ベルミステンの冬は厳しい。
雪が積もるのは比較的乾燥した気候もあって厳寒期に一度二度と言う程度ではあるが、地の底から這い上がるように冷気が押し寄せてくる気候である。
それも影響してか、紅茶、コーヒー、ココアと言ったものの消費量が多く、茶葉は名産に乏しいベルミステンにあって唯一、そう呼べるだけの生産量と質を誇っている。
盆地にある都市であるために、夏もまた相当に暑さが厳しく、寒暖の差が激しい。それが原因であるかは定かではないが、家計に占める被服費の割合が大陸の一般と比較して高い事も知られている。
「……と言う事で、コートも一着新調してはいかがでしょうかぁ?」
そう言ってニコニコと勧めるのは、依頼の服をヴァレリアに引き渡す針子のアーミルだ。商売っ気が強いのは依頼をし、依頼を受けた時に知っている。ヴァレリアもまた、仕方ないというように笑っている。
量が多かった事、鋏を受け取ってからアーミルの仕事を開始すると約束したことがあって、依頼からはかなり経ってからの引き渡しになった。そのおかげで冬が深まり、アーミルの営業につながる結果を呼んだ。
「確かに、私の持っているコートではこの服に合うとは思いませんね」
それを自分で判断できるようになったのは格段の進歩ではないかとユキヒトは思う。彼女の両親からの情報では、最近はこっそりと同僚などからファッションについて教えてもらっているらしいとのことだ。自分の動向が両親から恋人に細大漏らさず伝えられているという事実を、今のところ彼女は知らない。
「裁ちばさみ、とっても使いやすいですし、お代の方は勉強しちゃいますよ? なんだったらユキヒトさんも注文してくれるならもっとがんばっちゃいますぅ」
「紳士服も扱ってたのか?」
しっかりと営業範囲を広げようとするアーミルに苦笑しつつ、ユキヒトは返事をする。
「ユキヒトは、コートはどうなのですか?」
「前に住んでたのが山の中だからな、防寒用のちょっとごついのを一着持ってる」
「……お揃いとか、作れちゃいますよ?」
以前のブレンヒルトの仄めかしを覚えていたのか、それともその会話に何かしら感じるところがあったのか、アーミルが声は遠慮がちながら興味津々に目を光らせつつ、そんな事を言い出す。ヴァレリアはそれに、顔を赤くしつつやや上目遣いで、顔色を窺うようににユキヒトを見た。
案外というべきかヴァレリアはそう言ったことに憧れをもつタイプであるらしい。その片鱗はここのところいくつも見ていることもあり、ユキヒトとしても簡単にヴァレリアの意向は察知できる。
そうも分かりやすいと逆に意地悪をしたくもなる。しかし、最近になって分かった事ではあったが、ヴァレリアは拗ねると長い。出先でなければそれもまたいいと思えるのだが、今彼女を拗ねさせてもこのおしゃまな針子を喜ばせるばかりだ。
「見本を見せてくれるか? 紳士服の見本もあるのかな」
ぱぁっと顔を明るくする彼女に尻尾が生えていたならば、間違いなくちぎれんばかりに振っているだろうと、ユキヒトはヴァレリアの表情を見ながら思った。
次から次へと見本を出してくるアーミルを前にして、やや困惑しながらも楽しげにそれに対応しているヴァレリアの姿は、少し前からは想像もできないものだった。彼女がその様に変わった原因が自分であることは明確であり、ユキヒトにはそれがこそばゆくも誇らしい。
あれこれと見本を見ながら注文をつけるヴァレリアに、前回を知っているアーミルもやや驚き顔だ。学んだことを最大限活かそうとしているらしい彼女に、舞台裏を知っているユキヒトは微笑ましいものを感じながらその様を眺める。
感性自体が大きく変わったわけではないヴァレリアの事、やはりやや無難な、冒険のないデザインを選んでいるが、それでもやはり、地味なばかりのデザインではなく、シンプルながらもすらりとした印象の、ヴァレリアのイメージにも合うものを選んでいっている。どうやら彼女にファッションの指南をしているという同僚は、彼女の魅力についても理解が深いらしいとユキヒトは推測した。
結局ユキヒトの出番はなく、ヴァレリアがデザインを全て決めてしまった。紳士用の見本はなかったが、任せてくださいとどんと胸を叩くアーミルは根拠こそないものの自信に満ちており、選択肢がそこにはなかった。
「毎度ありがとうございますぅ」
様々な意味で満足らしいアーミルが、ニコニコと笑って見送ってくれる。店をいくらか離れたところで、ユキヒトはヴァレリアに話しかけた。
「いつの間にあんなに服に詳しくなってたんだ? 凄いじゃないか」
「ヒトは進歩する生き物なのです。私とていつまでも同じ私ではありません」
ふふんと胸を張る彼女が微笑ましくて、ユキヒトはヴァレリアの頭にぽんと手を置いた。
子供扱いにも思われるが、ヴァレリアがその様なスキンシップを好むことを既にユキヒトは知っている。どうやらブレンヒルトの甘えたがりの本質を見抜いたのは、彼女自身に少なからずその様な資質があったかららしいとユキヒトは分析している。
有名人である分、あまり人目の多い場所で露骨な事は出来ない。特に彼女は、軍属の英雄として知られる人物であり、硬派のイメージである。公衆の面前でべたべたとしているのでは軍全体のイメージダウンにつながる。彼女もそれを弁えていて、人前では繕って見せている。
彼女としても上手く距離感が掴めない部分があるらしく、ユキヒトに対して過剰に素気なくしてしまっては、人目につかない場所に入って言い訳をするという様な事を何度も繰り返した。
ユキヒトとしては、十分彼女の態度の理由も分かっていたのだが、その彼女の言い訳をする姿が、率直に言って面白く可愛らしかったために、あえて安心させる様な決定的な言葉を言わずそれを楽しんでいたのだが、つい先週それがばれて思い切り拗ねられた。なんとかなだめすかして、服を取りに行くのに付き合うという条件で許しをもらったユキヒトだった。
「……冬ですね」
「そうだな、冬だ」
分かりきった事を言ってくる彼女が、何を考えているか、ユキヒトには手に取るように分かる。寒さにかこつけて手を繋いで良いものかどうかと迷っている彼女に対して、少し辺りを見回して、どうやら人目はなさそうだと判断して、その手を取る。
「冷たいな。ちゃんと温かくしなくちゃだめだぞ」
「……ユキヒトの手が温かいだけです」
「今度は手袋を買いに行こうか」
他愛のない会話を交わす時間が、宝石のように輝いて思える。自分は幸運だとユキヒトは思う。
大きな通りに出る前に名残惜しく思いながらも体を離す。ヴァレリアも、それには逆らわずに、一歩だけユキヒトから遠ざかる。それを寂しくは思わない。彼女の本心は、手が離れていく一瞬前に、ほんの微かに力を込めた指先にこそ籠っている事を知っている。
それでも彼女は、少し不安そうにこちらを見てくる。それに対して少しだけ頷くと、彼女は穏やかな表情で微笑んだ。
お互いに、言葉で多くを語るのは得意ではない。気持ちが正しく相手に伝わっているかは、いつも不安だ。
それだからこそ、相手を大切に思っている事を行動に示すことは大切だ。
一歩離れた立ち位置、たまたま指と指が触れあう事もない程度の、微妙な距離。それでもその距離の意味を間違えないように。
会話はなくとも、その沈黙はむしろ心地が良い。
別れる前、辺りを少しうかがってから、ユキヒトはヴァレリアを抱き寄せる。初めの頃は体を固くしていたヴァレリアも、今はごく自然にユキヒトに体を預けるようになっていた。
口づけは唇を合わせるだけ。それ以上はまだヴァレリアが怖がるのを、ユキヒトは察して理解していた。周りで見ているものからは溜息をつかれるほどにゆっくりでも、それが彼女と自分のペースだとユキヒトは思い定めている。
不器用に誠実に、二人は恋をしていた。
思いつめた表情の青年が刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』を訪ねてきたのは、よく晴れた日だった。
傭兵か、冒険者か、その類の職業についている人物であることは、一見して知れた。ヒューマンと思しき容貌だが、ユラフルス大陸の出身ではない者と思われた。背はやや低く、細身だがしなやかな印象がある。黒い髪に黒い目、顔立ちもユラフルスのものとは少し異なり、年齢の割にやや幼げに見える作りだ。もう一つの大陸、アリオロイ大陸の、それも北方の出の典型だ。
青年は一通りのあいさつを交わした後、何故か沈黙した。
こちらから話しかけたものかとしばらく迷っていると、躊躇いがちに口を開きかけてまた閉じるという事を繰り返すため、何ともタイミングがとりにくい。
やがて、ぐっと奥歯をかみしめたかと思うと、青年は絞り出すように言った。
「……オレの魂と引き換えに、剣を一振り打ってほしい」
「……もう一度言ってくれますか?」
思いつめた表情の彼が言った言葉が、今一つ上手く認識できずに、ユキヒトはそう聞き返した。
「オレの魂と引き換えに、剣を一振り打ってほしい。『古都の魔人』ユキヒト・アヤセ」
「……とりあえず、その訳の分からない二つ名から説明してくれ。あと貴方の名前と」
やや呆けた表情のノルンとヴァレリアが控える室内で、気恥ずかしい思いに頬を赤くしながら、ユキヒトはとりあえずは穏やかに、質問を返す。
ここのところヴァレリアは、非番の日のうち少なくはない割合をユキヒトの工房で過ごす。生真面目な彼女のこと、道場や図書館通いをやめたわけではないのだが、それと同等程度には、ユキヒトとの時間を確保するようになっていた。工房を休みにしているわけでない日は、ノルンと二人で表の注文を受けるカウンターを預かってくれることもある。
無論、ベルミステンの英雄であるところのヴァレリアが鍛冶屋の店番などしていると知られれば厄介なことになるのは目に見えていたため、客がくれば、工房で剣を打っている事の多いユキヒトを呼びに行くなど実際に立ち働くのはノルンである。とはいえ、盲目のノルンの側についていてくれるという、ただそれだけでユキヒトとしては随分と安心できる。
青年は、少し驚いたように目を開いて、やや不安そうに口を開く。
「……ここは、刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』で間違いないだろうか? 『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』ヴァレリア・ロイマーの剣を打った」
「……それは間違いない。なんと言うか、不幸なことに」
それを間違えていないという事は、青年の言う怪しげな二つ名も、どこでかは分からないが自分を指すものとして通ってしまっているらしい。ユキヒトはぐったりとカウンターに突っ伏しながら言った。
「……ベルミステンに、依頼人の人生を聞き取り、気に入れば死後の依頼人の魂と引き換えに魔剣を打つ鍛冶師がいると聞いて……」
「いるか、そんなもん! 少なくとも俺じゃない!」
ユキヒトにしては珍しく、初対面の依頼人に全力で怒鳴った瞬間、こらえきれないというように、ノルンとヴァレリアが吹き出す。
「……あながち大外れでもない辺りがまた何とも……」
「噂って、こういう風に広がって最後には原形を留めなくなるんですね……」
好き勝手に論評する二人に、釈然としないという表情の依頼人。その依頼人よりさらに憮然とした表情のユキヒトは、一度深くため息をつくと、依頼人と正面から向き合った。
「……依頼人の事を何かと聞かせてもらうのは本当だ。師匠からの教えで、良い剣を打つためには使い手を深く知らなきゃいけないって言うんでな。魔剣っていうのは……まあ、うちの工房で魔法陣も施すから、間違いとも断言しきれない。依頼人の魂と引き換えっていうのは出鱈目だ。そんなもんで腹が膨れるか。普通に報酬はお金だよ」
恐らくはユキヒトが剣を打った顧客のうち誰かが、ユキヒトの工房の事を話したのが発端だろう。広がっていくうちに微妙に脚色されていき、最終的にはあんまりな噂が完成されたという事だと思われた。
まさか自分がいつの間にか魂を奪う魔人にされているとは思いもよらず、出来ればその噂が流れている地域に乗り込んで根絶してしまいたいとすら思った。
「……しかし、魂を譲り渡してでも優れた剣が欲しいとは、穏やかではありませんね」
不意に、ヴァレリアは表情を厳しくして言った。
「ノルン。部屋に下がっておいでなさい」
「はい」
ノルンは血生臭い話を好まない。この先の話の不穏さを感じ取ったヴァレリアの言葉に素直に従い、ノルンは退場していった。
「私は、ヴァレリア・ロイマーと申します。どうせユキヒトに語るつもりであったのであれば、私にも聞かせていただけませんか?」
「『ロマリオ皇国唯一の竜騎士』!?」
ベルミステンでは顔も知られたヴァレリアだが、流石にファリオダズマの情報伝達力では、遠くの国にはその顔までは知られていない。
「……俺はいまだに、貴方の名前すら知らないんだがな。とりあえず誤解は解けたところで、少し落ち着いて話をしてくれよ」
どうやらこの依頼人は思い込みの強いタイプらしいと、少し疲れた気持ちになりながらユキヒトは告げた。
「……オレの名前は、ソルスケル・シーモア……」
どうにか誤解を解いたらしい青年は、ゆっくりと口を開いた。
彼が語り始めたのは、彼に纏わる悲劇だった。
大陸を旅してまわる行商を生業とする一家。豊かとはいえないながらも、優しい父と母、可愛い妹とともにある日々。厳しくも楽しい旅の生活。いつかはどこかの街で店を構える、庭のついた家を立て、商売を大きくして楽しく暮らす。父の語る夢に妹ともに目を輝かせ、寒い日は一つの毛布に固まって眠り、晴れた夜には星座を数え、雨の日には雨宿りをしつつ母のお伽噺に胸を躍らせる。
そんな毎日も、ある日唐突に終わりを告げる。
いつもと同じ旅の途中。山道に唐突に現れる盗賊団。斬り殺される父と母。逃げまどう中、捕らえられる妹。山の斜面から転がり落ちる自分。
死ななかったのは単純に悪運が強かっただけだ。そして彼はその後も生まれ持っていたらしい悪運を発揮していく。
彼は死ななかった。十歳にして傭兵稼業に足を踏み入れ、何度も死にそうな目にあいながらそれでも彼は生き抜いた。十六になった今は、大分危険も嗅ぎ分けることができるようになった、一端の傭兵である。
そして彼は探していた。妹、そして仇を。妹は兄のひいき目を差し引いても、愛らしい少女だった。殺されなかった可能性は高い。奴隷として売られているならば、まだ生きているかもしれない。そして仇。むき出しの肩に入れていた刺青と、顔に走る刀傷。恐怖と怨恨とともに脳裏に深く刻み込んだその盗賊団のリーダーの顔を、ただの片時も彼は忘れたことなどない。
「……オレはついに仇を見つけた。オレは命を賭けてでも、復讐しなければならない」
そうやって語り終えると、ソルスケルは、きっと睨むように、強い意志のこもった眼でユキヒトを見た。
それに対してユキヒトは、静かにヴァレリアに視線を送る。ヴァレリアは、ゆっくりと左右に首を振った。
「……自殺志願者に打つ剣はない」
それを確認してユキヒトは、きっぱりとそう言った。
「なっ……!」
「問いましょう」
ヴァレリアは姿勢を正し、真っ直ぐな目でソルスケルを射抜くように見据えると、鋭く問いを発した。疑問は許さない。その怜悧な響きに、ソルスケルが背筋を伸ばした。
「仇の首領の名は」
「……知るもんか。奴の顔は分かる。それで十分だ」
「盗賊団の構成人数は」
「十四、五人ってところだ」
「構成員のうち主要な者の経歴は」
「盗賊団は盗賊団だ」
「貴方の戦略は」
「真正面からたたきつぶすだけだ!」
簡潔な問いを次々に放ち、そこまで来たところでヴァレリアは息を継ぐように問いを切り、静かな目でソルスケルを見つめた。
その真摯な目の前に、ソルスケルはつと視線を逸らす。
「話になりません」
ずばりと切り捨てると、ヴァレリアは深くため息をついた。
「貴方が望んでいるのは報復ではありません」
「何!?」
「復讐は虚しいなどと高尚な事を述べるつもりはありません。時にはそれが必要なこともありましょう。しかし、戦であれば勝たねばなりません。その為の情報収集を、貴方は全く怠っている。まして貴方が、十人を超す敵を向こうに回して切り抜けられるだけの勇士とも思えない。彼を知り、己を知れば百戦も危うからぬところですが、彼を知らず、己も知らぬ貴方は、百戦して終に勝つことはないでしょう」
「……」
ぎりぎりと歯ぎしりをするソルスケルに、ヴァレリアは一層冷たい目を向けた。
「その様に悔しがる振りなどしなくて良いのです。貴方は私の言った事を全て己で理解している。貴方が望むのは報復ではなく己の死です。何故、その様に死に急ぎますか」
ヴァレリアほどに正確に洞察していたわけではないが、ユキヒトも似た様な見解だった。
彼の語る彼の過去を、嘘だと思うわけではない。しかし彼の言葉ほどに、彼が仇討ちを望んでいるようにも思われなかった。
人は静かに狂う事が出来る。本当の怒りは人を冷酷にする。仇を目の前にしているという状況であればいざ知らず、その居場所を突き止めたという局面において、増して幼少期から刻まれた深い恨みを果たそうとするならば、このように短絡的に暴発するものではない。
仇討ちを真に望むのであれば、それが可能となる様に戦略を練るだろう。相手が、彼が幼少のころから活動している盗賊団であるならば賞金も架けられているはずだ。傭兵であればその賞金を餌に仲間を集めることも可能であろう。
それをしようとしない裏には、何かの理由があると考えるのが妥当だった。
「……失礼するっ!」
怒りもあらわにソルスケルは席を立つ。ユキヒトもヴァレリアも、それを止めようとはしなかった。
バタンと、音も荒く扉を閉め、ソルスケルが工房を出る。高い足音が遠ざかっていくのを確認し、ユキヒトは長く息を吐いた。
「……お客を一人なくしちまったかな」
「また来ますよ。彼は」
何気ない口調で断言するヴァレリアに、ユキヒトは疑問の目を向けた。
「……まあ、次は本当の事情を語ってくれるのではないでしょうか」
ユキヒトの無言の問いに応えることはなく、ただヴァレリアはその予測を口にした。
一体何を根拠に言っているのやらと思いながらも、ユキヒトはその予測が恐らくは実現するのであろうと、漠然と予感した。
数日の後、ユキヒトはノルンを伴い、アルディメロを訪ねていた。
「……ふむふむ。『古都の魔人』か」
にやにやと笑いながら、アルディメロはノルンの語った内容を反芻した。ユキヒトとしては忸怩たるもののあるその二つ名だが、ノルンは実に楽しげにそれを暴露していた。
無論、暴露するといっても依頼人の素性までは話さない。ノルンはそれを知る前に自室に戻っているし、例え知っていたとしてもそれを他人に話すほどに慎みのない少女ではない。
「出世したな」
「ありがとよ」
アルディメロの揶揄に、投げ遣りに返す。
魔術学院時代からの友人は、ユキヒトの元の世界への未練もあって必ずしも多くはない。決していないわけでもないのだが、やはり最も親密なものとなるとアルディメロになる。迷信のはびこるファリオダズマにあって理性の力を信じる彼は、現代日本人として合理性を身につけてきたユキヒトにとっても小気味の良い存在だ。
「だが、悪意のない噂の流布の結果として興味深い事象ではある。惜しむらくは、拡散の過程が見えずただ結果のみが提示されている事か」
「噂を蒐集するなんて言ってみろ、お前でもただじゃおかないぞ」
「難しかろうな。せめて発生地が分かればその地域からの距離と噂の変化をたどることもできように。いや、むしろ噂の蒐集を行う事で噂の発生源の特定が可能か…? それもまた、興味深い主題ではある」
まあ片手間に研究できることではあるまいと、あくまでユキヒトへの配慮ではなく己の都合のみで結論を下したアルディメロに、ユキヒトも苦笑いしかできない。
「その様な噂を立てられるほどに、お前の作った剣の出来が良かったという事だ。確かに迷惑な事ではあるが、ある面では名誉でもあろうよ」
「だからってお前が『ベルミステンに寿命の半分を奉げれば知りたい事を何でも一つ教えてくれる悪魔がいる』なんて噂を立てられたら気持ち良くないだろ」
「御免被る」
「……しれっというあたりが本当にいい性格してるよ」
良い性格をしているが、憎む気にはなれない。その程度には親しい友人だ。
実家は名家であり、金持ちでもあるのだが、それを鼻にかけることもない。良い意味での選良意識があり、己こそが世界を良くするのだと気概を持った男である。立派なものだと友人ながら、時折ユキヒトは感心してしまう。基本的には真面目な男であるが茶目っ気もあり、冗談を好む。
「……しかし、もしもそんな者が存在するのであれば、会ってみたいと思ってしまうな」
「……会って、寿命の半分を犠牲にしてまで、一体何が知りたいんだ」
「一生をかけてでも知りたいことなど、山ほどもある。だが、実際にそのような者が知識を授けてくれるといえば……興味はあるが、断らねばなるまいな」
「寿命の半分は惜しいか?」
違うと知りながら、ユキヒトは問う。アルディメロはそのからかう様な表情に、分かっていると穏やかに笑って返す。
「まさか。……知識を欲するがために超常たる者にそれを請うなど、学術の徒としてそんなみっともない真似ができるものか」
それをみっともないと切って捨てられるのが彼の彼たる所以だろう。その姿勢がユキヒトには嬉しかった。
「とはいえ、いざその様な者を目の前にすれば、自分が知識欲に負けずに冷静に対処できるか、それについてはいささか自信がないな」
「ま、それがヒトってものだろう」
だからユキヒトは、アルディメロの前では隠し事をしなければならない。冗談半分に出してしまった例えが、図らずもこの世界における自分自身に似たところのある存在だと気づいて、ユキヒトの胸が痛んだ。その痛みが幾度目であるかはもう覚えていない。しかし、慣れることはなかった。
「おかしなものだ。ヒトは己が己であるために己の欲すら制御せねばならん。その様な生物が他にあるか。欲求を叶えることを是とする野性と、より高度に生きるために欲求を抑える理性と、一体いずれが生物の本質であるか。野性がなければ生きられず、理性がなければ繁栄できず。そのいずれもが本質で無いとするならば、両極の間にある中庸こそが本質か……」
後半を問いかけているのは、その場にいるユキヒトやノルンというよりは己自身であるらしい。声はやや小さく、ぶつぶつと呟く様にアルディメロは言う。
学問が未成熟なファリオダズマでは、学者の多くは哲学者の側面を持つ。専門が細かく分かれるほどに個々の学問が発達してはおらず、探究心の究極は哲学的な問いかけに収束する。アルディメロもまた例外ではなかった。
疑問の海に沈みかけたアルディメロに、ユキヒトはパンと耳元で手を鳴らす。
「哲学は一人になってからするように」
「ん、あ、ああ。すまん」
問いかけにのめりこみ始めていたらしく、アルディメロの反応は鈍い。アルディメロにはいったんそれに集中すると、周りが見えなくなる癖があった。強制的にこちらの世界に戻ってこさせると、彼にしては珍しい表情を見せることが多いために面白い。
「何にせよ、お前の商売が繁盛しているのは事実だ。重畳、重畳」
「集中力が切れたからってあからさまにお茶を濁すなよ」
幾分マイペースなところもある友人に、ユキヒトは笑った。
「さて……そろそろお暇するか」
「また来るがいい。お前がこの街に帰ってきてくれて嬉しいよ」
「ありがとう。俺もこの街に帰ってこれて嬉しい」
社交辞令でもなくそんな事を言ってくれる相手と言うものは心地が良い。からからと笑う人狼は、ユキヒトにとって心の底から良い友人であった。
酒場からの喧騒に気づいたのは、アルディメロ邸から帰る途中、商店街で少し買い物をしていた時だった。
夕暮れ時、まだ酒場が繁盛する時間には少し早い。その割に妙に騒がしい酒場が一軒あった。
「……中、喧嘩してます」
「……やれやれ。まだ日もあるうちに」
聴覚の優れたノルンが、騒がしさの理由を聞き分けると、ユキヒトはあからさまに溜息をついた。
ユキヒトは酒を飲んで馬鹿騒ぎをすることを好まない。元の世界では未成年であったし、ファリオダズマに来てからも、師であるオルトがあまり正体をなくすような飲み方をしなかったこともあって、酔っ払いや彼らが起こす騒動と言ったものに対して冷淡になる傾向があった。
「行くぞ、ノルン」
「……ちょっと待ってください。なんだか、聞き覚えのある声がします」
「……何?」
知り合いに酒癖の悪いものは少ない。ノルンとも面識があるとなればなおのことだ。
さっさと離れたものか、様子を見るべきか。迷ううちに、バタンと乱暴に酒場のドアが開いて、中から男が一人、突き飛ばされて出てきた。
「畜生! 馬鹿にしやがって!」
男は叫ぶが、答えは桶でも使ってきたのか、ずぶぬれになるほどの量の水だった。
「畜生、畜生……!」
ぶつぶつと呟く男は、あからさまに顔を赤くしており、酔っているのは歴然としている。その顔を見て、ユキヒトはもう一度溜息をついた。
「自殺志願かと思ったら酒場で酔っ払って喧嘩か? それもこんな日のあるうちから。下らないな」
「何だとぉ!?」
顔をあげたのは、まぎれもなく先日の依頼人、ソルスケルと名乗っていた青年だった。
「そんなずぶぬれで泊ってる宿にも帰れないだろう。一度うちに来い」
「うるせぇ! お前に何が……」
「何も分からないけどな、お前が今最高にみっともないってことだけは分かるよ」
その後も何かブツブツと言っていたが、それ以上は声をかけずに歩きだすと、結局ついてくる。このような、あからさまにどこかで問題を起こしたと分かる格好で宿に戻れば、翌日からは泊めてもらえない可能性も高かった。
「……」
ノルンは、ユキヒトに手をひかれながらどこか彼に対して気遣わしげな表情をしている。その表情はむしろ彼を傷つけることをユキヒトは知っていたが、あえてそれをノルンに伝えようとは思わなかった。
工房に帰りついて、ユキヒトはタオルと自分の着替えを一揃え用意して渡した。こんな時期に水を浴びせられたのだから、酒を飲んでいるとはいえ温まりたいところかもしれなかったが、ボタン一つで済む日本とは違いファリオダズマでは風呂の用意はかなりの時間を要する重労働だ。そこまでしてやる義理はなかった。
いい加減体が冷え切っているらしく、着替えてからもがちがちと歯を鳴らすソルスケルに、ユキヒトは紅茶を出してやる。
「……申し訳ない……」
頭も冷えて、酔いも大分覚めてきたらしい。ソルスケルは謝ってから、その紅茶に手を伸ばした。
「俺はあんたを連れて帰っただけだ。酒場にはちゃんと金を払ったのか?」
「……」
「明日、ちゃんと払ってくるんだな」
流石に今日は出せる顔もあるまい。とはいえ同じ商売人として、踏み倒しは阻止する必要があった。
「……で、どうする。帰るか? それともここで事情を話していけば少しはすっきりするか?」
少なくともこのように荒れた原因の一端はこの工房での出来事にあるだろう。そう思えば少しは責任も感じる。
「……申し訳ない。今日は帰る。酒が抜けてから、事情は説明しに来たい」
「そうか。まあ、止めないよ」
思い込みの激しい男ではあるようだが、案外最低限のところでの常識も持っているのかも知れない。後日説明に来るというのであれば、止める理由もなかった。
「送らないぞ」
「……そこまで恥知らずなつもりはない……」
「十分恥ずかしい奴だ」
「……」
手厳しいユキヒトの言葉に反論するではなく、恥ずかしげに小さくなって、ソルスケルは工房から出て行った。
「酔って乱暴になるヒトは嫌いだけど……あの人は、ちょっと可哀想」
「そうか」
ノルンには何か違いが分かったのだろうかとユキヒトは思う。ユキヒトにはよく分からなかった。酔っぱらいは酔っぱらいだ。
「上手くいかないんだと思います」
「……何が?」
「分かりません。だけど……あの人から感じるのは、もどかしいという気持ち。どうしようもない事を、どうしようもないんだって納得できない気持ち……」
「……」
それを感じ取ったノルンの心境、どうしようもない事をそうと納得できないのは一体誰かと、そう心の中に問いかける。
考えても仕方がないと頭を振って、ユキヒトはその考えを振り払う事にした。
翌日、ユキヒトが鍛冶場に火を入れるより前に、ソルスケルが工房を訪ねてきた。
「……昨日は見苦しいところを、申し訳ない」
「荒れるのは勝手にすればいい。けど、赤の他人に迷惑をかけるのはやめにしろよ」
「……」
年下の、それも反論できないほどの非がある人間に対してこのような態度は幾分大人げないだろうかとも思いながら、ユキヒトは再度注意をした。案の定というべきか、ソルスケルは黙ってうつむく。ここで妙な反発をしないのは、やはり自分に非があったことを認められている証拠と思うべきだろう。
「さて、話したい事があるなら聞く。ただし、聞いたからって何かができるとは限らない。それを期待してるなら、何も言わずに出て行ってくれ」
冷たいようだが、この程度まで突き放しておいた方が良い。あくまでも他人、下手に感情移入しても仕方がない。
ノルンはすでに部屋に下がらせている。これから先、どんな話になるかは分からない以上、始めからノルンを同室させないのが無難だった。
「……以前この工房に来た時にした話は、全て本当だ」
「ただし、語っていない事がある?」
「……」
台詞を先取りすると、ソルスケルは黙ってうなずく。
「初めに言っておくけど、それを無理に語れとは言わない。別に珍しい事じゃない。ヒトにはそれぞれ、話せることと話せないことがある。必要だと思えば聞かせてもらおうおうとすることはあっても、何も強制じゃない」
「いや、オレは誰かに聞いてほしかったのかも知れない」
「聞かせる相手は選べよ。俺は貴方の何でもないんだ。赤の他人に話して聞かせていい内容なのか?」
「……赤の他人だから良いのかも知れないな。少なくとも、俺は、俺がする話を別の傭兵がしていたら、そいつとだけは組んで仕事をしない」
「随分だな。まあいい。聞いた内容が何にせよ、他人には話さないさ。ただし、犯罪に関わっている場合は例外だ。善良な市民の一人として衛兵に出頭してもらう」
「オレの過去が、何かの罪に問われるならば、あるいはその方が気も楽かもしれない……」
ソルスケルは、自嘲を隠そうとしない表情で言った。
「オレは、山賊に襲われた時……山の斜面を転がり落ちて助かった。それは本当だ。ただ、本当は……多分、オレは、妹を見捨てて、囮に使って、自分だけ逃げた」
「多分?」
自分の行為にそのような言葉を冗談でつける知り合いがいないではないが、少なくともこの場面にそぐうとも思えず、ユキヒトは聞き返した。
「……オレは、命の危険に対して鼻が効くようにできているらしい」
「傭兵には必要な資質だな」
「そうかもしれない……だが、オレは、危険がせまったときに、ほとんど無意識に周りにあるものすべてを利用して生き延びてる」
「……?」
「仲間を囮に使ったり、戦線が崩壊した瞬間に逃げたり、仲間の救援に行かずひたすら隠れていたり……様々だ。オレは一度も重傷を負ったことがない代わりに、味方を助けたこともない」
「随分逃げ足が速いんだな」
傭兵などと言う生業をしていれば、ある程度当然のことだ。とはいえ気持ちの良いものでもない。幾分冷たい声になってしまったのは、やむを得ないところだった。
「初めは俺も、少し憶病で、逃げ足が速くて、悪運が強いだけだと思ってた。でも、後で考えて見ると、俺が助かるチャンスはそこしかなかったっていう選択ばっかりだったんだ。しかも、俺がそうすることで、もしかしたら助かっていたかもしれない奴が何人も助からなくなってたことも多かった」
「……」
「……気づいて、怖くなった。もしかしたら俺は、とんでもない奴かもしれないと思って。怖くなっても、仕事はやめられなかった。俺みたいな奴は、もう今更まともな仕事になんかつけない。傭兵で食っていくしかないし、仕事をすると今度は誰かを犠牲にして生き残る、ずっとそんな繰り返しだ」
ソルスケルは、語りながら頭を抱える。彼なりに悩み、苦しんでいる。それは間違いのない事実だった。
「気づいてしまったら、もう、考えるのをやめられない。オレが、一番初めに命拾いをした時……。あの時は、どうだったかって」
相槌も打てない。ただ彼の言葉を頷くこともせず静かに聞いていた。
「道の前も後ろもふさがれてて、もちろん子供の俺に山賊を倒して逃げるなんてこと出来るわけもない。かなり急な斜面だったから、転がり落ちればまさか追ってくることなんてできない。大怪我どころか、死んだっておかしくないような場所だった。……妹を連れていけたかっていうと、難しかった。妹が怪我をしたらとても連れてどこか安全な場所まで行けるとも思えなかったし、そもそもぐずる妹を連れてたんじゃ、斜面まで逃げる前に捕まえられそうだった」
「それを全部計算して、一人で逃げたって?」
「その場で考えてたわけじゃない。でも、オレはいつも、気づいたらそうやって、自分一人が助かる様な事ばかり……」
それが悪なのかと言えば、単純にそうと断じるのも難しい。彼が自分で思いつめているだけで、彼の言う事が客観的事実に基づいているかと言えばそれは分からない。彼の自責の念が、彼をそんな風に追い詰めているだけという事も十分に考えられた。
「……ここまでの話は分かった。それで、何故剣を?」
「あの山賊を見つけた。オレは、今まで何もかもから逃げてばかりで……。半端なんだ。だから、あいつらを殺して、仇を討てたら、今度こそもっとまともな人間になれる気がしたんだ」
「……」
「集団で行ったら、きっと、負けそうになったら逃げる。多分……逃げてしまえる。それじゃダメなんだ。勝つか、死ななきゃダメなんだ。そうじゃなきゃ俺は、まっとうな人間になれないんだ」
悲壮な決意をその眼に刻んで、切々と彼は訴える。その気持ちは、ユキヒトにも理解ができた。
ユキヒトは考える。果たして彼に剣を打つべきだろうかと。
彼の言う、まっとうな人間と言うものがどういうものであるのか、おおよそは分かる。しかしながら、彼のいう方法でそれになることができるかと言えば、それはユキヒトには疑問だった。ヒトが、何か一つのことをきっかけにして以前の自分とまったく別の存在になれるとは、ユキヒトには思えない。
「まっとうな人間ってのは、一体なんだ?」
「……逃げたり、騙したり、見捨てたり……ずるしなくても生きていける、そういう人間だ」
「……」
しばらく考えて、ユキヒトは結論を出した。
「分かった。剣を打とう」
「本当か!?」
「ただし、条件が二つある」
そしてユキヒトは、その条件を口にした。
何度目かは分からない。ソルスケルが地面に叩き伏せられた。
「典型的な我流剣術です。基礎と言うものがなっていない。それでは本物の剣士には勝てません」
「……うぅ……」
ソルスケルは、鉄製の模擬剣を杖のようにして立ち上がる。膝はがくがくと震えており、全身から酷い汗をかいている。
叩き伏せた側、ヴァレリアはといえば、平然とした表情だ。少しばかり顔は上気しているものの、彼女は剣を振るう時、入念な準備運動を欠かさない。その準備運動により体を温めただけであり、殆どその場から動きもせずにソルスケルを良い様にあしらっている。
「剣を杖として使ってはいけません。剣が痛みます。一度目の忠告ですので見逃しましょう。次からは容赦をしません」
実際に、彼女の部隊で訓練中に剣を杖として使ったものは、その日は足腰が立たなくなるほどに徹底的にしごかれる。
「まあ、貴方の癖は大体分かりました。それでは基礎を教えましょう」
「……」
「返事がありませんね」
「よろしく頼みます……」
よろしいと頷いて、ヴァレリアは剣を構えた。
「私たちのように、両手持ちの長剣を使う場合、重要なのは左手です」
「……」
「その程度は分かっていると思いますが、力を入れれば早く、強くなるというわけではありません。貴方の場合、左手が握りこぶしを作るように指と指がくっついている。それでは余計な力が入ります。小指にはある程度力を入れますが、他の指は心持ち間隔をあけて握るようになさい」
ヴァレリアの指導に従い、ソルスケルは剣を握り直す。
「振りあげ、振り下ろす際は、基本的に左手が体の中心線を通るように。右手は舵を取るだけ。左手で振るのです」
一度ゆっくりと振りあげ、そして振り下ろす。やってみなさいと促されて、ソルスケルはそれを真似る。
「極力頭を上下させないこと。視線がぶれれば、敵を見失います。常に平静に、常に着実に」
すり足で前進しながら、振りあげた剣を振り下ろす。言葉の通り、彼女の上半身はほぼ上下に振れない。滑るような移動だった。
再度促されて、ソルスケルがその通り、一度素振りをする。
「いいでしょう。これがどれだけ体に馴染んでいるか、それが重要になります。毎日素振りをなさい。初めは速く振る必要はありません。正しく振りなさい。正確に振れるようになれば、少しずつ速く振れるようになりなさい。しばらく、素振りをしていなさい」
指示を出して、ヴァレリアはそばで見守っていたユキヒトの方へ近づく。
「それで、一体どういう事なのですか? 彼に稽古をつけろというのは……」
「……何故と言う事はないんだけど、彼にはこれが必要な気がしたんだよ」
「そうですか。……私と貴方の為の時間を潰すのですから、きちんと埋め合わせはしてもらいますよ」
少し恨みがましく、ヴァレリアはユキヒトに告げる。
ヴァレリアにとって自由になる時間は決して多くない。ベルミステンでは兵も指揮官も、多くが死んだ。兵の数も足りないが、何より指揮官が絶対的に不足していた。
兵の訓練には時間がかかる。しかし、指揮官の養成にはさらに時間がかかる。ベルミステン騎士団は、いまだ再建を果たしたとは言えない状況だ。
指揮官については、ベルミステンもまたロマリオ皇国の一都市である以上、国からの支援として他の都市からの転属である程度補っている。しかしながらロマリオ皇国では伝統的に、都市所属の騎士団はその都市の出身者で人材をまかなう。良質な人材を絶え間なく確保するには、何より仕官生の数を増やさなければならない。
そこで、ヴァレリアの出番になる。英雄として市民に人気のある彼女が、志あるものの仕官を呼び掛け、またその試験にも積極的に関わっていく。厳しくなる訓練にも、彼女の存在によって士気を保つ部分がおおいにある。
そうなるとどうしても彼女の軍務の時間は長くなる。一般的な騎士と比べると、彼女の非番は圧倒的に少ない。
「仰せに従うよ」
確かにユキヒトにも、彼女のプライベートな時間を、このように使うことに対して、申し訳ないという気持ちと惜しいという気持ちがある。ユキヒトにも人並みの独占欲と言うものがあった。
二人が話をする少し遠くでは、ソルスケルが言いつけを守り、ゆっくりながら正確な素振りを行なっていた。
原材料となる鋼は、山奥に住まっていたころと同じように、今でもドワーフのリクドから購入している。刀匠としてはやはり、自分で納得の行った素材を使いたかった。
燃え盛る炭の中に鋼を置き、真っ赤になるまで熱する。熱した鋼は、鎚で叩いて扁平な板にする。
言葉にすれば単純な作業、しかし、幾度も幾度も、鋼を叩き、鍛えていく。つまるところ鍛冶とは、鉄を叩く作業をひたすらに繰り返す仕事だ。
叩き続けて、板状になったところで、水につけて冷やす。急激に冷やすことで、不純物が剥がれ落ちる。再び熱し、切り分けて形を整え、テコと呼ばれる長い棒状の鉄製の道具の先に乗せる。
ここから、重要な「鍛錬」が始まる。
切り分けたもの重ねて更に熱し、鎚で叩いて接着する。火花を散らし不純物が飛び散っていくが、当然、凄まじく熱い。初めの頃こそそれに怖じ気づきもしたものだったが、もはや火を恐れるような感性はユキヒトにはなくなっていた。
地金を叩く鎚もかなりの重量がある。鋼を鍛えるのに使うのだから、相応に頑丈なものでなくてはならない。こちらも、初めて振るった時にはすぐさま腕が上がらなくなった。
接着ができたところで、ワラの灰を表面につけ、さらに泥をつける。再び炭の中にいれ、芯までじっくりと「沸かす」。
十分に熱されたところで取り出し、再びワラの灰をつけて炭の中へ。取り出し、再び鎚で叩く。
ここまででようやく、テコの先で材料となる鋼が固まり、折り返し鍛錬が始まる。
金具を鎚で叩きこみ、半分のところで折り目を入れる。同時に、水をかけて小規模な水蒸気爆発を起こさせ、不純物を飛ばす。折り返して再び鎚で叩きつつ、不純物を取り除く。再びワラの灰と泥をつけ、火の中へ。
火の中へ入れている間も、もちろん単に見ているだけではない。絶えず風を送り、火の勢いを強くして温度をあげる。ぼんやりとしていられる時間などない。
取り出して鍛錬し、再びワラの灰をつけて、火の中へ。最後にもう一度取り出して接着し、これで一度の折り返し鍛錬となる。
芯鉄なら7度から10度程度、皮鉄ならばその倍程度、折り返し鍛錬を繰り返す。何度も繰り返すうち、どんどん不純物が取り除かれて行き、始めの塊から半分以下の大きさにまでなる。ただひたすらに、繰り返し繰り返し、鉄を打つ。ここで出来た地金が使い物にならなければ、当然出来上がるものも駄作だ。ただただ、一心に鉄を打ち続ける。
その日は、ひたすら地金の折り返し鍛錬だけで作業が終わった。
「……毎日こんなことをしているのか……?」
「それが俺の仕事だ」
呆れたように言うソルスケルに対して、ぜぇぜぇと肩で息をしながら、ユキヒトは答える。汗まみれの服が肌にへばりつき、気持ちが悪い。それに気づくのはいつも、作業が終わってからだ。
「鋼なんてまだましな方だ。魔法金属を混ぜれば、折り返し鍛錬が30回必要になる事だってある。……ヴァレリアの剣を打った時の竜の鱗なんて、芯鉄が50回、皮鉄は80回だった」
「……」
絶句するソルスケルに構わず、ユキヒトは水を飲み、呼吸を整える。
ユキヒトがソルスケルに出した二つの条件、それは、ヴァレリアの剣の稽古を受けることと、彼の剣を鍛えている間、毎日その作業を欠かさず見に来ることだった。
「さて……晩飯の用意だな」
「!?」
「ここに住んでるのは俺とノルンだけだ。まさかノルンが料理できるとでも思うか?」
「……」
驚愕の表情で固まった後、ソルスケルは首を左右に振る。流石に昼食の用意が出来るほどの余裕はないことが多いため、鍛冶をする日はノルンの分を含め、適当な昼食を出前で頼むか、朝のうちに作っておいてそれを食べることが多い。
流石に夕食まで朝から用意するのは難しく、毎度外食するのでは金の無駄だ。それ以上に、山奥の工房ではそもそも外食と言う選択肢がなかった。その頃からの習慣で、今もユキヒトは仕事の後に夕飯を作る。
「……どうして……」
「……」
小さく呟いて、しかしソルスケルの疑問は完成せず、だからユキヒトも答えはしなかった。
恐らくはその疑問に答えるのはユキヒトであるべきでなく、ただソルスケルが自分自身で答えを見つけるべきなのだろうとユキヒトは思う。
「何だったら、食べていくか?」
「遠慮する。手伝えもしないのに夕食をごちそうになるわけにはいかない」
「正直だな。覚えてみたらどうだ? 傭兵ならいらない技術ってわけでもないだろう」
「……考える」
ヴァレリアの訓練を受けているときにも思ったのだが、本来この男はなかなかに素直なのではないだろうかとユキヒトは推測する。幾分極端なところを見せる部分もあるが、おおむねはまともな感性をしている。
「明日も同じ時間から鍛冶をする。遅れないように」
「……」
約束が守れないようであれば剣は引き渡さないと、そう言っている。不本意であれ何であれ、剣が欲しいのであれば、彼は工房に通わざるを得ない。
「……貴方に鍛冶を教えたヒトは、どんな人だった?」
「うん……? そうだな……。誠実な人だったよ」
一言で言い表すには、自分にとって大きすぎる人だった。言葉を探して、それですべてが言いあらわせるとは思えなくとも、最も適切に近いと思われたその言葉を選んだ。
「……そうか」
小さく呟いて、彼は考え込むように視線を下げた。
来る日も来る日も、鉄を叩く。工房で汗まみれになりながら、ただひたすらに鉄を叩く。
見た目だけでは何が変わったのかさえ分からないささやかな変化を起こすためだけに、時間をひたすらに費やし続ける。
「……ふっ! ……ふっ!」
重い鎚を振る腕は、自然と頑丈に、太くなる。その様にして鍛えられた体であっても、一日中は鎚を振るう事などできない。
疲れ、肩で息をして、水分を補給し、暫く息を整えて、そして再び鎚を振るう。
何度も何度も叩き続け、折り返しては火にくべ、そしてまた鍛える。単調ともいえるその作業は、しかしながら漫然とできるものではない。失敗は取り返しがつかない。常に集中力を保ち、鉄の状態を慎重に見極めることが重要だ。
芯鉄と皮鉄、その両方の鍛錬が終われば、皮鉄をぐるりと曲げ、芯鉄を包み込むようにして、熱する。真っ赤に熱したそれを鎚で叩き、接着する。ワラの灰と泥を塗り熱しては叩く。何度も何度もそれを繰り返して、確実に皮鉄と芯鉄を一つにする。
作業がそこまで進む頃には、すっかりソルスケルも息を潜める様に真剣にその作業に見入るようになっていた。
少しずつ、しかし確実に、彼の為の剣は出来上がっていく。魔人ではなくただの人が、剣を生み出していく。妖術ではなく、技術と魂が剣を仕上げていく。だからこそ意味があるのだと、ユキヒトは思う。
傍で見ている青年は何を感じているだろうか。自分は一体、何を伝えられているだろうか。気にならないわけではないが、気にしていたのでは剣が疎かになる。ただただ鍛冶に打ち込むことでこそ、彼に何かを伝えられるはずだ。そう信じ、ユキヒトはそれに没頭していった。
「……何か、ご指導は」
「有りません。一朝一夕に、一体貴方は何を得たつもりですか。反復なさい。貴方から聞きたいことがあるというのならば、答えるのもやぶさかではありません」
「分かりました」
冷たいようにも聞こえるヴァレリアの言葉に、反駁するでもなくただソルスケルは素振りを繰り返した。
「……間違っていないでしょうか」
幾度か振った後、手を止め、ソルスケルは問いかける。
「幾分、スムーズになりました。よく繰り返したようですね。次は全身の動きを一つ一つ意識しながら振るようにしてごらんなさい」
「はい」
素直に頷き、彼は素振りを再開する。
静かに見守るヴァレリアは、それでもぼんやりとしているわけではない。その素振りを一つ一つ、確かめるように見つめ、正しく振れていると思えば小さく頷く。ユキヒトは二人を邪魔しないように、静かにその場に佇む。
「……風を切る音が、一定で、綺麗です」
剣術など分かるはずもないノルンだが、その鋭敏な耳でそう評した。ヴァレリアはそれを聞いて、にこりと笑う。
静かな中に、ただ青年の剣を振る音だけが、いつまでも響いていた。
引き渡しの日、少し緊張した面持ちのソルスケルがカウンターの向こうで待つ。ヴァレリアもその日は非番で居合わせていた。
「……さて。どうする?」
剣を差し出しながら、ユキヒトは問いかけた。内容を随分と省略したその質問も、ソルスケルには意味が通じたらしい。彼は小さくうなずいた。
「これから、どうするか……まだそれは分からないけれど、とにかく、すぐに山賊退治に向かうのはやめにする」
「そうか」
何気なく答えて、ユキヒトは恭しくその剣を差し出した。
「どうぞ、お客さま。貴方の為に生み出された剣です。若輩の身ではありますが、全霊を込めて打たせていただきました」
「ありがたく頂戴します」
丁寧に両手で、ソルスケルはそれを受けた。
「……ずるをせず、真面目に生きていくために必要なのは……多分、復讐じゃないんだな」
「さあ。俺には分からないよ」
「……何もかも、後ろめたかった。だから、白か黒かが欲しかった。後ろめたくて、どうしたらいいのか、分からなかった。生きているって実感が、どうしようもないくらい乏しかった。……今は、とにかく、生きてみようと思う。毎日を一生懸命に、ただ生きていくってことを……今まで誰も、教えてくれなかった」」
「そうですか」
少しばかりそっけないとも思える態度だが、彼女はむしろ嬉しいと思ったときにこそそういう態度を取ってしまう。それを知っているユキヒトは、ヴァレリアの態度に少し笑みを浮かべた。
傭兵と言うものは多くが、刹那的な生き方をする。危険度の高すぎる仕事であるがために、未来の事を思わず、今その一瞬ばかりに生きる者が多い。
「気が向いたら、騎士団に来なさい。今の貴方ならばベルミステン騎士団はいつでも歓迎するでしょう」
「考えて、それが正しいと思ったら。ありがとうございます」
丁重に頭を下げる彼は、やはり根元のところでまじめで素直な男なのだろう。
「一度だけ、この剣で素振りをしたい。許してもらえますか?」
「許しましょう。表に出なさい」
ヴァレリアが頷き、ユキヒトとノルンも連れだって外へと出る。
「……」
惜しむようにゆっくりと、ソルスケルは剣を抜いた。中段に構える。落ち着きがある。一方で緊張がある。良い状態だとユキヒトは思った。
静かに剣が上がる。頂点に達したところで、ソルスケルが一歩を踏み出し、同時に剣が振り下ろされる。ひゅん、と風を切る音がした。
剣を鞘におさめ、一礼する。顔をあげ、ソルスケルがまっすぐにヴァレリアの目を見ると、彼女は小さく頷いた。
「未熟です。精進なさい」
「はい」
「しかし、悪くはありませんでした」
剣の指導者としての彼女は、無暗に褒めるという事をしない。称賛に値するものを見ればそれを惜しんだりすることはないが、剣に関して言う限り、彼女の見る目はかなり厳しい基準を持っている。彼女にしてみれば、それは評価の言葉だった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げ、傭兵の青年は去って行った。
道に迷う人へ ただ一歩前に進む勇気を願って 行人