「……のわあああああああああああああああ!!」
とんでもない声をあげて、少年がドアを開け室内に突入するなり、そのままカウンターを乗り越えて住居部分につながるドアへと突撃していった。
「いいですか!? 僕はここに来ませんでした!」
叫びつつ、少年は家主の了解も得ずに住居部分へと逃げこんでいった。家主とて止める間の無い、まさにそれは疾風迅雷の動きであった。
「……ノルン」
事態の割には落ち着いた声で、ユキヒトは同居する少女に呼びかけた。
「何でしょうか?」
盲目の少女もまた、自らの定位置であるお気に入りの椅子に座ったまま、ゆったりとした声で返事をする。
「無理があるな」
「はい」
二人が頷き合ったところで、こんこん、と、上品に扉がノックされた。
「どうぞ、あいています」
「お邪魔するわ」
現れたのは、長い黒髪が目を引くヒューマンの少女だった。
一言でその容姿を表現するならば、「隙のない近寄りがたい美人」と言ったところだ。
その黒髪は相当に気を使って手入れをされているのだろう。傷んだ様子など全く見せず、闇を糸にしたような見事な漆黒だ。さらりとしたその髪は背中の半ばまで伸ばされている。肩にかかる髪を背中に流すしぐさなどには、年齢以上の女性らしさを備えている。
全体としてすらりとした少女で、背も高い。顔立ちも、ほっそりとした輪郭と言い、ややつり気味の目元と言い、どこか冷たい印象の、年齢よりは良い意味で年上に見える美少女である。
少女は、ノルンとユキヒトを順番に視界におさめた後、居住部分へとつながるドアに目をやりつつ口を開いた。
「ここに逃げ込んだ私の下ぼ……恋人を引き渡してくれないかしら」
「自分の恋人の事を下僕って言いかけなかったか」
「そんな些細な事はどうでもいいと思わない?」
取り繕うでも誤魔化すでもなく、心の底からそんな事は些細な事だと考えている声で言うと、少女は一つ溜息をついた。
「引き渡さない場合は、貴方も敵とみなすわ」
「自分の恋人の事を敵扱いしていないか」
「些細な事ばかりを気にかける人ね」
詰まらないと言う様に目を細めて、じろりとユキヒトを睨みつける。整った容貌をしているだけに、そういった冷たい表情が、彼女には殊の外似合った。
「とはいえ俺たちは事情も知らない恋人同士の喧嘩でどちらかに加担するような事はしたくない。勝手に逃げ込んだファルがどこにいるのかは分からないけど、入って探してもらっても一向に構わないぞ」
「ありがとう。それじゃ早速」
そう言うと少女は、居住部分につながるドア……ではなく、自分がつい今しがた入ってきた、外へとつながるドアを開けた。
そこには、こっそりと抜き足でどこかに逃げ去ろうとしている、先程逃げこんできた少年、ファルの姿があった。
「ファルくんのそう言う姑息で抜け目のない所、私は好きよ」
「……ブレンヒルトのそう言う理不尽なレベルで鋭い直感が僕は脅威だと思ってるよ」
ブレンヒルト。それが少女の名前だった。
ファルの恋人であるヒューマンの冒険者。刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』の顧客の一人であり、冒険者としての実力は恋人であるファルにも引けを取らない。
ブレンヒルトは、じわりと汗をかきながらじりじりと後退しようとする恋人に無造作に近づきながら、物憂げに息をつきつつ言った。
「直感な訳ないでしょう? 私は貴方の気配なら、それこそ髪の毛一本が床に落ちているのすらも見逃さないわ」
「泣きそうだ! でも感動のせいか恐怖のせいかは分からない!」
「貴方が眼から体液を垂れ流す理由なんて知る訳ないわ。歓喜じゃない?」
「知らないとか言いながら勝手にレベルアップさせるな! あと体液を垂れ流すとか言うな! 涙がものすごく汚らしい物みたいだ!」
「何を言っているの。涙なんて魔術による解析によれば所詮汗や……」
「その先を女子が口にするのは絶対に止めろ!」
「女というものに対して幻想を抱きすぎね。これだからまともに女の子と付き合ったこともない男は」
「現在進行形でその男と付き合ってる女にだけは言われたくないな! ついでに僕の女の子に対する幻想はお前の手によってものすごい勢いで破壊され続けている!」
こそこそと逃げ出そうとしていた割には随分と白熱した口調で、ファルは次々と突っ込みを入れて行った。しかしブレンヒルトはと言えば、涼しい顔をまるで崩そうとしない。
「ところで剣の作製を依頼に来たわ」
これまでの流れを一切無視した上で、ブレンヒルトはユキヒトへと向き直って言った。
「ファルくんの剣の出来はとても良かった。そう……思わず取り上げて主に私が使ってしまうくらいに」
「……方向性としては同じでいいのか?」
「そうね。ただ、もう少し長めのものが良いわ。それと私はあまり直刀は好きでないの。あと、ファルくんは突きも結構多用するけれど、私はほとんど使わないわ」
ファルに対する扱いはひとまず無視をして、ユキヒトはブレンヒルトの注文を頷きながら聞いていた。そのファルはと言えば、ブレンヒルトの注意がそれたように見えるものの逃亡を再開する様子はなく、恐る恐る部屋の中へと入ってきた。
「素材は? 鉄でいいのか」
「鎧亀の甲羅は用意したわ。後は少しだけれどオリハルコンも」
オリハルコンは、武具素材として広く使用される魔法金属である。
ミスリルほどの魔術に対する親和性はないものの、ミスリルとは違い合金にしてもその性質を失わないという特質を持ち、また金属として見れば硬度そのものはそれほど高くない事から、主に鉄やその他金属との合金として使われる事が多い。
その性質から必ずしも武具を丸ごと作れるだけの量が必要と言う訳ではなく、汎用性は高いものの、どの金属と混ぜ合わせるか、またその比率をどうするかによってがらりと仕上がりを変えてしまう奥の深い素材でもある。
「……同じ仕様と思わせておいて微妙に上質に仕上げようとするのは何のこだわりなんだ」
「私負けず嫌いなの」
ブレンヒルトの態度は、あくまでも淡々としていながらそこかしこに悪意が漏れ出る。ここまで来ると、ファルと付き合っているという事実でさえも彼に対する壮大な嫌がらせなのではないかとすら思えた。
とは言え注文は注文である。その背後に明確に犯罪の影でも見えていない限りは、断る理由もない。
「それじゃあ報酬だが……」
「前回から違いは?」
「ない」
「じゃあいいわ。覚えているから」
「……そうか」
こうやって遮られない限りは、ユキヒトは例え常連客相手であっても報酬の説明をする。
金がなければ生きていくのは極めて困難だが、かといってそれで人間関係を壊すような事はしたくない。だからユキヒトは、報酬についてはしっかりと説明した上で仕事を引き受ける事にしていた。毎回遮られようと省略する事はないし、前回から変わっていれば例え相手がそれを拒もうとも説明する。
「それで、ファルは何か注文はあるのか?」
「いえ。今日の僕は単なる付添いです」
「……付添いってのが追われて逃げ回るって言う意味も持ってたってのは今日初めて知ったよ。で、理由は一体何なんだ」
「だってファルくんったら私が家で待っててねって言うのに勝手に外に出ているんだもの」
「三日間の探索に出るのに彼氏を家に閉じ込める彼女がいるか! 結構全力を出さないと脱出もできなかったぞ!」
ユキヒトの問いかけに答えたブレンヒルトに、ファルが再び全力で突っ込みを入れる。
「食料と水は用意したわ」
「そう言う問題じゃないうえにそれはもう三か月前の話だろ。何でまた今日になっていきなりそれで僕を責め始めたんだよ……」
「ユキヒトさんのところにはノルンがいるってことを意識したら、つい」
「一体それのどこがトリガーなんだ!」
「私のせい……ですか?」
自分を責めるような口調ではなく、むしろきょとんとしたと言ったような声色で、ノルンが言う。
「貴女が引き金になってファルくんが私に追われることになったというだけのことよ。もしも貴女が存在しなければ今日ファル君が私に追われる事にはならなかったというただそれだけのこと」
「お前のせいだとか断定するよりもさらにたちが悪い!」
まったくもってその通りだったが、ノルンはくすくすと笑った。
「あいかわらずお二人は面白いです」
「貴女を楽しませてあげようなんて考えた事は、私、これっぽっちだってないわ」
あくまで冷たく素っ気なく、平坦な声でブレンヒルトは告げる。そこには何かを取り繕うという意思は、かけらほども見られない。
それでもノルンはひるまない。相変わらず楽しそうに、くすくすと笑っていた。
「嘘でもいいからそこはノルンちゃんを楽しませてやろうとしていたってことにしてくれよ……」
「随分とノルンを庇うわね。これは、制裁が必要かしら」
「待て! なんで僕の方じゃなくてノルンちゃんの方を向いて言う!」
「え、だってそっちの方が効果的じゃない」
「お前どのレベルで僕を苦しめたら満足するんだよ!」
到底恋人同士である二人の会話とは思えないが、この二人の会話は、概ねいつもそのようなものであった。稀にファルに行くべき被害が飛び火する事はあり、そう言った時は流石に抵抗するものの、ユキヒトは実行に移そうとしない限りブレンヒルトがどれだけ物騒な事を言い出しても気にしない事にしていた。
問題は、ブレンヒルトが余り冗談を言う性格ではなく、ファルがうまくフォローを入れてくれなければかなりの確率で被害が来ることだったが。
その時、再びノックの音が部屋に響く。
「はい、どうぞ」
鈴を鳴らすような声でノルンが答え、扉が開く。
「……あれ、今日ってば千客万来」
入ってきたのは、身長30センチほどの小さなヒトだった。その背中には小さな羽根が生えており、空を飛んでいる。
「とりあえずはじめまして。あたいってばフェアリーのデジレ。以後よろしくお見知り置きのほどっていうんだっけか、こういうとき」
ふわふわと飛んでファルとブレンヒルトの傍まで寄ると、フェアリーはぺこりと頭を下げた。
フェアリー族。ヒューマンよりはるかに小さくひ弱な種族だが、その分平均的に高い魔力を備える。ノックも、扉を開けたのも、どちらも魔術を使ってのことだ。そうでなければこの様に小さな生物に、部屋の中に響くほどのノックをすることも、ヒューマン用に作られた扉を開ける事も出来るはずがない。
「あら、ご丁寧にありがとうございます。はじめまして、私はヒューマンのブレンヒルト・ディングフェルダー。ミュンファーに生まれ現在ベルミステンの冒険者協会に所属しています」
ブレンヒルトは、柔らかく微笑み、礼儀正しくゆったりと一礼をすると、穏やかな口調で名乗りを上げた。
驚愕の変わり身だったが、それに対して指摘を入れる者は誰もいなかった。
「僕はヒューマンのファル・オーガスト。クレイトスの生まれで現在は同じくベルミステンの冒険者協会所属です」
「おやや。あんたたちこそずいぶんご丁寧なお人たちだね。となるとあたいもちゃんと名乗んなきゃだめかしらん。あたいってばデジレ・エイジェルステット。フォリスタワルト大森林生まれ、ベルテチカの冒険者協会に所属の冒険者なんだわ」
こちらはどちらかと言うと純朴に、先程同様にぺこりと頭を下げる。元々礼儀であるとかそう言ったものと縁の深い個性ではないのだった。
「ユキヒト、ユキヒト。あたいってば剣の注文に来たんだけど、この人たちもそうかしらん?」
「ああ、そうだ」
「そっかそっか、ご同業だもんね、そりゃ当り前だ」
今度はユキヒトの顔の前まで飛んでいくと、あっけらかんと言う。
「デジレさんは、フェアリーの割に随分と……開放的なんですね?」
「ん? あたいってばつまはじき者だからね。エルフさんたちと一緒に毎日毎日森林浴って柄じゃなかったんだわ。まあたまには森に帰らないと魔力が補給できなくて干からびて死んじゃうけどね。その点ここはお気に入りだわさ。ヒトの手が入り過ぎてないさね」
遠慮がちに言葉を選びつつ指摘するブレンヒルトに対して、からからとデジレは笑う。
フェアリーとエルフは、余り故郷の森から出ようとしない。特にフェアリーは森にいる間はその加護を受ける事ができ、相当の魔法を遣う事が出来るが、森を出た瞬間からその加護を失い、通常の種族なら何もせずとも魔力は体力同様少しずつ回復するはずが、少しずつ魔力を消耗し、流石に一日や二日といった時間でそうなる事はないものの、最終的にはデジレの言う通り干からびて死ぬ。
その存在自体を大きく魔力に依存し、森の持つ生命力や魔力と同調する事により生きていくことのできる種族。それがフェアリーだ。
特性からしてそもそも森の外に出る事は少なく、そして森の中という狭いコミュニティーで生き続けたことから育まれたのか、閉鎖的な気質を有する種族であった。
「んで、ユキヒト。ミスリルが手に入ったからこれで短剣作って」
にかっと笑うと、デジレは背負っていた袋から、鈍い光を放つ金属を取り出した。
「ちんちくりんってのもたまには役立つもんだわ。あたいってば武器やら作ってもらうのに材料費の安いこと安いこと。ま、流石にミスリルで作ろうと思うとちょっとかかるけどね。短剣が精一杯」
実際、デジレの取り出した金属の塊も、ヒューマンであれば短剣など到底作れるような量ではなかった。せいぜい食事用のナイフでも作れるかどうかという量だ。
しかし、フェアリーならば十分短剣を作れる。デジレの言は全く正しかった。
「細かい事はあたい分かんないし、全部お任せ。んじゃまよろしく」
「え? もう行ってしまうんですか?」
「ごめんよノルン。あたいってばここんとこしばらく街暮らしだったからさ、久しぶりの自然でテンション上がってるんだわ。森があたいを呼んでる! あとでもっかい来るから、その時ね!」
残念そうなノルンに対して、少しも躊躇することなく告げると、デジレは入ってきた時同様、魔術で扉を開けてさっさと出て行った。
「……落ち着きのないフェアリーね」
とたん、表情がすとんと抜け落ちたブレンヒルトが、容赦のない批評をした。
「お前のその芸はいつ見ても見事だと思う」
「私の売りだもの」
ユキヒトのちょっかいに、怒るでもなく平然と返す。
ブレンヒルト・ディングフェルダー。冒険者協会の前に学んでいたスクールでは優等生の呼び声高く、また面倒見が良く、相談に親身に応える優しさ、また間違いを堂々と正そうとする芯の強さから後輩の人気も高い人物だった。卒業の間際になって付き合いだしたファルとも、実力はあるがどこか落ち着きの無い所のある彼を良く支える、出来た恋人という関係で見られていた。
「良く知らない相手に隙を見せるだなんて、油断としか思えないわ。ひとまずは警戒心や敵愾心を持たれず、なおかつ与し易いとも思われずよ」
そのための、親しみやすさと芯の強さを兼ね備えた優等生と言うキャラ作りだとは、本人の公言するところである。
「……の割には、ファルには随分厳しいよな」
「警戒しても仕方のない相手に自分を飾って一体何処で休めって言うのよ。ファルくんはそう、いわば私の安息の聖域。フェアリーにとっての森にも等しいわ」
「だったらもうちょっと優しくしてくれよ……」
「それじゃあ安らげないじゃない」
「冷酷だ!」
ファルの呟きを、心の底から心外だと言う表情で否定するブレンヒルト。そのやり取りをユキヒトは苦笑して眺めていた。
必ずしも恋愛経験豊富とはいえないユキヒトとしては、この二人がうまくいっているのかいないのかという事について正確な判断を下す事は出来ないが、それでも少なくともファルは、一人でユキヒトと会う時はそれなりに惚気るのだ。
二人の馴れ初めについてなど詳しく聞いた事は流石にないが、どうやら最終的にはブレンヒルトからファルに迫ったらしいという事は、何かの拍子にファルの口からそれらしいことを聞いた覚えがあった。ブレンヒルトの言葉も、随所にちりばめられた悪意を丁寧に取り除いてやれば、ファルに対する惚気と取れる事を言っていない事もない。そうやって考えていけば、これで結構お互いに好きあった仲なのだとも思われた。であるならば二人が繰り広げるこれもまた、壮絶な痴話喧嘩なのであろう。
人の個性は千差万別。ましてその個性同士の結びつき方など、ただ一人の物差しで測れるはずもなかった。
しばらくして、デジレが戻ってきた。その際には再びブレンヒルトは優等生の仮面を完璧にかぶっており、デジレもそれを少しも疑っていない様子だった。親しげな様子で、冒険者同士情報の交換などしていた。
デジレもまだ十分成熟したという年齢ではない事もあり、珍しく年の近い相手が多くいたため、ノルンも終始楽しそうに話をしていた。やがて夜が近づくと、客の三人は刀剣工房『コギト・エルゴ・スム』から出て行き、ユキヒトはノルンの為に夕食を用意した。
少しはしゃいだ気持ちだったためか、ノルンは普段よりも多めに食べて、風呂に入るとすぐに疲れが出て眠ってしまった。
ユキヒトは、自分の部屋でランプに明かりをともし、手紙を書いていた。
「……」
黙々と、今日この日にあった事を手紙にしたためていく。
手紙の受け取り手も、ファルやブレンヒルトと同じく、ベルミステンに住み、二人の事も知っている。
ベルミステンは、この地方の中心都市だ。ユキヒトの学んでいた魔術学院もそこにある。自然、知人も多くそこに住んでいた。
『……そう言う訳で今日は2つ依頼があったけど、それを除いてはおおよそいつも通りの一日だった。ノルンも元気だ』
すらすらとそこまでは書き終わる。そこから、ユキヒトは少しだけ考えて、続きをしたためた。
『いずれはそっちに戻りたいと思う。すぐに、という訳にはいかないけれど。それじゃあ、また手紙を書く。元気で』
少し緊張したものの、何とか文字をにじませずに書く事が出来た。ユキヒトはペンを置いて、小さなため息をついた。
『情深き人の少女へ 対となるべき剣を持つ対となるべき者と永き時を共に過ごさん事を 行人』