平穏を約束しよう。
『閑話02・ある喫茶店の話』
鳥のさえずりが心地よい早朝。朝焼けには程遠く、世界が黒から白へと変わる時。その日一日の始まりの光景である。
浮上する意識に従い私は目を開け、横たわっていた寝台から身を起こす。
眠気の残る目を手で擦りながら、「ふぁ」と欠伸を口から洩らしながらの起床。
幾分のまどろみを残した頭を振って、意識の覚醒を促す。
その動作によって、少々はっきりした意識をまどろみより勝ち得る。
寝台から床へと降り立ち、洗面台へと向かい顔を冷水で洗う。
身を刺すような冷たさの水で顔を充分に濡らして、ふかふかのタオルで濡れた顔を拭う。
冷水を顔に浴びたことで、僅かに残っていた眠気も消え、意識は完全なる覚醒へと至る。
その後、歯を磨き終わった後に寝間着から普段着を身に纏い、2階から1階へと降りて行く。
1階には幾つかの椅子がテーブルに挙げられた状態で、全面硝子でしつらえた窓側に並んでおり、反対側にはカウンターが存在する。
前日の終わりに十分な掃除をしているので、朝にやる事と云えば、軽く床を掃く位だ。
店内の奥にある御不浄、つまりはトイレの対面に設置されている用具入れから、箒と塵取りを取り出し、再び店内へ。
窓を全て開けて籠もった空気を入れ替える。ひんやりとした空気が店内に流れ込むのを肌で感じながら、さっさっと軽く箒で掃く。
白んでいた空は、東の方向より赤く染まり始めていた。
朝焼けの日差しが窓から店内に差し込む。雲一つない快晴な空が日の出を迎える頃に、軽い掃除も終わる。
僅かな塵を取り、ゴミ袋に入れて、そう云えば今日がゴミの回収日であると思いだしてゴミ袋を捨てに行く。
日の出を迎えたとはいえ、大衆にとっては若干ながら起床には早い時間帯であるために、誰某と出逢うことはない。
ゴミを回収場所へと出し、帰りの途へと着く。
店に戻る頃には、にわかに街が活気を帯び始める。
店内に戻って先ずはと全開にしていた窓を閉め、カウンター奥へと行き、そろそろ材料を手配する頃合いかと頭の片隅で考えながら、朝の準備を仕込む。
仕込みが大方完了し、外ではちらほらと人影が増え始める時間帯。
店内をぐるりと見回し、ふむと一つ頷く。
店内と店外を繋ぎつつも断絶する扉、つまるところの入口と出口を兼用する扉を開け放つ。
出口脇に置いていた御品書きを表へと出して、扉に掛けてある『閉店』の札を『開店』へと裏返す。
んっ、と息を詰めながら背伸びをして気持ちを一新。再び店の中へと戻る。
それが私の一日の始まりである。
*****
一日の始まりと云っても、特筆するようなことが起こる訳ではない。
私が経営している喫茶【カーム】は、基本的に混雑する様な事は滅多になく、平穏を旨としているからだ。
平穏。凪。安息。
そのような意味を表す【カーム】を店名としている以上、実に相応しいと状況とも云える。
このような益体もないことをつらつらと思い浮かべている訳ではあるが、だからと云って客足が皆無という訳ではない。
現に、今の店内には数人の御客が居る。
獣人の男性がコーヒーを啜りながら情報誌を読む姿。人族の初老の男性二人が、煙草を吹かしながら互いに将棋を指す姿。この西方世界でも珍しい妖精族の妙齢の女性がアイスコーヒーを傍らに、何かを幾枚もの紙に書き綴っている姿。人族の青年がパスタを美味しそうに食べ進める姿。
それぞれが思い思いの時間を過ごすことで、無情に流れる時間が緩やかになったと錯覚させるほどに、この店は穏やかさに満ちている。
その安らかな空間を肌で感じながら、自然と浮かぶ微笑み混じりの顔で汚れの気になったコップを拭く。
静かな空気の中で、きゅっきゅっとした音が響く。
私は、この平穏が大好きである。
外では、慌ただしい世の中の真っ只中であるも、私が経営している喫茶店にはその慌ただしさとは隔絶された、穏やかな空気が満ちる。
その穏やかな空気を生み出してくれる喫茶店の主であることを誇りに思いながら、拭いていたコップをカウンターに置く。
「マスター、勘定を頼む」
「はい、分かりました」
食事を終えたらしい人族の青年が声を掛け、私は青年の許に行く。
「相変わらず、マスターの料理は美味しいね」
「ありがとうございます」
支払いを済ませ、笑顔で去って行く青年を見送る。
青年から支払われた金銭を、掛けているエプロンのポケットに入れて、食器を持ってカウンター内に引っ込む。
食器を水桶に一先ず入れて、油を浮かす。
さて、洗おうかとスポンジを泡立たせて食器を掴む。
「おーい、兄ちゃん。すまんが注文ええかね?」
「ええ、いいですよ」
食器を洗おうかと思った矢先に呼ばれたので、掴んだ食器を再び水桶へと戻し、泡まみれの手をさっと水で流してエプロンで拭きつつ、人族の初老の男性二人の許に向かう。
接客業の基本である笑顔を浮かべながら、追加注文を取り、再びカウンター内へと戻り、注文の品を作り始める。
油をひいたフライパンが程良い熱を持った所で、プロテスの腿肉を投入する。
じゅわりと肉の焼ける良い匂いが立ち昇り、その匂いが私の腹を刺激する。
昼飯を何にしようかと考えつつ、調味料で味付けを行いながら料理の手を進める。
私の腹が、くぅ、と鳴った。
*****
「繁盛している?」
カラコロと扉に取り付けているベルが鳴り、客の来店を告げる。
来店と同時に声を掛けてきた人物へ私は目を向けた。
視線を向けた先には、目を瞠るほどの美女。
透き通るかと思えるほどに白い肌、美しい桃色の唇、綺麗にすっと通った鼻梁、目もとは若干垂れていて、そのすらりとした相貌からは柔らい印象を受ける。
淡い翠玉の長髪を靡かせ、均整のとれた身体つき。仕草の一つ一つが実に品がある。
この街でも三指に入る美女。街中の男共を時には女性さえ種族を問わずに虜にする女性。
イリーヤ・カスティル、その人が微笑んで私を見ていた。
「ぼちぼちですね。いらっしゃいませ、イリーヤさん」
私はイリーヤさんに微笑みを浮かべて返答し、どうぞと席を勧める。
御昼時というのもあって、朝方よりも多くの人々が訪れており、イリーヤさんの登場に若干ざわついた店内であるが、すぐに沈静化。
というのも、イリーヤさんが店内にいた御客に微笑みながら見回したからである。
その笑顔に熱に浮かされたような顔を浮かべながらも呆けたように静かになる人々。異性だけでなく、同性さえも魅了するとは恐れ入る。
微笑むだけで人心を掌握できるイリーヤさんに薄ら寒い想いを浮かべながらも、私も軽く魅了されているのだから驚愕の一言だ。
そのままイリーヤさんはカウンター席に座り、私に注文の品を告げる。私はそれを聴き、先ずはとエスプレッソを入れて差し出す。
それに感謝の言葉を述べるイリーヤさんに微笑みを返し、注文の品を作り始める。
ヤツカの実を主体としたサラダに、レオリブとリーガントの肉をパンで挟んだサンドイッチ。両方を同時進行で調理しながら、イリーヤさんが時折話し掛けてくるので、それに相槌を打つ。
その私に、店内に居る男性諸君が私を嫉妬の目で見つめてくるのを、甘んじて受ける。
私とて、男性諸君の気持は分かるのである。
まぁ、流石に私に殺意を伴った視線を向ける者が若干名おり、その視線に背筋がぶるりと震える。
その視線を向けているのが全て女性というのは、果たしてどういうことなのか。
その視線を努めて無視しながら、出来あがった注文の品をイリーヤさんに渡す。
再度、感謝の言葉を告げるイリーヤさん。それに伴い殺意の視線が圧力を増す。
このままでは、流石に店内の穏やかな空気が壊れかねないので、はぁと溜息を吐く。
嫉妬の視線を向ける男性諸君に、殺意の視線を向ける若干名の女性に、温度の無い笑顔を向ける。顔だけは笑顔を形作っているが、私の目は一切笑っていない。
友人知人に絶対零度の笑みと称される私の笑顔である。
私の笑顔を見た人々は、軒並み顔を青褪めさせて慌てて目を逸らす。
ふむ。静かになったか。
それに満足して一つ頷くと、クスクスという笑い声が聞こえて来たので、そちらに顔を向ける。
そこには、手で口元を隠していたイリーヤさんの姿。
「どうしました?」
「いえ、相変わらずねぇ」
「なにがですか?」
「ふふ、貴方、この喫茶店がなんて呼ばれているか知ってる?」
「……いえ、存じませんが」
「色々と云われているわよ。隠れた名店、美食家御用達、平穏の喫茶、安らぎの場所、現代の止まり木」
「……はぁ」
なんだろうか。褒められていると解釈しても良いものか。
なんだか背中がムズムズするのだが。
「あと、一番云われているのが」
「なんでしょう?」
「裏世界の実力者の巣」
「…………」
「他にも、腹黒店長の座す所、とか」
「…………」
何故にそのような名称が蔓延っているのだろうか。不思議過ぎる。
これでも私は近所付き合いも良い方だし、材料の仕入れ相手とも親しい上に、街の人々とも笑顔で挨拶するほどだ。
誠実にして品行方正を心掛ける私に、なんという不名誉な呼称が付いたことか。
「そうねぇ、確かに普段は誠実だし、優しいけれど」
「けれど?」
「貴方は、この穏やかな空間を壊す者を許さないでしょう? そう云った輩を、結構手酷く追い返していたりするそうじゃない」
「……相手は選んでいますがね」
「そうね。でも、その時の貴方は本当に怖いらしいわよ? 私は残念ながら貴方のそういった姿を見た事はないのだけれど」
「……そうですか」
なんともはや、得心とでも云うのだろうか。
どうやら私の矜持を穢す輩に制裁を加えていた姿が、大衆からすれば恐怖の対象として見られるらしい。
ふむ。これは由々しき事態だな。昨今はとみに大人しくしていたと云うのに。
これは、経営も苦しくなるかもしれないか。
「それは大丈夫だとは思うけどね」
「何故でしょう?」
「一度貴方の人となりを知れば、程度さえ間違えなければ無害だと分かるものだし、なによりも、ここの料理は本当に美味しいもの。一度食べれば、リピーターは自然と付くわよ」
そう云って艶然と微笑むイリーヤさんに、しばし見蕩れてしまった。
少しふやけた頭を振って平静を取り戻す。
静まれ、私の鼓動。
今の私の態を誤魔化す様に、言葉を紡ぐ。
「しかし、そうですか。最近は気を遣っていたのですけどね。私も自分の事くらい、自覚していますので」
特に、私が不快になっただけで、その相手を敵と見做すような真似はしないようにと、いつも心掛けていた。
一度敵と見做してしまえば、きっと私は容赦をなくすだろうから。
「貴方の昔の事を私は知らないから、そこに関しては触れないけれど」
そう云って言葉を区切り、エスプレッソを飲んで一息吐くイリーヤさん。
「貴方が並々ならぬ武力を持っていることも見ていれば分かったし、それを無闇に揮わない様に必死で自制しているのも理解していたわ」
……恐れ入る。この人の前では、そういった暴力事を、私の持つ武力を見せた事は無かったのだが、見抜かれていたのか。
大抵の者は、私の細身の身体を見れば、武力だの暴力だのと云ったモノとは無縁であると思うというのに。むしろ、ひ弱そうな男と思われる位だ。
「だから、気になるのよね。大抵の揉め事は話し合いでなんとかしていた貴方が、最近になって、人前で自分の武力を揮うのに頓着しなくなったという理由が」
「理由、ですか」
「ええ、理由」
私に流し目を送りながら尋ねるイリーヤさん。
その振り撒かれる色気に鼓動を早めながらも、思い当たることを正直に話してみる。
「強いて云えば……」
「云えば?」
「あの変態のせいでしょうか」
「……は?」
ぽかーんとした表情で私を見てくるが、構わずに続ける。
「変態と聴いて、思い当たる人物が居ませんか?」
「……一人、居るわね」
「私は二人居るんですが、理由として挙げた変態は貴女が思い浮かべた変態で良いと思います」
「……彼が、どうしたの?」
なんだか微妙な顔になったイリーヤさん。
気持ちは凄く分かる。実際、私も話すと微妙な気分になる。私に若干の変化を与えたのが、あの変態などと。そもそも奴は本当に私と同年代なのだろうか。
落ち着きが無さすぎる。
「確かに私は貴女の云う通り、それなりに強い武力を、暴力を持っています」
「ええ」
「普通の輩ならば、私の強さを知った時点で、もうこの店に近づかなくなるし、ちょっかいも出さなくなるものなのですよ。殺気も込めていますし、凄んで脅したりするので」
「……中々バイオレンスなことをしていたのね」
「ええ、まぁ。……それで、ですね。なんと云いますか、あの変態にも一度脅しを掛けた事がありまして」
「へぇ」
「普通なら、その程度の脅しでも来なくなるものなのですよ。現に巻き添えを喰らった当時の他の御客様はもうここを訪れたことはないので」
恐らくだが、先程鎮静化させた人々も、もう来なくなるかもしれない。
意図してやった訳ではないし、わざわざ店の収入を減らす気もないので、再び来てくれても構わないのだが、どうも本気で私の脅しは怖いらしい。たとえそれが程度の軽いものであっても。
「ですが、あの変態は私が脅しを仕掛けた後も、ちょくちょくとここに出向くようになりまして。結構頻繁に殺気をぶつけたりするんですが、それでも平然と来るものですから、なんというか、そういう行為が普通に成りかけているんですよ」
一人で来る時は、割りかし理想的な御客として訪れるので、そういった時は追い返したり脅しを仕掛けたりと云ったことをしないしな。
「まぁ、それで、なんというか、他の御客さまにもあの変態と同じような対応をとっているようですね。無自覚に」
「あらあら」
ふぅ、と物憂げに溜息を吐いて、ぼそりと呟く。
「良くも悪くも、色んな人に様々な影響を与えるのね、彼ってば」
何を呟いたのかは上手く聞き取れなかったが、これだけは確信を持って断言出来る。
その物憂げな表情も魅力的なのは、流石はイリーヤさんと云った所だ。
*****
御客も全員帰り、就業時間を終えて店を閉じ、店内の掃除をする。
一日だけで、中々汚れるものだ。
発光鉱石に使う魔力を節約するために、掃除を終えた所に設置している幾つかの発光鉱石を切っているので、店内は仄暗い。
店の入口付近など、外の暗さも合ってか真っ暗だ。
「然り。相も変わらず、このような茶番を続けているのかね」
掃除をしていると、不意に声が響いた。
顔を後ろに向けると、そこには人影が闇と共に立っていた。
その人影を認識し、自然、私の声が鋭くなる。
「……何しに来た、夕闇の」
「然り。貴殿に逢うために」
「私に、一体何用だ」
「然り。貴殿を誘いに」
相変わらず、特徴的な喋り方をする男だ。
何を以って「然り」と云っているのか判然としない奴め。
「……私を何に誘う?」
「然り。これより起こる大戦争に」
「……なに?」
この男の云った言葉に、目が鋭くなるのを自覚する。
「然り。これより先、東方世界と西方世界の間で大戦争が起こる。史実に残るであろう大戦争が。それに伴い、貴殿の力が欲しい」
「戯けたことを。私は既に一市民だ。その程度の男の力など、たかが知れているだろう」
「然り。故に、我らは一市民たる貴殿の力ではなく、百英雄たる貴殿の力が欲しいのだ」
「……私は、既に英雄ではない」
「然り。そう云うな、百英雄の十大傑物が一、平穏英雄殿。貴殿の席は未だに空席ぞ」
「……その口を閉じろ夕闇英雄、殺すぞ」
かつての同輩だった男に殺意を向ける。
「然り。良いのかね? そのような不穏な言葉、君の信奉すべき平穏とはかけ離れているが」
「何も問題はないし、勘違いするな。既に私は英雄ではないと云ったぞ」
「……ふむ、意図が計りかねるが? それと先程の言葉、どの様な繋がりが。貴殿が未だに平穏を信奉していることは理解しているつもりだが」
「その平穏の定義が変わったということだ。今の私は、他者への平穏ではなく、自身への平穏を第一とする」
「……然り。得心よ」
「分かったら失せろ、夕闇。私の気分が変わらぬ内にな」
言外に、今すぐ失せねば殺すぞと意志を込めて告げる。
その私の言葉に、くくく、と嗤い声を出す。
「然り。承知よ。今宵は諦めれど、また来ようぞ」
「何度来ても同じだ」
「さて、それはどうか」
くくく、と面白そうに嗤いながら、闇へと溶ける様に消える。
気配を探り、本当に居なくなったことを確認して、掃除の続きを行う。
全く以って、今日一日が台無しにされた気分である。
私は掃除をしながら、深々と溜息を吐いた。
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あとがき
今回は閑話です。改行とかを本編とは色々と変えてみたりして実験中。
今回のお話が本編に関係するかは不明。
▼あざーっす!……ところで「あざーっす」と「アザトース」って似てるよね。うん、それだけ。
>紳士が拗れて入院したかと思ったら立派な紳士としてまた戻ってきてたんですね。
>そして幼魚が一瞬幼女に見えた俺は立派な紳士ですね。
いえ、眼科に行きましょう。
>竜王のほうのバハムートかと思ったら神話(つーか聖書?)のほうのバハムートだった。
>一本とられた。
>あれ、うまそうだなぁ……
食べる時はそれなりの覚悟が必要そうですけどね。
>更新おつかれさまです!
>もう半分くらい諦めてたんでうれしい限りです!
どうもです。忘れた頃にちょこちょこ書こうと思います。
>バハムートってお魚さんだったんですね・・・
>自分はてっきり竜だと。
>まあもうすでに竜は出てきてしまっているので無理な話ですが(苦笑)
>これからもがんばってください。
いっそのこと浮遊大陸をとある騎士と一緒に守護しているバハムートにでもしようかしらと思いましたが、結局こっちにしました。
適度にがんばります。
>たまに珠玉の一文があるのがすごいと思います。それ以外は流し読みですが。
流し読みで充分かと。気軽に読んで頂ければ幸いですので。
あと、お褒め頂き恐悦です。珠玉の一文とか初めて言われました。嬉しです。