かったわ」
「やっぱり、そういう関係になったんだ?」
「ええ。……そうね、考えてみれば、貴方のお蔭でもあるのよね。うちを出て行く時に、仁に色々と言い残していったでしょう?」
「ああ、そういえば。それじゃあ、それが切っ掛けで?」
「まあ、そういうことになるかしら」
「あーあ、失敗しちゃったなぁ、下手なこと言わなければ良かった。まあでも、どうせ私には勝ち目なんてなかったんだろうな。曹仁さん、華琳さんに対してだけ明らかに他の人とは違ったもん。―――うん、とりあえず、おめでとう」
「あら、祝福してくれるの?」
「まあね。でも、あくまでとりあえずだから。いけると思ったら、いつでも私は奪いにいくよ」
「ふんっ、そんな機会は来ないと思うけれど、せいぜい気を付けさせてもらうわ。―――さてと、そろそろ発たないといけないわね」
西涼遠征軍第一陣、曹仁との合流の期日が迫っていた。
結局馬鹿話で終わってしまったが、こんなものだろう。政に関しては、いくら話し合っても相容れない。
「久しぶりに話せて良かったわ、桃香」
「うん、私も。次もきっと―――」
「そうね。また戦場で会いましょう」
華琳は絶影の手綱を引いた。