「と、言うわけよ」
荊州での劉備軍との顛末を、華琳はそう言ってまとめた。
「それで雛里を連れているわけか」
西涼軍の撤退を受けて、潼関西側に陣を移動させた。築いたばかりの本営には、曹仁ら遠征軍第一陣の将に加えて、第二陣の将として華琳と霞、稟、そして雛里の姿があった。
雛里は形としては捕虜ということになるが、華琳は幕僚か何かのように稟と並べて側近くへ座らせていた。雛里はさすがに居心地が悪いようで、目深にかぶった帽子のつばに半ば隠した瞳を落ち着きなく彷徨わせている。
「その後はお察しの通り、強行軍で北上し武関を抜け、西涼軍の後ろを取った。この辺りは春華の献策そのままの展開ね」
「西涼軍に荊州軍、それだけじゃなくボク達まで貴方の思惑通りに動かされたってわけね、司馬懿?」
詠が言った。
「いえいえ、私の案では何事もなく劉表から荊州北部と軍を譲り受け、それで終わりでした。それが争乱の種を江陵に残し、軍も精鋭と言える部隊は劉備軍に合流してしまうだなんて、やはり実戦は違いますわね。こんなにも想定外の事態が重なるとは思いもしませんでしたわ」
春華が肩を竦めながら言った。
行き場なく漂っていた雛里の視線が、春華へ注がれる。自身が捕虜になる切っ掛けを作った人物であるし、誰もが想像すらしていなかった荊州攻めの発案者となれば同じ軍師としては気にもなるのだろう。
「そういえば雛里と春華は、会うのは初めてよね。―――春華、こちらが天下の鳳雛、龐士元よ。雛里、あれは我が軍に新しく加わった司馬八達の二番、司馬仲達」
雛里の視線に気付いたのか、華琳が言った。
「お噂はかねがね聞き及んでおりますわ、鳳雛様。いつかお会いしたいと思っておりました」
「こちらこそ、お会い出来て光栄です。桃香様―――劉備様から、洛陽で一度お会いしたと聞いております」
「ええ。私は良人と、劉備様も曹仁様と逢い引き中のようでしたので、ほとんど会話を交わすことなく別れてしまいましたが」
「へえ」
華琳の冷たい視線が曹仁に突き刺さる。
「そういえば、ボクも見たわね。曹仁と劉備が仲良さそうに並んで歩いているのを」
詠が追い打ちを掛けた。
「いや、違うぞ。あの時は、そう、確か洛陽の案内を頼まれてだな」
事実をありのままに話すも、我ながら言い訳じみて聞こえた。
「……これは思ったよりも気が抜けないわね」
華琳は何事か呟いた後、軍議の終了を告げた。
その夜は戦陣にしては珍しく、華琳の幕舎へ誘われた曹仁だった。
明くる日は駆け通しの第二陣のため、兵馬の休息に当てられた。華琳との合流で主将の任を解かれた曹仁は、凪と二人で虎士に体術を教えて過ごした。
華琳の近衛である虎士は言うまでもなく武術の達者のみで構成されている。隊長と副隊長の季衣と流流こそ大仰な得物を抱えているが、大抵の者は取り回しが良く警護に向いた剣を好んで使う。しかし華琳が朝廷に出入りするようになり、最近では帯剣すら許されない場が増えている。季衣と流流に乞われ、曹仁と凪は時間がある時に虎士に無手の技を教えていた。
夜になると華琳から誘われる前に、今度は曹仁の方から幕舎へ押しかけた。
「明日は進軍を開始するし、今日はのんびり休みたいのだけれど。行軍で疲れているというのに、昨日はろくに寝かせてもらえなかったし」
華琳はぶつぶつと文句を言いながらも、口元を上機嫌に緩めて中へと招き入れてくれた。
「湯浴みをしていたのか?」
華琳の頭の左右の巻き髪が湿り気を帯び、いつもより重たく揺れていた。戦陣でわざわざ湯を使うのは珍しい。
「別に貴方のためじゃないわよ」
頬をわずかに紅潮させ、華琳はそっぽを向いた。
翌日、第二陣の歩兵二万を潼関に残し、弘農王と馬騰の籠もる長安へ向けて進軍が開始された。
騎馬隊は本隊の一万に、曹仁の一万、霞の二万、蹋頓率いる援軍の烏桓兵二万で、総勢六万騎に及ぶ。
歩兵は変わらず十万。第二陣の歩兵四万のうち二万は、初めから合流せずに武関に留め置かれているため、陣容も第一陣からの変更はない。
歩騎合わせて十六万―――関の守備も含めれば二十万という兵力は、官渡での袁紹軍との決戦をも上回り、曹操軍にとって過去最大の動員数となった。
といって気を緩めることは出来ない。武関を抜けての奇襲によって五、六千は討ち取ったが、いまだ西涼軍には九万以上の騎兵がおり、その練度も曹操軍の騎兵に劣らない。何より、馬超がいる。
霞隊二万騎が先行し、歩兵が後に続いた。曹仁隊一万騎は本隊の一万騎と合わせ二万とし、烏桓兵二万騎と共に歩兵の左右後方に付いた。二万騎を頂点とした三角形の中を、歩兵が進む格好である。華琳は歩兵の中核で、曹仁隊の歩兵を旗下に置いている。
時折敵軍が数千から一万騎の規模で姿を見せ、三角形の周囲を付かず離れず巡っていった。斥候の兵力ではなく、誘いの手だろう。騎馬隊だけ引き離し、数で勝る騎兵同士の勝負に持ち込むか、あるいは騎馬隊の援護を失った歩兵を叩きたいのか。
誘いには乗らず、陣形を乱さず歩兵の速度で進軍を続けた。
潼関から長安までの四百里。一日進むと、ずっと南に見えていた崋山の山並みも尽き、視界がぐっと開けた。北へ目を転じれば渭水の照り返す光が白線を引き、進軍路にそって真っ直ぐ伸びていく。長安は渭水の南岸である。
三日進むと、こちらが誘いに乗る気がないのを理解したようで、西涼軍が姿を現すこともなくなった。
そして四日目、行く手を騎馬の大軍が阻んだ。
一里ほどの距離をおいて、十六万の曹操軍が制止した。
「―――っ」
男達が、示し合わせたように同時にごくりと喉を鳴らした。
いざ大軍と対峙すると、日頃威勢の良い各軍閥の頭達も気圧されたようだった。
無理もない。それぞれに数千から一万の兵を抱えてはいるが、戦と言えば互いが互いを攻め合ったり、異民族や賊徒を打ち払う程度のものだ。これほど大規模な会戦を経験した者はいない。
翠は反董卓連合で、総勢三十万を超える戦にも参加しているし、つい先日には一万騎で曹操軍に奇襲も仕掛けている。
「騎兵の数ならこっちが上だ。こっちから攻めなければ、歩兵なんてただの置物と同じだ」
長安から一万五千の増援があり、総勢は八万騎となっている。
馬騰軍から送られてきた一万騎は翠の隊には混ぜず、蒲公英に指揮を任せた。韓遂軍は総兵力一万のうち五千の兵を出してきたが、腹心の成公英や、“馬超に勝った男”として有名な閻行に指揮を取らせるつもりはないようだった。韓遂に近しい軍閥の隊に援兵の形で加わっている。力を温存でもしようと言う肚だろう。
長安にはこれで、馬騰軍一万と韓遂軍五千、それに志願者からなる新兵の隊が五千を残すのみだ。新兵の指揮は龐徳―――廉士だが、馬騰軍の所属ではなく天子直属の軍という扱いだった。
「そっ、そうだな。いくら曹操自らの指揮といっても、騎馬の戦なら負けはせん」
翠の言葉を受け、成宜が声を励ました。
成宜は西涼では第三の勢力を誇る人物である。西涼では主だった十の軍閥を関中十部、そこから馬騰と韓遂を除いて成宜を筆頭とした関中八部などとも呼ばれる。八人の軍閥の長を馬騰派、韓遂派に分けるなら、成宜はやや馬騰派寄りと言える。翠としては心強い存在だった。
「うむむ、曹操か」
楊秋が漏らした。
この男は完全な韓遂派で、馬玩や梁興と共に韓遂からの増援を軍団に加えている。
「曹操が怖いのか、楊秋?」
「そういうお前は怖くないのか、馬超? 西涼まで聞こえた飛将軍呂布を下し、袁紹との戦では一度に五万人をぶっ殺したというぞ」
自らの怖気を隠さず楊秋が言う。翠にとっては曹操以上に不快な韓遂の支持者だが、妙に憎めないところのある男だった。
「いや、五万殺しは天人と噂される曹仁の仕業と聞いたぞ。曹操は領内を駆け回って、孫策や劉備を蹴散らしたとか。孫策と劉備も、相当な将だと聞くがな」
李堪が言った。この男は馬騰からも韓遂からも距離を置き、中立を保っている。
「……曹操に曹仁か」
成宜が再び語気を弱めた。
「ちょっとちょっと、お姉様。戦う前からこれじゃ、まずいって」
蒲公英が耳元で囁いた。頭がこの分では、兵の怯えはそれ以上だろう。
「そうだな。―――お前達、その曹操を見てみたくはないか? 開戦の挨拶というやつだ。姿を見せてもらおうじゃないか」
翠が言うと、八人の男達は顔を見合わせた。実物を目にすれば、その小さな形(なり)に胸中で育てた巨大な曹孟徳像はかき消えるだろう。
「交馬語か。誰が行く?」
楊秋が言うと、自然に馬騰の名代である翠とこの場では最大勢力の主である成宜に視線が集まった。
交馬語は、西涼軍閥や騎馬民族の間で好んで行われる会談方式である。将だけが馬を進め、敵味方の兵に環視されながら馬上会談を行う。中原でも似たような形で舌戦が行われるが、あれは兵に聞かせて士気を鼓舞するためのものだ。交馬語は、あくまで将と将が語り合う事が目的だった。舌戦になってしまえば、武骨な涼州の武人では曹操の弁舌には到底敵わない。
「それじゃあ、あたしが行くか。曹操とは知らない仲でもないし」
「う、うむ」
翠が言うと、成宜がほっとした表情で頷いた。
「それじゃあ、行ってくる。」
「きゃっ、―――もうっ、危ないなぁ」
銀閃―――愛用の槍を蒲公英に投げ渡し、馬を走らせた。交馬語は無手で臨むものである。
半里進み、ちょうど両軍の中間点で足を止めた。
「さてと、曹操は受けるかな? まっ、出て来ないなら来ないで、あたし達を怖がってるってことだ」
思い付きで口にした交馬語だが、我ながら悪くない手に思えてきた。曹孟徳が姿を見せれば、少女の姿に成宜達は強気を取り戻すだろうし、出て来ないなら来ないで相手の弱気を言い立ててやれば良い。
「おっ」
曹操軍から、一騎駆け出してきた。瞬く間に半里を駆け抜け、見事な馬術で翠の眼前でぴたりと止まる。
「曹操じゃなくお前が来たか」
「詠―――賈駆から聞いたが、舌戦ではなく交馬語ってのが望み何だろう? 弁舌を振るう必要がないなら、華琳が出張る必要もない。そちらも馬騰でも韓遂でもなく、あんたなんだしな」
曹仁だった。
「それもそうか。まあ、お前が相手なら不足はない」
思惑とは違うが悪くはない。成宜達は天人曹仁の名にも恐怖を覚えているようだったし、筋骨隆々の涼州の男達と比べると、小柄な曹仁は遠目にも迫力に欠けて見えることだろう。
「それで? 何か話があるんだろう?」
「それはだな―――」
何を話すかまるで考えていなかったことに、翠は気付いた。
「なんだ? まさか呼び立てておいて何もないのか?」
「えっと、そうだな。……ああ、そうだ。妹の傷の具合はどうだ?」
「……挑発しているのか?」
「ああっ、いやっ、そうじゃなくて、あっ、あの襲撃に関しては悪かった」
翠は慌てて打ち消した。
「まあ、あんたの意に染まない襲撃だったのは理解してるさ。妹ならもう元気にしているよ。大事を取って、今回は連れて来ていないけどな」
曹仁が肩を竦めながら言った。
「そうか、なら気兼ねなく戦わせてもらう」
「ああ」
それで会話が途切れた。わざわざ全軍の前に呼び出して置いて、これで終わりというわけにもいかない。話題を探して、翠は視線を彷徨わせた。
「……愛馬が三頭いるという話だったが、毛並から察するにその馬が麒麟か?」
「おっ、良く分かったな」
頭を捻っていると、見かねた曹仁が話題を振ってくれた。
「西涼でもこの毛並みは珍しいんだ。確か曹操の馬もそうだったよな」
麒麟には黄みがかった毛色に連銭状の斑模様がある。それが遠目には鱗のようにも見えることから、龍の顔と鱗を持つとされる聖獣の名を付けた。
「ああ。絶影は葦毛だが」
「絶影というのか。お前の白鵠もそうだが、西涼でもなかなか見られない見事な馬だ」
「一人で三頭も名馬を抱えておいて、よく言う。他の二頭、確か紫燕と黄鵬といったか?そいつらも連れてきているのか?」
「ああ、存分に駆け回らせてもらう」
「まあ、相手が誰だろうと、俺と白鵠は負けるつもりはない」
「あたしと麒麟、それに紫燕と黄鵬だって負けないさ。何なら、どっちが上か試してみようか?」
言うやいなや、ぎゅっと脾肉に力を込めた。麒麟が大きく踏み込み、後ろ足を小刻みに踏んで即座に反転する。これで曹仁と白鵠の後ろを取れるはずだった。
「むっ、やるな」
白鵠の後足が、視界の端を抜けていく。小さく円を描いて、逆にこちらの後ろを取りに掛かっている。麒麟は数歩前に出て、そこから白鵠とは逆向きに回る。
半円を描いたところで、白鵠と向き合い馳せ違った。
「いやあ、さすがに大したものだ」
「貴方は、何をしてきたのかしら?」
陣地に戻った曹仁を、華琳は眉をひそめ迎え入れた。
「白鵠と馬超の愛馬の麒麟、そして俺と馬超の馬術の勝負を。いくら続けても決着が付きそうになかったんで分けてきたが、馬超には他に二頭もあんな馬がいるということだからな。俺は白鵠以外の馬とあそこまで意を通わすことは出来ない。数の差で、俺と馬超の馬術では俺の負けってことになるか? 白鵠が三頭のいずれにも負けるとは思わないが」
華琳の様子を気にもとめず、曹仁が興奮した口調で言う。
「ずいぶんと饒舌ね」
「だって見たか、馬超の奴のあの馬を。恋の汗血馬もすごかったけれど、軍馬としては麒麟の方が上かな」
馬騰に伴われて馬超が入朝した時も話が弾んでいたが、馬好きという一点で二人はひどく気が合うようだった。
「だから、貴方は、何をっ、してきたのかしらっ?」
「……ええと、さっきも言ったが、馬術の勝負を」
一言一句強調して問うと、ようやく華琳の不機嫌に気付いて曹仁が声を小さくした。
「馬を遊ばせてイチャイチャしているようにしか、見えなかったのだけれど?」
「いや、後ろを取り合って、あいつの馬と白鵠、どっちの足が上か勝負していたんだが、……イチャイチャしている様に見えたか?」
「そうとしか見えなかったわよっ」
「……へえ」
曹仁が頬を緩めた。
「何よ、その顔は?」
「いや、それってつまり焼き餅を焼いたってことだろう?」
「なっ―――、ふふふ、なかなか面白い冗談ね」
「……気の弱い者ならそれだけで卒倒してしまいそうな笑顔を向けるのは、やめてくれ」
「それなら問題ないわね。この状況で冗談を言える貴方の気が弱いわけがないもの。―――それで? 戦に関しては何か言っていた?」
冷ややかな笑みを収めると、華琳は問うた。
「ああ、日が中天に至ると同時に勝負だってさ。おおよそ二刻(1時間)後ってところか」
空に浮かぶ太陽を確認しながら曹仁が言った。
「すぐに始まるわね。貴方も隊へ戻りなさい」
命ずるも、曹仁は動く気配を見せずに口を開いた。
「―――この戦、俺を錦馬超に付けてくれないか? あの敵は、片時だって目を離してはいけない相手だ」
「そりゃあずっこいわ、曹仁。一番おいしいところを持っていくんか?」
反応したのは霞だった。交馬語、というより曹仁と馬超の駆け合いに興味を引かれたらしく、本陣前まで観戦に来ていたのだ。
「今の霞の隊じゃ、厳しいと思うぞ」
「むっ、なんやて?」
霞が声を荒げた。
「一万が二万に増えればただでさえ動きが落ちるのに、軍制の異なる袁紹軍からの増員だ。荊州からの長駆でかなり動きをすり合わせたみたいだけど、まだ馬超の一万騎には及ばない」
「―――ちっ、しゃーない、ここは譲ったるわ」
思うところがあったのか、異論を差し挟むことなく霞は折れ、自分の隊へと駆け戻っていった。
「ずいぶんと買っているじゃない。西涼の騎兵を侮るつもりはないけれど、呂布と競い合い、麗羽の大軍を破った我が軍の騎馬隊はすでに天下第一と、そう認識していたのだけれど」
「馬超だけは特別だ。反董卓連合の時に何度もやり合って、潼関でも奇襲を受けたが、ものが違う。俺は恋の赤兎隊を思い出したよ」
「ふむ。確かに初見で連環馬を避ける獣じみた戦勘は、呂布に近いものがあるのかもしれないわね」
呂布のような存在は当代無二。覇王項羽や光武帝劉秀が如き、特別な存在と思っていた。だが先日の張飛といい、いるところにはいるものだ。
「なんだ? 俺の顔に何か付いているか?」
しかし凡庸と言い切ってしまって決して言い過ぎにはならないこの男が、その呂布や馬超が得意とするところの武芸や馬術で二人に迫ろうというのだから不思議なものだ。
環境に恵まれたこと―――それこそ天子の言うところの縁か―――と、本人の努力の賜物だろう。その努力の源泉が、幼少期に一目惚れした自分に対する見栄によるものだと思えば、我が情人ながら可愛らしいものだ。
「……ひょっとして俺に見惚れてるのか?」
「貴方もさっさと隊に戻りなさいっ。やるからにはしっかり馬超を抑えなさいよ!」
調子に乗り始めた曹仁を、追い払うように華琳は送り出した。