~a moment ago ~
燃えていく。燃えて消えていく。孤児院が、彼らの家が。俺の、帰ることの出来る居場所が……。
火がこんなにも猛々しく恐ろしい。爛々と巻き上がる炎が目に焼き付いて、眼球が爛れそうだった。
ゆらゆらと、気味の悪い浮遊感に足を掬われているみたいだ。身体の実感がドロドロに溶けてしまって真っすぐ立てない。まるで現実味が持てない。
「ヨル……おい、ヨル! どうしたんだよ!」
肩を強く掴まれて、景色が一転した。暗い空が見える。シャルナークが肩を引っ張ったせいで、尻もちをついたのだ。それに気付くまで数秒を要した。眩暈がする……。
「しっかりしなよヨル!」
マチの大声で、頭ん中が揺れてグチャグチャになりそうだった。なにが、なんで、なんだ? 思考が纏まりきらずに飽和してしまっている。
これは、なんだ? 嘘だ。夢だ。だって、あんまりすぎる。
やっとの事で立ち上がるが、足取りは覚束無い。まるで足が地面に沈んでいっているみたいで、歩くのが不自由だった。
「――!」
「――――――!」
後ろの方から声が聞こえているが、もはや聞き取ることは出来なかった。耳鳴りが酷い。今やまともに機能しているのは視覚程度で、ただ目に映るその場所へと足を進めるのが精いっぱいだった。
ともかく、前へ。前へと。この光景が虚構である証明を探しに……。
爆音だ。
耳をつんざくような暴力の音が俺を襲撃した。
瞬間。その音が、俺の中のありとあらゆるノイズを吹き飛ばした。
目を見開く。混然となってこべりいていた思考、雑念が真っ白に消し飛び、突如無音と虚無の中に取り残された。混乱も、悲壮も、疑念も全てほっぽりだして、空の下とも闇の中とも思えない無色の中にいる。そして、ふ、と覚めた。身体に重力がずしんと戻ってくる。開きっぱなしの口から「あ……」と音が漏れた。
やがて、ゆっくりとエンジンがかけ直される。
閉じられていた瞼が開かれるように、リアルへと。
揺らめく炎の中に、先生の姿を発見する。その前には眼鏡の男がおり、フィーナが立ち塞がっていた。
靄が晴れる。目に、現実感が蘇り、眼鏡の男の邪悪が映った。はっきりと、見えた。
「オマエかぁァああアあ――――!」
瞬間的に、俺の身体は跳ねていた。未だ、わからない事と納得できない事とが大半を占めているこの頭の中で、ただ一つだけ理解した。何をしなければならないか、この一つさえ掴められればあとはもう十分だ。
大気を叩き割りながら、駆ける。
「『ノリ・メ・タンゲレ』!」
男の手が届くより早く、盾を展開した。しながら、直進する。拳を振りかぶりながら、男の背後へと立った。
目が合う。眼球の動きをなぞるように眼鏡の男が振り返った。しかしその掌は依然、フィーナに向けて構えられている。忌々しい。
「そのクッセぇ手ぇ退けろ。クソ野郎」
「な!?」
「ゲン! 後ろに一人いるぞ!」
「ッ!? なんだこれは。また盾が!」
拳を、打ち下ろす。同時に、『粘着ボディガード』をこちらに向かってくる二人の男に差し向けた。進路を遮る。
これは、先生とフィーナとの繋がりから作り出した盾。決して抜かせなどさせない。ここまで寄せ付けない。サッカーのディフェンスの様に立ち塞がり、粘着し、動きを封じる。それは、お前等にとって壁であり、檻だ。
「チィッ! まだ一人いやがったのか!」
「オマエ! オマエが――!」
激情のままに振るった拳は、しかし男に当たることはなく床板に突き刺さった。眼鏡の男の手がこちらを向いたので、すかさず『ノリ・メ・タンゲレ』を展開。
盾の装飾が掴まれて、爆破される。表面を、衝撃が伝った。
だから、どうした。
そんなちゃちな攻撃で、俺の盾が痛むものか。
床板を突き抜けた右拳。俺は動きに支障がきたす前に、拳をそのまま勢いに任せて振り上げた。木版の何枚かが剥がれて割れて、宙に舞う。男の、顔面に飛来する。
それで、男の動きが膠着するイメージを描いた。人間は、どれだけ慣れようとしても目に飛んでくるものには身構えてしまうからだ。
案の定、腕を交差して木片を弾く。次、身体を大きく傾け、蹴りに体重を乗せて放った……っ!
「なんだいきなり出てきて、いい加減に……っ!」
蹴りぬけた足に、感触が無い。避けられた。上体を下げて躱したのか。野生動物の如く鋭く素早い身のこなし。
瞬時に体勢を変えて、屈み、足払いを仕掛ける。が、これも細かい跳躍で隙なく回避されてしまう。
男はそのままサイドステップをして距離をとった。男の後ろには先生とフィーナがいたから、男がいなくなると必然彼女等の姿を見つけることになる。
青い顔だ。怯えが瞳に宿っている。その姿が俺の脳裏にある彼女達と並び、乖離した。
よくも……よくもよくもよくもっ! こんな顔にさせやがって!
「ヨ、ヨルベ君」
「先生、フィーナ。ちょっと待っててくれ。今から、こいつらを血祭りにあげて晒してやるから」
感情が沸騰している。いや、沸点なんてとうに超えていた。
液体は、気化する際にその熱を奪ってゆく。ならば、今の俺の怒りとはまさにそれだ。
激情は、氷点下に至った。
上体をさらに傾け、宙に残留している木片の、手前と奥の二つを男に向かって蹴って飛ばす。
「次から次へと、鬱陶しい奴!」
「うるせぇ黙れ死ね」
男が背面に向かってさらに跳躍。それを、『ノリ・メ・タンゲレ』を着地点に展開して遮った。結果、背中を打ち付ける。「うっ」と肺から空気が押し出された声がした。これで、奴の回避行動に鈍りが生じる。一撃を叩きこむ隙間だ。
次こそ、当ててやる。殺してやる。
右足にオーラを溜めて踏み出し、続いて左足に圧縮したオーラの塊を移動させて、地を踏みしめた。瞬間、さらに背骨を通って右拳に流動させるイメージ。弾丸を発射させる要領。体重の傾きに乗せてオーラを運ぶ。
左足の乗った床板が爆ぜた。力の流れに合わせてコントロールされた『流』は、大気を震わせ、渾身の一撃を生み出す。
轟音。余波が、肌を叩く。床下に溜まった埃が衝撃で巻き上がり、視界を覆った。
反射的に『ノリ・メ・タンゲレ』を先生とフィーナの前に展開した。
眼鏡の男は、いない。見えない。少なくとも、今俺の間合いの中にはいない。
「吹き飛んだか」
手の甲で埃を払う。まず一文字に煙が晴れて、そこを始点に霧散していった。
見えたのは壁に打ち付けられ、粗い呼吸を繰り返す男の姿。
殺せる。このまま追い打ちを掛ければ最低、奴は。
……いや、駄目だ。これ以上は過剰防衛になって『ノリ・メ・タンゲレ』の制約にひっかかっちまう。そうなってしまうと、あとの奴等に手間取り……いや、まともに能力を使いきれない俺では、殺られるのはこちら側になるだろう。確実に、コイツ等を殺せなければ意味は無い。
あの男、あれだけのダメージ。回復するのには時間がかかる筈。もし、今立ち直したとして、全快でない状態の奴にやられるつもりはない。つまり、奴が持ち直すまで3対1になる危険性は低くなるという事。
ならば、この間にさらに一人を潰す!
踵を返して振り返る。
「ゲンスルー!? しっかりしろ!」
「くそっ! この盾……抜けねェ! テメェぶっ殺してやる!」
「こっちの台詞だ」
声が低い。喉の深く低いところから、泥があふれ出す様に出た音は、聞き慣れない声色をしていた。
『粘着ボディが―ド』を何度も叩きながら男二人が耳障りな声で吠える。せいぜいやってろ、お前等のその敵意が俺の『ノリ・メ・タンゲレ』の肥やしになるんだからな。
「ヨルベ君!」
「先生、心配しなくても大丈夫ですよ。もう、終わります」
こいつらが、並の使い手じゃないことぐらいわかる。だが、殺ってやる。殺してやる。土足で人の居場所に踏み入って、挙句荒らし回りやがったコイツ等はただじゃ帰せねぇ。なぶり殺しにしてやる。
二人いる男、金髪に細目の男、オールバックの赤髪の男。その内、赤髪に指を指した。耳の尖った悪魔のようなマークを額に描いている。
「次は、テメェだ」
「なんだと?」
「テメーはさっき俺に『ぶっ殺してやる』つった。ここを荒らしたクセ、ゴミクズの分際でふざけた事抜かしやがった」
「ゴミクズはテメェだろうが! 鬱陶しい戦り方しやがって! やれるもんならやってみろや!」
唾を吐きながら赤髪の男が吠えた。が、何を言っているのかはわからなかった。耳には入るが、言葉は怒りに溶けて沈む。かわりに、冷たいオーラが滾った。
「……『人の嫌がる事をするな』っていうよな」
「あ?」
「俺には親がいなかったし、他の誰かに教えられたこともねぇ。だから、なんでわざわざそんなことを気にしなきゃならねぇのかわからねぇ」
「なに意味わからねぇ事言ってやがる!」
「まず理屈が納得できねぇし、その教訓だかなんだかの高尚さもさっぱりわからねぇ。けど、唯一何を言いたいかってのはわかる。それは、共感できる。『自分がやっても何にも感じねぇ事』を『人にされる』と何故か、衝撃的にムカつくってことだ。ブチ殺してぇほどにな。テメェは、俺に向かって『ぶっ殺してやる』って言った。俺はよく人に『ブチ殺す』とは言うが、まさか言われてこんなに苛つくとは思わなかったぜ。当然、あとの奴等もブチ殺す。ここを荒らした奴はブチ殺す。けど、それに上乗せてテメェには苛ついてんだ。だから、まずテメェをブチ殺す」
男達は、当初の距離から着かず離れず、走り回っている。見ればわかるレベルの高さ。巧みなフェイント、身のこなし、身体使い。それから推測すると、俺がいままで会ってきた奴等の中でも特に上位に組み込まれるだろう。
しかし、それ故に動きはよめる。物事は、極めようとすればするほどに似通ってくるものだ。ピラミッドに、なっている。頂点を目指せば、必然的に動きはその運動に適したものになり、手本の形が出来上がる。動きを読むにはそれを理解し、なぞればいい。
足音の強さ、数、細かさ、テンポ、リズム、その歩調。大気の流れ、気配を感じ取りって初期位置から現在の居場所を割りだし、盾をあてがう。チェスを打つように、場景を俯瞰。縦横無尽に駆ける盾達。障害物となり、誘導物となり、足場となり、俺を守る防壁となる。
戦場を、支配する。
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鈍色が軌跡を描いていた。橙赤色に染まった空間を縦横無尽に切り裂き、我が物顔で舞っている。
孤児院の中には木が焼ける音と盾が風を切る音、そして複数の足音だ。力強く、かつ繊細。
二人の男達が駆けまわっている。高速に至ったかと思えば、次の瞬間には逆方向へと転換、速度は落ち無い。加えて急停止と急加速の反復。数えるのが億劫になる程のフェイントの数と、瞬発力。並の動体視力では容易に見失うことになるだろう高次元の錯乱だ。
「チィ! 駄目だ、動きが読まれてやがるッ!」
だが、鈍色の光はその動きをさらに上回っていた。行く先帰る先に回り込み、または進行を遮り、進路を絞り、男達の機動性を抑えつけている。
ヨルベ・イージスの盾『粘着ボディガード』は常に男達の進行方向の先に回った。思わず、男達が盾のある方へと走っているかのように見えてくる始末。行く先々に立ち塞がる盾と、それに対峙する男の光景は、飛ぶ鳥を追いかける児戯のようにすら見えた。
突如として眼前に迫る盾に、オールバックの男が目を見開く。
これは、この場にいる人間のそれぞれの動き、場所、予測移動地点が掌握できていなければ到底不可能な芸当。驚くべきは、鈍色を操る4番の男、その空間把握能力だ。
男達の目がほんの瞬きの間交差した。瞬間、二手に分かれ、円を描く様に駆け出す。このまま続けても無駄だと割り切り、あえて遠回りに詰める手を使ったのだ。
それを見て、ヨルベの眉がかすかにあがった。
「走り回って、俺の盾の射程を目算したか……」
忌々しげに、ボツリと呟く。
ヨルベ・イージスの先見力は確かに目を見張るものがある。それは、事実だ。だが、男達も、幾度の修羅場を超えてきた猛者。ただ悪戯に体力を消耗していたわけではない。
盾を具現化するヨルベの能力である。能力の性質上、その系統は容易く見当がつけられ、同時に弱点も露見する。
“具現化系は放出系統を苦手とする”
念を納めた者、ましてや数多くの経験を積んできた者にとっては常識のこと。
金髪の男が、足下を掬おうと滑空する『粘着ボディガード』を跳んで避けた。空を切った盾はしかし即座に軌道を修正し旋回、勢いをそのままにオールバックの男の死角に回り込む。風切り音を捉えた男は、弧の字に飛来してくる盾に対し、大きくバックステップを踏んだ。引いた体を素早く立て直し、正拳を放つ。
鈍い金属音。
「へぇ、意外とやるね」
「やるって、どっちが?」
「ヨルとやりあってる男達の方かな」
口元に小さな笑みを潜めてシャルナークが言った。彼らは、ヨルベを追って孤児院内に立ち入っていた。
「かなり戦闘慣れしてるみたいだ」
刹那に起こり、そして煌きの如く閉じる幾つもの攻防の中、シャルナーク達は、ヨルベの『粘着ボディガード』にかすかな軋みが生じ始めていることを見つけた。
ヨルベの盾は超高硬度の盾。しかし、無敵の能力など存在しない。盾の綻びは、盾の射程限界点での牽制を続けた代償であった。
いつの間にか、男達の動きはパターン化していた。一歩退いては踏み出し、反射的に盾が押し迫る。そこで瞬時に距離を置き、限界点まで伸びきったところを掌底。繰り返す。
そして、男達はその防御範囲を完全に捉えた。反発力が弱い。十分に押し返せる抵抗。
にやり、と金髪の男がほくそ笑んだ。
彼等はもはや、下手に距離を詰めようなどという下策はとらないだろう。このまま競り合いを続けていれば、ジリ貧で攻め抜けることができるとわかりきっているからである。
「なんだオイ、見切ってみればあっけないぜ! あとは時間の問題よ!」
念を用いた戦いにおいて、心に留めておかなくてはならない事項の一つに、秘匿を保つ事が挙げられる。何故ならば、互いに能力を観察しながら行う攻防において、未知で保たれることそれ自体が脅威となるからだ。いわば、虚構を武器として扱っている。
肉体的戦いと、情報的戦いの両面性。
逆に言えば、自身の能力が割れる事、それは武器を一つ失う事になり、同時につけ入る隙を許す事をも指している。
ヨルベが置かれた状況とは、まさにこの状態だった。能力が露見してしまうと、対策を練られる。『粘着ボディガード』で言うと、距離に応じて強度が変化するその特性だ。
男が嗤う。戦場を観察することに長けるヨルベにとって、男の嘲りを見つけるのはたやすい事だった。
その見くびりを、ヨルベは冷酷な瞳で捉えていた。
「これで攻略したつもりか。低能が」
低い声で言って、右腕を伸ばした。
オーラは、身体から溢れだす生命エネルギーである。ならば、その噴出点を移動させればオーラの届く距離が伸びるのは当然の道理。
さらに、踊り出るように踏み出した。
「っうお!」
男達の目には、突然盾の速度が上がったように見えた筈だ。ヨルベと盾との距離が縮まることによって、盾の操作精度はグンと増す。
盾との直接距離+手を伸ばすことによって縮まる距離=盾に届くオーラパワー!
『粘着ボディガード』は速度を増し、硬度を高め、もはや男達の拳では押し返せない強度とスピードに至っていた。さらに盾は加速。
「これが、ヨルの戦い方……」
マチは、両腕を掲げたヨルベを見て、その姿に演奏をさばく指揮者のイメージを投影させた。
手を振り上げると、波打つように盾は弧を描き、振り下ろせば大きく勢いづいて振りかぶる。穏やかなテンポから、突然過激なエイトビート。クラシックからパンク、ロック、ポップへ。目まぐるしく様式を変化させながら盾は舞う。
翻弄される男達を例えるならば、荒波にのまれた小舟のそれだ。
「でも、これじゃ弱点を補った事にはならない。さっきみたいに距離をとられたら、同じことの繰り返しになるわね」
マチがボソリと呟いた。驚きと同時に分析が、彼女の中で並行作業に行われていた。
盾の強度と精度は格段に上がっている。ヨルベが盾との距離を詰めれば、さらに硬く、速度は増すのだろう。しかし、彼女が言うとおり、それでは根本的な解決にはなっていなかった。
わかりきっていることだ。男達は、距離を置き直すことで再びアドバンテージを得ることが出来るから、ヨルベの取った行動はその場しのぎにしかならないのである。さらに加えれば、それを繰り返す事で彼らはヨルベを仲間の一人から離すことが出来る。そうなったら男達の思うつぼだ。
マチの言葉に込められた意味とは、つまりこういった内容だった。
「シャル、そろそろ私たちも手伝いにいってあげた方がいいんじゃない?」
マチは、目だけをシャルナークに向けて尋ねる。対するシャルナークは「いや」と一言だけ言って、含み笑いを見せた。腕を組んで、目の前で繰り広げられる戦闘の行方を見守っている。
「ヨルはまだその真髄を見せていない」
マチはシャルナークの言葉の意味を掴めず、怪訝な表情をつくった。
彼はこの現状を見て、ヨルベの勝利を全く疑っていない。何故なら、この先の展開を知っているからだ。過去に見てきたと言っていい。
そして、変化は直ぐに訪れた。
「おい、バーツ。近づきすぎだ!」
金髪の男、サブが仲間の男に注意を促した。
よく見てみれば確かに。バーツ呼ばれた赤髪の男は、徐々にヨルベに対して接近していっているのがわかる。
「おい!」と続いて咎めるように声をはった。サブは、勝機を見出してから、さらに動きを慎重にしていた。油断すれば足下を掬われる事を経験から学んでいたからだ。だから、仲間の一人がとった行動を理解できなかった。
「違う。違うんだ、これは……」
そして、理解が及んでいないのはその男も同様であった。
仲間からの思わぬ困惑の声に、サブは眉を顰める。
「違うって、なにがだ?」
「ッ……駄目だ、クソ! 抜け出せねェ! 畜生アイツ、俺を引きずり込む気だッ!」
苛つきが、男の声を荒げさせた。己が動きを支配される不快感と、悪化する状況に対しての焦燥感。
少し、また少しと足が動かされている。
四方八方からくる牽制をさばくと、一歩ヨルベに近付いている。これはマズイと距離を開けようとするが、飛来する盾が行き先を殺して、道を塞がれる。
盾の障害によって、赤髪の男はヨルベの方へと誘導されていた。
気付いた時には既に遅い。奥へ行けば行くほど、盾の動きは獰猛さを増していく。
「まだ手伝いがいると思うか? マチ」
「……蟻ジゴクね。あれじゃあ」
「あれが、俺がヨルを入団させるに値すると思った理由だよ」
顎に手を当ててシャルナークが言った。愉快げな声の調子だ。
「ヨルの最大の武器は防衛能力なんかじゃない。あの盾の防御力は確かに目を見張るものがあるけど、言ってしまえばそれだけなんだ。危害を加えられることに意識しすぎた、受け身で、防御一辺倒の臆病な能力さ。どれだけ強力な力でも、ただ身を守ることに特化しただけの奴なら俺もクモに欲しい人材だとは思わなかっただろう」
「ふぅん」とマチが相槌を打つ。
「でも、あれはアンタの御眼鏡にかなったわけ」
「ああ。あれはなかなか見つからない才能だよ。聞いてみたことがあるんだけど、ヨルは空間を立体的に見る事ができるらしいんだ。頭の中でモデリングして、クルクル回転させながら、何処に何があるか、そこから何が無くなったか、移動したかを把握するんだってさ。ヨルはさらにそこに自ら障害を作ったり、それを自由に動かして自在に戦場の形を操ることができる。戦場支配能力。これがヨルの真骨頂。アイツ、ボードゲームがとんでもなく強いんだ。俺、何度かチェスをしたことがあるんだけど、全然勝てなくてさ。」
ジリジリと、男は内側へ引き寄せられていった。内から外へ弾かれるサブとは対照的に、バーツは内へ内へと引きずり込まれていく。
脱出口は存在しない。あるのは一本道だ。
至る所から飛んでくる盾を目で追っていると、ふとした拍子に4番の男と視線が合った。
「ッ!」
ぶわ、と汗が噴き出す。大量の卵が一斉に孵化するように、肌が泡立った。
ヨルベはバーツの姿など見ていない。その瞳には、その先にある彼の死だけを見ていた。
「俺は、言ったよな。お前も返事をしたから、確かに聞こえた筈だ。『まずはテメェをブチ殺す』と、そう言った。今からそれを実行するぜ」
バーツの背筋に怖気がはしる。振り返ればサブが盾の壁を突破しようと走り回っていたが、後一歩のところで遅かった。もはや、バーツはヨルベの領分まで足を踏み入れてしまっていたからだ。
盾の速度は、さらに加速し、それに伴って誘導もあからさまになった。
奥へ、奥へ、さらに奥へと。バーツは引きずり込まれて行き、そして……
「…………え?」
止まった。
バーツの心臓が激しく脈打っている。盾の動きが変わった。来た道を戻る隙は無いが、内へと引き込むような気配は無くなっている。
4番の男が鋭い眼つきで振り返っていた。何事かと、バーツもそちらへ視線を移す。
「ゲ、ゲン……」
そこには、『4人組』の内の一人。眼鏡の男、ゲンスルーが立ち上がったところであった。
4番の男が攻めの体勢を止めたのは、彼に対しての警戒からだ。
しかし、立ち上がったとは言え、その足取りは心もとない。
「……」
発するオーラが弱弱しい。まだダメージが残っている……筈。余裕はある。ヨルベはそう判断して、意識を切り替えた。赤髪の男へ、警戒の割合を振り直す。
それが失策とは気付かず、視線を戻してしまった。
どんな人間であっても一度張った神経が解れると、どんなに意識した集中であれ、緩む。探し物の最中、似たものを発見した瞬間。自らを叱る親、失敗を指摘する上司、恐怖の対象が去った時。一つ峠を越える度、一度緊張状態は薄れる。
ゲンスルーが立ち上がったことを、敵が持ち直したかと勘繰り、しかし杞憂だと切ってしまったヨルベには、僅かな隙が生じてしまった。ゲンスルーの口元が小さく歪んだのを見つけられなかった。
そして、それを見逃すバーツではない。彼らは長い間連れ添ってきた仲だ。簡易な意志交換ならアイコンタクトで済む。
首元にチリチリと違和感をヨルベは感じ取った。途端に不安に苛まれる。
「っ! 直進だと!?」
ヨルベの知らずの油断が、突然一直線に向かってきた男への対応を阻害した。
盾は逃げ道を遮るように設置してあったため、反応しきれない。
「自棄になったか!」
咄嗟に『ノリ・メ・タンゲレ』を回収して張り直す。同時に大きく仰け反った。
盾は地面に向かって水平。『ノリ・メ・タンゲレ』を境に、バーツはその表面に体を擦りながらヨルベの上を越えていく。
越えながら、バーツがオーラを球状に広げた。瞬間、ヨルベの視界が赤に染まる。
「なぁ――っ!?」
「ほらよ! やっと届いたぜ!」
ヨルベの足下から、火柱が噴き上げたのだ。『ノリ・メ・タンゲレ』はバーツからの『危害』を妨げるために真上に展開されている。よって、上下、バーツと火柱の板挟みの攻撃を処理することは出来ない。
そして皮肉にも、盾はヨルベとバーツを区切るように展開されていたため、結果的に火柱からバーツを守ることになってしまっていた。
足下から燃え上がる炎と、盾によって篭る炎の両面焼き……!
「ガァァぁああああ゛ああ、あ゛ァアア゛ア゛ア゛あ゛アあ゛あ゛ア゛!!」
堪らず、吠える。断末魔の如き叫び。
声が通過すると共に、喉が焼ける痛みが脳天に突き上がった。
喉を掻きむしり、身体を抱えながら転がりまわる。
肉を焦がす灼熱が肌の上で這いずり回り、ヨルベの思考を蝕んだ。まるで火刑だ。
涙が溢れ、そして蒸発する。ヨルベは滲む視界に、一人近付いてくる者を見つけた。苦痛の暴風雨の中、辛うじて保った意識をかき集めて『ノリ・メ・タンゲレ』を展開。
「そんなもんで止められるかよ」
おぼろげに形作られた盾。霞に溶けてなくなりそうになりながらも寸のところで押し固められていたそれは、しかし次の瞬間には爆発、四散した。
絶対の防御力を誇る『ノリ・メ・タンゲレ』。しかし、混濁し、朦朧とした意識の状態では元来の強度は保てない。
広がる煙の向こうに、ゲンスルーの無情な瞳を見つけた。
*
プロシュートの兄貴に怒られそう。