違和感を覚えるほどに馴染んだ。
火曜日。
俺は登校最中に違和感を覚えた。
「なーんか、静かだな」
いつもは騒がしい道行が、少し静かなのだ。
確かにうるさい人数が走り回っているが、密度は低い。
なんていうか黄色い声が薄いのだ。
その理由を一瞬考えて、ポンと手を叩く。
「……! そういえば今日から修学旅行か」
麻帆良女子女学校などの、中学三年生たちは今日から金曜日まで学園にはいなかった。
喧騒が少し薄れて、思う。
「あー古菲居ないのか」
しばらくの平穏と退屈。
それに僅かに寂しさを感じて……俺は頭を振って校舎に向かった。
授業は何時もどおりに進行して、何時もどおりに適当にノートを取る。
書いて、聞いて、見て、頭に叩き込めば大体平均点ぐらいは取れるもんだ。
居眠りでもしなければ、の話だが。
まあ今回は居眠りもせずに午前中の授業を無事に終えて、俺は自作した弁当を食べていた時だった。
「あ、長渡くん」
「ん?」
不意に掛けられた声に顔を上げると、見覚えの無い女子が俺に話しかけていた。
顔も知らない相手だったので、首を捻るが――ずいっと出された一枚の封等に疑問が解けた。
「これ、渡してくれって」
「俺に? 誰から?」
「とりあえず渡したから」
俺の質問から逃げるように女子は離れると、廊下に去ってしまった。
遺されたのは押し付けられたような封筒が一枚。
「――なに?」
「長渡、何渡されたんだ?」
「ラブレターか?」
「そりゃねえよ」
そんなありきたりすぎる展開があったら、俺が驚くわ。
野次馬に覗き込んできた友人たちを追い払いながら、俺は渡された手紙の封筒を開けた。
無地の何もか書かれていない封筒に、入っていたのは何の変哲も無い紙と書かれた文章。
目を通す。
「っ!」
目を通した内容に、俺は愕然とした。
息が止まる。
汗が吹き出した。
「ど、どうした?」
「あ、いや。なんでもない」
俺は手紙を折り畳むと、ポケットに入れた。
「内容なんだったんだ?」
「あー、果たし状みたいなもんかな?」
俺は真実を言うわけにもいかずに、遠からずも近くも無いことをいう。
「喧嘩売られたのか?」
「そういうことになりそうだ」
ため息。
思い浮かべるのは憂鬱決定の放課後のことだった。
――午後4時半 スターバックスに来い 桜通りの吸血鬼より
それが手紙の内容だった。
放課後だった。
俺は昼休みに打ったメールの内容を確認しつつ、憂鬱な気分で校舎を出る。
気分は十三階段を登る死刑者の気分だった。
胃がキリキリと痛む、汗が吹き出し、治ったはずの腕が痛みを発しているような錯覚すら覚えた。
歩く、歩く、歩く。
スターバックスへと向かう。
鞄を肩にかけて、いつでも投げ出せるような体勢で、或いは手の平の指を握りしめては、開いて、繰り返し運動する。
待ち構えられているのは確定だった。
逃げるべきだと、警察にでも通報したほうがいいのかも知れない。
だが、今回逃げても場所を把握されている、学校の位置を知られている――この分だと家まで調べられているだろう。
警察に通報する? 現行犯でもないのに、どうやって犯罪行為を立証する。魔法を使ったと言っても妄言だと相手にされない。
司法警察は常識外には柔軟な対応方法が無い。
司法を詳しく調べれば対処方法があるのかもしれないが、知識は俺にはなかった。
だから、ただ向かう。
浅く呼吸を繰り返しながら向かって――辿り付いた先に居た。
「久しいな」
嘲るように嗤う金髪のガキとその隣で佇む非人間――茶々丸。
それを見た瞬間、俺は歯を噛み締めた。
轟々と燃えるものがある。
それは怒りだ。
言葉にならない、言葉にする必要もない胃から喉まで込み上げてくるような熱い感覚。
焼け爛れるぐらいに、燃やし尽くしたいほどに、叩き付けたいぐらいにむかついた。
しかし、怒りのままに殴りかかれば問題になる。通報されて、取り押さえられるのは自分だと判断出来る。
その程度の自制心と判断能力が残っていた。
だから。
「なんのようだ。化け物とおまけ」
「は、ずいぶんと嫌われたな。まあそれが当たり前だが、なあ茶々丸?」
「はい、マスター」
ケラケラと金髪餓鬼――名前を思い出す、エヴァンジェリンとやらがからからと楽しげに笑って、俺の神経を逆撫でる。
ああ、人目がなければ今すぐにでもあの顔面に拳を叩き込みたい。
例え、横にいるロボットに邪魔されてでも殴りたい。痛みすら感じるほどの怒りが湧き上がり――
「まあ、座れ――“二人共”」
「っ!」
把握していた。
エヴァンジェリンが静かに告げて、俺とは違う方角を見る。
其処には角からこちらを見ていて、足を踏み出そうとしていた短崎が居た。
俺が連絡したとおりに最大限に警戒して、その手には木刀かそれとも太刀を入れているだろう竹刀袋を手に持って。
俺が構える。僅かに鞄を下に下ろして、手を握り締める。
短崎が堂々と出る。その肩から提げた鞄に指をかけて、踏み出せるように睨んでいる。
殺意。
表情の変化、態度の変化、呼吸、視線の位置、それらの違和感を総合して発する感覚情報。
それらが濃密に感じられる。
万全な状態、幾らあの化けものでも周囲に騒ぎを起こす事無く一瞬で俺らを倒せるか? 出来るかもしれないが、どちらにしても最低でも手こずらせる。
そう決意して睨みつけたのだが。
「……殺気たつな、余裕が無いぞ?」
エヴァンジェリンは悠々とトマトジュースを啜りながら、そう告げた。
どの口が言ってやがる!!
一瞬視界が真っ白になって、前に一歩踏み出した瞬間だった。
「――落ち着いてください」
俺の目の前に茶々丸が立っていて――俺の振り上げようとした手を掴んでいた。
激怒。
邪魔だ。足を踏み込む、踵から回るようにして螺旋、腰を動かし、骨盤を鳴らしながら、勁道を巡らせて、その腹に手を――叩き込む前に。
「長渡」
ダンッと地面が踏まれた音と声にピタリと止まった。
思わず手を止めて、そちらを見ると、短崎が笑顔を浮かべて、俺を見ていた。
くっきりと足跡が残る地面から足をどけて、短崎はエヴァンジェリンを見る。
「話だけでも聞いてやろう。ただし、なにかするようだったら即座にその顔に穴を開けてやる」
目が笑ってない。
燃え上がりかけた怒りの炎が鎮火して、燻るように平熱を保つのが分かる。
大丈夫だ。コントロールできる程度の感情になっている、ただし殴るのに必要な良心の呵責はとっくの昔に燃え尽きている。
「茶々丸、離せ」
「しかし」
「私の命令が聞けないのか?」
そこまで告げて、ようやく茶々丸は俺の腕から手を離した。
警戒するような佇まいでエヴァンジェリンの横に下がる。
そして、俺と短崎は足りない分の椅子を隣のテーブルから引き寄せて、浅く腰掛けた。
ついでに確認。テーブルは固定式じゃない、オープンカフェだから当たり前だが軽い材質のものだ。
いざとなったら蹴り上げて、不意を突こう。
そう決意しながら、俺は前を向く。
短崎もまた鞄を傍の地面に降ろして、竹刀袋を持った手をテーブルの下に隠していた。
「で、何の用だ?」
「殺意満々か。まるで親の仇でも見るような目じゃないか。なあ長渡 光世、短崎 翔」
「馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ」
脚に力を入れる。
蹴り足のつまさきで地面を踏み締めて、姿勢を整える。
「挑発しても不愉快さは変わらないからいらないよ」
カチャリと鯉口を切る音がした。
茶々丸の耳部分についたアンテナがピクリと動いて、僅かに軋むように腕を動かし……変わらぬ佇まいのエヴァンジェリンに押し黙った。
「さて、どこから話をするかな――おい」
険悪な雰囲気のまま座った俺たちに近づけなかったのだろう、十代後半ぐらいのウェイトレスをエヴァンジェリンが呼び止めた。
「紅茶を二つ。ロイヤルミルクティーで。以上だ」
「は、はい」
手早く注文すると、ウェイトレスの少女はそそくさと立ち去った。
「おい。勝手に注文するな」
「紅茶が飲めないわけじゃないだろう? 子供らしく砂糖を入れて飲んでいろ」
文句を言うと、余裕の笑みで流された。
いつの間に取り出したのか白扇を手に持ち、仰ぎながら口を開く。
「一つ言っておこう。私からお前らに伝えるのは一方的な事実だ」
「は?」
「聞きたくなければ耳を塞いでもいいが、得するものはないぞ?」
嗤う。
その歯をむき出しに微笑む。何故かあの時見た鋭い牙はないが、取って食われそうな圧倒的な威圧感があった。
汗が滲む。吐きそうなぐらいに。
「そして、喜べ。“お前たちはマトモに暮らせる”」
「は?」
「どういう、意味?」
俺と短崎が問い返す。
すると、後ろの茶々丸が口を開く。
「長渡 光世様、短崎 翔様。両名共、不必要な怪異との接触がありましたが、こちら側の領域ではないですが、『第一優先保護対象』との再接触の可能性が高いということで、記憶処理などを行わないことが決まりました。これは特例的な判断であり、大変良心的でしょう――とでもいえばよろしいのでしょうか?」
「最後の部分はいらんな。押し付けがましい」
「訂正いたします」
ペコリと頭を下げる茶々丸。
その機械じみた動作――実際機械なのだろうが、それに怒りが胸を焼いたのはしょうがないことだろう。
ガリッと奥歯を噛み締める。
どこまで舐め切ってやがる。態度に、その言い回しに痛みすら覚えた。
どこまで上から見下ろしてやがる。
判断? 誰が? どうやって? 何故? 第一優先保護対象? お情け? 良心的?
意味が分からない。
テーブルの上に置いた手が震える。今すぐにでも咆哮を上げて、テーブルを粉砕したいほどの怒り。
舐めるな。そう叫んで、ぶん殴れたらどれだけ楽だろうか。
カタカタと横で鍔鳴り音が聞こえた。短崎もまた眉間に皺を寄せて、目つきが鋭くなっている。
険相が険しくなる、臓腑を焼くほどの侮辱による激怒で。
「――と、まあここまでがお前たちの対する“判定”だ」
偉そうに語るな。
トマトジュースを啜る餓鬼の外見をした化け物に殺意がドンドン沸き上がる。
「どうだ、悔しいか?」
「さてね。どちらかというとムカつくね。特に目の前に居るふざけた子供とか」
「同意だな」
「ははは、私を憎むか。正当性があるな、受容してやろう。ただし、報復を許すつもりはないが」
お前たち程度では届かない。そうとでも告げるように扇子で顔を口元を隠し、紅い瞳でこちらを見た。
ビクリと一瞬身体に冷や汗が噴出したが、特に異常は無い。
「さて。本題に戻ろうか」
「本題?」
短崎が眉毛をひそめる。
「ああ。幸いなことに、生意気なボウヤが今ここにはいなくてな。うるさく小言を言われる必要が無いんだよ」
ボウヤ?
記憶を思い返す――赤毛の子供を思い出す。あいつのことか。
「これはお前たちにとっての助言だ――まず第一にボウヤには近づくな。親交を深めないほうがいい」
「……元からそのつもりだけど、どういう意味かな?」
「なに、“巻き込まれる可能性を告げている”。ボウヤは希望と災厄の引き寄せるトラブルメーカーだ。見ていて楽しめる部類ならばともかく、お前たちには向かん。引きずり込まれたくなければ下がっていろ」
「……次はなんだ? 一つ目ってことはまだあるんだろう?」
「察しがいいな。二つ目はこれだ」
そう告げて、エヴァンジェリンが投げ渡したのは一枚のカードだった。
白い紙に、番号が羅列されている。
一見する。それはどうやら携帯番号のようだった。
「誰の番号だ?」
「茶々丸のだ。正確には携帯ではなく、茶々丸本人にかかるようになっている、訊ねたいことがあればここに電話しろ。茶々丸か私が答えてやろう。魔法、技術、それらは教える必要はないだろうが、怪異への対処方法ぐらいは教えてやる」
その行動に俺は不可解な気持ちが湧き上がった。
何故こちらに連絡手段を与えてくるのか。
意味が分からない。手に取った紙を一瞬破り捨てようと思ったが、意味が無いと思って大人しく受け取っておく。
「何が目的だ?」
短崎が訊ねる。
理由が分からなかった。
俺を襲い、今思い出すだけでも吐き気が催すほど絶望させた諸悪の根源がどうしてこちらに興味を抱く?
短崎に到っては茶々丸の腕を切り飛ばし、損傷させたとも聞いた。
お互いに憎むべき存在のはずだ。
「また利用するつもりか?」
俺を、短崎を、何かしらの計略の道具にするつもりか。
警戒を剥き出しに、俺は睨みつけて――その視線にエヴァンジェリンが破顔した。
「ハハハ! 馬鹿な! 何を馬鹿な! 利用するだと!?」
嗤う、嗤う、嗤う。
その瞳を狂気に染め上げて、笑い転げる。
「貴様らは自分に利用価値があるほど、強いと思っているのか?」
告げる。鮮血のように赤く、薄い唇が言葉を紡ぎ上げる。
「これは策ですらない。意味ある行為ではない。ただの――自己満足だ」
扇子を握った指が、トンッとテーブルを叩く。
楽しげに、楽しげに、狂ったように叩いて――トットットッと打ち鳴らす。
旋律を奏でるように。
「私はお前たちが愉しいものだと認識している。取るに足らなく、手で触れれば壊れそうなほどに脆く、歯牙にかける必要もない」
小刻みに震えるほどにテーブルを叩き慣らしながら、滑らかな金髪を靡かせた少女はゾットするほど美しい笑みを浮かべて。
「だからこそ、“尊い”のだ」
「尊い?」
「ふふふ、絶望に諦めもせずに足掻き続けるものほど恐ろしいものはなく、愉しいものはないということだ」
そう告げると、エヴァンジェリンは音もなく立っていた。
“椅子から降りる動作すらも見せずに”。
『!?』
見ていたはずだった。
だけど、解らなかった。凄い速度で動いたとか、そういうのじゃなくて、意識すら出来なかった。
「精々強くなれ。私を愉しませてくれるぐらいに。猫の喉笛を噛み千切るネズミぐらいにな」
バサリと片手で扇子を広げて、エヴァンジェリンは紙幣と効果をテーブルの上に置くと、茶々丸を連れて歩き去った。
俺はその背に追うことも出来なかった。
襲い掛かってくるならまだいい。対処方法がある。
だけど、悠々と待ち構えていたら、その足取りに無駄が無かったら?
あの夜とは違う歩法を使っていたら、どうする?
殴りかかってもあの扇子の和紙を突き破った瞬間、閉じた骨組みに指を挟まされて、投げ飛ばされる姿を想像した。
いつかの師匠にも似たどこか寒気ではなく、違和感を覚えないほど自然な動きがむしろ恐ろしかった。
「……負けだね」
短崎がため息を付いて、テーブルの下で刀身を収めたようだ。
「屈辱を喰ったな」
俺は拳を握り締めて、ロクに言い返せなかったことに怒りを覚えた。
どこまでも遊ばれている。
それほどまでに俺たちは弱かった。
嗚咽が出るほどに、涙が出るほどに弱くて――
「あ、あのご注文はこれでよろしいでしょうか?」
横から掛けられた声に一瞬反応が遅れた。
横を見る、そこにはウェイトレスが居た。
俺たちが目を向けると一瞬びくっと震えて、慌てて少し冷めた紅茶と伝票をテーブルの上に置いた。
「あ、きっちり代金分置いてるね。彼女」
「……むかつく」
嫌なところにまで気が回る奴に俺は悪態を付きながら、置かれた紅茶に口を付けた。
少し冷めた紅茶は生温く、甘くて――喉にドロリと収まらないものを流し込んだ。