学園都市のとあるビルの一フロア。
学園都市の維持を行なう統括理事会、その一人である親船最中(おやふねもなか)の事務所である。フロア丸ごとが彼女の仕事場となっていた。
とは言っても本人は「経費の無駄」と言ってはばからない。彼女自身が〝自分は仕事をしない理事〟と自称しているぐらいのだ。
されとて《学園都市》のVIPであり、彼女自身がどう思おうとその権限は大きい。必然、彼女の元に集まる情報も機密度が高いものばかりだ。
警備やセキュリティのためにも、ビルの一フロア程度は必要条件だった。
そのフロアの一室。ドアには『秘書室』と書かれている。
一人の女性がデスク上にあるキーボードを叩いていた。目の前に置かれた液晶モニターには、様々なメールや、スケジュール表のようなものが表示されては消されていく。
女性は美しかった。二十台後半の頃合に見えるが、実際は四十に近い。されど完成された美貌が衰えも無く発揮され、年齢以上の輝きを放っていた。
ブラウンの髪を、きっちりと後頭部でまとめ、はちきれんばかりの体を上品な作りのスーツへ押し込まれている。
鼻筋はピンと真っ直ぐ。ふっくらとした唇が艶かしさを匂わせた。
ふと、コール音が響き、受話器が点滅する。
彼女のパッチリとした瞳が、モニターから横にある受話器へと移った。
女性はため息を吐きつつ、受話器を取った。
「もしも――」
『こにゃにゃちわ~、子猫ちゃん。元気にしてたかーい』
どこか耳に残る、間延びした声。女性は一瞬驚き目を見開くも、ふぅとまた息を吐きながら苦笑いをする。
「変わらないわね」
『ありゃ、驚かないのかい?』
「驚くも何も、私はあなたが死んだとは思ってなかったもの」
『そりゃ残念。せっかく皆驚かすために死んでやったのにな~』
ヒャヒャヒャと笑う電話先の声に、女性はいつかの彼の姿を思い出した。緑色のジャケットをひるがえし、世界を奔放に飛び回った彼を。
「十年ぶりね。どう電子の世界の居心地は」
『悪くは無いが、女の子とイチャイチャできないのは悲しいねぇ。どうだ、こっち来てみないか。こっち来りゃお肌の心配もしなくてすむぜぇ』
「あいにく私、不変の物には興味が無くなったの。日々美しくなる事にこそ、女の真価があると気付いたわ」
『そりゃ残念。せーっかく久しぶりにその柔肌をまさぐれると、思ったのになぁ~』
「それで用件は何なのかしら」
女性は椅子の上で脚を組みなおした。手の小指を唇に這わせる様は、どこか妖艶だ。
『素っ気無いなぁ。感動の再会なんだから、もっと泣いたりしてほしいもんだが』
「あら、それなら大丈夫よ。〝彼〟、未だにあなたの事追ってるのよ。きっと彼なら泣いて喜ぶんじゃないかしら」
『げ、とっつあん。まだ諦めてないのかよ』
「ふふふ。十年前、あなたの遺体が発見されて、DNA検査でも適合したのに、彼だけ〝あなたが生きている〟って言いはったのよ。袖引っ張られるのも振り切って、国際警察機構に辞表叩きつけて、それでもあなたを一人で追ってる。ほんっと、妬けちゃうわ」
『まーた、無駄な事してやがるな』
「無駄だと思ってるの? あなた〝彼〟の事、全然調べてなかったみたいね。彼ね、たぶんあなたのすぐ傍まで来てるわよ。最近なんて、あの歳で大学の情報工学の博士号まで取ったらしいし。たぶん、感動の再会まであと少しじゃないかしら。たかだか電子の海程度で、彼から逃げられるはずないじゃない」
『げげげ、勘弁してほしぃぜぇ~』
そう言いながらも、男の声にどこか喜びが混じっていた。
(本当に妬けるわね)
『あ、そうそう。用件だったな。今メールで送ったから開いて見てくれるかい』
女性はカチカチとマウスを動かし、一通のメールを開いた。
「これは」
『先日の〝事件〟、それに関わったお宅側の理事の詳細だ。都市側が切り捨てるに十分な証拠だろ。例え都市内で裁けなくても、法務局(ブロイラーハウス)なりに提出すれば、少なくない影響が出るはずだ』
「何が条件?」
『なぁに、ちょっと知り合いがその事件で暴れたんでね。幾つかもみ消して欲しいと思ったわけよ。彼女は平穏を望んでるらしいからな。出来れば〝汚れ〟を掃除してあげたいわけさ』
女性はジト目になった。
「……飽っきれた。あなた、体失っても女の事ばかりなのね。まぁ、いいわ。私達も喉から欲しい情報ですもん。その程度だったらお釣りがでるし」
『その詳細に関してもメールで送っておくぜ。今度は〝お肌のぶつかり合い〟をしてみたいもんだ』
「そうね」
女性はどこか寂しそうに答える。
『それに、お目当ての〝モノ〟はしっかりと頂いたからな――』
不意に、秘書室のドアが開き、初老の女性が入ってきた。親船最中(おやふねもなか)だ。
「〝富士峰〟さん。どうかしたの?」
「え?」
電話のスピーカーからは、もうツーツーというコール音しかない。
別れの言葉も無く、いつの間にか彼は消えていた。
なぜなら――。
(彼らしいわね。なんせ〝怪盗〟だもの)
フフフと笑いながら〝富士峰〟は親船に答えた。
「いえ、懐かしい声を聞いたものですから。それより理事、お話があるのですが、よろしいでしょうか」
途端、雰囲気の変わった〝富士峰〟に親船最中はコクンと頷いた。
第31話「第二章エピローグ」
暗い一室に二人の女性が向かい合ってた。
片方の少女は柔らかそうなソファに身を預け、足を組んでいる。窓から差し込む月明かりが、少女の金糸の様な髪を艶やかに彩っていた。
所々にレースがあしらわれている黒を基調とした服に、少女は身を包んでいる。
エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、吸血鬼の真祖の姫君である。
どこか気だるそうに頬杖をつきつつも、エヴァは向かいの女性に愉悦の目線を向けた。
エヴァの前に跪いている女性はトリエラだ。褐色の肌の上に、凛々しいスーツを着ているが、服装はどこか薄汚れている。スーツの端々がほつれ、泥や煤にまみれていた。
左腕にいたってはスーツだけに留まらず、腕自体が存在していない。肩口からバッサリと切られた様で、今は傷口ごと布で縛ってあるのみだ。
トリエラは膝をつき、頭を垂れ、エヴァの前に服従する姿勢を見せている。
「――トリエラと言ったか。貴様の願いは分かった。だが、本心で無かろうに」
エヴァは爪先をトリエラの顎先に当て、顔を上げさせる。トリエラは無表情、ただ淡々とエヴァに従っていた。
「いえ、私は心から姫様の眷属になれる事を願っております」
「クククク、本来の主人の束縛をも振りほどいたお前が、今更私への従属を願うなど見え透いている」
エヴァの言葉を聞いてなお、トリエラは表情を崩さない。片腕しかない手をしっかりと地に付け、ただ服従を示し続ける。
「あの娘が、そんなに大事か?」
トリエラの眉が、ピクリと動く。
「私はくだらぬ三文芝居に付き合いたくなど無い。貴様の願いは私の庇護、強いては麻帆良での居住のツテとでも言うところだろう」
エヴァはサイドテーブルにあったワインをそっと飲む。そしてグラスの淵を、ピンと指で弾いた。
その音を切っ掛けに部屋にある闇の中から人影が飛び出す。影が跪くトリエラの背後に回り、首にナイフを突きつけた。
月光が映し出した影の正体は茶々丸だ。手に持つナイフをトリエラの首の皮一枚程にめり込ませている。トリエラの首元に線が一本走り、血が滲んだ。
それでもトリエラは顔色を変えず、ただエヴァを見つめ続ける。
「ただ、私は姫様の眷属になれる事を願っております」
「クハハハハハ、いいぞ。面の皮の厚いヤツだ。気に入ったぞ女。我は《闇の福音》(ダーク・エヴァンジェル)、よもや誓いの後に抗えるなどと思うなよ」
「ありがたき幸せ」
トリエラは頭を更に垂れる。
「近う寄れ」
エヴァの命令にトリエラは立ち上がりながら、彼女の座るソファに近づく。
自らの髪を手で払いつつ、トリエラは首元を相手に差し出した。
満月が照らす中、エヴァはギラリと牙をむき出した。トリエラの首元に口を近づける、エヴァの鼻腔にムンと汗の匂いが触れた。
エヴァは牙が触れる寸前で止め、笑みを深めながら声をかけた。
「この誓いが終われば、晴れて私の眷属だ。私が『あの娘を殺せ』と言えば、お前は抗えぬぞ」
瞬間、表情は変わらぬものの、トリエラの紅い瞳がギラリと剣呑なものに変わる。
「……よしなに」
「クククク、面白い。では頂こうか、同属の血はマズイのでな、さっさと済ませたい」
カプリ、とエヴァの牙がトリエラの肌を貫いた。
「あっ」
トリエラの頬に朱が浮かぶ。真祖に血を奪われる事に本能が快感を与えるのだ。血がドクドクと奪われながらも、トリエラは恍惚に蝕まれ、意識せずに体がピクピクと動く。
体に刻み込まれた主への従属が、エヴァの体液により上書きされていくのがしっかりと感じられた。
この日、トリエラはエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの眷属となった。
◆
千雨達が学園都市から脱出し、丁度丸一日が経った。
東京に着いた一行は、ドーラの知り合いの医者に治療して貰う事となった。
千雨としては麻帆良に戻れば魔法という手段があるし、ドクターという存在もあるものの、全員がボロボロ。千雨自身、先日の『スタンド・ウィルス事件』並に、体は故障だらけだ。故に、とりあえず医者にお世話になる事と相成った。
特にルイは酷かった。両手が複雑骨折な上、あばら骨も何本か損傷、更には内臓まで傷ついてたらしい。
ドクターが持ち出した特殊な医療機材の治療のおかげで、思ったよりも完治が早くなりそうらしいが、それでも数ヶ月はベット暮らしという事だ。
千雨や夕映にしてみれば申し訳ない限りで、千雨が「何か私に出来ない事はないか?」とルイに聞くと、「ぜひメールアドレスが知りたい」と返された。そんなもんでいいのか、と千雨が首を傾げながらアドレスを渡せば、ルイは滂沱の如く泣きじゃくり、歓喜の雄たけびを上げながら壁を殴り始めた。
ちなみに骨折した腕で壁を殴ったため、ルイの完治は更に伸びたらしい。
ルイなどの一部重傷の人物を東京に残し、千雨達は麻帆良までドーラに送ってもらう事となった。東京の東部から麻帆良まで車で一時間弱。
麻帆良を包む結界のギリギリの場所で、ドーラ達と別れる事となった。
朝焼けの中、傷だらけのワゴンが一台ゆっくりと止まり、中から千雨達が降りてくる。
アキラや夕映は所々に包帯が巻かれているが、一番酷いのはやはり千雨だ。顔は片目を覆うように包帯が巻かれ、左腕にはギプス、足にいたっても包帯やら湿布がこれでもかと貼られていた。
立って歩いてる方が異常、という状態だ。
そんな千雨の後に降りたのはドクター・イーズターである。彼自身には大した傷は無いが、自分の研究所から持ち出せた数少ない資材を背負いつつ、手にはペットボトル程の物体を持っている。その物体は小型の医療ポッドであり、中にはウフコックがいた。
千雨はそんなウフコックの姿を見て、顔をしかめた。
ウフコックは学園都市脱出の際に、体にかなりの負担がかかり、色々と調整が必要になったらしい。
とは言っても資材も設備も揃った研究所はもう無い。現在は対処療法でどうにかしているという状況だった。
運転席の窓から半身を出しているドーラに、千雨は声をかけた。
「バアさん、ここまでありがとう。お陰で夕映を助ける事が出来た。で、報酬なんだけど……」
「はん! チサメの汚い腕なんていりやしないよ! まだあんたがウチに嫁に来てもらった方がマシさね」
千雨の背後に立っているアキラの瞳から光彩が消えた。
「それに頂く物はしっかりと頂いたからね」
ドーラが懐から取り出したのは、光ディスクやメモリなどの各種デジタルメディアだ。そのラベルから見るに、シスターズのいた研究所から盗んできたのだろう。
車に乗って付いて来た一部ドーラ一家の面々も、ズラリと戦利品を見せつける。
「遺伝子改造やら何やらのヤバイ研究目白押しだが、斜め読みした限り真っ当な医療技術へ応用できそうだよ。ヤサに戻ったら欧州を中心に製薬会社に売りさばくつもりさ」
ドーラはニタリと笑みを強くする。そんな強かな面に、千雨は乾いた笑いを浮かべた。
「――それでも」
夕映がドーラ達の前に一歩進み出た。昨日から何度目だろう、夕映は感謝の言葉を言い続けている。
「ありがとうございました、ドーラさん。あなたの協力のおかげで、私はこの場所へ戻ることが出来たデス」
ペコリ、と深くお辞儀をする。
ドーラはチッっと苦虫を噛み潰した様な表情をし、そっぱを向く。
「べ、別にあんたのためにやったんじゃない、って言ってるさね。まったく、ガキが余計な事に気を使いすぎなんだよ」
ドーラは顔を背けたまま、骨太の手を夕映の頭に伸ばし、ガシガシと荒々しく撫でる。
そのまま今度は夕映の背をバンバンと叩く。
「ほら、さっさと行きな。待ってる人がいるんだろ」
「は、はいデス」
ドーラは車のエンジンをかけて、千雨達を一瞥する。
「じゃあな、ガキ共。せいぜい死ぬんじゃないよ」
そんな言葉を言い残し、ドーラは車を出した。車の窓からは千雨達に向かい手を振るドーラ一家の面々が見える。
夕映はドーラ一家の乗る車が見えなくなるまで、道に立ち続けた。
◆
「ふむ、甘いかのぉ」
麻帆良学園の学園長である近衛近右衛門は、髭を撫でつけながら呟いた。
近右衛門は先程まで、千雨の保護者であるドクター・イースターと会談をしていた。
彼からの要望は二つ、麻帆良での滞在の許可と、一部資金の援助であった。
普通なら言語道断である。
先日麻帆良で爆破と誘拐事件が起こり、その数日後には麻帆良以外をも巻き込んだ大災害が起ころうとしていた。
何かとトラブルが絶えない中で、《楽園》の科学者を囲うなど、リスクの方が余り過ぎる。
だが、彼の持ち出したのは《図書館島》に適用されている国際図書法に利用だった。
様々な思想や権力の元、数々の書籍が歴史上消失している。それを防ぐため、国際連盟が設立された約一世紀前に、国際憲章の一部に記述されたのを始め、今では明確な条約となって各国間で守られている。
世界中に五十二箇所指定されている特殊図書保存施設に、麻帆良の《図書館島》は入っているのだ。日本では国会図書館と合わせて二箇所だけである。
この国際図書法が施行される場所では、治外法権となり一切の武力制圧や他国の干渉が禁止となる。
ドクターはそれを使い、自分の存在を麻帆良内で立証しようと言うのだ。
つまり《図書館島》の一部施設の貸与を求めてきたのだ。幸いあの場所は広大だ。人一人住むのも、隠れる事も容易に出来る。
更にドクターが切ってきたカードは、《楽園》の一部ローカライズした技術供給だった。明確な形での技術提携は、国連法に触れ麻帆良そのものの首を絞める事にもなりかねない。
だが、一部の患者への直接の医療行為であれば、なんとかグレーゾーンといった所か。
正直、近右衛門自身にはさして旨みが無いものの、千雨への後ろめたさを考えれば、応じざるを得なかった。
ドクターの資金提供というのも、どうやら綾瀬夕映を治療するのに必要な設備、その購入費用だという。
近右衛門はそれらの案件を、即座に部下の瀬流彦に指示を出して調整した。一両日中には、《図書館島》内で彼は生活が出来るだろう。麻帆良内で出来る限り用意できる設備も、運び込む事を約束した。
学園長室の窓から見える風景は、いつもの様に賑やかで平和だ。学園祭を目の前にして、どこか浮き足だっている様にも思える。
例えあれだけの事があっても、《世界樹》を中心に広がるこの世界は揺るがない。そう思っていた――。
◆
夕映は走った。
いつ以来だろう、こんなにワクワクして帰宅するのは。
あっちが先に来ているとは限らないし、家には鍵がかかっているはずだ。
それでも――どこか期待しているのだ。
ジョゼが死んで以来、夕映はほとんどを女子寮で過ごしている。
今となっては、自宅に帰るのは荷物整理をする時ぐらいだ。
人のいない家は冷たい。空気がガラスをまぶした様に尖り、夕映の心を薄っすらと削っていく様に感じる。
でも、これからは。
(あそこの角を曲がれば)
夕映は長い髪を揺らしながら走る。麻帆良から連れ攫われて三日、たった三日なのに夕映の体は驚くほど変わっていた。
オリンピックの短距離選手もかくや、という勢いで道を疾走していく。麻帆良学園の陸上部員が見れば、即座にスカウトするだろう走りっぷりだ。
角を曲がれば、見覚えのある屋根が見えた。
ジョゼと日々を過ごした、変哲の無い二階建ての家屋。
朝方という事もあり、家の中の明りが付いてるかは確認できない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
希望を孕んだ緊張が夕映の中に広がる。門を通り、自宅の玄関を前にし、夕映は鼓動を早めていた。
そっとドアノブに触れる。鍵はやはりかかっていた。
鍵を開けて中に入るも、玄関から見える自宅内部は、いつも通り人気の無い空間だった。
「あぁ」
分かっていた事だった。昨日の今日で、すぐさま場所も知らない夕映の家に来れるはずが無い。
それを分かっていながら、夕映は自分の願望を相手に押し付けていたのだ。
でも――。
眉が八の字を描く。初夏なのに、家の中の空気は人気が無いせいで冷たい。
視界が歪みそうになる、夕映にはそれが悔しかった。
そこへ、夕映の耳に物音が聞こえた。金属の擦れる音。そう、まるで家の門扉が開かれた様な。
夕映は急いでドアを開けた、朝の日差しが家の中へ降り注ぐ。その中を、門から歩いてくる人影があった。
「あはは、せっかく〝アイツ〟に住所まで調べてもらったのに、追い越されちゃったね」
褐色の肌の女性。流れる金髪をポニーテールにして纏めている。
凛々しかったスーツは所々破けているし、左腕にいたっては肩口から生地が存在していなかった。
だが、体に〝目立った傷は無く、五体満足の様だ〟。
「あぁ」
夕映の口から吐息が漏れる。夕映にとって欲しくて仕方が無かったものの一つが、目の前にあった。
「せーっかく先回りして出迎えてやろうとしたのに、このチビっ子は足が速いのね」
女性の伸ばした指先が、夕映のおでこをポンと小突いた。それがくすぐったくて、夕映は笑った。
「なんか立ち位置が逆になっちゃったけど、言いたいから言うわね」
女性が立つのは玄関口、夕映が立つのは家の中。本来だったら言葉は逆のはずだ。だが――。
「おかえり、夕映」
「……ただいま、デス」
◆
ラプンツェルは不思議な夢を見て起きた。
ある青年が父親と再会する夢だ。それは嬉しい光景だったはずなのに、少女の目じりには涙の跡があった。
少女は虚ろなまま起き上がり、部屋を見回す。途端、夢の内容は霧散していく。
まだ夜は深い、特に街灯のほとんど無いこの村では、常よりも深い闇が広がっていた。
なのに、視界の片隅に微かな光の粒が見えた気がする。
「え」
チロリと光った微かな粒は、すぐに消えてしまった。だが、消える間際、少女はある青年の見慣れた背中をを重ねた。
「ピーノ」
思わず手を伸ばし、ベッドからずり落ちてしまう。
「痛っ」
毛足の長いカーペッドが彼女を受け止めたおかげで、怪我たる怪我は無い。
なのに、何とも言えない寂しさが、涙腺を刺激する。
コツコツと部屋に時計の秒針の音だけが響き、少女は夢が覚めたのを理解する。
ピーノが消えてから一ヶ月。未だ彼から音沙汰は無い。寂しさから、彼の夢を何度も見ているぐらいだ。
肘がズキズキする。少女はもしかしたら血が出てるかもしれないと、サイドテーブルに置かれたベッドランプを付けた。
「あれ?」
明りを付けたら見慣れない物が目に入った。サイドテーブルの上に、小さな人形が置かれている。
「ウサギ、のキーホルダー?」
少女はウサギの人形の付いたキーホルダーを手に取った、途端に忘れていた夢の内容が一気に甦ってくる。
「あぁ……」
夢の中で確かに〝彼〟は、少女へ別れの言葉を送っていたのだ。
〈――――――〉
「うん、うん」
彼の言葉に頷き、答える。キーホルダーを両手にしっかりと握り、彼が残した言葉を反すうした。
少女の目から涙が溢れた。ボロボロと、ボロボロと。
青年の面影も温もりも、まだしっかりと覚えている。
産まれてからずっと一緒にいた家族だった、初恋だった。ずっと、ずっと変わらないモノだと思っていた。
たくさんの後悔がありながらも、あるはずの無かった別れの逢瀬に、少女は笑みを浮かべるしかない。例え、顔中が涙に濡れようと、笑みを止めるわけにはいかなかった。
だって彼は、たかだがキーホルダーを渡すために、それだけのために自分の所まで来てくれるのだ。
「ピーノってさ、私にベタ惚れだよね」
最後に彼の困った顔を見れたのは望外だった。隈の取れ安らかな寝顔を自分に見せ、彼は消えていった。
窓を開けると、たくさんの星が見えた。星の中へ向かう、小さな光の粒がある。
ラプンツェルは零れる涙を拭うことなく、光へ言葉を送る。
「ピーノ、おやすみ」
第ニ章〈エズミに捧ぐ〉エピローグ終。
第三章〈フェスタ《殻》編〉につづく。
(2011/01/08 あとがき削除)