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No.8544の一覧
[0] 安倍晴明幻想郷にて調の呪を鎮めること(夢枕獏版陰陽師×東方 掌編)[わび法師](2009/07/20 01:41)
[1] 橘実之女遍照寺にて幻想の蟲に出逢うこと[わび法師](2009/06/24 21:49)
[2] 安倍晴明神泉苑にて鬼と宴をすること[わび法師](2009/06/24 21:54)
[3] 上白沢慧音という半妖人の楽師をおくること[わび法師](2010/04/18 00:50)
[4] 古明地さとりという妖地上にのぼること(前篇)[わび法師](2010/04/25 09:18)
[5] 古明地さとりという妖地上にのぼること(後篇)[わび法師](2010/04/25 09:18)
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[8544] 橘実之女遍照寺にて幻想の蟲に出逢うこと
Name: わび法師◆52d3591e ID:2d116a8e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/06/24 21:49
 博雅は晴明の屋敷を訪ねた。
 このような身分の男には珍しく徒歩である。
 初夏であり、日が高い。
 ゆえに博雅は歩いて晴明の屋敷を訪ねる気になったのである。
 博雅は途中で一条戻橋を通った。
 安倍晴明は一条戻橋の下に式神を飼っているらしい。
 その式神が、客人が来ることを知らせるのだという。
 本当かどうか博雅は知らない。
 ただ、博雅がいつ晴明の屋敷にいくか、晴明は事前に知っているようであった。
 知られたくなければ一条戻橋で独り言を言わぬことだと晴明は言う。
 しかし最近では博雅は、あえて戻橋で独り言を言うようにしていた
 博雅が晴明の屋敷に着くと、牛車が動き始めている。
 博雅が来る前に客人があったようだ。
 客人がきたということは、晴明は家にいるということだ。
「晴明、いるか」
 博雅は屋敷の中で晴明を呼んだ。
 すぐに女が来て、博雅を晴明のところまで案内した。
「来たか」
 晴明は庭へと開け放たれた部屋に座っている。
「よく分かったな。戻橋の式神が知らせたか」
「まあそのようなものだな」
「煮え切らないな」
「他にも方法はあるということさ」
 晴明は微笑む。
 紅を付けたような赤い唇が歪む。
 博雅は腰を降ろした。
 今日の博雅は、何がしか噂や頼みごとを晴明に持って来たのではない。
 ただ、晴明と語り合いたくて来たのである
「すまないが、今日は酒はない」
 言葉の通り晴明の周りの床には瓶子も杯も置かれていない。
「かまわんが、それではおれがいつも酒を無心しているようではないか」
「いや、すまん。酒はもっとあとで、ということだ」
「これから出かけるのか?」
 博雅は予感に任せて口を開いた。
 こういうときの晴明は、すぐに出かけるものだ。
「よく分かるな。これから出るつもりなのさ」
「長い付き合いだからな」
「博雅も来るか、面白いものが見られるぞ」
 軽い調子で晴明は博雅を誘う。
 どこへいくか分からぬうちは博雅とて、返答できない。
「どこへいくのだ」
「橘実之殿の屋敷だよ」
「橘実之殿というと露子姫の」
 露子姫――むしめづる姫君である。
「うむ、といっても実之殿が話を持ってきたわけではないがな」
 その言葉で博雅は何かに気づいたかのようだった。
「ではもしや先ほどの牛車は……」
「露子姫のものさ。先ほどまで露子姫はここにいたのよ」




 世にむしめづる姫と噂される姫君がいる。
 従三位橘実之の娘、露子である。
 列記とした殿上人(てんじょうびと)の出であり、見た目卑しくなく、才気煥発な若い娘である。
 しかし宮中ではむし姫とよぶ者もおり、とんと男が寄り付かない。
 露子はあだ名の通り、虫を飼うのである。
 犬や猫、蛙や蛇も飼うが、中でも多いのが烏毛虫(かわむし)――毛虫である。
 捕えては小箱を作らせ、入れて飼う。
 手ずから草や葉を小箱に入れてやり、烏毛虫が食むのを見る。
 時には一日中、さまざまな種類の烏毛虫を眺めていることもあった。
 父親や女房たちに理由を尋ねられると、烏毛虫が蝶へと変じていくのが何とも不思議で面白い、と露子は言うのだ。
 露子は幼い頃より草、木、虫、岩など、あらゆるものに興味を抱く子供であった。
 子供が誰しも持つ好奇心を露子は長じても失っていない。
 おかしな姫君である。
 露子は都にほど近い寺院を歩いていた。
 遍照寺である。
 以前にも飛び回る無数の金色の虫を見るために出かけたことがあった。
 その際に遍照寺の僧、明徳とも知り合っている。
 今日訪ねた際も、困り顔で笑いながら遍照寺境内を歩きまわることを許してくれた。
 露子は男が着るような水干を身に付けていた。
 長い髪は烏帽子の中に隠している。
 眉も歯もいじっていないので、傍目には秀麗な美少年のようであった。
 うまく警備の者を欺き、屋敷から抜け出してきたのだった。
 三歩ほど先には小袖の童子が歩いている。
 露子の小姓のけら男である。名前は本名ではなく露子が名付けたあだ名だが、童子もそれを嫌ってはいない。
 露子のすぐ後ろを歩くのは式神、黒丸である。双眸は蝶の眼をしており、背には 揚羽蝶の如き文様の巨大な翅を持っている。
 しかし蝶の眼は烏帽子から垂らせた黒幕で隠し、翼は服の中に仕舞っている。
 一風変わった付き人に見えなくもない。
 露子たちは何をしているかというと、広い境内の中で虫を探している。
 けら男は露子では見ることのできない木の上などを探し、露子と黒丸は繁みや低木を見回っている。
 季節は春の盛りであり烏毛虫に限らず、さまざまな種の虫、蜥蜴、蛙などがいる。
 しかし見たこともない珍しいものはおらず、露子は時折立ち止まって見つけたものを面白そうに見つめるだけであり、捕まえようとはしない。
「これは今も飼っているわ。これは前に見たことのあるぶんぶんね」
 けら男や黒丸が持ってきたものも見るが、いずれも露子の記憶にあるものばかりである。
 残念がるけら男を慰め、露子は今一度境内を歩きだした。
 遍照寺の壁にそって露子は歩く。
 どれほど歩いたか壁が折れ曲がるところで露子は奇妙なものを目にした。
 童子の足のようなものが木陰から見えているのだ。
 遍照寺の稚児が休んでいるのか、気になった露子は近づき木陰を覗きこんだ。
「まあ」
 露子は思わず声をあげた。
 少女とも少年ともつかない童子が木にもたれて目をつぶり座り込んでいたのだ。
 水刊のような服を着ているがなぜか、首に長い布を巻いている。
 しかし何よりも露子の目を引いたのは、ほのかに薄い緑色の髪とそこから突き出す二本の触覚である。
 それが時折ぴくぴくと左右に揺れている。
「あなた、まるでぶんぶんみたいなのね」
 露子は触覚を見ながら口に出した。
「ぶんぶん……ああ蟲のことね」
 童子はまぶたを降ろしたまま言った。眠っていた訳ではなかった。
 しかし眼を開けようとはしない。
「こんなところで何をしているの?」
「休んでる」
 素っ気なく童子は答えた。
 良く見ると服が所々汚れ、顔にも泥が付いている。
「露子、わたしは露子よ。あなたはなんて名前なのかしら」
「お姫さま、わたしが怖くないの。わたし人間じゃないんだけど」
 触覚を動かしながら、ようやく童子は眼を開けた。深い緑色の瞳に露子が写る。
 どうやら蟲の化生のようである
「あら黒丸のようなものでしょう」
 露子は平然としたまま言った。
 同じ場所にいつまでもしゃがみ込んでいる露子の身を案じて、黒丸がこちらに歩いてきていた。
 少し身を傾け、童子は黒丸を見る。
「赤蚕蟲……おまえ蟲毒をやったのか」
 言うが早いか、童子は露子に掴みかかった。
 黒丸は蘆屋道満が千匹の烏毛虫を集め蟲毒を行い作り出した式神である。
 もちろん露子はそんなことは知らない。
 童子を露子は引き剥がせない。
 童子とは思えないほど腕の力が強い。
 女の身では無理だった。
 露子と緑髪の童子はそのまま揉み合う。
 しかし駆け付けた黒丸が露子から童子を抱え、引き剥がした。
 そのまま時が過ぎる。
 唖然とする露子の前で黒丸と童子は触れ合ったままである。
 何かを話しているようにも見えた。
 触覚が動く。
 上。
 下。
 左。
 右。
 せわしくなく動く。
 やがて会話でも終わったのか、童子はこちらを向いた。
「黒丸が良いのなら、それでいい」
 ばつが悪そうにぼそりと言った。
 童子と黒丸の間で意思が通じたようである。
「わたしは、リグル……」
「りぐる」
 名乗ったと同時に、リグルに地面にへたり込む。
 張り詰めた糸が切れたかのようだった。
 露子は不安げに覗き込む。
 また瞳が閉じられている。
 眠りか気絶かは知れないが、リグルは意識を手放していた。




 水の滴る音が聞こえる。
 ひんやりとした水気が顔に当てられるのリグルは感じた。
 ゆっくりとリグルはまぶたを上げる。
 リグルは布団の中に寝かされているようであった。
 額には湿らせた布がのっている。
「起きたのね。倒れたままにはしておけなかったから」
 声をかけたのは露子であった。
 意識をなくしたリグルを平安京の屋敷まで連れ帰ったのである。
「大丈夫」
 そう言ってリグルは起き上がろうとするが、途端に目の前の光景が歪む。
 どうやら大丈夫ではないらしい。
「寝ていればいいの、りぐる」
 しぶしぶ背中を布団に預ける。
 露子はリグルの顔に布を当てた。
 汗を拭っているのである。
「黒丸が恨みを持ってないと分かったから、もう手出しはしない。それにあなたが 蟲毒をやった訳ではないのね」
 リグルは露子を見ながら言った。
 先ほどの激情はすでに消えている。
 黒丸の心根に触れたからである。
 蟲毒の法で作られたものは大抵、深い恨みを持つ。
 黒丸が露子を恨んでいるのなら、リグルは露子を殺していたかも知れない。
 だが、かの赤蚕蟲・黒丸に荒れ狂う恨みの情はない。
 リグルが触れたのは澄んだ水面のような、静けさだった。
 赤蚕蟲とは元々、飼い主の心がその性質を作り出す式神である。
 どのようにでも醜く、または美しくなるのだ。
 黒丸は露子のうしろに座っている。
 屋敷の中なので、蝶の眼の如き双眸と光の散りばめられたかのような輝く翅は、隠されていない。
 リグルは首だけを回し周囲を見る。
 おかしな箱が隅の方に何個か置いてあった。
 大きな箱ではない。
 片手で十分に運べるくらいである。
 四角い枠に木の板が載せられ、周りには薄手の布が張られている。
 あれはなんだろう、とリグルが思っていると黒丸が箱を持ち上げる。
 そのままこちらに歩いてきた。
 黒丸は布団のそばの文机に箱を置く。
 リグルはゆっくりと上半身だけを起こす。
 今度は大丈夫なようである。
 薄い布に透ける中をリグルは覗き込む。
 烏毛虫(かわむし)が一匹、中にいた。
 入れられている草や葉を食んでいる。
「これはどんなぶんぶんになるのかしら」
「……どんなのだろうねえ」
 リグルはそれがどんな虫になるか知っていたが、口には出さなかった。
 露子がそれを楽しみにしているようであったから。
 人の楽しみをわざわざ壊すことはない。
 リグルはそっと箱の中を見る露子を見た。
 無邪気に慈しむ表情。
 リグルは蟲の化生である。
 人の生より遥かに長いそれを生きている。
 その中で蝶だけを愛でる姫をリグルはこれまでにたくさん見てきた。
 しかし烏毛虫をも愛でる姫を見たことはなかった。
 ――おかしな姫君。
 リグルは視線を文机の上の紙束に移した。
 手を伸ばせば届きそうである。
 手を伸ばした。
 それは絵であった。
 りぐる、と仮名文字で記され、リグルの顔と全身が筆で描かれている。
「わたしが描いたのよ」
 露子が言った。
 他の紙にもそのようなものが描かれている。
 黒丸、水ぶんぶんなどと名前が記されている。
 どうやら露子の興味を引くものを描き残しているらしい。
 しばしリグルは絵を見つめた。
 色は塗られていないが、頭から飛び出す触覚がリグルだと主張している。
 水面に映った顔を見たことはあるが、自身を絵にされたのは初めてである。
 それがリグルには妙に嬉しい。
 リグルはそのまま絵を眺め続けた
 廊下を歩く音がだんだんと近づいてくる。
 ここは露子の父橘実之の屋敷である。
 このように堂々と露子の奥間へと入るのは実之しかいない。
「露子や、先ほどから声がするが、まさか誰かいるのかい?」
 やはり橘実之であった。
 狩衣を着た人の良さそうな顔の中年の男である。
 露子には色々思うところがあるものの、甘い。
 半ば虫などの生き物を飼うのも許している。
 露子は無断で連れ込むことも多いため、もう大抵のものでは驚かないと実之は自負していた。
 しかし実之は露子の部屋に入り、驚愕した。
 寝具の中に、見慣れぬ童子がいたからである。
 いや人ではない。
 頭から二本の触覚が出ている。
 娘がついに魔の者にたぶらかされたか、と実之は思った。
 太刀に手をかけようとしたが、ここは屋敷の中である。
 太刀など身に付けていない。
「そ、その者はなんだ? 露子よ」
「りぐるよ」
「り、りぐる?」
 実之の声に狼狽が現れている。
「この子の名前よ」
「りぐる、というのか」
 まじまじと実之はリグルと呼ばれた童子を見る。
 よく見ると髪の色と触覚以外は人と大して変わらない。
 むしろ黒丸よりも、人に近い。
 それに露子にはたぶらかされたようすはない。
 実之は落ち着きを取り戻した。
「露子や、この子をどうするつもりだね」
「気分が優れないみたいなの。良くなるまでここに居てもらおうと思うのだけど」
「いかん、いかんぞ。屋敷でおかしなものを飼っていると噂になってしまうよ」
「もうなっているわ。それに人の噂を気にしていたら、何もできないのよ」
 露子は微笑しながら言った。
 噂になっているのは本当である。
 露子は自身がむしめづる姫、あるいはむし姫と噂されていることを知っている。
「ねえお父さま、ならばこの子に聞いてみましょう」
 成り行きを見守っていたリグルは突然話を振られた。
 リグルは少し考えたのち帰ろうと思った。
 露子はなかなか面白い人間である。
 それに露子の描いた絵はもっと見ていたかった。
 しかしここは平安の都、しかも貴族邸である。
 陰陽寮の陰陽師に見つかったら調伏されてしまうかも知れない。
 リグルは立ち上がろうとした。
 両腕と下半身に力を込める。
 途端に目の前の風景が揺らぐ。
 何度やろうとも変わらない。
 下半身を起こそうとすると、どうしても眩暈に襲われる。
「……だめみたい」
 リグルは仕方なく横になった。
「むう」
 実之が唸る。
 リグルとやらは、帰ろうとする気はある。
 ならばそこまで療養させても良いのではないかと実之は思った。
 下手に陰陽師を呼んで、恨みを貰っては敵わない。
「仕方ない。露子、良くなったら引き止めてはいけないよ」
「ありがとう。お父さま」
 実之はそれだけ言うと踵を返し出ていった。
「りぐる、もう休んだ方がいいわ」
 その言葉にリグルは素直に従い目を閉じた。
 目を閉じる寸前に外を見る。
 夜気が降りてきている。
 余程の疲労があったのか、リグルが睡魔に飲まれるのは早かった。




 リグルが橘実之の屋敷で療養を始めてから十日は経とうとしている。
 露子とリグルはその間さまざまなことを話した。
 むしのこと。
 草花のこと。
 書物のこと。
 内裏のこと。
 遠国のこと。
 百鬼のこと。
 さまざまなことである。
 ときには露子が楽器を演奏し、リグルにそれを教えたりもする。
 露子とリグルは次第に打ち解けていった。
 しかし、リグルの体は一向に良くなる気配がない。
 しっかりと食を取り、体を休めているにも関わらずである。
 一度など実之が秘密裏に医術の心得のある者を呼んだのだが、まるで効果がない。
 それどころか次第にリグルの生気が薄れていくようであった。
「ふむ、それがこれまでの経緯ですね」
「そうよ、晴明さま」
 橘実之の屋敷には安倍晴明が訪れていた。
 やはり、と言うべきか源博雅も一緒である。
 露子がリグルの身を案じて晴明を呼んだのである。
 初めリグルは晴明と会うのを嫌がっていた。
 しかし露子と黒丸がそこに立ち会うことで、リグルはようやく了解したのである。
 露子と晴明、博雅は平安の男女にしては珍しく、関係を持たない顔見知りである。
 晴明は平然としているのに対し、博雅はどことなく居心地が悪そうに見える。
 妙齢の女人である露子と直接顔を合わせるのに、まだ慣れていないのだ。
 いやもしかしたらいつまでも博雅が慣れることはないかも知れない。
 ――それが博雅さまの良いところでもあるのだけど。
 露子は晴明と博雅の違いに、顔にはあまり出さぬように小さく微笑んだ。
「お話は分かりました。ときにりぐるさま、ここ最近どこかで呪などを掛けられたことはないでしょうか」
 晴明はおもむろにリグルに尋ねた。
「呪?」
「呪にございます」
 晴明はリグルを見ただけである。
 しかしすでに何かを確信しているらしい。
「りぐるさまには、強力な呪が掛っているのです。何か心当たりなどはございませんか」
「心当たりね」
「どこかで法師なり陰陽師なりと話しませんでしたか」
 晴明の問にリグルは考え込む。
 そして何かを思いついたのか、口を開いた。
「愛宕山……愛宕山で、羊猿法師と名乗る老人と会ったわ」
「羊猿法師ですか。なるほど――やはり」
 晴明は羊猿法師とやらに心当たりがあるようだった。
 懐から札を取り出すと、何やら呪文を晴明はつぶやく。
 すると札は自然に折り曲がっていき、最後には小さな龍をとなった。
「りぐるさま。これよりあなたの髪にこの龍を放ちます。少しの間、辛抱なさりませ」
 ふっと晴明は龍に息を吹きかける。
 それだけで龍は浮き身をくねらせる。
「おう、まるで生きているようではないか」
 博雅が声に出して驚く。
 小さな紙の龍は今にも雷を呼び、天に昇るかのように宙を泳いでいる。
「いきなさい」
 晴明の声に従って小龍はリグルの頭に取りつき、顔を髪の中に潜らせる。
 リグルはむずがゆそうな顔をしている。
 一同はそのようすを静かに見守った。
 やがて龍は顔を出し、晴明の元に戻った。
 龍の口元には蠢く細長いものが咥えられている。
 細長いものを手で押さえつけると龍は丸呑みにし、動かなくなった。
 晴明は紙の龍をつまむと懐にしまい込む。
「これで大丈夫でしょう。呪の元は取り除きました」
 言われてリグルは気が付いた。
 これまであった体の重さが、今はなくなっていた。
 



「そろそろ、いくよ」
 リグルは露子に声をかけた。
 夜の気配が迫っている。
 東には月が昇り始めている。
 リグルの体は急速に生気を取り戻していた。
 もう空へ舞うこともできる。
「そうね……お引き留めしてはいけないわ」
「――うん」
 リグルは人の中で暮らした十日間を思い返す
 起き上がることはできず、ずっと露子と話していただけであったけれど。
 リグルの知らない歌や噂や物語、それに露子の楽器の演奏は面白い。
 歌の詠み方も初めて知った。
 人の世界とは、思っていたのとまた違って、楽しいものであった。
 けれど、人には人の、化生には化生の相応しい場所がある。
 リグルは蟲の化生として、蟲の王として陰態の中で生きる。
 リグルがリグルであるために。
「ねえ露子、空を――飛びたくない?」
 リグルはふと思った。露子への恩返しをしよう、と。
 今なら出来るはずである。
「空を、そうね。飛んでみたいわ。ぶんぶんのようにね」
 露子は今は水干姿である。
 楽だと言う理由で着ている。
「来て」
 リグルは露子を呼んだ。
 露子の手を握る。
 途端に露子は身が軽くなったように感じた。
 いや、実際に浮いているのだ。
 リグルは浮かび上がると、露子を背中にから抱きかかえた。
 密着したまま、高く高く上がり始める。
「おいで黒丸」
 露子が黒丸を呼ぶ。
 さあっと黒丸は蝶の翅を広げ、はばたく。
 リグルと露子のうしろを付かず離れずに飛ぶ。
 昇る昇る、天へと昇る。
 下を見ると見事に四角く形どられた平安京が見渡せる。
 露子は風を肌に感じた。
 かなりの速さのはずなのに、暴れ狂うような風は感じない。
 静かに吹き付ける風である。
 まるで何か目に見えぬものに守られているようである。
「あら、こんなぶんぶん見たことないわ」
 いつの間にか、周囲には見たこともない蟲が無数に飛び交っている。
 一つ一つは淡く薄い、遮れば消えてしまうかのような光を放っている。
 しかしそれが夥しい数なので、光は消えない。
 以前に見た二百六十二匹の黄金虫を、さらに際限なく増やせばこのような光景になるかも知れない。
 リグルを、露子を取り巻くように蝶たちは舞う。
 黒丸の翅も同じように輝いている。
 空に流れる無限の星屑の河を泳いでいるようでもあった。
 露子は目を輝かせている。
「すごいわ、りぐるが呼んだの?」
「うん」
 リグルは陰態の蟲達を現世に透過させていた。
 陰態の蟲は現世では、人の魂の如く輝くのだ。
「何て名前なの?」
「名前は、ないよ。しいていうなら幻想の蟲」
「あら、それでいいじゃない」
「幻想の蟲、――幻想蟲。うん、いいね」
 幻想蟲の塊はさまざまな動きを見せる。
 一つに寄りそったと思うと、次の瞬間には広く散らばるもの。
 細長い線のような、列を作るもの。
 扇を広げるかのように流れるもの。
 あたかも一つの意思に統率されているようである。
 どれほど飛んだろうか、リグルは露子に声をかけた。
「そろそろおりるよ」
 そう言ってリグルはゆっくりと下がっていく。
 数えきれないほどいた蟲も、元から存在していなかったかのように消えていく。
 やがて露子とリグルは屋敷の庭に降り立った。
 黒丸はやはり、露子の背後に降りた。
「露子、黒丸、ありがとう」
「――またいらっしゃい」
「いつか、また」
「約束よ」
 露子は笑っている。
 たぶんこの姫君は万物に分け隔てなく、この笑顔を見せるのだ。
 ゆえに曇りなく美しい。
 リグルは宙に浮かぶ。
 振り返らずに空へ。
 東の空へ。



 
 安倍晴明と源博雅は朱雀大路にいた。
 牛車ではなく徒歩である。
 陽は西に近づいているが、初夏であるため暗くはない。
 人の往来もまだ多い。
「陽は西へ、人は地へ、そなたはそなたの主の元へ帰るべし……」
 晴明は呪を唱えたのち、手の上の紙で折られた小さな龍に息を吹きかけた。
 するとまた龍は動き出し、前へ前へと飛んでいく。
 龍は帰る場所を知っているようである。
 そのあとを晴明と博雅は歩いて追っていく。
「晴明よ、あの童子は一体誰だったのだ?」
 博雅が口を開いた。
 屋敷でリグルを目にしたときから気になっていたことである。
「蟲の王さ」
「蟲の王だと」
 博雅は思わず言葉を反復した。
 あの童子が王には博雅は到底見えなかった。
「すべての虫の精が集まったようなものだ。もともとは蛍のようだが、長い年月の末に変じたのだろうさ」
「それが蟲の王か」
「そうさ。中々出会えるものではないぞ。かくいうおれもこの目で見たのは初めてだからな」
 晴明は微笑みながら言った。
 龍は先へ飛んでいる。
 晴明と博雅は朱雀大路を外れ平安京の南へと歩く。
 やがて一軒の廃屋が晴明と博雅の行く手に現れた。
 かつては貴族の屋敷だったようだ。
 しかし今は荒れ果てており、わずかな片鱗しか窺うことはできない。
 博雅は太刀に手をかけた。
 夜盗の類が根城にしているかも知れない。
 晴明と博雅は膝丈まで伸びている草を踏み締め、中に入った。
 屋敷の内部もやはり荒れている。
 畳は所々穴が空き、壁も崩落しているところが多い。
 やがて草が茂る荒れ果てた庭に面した部屋につく。
 そこに一人の老人が座っていた。
 白髪白髭。
 何年も着古したかのような襤褸(ぼろ)を纏っている。
 老人は酒を飲んでいる。
 つまみはない。
「よう晴明、待っておったぞ」
「やはりあなたでしたか、道満殿」
 老人はにぃっと嬉しそうに破顔した。
「おい晴明、ここに道満殿がいるということは、羊猿法師とは……」
「その通りよ。羊猿法師とは蘆屋道満殿のことさ」
 蘆屋道満――陰陽師である。
 しかし晴明のように朝廷に仕える陰陽師ではない。
 在野の陰陽師である。
「まあ座れ」
 道満は晴明と博雅に座るよう促す。
 言われるままに晴明と博雅は腰を降ろした。
「そら」
 道満の掛け声をあげた。
 異形の式神が物影から現れ、晴明と博雅の前に新たな杯を置く。
 道満は酒瓶を取ると杯に酒を注いでいく。
「またお戯れになったのですね」
「そうよ。この道満とて蟲の王を見るのは久方ぶりぞ。新しい式神にでもと思うてな」
「呪を仕掛け頃合いになったら出かけていき頂戴する、という魂胆でしたか」
 道満は手にした杯から酒を飲みほし、手酌でついだ。
 そして飲む。
「そうさ。あの術を解ける者は都にもそうはおらぬ。晴明、保憲、浄蔵、誰が出てくるかと思っておったが、やはり主だったかよ」
「――まだ、続けるのでしょうか」
「いや、もう止めだ。晴明、お主が出てきたからな」
 きっぱりと道満は言い切った。
 所詮道満にとっては余興である。
 賀茂保憲、浄蔵、どちらが出てもやりようがあるが、安倍晴明では少し面倒くさい。
 道満はこんな心境であろうか。
「博雅よ。主の笛を聞かせてくれ。おれは主の笛が好きでなあ」
「わたしもよ」
 突然屋敷の奥間から声が響く。
 女の声である。
 耳に覚えのある声である。
 庭の方に顔を向けていた博雅は驚いて振り向いた。
 いつぞや蓬莱の薬壜の件で出会った異人の女、八雲紫がそこにいた。
 裂け目のようなものから上半身だけを出している。
 口の端を吊り上げ、妖しく笑っていた。
「八雲か。覗き見の好きな女よ」
「これは紫さま。久方ぶりにございます」
 道満と晴明がそれぞれ違った言葉をかける。
「ふふ、道満さま、晴明さま、博雅さま、宴会ですか。ならばわたしも入れて下さいな」
 紫の手には既に愛用の杯が握られている。
「最初から見ておったのであろう、調子の良いことだ」
「まあ良いではありませんか」
 晴明は酒瓶を取り紫の杯に酒をそそぐ。
「まあ良いわ。それよりも博雅よ。笛を頼む」
 そう言われては博雅は断れない。
 と言うより断る理由もない。
 外は大分夜気が降りてきており薄暗い。
 それが荒れた庭に何ともいえぬ趣を醸し出している。
 博雅の笛が静かに夜陰の大気に流れ出る。
 音色はゆっくりと染み渡っていく。
「よい笛じゃ……」
「よい笛ね……」
 ぽつりと道満と紫が洩らす。
「蟲の王が、お帰りになるようだ」
 空を見上げた晴明が言った。
 最初は一つの光点であった。
 流星のようにも見える。
 ただ違うのは、天から地ではなく、地から天へと登ること。
 それが何個にも別れていく。
 夜に染まった平安京の空に、淡い光点が何個も流れている。
 光点は淡い緑の蛍火のようでもあった。
 蛍火たちは平安京の空でさまざまば文様を描き舞い踊る。
 そこまで長い時間ではなかった。
 やがて光は消えて、天に闇が戻る。
 しかし次の瞬間、地上から飛び出した最後の蛍火が東へと一直線に駆けていった。
「――蟲の王、いつか会ってみたいわ」
 紫がつぶやく。
 博雅は蛍火に目を奪われながら、笛を吹き続けていた。





















 白髪の青年は薪ストーブに火をくべる。
 ついで部屋の明かりを灯した。
 名を森近霖之助といった。
 幻想郷の冬は厳しい。
 元々幻想卿は日本の東国に位置している
 さらに最近では寒い冬なる存在が幻想入りしているとも聞く。
 半妖半人の森近霖之助でも身震いがする。
 霖之助の営む古道具屋・香霖堂は冷え切っている。
 霖之助は眼鏡をかけ直した。
 昨日の晩、霧雨魔理沙が店に来たが、かなり色々と品物を引っかき回していったらしい。
 霖之助の覚えている配置と大きく変わっている。
「ふむ」
 特に、古本の類を漁っていったようだ。
 本棚から出された書物が山と積まれている。
 ふと、その中の一冊が霖之助の目に止まった。
 手に取ってみる。
 かなり古いものだ。
 万葉集、古今和歌集、伊勢物語とまではいかないが、源氏物語よりは確実に古い。
 源氏物語の一つ前の時代のものであろう。
 筆者の名は橘実之女(たちばなのさねゆきのむすめ)と記されている。
 霖之助は冊子を開く。
 書式に一定の書き方がない。
 元は一枚一枚が独立していたようだが、のちにまとめられたようである。
 それは絵本のようであった。
 筆でさまざまな動植物が描かれていた。
 筆者が自分で名付けたのか、おかしな名前が並んでいる。
 その外観について気づいたことや思ったことが並べられている。
 中でも虫が多い。
 毛虫が蝶になるまでの過程が描かれているものもある。
 霖之助はパラパラと紙をめくっていく。
 最後に閉じられた紙は取り分け霖之助の注意を引いた。
 りぐる、と記された童子の絵がそこにはあった。
 頭から二本の触覚が伸びているのが、分かりやすい。
 髪色は淡い緑、瞳は深い緑、などということが言葉で並んでいる。
 りぐる、リグル、香霖堂にときおり訪れる蟲の化生がそのような名前である。
 リグルがどれほど生きているか、霖之助は知らない。
 もしや、この絵はリグルを描いたものではないだろうか。
 いつかリグルが訪れたときに、この本を見せてみるのもいいかも知れない。
 どさっと何かの落ちる音が外から聞こえる。
 どうやら屋根に積もった雪が崩れたようだ。
 今日は久々に晴れる。
 霖之助はそんな予感がした。


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