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No.8720の一覧
[0] 海のお話(仮想戦記)[Gir.](2010/01/27 13:07)
[1] 一九三三年三月 台湾・高雄南方沖合 300km[Gir.](2009/05/13 16:28)
[2] 一九三二年四月 ドイツ・ベルリン市街(1)[Gir.](2009/05/13 19:33)
[3] 一九三二年四月 ドイツ・ベルリン市街(2)[Gir.](2009/05/20 14:14)
[4] 一九三三年三月 ワシントンDC・ホワイトハウス[Gir.](2009/05/27 12:46)
[5] 一九三三年三月 満州・哈爾浜[Gir.](2009/05/27 19:13)
[6] 一九三三年三月 台湾・高雄南方沖合 350km(1)[Gir.](2009/06/03 12:37)
[7] 一九三三年三月 台湾・高雄南方沖合 350km(2)[Gir.](2009/06/03 12:38)
[8] 一九三三年三月 台湾・高雄南方沖合 350km(3)[Gir.](2009/06/03 12:39)
[9] 一九三三年三月 台湾・高雄南方沖合 350km(4)[Gir.](2009/06/03 12:40)
[10] 一九三三年四-五月[Gir.](2009/06/10 12:46)
[11] 一九三三年四月 日本・横浜[Gir.](2009/06/16 19:34)
[12] 一九三三年五月一〇日二〇〇〇、ワシントンDC[Gir.](2009/06/16 19:35)
[13] 一九三三年五月二五日一〇〇〇、横須賀沖50km[Gir.](2009/06/24 19:50)
[14] 一九三三年五月二七日一七〇〇、東京沖南南東390km[Gir.](2009/06/24 19:51)
[15] 一九三三年五月二八日〇六〇〇・常陸沖100km[Gir.](2009/06/24 19:52)
[16] 一九三三年五月二八日一八三〇・東京南方380km[Gir.](2009/06/24 19:53)
[17] 一九三三年六月 欧州パリ郊外[Gir.](2009/07/01 12:47)
[18] 一九三三年七月七日 ハワイ東南方二〇〇キロ『太平洋回廊』[Gir.](2009/07/08 12:43)
[19] 一九三三年七月 ワシントン[Gir.](2009/07/15 17:00)
[20] 一九三三年八月 ワシントン[Gir.](2009/07/22 12:44)
[21] 一九三三年八月 ベルリン[Gir.](2009/07/29 12:43)
[22] 一九三三年九月 哈爾浜[Gir.](2009/08/05 12:47)
[23] 一九三三年九月 ワシントン[Gir.](2009/08/12 14:23)
[24] 一九三三年一〇月 横浜[Gir.](2010/01/20 14:10)
[25] 一九三三年一〇月一三日 グアム北方300km(1)[Gir.](2010/01/27 12:44)
[26] 一九三三年一〇月一三日 グアム北方300km(2)[Gir.](2010/03/10 16:39)
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[8720] 一九三二年四月 ドイツ・ベルリン市街(1)
Name: Gir.◆ee15fcde ID:29604bc7 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/05/13 19:33
「やはり、欧州は寒い……」

 日本帝国海軍中尉・高野京也は、日本人的にはこれ以上もないほどと感じられる広々とした部屋で、一九三二年欧州の春を味わい尽くしていた。
 彼がここにいる理由は、直接的にはドイツ第二帝国駐在員としての役割を果たすためだ。勿論、合法・非合法を問わずに……、とまでは行かないが、この国で見聞した何かを祖国に伝えるという役目である。
 何しろ、世界大戦グレート・ウォーでは、日本帝国海軍が手本とした英国大艦隊グランド・フリート相手に向こうを張った大国だ。正直、英国との戦争が一九一七年以前であれば、あそこまで頑張れたか怪しいとは思うが、実際には最後まで主導権を握っていたのはドイツ海軍だった。全てが日本帝国に取り、得難い何かだと思って間違いない。

「どうかしました、キョーヤ?」

 こちらの滞在先に雇われている侍女の声。ドイツ人らしい硬質な発音。しかし、彼女が発すると貴石が奏でるなにかだ。外地と言う事で色々な誘惑も多いことであるが、これは筆頭ではないかと思う。
 白銀の燦めきを持つ髪。どこか作り物めいた頤(おとがい)。均整とれた肢体は腰回りで引き締められた振幅激しい曲線で形作られていた。
 それでもこちらで世話になり始めた当初見せていた、多くの女性が天性の資質として持つ外向け用の表情であったなら、ここまで気にかかることはなかったであろう。彼とて、姉三人を筆頭とする女ばかりの家庭で苦労しているのだ、自然と外面を用いる女性の何かが鼻に付くようにもなる。しかし、近頃の彼女に関しては、違うように見え始めているのは、気のせいだと思いたい。自分は姉たちの教えを骨髄まで叩き込まれているから問題ないが、他の者はよほど気をつけないと間違いを起こしかねない、と改めて自分を例外扱いにして意識しないようにする。彼女はそれほど、魅力的だった。

「ああ、何でもないんだ」

 彼女からカップを受け取りつつ、朗らかに応じる。
 全く、文句を言う筋合いではないと思うが、この世はままならない。ありはしないことだと思うが、この身が海軍軍人で無ければ、どんな可能行動があっただろうかと考えてしまう。
 いや、海軍軍人だからこそ、ここに居る。でなければ、ここにいるわけもない。

 ――いや海軍軍人でなければ、父の後を継いで、医者を目指した可能性が高いから、やはりこの国には来ていたかもしれないが。

 その様な、既に選ばれてしまった可能性をもてあそびながら、黒船来寇から「激動の一五年(ローリング・フィフティーン)」を経て、現在まで祖国を守り通した父祖達の選んだ道を思い返した。

 黒船来寇を起因とする維新の嵐は、数多くの日本人の流血を必要とした。しかし、それは最悪の最大量から考えると許容されるべき必要量であったといえる。流血量の極限へ大きく貢献した筆頭に挙げられる者は、言うまでもなく元土佐藩藩士・坂本龍馬だろう。
 彼は数々の危機を乗り越え、維新を生き抜き、新生日本の行方に心を砕き、ことある毎に行動を惜しまなかった。
 士族の反乱については言うに及ばず、大陸への恐怖から征韓論へ傾きかけていた政府の舵を、海岸線防衛ドクトリンへと引き戻したのも彼だ(もっとも、これにより清の朝鮮国属領化を招き、三〇年後に対馬での衝突を端緒として(極論だが)世界大戦を引き起こしたのだから、評価は分かれる)。
 坂本龍馬の見識からすると、半島は大陸へと続き、日本の哀れなほどひ弱な国力を容赦呵責無く吸い込むとしか思えなかったのであろう。後にほとんど独断で清国との戦端を開こうとしていた、時の外相・陸奥宗光の暴走を止めたのも彼だった。
 そうであるならば、なけなしの国力を国内へ再投資することにより国力の再生産を行い、その増強された国力で必要な沿岸防備と海軍建設を行った方がまだ日本の生き残る望みがある。そう考えていた多くの有志と、そう考えていない有力者を、そのカリスマで引っ張り回しつつ、坂本龍馬は走り続けた。その最中で、数々の商会を生み育てて、大財閥などまで生まれるわけであるが、そのようなことは些事に過ぎない。彼は日本人が人間として生きる道を確保しようとしていただけだ。列強の植民地とされかけている現実的な危機から逃れるために、ただひたすらだった。

 もちろんその背景には幸運も存在する。清王朝の命数を啜り取るように清帝国を私していた西太后が一八九三年に死去したことと、李鴻章ら国士や無名の義士・烈士の(利己主義からくる皮肉的結果としての)奮闘により、清帝国が幾ばくかの延命を見たことだろう。これにより、列強はしばらく清帝国との睨み合いを続けることになる。

 それもしばらくの間であったが。一九〇七年事実上の朝鮮半島の王・袁世凱へ媚びを売ろうとした、朝鮮国官吏の対馬占領という暴走により、終わりを告げる。瞬く間に日清の国家対立までエスカレートし、対馬沖での日清両艦隊での決戦を生起させるに至る。この海戦にて大敗北した清は、国家的威信を失う。

 それは清の命数が尽きたことを列強に知らせた。特にシベリア鉄道を引き終え虎視眈々と南下の頃合いを見計らっていた帝政ロシアに刈り取りの季節到来と受け取られた。以後、中国は領土の蚕食に苦しみ続けることになる。その対立の課程で清は滅び、中国の統治者は何度か変わるが、彼らは一貫して中国の縦深を利用した人民の泥沼にロシアを引きずり込み、延々とした戦いを強制した。

 あくる事のない戦いに、ロシア人民は疲弊していった。兵士の多くは故郷の農村への望郷の想いを募らせた。そこを共産主義者につけ込まれ、ついにペトロパブスクにて革命が勃発。帝政ロシアは、首都を喪うことになる。

 西ロシア大都市を押さえた共産主義者達は、共産主義者らしい激しい派閥抗争など行いつつもソヴィエトへ権力を集中させ、ウラル以西の領土を確立した。しかし、ソヴィエトの権力者達は全く安心していなかった。彼らは、予想された方角とは正反対であるウラル以西へと脱出したため、ロシア皇族を取り逃がしており、ソヴィエト政府の正統性を主張することすらままならなかったためである。勿論、何度か露皇族追討軍を組織し送り込んではいたが、生誕地シベリアを庭とするグレゴリー神父率いる白軍に翻弄されるという醜態を繰り返すばかりで、旧支配者の身柄を確保するなど到底かなわなかった。
 革命精神に燃える政治将校であろうとも、大事な人に大事なナニかを後ろからムンズと握られていた旧貴族階級将校団に、勝てなかったからだった(勿論、大事な人たちに大事なナニかを握らせていたのは、ロシア社交界を射爆場としていたグレゴリー神父だ)。

 この状況は、ただでさえ列強より世界秩序に仇なす者と見られていた、共産主義者達の生存本能を刺激するには十分以上だった。彼らは列強の一端を担った国を腹を喰い破って生まれてきただけに、列強の手管は実によく理解していた。弱いモノは隙を見せると喰われる。

 それだけに共産主義者達の手は、悪辣だった。

 当時、ヨーロッパの各国においては、戦争は列車運行のごとく融通の効かない硬直したシステムである、と考えられていた(これは実際軍の戦略機動を鉄道列車によって行っていたことが大きく影響している)。特にドイツなどは、シェリーフェン・プランという、『まずはフランスを打倒した後に、ロシアを打倒する』という戦争計画を公表していた(戦争計画の公表自体は当時のヨーロッパ的に一般的だった)。ソヴィエトも国内情勢上、実施不可能だったが、総動員を含む戦争計画を公表していた。
 共産主義者達はここに生存戦略を見いだした。ドイツは総動員を行った場合、中立国であるベネルクス諸国を蹂躙して、まずフランスと対決するのである。ロシア(ソヴィエト)は後回しだ。フランスにはヨーロッパ大陸での大勢力出現を望まないイギリスも加勢するであろうし、イタリアは様子見を決め込むだろう。マンチュリアへ逃れた露皇族や貴族連中には、まだまだ混乱の最中であるから、こちらへの逆侵攻は無理だ。新大陸や極東方面はこの際考えなくて良い。つまりは、どこもしばらくはソヴィエトに手を出す余裕は無くなる(はずだった。当時ヨーロッパの王室は全て血縁で結ばれていたから、交渉で戦争回避できる可能性が否定できなかった。というより、王室の話し合いで列強の戦争は回避できるという見識がむしろ一般的だった)。

 ソヴィエトは生き残るため、一九一八年ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島で火を付けた。

 直接的には共産主義に魂を捧げた活動家を大セルビア主義者勢力に浸透させ、セルビアの被征服国であるオーストリアの皇太子を襲わせたのである。
 悪い意味での貴族階級出身であるオーストリア外相の無能もあり、オーストリアはセルビアへ宣戦布告。オーストリアの同盟国であるドイツは参戦義務から戦争計画通り、フランスへ宣戦布告、総動員を発令。同じく同盟関係にあるトルコも参戦し、独墺土三国による枢軸同盟は完全に機能した。一方のフランスも安全保障上の観点から、当時セルビアとの同盟を結んでいたから、枢軸各国に宣戦布告、総動員を発令。ドイツの戦争計画はベルギーなどの中立国を蹂躙するもので、実際にソレを行ったことから、イギリスはフランス側に立ち、枢軸各国へ宣戦布告を行った。英仏を中心とする同盟は連合国と呼ばれ、日英同盟により日本もこれに参加する。

 史上初の世界大戦の始まりである(実際にはアメリカや南米各国は参戦しなかったが、当時は欧州が世界であったから世界大戦という表現に全く問題は無かった)。

 陸では互角というより、あっさりと膠着していた。各国の戦争計画で唯一の攻勢戦略であったシェリーフェン・プランは、機関銃と毒ガスと塹壕によって、はやばやと瓦解した。英仏墺土はそもそもまともな攻勢戦略を持っていなかった。

 空は、まだまだ未知の世界で、その端を航空機や飛行船がおっかなびっくり浮かんでいるついでに戦争をしているに過ぎなかった。

 となれば、戦争の焦点が海へと移ることは誰の目にも明らかだった。特に北海は史上かつてこれ以上ないほどホットだった。その中で、独大海艦隊司令長官シェーア提督は、何かと(特に戦艦について)口を挟みたがる皇帝をなだめすかしつつ、大型巡洋艦と潜水艦と飛行船と機雷を縦横無尽に駆使した。
 その手口は控えめに述べて悪魔のように狡猾だった。まず、後に『ロンドン砲』と呼ばれる射程一二〇kmを超える二一センチ砲八門を搭載した大型巡洋艦で都市砲撃を行った。当然これは戦線後方で自分たちの家には弾が飛んでこないと考えていた、英国民を大いに動揺させ、英海軍へのプレッシャーをかけた。英海軍は『赤ん坊殺し』共(不幸なことに何発かの二一センチ砲弾が病院に降り注ぎ、婦人と乳幼児が犠牲になっていた)を撃滅せんと、フォース泊地へ英巡戦部隊主力の前進配備を行った。
 そして独海軍戦略砲撃の兆候を捕らえた英海軍は、この宝石よりも貴重な巡戦部隊全力を出撃させたが、独海軍はさらに上手だった。英海軍暗号を解読していた独海軍は二一センチ砲塔載大巡洋艦だけでなく、最新鋭の超弩級戦艦【バイエルン】級、大巡洋艦【マッケンゼン】級等々を含む大艦隊を出撃させていた。これと衝突した英巡戦部隊は、英側最新鋭の【フッド】級は辛うじて虎口を脱することができていたが、レパルス級を含む僚艦多数から爆沈艦を出す。また、辛うじて生き残った艦も年単位の修理期間が必要な損傷を負った状態であり、戦線復帰は当分見込めない。言うまでもなく英巡戦部隊は壊滅。事実上、英海軍は戦略的機動能力を喪った。

 英側暗号解読の裏には、英国に浸透していた共産主義者による英海軍暗号表持ち出しがあったと言われるが、定かではない。

 戦略的イニシアティヴを得た独海軍は、北海の制海権を得るためにスカパフロー攻略を決意する。潜水艦による機雷封鎖を端緒に、飛行船部隊による大規模泊地爆撃を行い、トドメに上陸部隊による強襲上陸を敢行。彼の地は独軍の手に落ちた。それは、英国の大戦略であった独封鎖作戦の崩壊を意味していた。加えて、スカパフローからの支援を受けられるようになった独仮装巡洋艦・Uボートの跳梁は激しく、英国の物資不足は日を追う毎に悪化していた。

 ここで残された唯一の列強アメリカ合衆国が介入したならば、歴史が変わったはずだ。だが、アメリカではカンサス州フォートライリー基地での報告を端緒とする、いわゆる『アメリカ風邪』の大流行で百万以上の死者が出ており、旧大陸での戦争どころではなかった。特に戦争債権募集パレードや、戦争に関する公聴会などの出席者に罹患者が多く発生したことがコレを助長した(この件に関して、BOI――後のFBIが共産主義者の関与を強く疑い、捜査を行ったが、容疑者の殆どが同病で病死しており、結局解明されなかった)。やはり、アメリカは旧大陸に関わるべきではない。少なくともアメリカ国民はそう考えて、政府はソレを尊重した。

 大戦略の崩壊と戦争喪失の危機に、戦局を挽回すべく英海軍の取った手は、彼らが誇る鬼才フィッシャー提督の遺した(彼はこの年、癌で亡くなっていた)キール上陸・ベルリン占領作戦を大幅に手直しし、これを決行することだった。
 当初キール上陸作戦は、、ハッシュハッシュ巡洋艦と呼ばれる、三八センチ砲搭載大型軽巡洋艦と言う奇っ怪極まる艦四隻の上陸支援の元に行われる作戦だった。戦時であるから全てが常識外れの数量が用意され、残り少ない資材を根こそぎ投入して大量建艦されたハッシュハッシュ巡洋艦やモニターに加え、定期航路客船(ライナー)を改装した一八隻の航空母艦に二〇〇機の航空機を積みこんで、英GFがその護衛に就くという大膨張を経て、作戦は実行に移されることなる。この作戦にはようやく戦線復帰した巡戦各艦だけでなく、国内論争をどうにか押さえ込んだ日本が派遣し、英国本国艦隊第六戦艦戦隊を編成した【扶桑】【山城】および、同第六巡洋戦艦戦隊【金剛】【比叡】【榛名】【霧島】も参加していた。

 もっとも、結局のところ制海権を独海軍に握られた状態でそのような作戦が成功するはずもなく、ユトランド沖でただただ膨大な被害が連合・枢軸双方に生じただけだった。唯一の収穫は、各国に戦争を終える季節が来たことをそれとはなしに自覚させたことかも知れない。

 後は欧州的日常だった。辛うじて休戦協定が結ばれ、講和条約を締結するために誰もが心身を病む、だらだらとした交渉が続いた。
 勝者など何処にも居なかった。辛うじて、ソヴィエトがそう呼べるかもしれないが、彼らの戦いは始まったばかりで、終わりなど全く見えない状態だった。

 結局会議がまとまったのは、こうしている間にも恐るべき勢いで膨れ上がる軍事費に各国が悲鳴を上げたためだ。
 この膨れ上がった軍事費は、特に海軍に投じられていた。陸軍に投じても、一日に一個師団が消え去るような事がザラにあった大戦の後では、人的資源問題から同程度の費用を掛けた戦艦保有以下の効果しか見込めなかった上に、航空機は未だ補助戦力の域を抜け出るほどではない。
 いつの間にか、終戦会議は海軍軍縮を焦点とした軍縮会議とセットになっていた。

 最も海軍拡張に消極的な国は仏であったが、彼らですら、三四サンチ砲四連装一六門搭載するという、どこか頭の螺子が外れた実にフランス人らしい超弩級戦艦【リヨン】級四隻の建造を行った。
 日は【八八艦隊】と呼ばれる艦艇刷新計画を実行に移しており、既に史上初の四〇サンチ砲搭載で二六.五ノット発揮可能な超弩級戦艦【長門】級二隻を実戦配備済みだった。その改良発展型である【土佐】級二隻も完工間近、あげくにこれを更なる高速化した巡洋戦艦【天城】級四隻も起工済みで、最終的には最低でも四〇サンチ砲を搭載した高速戦艦が一六隻並ぶ予定だった。
 米も日【八八艦隊】に対抗して、戦艦一〇隻・巡洋戦艦六隻を基幹とする【ダニエルズ・プラン】を議会に認めさせて実行に移していた。彼女たちもすべて一六インチ(四〇.六センチ)砲の搭載を予定していた。また、次々期主力艦あたりの大型艦のために、パナマ運河へ海軍専用の第三閘門を建設することもセットとされていた。
 独・墺と言うと、実直に戦力を増強させており、続々と就役している四〇センチ砲搭載艦を圧倒するために四二センチ砲搭載の超弩級戦艦【グロス・ドイッチェランド】級四隻、【フニャディ・ヤーノシュ】級二隻に加えて、【マッケンゼン】級四番艦の建造を中止してまで急速整備を行った三八センチ砲搭載大巡洋艦【フュルスト・ビスマルク】級四隻を就役させ始めていた。勿論、既に工業力で英国を凌いでいる彼らは、それで終わりつもりなど無い。前述程度の量でとどまった理由は彼らの場合、新型艦の就役時には常にキール運河やバルト海の浚渫問題がつきまとうからだ。加えて、隣の仏前弩級戦艦ダントン級をあまりに集中建造したが為に、大戦前の海軍弩級艦建造レースで後落していった事例を見ているから、時局に合わせて浚渫作業を行い、新型主力艦を建造するつもりだった。

 全く正気の沙汰ではなかった。ことによると、ソヴィエト以外なぜ世界大戦が起きたかを理解していなかった一九一八年よりも悪質だった(何しろ、年に二隻の超弩級戦艦を建造する八八艦隊計画ですら、比較的おとなしめの計画なのだ)。

 これに対して、英はこのような財政的チキンレースを止めさせるべく、大勝負に出た。というより、他列強すら圧倒する大乱心をしてみせた。
 まずは取り敢えず、次期戦艦としてスローペースで建造されていた【N3】をベースに、手元にあった後期ハッシュハッシュ巡洋艦用四〇口径一八インチ(四五.六センチ)を搭載してでっち上げた超々弩級戦艦【セント・ジョージ】の急速建造を行い、わずか一年余りで就役させた。世界は改めて英国の造船能力に驚愕した。しかし、これは単に次の一手へ実際的存在感漂わすだけの見せ札だった。ジョンブルは彼ら一流の更なるハッタリを用意していた。

 彼らは更に、【セント・ジョージ】級同型艦を3隻起工済みであると発表し、これに加えてあらゆる面で前級【フッド】を上回る一六インチ(四〇.六センチ)砲九門を搭載し三一ノットを発揮可能な巡洋戦艦【インヴィンシブル】級四隻と、空前の巨砲二〇インチ(五〇.八センチ)砲六門を搭載し三五ノット発揮するという超々弩級戦艦【インコンパラブル】四隻を建造する用意があるとブチ上げたのだ。
 総排水量で行くと、英グランドフリートをもう一つ造る勢いな自殺的建造量だった。
 もちろん、ハッタリとはいえ、口先だけでは効果が薄いから、資材さえあれば建造可能な設計書もあった。英国は連合国には設計書そのものを、枢軸国にはそれなりのものを、お得意の外套に隠れた長い腕で各国各部局へ付け届けた。

 これには、各国の海軍関係者が瞠目し、政府財政関係者を卒倒させた。
 英自殺的建造計画に対抗すること自体は出来なくもない。だが、したが最後、国庫は確実に破綻する。これは、一層激しい戦争を行う原因になる。おまけに戦争に勝利したところで得られるモノは乏しい。何処の国も国庫が、カラどころか返済には数世紀かかるであろう借用書で埋まっているであろうからだ。ゼロサムゲームどころの騒ぎではなかった。

 かくて、人類史上初の世界大戦は終結し、国境線が多少前後した後、戦後となった。

 軍縮条約も締結された。軍縮条約で決定された内容を細かく述べるとキリがないので、要点を述べる。
 ソレまで各国まちまちであった軍艦の排水量計算方法が統一化され『基準排水量』が定められた。
 その基準排水量で八〇〇〇トン(あるいは備砲六.一インチ)を超える軍艦を主力艦としてカテゴライズした。また主力艦についても艦種別に性能上限を定め、戦艦で備砲一六インチ・基準排水量三五〇〇〇トン以下、空母・戦略巡洋艦などを含む大型巡洋艦で備砲一一インチ・基準排水量二七〇〇〇トン以下と規定し、なおかつそれらの総計に総排水量上限が設けられた。各国主力艦の総排水量比は、英独米日墺仏伊=五:五:五:三.五:一.七五:一.七五:一.七五である。
 なお、条約基準外の既成艦については、各艦毎に別項目で規定されたが、基本的に保有を認められていた。

 英国は八〇万トンの戦艦と二五万トンの大型巡洋艦の保有枠に、満足していなかった。英国人は決戦にしか使えない主力艦などこの半分でも良いと思っていたほどだった。
 英国が満足していた点は、条約枠内で新型戦艦四隻を追加建造できることよりも、補助艦の備砲を六.一インチ以下に限定できたことだった。英国人は商船に積める備砲の上限を船体構造と人力の限界から六インチと見ており、これを上限とする艦艇の撃退には、六インチ搭載の軽巡洋艦があれば必要十分と考えていた。この線を抑えておけば、殆ど見せ札である主力艦の負担はしょうがないとしても、実際の任務遂行主力である補助艦の財政的負担を最低限とする事が出来る。世界中で使うから、数と性能に対して八方美人であることを求められた軽巡洋艦の性能制限は、この戦争による大英帝国最大の勝利と言えた(もっとも、既に就役していた英の七.五インチ砲搭載【カヴェンディッシュ】級や、二〇サンチ砲搭載の日【古鷹】級、八インチ砲搭載の米【ペンタコラ】級という条約特例もあった)。まぁ、ついでにロンドン橋を落とした『あの』戦略巡洋艦という奇っ怪なシロモノを大型巡洋艦枠で制限できたことも、勝利に華を添えていた。自分たちも、大戦中に戦艦建造まで後回しにして、ハッシュハッシュ巡洋艦とかいう大型軽巡洋艦なる珍奇な艦を大量整備したことは、英国紳士らしい態度で礼儀正しく無視していたが。

 独逸は、大艦隊を保持し、幾つかの植民地を得たことに満足した。
 元々独海軍当局における戦艦とは不自由さの象徴であった。誰もがあのシェーア提督ほど上手に、戦艦を宝石よりも大事にする皇帝をうまく丸め込めるとは思わなかったのである。ゆえに戦艦がこれ以上建造できなくても、不自由は感じていなかった。独海軍提督達としては、戦艦よりも彼らの言うところの大巡洋艦――巡洋戦艦を欲していたからである。そして、その巡洋戦艦隻数ではどの国よりも多かった。全く満足だった。神出鬼没な仮装巡洋艦や潜水艦で海上交通線破壊を行え、大巡洋艦で世界の至る所にいる英国軽巡洋艦を小突き回し、仕上げにこの頃から戦略巡洋艦と呼ばれて始めていた一七〇口径二一センチ砲搭載の【ベルタ】級が海岸から一二〇km以内をいつでも噴き飛ばせる自分たちの海軍に不満など、いだきようもなかった。世界三大戦艦などと称している一八インチ砲戦艦にしても、主砲の口径より舷側装甲厚を重視する彼らにしてみれば、四二センチ砲戦艦【グロス・ドイッチェラント】の方が有力だと疑いすらしていない。主砲換装が終わっていない少数の小型巡洋艦や大型水雷艇の備砲が他国同級艦艇に比べ多少小さいことなど、些細な問題ですらなかった。これら軽艦艇など、耐用年数に合わせて、適当に更新すればよい、と独逸人は勝手に納得していた。

 亜米利加は、自国国力が同率とはいえ世界第一位と、国際的認知を受けた事実に満足した。
 加えて条約特例で一八インチ砲搭載に改設計された【サウス・ダコタ】の建造が認められた上に、一六インチ以上の搭載艦数では世界一位となったことも大いにアメリカを満足させた。これでも、英とは歴史的経緯から、日とは大陸権益上の問題から、独とはキューバ問題から、三国同時に敵となる可能性があり、その際戦力比は一〇:三〇.五(英日独墺)に達すると不満を抱いていた関係者も多かったというから、呆れ果てるしか無い。大戦中に腐るほど駆逐艦(戦時急造が過ぎて、本当に短期間で主缶が腐った艦も多かった)も造って、そちらでも保有量世界一であるという事実を忘れているとしか思えなかった。

 日本は、英国が大戦略上の見地から有形無形の助力を行ったために、排水量対米七割を確保でき、ついでに一八インチ砲戦艦一隻の建造が認められたことに満足した。
 それでも国家財政の危機ではあったが、確実な破滅からは逃れられた。ついでに海軍内部での本格的対立を回避できたことも喜ばしい。将来を期待される人材を派閥抗争で喪うという不条理な国家的損失を被らずに済んだからだ。主力艦比率の不利は、駆逐艦の外洋作戦能力取得の目処がたち、必要最低戦力閾値の大幅な低下から実質的な作戦参加戦力を増強できる見込みである。維新を成し遂げた先達へも面目も立とうというモノだった。

 仏蘭西は、自分たちがいつでも新しい戦艦を追加建造できることに満足した。
 ついでに軽巡洋艦の備砲制限が英国の切り出した六インチから、自分たちの主張した六.一インチへと、コンマ一インチ拡大できたことに不思議な幸福感も味わっていた。不可解なことに後年ただの一隻も六.一インチ砲搭載巡洋艦など仏海軍に在籍しなかったが。以後彼らの建造する軽巡洋艦の主砲は全て六インチ砲だった。
 実のところ、海軍などどうでも良かったのである。
 仏蘭西人は【リヨン】級の建造すら、気まぐれに行ったようなところがあり、海軍にこれ以上の投資をするより、東部国境に要塞線を構築することの方が魅力的に見えていたのだ。

 伊太利亜は、仮想敵である仏・墺と同量の割り当てを受けたことに満足した。
 彼らが世界そのものと感じていた地中海。その覇権を我がモノとする権利を失わなかったと見なしたからだ。

 墺太利は、一応列強としての扱いを受けたことに満足した。
 何しろ、ハプスブルク家が世界大戦終了後も帝国を維持できていることは、当人達ですら奇蹟と思っていたからだ。これは枢軸同盟の一角であったオスマン・トルコが、革命により帝国を喪う現場を、列強最前列で見ていた衝撃が大きい。また、意外なことに列強最低の割り当てを受けたことにも満足していた。ハンガリー政府と議会は、ハプスブルク家のための軍隊は大嫌いだからだ。

 蘇緯埃は、そんな列強の様子に満足した。
 こちらの意図通り大戦争を行ったついでに、狂気に溢れかえった建艦競争まで始めて、蘇緯埃に手を出す余裕を無くしていたからである。これより彼らは革命的精神の発露に邁進した。その過程で食料問題から数千万程度の人民が斃れるか、新白露へ逃げ出すような事態となっても全く問題にしなかった。この程度で旧体制の病悪はびこる新白露西亜へ逃げ出すような反革命的人民など、ラーゲリへ送り込む手間が省ける程度にしか思っていなかった。いずれ露皇族・貴族もろとも銃殺である。

 新白露西亜は、仮住まいとしたマンチュリアの地で満足した。
 条約の制限対象にならなかったからである。この頃にはなんとか体勢を立て直していた彼らは、その気になれば自縄自縛に陥った列強を余所に、ロマノフ王朝が貯め込んだ資産を使って、自由な艦隊建設をいつでもできると前向きに考えた。後はウラル以西を取り戻すついでにキタイから領土を巻き上げ、列強へ復帰をしたことを華麗に宣言すればよい。

 かくて、世界は大多数の満足と共に、一八インチ砲搭載戦艦三隻を象徴とする【海軍休日】を迎えたのだった。



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