賀茂保憲の屋敷からはよく猫の鳴き声がする。
みゃあ、と一鳴きだけ聞こえることもあれば、何十匹もの猫が集まっているかのようなかしましいときもある。
ただいくら猫の鳴き声がしても、屋敷の中を猫が闊歩している様子を見た者はほとんどいない。
客人が不思議がって尋ねても、保憲は曖昧に微笑んだまま言葉を濁すのみである。
不思議ではあるが、別段そこまで気にするようなことでもない。
猫が潜むところなど屋敷にはどこにでもあるからである。
それに賀茂保憲は安倍晴明と並び賞される陰陽師である。
晴明の屋敷のように、至る所に式神が潜んでおり、それらが鳴いているのかも知れない。
その日も保憲の屋敷からは猫の鳴き声がしていた。
夜であり、天には欠けることのない満月が昇っている。
庭に面した廊下に座り込みながら賀茂保憲は月を眺め一人酒を飲んでいる。
いや正確には一人ではない。胡座をかいた保憲の足の間に猫が丸くなっている。
保憲の黒い水干に溶け込むかのような、毛並みの美しい漆黒の小さな猫であった。
猫は目を閉じている。見事な明月であるというのにまるで興味がないのか、見ることもしない。
ときおり聞こえる猫の鳴き声に合わせて耳を動かすものの、自らが鳴くことはない。
なかば眠っているようなものである。
ただ保憲が酒を指先に浸して猫の鼻先にもっていけば、目を薄らと開けて赤い舌先を伸ばし指をちろちろと舐める。
杯を持ち口に運ぼうとしたところで保憲はふと手を止めた。
先程まで丸まっていた黒猫が金色の目を大きく開き顔を上げたのだ。
「沙門……?」
沙門と呼ばれた黒猫は返事をするようにみゃあと一声鳴くとすっくと立ち上がる。
保憲の足の間から床へと降り、歩きだした。
天に向かって立つ沙門の長い尾は二つに割れている。
人の一生よりも長い年月を生きた猫が変じるという猫又。
二つに割れた尾は沙門が猫又ということの証である。
数歩歩いたところで沙門は立ち止り、保憲を振り返る。
「そうか、客か」
何やら納得した様子で保憲は杯を置くと立ちあがった。
沙門は保憲を導くように先を歩いていく。
普段は保憲の懐の中に隠れ、自ら動こうとはしない沙門にしては珍しいことである。
式神が開け閉めするふすまを通り、沙門と保憲は屋敷を出る。
閉じられた門の前で沙門は座り込んだ。目は門の閂を見つめており、開け放たれるのを待っているかのようである。
門の傍らにはずんぐりとした式神が立っている。一見すると人のようだが、目には黒目がなく顔がのっぺりとしている。
「開けよ」
保憲が短く命じる、と式神は閂を抜くと門に手をかけた。
ぎぎぎっという音とともに門扉が観音開きに開いていく。
徐々に開けていく保憲の視野に映るのは、月光に照らされ煌めく白く小石の敷き詰められた大路、そしてそこに立つ紫髪の女童であった。
女童はその、病的なまでに白い顔を上げる。憂鬱そうにまぶたが少しだけ上がった二つの目、そして胸に浮かぶ大きな瞳が保憲を見つめる。
見られている、さとりを目にしたときから保憲そう感じていた。二つの目と一つの瞳によって胸の内を全て。
「……賀茂保憲。月見酒を楽しんでいたの? それは悪かったわ……そうよ、あなたの思っている通り、私は妖怪よ」
「覚(さとる)、ですか」
「ええそうよ。」
保憲の言葉を繰り返すかのように、さとりは答えうなずいた。
覚という妖怪がいる。覚は人の心を見て、食らう。
目の前の女童は覚であろうと保憲は思った。
覚と相対するには何も思わない、考えないことが肝要である。かつて安倍晴明も同じやり方で覚を退治している。
「……古明地さとり。私の名よ。あなたの心を食らったりはしないわ。だから心を閉じないで」
「さあて――」
「そう、私があなたの心を食らおうとしているのなら、その子はそんなに落ち着いてはいないのではなくて」
そう言ってさとりは保憲の足元で優雅に座る沙門を示した。
沙門は保憲の式神である。戦上手ではないが主への悪意を見逃すようなことはしない。
座り込んでいた沙門はおもむろに立ちあがるとさとりの足元に駆け寄り、細い足の周りを歩きながら身を寄せつける。
「ほう……」
思わず保憲は息を漏らした。沙門は長い時を生きた猫又だけあって気位が高い。初めての相手に自ら近づいていく稀である。
さとりは足元でじゃれつく沙門を抱き上げた。
沙門は嫌がるそぶりもなくさとりの腕の中に収まっている。
どうやら沙門はさとりのことを好いているようであった。
「いい子ね」
さとりは沙門の頭を軽く撫でる。気持ち良さそうに目を細めて沙門は喉を鳴らした。
その様子を尻目に保憲は口を閉じたまま開いた門の前に手をかざす。
それは一瞬だった。さとりが先程から感じていた目に見えぬ壁のようなものが消えていた。
「いいでしょう。我が屋敷にお入り下さい」
手を下げると保憲はさとりを招待する言葉を紡いだ。
保憲とさとりは屋敷に入った。背後では門の閉まる音がする。
二人が敷居を越えるたびに、背後ではふすまが勝手にしまっていく。
板張りの床へ保憲は腰を下ろした。さとりも保憲の前に座り対面する。
片側が庭に向かって開かれており、室内には月光が入り込んでいる。
それまでさとりの腕に抱かれていた沙門は飛び跳ねると保憲の膝の上に戻った。
「さて、地霊殿の主ともあろう方がこの地上に何用でしょうか」
「あら、知っていたのね。地霊殿を。読めなかったわ」
「心を隠すなど、そこそこの修行を積んだ坊主ならば誰でもできましょう」
「……あなたは賀茂家の陰陽師。できないはずがない。初めから隠していたわけね。心の一部を。」
「用心のためです」
二つの目と一つの瞳の視線を受けながら、澄ました顔で保憲は短く答えた。
「――探してほしいものがあるの」
さとりはとうとうと地上に姿を現した理由を語りだす。
胸の瞳がひとつ、瞬きをした。
安倍晴明と源博雅は庭に面した板の間で酒を飲んでいる。
晴明の屋敷の庭は一見すると荒れ放題であり廃寺のようでもある。
しかしその中にも調和というものがありただ荒れているだけではない。
四季折々によって姿を変える。それを晴明は気に入っているようであった。
以前博雅は人でも式神でもいいから庭に手を入れてみたらどうだといったが、晴明はのらりくらりとはぐらかしてしまった。
博雅の屋敷の庭に手を加えずにおくとただの荒れた庭になってしまう。
見えないところで何かの力が働いているのかもしれないと、博雅は酒を口に運びながら考えていた。
日は傾きだしているが、暗いというほどではないく灯火は付けられていない。
酒を飲んでいる、と先に書いたが二人の手の動きは普段より遅い。
手を付けられていない杯が一つ床に置いてある。
それはこの場に博雅以外の客が訪れることを示しおり、博雅にはそれが気になっていたのである。
「なあ晴明、誰が来るのだ?」
「この杯のことか」
晴明は手を休めて空の二つの杯を示した。
「おれも会ったことはない。ただ近い性質のものには、会ったことがあるとも言えるな」
「近い性質のもの、か」
「うむ」
それから少しの間、晴明と博雅はとりとめもないことを話しながら酒を飲んでいた。
「なあ晴明。おまえあの話をもう聞いたか?」
「あの話とは、何だ」
「死人がな、動くそうなのだよ」
「死人が、か……少し待て、博雅」
そういったところで晴明は静かに手に持った杯を置いた。博雅が続けて話そうとするのを遮る。
登り始めた月は満月が多少欠けた十六夜の月であり、まだ薄らと見える程度である。このまま夜気が深まっても火を灯す必要はないと思われた。
日はさらに傾きだしているが、まだ完全には沈んでいない。
「いらっしゃったか」
「もしや客か」
「うむ、その話はあとにした方がいいだろう。その方が早く済む」
晴明の言葉を聞き、博雅も杯を置く。
庭で紫花を咲かせる藤の木の下にいつの間にか唐風の衣装をきた女が立っている。
晴明の使う式神、蜜虫である。
「お通ししなさい」
晴明の言葉に蜜虫ははいと返事をすると、藤の花が風に吹かれるかのように儚く姿を消した。
しばらくして蜜虫は再び姿を現した。徒歩であり、後ろには猫を抱いた女童を連れている。
「お待ちしておりました」
艶やかな微笑を口元に浮かべながら、晴明は言葉を返した。
「安倍晴明さまと、そちらは源博雅さまと言うのね。わたしは古明地さとり」
さとりは蜜虫の前に出て、晴明と博雅の顔を二つの目と一つの瞳で眺めたのちそう言った。
「名を知っているのですか」
これまでにさとりと博雅は会ったことはなく、言葉も交わしていない。にもかかわらずさとりは博雅の名前を今しがた聞いたような様子で口に出した。
「誰かの使い? いいえ、私は誰の使いではないし、式神でもないわ」
さとりの言葉に博雅は驚いた。さきほどまで心の内で思っていたようなことを、さとりが口に出しているのだ。
「人ではない? そうね、そこは当たっているわ」
さとりの言葉は博雅の考えていることを的確についていく。心の内が見られているようだった。
「覚(さとる)? ええその通りよ」
博雅はこの力に心当たりがあった。
以前都で何人かの貴族が気を病むということがあったのだ。
心を食う、覚という妖怪の仕業であった。
そこで晴明と博雅は五条大路と六条大路の間の荒れた道観にて、覚を退治している。
「わたしは心を食べないわ。覚は覚でも一緒にしないで」
「博雅に呪をかけるのは、そこまでにしておいてくれませんか」
晴明がさとりの言葉を止めた。さとりの言葉で博雅はだんだんと深みにはまりだしている。
「……そういうつもりはないのだけど」
「心を見るあなたの言葉は、人にとって十分な呪になりえるのですよ」
もっとも短い呪とは名前であり、それは言葉によってかけられる。さとりが心の内を見てそれを言葉にして言い当てる。
それに反応した時点でさとりと人の間には因果が結ばれるのだ。
「そうね」
博雅から視線を外して、さとりは言った。
眉を越えて両目に半ばかかるさとりの前髪を、一陣の風が揺らす。
気だるげにまぶたの上がった瞳が、晴明と博雅を見ていた。
古明地さとりは晴明の横に座っている。
手前には杯が置かれているが手を付けていない。
蜜虫が初めに酒を注ぎにきたときに、礼儀として一口飲んだきりである。
座り込んだ足の上で眠る猫に片手を添え、もう片手で猫をゆっくり撫でている。
艶やかな黒い毛並みが揺れる。それが気持ちいいのだろうか、猫はときおり喉をならした。
「もしや、それは賀茂保憲殿の猫ではありませんか」
おずおずと博雅はさとりに尋ねた。
さとりのひざ元で眠る漆黒の猫に博雅は見覚えがあったのだ。
どこで見たのだろうかと博雅は思い返してたが、先程ようやく思い至ったのである。
以前保憲とともに酒を飲んだ際、保憲の指から酒を舐める小さな黒猫の姿を。
「保憲さまの式、沙門よ。連れていけ、と」
さとりの声を肯定するように沙門はみゃあと短く鳴いた。
「では保憲殿は?」
「高野よ。どうしても行かねばならないからと、沙門を残して行ったわ……案外薄情な方ね」
「あの男の命でしょう。保憲さまとて従わぬ訳にはいきません。保憲さまはあれで面倒臭がりなところがありますから」
晴明は苦笑いのように、それでいて面白がっているように微笑む。
「沙門を残したのは保憲さまにも思うところがあったのでしょう」
「おい、晴明また帝をあの男などと」
博雅は晴明を諌めた。博雅自身、晴明が帝をあの男などと呼ぶのはいつものことだと知っているが、どうしてもその都度こう言わずにはおれない。
「あの男、ああ帝のことね。」
一人で納得したようにさとりはうなづいた。心が読めないとこういうときはどうしても察しが悪くなる。
「さて、さとりさま。保憲さまからお話を伺いました――なんでも猫を探しているとか」
「猫?」
思わず博雅は口に出した。
博雅が思っていたことを全く違ったからである。まさかさとりがわざわざ保憲、そして晴明を訪ねたのは猫を探すためであったとは思いもしない。
しかし晴明とさとりは平然としているため博雅の聞き間違えではないらしい。
「ええ、猫よ。この子みたいな、ね」
そう言いながらさとりは膝の上の沙門に手を置いた。
「もっともこの子のような猫又ではないけれど」
「あなたの力なら失せ物くらい簡単に見つけ出せるのでは」
「……わたしの力はそこまで強くないわ。それに、ここは人が多すぎる」
さとりはこの目で見た都で暮らす人々を思い出した。身分や立場は違うがさとりにとってはそんなことは関係がない。ただ人が多いだけである。
動物や植物ならば問題はない。ただ人だけは違う。人の心はねじれ絡み合っており、多ければ多いほど読みにくくなるのだ。
「さて博雅。さきほどの続きを頼む」
「さきほどの話?」
晴明と博雅の話していることに見当がつかないのか、さとりは首をかしげた。
「博雅がある話を持ってきたのですよ。博雅、その話には猫が出てくるのだろう」
「よくわかったな晴明」
「おれも、ただ座っているだけではないからな」
あいまいな言葉とともに晴明は微笑む。
「死人が動く、というのは晴明には話したな。その死人だが――猫が引き連れているのだよ」
博雅は一拍置いて口を開く。そしてとうとうと語り始めた。
それを初めに見たのは忠明という名の検非違使の若者であった。
検非違使とは平安京の治安維持を司る役職である。ゆえに日が沈んでからも外を歩き回ることがある。
その日もそうであった。平安京の南、朱雀大路にほど近い針小路の油屋が盗人に押し入られたのである。
忠明が到着した際には家人は皆切られており、金品がなくなっていた。
屋敷の所々に血だまりが出来ており目を背けたくなるような凄惨な有様である。
刀を抜き放ち屋敷に足を踏み入れた忠明であったが、一時ののちすぐに刀を鞘に納めた。
すでに盗人どもは逃げ出しており、屋敷からは人の気配は全く感じられない。
小路には刀から垂れたのか血がてんてんと垂れている。
しかし盗人が刀を拭ったのだろうか、すぐに血の跡は途切れてしまっていた。
こうなっては盗人を追うなどできようもない。それに屋敷に残る足跡は明らかに複数であった。
忠明一人では返り討ちにされる恐れもある。故に忠明は他の検非違使が来るのを油屋にて待つことにした。
「ちぇ」
忠明は今も屋敷に残る家人の死体を見降ろした。
検非違使の仕事の一つに死体の片づけというものがある。だから死体は見慣れており、忠明も今となっては大きな感慨は湧かない。
しかし気分のいいものではない。
ただ死体の片づけは大仕事である。鳥辺野や化野など平安京の外の葬送地に運ばなければならない。
忠明一人で行うことはできず、夜明けを待って行われる。
忠明は屋敷から庭に出た。屋敷の中にこもる血の臭いから逃れたかった。
ひとつ呼気を吐く。
上天から大きく傾きだした月を忠明は眺める。未だ仲間の検非違使は来ない。
不意に忠明はにゃあ、という鳴き声を聞いた。
「猫?」
周りを見渡すが、猫などいない。
と、そのときである。油屋の屋敷の中で、ずるずると何かが動く音を忠明は耳にした。
忠明は月から屋敷へと視線を移した。刀をするりと鞘から引き抜く。
もしや盗人が戻ってきたのかもしれない。
屋敷へと忠明は一歩一歩音を立てずに近づく。
屋敷の中からは明らかに何かが動く音がしていた。
月の光が陰る中を忠明は目を凝らす。
人影が動いていた。だが手足の動きがぎこちなくどこか不自然である。
刀を振り上げ、切りかかろうとしたところで忠明は止まった。
動いていたのは油屋の家人であった。
しかし忠明はさきほど全ての者の生死を確かめたはずである。生きているはずがない。
だが忠明の目の前を死人は糸に繰られる人形のように歩いていく。
茫然と忠明は立ちつくした。
にゃあという鳴き声が忠明の耳に入る。また猫の声がした。
我に返った忠明は死人を追いかけ、屋敷から出た。
針小路の先を死人が歩いていく。その先は朱雀大路へとつながっている。
肩にかけた弓を外して、手に矢を一本持つ。
すぐにでも矢を放てるようにするとそのまま朱雀大路へと忠明は進んだ。
忠明の目に入ったのは宙を舞う青白い鬼火である。
無数の鬼火が朱雀大路を舞っている。
ぼうっとした鬼火に照らされて、闇から浮かび上っているものがあった。
それは人の列である。何人もの死人の群れが行列を作り朱雀大路を歩いているのだ。
死んですぐの者。
腐敗が進んでいる者。
様々である。共通しているのはすでに命を失った者たちだということだけである。
ぎこちなく体を動かしながら死人たちは朱雀大路を南へ、羅城門の方へと下っていく。
忠明は狩衣の襟に縫いこんだ尊勝陀羅尼の札に気をやった。
尊勝陀羅尼の霊験か、はたまた死人たちは初めからこちらに関心がないのか、忠明には目もくれずに歩いていく。
またしても、猫の鳴き声がした。死人の群れの先から聞こえてくる。
何とも美しい猫であった。流れるような黒い毛並みに炎のような赤がところどころに混じっている。
小さな猫が死人の先に立って四足で歩いているのだ。
猫が歩けば、そのあとを死人の群れがついていく。どうやら死人たちは猫に連れられているらしい。
忠明は思わず息を飲んだ。
検非違使という役職についているため、いつかは怪異に会うとは覚悟していた。 襟の尊勝陀羅尼の縫いこみもそのためである。
死人の群れの先を行く猫がこの怪異の正体であろう、と忠明は思った。弓を握る右手が自然に力んだ。左手に持った矢をつがえる。
おもむろに忠明は狩衣の襟を裂き、縫いこまれていた札を取り出した。尊勝陀羅尼の書かれた札である。それを忠明は矢じりに刺した。
弓をきりきりと引き分ける。矢じりに見えるのは墨で書かれた尊勝陀羅尼。
羅城門の方角を目指す猫を、忠明は見据えた。忠明にとって弓は得手である。万に一つも外すことはない。
「やめておけ……」
不意に忠明の耳元にどこからともなく人の声がかかった。
地の底から響きあがるような声である。
聞こえてくる、というより忠明の耳を直接震わしている。そんな声であった。
驚いたのは忠明である。張りつめた弦を緩め、弓を下げる。
「あれはわしの使いぞ。お主に害は与えぬわ」
忠明は周りを見回した。しかし夜の闇の中に人が潜んでいる気配はない。
ただしゃがれた声だけが響く。
「誰か、という顔をしておるな」
かすかに笑いを含んだ口調で、声が響く。
忠明は不快そうに顔をしかめた。
「まあそんあことはどうでもよかろう。それよりも、だ――お主、今その札を失くせば、命はないぞ」
「なに」
姿を見せぬ声の言うことに驚き、思わず忠明は声をあげた。
「子の方角を見よ」
忠明はこれまで羅城門の方を、つまり南の方角を向いていた。
声の通りに子の方角、つまり北を向く。
「おうおう、死人に惹かれて集まってきおったわ」
その光景に似つかわしくない、いかにも楽しげな声が忠明の耳に響く。
巨大な頭をした法師。
蛇の体に人の頭をもつもの。
角が生えているもの。
様々である。それら異形の者たちが楽しげに、走り回るような、踊り狂うような、おかしな動きでこちらにやってくるのである。
死人の行列とは違う、正真正銘の百鬼夜行であった。
「その尊勝陀羅尼、失くせば命はないぞ」
声が再び繰り返す。
忠明は矢じりから尊勝陀羅尼の札を取り外し、狩衣の胸の内に仕舞い込んだ。
「それでよい……声を立てず、下がっておれ」
それっきり姿なきしゃがれた声は途絶えた。
やがて百鬼夜行が忠明の前を通り過ぎていく。
物が腐ったような嫌な臭いが忠明の鼻をつく。
これが噂に聞く瘴気だろうか、と忠明は思った。
鬼たちは忠明に目もくれなかった。忠明がいることに気づいていないらしい。
もうじき夜が明けようとしている。
あの黒猫も、死人の群れも、鬼たちも、もうどこにもいなかった。
太陽が昇る直前である。にゃあ、という猫の鳴き声が忠明には聞こえた気がした。