その女は、音もなく工房に出現した。
それは、出現、と言うほかにはない登場だった。扉は閉まったまま開いた気配もなく、何の前触れもなく、唐突に彼女はそこに立っていた。
長く豊かな黒髪、閉じているだけで微笑みの形になる唇、少しふっくらとした輪郭、深い知性を湛えた穏やかなまなざし。神秘的ですらある空気を纏って、彼女は唐突に出現した。
いかにも女性的な、柔らかそうな体の線は、大きな包容力を感じさせる。女性の美としてのひとつの完成型とすらも感じさせる、見事なバランスを保っていた。身にまとう長い布を幾重にも纏った様な見慣れない様式の服すらも、神秘性を感じさせるスパイスだ。
「……」
どこから入ってきたのか、どうやって出現したのか、そもそも一体何者か。投げかけるべきいくつもの問いは、彼女の神々しいまでの姿に、ユキヒトの口から出ていく事はなかった。
やがて、彼女はゆったりと視線をめぐらせ、ユキヒトの存在に気付く。
「……あぐっ!?」
と同時に、奇声がその口から発される。気品を感じさせていたゆったりとした仕草が固まり、慈母の趣すらあった顔立ちが、ゆでた蛸の様に真っ赤になる。
「あ、く、あ……。えと、工房の中……入るつもりじゃなくて……座標、間違い……。評判、聞いて……」
「……」
更に口から出て来た言葉で、最初の印象は完全に台無しになった。どうやら目の前のこの正体不明の女は、コミュニケーション能力に相当な欠陥を抱えているらしい。
「……色々疑問はありますが、まず、貴女はどこのどなたでしょうか?」
相手が慌てていると、自分は冷静になる。その事実を再確認しながら、ユキヒトはそれを問いかけた。
「あぐ……。あ、わたしは……アメノホカゲヒメ……。ホ、ホカゲとお呼びください。な、何者かと言われますと、ええと、い、一番近いのは……」
しばらく考えを巡らせるように沈黙すると、彼女はこう言った。
「……神です」
ファリオダズマにおける最もポピュラーな信仰は、多神教のカイスト教である。
いくつもの種族・民族が、どの種族が覇権を握ると言う事もなく集合し、共同生活を送るようになって以来、文化や風習、思想なども次第に混ざり合っていった。
宗教もまたその流れに逆らう事が出来ず、様々な種族の信仰が混ざり合って行った結果、最終的には全ての種族の神々が同居するごった煮とも言うべき宗教が主流になっていった。
格の高い神もいればそうでない神もいるが、明確な最高神と言うべき存在はない。大きなところでは太陽を司る神や死を司る神、大地を司る神や海を司る神がいる一方で、風邪を引いて苦しい時に祈りを捧げると症状を緩和してくれる神などという、風邪薬のような神もいる。
「わ、我々神とは、信仰心を糧としてその力を増大させる、その……魔力生命体とでも言うべき存在です」
「……」
突如として出現した神を名乗る女性は、たどたどしいながらもそういったあれこれを説明してくれる。意外な事にと言うべきか、口調がいちいちもたつく事を除けば、その説明は非常に分かりやすいものだった。
「つまり、貴女の本体は魔力であると?」
「今は、分かりやすいように肉体を構成していますけれど……本質的にはそうです。肉体を構成する座標を、この建物の外にして、普通に訪ねようとしたのですけれど……設定に失敗して、工房内にいきなり出現してしまいました」
神として実力不足です、と、恥ずかしげにうつむく。
神と名乗る女性など、不審者以外の何物でもないが、とはいえ、どうも彼女の個性では、上手く人をだます事も出来そうにないうえに、出現としか表現しようのない登場も、常人にできるものではない。
神と言うのが適切かどうかは置くとして、尋常な存在でもなさそうだ。そして、どうも、悪いものではないように思われた。
「……ユキヒトさん、お客さまですか?」
そんな事を言いながら、やや不審な表情のノルンが工房に入ってくる。
通常、注文受付のある部屋を通らずに工房に入る事は出来ない。そして、受付のある部屋にヒトが入れば、例えノルンが自室にいたとしても、大抵の場合は気付く。ノルンに気付かれずに工房に入るというのは余り考えにくい事態であり、だからこそ、不自然に思ったのだろう。
ちなみに、工房とノルンの自室は離れている上に工房には防音も施されており、通常、作業の音もノルンの部屋までは届かないようになっている。工房近くを通りかかった際に中から会話らしき声が聞こえたため、気にかかったのだろう。
「……誤魔化せますか?」
ひそやかな、ノルンには聞こえない程度の声で、ホカゲが囁く。神と言う素性を隠したいのだろうか、とユキヒトは思った。何故自分には明かせてノルンには明かせないのかという疑問もあるが、とりあえず悪い人物ではない様子である事もあり、要望をかなえるべく、ユキヒトは口を開いた。
「ああ、お客さんだ。珍しいな、受付の部屋に入った気配に気づかなかったのか」
流石に、受付の部屋にいたのであれば、気付かないなどあり得ないだろう。しかし今日のノルンは自室にいた。いくら気配に敏いノルンと言えど、別室にいたのならばそれに気付かない事もあり得る。
「……うん、ごめんなさい」
「いいえ。私こそ、勝手に工房まで入ってきてごめんなさい」
年下相手には比較的強いのか、にっこりと笑ってホカゲはノルンに謝った。
「ノルン、部屋に戻っていていいぞ」
「はい、分かりました」
除け者にするわけではないが、子どもに依頼内容を聞かれたがらない依頼人も多い。ノルンも特に拘る様子は見せず、素直に工房から出て行った。
「……さて、貴女が神様であるというのは良いとして、神様が何故、刀剣工房に?」
「そ、それはもちろん、刀剣作製の、その……依頼に」
ノルンがいなくなると、再び緊張し始めたのか、途端に口調から滑らかさが失われる。神と言う割に、ひどい人見知りだった。
「それは何故?」
「先程申しましたように、我々神と言うものは……信仰心を糧にする魔力生命体ですので……あの、信仰心を、集める事で、力をつける事が出来るのです」
「はい」
いちいち会話がもたつくが、ここまでくればもうこれは彼女の個性と割り切るしかあるまい。ユキヒトは彼女の話にゆっくりと耳を傾ける事にした。
「ええと、信仰心を集める為に、神殿を築き、信者さんを集めたいのですが、つまり、その、奉っていただく為の神体が必要なのです」
「作った剣をご神体にしたいと?」
「はい、そうです」
そこばかりは淀みなく、力強く頷く。どうやら、その事は強く心に決めているらしい。その態度にむしろ違和感を覚えて、ユキヒトは問い返した。
「何故、剣を? 貴女は……その、剣をご神体にする様な神様には見えませんが。それに、何故俺に?」
「私は、あの……こう見えて、家庭の平穏と鍛冶を守護する神なのです。それで……こ、この辺りに、神殿を構えたいと思ったのですが、ええと、この街の鍛冶屋でもっとも神体にする剣を打つのに適した鍛冶師が、あの、貴方だったのです」
「……家庭の平穏と鍛冶?」
「は、はい……」
随分と大きなものを守護しているように思われるが、その割には、言っては悪いが力のある神に見えない。思わず、じっと見つめていると、ホカゲは、その整った顔を真っ赤にした。
「……あの……」
「あ、ああ、失礼しました」
居心地が悪そうに声をかけてくる彼女に、正気を取り戻してユキヒトは、礼儀正しく目線を逸らした。
「その……私が、そんなにたいそうな神に見えないと言う事だと思いますが……」
「……う……」
「確かに、ええと、私は……今のところ、力のある神ではありません。守護していると言っても、その……私の守護が届くのは、せいぜい、ご町内の範囲内です」
「……つまり、このご町内限定の、家庭と鍛冶の守護神と言う事ですか?」
「はい、その、そう言う事になります」
随分とローカルな神もいたものだが、ユキヒトの居た国でも八百万もの神がいるという信仰があった。それだけの数がいれば、そんな神もいるのかも知れない。
「それで、ええと、報酬なのですが……」
「……あ、あの……私は、その、神ですが、神殿もないのでお布施も貰った事がなくて、その……」
「お金はない、と?」
顔を真っ赤にしてこくりと頷く神に、ユキヒトは頭を抱えた。
「……そもそも俺には、貴女が本当に神様なのかも分らないし、依頼料も無しに剣を作れと言われるのは、流石に……」
「あ、あの! お金をお支払いすることはできませんが、その代わり、あの……私の加護を、貴方に授ける事が出来ます!」
「……加護、ですか」
「は、はい! 私の力なら……ええと、鍛冶の途中で火傷をした時、治りが少し早くなります。後は……家族と喧嘩をした時、仲直りがちょっとしやすくなります!」
本当だとしても、何とも微妙だ。その微妙さが、逆に彼女の話の信憑性を高めている様な気はする。
「ええと……私が神だと言う事について、少しお疑いの様子ですが……。とりあえず、その、一度本来の魔力体に戻ってから、実体化して見せましょうか?」
「……まあ、確かに、そんな魔術は聞いた事ありませんね……」
似たようなものとしては変身魔術があり、竜族の様に本来の質量よりもずっと小さい姿に変身して見せる者もいる。しかし、全身を完全に魔力としてしまう、いわば自分自身を消滅させてしまうなどと言う魔術はありえない。魔力はあくまである種の力であって、それ自体に意思はないと考えられている。自分を全て魔力化すると言う事ができたとして、その時点で自分の意思が消えてしまい、再構成が不可能になるはずだ。
「とは言え、いきなりこの工房内に現れたんですから、そう言う事が出来るのは認めます」
「あ、ありがとうございます……」
「……でも、その、言いにくいんですが、貴女の言う『加護』は、どうも、効果を実感するのが難しそうで……」
これだけ困った依頼人も珍しい。とても悪人には思えない為、依頼料さえ払ってくれるのならとりあえず依頼は受けられるが、金がないと言われてしまうと、非常に困る。
「ええと、それじゃあ……後は、神殿の周りを少し、聖域化と言うか……清浄な状態に保てますけど……」
「……ちょっと待ってください」
その言葉に、ユキヒトは思わず、ずいっと彼女に顔を近づけた。彼女は、恐れる様に身を竦ませたが、それにも気づかず、ユキヒトは真剣な面持ちで、彼女に詰め寄った。
「もう少し、その話を詳しく聞かせてください」
真っ赤に燃える炭の中から、紅く輝く金属の塊を引き出す。
あの硬く冷たい塊を、熱して柔らかくし、鍛え上げようと、最初に発想したのはいったい何者なのだろうか。不可解な事を考えるものだが、こちらの世界にも、あちらの世界にも、そしてどの大陸にも、その技術は存在した。それはあるいは、人間の本能に刻まれた行為なのかもしれない。
ベースとなるのはカミツの鋼。その良質な鋼に、銀と、代表的な魔法金属のひとつであるアダマンタイト、今のところカミツでのみ採掘される同じく魔法金属のヒヒイロカネを混ぜた合金は、ユキヒトに取って初めて扱う素材だ。
その素材を指定したのは依頼人たる神、ホカゲだ。加工の仕方や、加熱具合の見極めなど、鍛冶の神を名乗るだけあって、事細かに教示してもらえた。『声が聞こえる』鉄や銀はともかく、魔法金属の加工技術を教えてもらえるのは有り難かった。
鎚を取り、少し目を閉じ、静かに息を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
かすかに目を開け、真っ赤な金属を金敷にのせて、鎚を振り上げる。
きぃん、と、澄んだ音が鳴る。ユキヒトとノルンが愛してやまないその音。今はその音に聞き入るではなく、ただ、無心に鎚を振るう。
金属の温度、強度の具合、全体の均一性……鎚を振るう間に考慮すべき事柄は多い。しかし、ユキヒトにとって、本当にいい仕事が出来るのは、余分な思考を排除して、無心に鎚を振るっている時だった。
師であるオルトからも、極力余計な思考は削ぎ落とせと言われていた。無論それは、何も考えずに漫然と打てと言う事ではない。僅かな違和感も逃さないよう感覚は研ぎ澄ましながら、目の前の鍛冶に全てを打ちこみ、雑事に心を惑わされるなと言う事だ。
この仕事はユキヒトに取って、その教えを忠実に守るべき仕事になった。無論、普段の仕事からそうではあるが、今回は、少しでも余計な事を考えてしまえば、途端に心が惑う。そういう仕事になってしまった。
逆に言えば、それだけ大切な仕事だ。何としても、最高の出来の物を作らなければならない。
叩いて鍛えた金属の塊を、慎重に眺める。そして再び、炭の中へ。
青白い炎が微かに上がる。その美しさにも心をとらわれることなく、ただ、剣が熱されて行くのをじっと見つめる。
ホカゲに教わった目安の通り、紅く輝き始めたそれを再び取りだす。そして再び、鎚を振るう。
鍛冶の音は途絶える事なく、延々と続いていた。
ファルは、ユキヒトからの呼び出しに応じ、工房へと顔を出していた。
剣の手入れ関連で工房に呼ばれる事はあるものの、今回の様に日時を指定して必ず来るようにと言伝がある事は今までにない。一体何の用事かと、わずかに緊張しつつ、彼はカウンターのある部屋に座っていた。
「何よ、そわそわして。落ち着きなさい、みっともない」
傍らには、当然のようにブレンヒルト。こちらは例によってと言うべきか、ふてぶてしいまでに平然とした顔だ。
「いやあ、結局ブレンヒルトの性格は変わってない事がヴァレリアさんにバレて、その事で呼び出しだったらどうしようかと……」
「脱出口と逃走経路の確認は十分かしら」
途端に前言を翻し、がたっ、と、イスから立ち上がり、きょろきょろと落ち着きなく、ブレンヒルトが周りを見渡す。
「どれだけ怖いんだよ! そしてそんなに怖いのに何で性格はそのまんまなんだよ!」
「私の心は、暴力なんかに屈しない!」
「台詞だけ見れば格好いいな!」
「……相変わらずお前らは、いつ見ても楽しそうで何よりだよ」
部屋に入ってみればぎゃあぎゃあと騒いでいる二人に、ユキヒトは半ば以上呆れつつ声をかけた。
「……あら、騒いでなんておりませんわ」
一瞬でも、今聞いた騒ぎは幻だったかと思わせる様な、つんと澄ました声でブレンヒルトは答える。ユキヒトは苦笑した。
「安心しろ、ヴァレリアはいないから」
「あらそう、猫を被って損をしたわ」
正々堂々猫を被っていた事を認め、あっさりと普段通りに戻る。その変わり身の早さは、見習いたいとは思わないが感心するものだった。
「で、何で僕達を呼び出したんですか? 前回の剣の手入れからそんなに時間も経っていないし……」
「ああ、今日は剣の関係じゃないんだ」
「……と言う事は」
「依頼をしたい」
すっと、一瞬、二人が目を細める。
ふざけた雰囲気はかき消え、そこに座っているのは、まだ若いながら、プロフェッショナルの冒険者だった。
冒険者に依頼を行なうためには、二つの方法がある。冒険者ギルドに依頼を持って行く方法と、冒険者に直接依頼を行なう方法だ。
前者はギルドに仲介料を支払う必要がある反面、依頼料は適切なものをギルドが助言してくれるうえに、依頼を受ける冒険者も実力が適切な者をギルドが選定してくれる。
後者の場合、冒険者との直接交渉となるため、依頼料も相場を知らなければ高い要求をされる可能性があり、依頼内容に適切な実力を持つだけの冒険者を探し出せるかという問題もあるが、逆もまた然りだ。
「内容は?」
「人を探して欲しい。……正直に言うと、どこにいるかさっぱり分からない。でも、出来るだけ早く見つけて欲しい」
「その人物を探すための手がかりは?」
「……そうだな……」
てきぱきと、二人は確認を行なってくる。ユキヒトはそれに丁寧に答えて行く。
「……なかなか難しい内容ですが、承知しました。引き受けましょう」
「すまない、頼む」
「しかしまあ……本当にユキヒトさんは、色々な人と知り合いですね」
仕事の話は終わりと判断したのか、ファルはわずかに柔らかい表情で、少し呆れた様な声を出した。
「何故かはわからないけど、依頼人は変わった人が多くて、こっちも驚いている」
「これは、変わっているってレベルかしらね……。まあ、良いわ。なるべく急ぐのね」
「すまないけど、頼む」
「……じゃあ、依頼料は、完了までの日時に応じて変動させましょうか。そうですね、一月以内なら満額でどうですか? その代わり、満額は相場より高めにさせてもらいますけれど」
「うん、それなら助かる」
自動車も鉄道もないこの世界のこと、大陸のどこにいるか分からない一人のヒトを探すのに、一月以内なら破格の早さだ。多めの依頼料を払ってでも、できる限り早く見つけたい事情もある。
「……ユキヒトさんは、いろんなヒトの事情を、自分で抱え過ぎる様な気がします」
僅かに眉を寄せた、心配そうな表情で、ファルが言った。基本的に飄々としている彼の事、そう言った顔をするのは珍しかった。
「ん……?」
「ヒトはそれぞれ、自分で自分の事を解決しなければならない義務があります。他人に同情するのも、手を貸すのも、美徳だとは思いますけれど、それで自分の事がおろそかになるのは、本末転倒ですよ」
「……まあ、そうかもしれないな」
この世界は、ユキヒトがいた元の世界に比べて、物事の考え方がシビアな面がある。モンスターと言う人類の天敵と言うべき存在があり、また、医療技術の発達も不十分であるため、死と言うものが、非常に身近にある世界だ。
多くのヒトには他人までを気にしていられる余裕がない。他人への同情など、贅沢や、あるときには思い上がりですらある。
「……それは、私が普段貴方に言っている事だと思うけれど。貴方が余計な事に首を突っ込むから、私はいつも苦労しているわ」
「……ん? あれ、そうだったかな?」
しかし、そんな世界でも、ヒトは優しさを忘れずにいる。ユキヒトはくすりと笑って、二人を眺めた。
「……とても良い状態です」
依頼をしてきたときからしばしば、ホカゲは、工房を訪ねて来ては作製途中の剣を見て行く。時には、鍛冶を見て行く事もあるし、助言もくれる事がある。鍛冶の神を名乗るだけあって、その助言は非常に適切なものだった。
「まだ鍛錬が足りないと思うけど……」
「それは確かにそうですが、現時点では非常に良いです。このまま鍛錬を続けていただければ、良い具合に仕上がると思います」
「なるほど」
「……」
今日は同席しているノルンが、少し首をかしげる。それを見たホカゲが、急に顔を赤くした。何事か、とユキヒトが思っていると、弁解するようにホカゲが口を開いた。
「……あ……。私、依頼人であるにもかかわらず、作製途中の物にあれこれと……。す、すみません、職人の誇りを無視した、出過ぎた行いでした」
慣れてくるに従って、ホカゲが口籠る回数も減っていたのだが、慌てたらしく、初めて会った頃の様につっかえつっかえの口調になる。
「いえ、俺は……未熟な身とは依頼してくれている人たちに申し訳が立たないので言えませんが、もっと向上していくべき身の上です。貴女のおかげで、助かっています。そんな風に言う必要はありませんよ」
確かに、一度任せられた以上、知識もないものに仕上がりもしていない状態であれこれと口を出されれば、職人として面白くないだろう。しかし相手は、鍛冶の神を名乗る人物であり、そう名乗るだけの事はあって、非常に適切な助言をくれている。あれこれとおしつけがましい訳でもない。言葉通り、むしろ助かっている。謝られる筋合いではないとユキヒトは思った。
「ごめんなさい、依頼人の方がそんな風に鍛冶に詳しい事、なかったので、少し不思議に思ってしまいました」
自分の態度が、ホカゲにその様に気を使わせたのだと察知したノルンが、ぺこりと頭を下げる。
「わ、私こそ、ごめんなさい。あの……なまじ知識を持っているものだから、職人さんに任せた後にまであれこれと口出しを……」
本当に恥じ入っている様子で、ホカゲは言葉を続ける。鍛冶の神と言うだけあって、鍛冶師の誇りについても本来は拘りがあるのだろう。
とは言え、自分自身の神体にしようとしている剣、いわば自分の第二の肉体とでも言うべきものだ。口を出したくもなるのだろう。
「全員で謝り合っててもしょうがない。もうこれで終わりにしましょう」
「……はい、分かりました」
まだ少し赤い顔をしたホカゲが、それでもこちらの意を汲んで頷いてくれる。
「でも、依頼をされる方が、作製途中の物を見て、良い状態だと仰るというのは、今までにありませんでした。とてもお詳しいんですね」
「はい、ええと、まあ。それなりには」
鍛冶の神に対して言っていると思えば、それなりにひやひやとするような内容ではあるが、ホカゲ自身がノルンにそれを隠している以上、やむをえまい。何故なのかは分からないが、彼女はノルンに対して、神であると名乗る事はないし、ユキヒトにも口止めをしていた。
世界最大宗教であり多神教であるカイスト教には、鍛冶の神も、家内安全の神も既にいる。ホカゲに言わせれば、それらの神は鍛冶や家庭全体を守護する神であって、いわば自分の上位に当たる存在だ、と言う事だ。とは言え、直接会った事がある訳でも、指揮下にある訳でもないらしいが。
そもそも、力のある神であれば、そうそう人前に実体化して現れる事などないと言う。神の降臨は本来非常に重大な出来事である。力のある神は普段、全世界に満遍なく加護を与えねばならず、その分存在は希薄にならざるを得ない。実体化となれば、全世界に散っている魔力をある程度一か所に集める必要があり、その場所以外に対しての加護が手薄になる。それは、下手をすれば世界のバランスを崩す行為であると言う事だ。
幸か不幸かホカゲは非常に力の弱い神であり、その加護が得られないからと言って世界に大きな影響はない。そもそも、加護を与えているのがご町内のレベルである。その為に、しばしば実体化してはユキヒトの仕事を見に来ているのだ。
「ノルンちゃんは鍛冶の音を聞くのが好きだそうですね」
「はい。危ないから工房に入っちゃダメってよく叱られるんですけれど」
「ふふ……。それは、その通りかもしれませんね」
子ども相手に丁寧過ぎるほどに丁寧ではあるが、少し話し方が滑らかになる。やはり、子どもの相手は比較的得意なのだろう。
「ある地方では、かつて鍛冶は神事でした。鉱石のほとんどとれないその地方では、それを加工できるのは、高い技術と知識を持ち、神官を兼ねる支配階級のみでした。その地方では、鍛冶をする姿を見る事が出来る者は限られていましたが、鍛冶の為に特別に設えられた小屋の外では、鍛冶の音を聞く事を許されたと言います。その神聖な音を聞く事で民衆は神事に参加し、また加護を得る事が出来ると考えられていたのです」
「へぇ……地方単位で、私みたいな事をしていたヒト達がいるんですね」
「鍛冶は定められた手順を忠実にこなして行く作業でもありますから、ある種、儀式的とも言えますね。そう言ったところが、宗教的なものと結び付いたのでしょう」
「なるほど……」
子ども相手の雑談と言うには随分固い内容ではあるが、ノルンは嬉しそうに聞いている。元の世界では、大学の文学部に所属していたユキヒトにとっても、なかなかに興味深い内容の話だった。
「その地方、他の地方からの金属が入って来る今はどうなっているんです?」
横から、ユキヒトが口を出す。ホカゲは、振りかえってにこりと笑った。
「その地方の祭事に、今もその儀式的な鍛冶は残っています。また、鍛冶師が、貴族とまでは行きませんが、医師や教師と言った職業並のかなり高い社会的地位にある職業として認識されており、他の地方と比べて、インテリ階層がその職についている例が多く見られます。独自の加工技術が発達していますが、門外不出とされており、その品は希少価値がついてなかなかの値段で取引されています」
すらすらと説明するホカゲ。どうやら、子ども相手のほか、自分の専門に関する内容であれば、人見知りの性質はいくらか姿を潜めるらしい。
「独自の加工技術か……興味深いですね」
「……実用的な鍛冶技術かと言うと、そう言う訳でもありませんので、貴方の仕事のお役に立つかと言うと少し疑問ですが……」
「そうですか」
自分のせいではあるまいに、申し訳なさそうに言うホカゲがおかしくて、ユキヒトは笑った。
「いずれにせよ、貴女の依頼、しっかりと仕上げます。状態が気になるなら、いつでも訪ねて来てください」
ユキヒトにとっても、重要な仕事になったこの依頼。普段の仕事から手を抜かないのが信条ではあるが、まして気合も入っている。力強く、ユキヒトは断言した。
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
それに対してホカゲは、はにかむように笑って、そう答えた。
尾行されている事に気付き、しかし彼女はそれを悟らせまいと、歩みを一切止めず、また視線も動かさなかった。
心当たりはあり過ぎてどれだか分からない。とは言え、素直にやられてやるつもりも微塵もない。
尾行者はおそらく二人。離れたところに分隊がいる可能性も否定できないが、とりあえずは間違いあるまい。
ごく自然な動作で路地を一つ曲がり、そこで反転。刀に手をかける。
問答無用で斬り殺す、と言う訳にはいかない。恨みは山の様に買っているし、恨み以外でつけ狙われる心当たりも大き過ぎる。それでも自分は、獣ではない。向かって来る者全てを食い殺していれば、それこそ己の死期を早めるのがオチだ。
それでも、自分をつけまわす様なヒトが、まともな者でもあるまい。少しは痛い目を見てもらっても構わない。
「……」
こんな姿、彼には見せられないなと考えて、手をかけた刀の下、もう一振り佩いた刀の柄を、そっと撫でる。
時々、自分は既に発狂してしまっているのではないかと思う事がある。今の様に、ひどく暴力的で短絡的な解決方法を、さほどの躊躇もなく選択してしまえる様な時だ。
そんな時に、彼が作った刀を撫でる。そうすることで、かろうじて、ヒトらしい自分を取り戻せるような気になる。
時々それを、惨めに思う。彼の心はもう他の女の物で、その女は自分では敵わない素敵なヒトで、仕方ないと諦めている自分がいて、それでもすがってしまう自分がいる。それが、狂おしいほどに、見苦しい。
こつりと、自分が先ほど曲がった角からヒトの靴音がして、思考を強制的に打ち切る。
「……ふっ!」
だん、と、一歩を力強く踏み出し、同時に刀を抜き放ち、そのまま斬りつける。
「う、うわっ!?」
思いのほかに若い声。そして動揺した様なその悲鳴とは裏腹に、俊敏な動きで、鞘に収まったままの剣で、彼女の抜き打ちを防ぎに来る。ぎぃん、と、鈍い音を立てて、彼女の刀は弾かれた。
ちっ、と、短く舌打ちをする。そんな下品な仕草も、故郷を離れてから身につけてしまったものだ。
素早く剣を引き、正眼に構える。尾行の技術から、それなりの技量はある相手だと言う事は分かっている。
「待った! ちょっと待った! 僕達は貴女の敵ではありません!」
「……」
もう一人はまだ姿を見せていないにもかかわらず、僕達、と、複数であることを示唆する言葉を使う。確かに、敵意があればそんな事はするまいと思う反面、周到な罠である可能性も否定しきれない。
「と言うか、これ以上僕を攻撃しないでください! 貴女の安全を保証できません!」
「……?」
何か不思議な事を言い出した、と思うと、彼の陰から人影が飛び出してくる。
「……!」
その人影が、抜き身の剣を携えているのを見て、やはりそうかと、迎撃の為に人影の方へ向き直る。
「……ストーーーーーップ!」
と、先に彼女の抜き打ちを防いだ方が、叫びながら彼女と新たな人影の真ん中に入り込む。
「……何をするの、ファル。この女は敵よ」
「待った! 斬りつけられた事は事実でも、このヒトはユキヒトさんに探すよう頼まれたヒトだ!」
「……ユキヒト?」
意外な名が出て、彼女は正眼に構えた剣を、ついと下ろす。
「彼の知り合いなの?」
短く、問いかける。まだ、自分の事をよく調べている刺客と言う可能性も、消えたわけではない。
「警戒心が恐ろしく強いから気をつけろ、って言われた通りですね……。シオリ・ヨイノマさん。ユキヒトさんからの依頼で、貴女を探していました」
呼びかけられて、シオリは思わず、ユキヒトに作ってもらった銀の剣の鞘を撫で、それからもう一度気を引き締め直す。
「……ユキヒトの依頼で? では一体、何故私に斬りつけようとしてきたのかしら」
流石に、彼が自分の暗殺を依頼するとは考えにくいし、考えたくもなかった。
「貴女が私の男に斬りつけるからよ。ユキヒトの依頼だろうと、関係ないわ」
「いや、そこは考慮しろよ! 僕達の仕事は信用が第一だろ!?」
完全に憎しみの籠った目で睨みつけて来る斬りつけて来た方……女だと言う事には今気がついた……に、男の方が素早く突っ込みを入れる。
「プライドを守るか、仕事を辞めるかなら、私は迷わず仕事をやめるわ」
「恰好いいな! でもその場合僕がお前を養う事になるだけだからそっちを選ばないでくれ!」
「私ならこの仕事を辞めても、貴方を養えるくらいには稼げるわ」
「本当にそうなりそうで微妙に憂鬱だな!」
突然、漫才の様な事を始める二人。なるほどこれはユキヒトの友人だろうと、ようやく少し警戒を解く。
「……分かった、分かったから、とりあえず貴方達、名前は?」
「僕はファルです」
「ブレンヒルトよ」
意外なほど素直に、二人は名乗る。どうにも毒気を抜かれて、シオリは苦笑した。
「それで、ユキヒトが何故私を?」
「……僕達も、その理由は聞いていません。とにかく、探して、連れて来て欲しい、と」
「貴方達の様なヒトが刺客だと疑う訳ではないけど、ユキヒトの依頼だと言う事を示す証拠はあるかしら」
「直筆の手紙が。内容は、もちろん見ていないので何とも言えませんが」
言って、封筒を差し出してくる。シオリはそれを、警戒心は解かないままに受け取り、中から便箋を引っ張り出す。
少し癖のある、しかし読みやすい、シオリの知る彼の文字が飛び込んで来て、それだけで嬉しくなってしまう事を自覚しながら、シオリは手紙を読み始めた。
『シオリさんへ
久しぶり。もう、店を移した事は知ってくれているかな? 前の工房にはそう書いた看板を立てておいたのだけれど。今は、ベルミステンに戻って、親父さん……ノルンの父親がやっていた工房のあった場所で、新しく開店している。
話は二人から聞いてもらえただろうか。といっても、二人にもシオリさんを探して連れて来てくれと依頼しただけだから、それ以上の事は何も分からないとは思うけれど。
とても重要な用事がある。内容は直接伝えたいからここには書けないけれど、ベルミステンの工房まで来て欲しい。仕事もあるとは思うけれど、なるべく早く。
一方的で本当に申し訳ない。どうか、よろしく。 行人』
読み終わり、便箋を元通り折りたたんで、封筒の中に戻す。それから、ふっと、苦笑と冷笑の中間のような笑みを浮かべる。
「随分一方的な事が書いてあったわ」
「へぇ、珍しい。依頼の仕方もなんだか妙に急いでいた様子でしたし、よっぽどの事なんでしょうね」
お陰で依頼料がちょっと吹っかけ気味でした、などと呟いて呑気に笑っているこの男は、なるほど裏表が小さくて使い勝手がよかろう。
さてどうするか、と僅かに悩む。
彼の呼び出しであれば、確かに応じたいし、応じるべきであろうとも思う。しかしながら自分の体質を考えた時、ベルミステンのような大きな街に赴く事には、恐怖がある。街中で『死霊』を呼び寄せてしまった場合、全てを即座に処理できるか分からない。
ベルミステンの英雄、ヴァレリアと懇意にしている彼ではあるが、だからこそ、『死霊憑き』を街中に招いた事が発覚すれば、難しい立場に置かれよう。ユキヒトも、頭の回転の鈍い男ではない。それが分かっていない訳ではないだろう。とすれば、そのリスクを考えてもまだ伝えたい、それも手紙ではなく直接伝えたいほどの重要な用事ということか。
「……貴方達、退魔の心得は?」
「冒険者ですので、まあ、一通りと言ったところです」
「ユキヒトにも困ったね。私のプライバシーを尊重してくれたのはありがたいけれど、正直、貴方達、依頼を引き受けるのに必要な情報を十分提供されていないよ」
ここまでの様子から、自分が『死霊憑き』だと知らされていないと判断して、シオリは自嘲するように笑った。
「私は『死霊憑き』だけど、それでも、私をユキヒトのところへ連れて行く?」
「あらそう。私の予想通りね」
覚悟を持って告げたシオリに、あっさりとブレンヒルトは言った。その言葉に、思わずシオリは硬直した。
「いや、百個くらいはあげた予想の内一つに入っていたっていうのを、予想通りって言うのはどうなんだよ」
「予想の中に入っていたのは事実でしょう」
遠慮がちに告げるファルに対して、堂々とブレンヒルトが答える。あっけに取られていると、二人はこちらを向き直って、笑った。
「ユキヒトさんが言うんですよ。『恐らく帰り道はとても危険になる。理由は話せない』ってね。馬鹿じゃないでしょうかね、あのヒト。そんなこと言われて、普通、引き受けますか?」
「……現に貴方達は、引き受けたみたいだけど」
「つまり僕達は馬鹿って事です。って誰がですか! 失礼な!」
勝手に自分を貶したかと思えばすぐさま憤慨し始める不思議な生物を、シオリはまじまじと眺めた。
「彼の持病なの。見なかったふりをしてもらえると助かるわ」
「……そう」
「おい、勝手にヒトを奇病の患者にするんじゃない!」
「分かっているわ、大丈夫よ」
「やめろ、そんなに優しい目をするんじゃない! 本当に病気になったような気になるから!」
「それで、何故貴方達はそんなに怪しい依頼を受けたのかしら」
どうにも真面目な空気を保つのが難しい相手だ。シオリは話を元に戻そうと、ぎゃあぎゃあと騒ぐファルをいったん無視した。
「そりゃあ、ユキヒトさんの依頼だからですよ」
すると、今この瞬間まで妙なテンションで騒ぎまわっていたファルから、こともなげにあっさりとそんな答えが返ってくる。
その答えにたじろいで、思わず口を閉ざし、ファルの顔をじろじろと見る。
「ヒトの男の顔をそんなにじろじろ見ないでくれる?」
「いや、明らかにそう言う意味の視線じゃないから! 無駄な喧嘩を売らないでくれ、頼むから!」
「大丈夫、私、背が低くて童顔の男に興味はないの」
「なんとぉー!?」
どうにも、この二人との会話は、良く脱線するが、それに一度は乗ってやらないとなかなか前にも進まない。少しずつ分かってきて、軽く会話に乗ってやる。内容は事実ではあるが。
「で、ユキヒトの依頼だから、って、何故それが理由になるの?」
「……あのヒトは、ああいうヒトですから。僕達が断ったら、もう、引き受ける人なんていないでしょうね。不都合な何かを隠して依頼とか、そう言う事が出来ないヒトです。僕達の仕事っていうのは、そう言うのを見抜くところも含めてだっていうのに」
「頭が悪くはなさそうなのに、馬鹿正直で危なっかしいと言うか……。助けてあげなきゃいけない様な気になるのよ、あのヒトは」
「……そう」
どうやら彼らも、ユキヒトに魅かれた類のヒトであるらしい。彼の善意は、時に向けられた方が困惑するほどに、純粋だ。良家の箱入り娘を想起させることすらある。余程善意に満ち溢れた環境で生きて来たのか、とも思うが、本人は極々一般的な庶民の出だと言う。
良く分からないところもあるが、基本的に善人で、真面目だ。だから自分も、つい、甘えたくなってしまう。
「いいわ、私をベルミステンに連れて行って」
ファルから、シオリの発見を連絡されたのは、依頼から一月経つまであと三日、と言うタイミングだった。
きっちりと満額の依頼料になる期間に収めてくる二人は、流石と言うべきだろう。
ホカゲの依頼の剣は、なかなか難しい合金を使っている事もあって、まだ仕上がってはいない。しかし、最終段階までは進んでいる。
初めは金属の塊に過ぎなかったものが、今となっては立派に刀剣の形になっている。
刀の形に打ち延ばす『素延べ』。ここでの形が、最後の刀の形を決める。焼き入れの際の反りを考慮し、形を仕上げる。刀の素材は初めて扱う合金ではあるが、反りの程度の目安はホカゲに教えられている。
余り大きくは反り過ぎないように、との依頼だ。かと言ってまっすぐでもなく、緩やかにカーブを描く様にして欲しい、と。
儀式用の剣だけに、見た目の美しさには気を使って欲しいとのことだ。ホカゲと、そしてシオリのイメージを頭に浮かべつつ、ユキヒトは形を慎重に決めて行った。
刃の側を薄く叩きのばし、続いて峯側の形も整えて行く。歪みは許されない。一鎚ごとに、力の加減を間違えないように、ただ手元に全ての神経を集中させる。
形が整ったところで刀身全体を加熱。そして冷却して『火造り』の工程が終わる。
冷えたところで黒い汚れを荒砥石で砥ぎ落とし、また小槌で叩いて棟と刃の直線の修正を行う。専用の大振りなかんなで凹凸を削って、『空締め』の完了だ。
かんなの削り跡を砥石で砥ぎ下とす『生砥ぎ』を経て、水を含む藁灰で油脂分を落とし、そして乾燥。ここまでは、既に終わっている。
今日は、『土置き』と『焼き入れ』を行う予定だ。この工程が終われば、あとは仕上げの段階へと進む事になる。
形を仕上げた刀に、粘土、砥石の粉、炭の粉を混ぜた焼場土を盛っていく。均一に盛らなければ、均一の焼は入らない。丁寧に焼場土を盛りつけ、伸ばす。
思い通りに土をおけた事を確認し、大きく息をつく。窓の外を見れば、日は暮れている。ユキヒトは、室内の明かりを全て消した。
鋼は、ある温度以上から急激に冷やされる事によって、強度を増す。その性質を利用して、剣を熱し、水で急激に冷やす事で剣の強度を高める工程を『焼き入れ』という。その際に、剣の反りが生まれる。ここまでの工程にどこか不備があれば、また、温度の見極めを誤れば、それだけで全てが台無しになる、最も難しいとされる工程だ。刀身の温度は、熱せられた刀身の色を見て判断する。その為に、焼き入れの際には、部屋を暗くするのが普通だ。
単に熱するだけではない。刀身全てを、均等の温度にしなければならない。炭の中に入れ、熱しては引き出し、刀身の確認をして再び熱する。
赤くなった刀身は、やがて、白に近い輝きを発するようになる。その色が、全体に満遍なく広がるまで、じっくりと熱し続ける。
刀身全てが輝いて、その時が来る。ユキヒトは、ためらわず、その刀身を水へと落とす。
じゅううううううう、と音を立てて、水が急激に沸騰する。この用意した水の温度は、鍛冶師が弟子にすら明かさない、まさに焼き入れの肝となる部分だ。ユキヒト自身、こればかりはオルトから教わったのではなく、自らの経験と、彼だけが聞く事のできる『金属の声』から割り出した、独自の技術、鍛冶の要だ。
水の中で急激に冷える刀身が、緩やかに反っていく。それは優美な、どこか女性的ですらある曲線だった。
「……」
なおも蒸気を発する水を見つめ、刀身が十分に冷やされるのを待つ。鍛冶の成否を左右するその瞬間も、やがて終りを告げ、ユキヒトは水の中から刀身をゆっくりと引きだした。
ここからの工程は、基本的に仕上げの工程だ。刀の出来の大半は、もはや決まったと言って良い。
「お疲れさまでした」
いつからそこにいたのか、ホカゲが声をかけてくる。例によって、工房の中に『出現』したのだろう。
「工房内に直接現れるのはなるべく控えてください。驚くし、何度も続くとノルンが不審に思います」
「え、ああ……えと……はい、ごめんなさい」
それほど強く言ったつもりはないのだが、かぁっと赤くなって、ホカゲは答える。
「……それで、そこで見ていて、出来はどうですか?」
「はい。とても良いです。これが、私の神体になるんですね……」
うっとりとした目つきで、ホカゲはその刀を眺めた。どこか、気恥ずかしくなってくるような視線だった。
「後は、シオリさんという方を待てばいいんですね」
「依頼をした冒険者が見つけたようですから、今この街に向かっています。到着までに仕上げないといけないですね」
「はい。よろしくお願いします」
この刀は、今までの仕事の中でも五本の指に入る仕上がりだと感じる。このところはしばらく、ひたすらこの刀にだけ打ちこんでいた、その甲斐があった。
「……無事に、ここまで到着してくれよ……」
シオリの『死霊憑き』について、二人に説明をするかどうかは、最後まで迷って、結局できなかった。二人がそれで怯むとは思わなかったが、シオリとしては自分のいないところでその情報を広められるのは不本意だろう。そっちを優先してしまった。
その判断が正しかったか、それは今も分からない。その判断の為に、二人を余分な危険にさらした可能性もある。それを思うと、心苦しい。
ただ、三人が無事にこの街につく事を、ユキヒトは祈った。
暦の上では、春が近付いている。
しかしまだ、風は冷たい。突然暖かい日が来たかと思えば、翌日はまた急激に寒くなる。それの繰り返しで、いつしか春は訪れる。
故郷では、気の早いヒト達が今年の桜の開花時期について口にし始めている頃だろうか。あの美しい花を、シオリはもうしばらく見ていない。
もう二度と帰れない故郷。今更それを、改めて思い出して感傷的になるのも、少し違う気がする。
果して彼は、自分に一体何の用だろう。分からないが、楽しみでもある。自分を『死霊憑き』だと知って、なおも疎まずに付き合ってくれるヒトなど、そう多くはない。今となっては、友人と呼べる数少ないヒトの一人だ。
今やベルミステンの街の中。『死霊憑き』が発覚してからは、滅多に近寄らなかった街中だ。緊張はある。今も、自分を探しに来た冒険者の二人、ファルとブレンヒルトに付き添われてはいるが、いつ死霊を呼び出してしまうかと、気が気ではない。
時刻は真夜中。夜は妖の時間。死霊も出現しやすい時間ではある。しかし、ヒトが出歩かない時間でもある。
考え方としては二通りだった。死霊は現れにくいが、現れればまず間違いなく目撃される昼間にユキヒトの元を訪れるか、死霊は現れやすいが、素早く処理できれば人目にはつきにくい夜に行くか。
冒険者二人とも相談をしたが、結局、昼に死霊が現れてしまえばもはや致命的で取り返し様がないという点を重視し、夜の移動となった。
暗がりから暗がりへ、人目を避けて、こそこそと。時々虚しさに襲われるが、自分にはそれが相応しいとも思う。思えば、自慢だった長い黒髪を、前回思う存分に梳いたのはいつだっただろう? 艶やかさも失われてしまったし、傷みも激しい。
溜息が出そうになる。以前は、この髪の手入れに、一日に一時間は使っていたように思う。今は、そんな暇があれば、体を休めるか刀の手入れでもしている。
いけないな、と、自分を戒める。普段はもうすっかり気にしなくなったそんな事が気になるのは、これから彼に会うからだ。
彼はもう他の女性と心を通わせている。横恋慕は惨めでしかない。しかしもし、彼女と自分が、対等の立場であれば、自分はこんなに簡単に諦めただろうか、とも思う。
本来それほど気の弱い方ではない。奪ってやるとまでは思わないにしろ、そんなにあっさりと負けを認めもしなかったのではないかと思う。
一つ、溜息をつく。これ以上は、詮無い事だ。どうあれ、『死霊憑き』であるのが自分。そうでない自分を空想するのは、楽しい事かも知れないが、建設的な事ではない。
「そろそろですよ」
「そう。ありがとう」
先導してくれるファルが告げてくるのに、極力平然を装って返事する。意味はないが、意地だ。
やがて、一つの家に辿り着く。その瞬間、シオリはまたも溜息をついた。
あの山奥の工房にそっくりだ。……いや、彼の経歴を思うなら、あの山奥の工房が、この家にそっくりなのだろう。正確には、焼け落ちる前、ここに建っていたであろう家と。
このところは新規の顧客も大幅に増えたようだが、山奥の工房時代、彼の顧客の多くは、彼の師から引き継いだ者と、その紹介だったと聞く。自分は、珍しく、評判を聞きつけて訪ねたという口だ。
穏やかで、しかしどこか空虚な男だった。とんでもなく親切だったかと思うと、迷子になって途方に暮れる子どものように見える時もあった。初めは多分、その、空虚さに心が引かれた。自分自身、とんでもないほどの空虚を抱えているから、何かが共感できるような、そんな気がした。
初めて訪れたのは、退魔用の純銀ではない、普通の刀を依頼する為だった。彼は、得意な剣術や魔法の使用の有無といった基本的な事の他、様々な事を尋ねて来た。自分の根幹をなす部分、どこで生まれ、どこで育ち、何を是とし、何を否とし、何を喜び、何を悲しみ、どうやって生きて来たのか。そう言った事だ。
後になって聞いたところによれば、飛び込みの客にそこまでするのは稀だと言う事だった。彼も、自分に、何かただならぬものを感じたのだ、と。
『死霊憑き』の事を明かすつもりはなかった。初めは面倒を避けるため、やがては、彼に嫌われる事を恐れて、だ。
自分が『死霊憑き』になってから、それほどに深い交流をした相手は、初めてだった。だから、つい、彼の工房に入り浸り過ぎた。
初めて彼の工房で死霊を召喚してしまったとき、これで全てが終わりだと目の前が真っ暗になる様な気持ちと、何を普通のヒトになったつもりだったと自嘲する気持ちで、胸がいっぱいになったのを覚えている。
無駄と思いながら謝罪した自分に、彼は怒るではなく、心配と同情をした。独りで生きて行くのは辛いのではないか、と。
「……お人よし」
「え?」
「何でもないよ、独り言」
この扉をくぐったところは、おそらく、注文受け付けの為のカウンターがある部屋になっているのだろう。そこに彼がいる。その事に歓喜と、絶望を感じる。
手を伸ばしても届かない葡萄を、それでも酸っぱいと思えない狐。それが自分だ。
手をあげ、こんこん、と、ノックをする。
「どうぞ」
彼の声が、そう促す。それに導かれるように、シオリはドアを開けた。
正面、カウンターの向こうに、彼が座っている。つい、と、唇の端を持ちあげて笑う。明るい笑顔ではない。どちらかと言えば皮肉げな表情になっているだろう。それでも今はそれが、精いっぱいの笑顔だ。
「お久しぶり。こんな街中で私に一体、何の用?」
「お久しぶり。こんな街中で私に一体、何の用?」
皮肉な笑顔を浮かべながら、彼女はそう言った。会うたびに、彼女の表情には疲れの色が濃くなっていく。それでも、かろうじて間に合った。その事にユキヒトは安堵した。
「ファル、ブレンヒルト、ありがとう」
「書類が整ったら連絡しますから、報酬をお願いします」
「ああ、もちろん」
二人は、幼いながらに流石はプロだ。余計な詮索はせず、さっさといなくなった。それを見届けて、改めて、ユキヒトはシオリと向き合った。
「急に呼び出してごめん、大切な用事がある」
「何? 結婚が決まったから式に招待したい、とか言われたら、流石に怒るけど」
「……そう言う用事じゃないかな」
彼女なりの冗談なのかもしれないが、余り笑えない。
「君に、巫女をやってもらいたいんだ」
「……え?」
しばらくぽかんとした後、シオリは急激に目を吊り上げた。
「面白くないし、不愉快」
本気で怒っている。それがはっきり分かる、今までに聞いた事もないほどにきつい物言いだった。
「冗談じゃない。本気で言ってるんだ」
「『死霊憑き』が一か所に留まれる訳ないでしょ。それは、私だって、そう出来たら、どんなに素敵かと思うけれど」
「この前、神様に刀の作製を依頼された」
「……は?」
何を言っているんだ、と言う、呆れた目で見られる。少しひるみそうになるが、ユキヒトは言葉を続けた。
「その神様は、お金は払えないっていうけど、神殿の周りを聖域化できると言ってて……。だから俺は、『死霊憑き』をその聖域に匿って、死霊を寄せ付けない事はできるか聞いた。その神様は、出来る、って……」
焦るあまり、あまり上手い説明にはなっていない。シオリの目からは、段々と怒りは消えて行き、代わりに、憐みの色が浮かんできた。
「……刀、もう渡しちゃった? その『神様』に」
「いや、まだだけど……」
「そう、良かった。……ユキヒトは、あまりそう言うの、引っかからないかなって思ってたけど」
「……あ、あの、その、詐欺じゃないです……」
「!?」
突然後ろから声を掛けられて、シオリは驚愕の表情で、刀に手をかけつつ振りかえった。
「わ、わ、その、あ、危ないですから、刀は……!」
「……貴女、誰。私の後ろを取るなんて……!」
本気で警戒した声で、今にも斬りかかりそうな顔をしてシオリが言う。それに対して、突如シオリの背後に出現したホカゲは、わたわたと手を左右に振って、敵意がない事を示そうとしている。
「……ホカゲさま。だから、急に出現するのはやめてくださいと、何回も言っているのに……」
「ご、ごめんなさい……。詐欺師だって疑われてたみたいだったので、慌てて、つい……」
「この方が、アメノホカゲヒメさま。ご町内の家内安全と鍛冶を司る神様だそうだ」
「……どんなトリックを使ったの? 部屋の中にはユキヒトしかいなかったし、その後、ファルとブレンヒルトが出て行って、扉を閉めた。隠れる場所なんてないし、あったとしてもそこから出て来た時に私が気配に気づかないわけがない」
「わ、私は、神ですので……肉体は仮初の物に過ぎません。本体は魔力です。ただ、魔力のままでは貴方に何かを伝える事もできませんので、肉体を構成して降臨したのです」
「訳の分からない事を……」
刀に掛けた手に力が入る。今にも抜き放ちそうな気配に、慌ててユキヒトは割って入った。
「待った! 疑うのも無理はない! 確かに怪しい、それは分かる!」
「あ、怪しいって……」
ホカゲが遠慮がちに不満を表明するが、それに構ってはいられない。ユキヒトは言葉を続けた。
「でも、彼女の鍛冶の知識は本物だった。彼女の依頼に基づいて、彼女の助言を受けて打ったのが、この刀だ」
ユキヒトはシンプルな黒い鞘に収まった刀を差し出す。シオリは、警戒心を全く隠さない目でホカゲを見据えながら、それを受け取る。
「……!」
それを抜き、刀身を目にした途端、シオリは目を見開く。
「……ヒヒイロカネ……」
一目でその刀身に使われている金属の正体を見抜くと、刀身に指を這わせる。
「信じられない……加工方法は特定の鍛冶師だけに伝わる秘伝なのに……」
「少しは、信じてくれる気になりましたか?」
「……いいえ、ヒヒイロカネの加工方法を知っていたことと、妙な魔法を使うのは事実かもしれないけれど、それを以って神様とは言えるかどうか分からない」
「では、何を以って、私の神たる証明としましょうか?」
少しずつ慣れて来たのか、ホカゲの態度がゆったりとし始める。そのホカゲに疑わしげな目を向けたまま、シオリは刀を鞘に納め直し、それを突き出した。
「鍛冶の神だと言うのなら、この刀に祝福を与えてみなさい。私だって、かつては神に仕えていた身、それを見れば、真贋の区別はつくつもり」
「分かりました、良いでしょう」
ホカゲは答えると、刀を受け取り、両手で持つと、そっと目を閉じた。
余分な力などどこにも入っていない様な、自然体の姿勢。それでいて背筋はすっと伸び、凛々しい印象を与えてくる。
ふわり、と、ホカゲが浮いた。シオリは目を見開いた。
宙に浮く魔法が、ありえないとは言わない。しかし、こんなにも自然に、何の無理もなく地面から離れる、そんな魔法は、想像がつかなかった。
ホカゲが薄く眼を開く。閉じているか開いているか、それも曖昧なほどの薄目で、良く見れば微笑んでいると取れなくもないほどに微かに口角をあげ、どこか恍惚としたような表情だった。
「この刀に、ふさわしきもの宿れ」
歌うような声で、ホカゲは言った。
突如、光が室内を満たす。そのまばゆさに、シオリは思わず目をそむけた。
一瞬後、光は収まった。浮いたのはただの錯覚だと言わんばかりに、ホカゲは地面に立ち、シオリに向けて刀を捧げるように差し出していた。
「どうぞ、確認してください」
「……」
今更必要はないと感じながらも、シオリはその刀を手に取り、抜いた。
材質は先程までと同じ、仕上がりもユキヒトの作だけあって上々。しかし、先程までとは、決定的に違うほどの清々しい魔力に満ち溢れている。
「認める。認めるわよ。確かにあなたは鍛冶の神様みたいだね」
「そうか、じゃあ……!」
「ただ、一つ、確認させて欲しい事がある」
珍しく、前のめりになるユキヒトに、シオリは制止をかける。
「確認?」
「……少し、そこの神様と二人で話したいの。ユキヒトは少し、出て行ってもらっても良いかしら?」
「……さて」
ユキヒトが出て行った部屋で、シオリはホカゲと向かい合った。
「私に、何か?」
余裕のある表情は崩さないまま、ホカゲはシオリに問いかけた。
「そうね、話をしたい事があるわ」
「何でしょう?」
「貴女の正体について」
きっぱりと断じる。ホカゲは、特にひるむでもなく、ただ、すっと背筋を伸ばした。
「……穏当な言葉づかいではありませんね」
「かも知れない。まあ、別にそれほど不穏な話をするつもりはないけれど……」
「私の正体と言いますと?」
「正体……と言うよりは、由来、もしくは縁起とでも言うべきかしら。それについて、私なりの推測がある」
シオリは、ホカゲの目をじっと見た。気の弱い者ならば、睨みつけられているとすら感じたかもしれない鋭い視線を、ホカゲは涼しい顔で受け流した。
「貴女は、どうにも、不自然すぎる」
「不自然……ですか」
「もしくは、こう言った方が良いかな。都合が良過ぎる」
「……」
不穏な話をするつもりはないと言いながら、追及する様に言うシオリに対して、やはり、ホカゲに動揺はない。ただ、そのほっそりとした右手人差し指の指先を、思案するように顎にあてた。
「都合が良い。神と言うのはそもそも、そんなものではありませんか? ヒトの願いをかなえるという側面がある以上、都合の良い部分があるのは当たり前ではありませんか?」
「確かにそうだと思う。でも、余りに、特定の人間にとって都合が良い存在ね、貴女は」
「特定の人間と言うと?」
シオリはここに来て初めて、躊躇うように言葉を切る。しばらく思案するそぶりを見せ、それから、意を決したように顔をあげ、その名前を告げた。
「……ノルン」
ホカゲは、曖昧な微笑みのまま、肯定も否定もせず、それを指摘したシオリと正対した。
両者は言葉を発しない。ただ、黙って見つめ合う。しんと、張り詰めたような沈黙が、その場を支配していた。
やがて先に口を開いたのは、シオリだった。
「家内安全。鍛冶への加護。そして、『死霊憑き』の救済。これが、ノルンの願いでなくて、一体何なの?」
「はっきりと仰ってください。貴女の推測を」
「貴女は、ノルンが生み出した神。違う?」
「……」
「元々、あの子は……信仰心はあっても、既存の神様をあまり信用していなかったのではないかと思うの。……生まれながらに母と視力を奪われた。成長してからも健康を得る事はなく、一人では生きて行くこともままならない脆弱な存在のまま。それでも愛を持って守ってくれていた父親までも、殺されてしまった。もしも神様と言うものがあるのなら、あの子はそれを、恨んでいてすらおかしくない」
「そうかもしれませんね」
「それでもあの子は、恨まないし、僻まない。信仰心も捨てない。彼女にとって、生きて行くと言う事は、何かを頼ると言う事だから」
痛ましい、と言う表情を見せて、しかしシオリは言葉を続ける。
「信じる神様はいなくとも、信仰心を捨てられないのなら、もう、自分で神様を生み出すしかない。そうして生み出されたのが貴女。以上が、私の推測よ」
「……なるほど」
「違う?」
曖昧な誤魔化しは許さない、とばかりに、睨みつけるようにシオリがホカゲを見つめる。ホカゲは、しばし思案するような表情を見せた後、一つ溜息をついた。
「おおよそ、間違ってはいません」
「どこが間違ってた?」
「ほぼ正解と言って問題ありませんが、流石に、ノルンだけによって生み出された存在ではありません。ノルンの思いと、無意識に放出された魔力を核とし、この町内で平穏を願う住民たちの祈り、それが私を形作りました」
「……そう」
その程度は、誤差の範囲内だろう。推測はほぼ正確だった。
「それを確認して、どうします?」
「別に。知りたかっただけ。……あの子は、何で、自分ではなくて、私を救済する神様を願ったんだろう」
ひとり言のように呟くシオリに、ホカゲは答えない。
「……」
しばらくの沈黙があり、やがてシオリは、厳かに跪いた。
「……アメノホカゲヒメ様」
「はい」
「巫女の役割、謹んでお受けいたします。ただし、一つ、約束を」
「何でしょうか」
「……私が貴女への信仰を集め、貴女の力が増した暁には、どうか、貴方を生み出した彼女にも、救いの手を」
「神として、約束しましょう」
「……」
しばらくの沈黙の後、ありがとう、と、小さくシオリは呟いた。
誰に向けられたかはっきりとしないその言葉は、空中に溶けて、やがて消えた。
シオリの行動は迅速だった。
カイスト教系の神アメノホカゲヒメを祀る宗教として行政に申告、許可を得ると、傭兵時代に蓄えたと言うかなりの金を全て吐き出し、それでも足りないと見るや二振りの刀……今やベルミステンで最も有名な鍛冶師であるユキヒトの、希少なベルミステンに居を構える前の作、それも特注の魔法陣入り……を躊躇なく担保に差し出して金を借り、即座に神社の建設を開始した。
「本当はご神体も担保に入れようかと思ったんだけどね、ホカゲ様が泣いて止めるから」
「そりゃそうだろう」
ユキヒトは、苦笑しながら答えた。ホカゲからすれば、依代である神体を担保に入れられるなど、身売りも同然だろう。自分に仕える筈の巫女がそんな暴挙に及ぼうとすれば、それは泣きもするはずだ。
今は、ヴァレリアを伴って、シオリを含む三人で、建築中の神社を見守っている。
「土地にもいろいろ条件があるから、それなりに費用が出て行くのよ。大きくするつもりだから周りの土地を買える様な場所が良いし、方角とか、魔力的な安定性とか、大体加護してるのがユキヒトの町内なんだからあんまり離れた場所っていう訳にもいかないし」
「そうか」
随分と生き生きとしている。期待していた通りだったが、こうも上手くいくとは思っていなかった。
「……それで、ホカゲさまと、あの日何の話をしていたんだ?」
「内緒。女同士の話を聞き出そうだなんて、ユキヒト、それはやめておいた方が良いよ」
「……」
気になることと言えば、この様に、彼女が巫女を引き受ける様になった経緯を確認しようとするとはぐらかされてしまう事だ。
「良いのではないですか。どうあれ、彼女が平穏を手に入れた事には違いありません」
今日は同行しているヴァレリアが、微笑みを浮かべて言う。それを横目に、シオリはにこりと笑った。
「そう言えばユキヒト、ご寄進ありがとう。信徒第一号だね」
何故か目が笑っていない。その事実に気付いたユキヒトは、何とはなしに冷たい汗が背を流れるのを感じつつ、極力自然な笑顔を心がけつつ、答えた。
「……そりゃあまあ、ホカゲさまの加護も受けてる訳だしね。効果のほどはイマイチ実感しにくいけど」
「ご神体も寄進として奉納してもらったって扱いになってるし、本当に感謝してる」
だったらどうか、横目でヴァレリアをちらちらと見ながら言うのをやめてもらえないだろうか、とは言えず、ユキヒトはできの悪い彫像のように固まった。
「……そろそろ行きましょうか、ユキヒト。ノルンを私の家においてきていますので、気になります。今日は夕食でも食べて行ってください」
「……あ、ああ、うん、そうさせてもらおうかな……」
ヴァレリアはヴァレリアで、どうも穏やかならぬものを感じさせる声色になっている。シオリの態度を、挑発ととらえているようだ。
「嫉妬深い女からは、男は逃げて行くものよ」
「ご忠告どうも。策を弄する女も、男は好まないと聞きます」
「ふふ。何の事?」
お互いに笑顔だが、どう考えても和やかな雰囲気とは言いかねる。
会わせるのは初めてだが、どうやらこの二人、相性が良くなかったらしいと、ユキヒトは頭を抱えた。
天におわしまさぬ神へ なべて事も無き世に平穏を 行人