あの冷たくも熱い夜から、一週間の時間が流れた。といっても、俺が起きたのは今さっきのことで、体感的にはほんの少し前のことだったりするけれど。
その後の顛末を、高畑さんからの伝聞ではあるが、かいつまんで説明しよう。
エヴァンジェリンさんと俺が起こした闘争は、随分と凄まじい被害を与えたらしい。麻帆良の大橋を倒壊させ、川の水を永久凍土に閉じ込めた結果、暫くその場を厳重な認識阻害魔法を掛けた上で隔離することになったというのだから、それはもう凄い被害だ。
だがどうやら学園長さんの説明で、今回の事件は大停電の際の有事における学園防衛の演習ということで、強引に話しをまとめあげたらしい。普通、そんなのではいそうですかと納得できるわけないが、事件の犯人であるエヴァンジェリンさんは、一ヶ月間、演習とはいえ、魔法の秘匿性を無視した行為を咎められ、監視をつけられた上での一ヶ月の謹慎処分。被害のほうは学園長さんの伝手によって、俺が眠っていた一週間の間で修復等が終わったらしい。
そして俺はといえば、いち早く辿り着いた学園長さんの手によって、他の魔法先生にはその正体を隠された。それから麻帆良から離れた場所にある、学園長さんの息がかかった病院に送り込まれ、現在に至る。ネギ君達は無事に保護されて、昨日から授業を再開しているらしいが、どうやら未だに事件の影を引きずっているらしい。
「いいのですか? エヴァンジェリンさんを、軟禁程度で済ませて」
「……オコジョ刑務所に連行するという意見も出たのだけれどね。そもそも、十五年もの間、賞金首を保護していた責任は大きい。そうして彼女のことを公にすれば、学園に勤務する我々全員の信用を疑われ、西側に突かれて、場合によっては組織の力をかなり削られる事態になると考えられた……だから結果として、学園長の話に納得するほかなかったということだよ」
「まぁ、とてもよい猟犬ですし、デメリットとメリットを、上手く管理できるのであれば、俺は文句はありません」
あっさりと俺は納得してしまうのだが、どうやら高畑さんは何故か不満、というよりいたたまれない感じである。
「……君には、迷惑を掛けた。すまない、学園を代表して、謝罪させてもらう」
そう言って、高畑さんは深々と頭を下げた。とても申し訳なさそうに、沈痛な面持ちで頭を下げる彼に、俺は逆に申し訳なさを感じてしまった。
「いいのです。俺のことは、決して気になさらずに」
「だが、君は僕らの不注意で深手を負った。謝罪して今更だけれど、謝罪ですむ問題ではないと思うんだ」
高畑さんは本気で申し訳ないのだろう。だがその申し訳なさを俺に見せることこそ、卑怯なやり方と心得ているため、必至に表情を取り繕っている。
それだけでいい。
その優しさと強さだけで、俺は充分だ。
「構いません」
「青山君……」
「そうです。俺は、青山です」
だからいいのだ。俺は青山で、そのような人間は、使い潰されるくらいのほうがいいのだ。
人知れず戦い、人知れず死んでいく。その過程でどれ程、斬れるか。俺のような人間はそんなものでしかない。
「むしろ、こちらが謝罪すべきだと。エヴァンジェリンさんを殺さなかった。これは、俺の不手際です」
「そんなことはないさ。封印が一時的にとはいえ解かれた彼女を、むしろ再び封印用の電力が回復するまで抑えようと奮戦した。それだけで十分さ」
あぁ、どうやら、そういうことになっているのか。確かに俺は倒れ、エヴァンジェリンさんは傷つきながらも健在、とあれば俺が負けたと思われるのも仕方あるまい。
実際、生殺与奪が勝敗を分けるという点では、あのとき、俺は確かに敗北者であった。
だが、俺は斬って。
彼女は斬られた。
「……その言葉だけで、救われます」
別にそのことを説明する必要もないので、俺は静かに頭を下げると、未だ鈍い痛みが走る身体でベッドから降りた。
「お、おい。大丈夫かい?」
ふらつく俺の肩を高畑さんが抑えてくれる。その手をそっと解いて、俺は地力で立ち上がった。
気を身体中に回す。自然治癒と、身体操作に集中すれば、日常生活くらいはすぐに出来るくらいにはなる。まぁ、完全回復まで後二日といったところか。
「……流石というべきかな。本当は後一週間は安静にしないといけないところなんだが」
「青山、というよりも、神鳴流は化生を打ち滅ぼす仕事ですから。特に宗家は彼らにそれを示さなければならない身、この程度が出来なければ一笑されてしまいます」
「そのことなんだが……重ねてすまない。君を隠し続けるのが、厳しくなってきた」
その言葉を聞いても、不思議と驚きは少なかった。無理もない。あの時の戦いはそれほど壮絶であったし、失礼な話だが、俺が感知した気と魔力の大きさからすれば、あのときのエヴァンジェリンさんとある程度以上戦える者は、学園長さんと、目の前にいる高畑さん。後は……面倒そうなのがネギ君のクラスに、一人、いや、二人? そして学園の地下に居る変なのくらいか。
意外に居るなぁ。
だがまぁ、それらに関しては面が割れているため、すぐに確認はとれただろう。だが誰一人としてエヴァンジェリンさんが巻き起こした被害に飲まれ、負傷を負った者は居なかった。
では、あの時一体誰が戦っていたのか。そういう帰結になるのは当然の話で、多分、そこもエヴァンジェリンさんを軟禁程度ですませた原因なのかもしれない。
封印を解いたエヴァンジェリンさんを当てなければならないほどの化け物が何処かに居る。いやいや、まぁ自分自身を化け物と評するのもどうかと思うが。
まぁ、俺は青山である。
そんな化け物がまだ居るかもしれないとあれば、心中穏やかではないだろう。その保険としてエヴァンジェリンさんを残しておくという打算も、ないわけではないはずだ。
むしろ、それでも彼女を残すのは甘いと俺は思うのだが。そういうところが立派だと俺は感じた。
「それで、俺はどうします?」
それより今は俺の立ち位置についてだ。神鳴流が二人居る以上、公にするのはあまりよろしくないと今でも思っている。
そんな俺の気持ちを察したのか、高畑さんは「本当に申し訳ない」と前置きをしてから。
「君については、僕の知人であるということで話を通すことにした。正体については、あまり知られたくないという意見を伝えはして、その場では納得してもらったが、疑いは日毎に高まるだろう……いずれ、君には僕らの前に姿を出してもらうことになると思う」
いたし方あるまい。果たして、俺は彼らにどう思われて、どのように扱われるのか。
期待などはしない。彼らは皆、俺とは違って正義の味方の魔法使いで。
俺は、青山だ。
─
ここ暫く見る悪夢は、燃える村と蠢く悪魔から逃れるものではなく、金色の吸血鬼と、そんな化け物すら発狂させた冷たい眼差しの侍だ。
悪魔とは違って、彼らは僕を追いかけたりはしない。だが見ているのだ。恐ろしい狂気を孕んだ瞳と、何もかも飲み込む冷たい瞳が、ただじっと僕を見続けているというだけ。
それだけのことに恐怖を感じながらも、動くことも、泣き叫ぶことも出来はしない。四つの瞳は見てくる。無力で矮小な僕を、取るに足りない僕を、その瞳は断じるのだ。
お前には、何も救えない、と。
「ッ!?」
声なき悲鳴をあげながら目を覚ました。そして、体が動かないことに動揺して──明日菜さんが僕の身体をぎゅっと抱きしめていることに気付く。
「あ……」
その腕が震えていた。それだけで、明日菜さんも悪夢を見ているのだとなんとなくに察する。
あの日の記憶は、鮮明だ。子どもの自分がない知恵を振り絞ってやったような、戯れの遊びではない。殺意と殺意が激突して、世界全てを飲み込むような、そんな闘争。本物の殺し合い。
それを見てしまった僕と明日菜さんとカモ君は、自分達が路傍の石ころであると見せ付けられた。何も出来ず、震えて互いを励ましあい、嵐が過ぎ去るのを待ち続ける哀れな子羊であった。
だから、エヴァンジェリンさんが見逃がしたその帰路、僕達はただただ安堵していた。よかった。生きていてよかったと。あんな地獄から、傷だらけになりながらも生きながらえることが出来ただけで涙がいっぱい溢れた。
それからあの悪夢から逃れるように、僕らは毎晩互いを抱きしめるようにして眠っている。ルームメイトの木乃香さんは、そんな僕らの雰囲気を察したのか、努めて明るく振舞って、励まし続けてくれた。
そのかいあってか、昨日からようやく授業に復帰して、未だ影は射すものの、以前のように先生としての仕事をこなすことが出来たと思う。そう信じたい。
──結局、エヴァンジェリンさんは、事故により最低でも一ヶ月、授業には参加しない旨が伝えられた。それは勿論、表向きの話であり、現実は事件の責務を問われて、謹慎処分されているらしい。
僕の生徒なので、僕に任せてください。そうを言うことは出来たのに、僕には何も言うことは出来なかった。
それどころか、そのまま出ないで欲しいと、一瞬だけ思ってしまったくらいだ。当然、そんな考えはすぐに振り払ったが。
最低な考えだ。
僕は、教師として最悪だ。
「……僕は」
あの日から、僕の内側には言葉に出来ない葛藤が生まれた。あの戦いを通して感じた、絶望的な無力感。震えるまま、言われるがまま、それだけの自分に、何を感じたのか。
悩みを抱いたまま時間は過ぎる。クラスの陽気に当てられ、僕も明日菜さんも少しずつ明るさを取り戻しつつあったけど、悩みはその内容がわからぬまま肥大だけしていく。
そしてその日の放課後、僕は学園長に呼ばれて部屋まで来ていた。
どういう用件なのか。話したいことがあるから来て欲しいと言われて来たのだけれど……
「失礼します」
「おぉ、待っておったよネギ先生」
学園長が気さくに話しかけてくる。学園長が座っている椅子から、机を挟んでタカミチが立っていて、僕に笑いかけてくれた。
そんな日常の風景にほっとしつつ歩み寄る。
「それで、僕に話したいことって」
「……学園長、ここは僕に」
「うむ……」
何だか突然、タカミチが深刻そうに表情を固めた。そんな表情を見れば、気楽に聞ける話題ではないくらい察することが出来る。僕も表情を引き締めて、タカミチを真っ直ぐに見つめ。
「先週のことについてだ」
僕は唖然と口を開いてしまった。
いけない。慌てて表情を取り繕うとするけど、申し訳なさそうに僕を見つめる二人の視線を感じて、僕は観念した。
「ごめんなさい……僕、怖くて」
「いや、それは気にしなくていい。どんな戦いがあったのかは聞いていないが、あの跡を見れば、君がどんな状況にいたのか位はわかる……だが、明日菜君を魔法関連に巻き込んだこと、何故すぐに僕か学園長に相談しなかったんだい? 学園長が上手く君達を隠したから、他の者には知られていないが、これが公になれば、君は本国に強制送還だ」
「あの……」
僕は黙るしか出来なかった。強制送還と聞いて、心が冷たくなる。先週のあの戦いも思い出して、しかも明日菜さんのこともばれていて。僕、僕は……
そのとき、頭に優しい暖かさが乗っかった。見上げれば、優しく微笑むタカミチが僕を見ていた。
「無理もないさ。この件については、僕と学園長にも責任はある。というよりも、十歳の少年に教師をさせている時点で、無理はあったんだ……ごめんよネギ君。先週のことも、明日菜君のことも、僕達大人が君を手放しにしたから、こんなことになってしまった」
「僕、僕は……!」
「安心するんだ。本国への送還もないし、エヴァンジェリンのことについても、お咎めはない。ただ、今後はそういうことがあったら僕か学園長に必ず相談すること。いいね?」
「は、はい!」
よかった。安堵のため息が漏れ、何だか腰砕けになりそうになる。
でもタカミチはすぐに表情を引き締めたので、僕も腰砕けになりそうな体を立て直す。
「まず、先週の戦いは、今後他言しないこと」
「はい」
「そして……ここで、何があったのかを話して欲しい。出来るかい?」
そう言われて、僕は一瞬躊躇ってしまった。ほとんど目を閉じて、明日菜さんとカモ君に呼びかけてもらっていただけだったし。
何より、あれはとても、とても怖かった。
「……僕のわかる範囲なら」
でも、ここで話しておかないといけない。ここであのことと向かい合って、僕は前を向かないといけない。
だって、ここで折れたら、僕が目指す立派な魔法使いに、もう二度となれないような気がしたから。
だから話そう。あの夜のことを。僕が知る限りのこと、地獄のような世界の出来事を。
「……まず、あの日──」
もし次があったとき、今度こそ間違えないで立ち向かえるように。
胸のモヤモヤが少しだけ晴れたような、そんな気がした。
─
その日のうちに、高畑さんに教えてもらったエヴァンジェリンさんの家まで俺は来た。というのも、俺が起きたら会いたいという彼女からのお誘いらしい。彼女は監視されているという話だったが、どうやら学園長さんが直々に使い魔を放って監視しているらしく、それ以外の目は存在しないとの事。
なので誰かに気付かれる心配をすることなく、俺は僅かに痛む体で彼女の家まで来た。
森の中に建った立派な家屋に唖然とする。俺の小屋と比べてあまりにも立派である。俺は歓心しつつ、扉の前に立ち何度かノック。そうして暫くすると扉が開いて、メイド服を着た絡繰さんが出迎えてくれた。
「連絡は、高畑さんからいっていると思うが」
「……はい。マスターがお待ちです。こちらへ」
どうやら、俺が斬った四肢は無事に修理されたらしい。まぁあれは仕方ないことなので、別に謝ることなく、俺は彼女の後を追って歩く。
そして辿り着いた部屋は、水晶の内側に塔のミニチュアがあるものがあるだけだ。溢れる魔力からして、どうやらいわくつき道具のようだが、どうしようか悩む俺を他所に絡繰さんはミニチュアに近づくと、俺に振り返った。
「マスターはこちらの別荘で傷を癒しております」
なるほど。そういった類の道具か。無手で、怪我も治りきっていないというのは些か不安ではあるが、まぁなるようになるしかあるまい。俺は応じるがままミニチュアに近づき、視界が突如としてぶれた。
「お?」
視界が正常に戻ると、俺は先程見たミニチュアをそのまま巨大にしたような場所に立っていた。
多分、あのミニチュアに飲み込まれたのだろう。俺はその幻想的とも言える光景を見渡していると、遅れて絡繰さんが到着した。
「マスターはこちらです」
そう言って再び先導。俺は周りを見ながらその背中についていき、広場、というか闘技場の奥にあるテラスに到着した。
そこにはやはりというか、絡繰さんと似た人形メイドを侍らせたエヴァンジェリンさんが、漆黒のドレスを纏った麗しい姿で優雅にワインを飲んで楽しんでいた。
どうやらざんばらだった髪は切りそろえたらしく、耳元で切りそろえた髪は、以前より利発そうな印象を与えるけれど、目が腐っているので全部台無し。
「待ったぞ青山。といっても、私はお前の感覚では五分ほど前に来たばかりなのだがな」
「……」
返事はせず、俺は彼女の対面に立つ。
そんな俺の姿を上から下まで楽しそうに見つめエヴァンジェリンさんは、楽しそうに肩を揺らした。
「おいおい、女性の誘いに清掃員の服で来る阿呆が何処にいる? だがまぁ……そういうものか。座れ青山、外界とは切り離されたここは、外界の一時間が一日になる異空間。戯けた場所だからこそ、闘争の空気にはならぬ場所だよ」
つまり、俺と争う気はないということか。俺は少しだけ戦闘体勢に入っていた身体を弛緩させて、彼女の対面のベンチに腰掛けた。
それと同時に、人形メイドが並々とワインの注がれたグラスを俺の前に置く。だがそちらを意識せず、俺を見つめてニタニタと笑い続ける彼女のほうを見た。
「何の用だ?」
「用も何も、『産まれて』初めて出来た知人の快気祝いをするのに理由がいるか?」
「知人、か」
「あぁ、知人だ。それとも、敵手とでも言おうか? あぁ、陳腐にライバルか? いやいや、それは少々違うなぁ」
「くだらない」
「そう、だからこの場所だよ」
エヴァンジェリンさんは楽しそうに喉を鳴らした。時間も空間もペテンの場所だから、こうして俺と酒を飲み交わすことが出来る。
つまり、そういうことか。
「今日呼んだのは、宣戦布告だよ青山」
静かに語るエヴァンジェリンは、赤い液体がたっぷりと注がれたグラスを弄び、その中身を見つめながら呟いた。
単純明快で、わかりやすい殺意がその言葉には込められていた。
「見ろ」
エヴァンジェリンはまずそう言って、俺に右腕を見せ付けてきた。白く、滑らかな肌には傷一つないが、その肘の部分に、腕を一周する縫い合わされた傷口があった。それは未だに完治しておらず、糸で縫われた箇所は一般人が見れば目を背けたくなるくらいに痛々しい。
「そして、これ」
次に、立ち上がったエヴァンジェリンは背中を向けた。大胆にも背中の大きく開いたドレスは、そこに刻まれた傷をまざまざと見せ付けてくる。これは腕とは違って傷は塞がっているが、分厚い蚯蚓腫れのよに斜めに走った線は、彼女の背中にいつまでもあり続けるだろう。
「最後に……」
静かに傷を眺める俺の前で、エヴァンジェリンは躊躇いなくドレスを脱ぎ去った。傍から見れば、年端も行かぬ少女の裸体を眺める清掃員。いや、もう最悪。
だけれど、そんなことを考えるのすらどうでもよくなるほど、彼女の裸体は俺の目を惹き付けた。
「これが、一番」
身体の中央、胸の中心から臍まで刻まれた縫い口。癒着しながらも、未だに刃の斬り口がわかるくらい、開きかけのその傷は、見る者を誰だって引き寄せるだろう。
「一番、痛かったよ」
どす黒い色を宿した瞳で俺を見る彼女は、視線に晒されて興奮したのか、その身体の傷口が僅かに開いて、少なくない鮮血が飛び散った。
テーブルに跳ねた血が俺の服に跳ねる。赤い色は、すぐに黒く黒く淀んでいった。
「治さないのか?」
「治しはするさ」
だが、ただ治すだけではつまらない。薄く笑ったエヴァンジェリンさんは、胸から溢れる赤と同じくらい真っ赤な液体に満たされたグラスを持ち、俺の傍に寄ってきた。
そして、俺の手元のグラスを持って、差し出してくる。応じるがまま受け取れば、唾液の滴る口を笑みに変えた彼女が、俺の耳元で囁いてきた。
「貴様の血で癒す。私を斬ってくれた貴様の血を持って、私は初めて化け物として完成する」
「俺は、斬るぞ?」
迷いない俺の返事に、エヴァンジェリンさんは頷いた。
「それもいい。それがいい。貴様が私を打ち滅ぼすのも、それはきっと、とても素晴らしい出来ことだ。かつて、誰かが言った。化け物は人間に倒されなければならない、と。その意味が今はよくわかるよ。深く深く、痛いくらいにわかるよ人間……斬るということで終わった貴様は、正義も悪もなく、人間の限界で私を倒してくれる。それを想像するだけでな。くくっ、ほら、こんなに溢れてきて仕方ないんだ」
己の血を掬って、血に染まったその手を俺に見せ付けてくる。細い指が開けば、赤い糸が引いて、粘膜を擦るような音が耳をつく。
「だけど、それと同じくらい私は貴様を殺したい。そしてナギを殺したい。綺麗な貴様らを、美しい貴様らを、真っ黒な私で塗り潰して、ぐちゃぐちゃにするのさ。なぁ? 素敵だろ? 冷たい心臓が、ドクドクと高鳴るんだ」
化け物は人間に倒される。
そして、それと同じ道理で、人間は化け物に殺される。
この二つは同じく成立する。化け物と人間。相容れない二つの種族で、唯一共通するルールを。
「だから宣戦布告だ。私は貴様を殺す」
「俺は、君を斬る」
その答えに満足しきったのか。爛々と目を輝かせたエヴァンジェリンさんはやはり笑う。
「とは言っても、今の私は飼われるだけの番犬だ。だが毛並みを整えていれば、いずれ欲情した誰かが私の鎖を斬ってくれるかもしれない。そのときを、ゆるりと待とう」
「そうならないかもしれない」
「いいや、なるよ。我慢なんてさせたりしないさ。そのときが来たら、口を開けて、甘い吐息を吹きかけてやる」
エヴァンジェリンさんは永遠にその笑みを張り続けるだろう、全てがペテンのような嘲笑を。世界を嘲笑うように、そして何よりも、化け物である己を嘲笑って。
「乾杯」
エヴァンジェリンさんが掲げたグラスに、俺は手に持ったグラスを打ち鳴らせる。
清涼な音は、何処かで聞いた鈴の音色に似ていて。
ここはとてもいい場所だ。絶対に分かり合えない化け物と共にする、とても楽しい早めの晩餐会。
グラスの赤は血のように。濃厚すぎるその味を俺はいつまでも楽しみ続けた。
後書き
まだまだ続くよ。次回は幕間。