ファリオダズマの多くの国にとって、貴族階級とはかつての戦士階級にあったものである。
ファリオダズマではヒトの集落の創成期において、モンスターとの戦闘を行いつつ開拓を行なう必要があり、また異種族との戦争に敗北すれば略奪を受け、酷ければ集落が滅亡するなど、戦いの重要性は非常に高かった。
原始の戦闘においては個々がそれぞれに武勇を振るったともされるが、原始の集落の生産能力では、平時においては生産性のない職業兵士を常備することなど不可能であり、事が起これば、普段は農耕や牧畜で日々の糧を得る集落の青年達が戦いに赴いていた。やがて集落が大きくなるにつれ、自然発生的に集団戦闘の概念が生まれ、指揮官と兵卒が生まれた。
集落の指導者が指揮官になったケースもあれば戦闘の指揮官が日常生活においても権力を握るようになって行ったケースもあるが、いずれにせよ、やがて集落の指導者層と戦闘の指揮官層は合一され、政治と軍事を司る貴族層の形成がなされていった。
その様な起源を持つために、貴族の義務とはすなわち、集落を守り、また発展させるために戦う事であった。ユラフルス三大国の一つ、北方の獣人族を中心とする神聖グールリム帝国における初期の名君、『征服帝』の二つ名を持つファッテンⅠ世が遺した『闘わざる者貴族に非ず』という言葉に、それは端的に表れているとされる。
現在のファリオダズマでは多くの国家が警察機能を兼任する常備軍を保持し、末端の兵卒は平民階級が占め、そこから昇任し指揮官となるものも多い。また多くの国では官僚への登用に試験制が採用され、政治の世界も平民に開かれていると言える。しかしながら、まだ平民に十分教育が行き届いているとは言えない現状、政治は貴族階級と一部特権的平民階級のものであり、軍事にしろ、将軍のようなトップは貴族が占めているのが現実である。
その一方で『ダークエルフ戦争』以来、大陸全土を巻き込むほどの大規模戦争は絶えていることもあり、近年では貴族の官僚化が進んでいる。それに伴い、貴族の義務としての戦いは忘れ去られつつある。貴族の間にあったはずの尚武の気風は、特権階級としての贅沢と驕慢にとってかわられつつある。
ユキヒトの目から見れば、これでインテリ層の形成と一般市民への教養の普及が進めば、市民革命も遠くはなかろうと思われたが、ユキヒトのいた世界とファリオダズマの違いはと言えば、貴族階級には家系的に高い魔力を有するものが多いという事があげられた。
魔力とは遺伝的要素も大きく絡む能力である。特に魔術の技術体系が確立していない太古の戦闘においては、魔術を行使できる個人戦闘能力の高い者は相当に魔力の高い者に限られ、彼らは自然に指揮官階級、貴族階級へと組み込まれていった。古くから貴族同士の婚姻を繰り返していた関係から、現在においても、大陸に名の知れた魔術師と言えば貴族の名家の出が多いのが現実であり、数が少なく力の強い貴族階級が数が多く力の弱い平民階級を押さえつけるという図式が成立している。
現在のファリオダズマにおいて、貴族とは平民にとって、搾取階級であり目の上の瘤と言って過言でないが、かといって排除するには力の強すぎる存在であった。
「……ユキヒトさん、お客様です……」
買い物から工房に帰ると、ノルンが少し怯えたような表情で出迎えてきた。仕事がある日には、日中に買い物に行くと言う事はないのだが、今はノルンやヴァレリアの意見から、定期的に休日を設けている。今日は定休日で、表の看板にもその様に示しているのだが、どうやらそれにもかかわらず来客があったようだ。
ノルンは幾分人見知りをする性質だが、客が来たというだけで萎縮することはない。注文を受け付けるにしても、鍛冶場をほったらかすわけにもいかないため、顧客の初回の訪問はノルン一人で受けることが多いのだ。そのノルンが妙にびくびくしているのは一体どうした事かといぶかしみつつも、ユキヒトは落ち着けるようにぽんぽんとノルンの頭を撫でた。
「お留守番お疲れ様。偉かったな」
「……はい……」
どうにも歯切れが悪い。不審に思いつつも、ユキヒトは工房の、注文を受けるカウンターのある部屋へ入る。
そこに待っていたのは、身なりの良い男だった。髪は白くなった初老の男だが、背筋はしゃんとしており、覇気を感じさせる顔つきだ。
恐らくは貴族階級か、それに関わる人物。とはいえ相手が明らかにしない限り深く詮索しないのがファリオダズマでの商売のコツだ。
「こんにちは。留守にしており申し訳ありません、工房主のユキヒト・アヤセです。しかし、本日は表の看板通り、定休日です。何か急ぎのご依頼でしょうか?」
深く詮索しない代わりに、特別扱いもしない。ユキヒトはオルトから続くその姿勢を貫いていた。それに対して男は、ふんと少し気取った風に冷笑した。
「……この私が、こんな工房に剣の注文をしに来たと?」
鋭い目に冷たい言葉。一瞬で確信した。この男は、絶対的な権力を振るう事に慣れ切った、典型的な高慢貴族の類だ。
「ノルン。部屋に戻っていいぞ」
極力優しい声で、ユキヒトはノルンに柔らかく話しかけた。これからの会話はノルンに聞かせるべきではないものになる。そう直感した。
ノルンも、その場の空気が理解できているようで、こくりと頷くと早々に部屋から退出していく。それを確認してから、ユキヒトは口を開いた。
「刀剣工房に、剣の注文以外で何の御用件が?」
この高圧的な態度でノルンを怯えさせたのかと思えば腹も立つが、この世界で貴族と対立することは非常なリスクを伴う。ある程度は下手に出ざるを得ない。
「……ヴァレリア・ロイマー様は貴様には過ぎた女性だ」
「……」
その言葉に、むしろ心と頭がすっと冷えていくのをユキヒトは自覚した。
この男の目的が分かった。なるほど、それならばこの工房に刀剣の依頼でなくやってくるだろう。
英雄であるところのヴァレリアは、この世界からすればややとうが立った年齢ではあるものの、結婚に適さないと言うほどの年齢ではなく、また英雄として都合のよい事に、見目も麗しい。平民出身であるにしては異例な事に、貴族からの求婚も受ける立場なのだ。
「彼女は私の主の妻となるべき女性だ。平民は早々に手を引くがいい」
どうやら目の前の男は、ヴァレリアに縁談を持ち込んでいる御大層な身分の者の使いらしい。お前に彼女の何が分かっているという言葉をかろうじて呑み込んで、ユキヒトは一つ深く息を吸い込んだ。
「ヴァレリアが誰とともにあろうとするかは、ヴァレリアの意思の問題です」
「ヒトには分というものがある。彼女の分は貴様ごとき虫けらと釣り合うものではない」
感情の変化を感じさせず淡々としたその語りが、男が本心からそう思っていることを示している。何を言ってもこの男には無駄だと、疲労感とともにユキヒトは悟った。
「お帰りください。なんと言われようと俺からヴァレリアと別れるつもりはない」
「貴様はすぐにその発言を後悔することになる」
ただ事実を告げるだけという様な、淡々とした口調。この男は、自分に彼女を諦めさせるためだけに途方もない力を使ってくる。それは分かったが、ユキヒトには一向に怯む気持ちはなかった。
「お帰りください」
「そうか」
にたりと笑って、男は工房から出て行った。
結局最後まで、名乗ることもしなければ、こちらの名を呼ぶこともなかった。
そして何より、ヴァレリアの主体性を認める発言を一切しなかった。
「やれやれ。……立派な貴族も多いっていうのは聞くけどな」
そうでない側の代表例の様な男を見て、ユキヒトはため息を深くついた。
ある程度予想できたことではあったが、受けていた仕事の大半が、突然のキャンセルを受けた。何故なのかと問うが、顧客たちは微妙な態度で口ごもるばかりだ。製作に取り掛かっていたものについてはキャンセル料の支払いにも素直に応じてくれたものの、関わり合いになりたくないというその態度の意味は全く分からなかった。そしてその後、注文がぱったりと途絶えた。
仕事がないというのは、不安なものだ。
自営業で仕事がないという事は、即ち収入がないという事だ。多少の蓄えはあるものの、それとて事態が解決しなければいずれ底をつく。別の仕事、例えば肉体労働に従事すれば生活できないこともないだろうが、天職とも思う鍛冶を手放して別の仕事に就くなど、考えたくもなかった。
自分の腕が悪かったならば、諦めて別の仕事を探すこともできよう。しかしユキヒトには、今回の事態が全く納得いかなかった。
苛立ちが募り、ストレスがピークに達しつつあった頃にアルディメロが飛び込んできた。
「正当な注文に対して、貴族を貴族と思わない高慢な態度で断った、ねえ……」
アルディメロから市井に流れる噂として聞かされた内容を反芻し、ユキヒトは大きく溜息をついた。
「実際はどうだったのだ?」
「仕事を意味もなく断った事はない。まあ、最近はヴァレリアとノルンに言われて、納期を長めに設定してはいるけど」
「分かってはいたがな」
やれやれとアルディメロは肩をすくめる。
「竜騎士殿の絡みだろうな」
「……まあ、そうなんだろうな」
察しの良い友人も善し悪しだ。言わなくとも様々な事を分かってくれるが、言わないでそっとして置きたいことにも気づいてしまう。
今ユキヒトは、ベルミステンでも最も有名な鍛冶師の一人に数えられる。同業者からのやっかみなどももちろんあるが、ベルミステンの英雄、ヴァレリアが顧客の一人であることもまた周知の事実であり、下手に手を出そうとする者はいない。
あえて手を出してくるのであれば、公表はしていないヴァレリアとのもう一つの関係を知っていて、なおかつそれを疎ましく思う者。すなわち、ヴァレリアを手に入れようとしている者であると考えるのが妥当だ。
ユキヒトの顧客を把握する情報網、そして注文を取り消させるだけの圧力。かなり高位の貴族が相手であることは間違いあるまいとユキヒトは推測した。
今回の風聞、キャンセルをした者とて、噂が真実だと思った為にキャンセルされたとは限らない。むしろその可能性は低いとユキヒトは考えている。
問題になるのは、『相手が貴族である』と言う事実なのだ。
噂の真偽は別として、ユキヒトは貴族の不興を買った。その結果としての風聞である。ユキヒトに関わるものには、同様にその貴族からの不興を買う可能性がある。それが問題なのだ。
「……竜騎士殿に出てもらうのが早い解決策ではないのか?」
「いや……ヴァレリアには言わずに解決する。まあ、多分ヴァレリアの耳にはすぐ入るだろうけど……ヴァレリアは動かない方がいい」
「そういうものか」
彼は真っ直ぐである分、謀略には疎い。恐らく相手の狙いはそれであろうと思われた。ヴァレリアに早々に出張ってもらえば、次に流される風聞は『自分の不始末を英雄に尻拭いさせる情けない奴』といったところだろう。そもそもユキヒトには相手の名前すらも分からない。恐らくは貴族階級で、ヴァレリアに縁談を持ち込んでいる者である可能性が高いという程度だ。
「ここのところ忙しくしてたからな、ちょうど良い休みだよ。つつましく暮らすならしばらくはもつくらいの蓄えもある」
原因さえ分かれば腹もくくれる。ユキヒトは蓄えの金額と、切りつめて生活をすればどの程度もつかの計算を頭の中で始めた。
「堅実な奴だ」
「子供一人養ってれば堅実にもなる」
「……困ったら言え。少しなら貸してやれる」
「ありがたいけど、そんなに長くかけるつもりもないよ」
長くかければ様々な意味でヴァレリアの負担になる。当面のところは、相手の名前を特定するところからだろう。相手の目的がヴァレリアを手に入れることであるならば、関係者が聞けばあからさまに嘘と分かる風聞を流した男の元へ、彼女が赴くはずもない。
とはいえ、貴族に対してコネはない。何度か、貴族らしきものから注文を受けた事はあるものの、本来の身分は明かしてこなかった。こちらから深入りしてもおらず、伝手を使う事は出来ない。
「ふむ、伝えて良かったと考えるべきか。また様子を見に来るぞ」
「ああ、ありがとうアルディメロ。進展があったらこっちからも知らせるよ」
「無理はしないようにな」
そう言って、アルディメロは出て行った。
アルディメロは自分の言葉に忠実に、数日おきに様子を見に来てくれる。
噂はどうやらますます酷くなっているらしい。事実として、このところ工房には全く客が来ない。いい加減気も滅入ってくるが、屈するわけにもいかない。鬱々とした気分になりながらも、表面上はつとめて明るく、ユキヒトは振るまっていた。
アルディメロが来ていたある日、扉がノックされる音がして二人は一斉にそちらを向いた。
この状況では訪れる人も滅多にいない。一体何者かと思っていると、室内に声が響いた。
「失礼するにゃ」
「む……」
声を聞いた途端、アルディメロがピクリと反応を示し、わずかに警戒の体勢になる。すぐにドアが開き、小柄な人影が室内へと入ってきた。
「初めましてにゃ。あたしは猫人族のニルフリ・クリラって者だにゃ。状況は分かってるから安心するにゃ。あたしは味方だにゃ」
頭の上から突き出た耳、尻から生える尻尾、くるくるとした目、一見して獣人種と分かる女性が、ぺこりと頭を下げて自己紹介をした。
吊り気味の目、金色の癖のある髪、小柄ながら引き締まった敏捷そうな姿。猫人種の典型的な特徴を備えている。
「にゃっ、ワンコもいたのかにゃ」
彼女は室内をくるりと見回してアルディメロの姿を認めると、にたぁっと笑いながら、からみつくようにそう言った。
「私は犬ではない、狼だ!」
理知的な彼を怒らせるのに最も手っ取り早い言葉を使って挑発する彼女に、あっさりと乗ってアルディメロは怒鳴る。
「そのツッコミは正直飽きたにゃ。ネコは飽きっぽいのにゃ。もっと斬新にゃツッコミを考えてくるにゃ」
「私がお前に楽しみを提供してやる義理はない」
「別にいいにゃ。勝手にからかって楽しむにゃ」
「……自己紹介をさせてもらえるかな」
何やら客人同士でやり取りをし始めた二人に、何故か遠慮がちな気持ちになりながらユキヒトは呼びかけた。
「……これは失礼したにゃ。ワンコが絡んでくるからついつい相手をしちまったにゃ」
「誰が!」
「ほらまた。しょうがにゃい奴にゃ」
「……むむっ……」
反論のしようがないというよりは、それをしていると相手の言うとおりに話が進まないという事を理解して、アルディメロが渋い表情で押し黙る。
「こっちの事は知ってるみたいなのに自己紹介ってのも何だけど……ようこそ、刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』へ。工房主のユキヒト・アヤセです」
「よろしくにゃ」
「それで……状況は分かっているっていうけど、どういう関係の方かな」
「騎士団関係者にゃ。簡単に言ってヴァレリア中隊長の後任の小隊長にゃ」
それだけで、どちらの側の人間かは分かる。ユキヒトは、知らず知らず肩に入っていた力を抜いた。
この状況で騎士団関係者が訪れてくれるのはありがたい。それと同時に、ヴァレリアがどの程度今回の事を知っているか、どう考えているかが気にかかる。この状況になってから、気兼ねしてヴァレリアには会えていない。
「ま、もちろん中隊長もこの工房がどういう状況かってのは分かってるにゃ。超気にしてるにゃ。その癖にゃんか公私混同とかその辺を気にしてこの工房が担当区域に入ってるあたしにも調査命令出さにゃいにゃ。ぶっちゃけ悪質にゃ風聞の流布の疑いがある案件にゃ。調査命令出さにゃいとか、逆に公私混同にゃ」
彼女の話を信じるならば、ヴァレリアは彼女の上司のはずだが、彼女に遠慮は見られない。ヴァレリアの後任というのでありながらそれであれば、彼女が英雄として祭り上げられてから態度を変えた人間ではないだろう。むしろユキヒトはそれをありがたく思った。
しかしそれに対して、アルディメロが牙をむくような表情で噛みつくように口を開いた。
「貴様、軍属でありながら上下関係を歯牙にもかけぬその態度は何だ」
「そりゃそうかもしれにゃーけど、ワンコに言われる事じゃにゃあよ。にゃんの義理があってそんにゃこと言うのかにゃー?」
「くっ……」
アルディメロにしては、そんな難癖の様な文句は珍しい。まして、あっさりと相手に手玉に取られている様はますます珍しい。
どういった意味でかは別として、アルディメロにとって彼女は何かしら特別な存在なのだろう。
「……アルディメロ。彼女とはどういう関係だ?」
「……家が近所の腐れ縁だ」
「幼馴染のお姉さんに対してにゃかにゃか良い言い草だにゃー、ワンコ。昔のお前は可愛らしかったにゃ。例えば……」
「やめい!」
見た目には分かりにくいが、どうやら彼女の方が年上らしい。良いように弄ばれるアルディメロは、憤懣やるかたないという様に席を立った。
「ユキヒト、今日は失礼する。近々また連絡する!」
「あ……ああ。待ってるよ」
どすどすと足音も荒く、アルディメロは家から出ていく。後には、にゃはははは、などと気楽な笑い声をあげる自称彼の『幼馴染のお姉さん』が残った。
「……仲が良いんですね」
「おっ、にゃかにゃか話が分かるにゃ。まあ、世が世にゃらあたしはあのワンコのお嫁さんだにゃー。あれで可愛い奴だにゃー」
にゃははははははと、さらにあっけらかんと笑い飛ばす。語られた内容は、真実であるならばなかなかに衝撃的なものだった。
力が強く大柄な狼人種の中でも立派な体格の部類に入るアルディメロと、獣人の中では小柄な猫人種のニルフリ。また猫人種は種族の特性として大きなくりくりと動く目などの外見から年齢以上に幼く見えるため、並べてみると親子ほどにも年が離れているようにすら見える。実際の年齢は逆転しているようであり、また立場もやり取りから察するに対等以上のものなのだろうが、外見的にはなかなかに倒錯した組み合わせだった。
「……それで、今日は調査に来てくれたんですか?」
「にゃっ、ノってこにゃいのかにゃ。ちょっと残念にゃ」
へにゃっと尻尾をしおれさせながら、ニルフリはがっくり肩を落とす。そんなにショックなのかと何か声をかけようかと思えば、まあいいにゃ、と小さく呟いて顔をあげてにぱっと笑う。
「さあ、きりきり吐くにゃ。どんにゃ貴族野郎が来てどんにゃ不当にゃ要求押しつけて去って行ったのにゃ。さっさと吐かにゃいと痛い目にあうにゃ」
「……それは犯人側の取り調べのときの言葉じゃないんですか」
「細かい事を気にすんにゃ」
少なくとも本人が気にしていないのは明らかだ。ユキヒトは少し苦笑いをした。
アルディメロにしたのとほぼ同じ話を、ニルフリに繰り返す。ニルフリは途中、頷いたり相槌を打ったりと適所で反応を返してくれる、話しやすい相手だった。
「ふむふむ。にゃるほどにゃあ。まあ予想はしてたけど中隊長に手ぇ出してる奴なのにゃ。その線で洗うにゃ」
「……相手は貴族なんでしょう。そう簡単に行くんですか」
「そこは腕の見せ所にゃ」
あっさりと言うと、尻尾をぴんと立てる。
尻尾を持つ獣人の場合、多くはその動きで感情を表してしまう。それを恥として体に紐などを用いて固定したうえで服に隠すものも多いが、それはかなり窮屈な事でもあるらしく、ニルフリの様に気にせずにありのままふるまうものもいる。
「それと、今注文はほとんどにゃいって本当かにゃ?」
「ああ……仕事の量をちょっと減らしてたところに、キャンセルの山でね。お恥ずかしながら閑古鳥が鳴いてる始末だよ」
「にゃはは、キャンセルするにゃんてアホにゃ。あたしにゃんか中隊長の剣見てから打ってほしくて打ってほしくて、ずっと我慢してたのにゃ。ちょうどいい機会にゃ。注文するにゃ! あたしのナイフを頼むにゃ」
ファリオダズマに住まう種族の中で、猫人種は腕力において下位に位置する。しかしながら敏捷性や柔軟性といった身体能力は高く、また夜目が効き器用な手先を持つことから、ヒューマンと獣人の戦争時代には、優れた暗殺者として名を馳せた種族だ。血生臭さのだいぶ薄れた現在では、軍事関連では主に諜報員などとして活躍している。
その能力から、正面からの戦闘は得手としておらず、長剣や槍といったある程度以上に重量のある武器は使用しないのが普通だ。
「……ありがたいんだけど、事件の可能性のある案件の調査中に、一方の当事者に仕事の注文をする衛兵っていうのは倫理的にどうなんだ?」
今の状況であれば、注文はのどから手が出るほど欲しい。確かに自分は被害者であり、彼女の注文を受けることに本来であれば何ら後ろめたい事もない。しかしながら今相手にしているのは、この世界では圧倒的な力をもつ貴族階級の人間であり、隙となる要素は出来る限り排除するべきであった。それらの計算とは別に、ユキヒトの倫理としてニルフリに言った言葉通りの考えもある。
味方をしてくれるのはありがたい。だが、事件はあくまで公正に裁いてもらわなければ困る。全くの被害者であり、自分に非は何一つない。それは事実だが、それを公正な目で事実として認定してもらわなければ、世間は認めてくれない。
「にゃっ!? むむむ……これは痛いところを突かれたにゃ。さすがあの石頭ワンコの友達だにゃ」
「……全部終わったら、最優先で注文を受け付ける事を約束するよ」
「むぅ、にゃかにゃかにゃ落とし所にゃ……。まあ、がんばるにゃ」
とはいえこの程度ならば許容の範囲内であろう。もちろん、貴族とのいざこざを知って注文を取り下げた者たちに、解決後のキャンセルの撤回などということを認めるつもりもない。納期が近づいていたものに関してはきっちりキャンセル料も取っている。新たに注文しなおすということであれば、拒否する理由もないと思ってはいるが、臆面もなくそれができる者は、なかなかの面の皮の厚さだとも思っている。
ふと、ヴァレリアに会いたくなった。普段はつとめて考えないようにしているが、もうどれくらい会っていないのかと、指を折って数えてみる。
17日間と、当然のように答えが出た自分に、少しだけ苦笑する。ファリオダズマに来るまでは、こんなにも誰かと会えない事を苦痛に思ったことはなかった。
「……ダメだな、どうにも」
ユキヒトは軽く頭を左右に振った。
「……ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま」
小食のノルンだが、この頃は余計に食事の量が減っている。指摘するべきかどうかはまだ決められない。ノルンは当然、自分の食事の量が減っている事も、それに気づかれている事も知っているはずだ。
ノルンに対して甘すぎる自分をユキヒトは自覚している。それが決して彼女の為にならない事も知りながら、どうしても彼女に対する時、彼女を何としても傷つけない事を最優先にしてしまう。
生まれながらにハンディキャップを持ち、母を知らず、父を亡くし、それでもひねくれず、一生懸命に生きている。そんな彼女を守ってやりたいと思わないはずがない。彼女が望むのは一人でも生きてける強さを手に入れることであり、彼女を甘やかすのはかえってその望みを阻害することになると知っていたとしても。
「……ユキヒトさん、大丈夫ですか?」
「ん? 俺……?」
そんな悩みと裏腹に、ノルンは心の底から気遣わしげな声で、そう言った。意表を突かれて、ユキヒトは思わず聞き返した。
「……平気そうに振舞っているユキヒトさんの傍にいるのが、何よりも辛いです。……ヴァレリア姉さまだったら、きっとユキヒトさんだって我慢せずにもっといろんなことを言えるはずなのに」
「……」
誇らしさと情けなさで、鼻がつんとするのを自覚して、ユキヒトはかろうじて涙を留めた。
ユキヒトは、ファリオダズマに来る前は学生だった。自分で食い扶持を稼いだことも無く、親の庇護下で不自由なく生きていた。ファリオダズマに来てからは、ノルンの父であるオルトに保護され、そして仕事を教えてもらった。
幸運にも、ずっと誰かに支え続けてもらった。自分が今生きているのは、有形無形のオルトの遺産によるところが大きい。今回の事は、初めて、生きていくための糧を得る上での困難に当たり、自分の力で解決しなければならない事態なのだ。
不安だったし、誰かにこの理不尽をぶちまけたかった。そんな自分を、ユキヒトはノルンの言葉で知った。自分がこんなにも消耗していたことに、今の今まで気づかなかった。
「……心配かけたな、ノルン」
ポンと頭に手を置く。
「明日、一緒にヴァレリアに会いに行こう」
例えば自分と彼女の立場が逆だとしたら、自分が彼女にどうして欲しいか。例えそれがマイナスにしかならないのだとしても、会いたい。それでもきっと、自分が会いに行くことで相手を追い詰めるかもしれないと思えば、会いに行けない。
弱音を吐きに行こう、と情けない決断をユキヒトは下す。少なくとも彼女はそれを迷惑だとは思わないと、ほんの少しだけ心の中でのろける。
「それがいいよ」
ノルンが、少しほっとした声を出すのを聞いて、そんなにも彼女を不安にしていたのかと、今更ながらにユキヒトは驚く。誤魔化すように、ユキヒトは口を開いた。
「じゃあ、明日は少し歩くから、ノルンはもう少し食べないとダメだな」
「……うん」
ストレスで食が細くなるのはノルンの性質だ。ここのところストレスを与えていたのは間違いなく自分で、その元凶がどの口でという気持ちもある。それでも、体力のない彼女の事、食事を怠るとすぐに体調を崩してしまう。
「貴族の人の事、お父さんから聞いたことがあるの」
「……そうか、なんて言ってた?」
ノルンが自分から父親であるオルトの話をする事は珍しい。いまだに完全に消化できていないのだろう。それが、無理にでも何かを伝えようとしている。ユキヒトは、ゆっくりと頷いて先を促した。
「貴族っていうのは昔、子どもだったり、私みたいに体が弱かったり、年を取って上手に体を動かせなかったり、そう言う人たちを守って戦ってくれた人たちだったって」
「……うん」
魔術学院に通っていた時代に、一般教養としてファリオダズマの歴史にも触れている。その事実を、ユキヒトも知っていた。
「そう言う偉い人たちだったから、みんな尊敬していたって。だけど、今は、立派な人もそうでない人もいるって」
「……」
「貴族だから悪い人っていう訳じゃなくて、普通の人たちにも良い人や嫌な人がいるみたいに、貴族にも良い人や嫌な人がいるんだって。だから、相手が貴族だとか、そうじゃないとか、そんなことで判断をしちゃいけないって」
一般市民の中には、貴族と言うものを頭から毛嫌いするものが少なくない。オルトはそうではなかったらしい。
「……私、ユキヒトさんとヴァレリア姉さまにこんな風な意地悪をする人、大嫌いです」
貴族であるかどうかに関わらず、ただその人の行動を見て判断をする。ノルンは自分の価値観を持って、相手を敵と定めた。
このところヴァレリアと連絡を取っていなかったため、次の彼女の非番がいつなのかは分からない。
しかし、彼女の勤務時間ならばある程度把握をしている。
元々治安維持部隊は、重大事件が起こっていない限り、定例外の業務は入ってきにくい。配下部隊の訓練を見直していた時期はかなり忙しくもしていたようだが、一定の効果が出てきてからはそれもある程度収まっており、時間的な余裕も生まれている。
ここのところは夕食を家族で食べられるのだと語っていた事も思い出し、夕食の支度が始まる前の時間に、自分たちの分も含めて食材を持ち、ヴァレリアの家に向かった。
「まぁ、いらっしゃい」
「伯母さま、お久しぶりです」
ヴァレリアの母であるマーサ・ロイマーはオルトの姉である。子の出産の際に妻を失った弟を何かと気にかけ、手助けをしてきた人物で、ノルンにとっては母にも近い存在である。
目が見えず、体も丈夫でないノルンが赤子であるうちは、仕事に入れば早々面倒を見れないオルトでは到底世話をできなかった。ある程度手がかからない年齢になるまでは、オルトが仕事の日はほとんどマーサが育てた様なものだ。
しっかりとした子供であり、弟か妹を欲しがっていたというヴァレリアも積極的にノルンの相手をしており、今ノルンがヴァレリアを「姉さま」をつけて呼ぶのもその為の習慣である。
「こんにちは、今日はまた料理を教えていただこうと思いまして」
「という名目でヴァレリアに会いに来てくれたのね、ありがとう」
目下の悩みは一人娘のヴァレリアが婚期を逃しつつある事だ。
とはいえ実際には、政略結婚の話ならばいくらでも舞い込んでいるはずなのだ。
しかしながら、ヴァレリア自身も、彼女の両親もそれをよしとはしていないらしく、あいも変わらずユキヒトにプレッシャーをかけてくる。ユキヒトに対して、来ている縁談の話をする事はないのだが、どうやら来る話は全てきっぱりと断っているらしい。
平民の身分で、貴族からのその様な話をきっぱり断るなど、かなりの胆力である。世が世なら無礼討ちにされてもおかしくない。
「……まあ、実際今日は少しヴァレリアと話をしたくて」
「どうぞ、ゆっくり話をして行って。泊まってくれても構わないのよ。あの子と同じ部屋なら」
「いや、それは流石に」
百歩譲ってヴァレリアと同室で寝ることになったとしたところで、彼女の両親が一つ屋根の下にいて、それも性格からして聞き耳を立てている事を疑うべきであるにもかかわらず、ヴァレリアとどうこうできるはずもない。
「あの子なら多分、夕食の支度が出来たくらいに帰ってくるはずよ。全く、手伝いもしないで食べる量だけは一人前なんだから」
「ヴァレリアの仕事は激務ですから」
国で唯一の竜騎士も、母親にかかれば単なる娘でしかない。今この街で最もヴァレリアの肩書に縛られない人間、それが彼女の両親であるのは間違いない。
「お手伝いできることはありますか?」
「うん、お野菜をたくさん洗ってもらおうかしらね」
生まれた時からノルンを知っているマーサは、ノルンの出来る範囲で手伝いをさせることを躊躇わない。それがノルン自身の為にもなると信じている。
家に入ると、部屋はいつでも片付けられている。
家具は新しいものではない。大して高級でもないそれらはしかし、元々が丈夫な作りのものを、しっかりと手入れをして丁寧に使っている。傷みも見えない訳ではないが、何ともいえずそれが温かい。
玄関の近くの壁には、少しずつ高い位置に移動していく傷がいくつも刻まれている。それはヴァレリアが幼いころに、背丈を測ってつけたものだとユキヒトは教えてもらった。ユキヒトの胸より少し低い位置を最後に刻まれなくなったその傷は、ヴァレリアがヒューマンの平均女性よりずいぶん背丈が高い事を気にし始めて止まったのだとマーサは笑った。
極々一般的な庶民の家である。今のヴァレリアの給金であれば、もっと立地も良く、敷地も広い家に引っ越すなど簡単だろうが、ヴァレリアがそれを望む事も、両親が娘にそれを求める事も無い。
いつだったかオルトが、ヴァレリアを指して、『家庭を持って幸せになるタイプの女』と評価したことがあった。あの評価は事実であろうと、ユキヒトも思う。
家庭的な趣味と性格かと言えばそんな事もないが、持っている価値観は、ごく平凡な庶民のそれだ。彼女が、英雄として祭り上げられている現状を、狭苦しくすら思っている事をユキヒトは知っている。
人の能力や周辺の評価と、その人物の人格や志向が、必ずしも一致するとは限らない。
ユキヒトは、長く息を吐いた。溜息と言うほどのものでもないが、憂鬱を表すものであったのも確かだろう。
「ただいま戻りました。お客さまですか?」
玄関から、自宅に戻ったにもかかわらずかなり硬い言葉遣い。その落ち着いたアルトの声を聞いて、ユキヒトは自分の口元が緩むのを感じた。
「ユキヒトさんとノルンよー、そんなに警戒しないでも大丈夫!」
「……!」
流石にヴァレリアと言えど、普段の家の中ではそこまで丁寧な言葉を使っているわけではないと言うのは聞いていた。客がいる事を察知して、『余所行き』の対応をしたのだろう。
僅かに緊張した様な空気が漂って、とつとつとつ、と、廊下を歩く足音がする。
がちゃ、と音をさせて、ドアが開かれる。そこに立っていたのは、略式鎧もそのままの、衛兵姿のヴァレリアだった。
「あら、この子は、そんな物騒な格好して。着替えくらいしてから来なさい」
「……ユキヒト」
少し呆けたような彼女の声。母親の声も耳に届いていないらしい。彼女にとって、この訪問はそれだけ意外だったのだろうか。
「久しぶり」
「そうですね、18日ぶりです」
さして考え込む様子でもなく、日数を口にする彼女は、やはりずっと気にかけてくれていたと言う事なのだろう。
もちろん、彼女が自分を訪ねて来ないのは、自分の立場を悪化させない為の配慮なのだと頭では分かっていた。その一方で連絡を取らない日々が重なるごとに、彼女は自分の事などもうどうでもよくなってしまったのではないかと、そんな益体もない考えが脳裏をよぎったのも事実だ。
「……ニルフリは順調に捜査を進めているようです。少し、先入観の強過ぎるきらいが、無いでもないのですが……」
「うん、それはありがたいな。でも、今日は別に、そんな話がしたくて来た訳でもないんだ。そりゃまあ、ちょっと参っちゃってるし、愚痴も言うかもしれないけど……どうにかしてくれっていいに来た訳じゃなくて、こう言う時、話を聞いて欲しいのが、ヴァレリアだっていうだけなんだ」
「……」
しばらく、困ったような表情で固まっていたヴァレリアだが、やがて、ゆっくりと微笑んだ。
「分かりました。着替えてきますから、少し待っていてください」
求めているのは、衛兵としての彼女ではなく、ただ一個の人間としての彼女。その意図は恐らく正しく伝わったのだろう。
「あの子ったら、母親の言う事はひとっつも聞かずに……」
台詞の割には嬉しそうな声で、マーサは呟いた。
とんとんとんと軽快な音を立てて、彼女は階段を上がっていく。彼女の部屋は二階にある。そこで着替えをして、戻ってくるのだろう。
再び姿を現した彼女は、ふわりとしたフレアスカートに、少しフリルのついたブラウスといういでたちだった。
「……外に出るわけでもないのに、随分おめかしをして……」
「そ、そんな事ない!」
じとっとした目で見る母親に、言い訳する様に言葉を返す。
「そうなのか? わざわざ綺麗な格好をしてくれたんなら、嬉しいけどな」
「……」
火がついたように、顔どころか首まで真っ赤になるヴァレリアを、相変わらずからかいがいがあるなとユキヒトは笑った。
「そんなヒラヒラがついた服で食事して、汚さないでよ。洗濯するのはどうせ私なんだから」
「だ、大丈夫……」
初めてブレンヒルトやファルを伴って彼女の服を見繕いに行ったときは、ほんのわずかのフリルも拒否していた。彼女も少しずつ変化していっているのだろう。
「……お姉さま、可愛い」
目の見えない彼女の事、恰好が、という意味ではなかろう。その初々しい反応が、と言う意味だ。
竜騎士として凛とした姿を見せるよう心がけている家の外では、少し見せられないようなヴァレリアの反応だった。
「ノルンまで……」
ヴァレリアは、テーブルに着くとぐったりと突っ伏す。それをくすりと笑って、ユキヒトはその向かいの席に座った。
「ノルン、お手伝いはもう良いから、あっちのテーブルに行っておいで」
「はい、分かりました」
二人だけでは話題も続かないだろうと、ノルンを派遣してくれる。実にありがたい配慮だった。
「元気でしたか?」
「健康状態は何の問題もなかったよ。ヴァレリアは?」
「そうですね、体調は悪くありませんでした」
つまりお互い、体調以外のところで問題があったと言う事だ。それはもはや確認が必要な事でもない。
「もう、お姉さまも、ユキヒトさんも、そんなお見合いみたいな……」
「いや、お見合いでいきなり相手の体調を尋ねたりはしないだろう」
「……うん……」
ノルンも若干緊張があるのかもしれない。言動が的を外していた。
「何を緊張しているのでしょうね、私達は」
ふと、おかしくなったと言うようにくすくすと笑って、ヴァレリアは一度、ぴしりと背筋を伸ばした。
「心配していました。会えて安心しました」
「心配かけてすまない。ヴァレリアに負担をかけてるのが心苦しかった」
相手に心配をかけたくないと思うのは当たり前だが、相手を心配するのもまた当たり前だ。ごく自然に、それを確認し合う。
「初めに言っておくけど、連絡を取らなかったのはヴァレリアの負担になりたくなかったからで、身を引こうと思ってたなんて事はかけらもない」
「……知っていました。こちらも言っておきますが、連絡を取らなかったのはかえってそれで貴方を不利な立場にする事を恐れてのことであり、ずっと貴方の事を気にかけていました」
そうに違いないと自分の心の中で確信していても、あえて相手に言葉にしてもらいたい事もある。自分の心の中をよぎった益体もない考えは、彼女の心に差した影でもあるだろう。
こうやって、鏡で写したような相似の悩みをお互いに持てている間は、自分達は大丈夫だろうと思う。どちらからともなく、くすりと笑い合う。
「相手が特定できれば、ふざけるなと怒鳴りこんでやりたいところなのですが……」
「特定できてもそれはやめておいた方がいいな。いくらヴァレリアでも、下手をすれば貴族全てに喧嘩を売る事になりかねないようなまねは、得策じゃない」
「……分かってはいるつもりです」
彼女なりに、相当のフラストレーションを貯めていたのだろう。思慮深いとは言えない欲求を口にするのを、ユキヒトはたしなめた。
「まあ、そんな事はどうでもいいんだ。それより、ここのところ、どうしていた? ずっと話が出来ていなかったから。何か、面白い事はあったか?」
「……そうですね、私の補佐官の話ですが……」
苦しい日常だとて、四六時中暗くしていてはヒトは生きていけない。ユキヒトが求めるのは、ヴァレリアの、明るい部分の話だ。
彼女の周りには、彼女を理解してくれる仲間がいる。自分にとってのアルディメロの様に、支えとなってくれていることだろうと思う。彼女は大丈夫、そう思える材料が欲しかった。
普段よりいくらか饒舌に、彼女は彼女の日常を語る。心配させないようにあえて明るく振舞ってくれているのは分かっている。それを申し訳なく思う気持ちもあるが、それ以上に、そうしてくれる彼女を愛おしく思う。
夕食が完成し、食事が始まって、それでも彼女はまだ穏やかに日常を語る。ユキヒトもまた、それを頷きながら聞く。これ以上は何もいらないのではないかとすら、ユキヒトには思えた。
「……ほら、いい加減、夕食を済ませな。折角人が作ったんだから、冷めきる前にね」
マーサが苦笑しながらそう言って、ようやく二人は、目の前の食事に集中する事にした。
結局その日は、ヴァレリアの家に泊まる事になった。それも、彼女の両親が冗談半分に望んだように、ヴァレリアとユキヒトは同室だ。
とは言え流石に、二人きりと言う訳ではない。ノルンが、ヴァレリア、ユキヒトと一緒に寝たいと主張した為に、客間に三人、布団を並べて寝る事になったのだ。
そう言った背景を考えれば、ノルンが真ん中になり、両脇にヴァレリア、ユキヒトとあるべきかも知れないが、真中はヴァレリア、その左手側にノルン、右手側にユキヒト、と言う並びになった。これもまた、ノルンの望んだ順番だ。
ヴァレリア、ユキヒトと一緒に寝たいと言う希望は嘘や気遣いだけと言う訳ではないのだろうが、ノルンの望みは、自分が二人と一緒に寝ること以上に、二人に一緒に寝させる事であるように思われた。
「……すぅ……すぅ……」
床についてよりしばらくは、珍しく少し興奮した様子でヴァレリアやユキヒトに何かと話しかけていたノルンも、今は規則正しい寝息を立てて深い眠りの中だ。
「可愛いものです」
「山に住んでた頃は、思えば随分無理をさせた。あの頃無理をして大人みたいに振舞っていた分、今は少し子ども返りをしているんだろうな」
「本来であれば、もう少し大人として振舞わせるべき年かもしれませんが……どうしてもその気になれない。私も甘いのでしょうか」
「……それを聞くたびに、俺のいた世界とは常識が違うんだなって思うよ」
「……」
少しの沈黙。ユキヒトはそこに、わずかなためらいの気配を感じた。
「……あの」
やがて、意を決したように、ヴァレリアが口を開く。
「どうした?」
何を言ってくるか、と、ユキヒトは少しの緊張とともに聞き返す。再びの短い沈黙の後、ヴァレリアがおずおずと口を開く。
「……手を握って寝ても構いませんか」
「……。……くっ……くくっ……」
しばらくぽかんとした後、ユキヒトは、堪え切れずに笑い声を洩らした。
「う……! な、なしです! やっぱり、今の発言、なかった事に……!」
大いに慌て、声だけで分かるほど狼狽するヴァレリアに対して、ユキヒトは堪え切れない笑いを洩らしながら、そっとその手を隣の布団の中へと忍ばせ、きゅっと彼女の手を握った。
はじめ、驚いたようにびくりと身を振るわせて、それから、恐る恐ると言うように、手に力を入れて握り返す。堪え切れない笑いをこぼしながら、ユキヒトは言った。
「今更、それくらいの事でわざわざ重大事みたいに言わないでくれよ。俺が断るかも知れないと思われてたんなら、そっちの方がよっぽどショックだ」
「……子どもっぽくありませんか?」
「子どもっぽいと何の不都合があるんだ? ここには俺とヴァレリアと、寝てるノルンしかいないのに」
「……私は、自分はもっと自制心のある女だと思っていたのですが」
憮然としたような、その癖どこか甘さを含んだ声で、ヴァレリアは呟く。
「少しも浮かれてくれなかったら、俺の立場はどこにあるんだ」
「だとするなら、貴方が少しも浮かれてくれない私の立場はどうなるのです」
「俺が浮かれてない? 少しは自覚して欲しいもんだ」
「……もう。貴方はまた、そう言う事を、簡単に……」
照れがない訳ではない。しかし、どうにもヴァレリアは、そう言った気障ったらしい言葉を好む傾向がある様で、ユキヒトとしては、体が痒くなりそうな思いをしながらも彼女の希望をかなえている。自分の中にそんな語彙があった事も、ユキヒトにとっては意外だった。
こうしていると、世界が段々と狭くなって行くような気がする。この暗く、三人が並べばそれだけで全てのような小さな部屋こそが、世界の全てであるとすら思えてくる。
一体自分は何を思い悩んでいたのだろう、と思う。
元々自分は、異邦人だ。この世界でなにかを手に入れる事を望むような立場にない。
この小さな世界で手を握り合っている女性と、その彼女の向こうで健やかな寝息を立てている少女。幾人かの友。それ以上を望む必要などないのだと思う。
穏やかな気持ちで、ユキヒトは眠りへと落ちて行った。
「下手人を特定したにゃ」
妙に時代がかった言い回しで、ニルフリは報告してきた。
「そうか、ありがとう」
「……そんにゃ悟りを開いたみたいにゃ顔して言われても、感謝されてんだかわかんにゃいにゃー……」
「悟りを開いた……。そんな顔してるか?」
「してるにゃ。あと中隊長も似たようにゃ顔をしてるにゃ」
ヴァレリアも少しは落ち着いた気持ちで日々を送れているらしい。それは何より、とユキヒトは微笑んだ。
「あやしいにゃー。にゃんかいい事あったのにゃ?」
「良い事か……。別にそう言う訳でもないんだけど」
「ふーん……ま、いいにゃ」
好奇心と飽きの早さ、猫の特性を存分に発揮しつつ、ニルフリは扉の外へ向かった。
「と、言う訳で行くにゃ」
「え? 俺もか?」
「にゃ。そうじゃにゃきゃ意味にゃいにゃ」
「……そうか、良く分からないけど、まあそう言うなら行くよ。ノルン、大人しく留守番してるんだぞ」
「……うん」
ノルンは心配そうな表情をするものの、同行しても役に立たないどころか、足手まといになる事は十分に承知している。大人しく頷いた。
ニルフリは迷いなく、すたすたと歩いていく。小柄な割に歩くのは速い。ともすれば小走りしそうになりながら、ユキヒトはついて行った。
「あたしは貴族ってのは嫌いだにゃ。あいつら、貴族以外を対等の相手としてみにゃいにゃ。みんにゃ、見下してやがるにゃ」
「そうでないヒトだっているだろう」
「そりゃそうだにゃ。猫人族にだって真面目で勤勉にゃ奴がいるってくらい、あたりまえの話だにゃ。だけど大半の猫人族がさぼり屋で気紛れだってのと同じくらい、貴族ってのは貴族以外を見下してるにゃ」
「……」
一部がそうだから全体もそうだと決めつけるのは正しい事ではない。それと同時に、一部の例外がいるからとその集団を擁護することもまた、正当性に欠ける。
わざわざそんな事を考えているわけではないのかも知れないが、彼女は何気ない言葉で本質的な事を言う。
「昔はそうじゃにゃかった事は分かってるにゃ。でも、もう、賞味期限切れだにゃ。新しい時代を始めるべきなのにゃ」
冷めていると言っていい表情で、ニルフリは呟く。彼女はアルディメロと幼少の頃からの関係だと言う。『世が世ならば彼の嫁』と言っていたが、それは恐らく、婚約者か何か、その様な立場にあった事がある、と言う事だろう。それならば、貴族ではないが名家の出身であるアルディメロとも釣り合う家格の生まれである可能性が高い。
つまり、この猫人族の特徴を色濃く発揮する女性は、インテリ階層に所属しているのだ。貴族に対する不満を言う、それだけならば庶民にも可能だ。しかし、その時代の終焉と、次の時代の幕開けを、おぼろげにであれ語れるのは、教養の証拠であろう。
「だからあたしは、貴族が相手であっても、許しはしにゃい」
らしからぬと言うべきか、きっぱりとした口調で、彼女は断言した。
「……」
その表情に、並々ならぬ決意を感じ、ユキヒトは押し黙った。それは幾分かの私情を挟んだものであるかも知れないが、彼女は己の職務を逸脱しているわけではない。口を出す事ではないとユキヒトは思った。
彼女がその様に考えるに至った背景、それがなんであるのかは分からない。あるいは、背景などないのかもしれない。理由のない反感など、珍しいものでもない。
いずれにせよ、彼女が様々な意味で自分の味方である事には間違いがない。今最も重要なのはその事だ。
尻尾を左右に振りながら、ニルフリが前を歩く。その動きはせわしなく、若干の緊張が感じられた。
奔放に見える彼女だとて、この世界の常識の枠の中に生きている。貴族に逆らうことにもつながりかねないこの任務に、緊張を覚えないはずもなかった。
「……中隊長は」
「ん?」
「政治とか、そういう舞台に立つヒトじゃにゃいのにゃ。あのヒトは……すごいヒトだけど、まともにゃ人にゃのにゃ」
「……政治の舞台に立つヒトはまともじゃないみたいな口ぶりだな」
「当たらずとも遠からずにゃ。ああいうのは、特別にゃ訓練を積んだ特殊にゃ層がやるもんにゃ。普通のヒトでしかにゃい中隊長を巻き込むんじゃねえにゃ」
この世界では、ユキヒトのいた世界以上に、政治という世界が遠い。政治は貴族の物。普段はそう言って隔離する癖に、貴族にとって都合がいい物は勝手に巻き込もうとする。その身勝手さに、ニルフリは憤っている。
「……」
少しずつ、周囲の景色が変わってくる。ごちゃごちゃと込み合ってはいるが活気のある街並みから、整理された大きな屋敷の立ち並ぶ静かな区画へと入って行くと、街を歩く人の数も減っていく。
貴族、あるいは豪商、そう言った者達の家が立ち並ぶ、この区画は、閑静で、平和で、良い環境であると言う事は否定しようもない。
そんな中を、決闘に挑むような表情の獣人に引き連れられ、ユキヒトは歩く。
怒りがない訳ではない。不当な方法でヒトの仕事を奪った、そんな相手を赦しがたく思う。
恐れもある。ユキヒトのいた元の世界、元の国に、貴族制などと言うものはなかった。近しいものがなかったかと言われれば、否定しきれない部分もあったかもしれないが、少なくともユキヒトに関わりのある世界ではなかった。
それが何故か、今、貴族の元へ、直接的に殴り合う訳でないにしろ、対決しに行く事になっている。
不思議と言えば不思議な巡り合わせだ。今一つ実感がわかないところでもある。
それでも、彼女との穏やかな日々を本当に取り返すために、これは避けて通れない戦いだ。
ユキヒトもまた覚悟を決めて、少し強く一歩踏み出した。
それは、立派な建物だった。
最近に建てられたものではない。古くから、この区画……かつての王城を取り巻いて位置する、この国最古にして最高級住宅街に存在していた、つまり、それなり以上の身分の貴族であると言う事だ。
「ま、遷都があってから、本当の一番は新都に譲っちまったけどにゃー。でも歴史で言うにゃらこの区画が一番だにゃ」
ベルミステン出身者は、街の歴史の古さを誇る事が多い。貴族は嫌いであっても、生粋のベルミステンっ子であるニルフリもまた、例外ではない。
「とはいえまあ、こりゃあ古いだけでそんにゃに凄まじくはにゃあよ。大規模にゃ改修もしばらくやってにゃあみたいだし、門構えももっとすごいのがいくつもあったにゃ?」
「……そういわれれば、まあ、そうかもしれないな」
「そもそも、本当の大貴族一線級ってにゃあ、その辺の内輪でくっつくもんにゃ。年齢一桁同士で婚約にゃんてのも珍しくにゃあし。中隊長に割となりふり構わず手を出しに行くのは、次男、三男以降で一発当てにゃあ立ちいかねえようにゃのとか、売り出し中の新興の連中とか、歴史はあっても最近ぱっとしねえのとかだにゃあ。ま、流石にそれでもかにゃりの力はあるんだけどにゃ」
「って事は、今回のは最後のタイプかな」
「にゃっ、何でわかるのかにゃ?」
ピン、と尻尾を立てて、ニルフリはユキヒトの方を振り返った。
「そりゃあ……大貴族でも次男、三男っていうのなら、家自体はもっと立派なはずだろう? 売り出し中の新興貴族なら、勢いはあるだろうから、家はもっと新しいか、土地柄にひかれて古い家を買ったにしろ改装するんじゃないかな。となってくると最後っていう選択肢しか残らない」
「うん、正しいにゃ。さて、んじゃあいくにゃ」
堂々と、正面からニルフリは乗り込んでいく。目的を考えれば当然ではある。衛兵として、犯罪行為を糺しに来ているのだ。こそこそとしていてはおかしい。
門の前に立ち、ノッカーを手に取ると、コツコツ、と、二回それを鳴らした。
「……どちらさまですか」
扉の中から出て来たのは、中年の男。身なりの整った男ではあるが、まさか家人がいきなり出ては来ないだろう。使用人、執事か何かであろうかと思われた。
「ベルミステン騎士団治安維持部隊第十六小隊長、ニルフリ・クリラだにゃ。この館の主、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセンにかかった嫌疑の件で調査に来たのにゃ。とぼけるのは為にならにゃーから、出てくるが良いにゃ」
「何やら我が主に濡れ衣がかかっているようですな。それで、隣の方は?」
「被害者にゃ。取り調べに必要ににゃるから連れて来たのにゃ」
「……主に報告してまいりましょう。しばし、お待ちを」
「逃げたりしたら、それだけで罪ににゃるからそのつもりでいるのにゃ」
初めからかなり高圧的に出ている。何か策でもあるのかと思ったが、ここまでは完全に単なる正面からの突撃だ。大丈夫か、と不安に思いながらも、ユキヒトはそれを表には出さず、ポーカーフェイスを保つ。
「……さて、これで多分、家には入れるのにゃ」
「そうなのか?」
執事らしき男が中に入って行くのを見届けてから言うニルフリに、ユキヒトは思わず尋ね返した。
「門前払いを食らわそうとしたら、逃亡の恐れありで突撃だにゃ。そう言う風に匂わせたし、潔白だってんなら家の中に入れざるをえにゃーよ」
「なるほどな……」
単なる正面突破ではあるが、それが有効だからこそらしい。
しばらく待っていると、彼女の言葉の通り、主から通すようにとの指示があったと先程の男が言ってよこした。当然と言う顔をして、ニルフリは館の中へと入っていく。
館の中のインテリアも、歴史を感じさせる非常に立派なものだ。このところ調子の上がらない貴族とは聞くが、それでも庶民からすれば理解不能なレベルだ。これで足りず、強引にヴァレリアを奪って行こうと言うのだから、業が深い。
「……ったく、結構由緒正しい家柄にゃのににゃあ……。真面目に生きてりゃあ、この街の誇りだってのに……」
ぼやく様に、ニルフリが言う。奔放に見えて、伝統や格式を重視する性質であるらしい。
やがて、一つの扉の前に辿り着く。執事らしき男は、その扉を恭しいしぐさで二度叩いた。
「旦那さま、先ほど申し上げた客人をお連れしました」
「お通ししろ」
言葉こそ丁寧だが、敬意は全く感じられない。不快になる声色だった。
男が扉をあける。ユキヒトとニルフリが室内に入り、あとを追うように男が入り、扉を閉めた。
ユキヒトにとっては、無暗に広いとさえ感じられるような、広い部屋だった。
執務室とでも言うべきなのだろうか、余り生活のにおいはしない部屋だ。あるのはいくらかの本棚と、一番奥に大きな机。そしてそこに、明らかに執事らしき男とは風格の違う堂々とした態度の男がいた。彼が、この家の主、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセンで間違いなかろう。
この街の貴族の大半がそうであるように、ヒューマン種族。金髪に青い目、年は二十代の後半にさしかかった頃だろう。
女性であれば嫁き遅れとも言われるが、男で、責任のある仕事をしていればそうも言われない。それも、ユキヒトのいた世界とそれほど変わる事はない。
「……私に何らかの嫌疑がかかっているとか?」
椅子に座ったまま、男が余裕のある態度で口を開いた。
「マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセン。貴方のようにゃ名家の当主が、この様にゃ犯罪行為に手を染めるとは、大変残念だにゃあ。風聞の流布および営業妨害の疑いで、治安維持第三中隊の本部までお越し願いたいにゃ」
「風聞の流布? 身に覚えがないな。流石に身に覚えがない事で衛兵の詰所には行けない。私にも立場と言う物がある」
「容疑を否認するにゃ?」
「身に覚えがない、と言っている」
余裕のある態度は全く崩れない。それだけ自信があるのだろう。
実際に、風聞の流布の大元をたどるのは難しい。街に流れる噂も、ユキヒトの工房がさる貴族に対して無礼を行ない不興を買ったという内容であり、そのさる貴族と言うのが誰なのかを特定するものではない。
唯一証拠と言って良さそうなのが、ユキヒトの工房を訪れた初老の男だが、あの男も今は姿を現していない。そして、それにしたところで、被害者であるユキヒトの証言頼みになる。信憑性の点で問題があるだろう。
「現時点で認めるにゃら、大事にはしにゃーよ。噂は勘違いが呼んだものだって声明を出して、ユキヒトに謝罪すりゃあ不問だにゃあ」
「身に覚えのない事を認める事も出来ないし謝罪など当然できない」
その後もしばらくは、罪を認めるように説得するニルフリと、全く身に覚えがないという姿勢を崩さないマルクスというやり取りが続く。この状況を打破する何かをニルフリは用意しているのかと、ユキヒトは多少の焦りを覚え始めた。
いや、そもそも、この男が今回の犯人だと言うニルフリの調査、それすらも本当の事なのだろうか? それが誤りであったならば、ニルフリ自身や治安維持部隊、ひいてはヴァレリアの立場も悪くなろう。同行した自分も、全く無関係とはいくまい。
ユキヒトは、嫌な汗がにじみ出てくるのを感じた。
「どうあっても容疑を認めるつもりはにゃいんだにゃ? これ以降は、無事で済ますわけにはいかにゃくにゃるにゃ」
「認めるつもりはないと言うより、事実無根だ。君もいい加減にしつこい。こちらこそ、君の不当な告発について告訴する事になるぞ」
苛立ちを込めた声で、マルクスが言う。あまり早くから激昂したのでは痛い腹を探られたように見えるが、この様にしばらくニルフリの話に付き合った後であれば、勘違いであってもしつこい彼女にいい加減腹を立てたと言うようにも思える。
「んじゃ、証人を連れてくるとするにゃ」
「……証人? ここで裁判でも始めるつもりかな?」
「そんにゃつもりはにゃあよ。貴族である貴方を尊重した結果だにゃ。最後まで話は聞くもんにゃ。おーい、ワンコ、入るにゃ」
ワンコという呼びかけに疑問を覚えると、後ろのドアががちゃりと開いた。
「……だから私を犬と呼ぶなと……」
現れたのは、やはりと言うべきか、アルディメロだった。彼が証人とするならば、弱い。せめて彼が剣の作成を依頼しており、圧力を実際にかけられたと言う様な事があれば良いが、今の彼の立場は、市井の噂を耳にしたユキヒトの友人に過ぎない。
「……貴様の言う通り、連れて来た。良いのだな?」
「にゃ。ここまで来ちまえばもう全面戦争しかにゃあよ」
「……」
一瞬、アルディメロが、マルクスに対して憐みの視線を送ったような気がした。その理由を考える暇もなく、アルディメロは、一度廊下に戻ると、一人の男を連れて再び室内に入った。
「……あ」
ユキヒトはその顔に見覚えがあった。依頼をし、そして噂の後にキャンセルをした依頼人の一人だ。
「じゃ、証言頼むにゃ」
「……わ、私は、刀剣工房《コギトエルゴスム》に剣の作成を依頼していた者です」
「名乗りたまえ。不躾だと思わないかね?」
ぎろりと、マルクスが男を睨む。男が小さく後ずさりするのが、ユキヒトにも見えた。
「安心するにゃ。名乗っても問題にゃあよ」
「……サウロ・カルニセルと申します」
「その名前、古くからのこの街の住民ではないようだな」
「それと証言がにゃんか関係あるかにゃ? さ、続けるにゃ」
ニルフリはその自信ありげな態度を一向に崩さず、サウロと言う名の元依頼人に、先を促す。
「……依頼をしてしばらく、噂を聞きました。工房主のユキヒト・アヤセ氏がさる貴族の不興を買った、と。新進気鋭の工房にはよくあると言えばよくある様な噂でしたので、さほど気にはとめませんでした」
「……」
それは、今回の噂の不思議な点でもあった。今までも、同じような風聞はあったのだ。しかし、いずれも大した効果はなかった。どれもこれも、信憑性に欠ける単なる噂でしかなく、実際に工房は常に好調であったからだ。
それが今回は、突然キャンセルの山。これまでの噂と、今回の噂、何が一体違うのか、それは分からなかった。そして、実際に大量に行われたキャンセルが、少なくとも世間一般には、噂の信憑性を高める材料となっていた。
「しかしながら、今回は、さる貴族の使いだと言う方が、私の家を訪れたのです。今回の噂は事実であり、かの工房との関係を維持するなら、私にも不利が及ぶ、と……」
「その貴族が、私だと?」
「い、いえ……。その方は、名乗られませんでしたので」
「茶番もいい加減にして欲しいな。私とて、暇と言う訳ではないのだ」
「茶番をしてるつもりはにゃあよ。執事長のエトヴィン・ボイムラーを出すにゃ」
「……何故かな」
マルクスが、わずかに身を硬くした。彼の余裕に溢れた態度が、初めて僅かでも崩れたと見える瞬間だった。
「こう言う仕事は、信頼できる部下じゃにゃあと任せられにゃい。その判断は正しいにゃ。でもまあ、ごく少数の人間でその仕事に当たったおかげで、周辺の聞き込みやらにゃんやらで、一人は特定できたのにゃ。今回、依頼人達を脅し、あるいは買収して、依頼をキャンセルさせたうちの少なくとも一人は、エトヴィン・ボイムラー。あんたの執事長にゃ」
「……そこの彼が、そう言ったのかな?」
「違うにゃ。でも、顔を見りゃあ自分のところに来た人間かどうかは分かるってことで、ついてきてもらったのにゃ」
「……君、サウロ君と言ったか。余り適当な事を言って、私達を煩わせるものではないよ」
「……」
サウロがつばを飲む。彼の緊張は、ピークに達しつつあるようだった。
風聞の流布と営業妨害。確かに犯罪行為ではある。しかしながら、懲役を科されるほどの重い罪と言う事ではなく、おそらくは、罰金刑である。体面を気にする貴族の事、それでも十分な傷とはなるが、それだけに、報復も考えられる。
ニルフリの言う通り、この貴族の男が全ての黒幕であったとしても、彼には、真実を証言するメリットが小さい。貴族に目をつけられると思えば、デメリットが大き過ぎる。彼が真実を知っていたとして、それをそのまま証言するとは思えなかった。
「ご託は良いのにゃ。やましい事がにゃいと言うにゃら、エトヴィンを連れてくるのにゃ」
「……ヴォルフ、エトヴィンを連れてこい」
「は、承知いたしました」
マルクスが、ここまで案内をしてくれた執事風の男に声をかけ、男が返事をする。分の良い賭けとは思えない。しかし、実行犯の一人を引きずり出す事にはどうやら成功する様だ。
「……」
ニルフリが、アルディメロに近付いて、何事か耳打ちする。アルディメロは頷くと、口を開いた。
「私は退出させてもらう。ニルフリに頼まれて、彼をこの場に連れて来ただけだからな。私はアルディメロ・レーヴェレンツ。何かあればいつでも呼び出していただいて構わない」
「……引きとめる理由もない。自由にしたまえ」
一礼し、アルディメロは部屋から出て行った。何か中途半端なタイミングではあるが、彼を巻き込むのは本意ではない。その方がいいとユキヒトは思った。
やがて、ヴォルフと呼ばれた男が、一人の男を連れてくる。その顔に、ユキヒトは見覚えがあった。ユキヒトの工房に、ヴァレリアから手を引くように言いに来た男だった。
「……!」
ここに来て、ようやくではあるが、ユキヒトにも確信が持てた。この貴族は間違いなく、今回の騒動の、黒幕だ。ニルフリの調査力は大したものだったらしい。
「何かご用ですか、旦那さま」
澄ました顔で、執事長エトヴィンが言う。
「この者たちに見覚えがあるか」
「いえ、どちら様ですかな」
促すマルクスに対して、ユキヒトとサウロをちらりと見て、エトヴィンは平然と言い放った。
「さて、この様な結果だが」
「サウロ・カルニセル。どうにゃ、あんたに依頼を撤回する様に言ってきたのは、この男かにゃ?」
マルクスたちのやり取りに全く関心を示さず、ニルフリはサウロに尋ねた。
「……言うまでもない事だが、この場で事実に反する事を口にするのであれば、君には相応の報いを受けてもらわねばならんよ」
マルクスが、ぎろりとサウロを睨みつける。暑くもないのに汗を流すサウロは、蛇に睨まれた蛙だ。
「……」
これでは到底、真実の証言など出来そうにもない。ニルフリは一体、どういうつもりなのか。焦る内心とは裏腹に、打てる手はない。
「気にすんにゃ。本当の事を言えば良いのにゃ」
ニルフリが、気楽そうな表情でサウロに言う。ごくりと唾を飲み、汗をぬぐい、サウロは口を開いた。
「……私は、この男に依頼を撤回する様に言われました。その際に金を渡されました。断りましたが、強引に置いて行かれました。ですが、手をつけておりません。これが、その金です」
「……!?」
ユキヒト、マルクス、エトヴィンの三名が、弾かれたようにサウロの顔を振りむいた。サウロの顔面は蒼白で、どう見てもマルクスに、貴族の力に怯えきりながら、手にもった布の袋を差し出している。それが、彼の言う強引に置いて行かれた金なのだろう。
その様子からして、彼が語った事は、真実であろう。しかし、何故真実を語るのか、そちらの方が分からないような有様だった。
「……さて、マルクス・ゲーアハルト・ヴィントガッセン。お縄についてもらうにゃ」
そんな中、一人冷静なニルフリが、淡々とマルクスに告げる。その言葉にようやく正気を取り戻したのか、マルクスは、はっと気付いたような顔をすると、見る見る顔を真っ赤にした。
「貴様、偽りを用いて貴族を陥れようなどと、恥を知れ! どうなるか分かっているのか!」
「全く同感だ、偽りを用いて他人を陥れるなど、恥を知るべき所業だな」
突然、聞いた事のない声が割り込んでくる。
「誰だ!?」
扉の外から聞こえた声に、冷静さを全く失っているマルクスが怒鳴る。
静かに扉が開く。そして、見慣れない男と、顔馴染みの少女、それ以上に親交のある男女が入ってくる。
「……久しいのう、ユキヒト」
外見に似合わない、老成した言葉遣いと仕草。銀色の髪に、赤い瞳。幼い竜は、ゆったりと微笑んだ。
「シェリエラザード、何で君が……?」
「そこの猫に言われて、私がお連れした」
憮然とした表情で言うのは、先程退出したはずのアルディメロ。一行を案内して来たのは、彼であるらしい。
「ニルフリ……私は、聞いていませんよ」
頭痛がする、と言うように、顔を右手で覆っているのはヴァレリアだ。
「言ったら反対したにゃ?」
「当たり前でしょう! まったく、あなたと言うヒトは……」
「よい。むしろ、妾は知らされなければ怒っていたぞ」
「ヴァレリア・ロイマー殿、貴女ともあろうお方が、この様な茶番に加担するなど……」
マルクスが、憎々しげにヴァレリアを除く一行を睨む。
「そもそも、貴君らは何者か。部外者は早急に去っていただきたい!」
彼の苛立ちはどうやら頂点に達しつつあるようだ。貴族の力の前に屈しない平民がいる事、そして自分が追い詰められつつある事、それが認めがたいのか、八つ当たりの様な事を始める。
「部外者か。ふむ、確かに部外者とも言えよう」
見慣れない男は、悠然とした態度で答えた。
かなりの偉丈夫である。獣人の中でも大柄なアルディメロと比べても、決して見劣りしない。引き締まった肉体は、大柄であっても鈍重な印象ではない。
顔立ちは、やや厳めしいが、短く刈った髪がよく似合う男らしいものだ。髪の色は落ち着いたブラウン。そして、その赤い目にはどこか穏やかさを感じさせる温かみをも備えていた。
その特徴に、ユキヒトがはっと息をのんだ瞬間、マルクスが再び怒鳴り声をあげた。
「であろう! ならば……!」
「にゃー。まさか、公正に裁いてもらう為にわざわざお越しいただいた竜のお二方を、追い出す奴がいるにゃんて驚きだにゃ。ましてこの国で」
にやりと笑うと、ニルフリが、わざとらしく呟いた。
「……!?」
「名乗りがまだであったな。これは失敬した。俺はファフリム・ドゥラ。ベルビオ山に住む竜だ」
「妾はシェリエラザード・アルノーリドヴナ・オサトチフ。同じく、竜じゃ」
「な……あ……」
赤い目は竜種に多い特徴。ヒューマンには滅多に表れないそれを見逃していたのは、失態と言えた。
まして、ファフリム・ドゥラと言えば、ヴァレリアが英雄とされたモンスター襲撃事件において、街を救いに駆け付けた竜だ。この街で、その名を知らぬ者、感謝の念を覚えない者はいない。
「……ご、ご無礼を……」
「良い。その様に瑣末な事は気にしない。公正な判断の為と呼ばれたが、我らは席を外した方が良いかな?」
「と、とんでもない!」
竜種を追い出してしまったのでは、例え無罪を勝ち取ったとしても、真実がどうあれ、貴族の力を使っての事と判断されて止むをえまい。マルクスは、今までの態度はどこへやら、慌てた様子でそれを否定した。
「……さて、サウロ・カルニセル。この場での偽証は罪に問われる恐れがあるにゃ。それを心得たうえで答えるのにゃ。ユキヒトの工房へのあんたの依頼を、断る様に脅迫したのは、この男で間違いにゃーか?」
「つい、一月ほど前の事です。間違える訳がありません。この男です」
まだやや白い顔である事は間違いなく、足が震えているのも見て取れる。しかしはっきりと、彼はマルクスの執事長を見て言った。
「サウロ・カルニセルの他にも、証言しても良いってヒトを確保してるのにゃ。なおかつ、サウロの家にエトヴィン執事長が入って行ったのを見たって証人もいるのにゃ。弁明は?」
「誤解だ! 私は知らない!」
マルクスも、顔を赤くし、暑い訳でもなかろうに、額に汗をにじませながら、かろうじて声をあげた。エトヴィンは、同じような表情のまま、口を開く事も出来ずに固まっている。
「複数の者から、その男の手により脅迫が為されたとの証言がある事を、どのように説明する? 我が竜騎士の名誉に関わる事だ、慎重に答えられよ」
「……我が竜騎士?」
ファフリムに認められた竜騎士と言えば、ヴァレリアだ。今回の件は、無論最終的には彼女を狙っての物ではあるが、直接的に彼女の名誉を傷つけるものではない。そこに、不審の念を抱いた様にマルクスは聞き返した。
「ユキヒト・アヤセは、俺がその称号を名乗る事を認める竜騎士だ。以前の戦いでヴァレリア・ロイマーとともにたった二人、街を守るために闘った勇気、そして、我らの鱗を見事な剣に仕立て上げた鍛冶師としての技量を、俺は称える」
「!?」
その場の人間すべてが、ファフリムの方を向き直る。
「……ずるいのではないか? ユキヒトの鍛冶師としての技量を認めたのは、妾が先だぞ」
一番早く正気を取り戻したのは、同じ竜であるシェリエラザードだった。口を尖らせて、ファフリムに対して文句をつける。
「俺は、勇敢なヒューマンの番に称号をやるつもりだった。それをこの男、鍛冶師にそんな称号はいらんと拒否したのだ。……が、元々、竜騎士などと言う称号は、勝手に我らが与えるものだ。受け取ろうが受け取るまいが、俺はこの男を竜騎士として認めている。まして、鍛冶師としても優秀と言うのは、シェリエラザード、お前が認めたところだろう」
「……まあ良い」
むくれつつも、シェリエラザードは容認すると言う姿勢を見せた。
「さて、こりゃ大変だにゃあ。ユキヒトはヴァレリア中隊長と違って、ただの民間人だにゃ。その気ににゃれば、別にこの街に留まる必要もにゃいにゃ。竜が腕を認める竜騎士の工房……どの街で開業しても大繁盛間違いにゃあよ」
続いて冷静に戻ったらしいニルフリが、にんまりと笑ってそんな言葉を続けた。
元々、この国は、《竜の末裔》を自称しながら、純粋な竜に認められた竜騎士がおらず、竜族を自称する王家が与えた称号としての竜騎士しか存在しなかった国家だ。だからこそ、ヴァレリアの価値は、この街だけにとどまらず、国家レベルで貴重なものだったのだ。
そんな中、民間人であるユキヒトに竜騎士称号が与えられた。軍に所属するヴァレリアとは異なり、民間人の彼は、街に縛られる事はない。この街で不都合な噂を流す者がいるなら、別の街へ行けばいい。そして、堂々と言ってしまえば良い。前の街では、妬みから来る噂で不快な思いをした為、住居を変えた、と。
そうなれば、その噂を流した者がただで済むわけがない。《竜の末裔》が治める国で、最も尊ばれるべき《竜騎士》を、街からみすみす手放す原因となった者。それが貴族であっても、権威の失墜は免れまい。まして、この家は、今となっては落ち目となったかつての名門でしかない。
事ここに至って、立場は逆転した。
「す、全て私が独断で行った事だ! 我が主がヴァレリア様とのご縁を望んでいる事を知り、独断で動いた!」
エトヴィンが、慌てた大声で叫ぶ。せめて主を無関係にしようとしたその忠節は、褒められるべきものだったかもしれない。しかしファフリムは、冷やかに笑った。
「事実か?」
「……は、はい……」
すっかりとおびえた表情になったマルクスが、明らかな保身のための嘘をつく。ファフリムは、心底蔑んだ目で彼を見て、冷たく続けた。
「つまり貴様は、部下の掌握すらままならず、独断による犯罪行為を許し、善良なる市民に多大な迷惑をかけたと言う訳だ。名誉ある貴族として、この事態の始末は、いかようにしてつけるのだ?」
「……」
マルクスはもはや言葉もなく、がくりと膝をつき、うなだれた。
主従ともどもの出頭を命じ、一行は家路についた。
明日にも、事件の全容は、ユキヒトの竜騎士称号の正式な授与とともに、新聞報道に載ることだろう。そうなればもはや、この街でユキヒトに手出しをできる者はそうはいなくなる。そして、彼の貴族はその立場を完全に失う事になる。
「……なんだか、情けないな」
ぽつりと、ユキヒトは呟いた。
「ん? にゃにが?」
反応したのは、今回の功労者と言うべき、ニルフリだった。
「いや、結局俺は何もしてないな、と……。今回の事は、俺が何とかするべき事だったのに……」
「……本気で言ってんにゃら、あんた悪いけど馬鹿だにゃー」
心底呆れた、と言う様に、ニルフリは溜息をついた。
「な!?」
「悪いが今日ばかりはそこの猫に同意するぞ、ユキヒト」
余りの言い草に思わず声をあげると、じとりとした目でにらみつつ、アルディメロが追撃にかかってきた。
「あたしの任務はこの街の治安維持だにゃ。不当な風聞で仕事を奪われそうにゃヒトがいる、その解決があたしのやる事じゃにゃくて、一体誰のやる事だっていうんだにゃ?」
「……でも、竜まで引っ張り出して来て……」
「妾はむしろ知らされなければ怒ると先程も言ったであろ。第一、我らの力を不当に使うというならまだしも、我らは、公正な裁きを頼まれただけじゃ」
「それは、でも、味方をしてくれると分かっていて……」
「それの何が悪い?」
悪びれもせず、ファフリムは言い放った。
「ユキヒト、お前は少しばかり、力を使うと言う事に憶病すぎる。あの貴族の男のような不当な力の使い方はともかく、今回は自己の防衛だ。何を遠慮する事がある」
「力を使うって……俺には別に、何の力も……」
「それは違うな」
力強く、ファフリムは断言する。
「この場にいる者は全て、それぞれ理由はあるだろうが、見返りを求めず、自分の力をお前に貸して良いと思っている者だ。お前だから、力を貸していいと思っているのだ。そのこと自体が、お前の力だよ」
「……」
「得心がいかんと言う顔をしているが、例えばあの男は、貴族としての権威と金の力で、ユキヒトの顧客を脅迫し、依頼を撤回させた。では、貴族の権威とはなんだ?」
立ち止まり、ややオーバーな仕草で、ファフリムは両手を広げる。
「今でこそ、貴族の権威なるものは、理不尽な、ただそう生まれついたと言うだけで与えられた物の様に思われる。しかしそれは違う。本来は、そうすることが必要だったから、そうなったものなのだ。彼らは戦いで誰よりも血を流し、人々を守った。そして、人々を守るゆえに、指示に従わせる為の正当な力を得たのだ。俺は、今の貴族の権威が、単に理不尽なだけの物とは思わん」
「それでも、正しく手に入れた力でも、使い道が正しくない」
「そうだ。今の貴族は、かつての貴族の持っていた気高さを失いつつある。故に、その正統に得た筈の力も、いつかは衰えていくであろうよ。そして今の話は、個人にも当てはまる事なのだ」
ファフリムはその厳めしい顔に、わずかな笑みを浮かべながら続けた。
「ユキヒト、お前の生きてきた姿勢が、お前に味方を作った。お前に味方したいと思う者の力は、お前の力だ。その力は、お前が今までのお前である限り、そして使い方を間違えない限り、お前の力であり続けるであろう。そうでなくなった時、お前は、お前の力を失う」
「……」
「ヒトとのつながり、絆だとて……いや、絆こそが、ヒトの持つ最大の力なのだ。今回の件は、お前の持つその力が、あの男の理不尽を払いのけた。そういう意味では、お前の力で解決したと言える」
「まぁ、それを誇ろうとせぬからユキヒトにはその力があるのであろうがな」
シェリエラザードは、その可憐な顔立ちに相応しい、花の咲くような笑顔を見せた。
どうやら褒められているらしい。何とはなく恥ずかしくなって、ユキヒトは頬をかいた。
「とはいえ、今回の騒動の原因の一端が、お前のはっきりせん態度にあるのも確かな事だ」
こほんと一つ咳払いをした後、ファフリムは、その厳めしい顔を、どこかいたずらな風に歪めて笑った。
その笑顔に何やら嫌な予感めいたものを覚えて、ユキヒトは一歩後ずさる。それを見て、他人の窮地に鼻が利くらしいニルフリが、にゃふふ、と、嫌な笑みを浮かべた。
「お前が、さっさとヴァレリアと番にならんのが悪い。さっさと責任を取れ」
「せ、責任って……。そもそも、何でそんな、色々と知っている風なんですか!?」
この言動は、明らかにヴァレリアと自分の関係の進展を、事細かに知っているものだ。今回の騒動で、流石にそんな事をわざわざ説明しているとは思えない。
「この街は、ファフリム様の管轄だにゃー。あん時以来、にゃにかとヴァレリア中隊長の事気にしてくれてるから、ちょくちょくご報告入れてんだにゃー」
「やはりニルフリだったのですか! ファフリム殿が色々とご存知なのは!」
「あたしだけだと思ってんなら甘いと言っとくにゃー」
「くっ……」
ヴァレリアには何やら心当たりがあるらしい。じろりとニルフリを睨むものの、顔を真っ赤にしていたのでは迫力もない。
「中隊長はこう言うヒトにゃんだから、ユキヒトはもっと攻めるべきにゃ。まさか結婚を前提にせずに付き合ってるとかいわねーにゃ? もしもそうだったら、これはもう、えらい事にゃ」
「うむ、この年齢まで来たヒューマンの、この手の女にそれは酷じゃな」
「竜とはいえ子供の貴女に言われたくはありません!」
「竜とはいえ子供の妾に言われるほど、そなたが分かりやすいのであろ」
ころころとシェリエラザードが笑う横で、ヴァレリアはがっくりと肩を落とす。
「ふふっ」
そうやって、案外にリアクションが大きいから、皆してからかってくるのだと言う事に、ヴァレリア自身はどうも気づいていない。ユキヒトはそれを、おかしく思った。
「……そもそも貴方が、もう少ししゃんとしてくれれば、こうやって辱められなくとも済むのです! 貴方はもう少し、どうにかしてください!」
「お、俺のせいか!?」
「そうです!」
「待て、落ち着いてくれ、決していい加減な気持ちでいる訳じゃなくて……」
腹立ち紛れではあるが、一概に八つ当たりとも言えない。ユキヒトは微妙に痛い個所をつかれ、慌てて弁明を始めるのだった。
好奇心旺盛なる衛兵へ その心が正しき道に使われる事を願って 行人