季節は春と夏との境界である。
穀雨を幾ばくか過ぎたあたり、目をやればそこかしこに夏草や、青葉が現れ始めている。
大いに咲き誇っていた八重桜も今では大分散り始めていた。
つい先日までは庭を包んでいた濃密な桜の香りも、今は薄れている。
土御門小路の屋敷。
鬼を住まわせているとまことしやかに囁かれている、安倍晴明の屋敷である。
安倍晴明と源博雅は庭に面した部屋で酒を飲んでいた。
「うまいな」
「うむ」
博雅は酒の味を短く評した。元より博雅という男は言葉を飾ることが少ない。うまければうまい、不味ければ不味いと率直に言う。
「これもまた良いものだな」
二人が飲んでいるのは日本で作られた酒ではない。
色は深く濃い赤であり、甘い果実の匂いを放つ。
唐国の西域、砂の海を渡り、天竺を越えた先の国で作られたものらしい。
大秦と唐国には伝わっている。
嘘か真かその国に行ったことがあるという八雲紫の言葉を借りるのなら、ローマである。
博雅は酒を口に含む。大秦がどのような国か想像もつかない。
しかし心には夢幻の如くその風景が浮かんでくるようであった。
「この酒を見ると、おれは藤原妹紅のことを思い出すのだよ」
わずかに波打つ酒の水面に博雅の顔が写る
杯の中のしばし眺めたのち、博雅は唐突に言った。
杯に満たされているのは血のように深い赤色の酒。
遥か彼方では神の血とも称されるものである。
「蓬莱人の藤原妹紅、か」
「ああ、酒の色が吾妹紅の花の色に見えるのだ。あの方は今もどこかを独りで旅しているのだろうなあ」
「しばらくは藤原秀郷殿の元に留まっていたらしいが、今はもう発ったそうだ」
会いたい人がいる、そう言って出て行ったと秀郷は晴明に語っている。
誰に会いたいかは言わなかった。元より秀郷にも詳しく尋ねる気持ちはない。
平安京に来たときと同じく、夜の間に塀を乗り越えて行ったらしい。
流れる銀の髪が月光に煌めく姿はこの上なく美しい、しみじみと秀郷は語ったのだ。
「時のいや果てまで生きるというのは、どういうことなのだろうな」
「おれにはわからんよ、おそらく蓬莱人以外には誰にもわからない」
「いつか妹紅も流転することなく、ずっと留まれる場所を見つけられるのだろうか」
博雅はそのことを心底願っているような口調である。
「見つかるさ。流転というのなら、おれも、おまえも、人は誰しも流転している。藤原妹紅はそれが只人よりもずっと長いのだよ」
そこまで言うと晴明は杯をあおり、酒を飲みほした。
空の杯を満たすべく、女の姿をした式神が瓶を傾ける。
この式神を青虫と晴明は呼ぶ。
去年の今頃も青虫に酌をしてもらった記憶が博雅にはある。
毎年、この時期になると晴明はよく青虫を使っているのだ。
「ところで、この酒はどこで手に入れたのだ、もしや……」
「博雅の思っている通りさ、八雲紫がつい先日やってきて、置いていったのだよ」
「やはり紫姫か」
博雅の言葉を聞いて、晴明は口元を隠してくっくと笑った。
「おい晴明、笑うなよ」
「いやすまん。しかし八雲紫を紫姫と呼ぶとわな」
「もしや、女ではないのか?」
博雅は首をかしげた。
博雅と八雲紫が初めて出会ったのは富士より高かったころの八ヶ岳である。
あのとき目にした八雲紫は博雅には異人の女に見えた。
確かに人間離れした美しさを持っていたが、それでも女であったはず。
「どうだろうな。男だとか女だとか、そういう区切りは八雲紫には意味を持たないのさ」
「どういうことだ」
「八雲紫は全てが曖昧なのだ。見る者によって女に見えたり、男に見えたり、はたまた鬼に見えたりもするかも知れぬ」
「では晴明、おまえはどのように見えたのだ」
博雅は問いかける。
晴明が言った言葉の中の、鬼に見える、の部分が妙に気になるのだ。
もしや晴明には八雲紫は鬼に見えていたのではないか、そう博雅は思った。
晴明はなかなか答えようとしない。
妖しげな微笑みを浮かべ、焦らすように酒を一口飲み、ようやく晴明は口を開く。
「――女さ」
一呼吸置いて、晴明は一言断言するように声を出した。
「なんだ。ならば姫でもよいではないか」
「まあ、そうだな。八雲紫も面白がるだろうよ、案外喜ぶかも知れぬな」
八雲紫の心を推し量ることは難しい。
理を捻じ曲げる境界の力によって、八雲紫は常に変容している。
出会った一瞬前までとは全くの別人になっている可能性すらある。
どのようにでも慈悲深く、また残酷になれる。それが八雲紫なのだから。
「博雅よ、八雲紫に惚れるなよ。あれは、怖いお方だぞ」
「からかうなよ晴明、おれは惚れてなどおらぬよ」
よせ、と手を振り、博雅は晴明の言を否定する。
そして杯を一気にあおった。
「あら、わたしは惚れられても一向に構いませんのに」
突然女の声が屋敷に響いた。
まず見えたのは黄金の如き長髪である。
ひもの織物によって結ばれた裂け目が宙に開き、八雲紫が上半身を出していた。
「これは紫さま。良い酒をありがとうございます」
「紫姫よ」
手に持った扇で口元を隠し、紫は目だけで笑っている。
何かを楽しむときの悪戯っぽい目だ。
「姫と呼ばれるのもなかなかよいものね。博雅さまもう一度呼んで下さらないかしら」
紫は博雅に顔を近づけ、言った。
「い、いや、しかし……」
博雅は狼狽した。
いざ面と向かって言われると気恥ずかしいものがある。
「ふふ、冗談よ」
近づけていた顔を紫は放す。
「博雅さまは、良い男ね」
「博雅は良い男だ」
紫の言葉に晴明が調子を合わせた。
そして二人で涼しげに微笑んでいる。
これ以上からかわれるのを止めるため、博雅は話題を変えることにした。
元より晴明に相談したいことがあったのだ。
八雲紫もいるが構わないだろうと、博雅は思った。
「そういえば少し前におかしなことがあってなあ」
ついさっき思い出したかのように博雅は口を開く。
「おかしなこと、か」
「おかしなことねえ」
「うむ、つい先日の話なのだがな――」
そして博雅は語り始めた。
清涼殿の一角、殿上間では宿直(とのい)のものたちが集まって、ひそひそと何事か語り合っている。
宿直とは夜の勤務のことである。
帝のおわす夜御殿(よるのおとど)に殿上間はほど近い。
そのため昼夜問わず常に人が詰めている。
しかし特にやることもないため、もっぱら貴族たちの雑談の場となっていた。
すでに日は落ちてかなり経っており、灯火の蝋も幾分短くなっている。
夜に人々が集まって密かに語り合っているのである。某がどこぞの女の元に通っているだとか、近頃の某がこういう失敗をしただとか、比較的下世話な噂話が多い。
源博雅も宿直の一人であった。
他には四人ほどの男がいる。
博雅は会話に加わらず、琵琶の調律をしている。
部屋の隅に置かれている琵琶が鳴らない、務めを終えた者がそう零しているを耳にしたのだ。
それが気になり、放っておけなくなった博雅はつい琵琶の調律をすることにしたのだ。
弦を締めては緩め、指で静かに弾く。何度もそれを繰り返す。
最初は濁っていた音が、次第に浄、浄と澄んでいく。
造りは古いが、それなりに立派な琵琶である。花とも孔雀の羽ともいえる模様が描かれている。
やがて博雅は自身が納得する形で調律を終えた。
そうなると弾いてみたくなるのが博雅という男である。
おあつらえ向きに外は月が明るく、闇というわけではない。
夏に近いが、まだまだ羽虫も多くはない。
他の者に断って博雅は清涼殿からでることにした。
清涼殿の中を博雅は琵琶を抱えて歩いていく。
ちょうど博雅が南庭に差し掛かった頃であった。
恋すてふ……
寂しげな声で詠まれる歌が、仙華門の方から響く。
博雅は立ち止まり、南庭の端によった。
わが名はまだき立ちにけり……
ぼんやりとした人影が南庭を歩いていく。
幽鬼の如く痩せ衰えた人影である。
博雅にも、他の何ものにも目もくれず、歌を詠みながら歩いていく。
人知れずこそ思いそめしか……
全て詠み終わり、紫宸殿の方角へ曲がりながらふっと消えた。
「忠見殿か……」
博雅は小さくつぶやいた。
天徳内裏歌合にて惜敗し死んだ壬生忠見が、鬼となって宮中に現れるのだ。
しかしこれといった悪さもせず、ただ歌を詠むだけである。
そのため調伏もされず、ずっと放って置かれている。
博雅は忠見のことを恐ろしいとは思わない、ただ哀れだとは感じている。
おもむろに博雅は南庭と清涼殿をつなぐ石の段に腰を降ろした。
今日ここで鬼となった忠見と出会ったのも何かの縁である。
南庭で博雅は琵琶を弾くことにした。
浄、浄と音を奏でて弦を弾く。
やがて緩やかに旋律が形作られ、一つの曲となっていく。
濃密な夜気に、波打つ音色が溶け出し、混ざり合い、一つになっていく。
それは後の時代に長慶子と呼ばれる曲である。
天徳内裏歌合のときも博雅は和琴にて長慶子を弾いている。
もしかしたら鬼となる前の壬生忠見もその音色を耳にしているやも知れない。
そのまま博雅は時を忘れて琵琶を奏で続けた。
鬼となった壬生忠見も、どこかで演奏を聞いているのだろうかと思いながら。
やがて東の空が白み始めるころ、博雅は南庭をあとにした。
博雅は宿直が詰める殿上間に帰る。かなり長い間外にいたので、他の者から愚痴の一つでも言われるやも知れない。
しかし博雅が殿上間に近づいても、人の声が全く聞こえてこない。噂好きな宮廷人たちである。話声が絶えることなどあるのだろうか。
博雅は奇妙に思いながらも殿上間に入る。
殿上間が静かな理由は簡単なものであった。宿直の者たちが、誰一人残らず姿を消しているのだ。
「景直殿、友介殿」
博雅は馴染みの宿直の者たち声に出して読んでみるが、一向に返事はない。
早めに職務を切り上げ帰ったのだろうかとも思ったが、殿上間に一人もいなかったことが知れると叱責を受けることは免れない。
書き置きのようなものがないか、探してみたがそれらしきものは見当たらない。
つい先ほどまで宿直の者たちがここに存在していたという印もなく、まるで神隠しのようである。
鬼にでも拐されたかとも思ったが、博雅自身の考えすぎかもしれない。
あれこれ逡巡したのち博雅は一人殿上間に残り、交代の者を待つことにした。
人の居らぬ清涼殿は静かなものである。
この静寂の中で琵琶を弾いてみたいと博雅は思ったが、万が一にも帝の眠りを妨げてはならない。
そのまま何もせず博雅は待った。
あるいはいなくなった者たちも交代前には帰ってくるかと思ったが、結局姿を現すことはなかった。
「確かに引き継いだ。ところで博雅殿、昨夜は神泉苑の辺りが妙に騒がしかったのだが、もしや宴でも行われておったかな」
博雅から引き継ぎを行った貴族は何でもないことのように言った。
「はて、そのようなことは存じませぬ」
博雅の耳にそのような話は入ってはいない。
そもそも神泉苑は清涼殿からはある程度の距離があるので、音は聞こえない。
「案外善女竜王あたりが姿を現していたのかも知れぬよ」
「それはさぞかし美しい光景だったのでしょうなあ」
冗談のように笑いながら貴族は言った。
あいづちをうちながら博雅は善女竜王のことを思い出す。
少し前に博雅は晴明、蝉丸と共に神泉苑を渡って善女竜王の住む湖、天竺の大雪山の北、阿耨達池(あのくだっち)までおもむいた。
そこで神々が舞い踊る宴を目にしたのだ。
博雅もその名前を知る梵天、帝釈天、四天王、十二神将、十二天から、名も知れぬ異国の神々までが天地の至る所でただただ踊り狂う。
天の星々が流れるかのごとく艶やかであった。
それでいて終わってみると一夜の夢の如く儚い宴であった。
貴族方に挨拶をし、博雅は清涼殿を後にする。
そのまま大内裏を出る。
博雅の足は自然に神泉苑に向かっていた。
神泉苑は大内裏の南に接している。
神泉苑は船遊び、狩り場、歌合など、さまざまな行事を執り行う場所である。
しかし朝が早いからか、誰の姿も見受けられない。
博雅は北の門より神泉苑に入った。
森には新たな葉が芽吹きだし、池のほとりからは蛙の鳴き声が響く。
博雅は池にそって歩く。目指しているのは半ば水上に建てられた楼閣である。
神泉苑で宴を行うならば、水上楼閣が一番であろう。
やはりと言うべきか、楼閣の中には宿直の者たちがいた。
しかし起きているものは誰もいない。
皆赤ら顔で高いびきをかいて眠りこけている。
彼らの周りには大小さまざまな杯が散乱している。おおかた酒を飲むのに使ったのであろう。
そこで博雅は気付いた。
楼閣には杯はあるが、酒瓶や瓶子やひとつも見当たらない。
大の大人が何人も揃って酔いつぶれる酒量である。当然かなりの数の酒瓶や瓶子がなくてはおかしい。
思わず博雅は周囲を見渡してみる。
しかしそれらは一つとして、楼閣からは見つからなかった。
酒を飲みながらゆらゆらと語り続けていた博雅は一旦言葉を切った。
晴明と博雅の間には一本の灯火が置かれ、火が入っている。
夜気が落ち始めてそうそうに、紫が裂け目の中から取り出したのだ
光に吸い寄せられて、小さな羽虫が灯火の周りを舞い始めた。
「そういうわけなのだ」
「なるほどな」
「確かに不思議ね」
「あの者たちはなぜ神泉苑で酒宴をしておったのだろう。案外本当に善女竜王に呼ばれたのかも知れぬなあ」
「どうかしら。善女竜王がこちらに来たのは空海阿闍梨(あじゃり)の祈祷の時くらいよ。ただ人が善女竜王の気を惹くとは思えないわ」
それは東寺の空海と西寺の守敏の雨乞いの儀式のことである。
どちらが雨乞いを成功させるかの勝負でもあり、空海が善女竜王を呼び、守敏は敗れた。
以後東寺は栄え、西寺は寂れていった。
百四十年ほど前のことである。
その儀式を八雲紫はその目で見ていた。
唐帰りの空海、唐では鬼と宴をしたという。
紫の興味を惹く面白い人間であった
「知りたいか」
不思議がる博雅を尻目に、晴明は短く言った。
その言葉に博雅と紫の視線が晴明に集中する。
「もしや晴明、何か知っておるのか」
驚いたのは博雅である。
つい二日前のことゆえ、晴明も聞き及んでいないと博雅は思っていたのだ。
「うむ」
「何だ、知っておったのか」
博雅は心持ち残念がるような声で言った。
晴明は博雅の話を最初から知っている、もしくは別口からすでに相談を受けている場合が多いのである。
「拗ねるなよ、博雅。おれはお前の口から聞きたいのさ」
「う、うむ」
「それにおまえが宿直の者たちを見つけたのだろう。おれが知らないことも博雅は見ているさ」
「そのようなものか」
「そのようなものさ。ところで神泉苑の酒宴。あれはな、鬼の仕業さ――」
「鬼だと!」
「鬼……やはり善女竜王ではないのね」
「鬼の宴に招かれた――そう藤原景直殿に相談されたのさ」
晴明は種明かしをするように微笑む。
藤原景直は博雅と共に宿直を行っていた者の一人である。
例に漏れず景直も神泉苑の楼閣で酔い潰れていた。
「博雅が南庭に出て行ったあと、何やら濃い霧に捲かれて、気がついたら神泉苑の楼閣にいた、とのことらしい」
「そのようなことが」
「博雅も南庭におらねば、招かれていたかも知れぬよ」
「なんと」
博雅は晴明の言葉に驚愕した。
一歩間違えば自身も神泉苑の楼閣で酔い潰れていたかもしれないのだ。
博雅の考えがわかったのか、紫は口元を隠しおかしそうに笑う
「楼閣では一人の鬼が酒を飲んでいたそうだ。酒を勧められ、断るわけにもいかず飲み続け、一人二人と潰れていき、最後に残ったのが景直殿さ」
「景直殿は酒豪だからな」
「けれどさしもの景直殿も鬼には勝てぬよ。人が正面から鬼と勝負して勝てる道理はないさ」
「それであのようなことに」
博雅はいびきをかき眠る宿直の者たちを思い出した。
「そして鬼は景直殿にこう言ったのさ。三日後の晩にもう一度神泉苑で酒宴を開くから、酒豪の者を連れてつまみを用意しろ、とな」
「三日後……つまり明日の晩ではないか」
「そうさ、そのことで何とかしてくれるよう、景直殿に頼まれたのだよ」
そこで晴明は口を閉じ、酒を一口あおった。
紅い酒が晴明の唇をさらに艶やかに紅く染める。
「ふむ、で、どうするのだ晴明」
「無論行くのさ。なに色々と方法はある。博雅も共にどうだ」
「む、明日の晩か」
「明日の晩さ」
「おれは酒豪というほどでもないぞ」
「謙遜するなよ、博雅は酒豪さ」
「おれが酒豪というのなら晴明、おまえだってそうだ」
「そうだな、おれも酒豪かも知れぬよ」
「わたしも行くわ。いつ行くかは分からないけれど」
紫が二人の会話に割って入る。
その鬼のことが八雲紫は気になったのだ
「ゆこう」
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
博雅と晴明は神泉苑の水上楼閣に腰を降ろし座っていた。
半ば水の上の建てられた楼閣であるから、神泉苑に造られた池が見下ろせる。
水面には輝く星々や月が写り込み、さながら地上の天のようである。
月は満月の少しあとの十六夜であり、ゆらゆらと水の上で揺らめいている
晴明と博雅の周りには灯火が二つ。灯りはそれだけである。
八雲紫は姿を見せていない。
気まぐれな紫の常である。ひょっこり現れるかもしれないし、結局姿を見せないかも知れない。
二人の周りにはさまざまなつまみが用意されている。
これらは藤原景直が調達したものであり鮎などの焼き魚、瓜などの果実、山菜、餅とやたら多い。景直からのせめてもの気づかいなのかも知れない。
晴明も博雅もつまみに手を付けてはいない。
酒がないからである。
景直の話を聞くに酒は鬼が用意しているのだ。
「景直殿はいらっしゃらないが……どうしたのだ」
「景直殿は鬼に来いとは言われていないからな。つまみを用意してもらった。鬼はどうやら景直殿に執着しているのではないし、これで十分だろうさ。景直殿のお屋敷にも結界をはってある」
「そうか。しかし霧にまかれると気をやってしまうそうだが、大丈夫なのか」
「もうそろそろか。博雅よ、この札を懐に入れておけ」
晴明は文字がびっしりと書き込まれた札を取り出し、博雅に渡す。
札をしげしげと見つめ、博雅は懐に札をしまい込む。
心なしか晴明の札は普段よりも文字が多い気がした。
「始まったぞ」
晴明は楼閣の外を見ながら声をかける。
いつのまにか、外にはうっすらと靄のようなものがかかっている。
それは次第に濃くなっていくように見える。
博雅は二三度瞬きをした。
その間にも靄は濃さを増し、白い濃霧へと変貌していく。
大内裏や外の屋敷は霧に飲まれて、もはや見ることは敵わない。
あたかも米のとぎ汁が何杯も神泉苑に注がれているようである。
数刻の内に水面と天上、双方に映る星も月も完全に隠されてしまった。
一瞬、霧を吹き消すような風が吹いた。
「おやおや、人が萃まらないと思ったら、陰陽師かい」
晴明と博雅の背後から幼い声が響く。
二人は振り返る。
楼閣の欄干には女の童が腰かけて陽気に笑っていた。
愛らしい姿をした女の童である。
しかし童の頭には、大きく尖った角が二つ生えている。
頭の大きさに不釣り合いなほど大きく立派な角である。
まさしく童子は鬼であった。
「大内裏中に結界を張ったのはあんたでしょ。お陰で宴会なのに人が少ないよ」
「いかにも、しかし気ままに人を萃められては困ります故、ご容赦を」
童子姿の鬼は欄干から飛び降りる。
鬼の服に付けられている鎖が揺れ、金属音を立てる。
鬼は晴明と博雅に対面するように座った。
三つの杯に手にした瓢箪から酒を注いでゆく。
清流のように美しく透きとおった酒である。
「わたしは伊吹萃香だよ。見ての通り、鬼さ。あんたのことは知っているよ、安部晴明」
萃香は酒を満たした杯を晴明に手渡す。
そしてもう一つの杯を持ち、博雅の方を見た。
「源博雅だね。朱呑童子から話は聞いているよ。よろしく」
「う、うむ。よろしく頼む」
萃香から杯を受け取り、博雅はうなずく。
朱呑童子とは朱雀門の鬼のことである。
朱雀門にて博雅と共に笛を奏で、互いの笛を交換した鬼である。
鬼の間で自身のことが話されていると思うと、博雅は奇妙な感じがした。
「なかなかの量のつまみだねえ」
「景直殿が用意されたものです」
「景直……ああ前の宴会の時の。うん約束は守られた!」
おもむろに萃香はつまみに手を伸ばす。
餅をつかみ取ると口にほうばった。
「甘いね。久しぶりに餅を食べたよ」
餅を一口食べたあとに萃香は杯の酒を飲みほした。
「酌ならば青虫にやらせましょう」
「そう? ならお願いしようか」
晴明の提案に萃香はうなずく。
「これ伊吹瓢っていうんだよ。これがあれば酒が絶えることないのさ。すごいでしょ」
青虫に萃香は瓢箪を手渡した。
博雅は楼閣に瓶子がなかった理由を今更ながら合点した。
新たに注がれた酒に口をつけ、またつまみにも手を付ける。
何とも豪快な食し方である。
角を除いて、ただの童子にしか見えぬ萃香が大人顔負けの速さで酒を飲んでいく。
博雅はその姿に呆気に取られている。無意識に飲み食いの手も止まった。
「おや、博雅は飲んでないじゃない。鬼の酒が飲めないっていうのか~」
「い、いやそうではない。頂くぞ」
博雅はあらためて酒を口に含む。
強い酒だった。博雅がこれまで飲んだものの中でも、格段に強い。
「これが鬼の酒か……」
「おいしいでしょ。この味は人間には出せないよ」
しかし強いだけではない。
淡麗であり、それでいてなかなかに辛口である。
旨い酒であった。
「うむ、旨い」
「お、博雅も飲める口だね」
その言葉に博雅は晴明の方を見た。
晴明は普段通りわずかな微笑を口元に浮かべ、杯を傾けている。
「さて、伊吹萃香さま。此度の騒動、なぜ起こしたのかお聞かせ願えますでしょうか」
博雅と萃香の取り留めのない会話が一段落したころである。
杯を置くと晴明がおもむろに口を開いたのだ。
「宴にわけを求めるなんて無粋だよ。楽しもうよ」
にへらにへらと目を細めて萃香は笑う。
晴明の言葉を萃香は取り合おうとはしない。
心なしか酒を飲む間隔が早くなっている。
酒に思いを押し流そうとしてるようだ。
わずかな沈黙のあと、唐突に口を開いたのは博雅だった。
「……何かわけがあるのなら、お聞かせ下さい」
「博雅まで、そんなことを気にする。酒が足りてないんじゃないのお」
萃香は青虫から瓢箪を受け取り、博雅の杯に酒を注ごうとする。
それを博雅は手で押しとどめた。
「我らに出来ることならば力をお貸ししましょう」
「力、人が鬼に力を貸すって。もうそこまで人は言えるようになったんだねえ」
高く高く声をあげて萃香は笑う。
成長を喜ぶようでも、悪い冗談を聞いたかのようでもあった。
ひとしきり笑い通したのち、萃香は晴明と博雅を見据えた。
一瞬、萃香の目から酒精が消えたように博雅には見えた。
「いつも、鬼は置いて行かれるんだね」
言葉とともに萃香は楼閣の外に向けて手を振る。
その途端、楼閣を覆い尽くしていた白い濃霧が薄くなっていく。
月が見える。
星が見える。
水面も天上のものも同時に姿を現す。
月光と星光に彩られた夜の神泉苑である。
「もう一度だけ、神々の皆と酒を飲み交わしたい。それがわたしの望みだよ」
平安の御代よりさらに昔々のことである。
まだ幻想と現実が別れてもいなかったころのことである。
伊吹萃香はやはり酒を飲んでいた。
神々と共に酒を飲んでいた。
天手力男と力比べをし、木花咲耶姫と石長姫の姉妹と共に舞い、大国主と酒を飲み交わす。
天岩戸から連綿と連なる神々の宴。
しかし時の流れは確実に現実と幻想を分けていった。
神と鬼と人の距離は少しずつ少しずつ遠くなっていく。
ふと辺りを見回すと萃香の周りに神々は誰一人としていなかった。
どこを探しても、もう神々はいないのだ。
「わたしはもう一度、彼らに会いたい。神泉苑は一度天竺までつながった。だからわたしはここで待つ。天竺に道が開くまで」
萃香は神泉苑の池を通して見たのである。
天竺で神々が戯れる宴を。そこには日本の神々もいた。
そこに萃香は行きたかった。
決して届かぬ天の星と月を夢に見る。
萃香の思いはそれに似ていた。
「あれを――見られていたのですか」
晴明が簡潔に尋ねる。
それは晴明と博雅と蝉丸が、はるかな天竺へと行ったときのことである。
萃香はそれに首肯した。
「大陰陽師安倍晴明でも、もう道は開けないんでしょ。黄金の鱗がないから」
晴明が以前天竺への道を開いたときは、善女竜王の黄金の鱗という道標があった。
だが今はそれがない。
かの空海ですら向こうに行くことはできず、善女竜王を呼び出しただけである。
晴明も道標なしに道を開くことはできないのだ。
「道が開くことは……もはやないでしょう」
晴明は言い切った。
この先、時が進めば進むほど人と神と鬼は離れていく。
近づくことは、もはやあり得ない。
晴明の言葉を耳にした途端、萃香は酒をあおった。
杯に注ぐこともせず、瓢箪に直接口を付けてである。
酒を浴びるように、酒で全てを押し流すように。
「そう、やっぱりそうか。晴明に言われると納得しちゃうなあ」
からからと笑いながら萃香は晴明と博雅の杯に酒をつぎたす。
「飲もうよ。朝までさ」
それは突然始まった。
晴明と博雅と萃香が少人数ながらも、楽しく酒を飲んでいる最中であった。
宙に刃が走ったかのように切れ込みが入り、赤いひもに彩られた裂け目が出現したのだ。
知っている者にはひと目でわかる。
境界を操る八雲紫の隙間である。
ただ裂け目は普段のそれよりも大きい。
「さあ、鬼の宴、幻想の宴の始まりよ」
紫の言葉と共に、裂け目から一人二人と姿を現す。
それは鬼であった。
それは妖しのものであった。
水干をきて笛を持った童の鬼、朱呑童子。
背の高い一本角の女鬼、星熊勇儀。
白ずくめのどことなく蛇を思わせる顔の女、蛟精の白蛇。
唐風の衣装の九尾の狐、八雲藍
鴨川に住まう妖獣、黒川主。
それぞれが名のある鬼や妖しのものである。
彼らの後からも次々と鬼が、妖しのものが裂け目から姿を見せる
それぞれ皆が酒の入った酒瓶や瓶子、杯を手に持ち、あるいは焼き魚や果実、御菓子を持っている。
それはまさしく百鬼夜行であった。
「お、萃香じゃないか。もう宴に来てたのか」
萃香と旧知の仲である勇儀が声をかけ、そのまま横に腰を下ろす。
そして巨大な杯に酒を注ぎ始めた。
鬼や妖しのものはそれぞれ、場所を見つけ座り、酒を飲み騒ぎ出す。
「大人数を集めたものですね、紫さま」
周囲を見回し晴明が紫に尋ねた。
「そうよ。折角の宴なんだもの。人数は多い方がいいじゃない。安心して、誰もあなた達に手を出さぬように言ってあるから。最も安倍晴明と源博雅に手を出す鬼はいないと思うけれどね」
紫はそう言うと従者である藍を呼び、酒の用意をさせた。
「宴の人数が足らないって紫に誘われてね。ここにいるやつらはみんなその口さ」
勇儀が萃香に聞かれてもいないのに説明する。
そのうちに鬼が一人二人と立ち上がり、踊りだす。
はっきり言って下手なのだが、愛嬌のある動作が何ともおかしい。
もっとやれ、だの引っ込め、だの様々な野次が飛び交う。
それを見て萃香も手を叩き笑い出した。
神泉苑の池の水面に映る月や星々が、萃香の目には一層煌めいて見えた。
それこそ天上のものと何ら変わりなく。
確かに天上の月と星には手は届かないかも知れない。
だが地には地の星月がある。
「萃香、幻想郷にいらっしゃい。長い長い時の淵であなたが会いたい方々にも、いつか会えるわ」
「うん、いつかね」
萃香は肯定した。
幻想郷は現実から消えた者たちがいる場所である。
いつか消えた神々とも会えるかも知れない。
「博雅殿、博雅殿の笛を聞かせ願いたい」
ひとしきり時間がたったのち、黒川主が獣の鼻をひくつかせ言った。
「おう、博雅殿。今宵も我らに笛を聞かせてくれぬか」
黒川主の声に反応して、鬼や妖しのものどもの中からも声が上がる。
先ほどまで踊り狂っていた鬼もすでに腰を降ろしている。
「噂の源博雅の笛か。朱呑童子、話は本当なのかい」
勇儀は朱呑童子の肩を小突く。
しかし童の朱呑童子と長身の勇儀。元より体格がかなり違う。
勇儀としては弱くやったつもりであったが、朱呑童子は大きく前につんのめった。
「ありゃ、すまないね」
「……まあ保証しますよ」
博雅は静かに葉二を懐から取り出した。
葉二を口に付け、息を送り込む。
笛の音色が、楼閣に、神泉苑に、百鬼夜行の宴に響き始める。
鬼の宴、幻想の宴は夜が明けるまで続いた。