静まりかえった礼拝堂。ステンドガラスを通して、幻想的な色彩に彩られたそこでは、神父グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンが祈りを捧げていた。
そして、静かに、だが荘厳さを感じさせる声で、問うた。
「誰かね?」
声に答えたのは、女だった。白のヘッドドレス、丈の足りていないワンピースにサロン・エプロン、ショーティ・グローブ、ガーダーベルト・ストッキング、ストライプ・パンプス。全くフランスかぶれが多いロシア貴族好みの淫靡なフレンチメイドだった。
「アンリでございます、ご主人様」
彼女がここへ存在すること自体が、神を冒涜するようである。しかし、彼女はフランスに太いパイプを持つ貴族から、最近送り込まれたメイドだった。それなりに大きな権勢を持つ貴族から送り込まれたメイドだけに、グレゴリー神父もそれなりに扱いに気を遣う必要がある。
「ありがとう。だが、神の前には皆が平等だ。ただ、グレゴリー神父と呼んでほしい。ところで、私に何か話しかね?」
「はい。ここ最近の欧州情勢などは、いかがでしょう?」
彼女はその職責上、高い教育が施されている。話題の一つとっても、一般のメイドとは世界が違った。
「興味深い。非常に」
グレゴリー神父は実に関心を引かれたようにして見せた。実際、新白露ではその地理的条件から、欧州情報に疎くなりがちで、情報入手が国家的課題となっているのだから、当然の姿勢といえた。
「例えば、イギリス?
貴族は大戦戦費穴埋めのための相続税実施により、没落する家が続出。
残るは植民地だけ。利益の絞り上げに忙しいようですわ」
「だから、正式な対米参戦も行っていない。というより行えない」
「その通りですわ」
「次にドイツ。有り余る砲弾生産能力を維持するため、中国・南米各国への売り込みが行っているとか。経済的にはそれなりに好調なようですわ。政治的には帝政について疑問を持ち始めた者が多くなっているとか。テロルも多いようですわ」
「マスコミが無闇に騒ぎ立てているオランダに比べれば、ボートの小揺らぎでしかないだろう。帝政は揺らぎもしていない、これからも続くだろう」
「ですが、その同盟国オーストリアについては……、いつも通り混乱していますわ。帝国を維持できているのが不思議なぐらいですわ」
「だが、混乱の中から人が現れる」
「それは神の予言でしょうか? グレゴリー神父様」
グレゴリー神父はそれになにも答えなかった。
「我が祖国フランスは健全な議論の元に発展を続けていますわ」
アンリの言葉に少しだけ熱が籠もる。
「ソヴィエトとの条約も噂されています。ソルボンヌの学生達にも、共産活動に興味を持つモノが多いとか」
「おぉ、神よ。彼らが真実に気づきますように」
「真実?」
「共産主義などと言う純粋さの持つ残酷さに。その純粋さは純粋すぎて、俗物である民衆には耐えられないモノなのだよ」
「――やはり。グレゴリー神父様」
アンリはどこまでも透徹しているが輝きを失ったを瞳で、言った。
「人民のために死んでください」
手には、小型拳銃が握られていた。
「神の御心のままに」
アンリは躊躇せず、引き金を引いた。命中精度に問題がある特別製の四五口径小型拳銃で、狙うは的が大きく動きの少ない胴体。撃鉄が落ちる。弾丸が神父を襲った。弾丸は神父を貫く……ことが出来なかった。
「な……っ!?」
「神も悪魔も私の僕に過ぎない。それにこの程度の小口径弾は正直慣れが出てきてね」
ムンっ!と力む神父の身体から、鉛玉が弾け落ちた。
「そろそろ、仕事をしてくれないかね、マリア」
「―!」
アンリが反応しきる前に、黒い影が彼女を襲った。それは彼女の首筋へ軽く手を添えた。それだけで十分だった。
影が気を失ったアンリを抱えて、グレゴリー神父の前に立つ。「火喰い鳥」の通り名を持つ彼女は、それだけで美しかった。
「終わりました、神父」
「いつもながら、見事な手際だ、マリア」
「皇帝陛下の命ですから。ですが、最近また浸透が激しくなってきました」
「共産主義者は焦っているだ。最近一層激しく、武力闘争路線を推進しているとも聞く」
「共産主義者が焦っている? スターリンがではなく?」
「同じだ」
「では、戦いは続くのですね」
「あぁ、続くとも。我らが祖国全てを取り戻すまで」
「まるで災い。列強に、コミーに、キタイ。誰もがロシアをさいなむ」
「問題ない。神はロシアの隣に日本を作られた」
「意味が判りません。あのような何もない小島がどうして、神の恩寵になるのですか?」
「それが判るには、今少しの時が必要だろう。さぁ、その娘を部屋へ。神の愛を教えねばならない。君もどうかね?」
「それだけはお断りします」