真夜中、ユキヒトは明かりを灯し、注文を受け付けるカウンターに座っていた。
当然というべきか、常ならば傍らで椅子に座っているノルンの姿はない。基本的に規則正しい生活の彼女はこの時間、すでに深い眠りの中だ。
ふと、明かりが消える。しかしユキヒトは慌てない。そのまま静かに佇んでいる。
部屋の中は暗い。わずかな青白い月明かりだけが、カーテンを引いていない窓から部屋の中を照らしている。
その月明かりの中に、影が落ちる。しかし、光に照らされるものは何もない。実体のないまま、影だけが唐突に出現する。
それは影ではなく、黒い霧であった。室内に突如現われた黒い霧を見て、それでもユキヒトは小さくため息をつくだけだった。
「……依頼の品は出来上がってる」
「それは素敵だ。世の中には約束の刻限を守れぬ馬鹿どもが多すぎる」
霧の中から声が響く。言葉に対して、ユキヒトはやや皮肉げに唇の端を持ち上げて見せた。
「それはどうだか知らないけど、約束の刻限を真夜中零時にする馬鹿なら俺の目の前に居る」
「どうした鍛冶屋、随分機嫌が悪そうだな」
はじめはもやもやと何の形もとって居なかった霧が、徐々に人の形を成していく。それを見ながらユキヒトは一つ欠伸をした。
「知らないんなら教えてやるけど、ヒューマンってのはこの時間は睡眠の真っ只中なんだよ。お前だって用事があるから真昼間に日差しを完全に遮った密室で会おうって言われりゃ不機嫌になるはずだ」
「化け物相手にいい口の利き方だ。がぶりと行かれても知らんぞ」
無言で、ユキヒトは左手を上げる。そこには、先日鍛えた自分用の剣が鞘に納まったまま握られていた。
「はっはっはっ! それでいい、それでいいぞ鍛冶屋!」
「ユキヒトだ。名前で呼べよ、ヴァンパイア」
ヴァンパイアは『最もヒトに近いモンスター』と言われる種族だ。
モンスターの定義に『同種族間以外での意思疎通を行えないこと』という項目がある。ヴァンパイアはヒトと共通の言語を用い、会話をすることは可能である。それにも関わらず、『会話をすることは出来てもあまりに思考に違いがありすぎるために意思疎通が出来ない』などという苦しい理屈をつけてまでモンスターとされるのは、その特殊な繁殖方法に原因がある。
通常のような男女の交わりでも繁殖することは出来る。しかし、ヴァンパイアをヴァンパイアたらしめている最大の要因ともいうべき、もう一つの繁殖方法がある。
それは、『吸血』である。ヴァンパイアに血を吸われた者はヴァンパイアになる。それも、元の種族の特性を残したまま、ヴァンパイアとしての特性を備えることになる。
太陽や流水に弱い。霧や蝙蝠に身を変えることが可能である。魅了の魔術により魔への抵抗が弱いものであれば傀儡に出来る。異常なまでの回復力を誇り、心臓に白木の杭をはじめとする破魔の武器を打ち込む以外の手段ではそうそう殺すことが出来ない。そして、吸血した相手を自身と同じヴァンパイアにする。そういった特性だ。
それは確かに一般的なファリオダズマの住民からすれば『不気味』な特性であるのだろう。彼らが主張するとおり、仮にヴァンパイアとそれ以外の種族が隣り合って暮らしていたとして、共存できるのかといわれれば難しい物があるのは間違いない。生活の時間帯からして既に方や昼の太陽の下、方や夜の月の下と別れてしまっている。他方が休んでいる間、他方は積極的に活動しているのだ。かみ合うはずもない。
また、ヴァンパイアに寿命は存在しない。正確には、存在するのかもしれないが寿命により死んだヴァンパイアというものは現在までの歴史の中で確認されていない。その死因のもっとも大きな割合を占めるのは他者による殺害であり、大きく離された第二位は自殺である。害を為すものとされて討伐されるか、いつまで経っても訪れない終わりに絶望して自ら命を絶つか。それがヴァンパイアの宿命である。長短はあれ時間は有限であると考えるほかの種族と、命という物に対する考え方は当然大きく違ってくる。
しかし、ユキヒトは思う。果たして彼らは本当に『モンスター』であろうかと。
もとより、ファリオダズマで言うところの『ヒューマン』しか居ない世界で育ってきたユキヒトである。顔が狼であるとか、身長が一般的なヒューマンの胸までしかないであるとか、耳が尖っているというだけのことでも、ユキヒトからすれば特殊なことだ。果たしてそれらとヴァンパイアの特性との間で、どれほど違いがあるというのか、と思うのだ。
吸血を行うことで種族を変えてしまうという特性は確かに恐ろしいものではあるかもしれないが、ヴァンパイアにはヴァンパイアのルールがある。無差別な吸血を行う者は、ヒトからはもちろん、同族からも粛清の対象とされる。ヒトに友好的なものが多いとは言えないが、かといってヒトと積極的に敵対しているわけではない。それがヴァンパイアという種族だ。
ヒトの側にも、ヴァンパイアと対話して関係を築こうという動きがないわけではない。そもそも、かつては獣人とヒューマンとてお互いに憎しみあい、滅ぼそうとしあっていた時期がある。それを思えば、ヴァンパイアとの和解とて、決して空想事ではないと信じる者が、ヒトの中には居る。
ユキヒトとしては、そこまで強硬な信念があるわけではないのだが、相手次第では商売にも応じるという姿勢を見せている。実のところ、ほとんどの国家ではヴァンパイアとの取引を禁じる法律はない。そもそも意思疎通が出来ない相手と定義されている建前上、モンスターの一種であるヴァンパイアと取引を行うなどということは、通常では想定されない事態だ。動物との取引を禁じる法律がないのとそう変わらない。
とはいえ、モンスターの中でも例外的な存在であるヴァンパイアと取引があることが公になれば良い印象をもたれないのは当然だ。ユキヒトとしても、そこには多少考えるところがないわけではない。
オルトゥーレと名乗るヴァンパイアがユキヒトの元を訪れたのは、三月ほど前の深夜だった。就寝中に突然起されたユキヒトは驚いたし、それ以上に危機を覚えもしたのだが、オルトゥーレはまずは名乗り、自分にユキヒトを害する意思は一切ないと前置きをした上で、ヴァンパイアであることを明かした。
驚きながらも用件を問うたユキヒトをオルトゥーレは気に入ったようで大いに笑い、その後剣を一振り注文したのだった。
「化け物から話しかけられたヒトの反応はそう多彩なものではない。無論貴様の反応も想定されるパターンの一つに過ぎなかった。しかし、極めて珍しいパターンの一つだ」
そして今、オルトゥーレは出逢いの時を思い返し、上機嫌に笑った。
いまやオルトゥーレは黒い霧などではない。完全にその姿を現していた。
ぞっとするほどの美貌を備えた青年だ。金色の髪は奇麗に撫で付けている。形の良い鼻に、すらりとした輪郭。薄い唇には色気すら漂う。どこをとっても完璧としか言いようのない顔立ちであった。
しかし、眼だけがその中で異様な雰囲気を醸し出している。赤い瞳と言えば、竜族の一般的な特徴と同じであるが、竜のそれが生気を伴うルビーの輝きであるならば、目の前の青年の瞳の色は、生命から零れ落ち、濁ってしまった血のそれであった。
「お気に召した様で何よりだよ。で、普遍的な反応をされたらどうするつもりだったんだ」
つまり、逃げるなり、実力で排除しようとするなりの反応をされた場合だ。
「さあな。相手に同情すべき点があるなら見逃してやる」
「物騒な奴だな」
「忘れるなよ、私は『化け物』だ。貴様らヒトがそのように決めた」
「俺が決めたわけじゃない」
「だから私もヒトであるからと一括りの対応をしないようにしているわけだ」
ヴァンパイアには、通常のヒトの感性では理解できないほど突飛な、あるいは少しずれた行動原理を持つ者が少なくない。そしてそれは、長く生きたヴァンパイアほどそうなっていく傾向にある。
総じて彼らは退廃的であり、享楽的であり、刹那的であり、破滅的である。永遠とも言える時間が、ヒトとは異なる精神と理論を少しずつ育んでいくのだろう。
「それで、なんでその化け物がヒトの武器を作らせるんだ」
「ふん。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂で出来ている。意味などない」
オルトゥーレはくくくと喉を鳴らすように笑う。
「ヴァンパイアってのは難儀な奴らだな」
「時に縛られるヒトの子らには分かるまいよ、我らの愉悦と絶望が」
「……愉悦と絶望、ね」
「そう。愉悦と絶望だ。我らは永遠に生き続けられる愉悦と、永遠に生き続けなければならない絶望をともに抱えて生きている」
「……死なないわけじゃないんだろう」
「ある程度力のあるヴァンパイアなら、明確な自己の、あるいは他者の意思によってしか死ぬ事が出来んのだ。意志とはつまり、望みと言い換えてもいいな。他者、あるいは己が死を願わぬ限りは、生きていかねばならんのだ」
ヴァンパイアは基本的に不死の存在だ。彼らには実のところ、食事も睡眠も必要ない。魔力さえ適度に補給していれば、ヴァンパイアは死ぬ事がない。ヴァンパイアの多くは、魔力の巡りの良い地に本拠地を築いてその中に魔力収集のための魔法陣を作る。中には、迷宮を占領し、その中に住まう低級の魔物を魅了によって傀儡とし、自らの住処を守る番兵に仕立て上げるヴァンパイアもいる。
吸血は、もっとも効率の良い魔力の吸収方法であると同時に、魔術的儀式としての側面が強い。種族変更という、ヴァンパイアに固有の魔法といってもよい技能を使用するための儀礼だ。
「貴様は永遠を望むか?」
唐突な問いかけに、少し考えた後、ユキヒトは左右に首を振った。
「ふん。何故だ。古来よりヒトの願いといえばおよそ不老不死であろうよ」
オルトゥーレはつまらなさそうに、吐き捨てるように問いかける。ユキヒトは左手に握ったままだった剣をカウンターに置くと、小さなため息をついた。
「俺は期日の決まってない課題はいつまで経っても解決できない人間なんだよ」
「貴様に限らん。およそヒトというものはそういうものだ。故にヴァンパイアに職人は存在しない。我らは何も生み出さぬ。我らは何も遺さぬ。何故なら我らに未来はない」
「……」
「我らにあるのは膨大な過去と、いつまでもだらだらと続く現在のみだ。我らは未来を生きることなどない。我らはただ現在のみを生きる。意地汚くもただただ生き続けるのだ」
ヒトが何かを遺そうとするのは、いつか自分に終わりが来ることを知っているからだ。自分という生命が終わってしまったとしても、自分という存在がかつてあったことを証明するために、ヒトは自分のいなくなった未来に何かを遺そうとする。
ヴァンパイアにそのような必要はない。何故ならばヴァンパイアはいつまでも生きることができる。永遠を生きることができるものに、生の証を遺す必要はない。何故ならば、証を遺すまでもなく、生きているのだから。
「いつか我らの過去が我らを押し潰すその時まで我らは生きなければならぬ。我らは未来を思わず、ただ今このときの退屈をどうしのぐかのみを考えている。貴様もヴァンパイアになり1,000年も過ごせばわかる」
「俺はヴァンパイアになるつもりはない」
「賢明な判断だ。実に詰まらん。愚かな選択は愚かであればある程に面白い。私はとうに、理で考えることに飽いている」
「……そうか」
伊達と酔狂で生きているという言葉に偽りはないのだろう。この目の前のヴァンパイアがどれほどの年月を生きてきたのか、ユキヒトは知らない。しかし、その眼には限りないほどの疲労が宿っている。おそらくは、途方もないほどの時間を彼は過ごしてきたのだろう。
どれほどの出会いと、そして別れを繰り返してきたのか。あるいは、他者と交わることを絶ってどれほどの時間が経ったのか。
「鍛冶屋、私の頼んだ剣を持ってきてくれ」
「……ここにある」
カウンターに隠れる位置に置いてあったその剣を、ユキヒトは取り出した。
「手際の良い事だな」
そう言って手を突き出してくるオルトゥーレに、ユキヒトは剣を渡さず、それを鞘からゆっくりと抜いた。
すらりと抜いたその剣身は、冴え冴えと白い。刺突を目的とした幅の細い剣であり、尖端こそ鋭く研ぎ澄まされているが、本来の刃に当たる部位はなまくらである。材質は破魔白金と呼ばれる金属で、魔力の流れを乱す性質をもつ、魔法破りの素材であった。その為魔法陣を施すことはできず、代わりというべきか剣の腹には文字が刻まれている。『主よ、憐れみたまえ』。依頼通りに刻んだ一節ではあったが、およそその依頼人に似合うものとは思えない。
「何故、この文字を?」
「ふん。何度も言わせるな。ヴァンパイアの生は伊達と酔狂。意味などない」
「……そうか」
あくまで言い張る依頼人に、ユキヒトは細くため息をつく。
「一つ、確かめなきゃ、これの引き渡しはできない」
「ほう?」
「……その剣、自分の胸に突き立てるためのものか?」
ヴァンパイアは生半可な方法では死なない。首を刎ねようと、胴を真二つに断ち切ろうと、ヴァンパイアは再生する。例えその体を焼き、灰にして数か所に封印しようと、灰を集めてしかるべき魔力が備われば、ヴァンパイアは復活する。ヴァンパイアを殺すには、破魔の呪具をその心臓に突き立てるしかない。
格の低いヴァンパイアであれば、白木の杭で十分事足りる。しかし、長い年月を経て強大になったヴァンパイア、ヴァンパイアロードと呼ばれることもある上級の実力を備えた者たちは、それでは死に切らないという。強力な呪具を用いて心臓から流れ出す魔力を破壊して、ようやく彼らは死に至る。
オルトゥーレがどれほどの実力を持つヴァンパイアなのか、正直なところユキヒトには分からない。しかし、狂気を帯びたその瞳が完成されるまで、途方もないほどの時間が必要であろうとは、薄々と感じていた。
「私はまだ死ぬ気はない。生きることに飽いてはいるが、死ぬことにも興味をそそられはしない」
「なら、これは何のために?」
「それを知ることを勧めはせんな。知ることは関わることだ。ヒトがヴァンパイアの世界と関わって良い事など何一つとしてない」
「なら依頼に来るな。迷惑な奴だな」
「くくく。貴様のその物言いを私は気に入っているぞ」
その笑みには、怪しい魅力があった。ともすればそこに引き込まれそうになってしまう。魅了の魔術を使うヴァンパイアと相対するのは、ただそれだけで精神を消耗することだった。
「なに、ヴァンパイアからヒトにちょっかいを掛けることはない。下手なことをすれば掟に背くことになるからな」
「別に、好奇心で知りたいわけじゃない。自分の作ったものがどんな風に使われるか、それを知らずに渡すことはできない」
「それは依頼を受ける前に聞くべきことだな」
「話したか? 初対面の鍛冶屋にそんな事を」
「否だ。なかなかに理知的だな、貴様は。実に詰まらん」
オルトゥーレは再び喉を鳴らすように笑うと、物憂げに顎に手をあてる。
「……同族狩りさ」
少しの沈黙の後、オルトゥーレは言った。
「我らには我らの掟がある」
「らしいな」
「我らの掟には同族殺しの罪というものがある。その罰は処刑と決まっている。今回の罪人はなかなかに大物なのでな。それなりの武器を用意しなければ殺すことが出来ん」
ヴァンパイアにはヴァンパイアの社会がある。いや、ヴァンパイアはヴァンパイア同士としか社会を形成できないとも言えるのかもしれない。
いずれにせよ、その司法が極めて特殊なものであるのは間違いがない。
「……同族殺しか」
「面倒なことだ。だがそれがよい。どうせ暇潰し以外にする事などあろうはずもない。ならば手がかかれば手がかかるほど良い」
「暇潰しで、自分と同じ種族の相手を殺しに行くのか?」
「忘れるなよ、私たちは化け物だ。同じ姿をしているからといって、同じ常識を求めるな」
「……そうか。じゃあ、聞くだけ無駄かもしれないけど一応聞かせてくれ。なんだってあんたたちは、自分たちでルールなんか作って自分たちを縛るんだ? それも暇潰しなのか?」
永遠に死なない種族であるならば、他の物の事など無視をしてただ己の楽しみのためだけに生きればよさそうなものだ。その質問を耳にすると、オルトゥーレは、ほう、と、感心するように目を細めた。
「ヴァンパイアは個としては狂った者ばかりだが、種としてはなかなかにまっとうだという事さ。天敵は増えないに越したことがない」
「……何の事だ?」
「貴様、ヴァンパイアと戦いたいと思うか? 狡猾で魔力は高く、霧や蝙蝠に変身してうろちょろと逃げ、殺しても殺しても復活し、挙句うかつに噛まれれば自分がヴァンパイア化の憂き目にあうような相手と殺し合いをしたいと思うか?」
「まっぴらごめんだな」
うんざりした気持ちで、ユキヒトは答えた。誰が好き好んで、そんな相手と戦いたがると言うのか。
「しかもそいつらは、恐ろしく酔狂で何をしでかすか分からんときたものだ。そんな奴らとまともに戦えるのは、同じヴァンパイアくらいだろう。殺しても死なないのはお互いさま、思う存分にお互いの弱点、つまり心臓だけを狙って攻撃しあえる。霧や蝙蝠に変身して逃げるならば同じ姿になって追いすがり、噛まれたところですでに自分もヴァンパイアだ。ヴァンパイアと戦うのにこれほど都合のいい存在がほかにあるか」
「……」
「……我らは別に最も強い種族ではない。が、おそらくは最も相手にしたくない種族だ。同族であっても、そんな敵はこりごりなのだよ。我らは数を増やすのもまっぴらごめんだ。まして自分を殺しに来るかもしれん様な厄介な同族は積極的に排除せねばならん。基本的に我らは自分が可愛い我儘な種族なのだよ。可愛い可愛い自分を脅かすかもしれん存在を、なるべくならば増やしたくないのさ。生きている間はとりあえず生きていたいし、いい加減飽きて生きたくなくなれば勝手に死ぬ。そして仲間にするものは極力しっかりと選んでそれと心に決めた者を同族にする。元々の繁殖力は極端に低い種族だからな。自然に子を為そうと思えば、夜毎に交わっても五十年はかかる。そういう種族なのだよ」
「……何とも」
筋が通っているような、はたまた論理がすっかり破綻しているような、それは奇妙な種族だった。
「むしろ私は、何故私の依頼を受けたのかを聞きたい。ヴァンパイアの依頼など、何故受けるのだ。無視するなり、逃げるなりすればよかろうよ」
にやりと笑うと、その鋭い牙が見える。
「なんとなく、だな。あんたは不法侵入はしたけど、きっちり名乗って自分の正体も明かしたうえで依頼をした。不法侵入と時間のことは、あんたの事情を考えればある程度仕方ない。それは誠実な態度だったと思う。だからだ」
「貴様は面白いな」
「そうか? 当たり前のことを当たり前にしようと思ってるだけだ」
「相手によってその『当たり前』の変わる者のなんと多いことか」
くっくっく、とオルトゥーレは肩を震わせる。
ユキヒトには『常識』がない。ファリオダズマでの常識をユキヒトは知らない。だからこそ、会話ができる相手であれば、例えそれがヴァンパイアであろうとも、その考えるところを知りたいと思える。それは時に、ファリオダズマの住民からすれば途方もない事でもある。
「退屈ばかりの生ではあるが、時として興味深い者に出会うこともある。それこそが我らヴァンパイアの絶望なのかもしれんな。誰と会っても、どんな親交を結んでも、その相手は必ず自分より先に死ぬ。我らは必ず取り残される。それを逃れたければ、相手をヴァンパイアにしてしまうしかない。そして、ヴァンパイアにしてしまったが最後、変わらずにはいられん。結局のところ我らは、どこまでも孤独だ」
「……ヴァンパイアになってもならなくても、ヒトは変わっていくさ」
「ヴァンパイアにしてしまえば、その変り方すらも変えてしまう。いや、歪めてしまう。気に入ったものが歪んで壊れていく様は……実に絶望的だ」
オルトゥーレはそう言って、深くため息をついた。
「詰まらん事を言ったな。感傷的になるとはまだ望みを捨て切れていないという証拠か。つくづく救いようがない」
「……お前さえよければ、また来いよ。ヴァンパイアになるのはまっぴらごめんだけど、時々話くらいならしてもいい」
オルトゥーレの疲れた目は、それでも諦めきれないからこそなのかも知れない。諦めてしまえば、そこには絶望すらもない。
「ヴァンパイアを家に招くな。災厄が運び込まれるぞ」
「迷信だろ?」
「そうでもない。掟に背かずに相手をヴァンパイアにするための条件の一つが、その相手から家に招かれる事だ」
「一つってことはそれだけじゃないんだろう」
ユキヒトのいた世界では、『ヴァンパイアは招かれなければ家に入れない』という話もあったということをユキヒトは思い出していた。まったく違うようでもあるファリオダズマと元の世界ではあるが、共通点も奇妙なほどに多かった。
「ヴァンパイアに心を寄せるな。ヴァンパイアにされるぞ」
「……そうか」
さらりと答えるオルトゥーレの目には、自嘲とも何ともつかない何かが宿っている。
「実のところな」
「……ああ」
「私が殺しに行く相手は、お前によく似た男だったよ。ヒトであった頃はな。相手がヴァンパイアだと知ってなお恐れず、蔑まない男だった。奴と出会ったとき、私はまだいささか若かった。この永遠ともいえる生に、寄り添ってくれる友を求める程度にはな」
「……」
「そういう事だ。つまりは、そういうことなのだ」
オルトゥーレは、事実や真実、そういったものを語るのを恐れるように、婉曲的な話し方をする。
「まったく上等な状況だ。どちらの結末にしろ、贖罪になる」
くっくっくと、喉を鳴らすようにヴァンパイアは笑う。
それは無邪気とすら言えるような、心底楽しそうな笑い声であった。だからこそ、ユキヒトの常識はひどい違和感を訴えた。
「……ヒトにはわからない、か」
「その通りだ。だから理解しようとするな。光は光、闇は闇。それで良いではないか」
夜や闇。そういった属性に身を置く者をユキヒトはもう一人知っている。その人も、このヴァンパイアのように、どこか疲れた諦念を身に纏っている。
夜に生きるとはそういう事なのかも知れなかった。しかしユキヒトは、それをそういうものだと認めることに抵抗を感じた。
「お前が、自分は『闇』だというのなら」
「うん?」
「……昼でもなく、夜でもない時間、逢魔時にまた会おう。昼は昼、夜は夜かも知れないけど、その間で、一瞬だけでも交わるはずだ」
「……」
「それに、俺の剣は俺が修理する。もし本格的な手入れが必要になったら、俺のところに持って来い。俺が生きてる間くらいは、俺がこいつの面倒は見る」
「そうか。私はこの剣の持ち手として貴様に認められたか」
ユキヒトが差し出す剣を、オルトゥーレは恭しく受け取った。
「ふむ。良い出来だ。礼として金のほかにも一つ、私から貴様にくれてやろう」
ひとしきり剣を眺めると、オルトゥーレは言った。それに対して、ユキヒトは首を左右に振った。
「依頼に対する報酬は金だけ受け取ることにしてる。……友人からの贈り物なら、遠慮せずに受け取る」
「それで貴様が満足するのなら、そういう事でいいだろう。くれてやるのは、呪文のようなものさ。もっとも、私が奴に殺されていれば何らの意味を持たぬことになるがな」
「……呪文?」
「不心得者のヴァンパイアが貴様の前に現れたなら、言ってやれ。四十四公が一、オルトゥーレ・ル・ヴィスを恐れぬのか、とな」
「四十四公……?」
「意味は、ある程度ヴァンパイアに詳しい者に聞けば教えてくれるだろうよ。高慢きちなヴァンパイアが真っ青になって逃げる姿は、実に面白いものだぞ」
くっく、と、喉を鳴らすように、しかしかすかに愉快そうに笑う。
「ヒューマンの一生など、我らヴァンパイアからすれば、ほんの泡沫の夢のような儚いものだ」
「そうかもしれないな」
「だが、夢は夢であるからこそ良いのだ。夢を永遠にしようとしてはならんな。その代償が私のこの様だ」
「……」
「玉響、私は夢を見る事にしよう。また来る。死んでいなければな」
「……死から一番遠いヴァンパイアが、良く言う」
その言葉に返事はせずに、オルトゥーレは現れた時と同じように、黒い霧になる。
霧が晴れた後には、何も残らない。それこそ、彼こそが夢であったかのようだった。
「……まったく、まともな顧客はちっとも増えないな」
ユキヒトは苦笑して呟いた。
『夜に生きる者へ 例え絶望が貴方を襲ってもそれが貴方を壊してしまわぬ事を 行人』