「起立! 礼! 着席!」
麻帆良女子中等部、2年A組の委員長である雪広あやかの凛とした声が教室に響き渡る。
2-Aの評判をあちらこちらで聞けば、それぞれ実に多様な答えを返すことだろう。曰く、騒々しい。曰く、レベル高い。曰く、頭悪い。
とにかく元気ばかりが目立つクラスであることには違いなく、しかし授業の始まり、ホームルームの始まりの合図だけは、何故か皆しっかりと従うのが不思議であった。
総勢三十人の少女達が一斉に立ち、一斉に礼をし、一斉に座る。当たり前のことなのだが、中々に面白い光景だ。
「みんな、おはよう。今日も元気で何よりだよ」
「高畑先生も! 今日は一段と素敵です!!」
「はは、ありがとう明日奈君。君も今日は一段と元気だね」
「た、高畑先生に褒めてもらった‥‥!」
「落ち着くですよ明日奈さん、飛び跳ねたらスカートが、ほらクマさんが」
「きゃあっ?!」
長いオレンジがかった茶髪を、鈴の髪留めでツインテールに結んだ少女が感情の昂りのままに飛び跳ね、それを隣の読書家の少女がゆる~く制する。
その小さな騒動をバックグラウンドに、方々で少女達は好き勝手をし始めた。肉まんを配り始める者、ノーパソをいじり始める者、ものすごい勢いでお絵描きを始める者、早くも教室を抜け出し始める者。
この混沌こそが2-A本来の姿だ。先ほどの、他の者達からの評価を統合すれば、元気だが頭の悪い美少女達が集まる混沌としたクラス、となるだろう。
出張も多く留守にしがちな担任を責める声がないわけでもないが、彼女達をまがりなりにもまとめられているというだけで担任の人柄が分かるというものである。
「あぁみんな、今日はちょっと話しておかなければならないことがあるんだ。少し静かにしてくれるかな?」
とはいえ簡単に御せるクラスでないことも確かで、困ったように口を開いた担任‥‥タカミチの言葉は教室内に浸透しない。
声を荒げているわけではないが、彼の言葉は基本的によく通る。しかし人間の集中というのは実に脆く、興味が向いてないことはとことん耳に入らないものだ。
「はぁ、仕方がないな。‥‥雪広君」
「承知しました。ほら、皆さん!高畑先生からお話ですわよ!」
「そうよみんな! 高畑先生の話を聞かないなんて、なんて、なんて勿体ない!」
「明日奈は少し黙っときやー」
あやかの声はタカミチよりもさらによく通る。漸くその声に皆が反応し、そして道化じみた明日奈の慌てっぷりに笑いが巻き起こった。
まだ勝手に色々やっている生徒が半分ぐらいはいるが、とりあえずある程度の注目は自分の方に向いた。そう判断したタカミチはやれやれと溜め息をつくと再び口を開く。
「実は今日は皆に新しい先生を紹介しようと思ってね。本当は朝礼か何かで紹介するのが筋なんだけど、その前にこのクラスで授業が入ってしまったから、こんな形で申し訳ないけど‥‥。いいかな?」
「大丈夫でーす!」
「はいはい高畑センセー! 新しいセンセってイケメンですか?!」
「違いますよお姉ちゃん、きっとナイスバディの女の人です」
「それじゃしずな先生とキャラ被っちゃうじゃん。きっと冴えない中年親父だよ」
「待つアル春日、それじゃつまらんアルよ。高畑センセが紹介するぐらいだから、きっと武術の達人アルよ!」
「むむ、それは拙者も見過ごせぬでござるな」
「おじいさまみたいな人やったら、ちょっとメンドーやえ」
少しこちらが口を閉じれば途端にピーチクパーチク。本当に仕方がないなぁもうとタカミチの苦笑いは続く。
ほらほら、と今度は自分で手を叩いて、クラスの注目を集めた。
「それじゃあ先生を呼ぶから、少し静かにしていてね。――葛木先生、どうぞ」
ガラリ、と教室の扉が開く。
クラスの注目が一気に集まった。深い緑色のスーツを着た男性だ。特徴らしい特徴はない。荒々しい木彫りの仏像のような、そんな印象の痩せた男性だ。
エネルギッシュな程に若いわけではなく、おじさんと呼ぶには若過ぎる。老け顔のタカミチよりは若いだろうか。
ただただ平坦な視線で事務的にクラスを見回している。タカミチの隣に立った彼を前に、生徒達は本来ならヒソヒソ声でやるべき会話を堂々と大きな声で交わし始める。
「思ったより普通」
「イケメンじゃないかも」
「怖そう」
「なんか残念」
「むむ、得体の知れない感じアル。強そうだけど、そうでもないような。弱そうだけど、そうでもないような‥‥」
「得体の知れない、というのは同感でござるな」
「怒らせちゃいけないタイプの先生っぽいかも」
「桜子の勘がそう言ってるなら‥‥やっぱり怖いような」
勝手なことばかり生徒達が喋る中、タカミチに促されて彼は黒板にカツカツと自身の名前を書く。
“葛木宗一郎”。
それだけ書いて、振り返って口を開いた。
「このたび社会の教師に就任した。葛木宗一郎だ。よろしく頼む」
老いも若きも、新しく赴任した教師は自らを生徒達にアピールするものである。教育者は生徒との円滑な交流も仕事であり、自分のキャラクターを理解してもらい、生徒達を理解する必要を求める者が多い。
しかし宗一郎は淡々と、必要な情報だけのみを伝えて口を閉じた。
偉そうなわけでもない。ぶっきらぼうなわけでもない。もちろん機嫌が悪いわけでもない。
一見すると取っ付きにくいぐらいに真面目、几帳面、頑固、融通の利かない教師なのである。勿論それが、初対面の生徒達に伝わるはずもなく。
「‥‥あー、彼は神戸の神戸の高校から赴任してきたんだけどね、なにぶん急な話だったので色々と大変だと思うから、みんなも協力してあげて欲しい。さて和美君、悪いんだけど」
「まっかせて高畑先生、やっぱこういうときは質問タイムでしょ! 司会は報道部の私が。じゃあみんな、質問のある人は手を挙げてちょうだいな!」
あまりに簡潔すぎる自己紹介に一瞬フリーズしていたクラスメートも、麻帆良のパパラッチこと朝倉和美の声で我に返る。半数ほどが一斉に挙手をし、ハイハイハイ私が私がと喧しい。
こういうとき場を取りまとめるのは、あやかではなく和美がやる。そのあたりの呼吸の合わせ方は流石というべきか。
「じゃあ、えーと、柿崎!」
「先生は前は何を教えてたんですか?!」
「倫理だ」
「高校の先生だったのかあ。じゃあ次は‥‥鳴滝姉!」
「好きな食べ物は何ですかー?」
「味噌汁だ」
「家庭的! というか質問がありきたりでつまらん! はい、木乃香!」
「特技は何ですかえー?」
「運動だ」
「大雑把! それじゃ‥‥やばそうだけどパル!」
「ズバリ恋人はいますかッ?!」
色濃い隈を化粧で隠しもせず、ギラギラとした瞳で前のめりになりながら手を挙げた早乙女ハルナの質問に、一気にクラスが沸き立った。
隈はさておき、色恋沙汰はいくつになっても女性の話題の中心である。興味のなさそうにしていたクラスの半数の、さらに三割ぐらいも話題の転換に少し身体を正面へと向き直した。
「私達はその質問を待っていたぁ!! 葛木先生、どうぞ!!」
「妻がいる」
「つ、ま‥‥? なんと、なんと、まさかの妻帯者だぁぁあああ!! ど、どんな人なんですか?!」
葛木の外見年齢を考えれば、決して不思議なことではないというのに、クラスが更に沸き立った。
もはや悲鳴に近い嬌声が教室を震わせる。あまりの声の大きさに、さしものタカミチも渋い顔で耳を塞ぐ。
「グルジアの出身と聞いている。女子寮の寮母の職に就いた」
「グルジア‥‥? 超りん、グルジアって何処?!」
「ロシアの南、トルコの東、トルクメニスタンの西、イラクの北ネ」
「‥‥つまり何処」
「トルコの東、イラクの北ということは中東です。アジアともヨーロッパとも違うですが、グルジアでしたら黒海の沿岸ですから若干ヨーロッパ圏に近いかと」
「おぉ、流石ゆえ吉、よくわかんないところだけ物知り!」
「パルの原稿はもう手伝ってあげないことに決めたです」
「それは! それは堪忍!!」
グルジア、というのは且つてコルキスがあった地域に建国された国である。大雑把にあの辺りでいいだろう、とキャスターが世界地図を見ながら適当に自らの出身地をでっちあげたわけだが、勿論それは真名への重要な手がかりになり得る。
どうにも新婚生活で頭のネジが一本飛んでしまっているらしく、学園長やタカミチに詮索癖がなくて本当によかったと密かに愛衣が冷や汗を流していた。
「‥‥あ、もしかして寮母さんって、あの超絶美人の」
「なになに美空ちゃん、もしかして会ったことあるの?」
「珍しいじゃんアスナ、おっさん以外の話題に食いつくなんて。うん、そうだよ、今週の始めに少しだけお話した。へー、葛木先生の奥さんって、あんな美人なんだぁ」
わいわいがやがやと騒々しい教室を眺め、質問に答える以外は完全に無口であった宗一郎がチラリとタカミチの方を見た。
誰も気がついていないが、既にチャイムは鳴っている。言わんとすることを理解して、タカミチは宗一郎の視線に頷くと、再びパンパンと手を鳴らす。
「はい、じゃあそのぐらいでいいかな。殆ど質問が出来てない気もするけど‥‥とりあえず、一時間目を始めようか。タイミングよく、社会の授業だよ。葛木先生、準備は大丈夫かい?」
「問題ありません」
「うん、良かった。じゃあ最初の授業だし、僕は教室の後ろの方で見学していようかな。みんな、葛木先生を困らせたりしないようにね」
はーい、と元気な声で返事をし、クラスが授業の態勢へと移る。
教科書を開き、ノートを取り出し、宗一郎の板書を写す。何の変哲もない普通の授業である。
強いて特筆すべき点はといえば、授業中にサボタージュを試みた出席番号二十六番エヴァンジェリン・A・K・マグダウェルがいつの間にか近づいていた宗一郎によって椅子の上に投げ飛ばされたり、居眠りをかまそうとした出席番号二十五番長谷川千雨が額にチョークの指弾を喰らったり、板書に一文字の誤字を指摘されただけで黒板まるまる書いていた板書を全て消して書き直そうとした宗一郎が慌てた皆に止められたりと。
とりあえず初回の授業としては、概ね好意的に受け止められたようである。
◆
「‥‥あぁ、暇だわ。まさかここまで暇だとは思わなかったわ。宗一郎様、早く帰ってこないかしら」
時と場所は変わって、陽も地平線へと沈みつつある夕方。麻帆良女子中等部の寮にて。
見取り図を片手に寮のあちらこちらの点検と見回りをしながら、キャスターは重い重い溜め息をついた。
先日、麻帆良全体の寮の統括をする者から仕事の説明を受けた彼女は、数日の間は精力的に仕事をこなしていた。以前に居を構えていた寺では似たようなことをしていたつもりではあったが、流石に歳若い少女達が大勢住み込んでいる寮である。仕事は何もかもが新鮮で、楽しくすらあったが、今では暇の一言で済ませてしまう程度のもの。
最初に愛衣や高音から話を聞いた通り、そもそもこの巨大な寮を一人の寮母が管理するのは到底不可能なのである。清掃や設備管理など、それなりの業者が仕事としてやっているため、寮母さんの仕事は非常に少ない。
具体的には寮の前や玄関などの簡単な清掃、設備の点検――実際の修理交換は業者が行う――や宅配物の保管、夜の見回り、寮生同士のトラブルの仲裁など。
もちろん未だ仕事を始めて一週間にも満たないキャスターは、まだまだどれも手一杯なのだが‥‥。流石に時間のかかるものではないため、どうにも手持ち無沙汰であった。
「そろそろ生徒達が帰ってくる時間だから、宅配物とかあったら渡してあげなきゃいけないんだけど‥‥。来てないのよねぇ。寮費の納入時期も未だ。トラブルらしいトラブルもないし、あとは夜の見回りぐらいかしら」
宗一郎様との時間に水を差すことになるのは、ちょっとよくないわね。そう独りごちて、キャスターは最後にトイレの点検を終えて電気を消した。
この寮、それぞれの部屋にトイレとシャワーがついているため、大浴場の近くのトイレ以外は殆ど使われていない。あまりにも広い大浴場の手入れは先述の通り業者がしていて、とにかく仕事が少ない。
よく考えれば、最初に渡されたスケジュールのようなものにはやたらめったら休憩の文字が多かった。なるほど、それはこういうことだったのか。
「あ、キャスターさんだ。こんにちわ‥‥いや、もうこんばんわですかね」
「貴方は‥‥えぇと、ミソラね。こんばんわ。今日は早いのね」
玄関の横の管理人室の扉に手をかけると聞こえてきた元気そうな声に、笑顔で振り返る。
以前に一度だけ挨拶を交わした少女、春日美空である。あれから登下校の際に軽く挨拶をする程度には顔見知りになった、ほぼ唯一といっていい生徒だ。
寮母の仕事をして一週間も経たないとはいえ、ここまで生徒と面識がないというのもどうだろうか。そんな悩みも密かに抱えてはいるのだが。
「今日はシスター・シャークティが早引けさせてくれたので。陸上部の練習もなかったし‥‥」
えへへ、と笑う美空は制服ではなく、シスターが着るようなトゥニカを纏っていた。
もっともスカート丈は制服ほどではないが短く、頭巾‥‥ウィンブルも貞淑というよりは彼女の元気さを抑えるための封印のような印象を受ける。さしずめ戦うシスターのような感じで、ミスマッチもいいところではあるだろうに、何故かしっかりと似合っている。
「シスター・シャークティというのは貴女の上司かしら」
「そうですね。本当は神父様もいるんですけど‥‥お仕事が忙しいので、私の監督役はシスター・シャークティがしてくれているんス。あ、シスターっていうのは‥‥なんだろう、中東だと似たような言葉あるのかな」
「大丈夫よ、わかるわ。それよりどうして私が中東出身だと知っているのかしら? 私、まだそのことは話してないはずなんだけど」
「あ、葛木先生に聞きました。そうだ、キャスターさんの旦那さんって葛木先生だったんですね。すっごく意――」
「その話、詳しく聞きたいわね。お茶でも淹れましょう。ほら早く入って、早く」
「あっ,キャスターさんちょっと待って何か不思議なパワーが働いて?!」
宗一郎の名前が出た瞬間、キャスターの顔色が変わり、強引に美空を管理人室へと押し込んだ。
無詠唱で美空を浮かせ、あっという間に卓袱台の前へと座らせる。既に愛衣から美空が魔法関係者であることを聞いていたが故の暴走である。普段の彼女ならまぁやらんだろう。
「キャ、キャスターさんってやっぱり」
「あら、いけない私としたことが。やっぱりこういうの、いけなかったかしら? 此処の魔術師達は頻繁に空を飛んだりしてるから、この程度ぐらいは大丈夫だと思ったのだけれど」
「いえ、別に私は平気ッスけど。いやぁまさかキャスターさんが、いや、薄々そうなんじゃないかなぁと、私も思ってたんスけどね。おかしいなぁ、積極的に関係者とは関わらないようにしてたつもりなのに‥‥アハハ」
おかしな子ね、と呟きながら、お茶を淹れる。来客用の茶葉なんて揃えられていないので、普通に自分達で飲む時の葉っぱだ。
かつて共に過ごしていた小姑からは未だ未だ精進が足りぬと言われてしまうだろうが、そこそこに日本茶にも慣れてきたはず。御茶請けにと棚から煎餅を持ち出して、キャスターも卓袱台の対面に腰を下ろした。
「まだ学園長と、タカ‥‥ミチ? だったかしら。あとは愛衣と、高音ね。此処の魔術師には四人しか会ったことがないから、その辺りがよく分からないのよ」
「そういえばキャスターさんって、神戸の方から来たんでしたっけ。あの辺りは西洋魔法使いは色々と大変だって聞いてますけど」
「そうね、あまり数はいなかったかしら。それぞれ交流もなかったし。ですからまぁ、普段の生活に魔術はあまり関係なかったかしら」
「へぇ‥‥。私なんかは生まれた時から、あの、両親が魔法使いで。‥‥ホントはのんびり暮らしたいんスけど、中々そうもいかなくて」
「こちらも大変なのね。あまり愛衣からも、その辺りの話は聞いてないのよ。色々と教えてくれると嬉しいわ。‥‥はい、どうぞ、粗茶ですけど」
「あ、どうぞお構いなく。こちらこそすいません」
申し訳ないかしら、と思いながらも高音の湯飲みで美空に茶を出す。来客用の湯飲みも用意していなかったのだ。こういうことが増えるようなら、来週には二つほど用意しておかなければね、少し熱すぎたかしら、煎餅なんて若い子は食べないかも、などと表情がコロコロと変わる。
絶世の美女、と言っても一向に差し支えがないキャスターのそんな様子が実に可愛らしく、面白く、美空は思わずプッと吹き出した。
「あら?」
「いえ、なんでも。そういえばキャスターさんはどうして神戸から来たんですか? 葛木先生についてきた、ってのは分かるんですけど」
「宗一郎様に、いえ、その通りなんだけど、えぇと何だったかしら、そう、住んでいた寺が改修工事で、こちらの知り合いを頼って」
「へぇ、そういえばお寺に住んでたんスよね。じゃあ料理とか大変だったんじゃないですか?」
「精進料理、だったかしら。肉や魚を食べない‥‥のよね? 仏教のことはよく分からないのだけれど、私が住んでいた寺では気にしていなかったわ。そういう宗派だったんでしょうね」
「‥‥私も仏教には詳しくないッスけど、なんだかアブノーマルな感じですね」
「魔術師がいる教会には言われたくないわね」
「いや、あの、魔術師なんて言い方するとアレですけど、魔法使いがいる教会って言えばファンシーで素敵じゃないスかね!」
「鏡を見なさい。シスターの服も悪くはないけれど、もう少し可愛らしい格好をしてから言うことね」
「ですよねー」
そういえば一度だけ会った冬木の教会の神父‥‥聖杯戦争の監督役は、実にいけ好かない男だったとキャスターは苦虫を噛み潰したような顔を作り、すぐに美空の前であることを思い出して笑顔を浮かべようとして、結果、なんとも愉快な苦笑いを浮かべた。
あの神父に会ったのは未だ宗一郎をマスターとする前。とんでもない愚物に仕えていた時の話。それだけでも思い出したくもないぐらいなのに。
当時のマスターではなくサーヴァントであるコチラの方をニヤニヤと眺めては、いちいち癇に障る意味深な言葉を投げかけてきた神父。自分の真名が分かっているわけではあるまいに、とにかく心の隅をささくれ立った爪で引っ掻かれるような気分であった。
そう考えると教会には殆ど良い思い出などなく、どうにもシスター姿も胡散臭く感じてしまう。
「そういえばミソラ、この寮の前の管理人の人はどういう人だったのかしら? 仕事とかは、どんな風にしていたのかしら。引き継ぎらしい引き継ぎもなかったから、気になってしまってね」
「うーん、私もあまり会ったことないんスよね。足腰が悪かったらしくて、私達がいない時間にゆっくり仕事してたんだとか。でも優しそうなお爺さんお婆さんで、日曜日には教会にも来てたような」
「それじゃあ仕事の話が聞けないじゃないのよ」
「あんまり深く考えないで、のんびりやればいいんじゃないかなぁ。それこそ宅配物預かってもらったり、ゴミ出しのやり方で注意されたり、あとは掲示物とかの貼り出しもしてたような気がするけど、そのあたりはもう聞いてるだろうし‥‥」
やれやれ、と二人揃って茶を啜る。キャスターも仕事内容が分からない、というわけではないのだ。組合の代表から話を聞いている以上は引き継ぎ云々というのは建前のようなものであり、本意は別にある。
寺では婦女子は修行の妨げになるとして離れからあまり姿を見せず、人との会話は宗一郎を除けば住職である零観や彼の弟の一成のみ。つまるところ彼女は‥‥。
「そういえばキャスターさんと葛木先生の歓迎会、してなかったなぁ」
「ッ!!」
「毎年新入生の歓迎会はするんだけど、寮母さんが変わったのって久しぶりみたいだし、寮生全員が知ってるわけでもないみたいだし、歓迎会ぐらいしてもいいはずだよね」
美空の言葉に反応して、普通の人よりも若干長めのキャスターの耳がピクリピクリと動く。
そう、仕事自体はしっかりと引き継ぎがされている。何をすればいいかはしっかりと分かっている。
しかしキャスターが苦手なことの一つ。人とのふれあい。こればかりは教えてもらうわけにはいかなかった。
近右衛門やタカミチとのやり取りでは、どうしてもプライドが邪魔をする。
キャスターも神代の魔女。また現人神の一種でもある最高位の巫女。現代の魔術師相手に対等な話を‥‥など、どうしてもプライドが許さない。
しかし例えば愛衣や高音などとは、まぁ普通に話は出来た。彼女達には師のように接しているからだろうか。自分よりも明らかに立場の低い、歳の幼い子ども達となら普通に話が出来るなんてのは随分と情けない話だが、人とのふれあいは苦手であっても嫌いではなく、むしろ彼女は寂しがり屋であった。
「か、歓迎会。そう、歓迎会ね。でもいいのかしら、宗一郎様ならともかく、私なんて只の雇われ、し、仕事で貴女達と接するわけだし、これから、ほら、きっと厳しいことも言ったりしなきゃいけないのに」
「そんなの誰も気にしないッスよ。考えてみれば寮母さんが変わったって、結構大事な事なのに貼り紙だけだなんておかしな話だし。ここはお披露目もかねて,盛大にパーティーするのも悪くないはず!」
まぁ許可を出すのは他ならぬキャスターさんなんですけど。なんて言って美空は肩をすくめた。
コロコロと表情の変わる目の前の、年上の魔法使いが随分と可愛らしい。先ほども思ったが、人間離れした美人のくせに守ってあげたくなるような、からかいたくなるような。そんな印象を受ける不思議な人だ。
本来ならこの手の、魔法に関わる人とは近づきたくなかったはずなんだが‥‥。
(ま、袖触れ合うも多少の縁って言うし。あーあ、どうせならシスター・シャークティみたいな怖い人じゃなくて、キャスターさんみたいな人に魔法教わりたかったなぁ)
それを聞けば先ずシスター・シャークティが怒る前に両親が泣きそうなことを心の中で呟きながら、美空は身悶えするキャスターの湯飲みに茶を注いだ。
もちろん彼女もキャスターの正体を知れば、そんなことは口が裂けても言わないだろう。むしろ美空が普通の少女で、正体を知ってなお構わずマスターたらんとする愛衣の方が異常なのである。
「——その話,私も一枚噛ませてくださいッ!」
「め、愛衣ッ?! 貴女いつの間に?!」
と、急に豪快な音を立てて扉が開かれ、そこから飛び出してきたのはキャスターのマスターである佐倉愛衣。
いつから控えていたのだろうか。少なくとも、ついさっきと言うわけではあるまいに。
「キャスターさんの歓迎会、大いに賛成です! お姉様は別の寮なので今はいませんけど、きっと賛成してくれると思いますっ!」
「いえ、だから愛衣、貴女いつから其処に」
「いつも新入寮生歓迎会やってる食堂で、いつもみたいに派手にやりましょうよ! せっかくですから葛木先生も呼んで! もう今日の夜にでも! 私、同級生呼んで来ます!」
止める間もなくドタバタとはしたなく床を踏みならし、愛衣が去っていく。
伸ばした手が空しく宙を切り、キャスターは呆然と中腰で開け放たれた扉の方を眺めていた。
あれでは止まりそうもないな、こりゃキャスターさんと葛木先生の都合に関わらず、今夜決行だ。美空もやれやれと溜め息をつく。
「キャスターさん、食堂の使用許可、御願いしますね。私もクラスメートとかに声かけてみます。料理が上手な子もいるし、立食パーティーとかいいかも」
「ちょ、ちょっとミソラ、私はまだやるなんて一言も」
「こういうときは諦めた方がいいッスよ、キャスターさん。ウチのクラスにいるとね、そういう境地に達するのもすぐッス。あ、葛木先生にも連絡とっておいてくださいね。それじゃ」
「こ、こら待ちなさいミソラ! あぁ、もう! どうして若い子ってのは、こう人の話を聞かないのかしら!!」
聞いちゃいますけど、言うこと聞くとは違います、なんて捨て台詞を吐いて美空も管理人室を後にした。
なんだかんだで彼女も騒動を巻き起こす側である。正確に言うと、火種を更に大きくしてキャンプファイヤーにする係である。2-Aの生徒は基本的にお祭り騒ぎが好きなのだ。
陸上部らしい早足で去っていく美空の背中を眺めて、遂にキャスターも覚悟を決めた。これはどうやら、そういう星の運命だったらしいと大きな大きな溜め息をついて。
「‥‥まだ宗一郎様も私も携帯電話、とか持ってないのに。あぁ、帰って来た宗一郎様、お許しになるかしら。あぁもう、ホントにままならない世界なんだから、ここは」
勿論その唇は僅かながらに持ち上がっており。
暫くして帰ってきた宗一郎も特に文句を言うわけでもなく、やがて歓迎会は、賑やかに催されることになるのであった。