第19話 「賢者を祀るは本の島」
【世界樹前広場】
楓はフェンリルの横に並び立つと持っていたビニール袋を地面に置いて、その場で胡坐をかいて座った。そしてフェンリルが見つめている大樹を同じように見上げた。
フェンリルの鼻に横に座る楓から風呂上りの石鹸の匂いが届いた。女性特有の柔らかな匂いと石鹸の香りが混ざり、なんとも悩ましげな匂いになっていた。吸い寄せられそうになる所をぐっと堪える。なんとなく半歩だけ横にずれて、距離を置く。
「あの大きな樹の名前は、「世界樹」…なんだ、知っていたでござるか」
「ああ…よく知ってるよ、昔から…」
楓が大樹の名前を告げようとするとフェンリルはそれを遮るように先に名を告げた。大樹の今現在の名は「神木・蟠桃」というのだが、大樹の過去の名と学園の生徒の間での通称は一致していたのであった。
「名前と言っても皆がそう呼んでいるだけで、正式名称はわからんでござるが」
「名前なんていうのは他人がつけるもの。そいつ自身が名乗る名前なんてものは無意味だ。偽名と同じ。誰かが何かを特定の言葉で呼んだのなら、それもそいつの名前になる。名前ってやつは他人の数だけあるものだ」
「ふむ、ではフェンリルはこの樹をなんと名づけるでござるか?」
「そういう意味で言ったんじゃないんだが……俺なら、まぁ、やっぱりユグドラシルかな」
楓はフェンリルの名前についての講釈を多少歪曲して理解していたが、フェンリルは嘆息しながらも問いに応える。別に一人ひとりが別々の名前を付けるという意味で言ったわけではなかったので、自分が、そして他の誰もが使っていた呼び名を口にした。
「フェンリルは食い意地が張っているでござるな」
「……なんでだ?」
普通に応えたつもりだったのだが、楓のなんとも不可思議な返答に思わず聞き返す。これまでの会話の中に空腹を思わせるような言葉があったとは思えなかった。腹の虫が鳴いたわけでもない。フェンリルは心外だと、軽く睨みながら楓を見た。
楓はフェンリルの睨みなどどこ吹く風で、ビニール袋の中をあさっている。
そして魚肉ソーセージを一本取り出してフェンリルに差し出した。
「腹が減っているなら言うでござるよ」
「……別に腹は減ってない。さっきから何を言ってるんだ?」
否定しながらも目の前に突き出されたソーセージはしっかり頂いた。モグモグと咀嚼しながら、もう一度訳を問う。
「だって腹が減っているから食い物屋の名前が出てきたのでは?拙者はてっきり暗に空腹を訴えてるのかと思ったでござるよ」
楓は自分も一本魚肉ソーセージを食べながら、不思議そうに首を傾げる。
「腹が減ってるときは遠まわしになんて言わない。楓にははっきり腹が減ったと言ってタカってやる。それで、食い物屋ってのはなんだ?」
「それもどうかと思うでござるが……あれのことでござるよ」
楓は微妙に情けない言葉を堂々と言うフェンリルに呆れながらも、件の店を指差した。その方向は世界樹とはまるで別の方向だった。フェンリルは楓の指の先を視線で追っていく。
そして視界に広場から少し離れたところに立つ一軒の店を捉えた。すでに閉店しておりシャッターは下りているが、看板は出ているので店の名前は書いてあった。
「なんて書いてあるんだ?」
フェンリルは楓に問いかける。文字が書いてあるのは分かるが、なんと書いてあるかは分からなかった。
「“北欧料理 イグドラシル”でござるよ」
「……間違っちゃいないが、俺が言ったのは“ユグドラシル”、世界樹の名前だ。たぶんあの店は世界樹に肖って店名にしたんじゃないのか?」
読み上げられた店名を聞いて、視線を店の看板から外すと楓に向き直った。
「フェンリルは意外と博識なんでござるな」
楓は感心しているような、驚いているような口ぶりで、うんうんと頷いている。
意外だと言われるのが少し癪に障ったが、狼に学があるかどうかという議論になれば分が悪くなるのは必然なので眉をしかめながらも特に反論はしない。
「俺にとっては一般常識なんだがな……」
小声で、知らないお前の方がおかしいんだとささやかな反撃を試みるが、楓はまったく気にした様子も無い。なんだか負けたような気がしてしまい、俯くフェンリルだった。
「楓はこんなところで何してたんだ?」
フェンリルは話を変えるために始めに自分がされた質問を返す。すでに深夜と言ってもいい時間になっており、婦女子が一人で出歩くのに相応しい時間とは言いがたい。週末に山篭りするような女が婦女子に相当するかは議論の余地があるだろうが、ここは楓が住んでいる女子寮からもかなり離れている。時間を考慮にいれなくとも疑問は残った。
「買出しでござる。寮の周りは生徒の夜間外出を防ぐために、深夜営業店舗の出店は禁止されているのでござるよ。だからここまで買いに来たでござる」
楓は傍らに置いたビニール袋を指し示しながら言った。袋の中には、ペットボトルのジュースが数本とスナック菓子の袋、チョコの箱が入っていた。寮周辺はコンビニが深夜営業をしないため、広場の近くにあるコンビニまで遠出してきていたのだった。
「……そうか」
そこまでして菓子が喰いたいかとも思うフェンリルであったが、とりあえず納得してみせる。他にも通常は電車を使うほどの距離があるにも関わらず徒歩でここまで来たのか?とか、寮の正面玄関は深夜なので鍵が掛かってしまっているのにどうやって入るのか?など、疑問な部分も無いではないが、楓の前では問題として取り上げるのも馬鹿馬鹿しいので、言及したりはしない。
(こんなやつばっかりだと寮の管理人も大変だろうな)
フェンリルは寮で生活していたときに何度か見かけることのあった管理人の人の良さそうな顔を思い出して、職務の忙しさに同情するのだった。
「たまに、寮にも遊びに来ないでござるか?風香殿も史伽殿も喜ぶでござる」
「ヴァーリがいるときにな。双子の相手はあいつの担当だ。ああ、そうだ、聞きたいことがあるんだが……」
「なんでござる?」
フェンリルは思考が似ているのか双子と異常に相性のよかったヴァーリに激務を押し付ける。ヴァーリにとっては遊びなので特に苦ではないのだが。
楓はそろそろ家路に着こうと、立ち上がって服についた砂を掃っている。フェンリルの問いに首を傾げながら反応した。
「この辺りに湖か、池はないか?できれば世界樹の根が届く範囲で……」
「湖でござるか?う~ん、ここから一番近いところで言えば、図書館島の湖があるでござるな」
「図書館島?」
楓は袋を持っていない手を顎に当てて宙を睨み、質問に応えようとするが、思いついたのは一つだけだった。学園内にある世界最大規模の巨大図書館、そしてその図書館のある島の浮かぶ湖。楓は図書館島のある方角を指し示して、ここからどの程度、時間が掛かるかを告げる。
「大きな湖でござるから、高台に上がればすぐに見つけられるでござるよ」
「そうか、感謝する」
「………………」
フェンリルが楓からの情報に軽く目を伏せて感謝の意を表す。そんなフェンリルの姿を楓は無言でじっと見つめている。
「……なんだ?」
理由の分からない視線に耐えかねて、何故見ているのかと問いかける。
「いや、湖などと言うから喉が渇いているのかと……今、持ってるのは炭酸系ばかりでござるが、飲むでござるか?」
「…………なんでもかんでも飲み食いにつなげるの、止めてくれ」
割と切実な願いだった。
楓と別れた後、楓の薦め通りに高台になっている世界樹の立っている丘まで歩いて行った。根元から見た世界樹は遠目で見たときよりもさらに大きく感じられた。
樹に登らずとも湖の位置は確認できたのでその場を去り、湖を目指した。
楓が湖は近いと言っていたが、なかなかどうして、本当に近かった。
これなら丘に登らなくても、示された方向に進めば簡単に見つけることができただろう。
丘に登るのに、それなりに苦労したため、なんだか損をしたような気分になってしまった。しかし結果論でしかないので、心の中で愚痴るのを止めて歩くことに集中する。
歩くこと数十分。周辺を探索しながら進んでいたので、それなりに時間が掛かってしまった。
目の前には、港かと見紛うような巨大な湖が広がっていた。
「確かにでかいな」
楓の情報通りであることに一人納得して声を出すが、湖の大きさに関して、一つだけ自分が思い違いをしていることに気づいた。
(……でかいのは確かだが、これは……)
湖は大きい。これは間違い無い。しかし、自分の体が小さくなっていることで、余計に湖を大きく見えてしまっていることに気づいた。自分の体の弱体化を思い知らされるのには、もはや慣れてしまったので、小さく息を吐くだけで再び歩き出した。
目指すのは、湖の中心にある“図書館島”。
この湖が目的のものとは限らないのだが、頭に浮かぶ文字は広場にいたときよりも更にはっきりと映るようになっていた。確実に近づいているのは確かだ。
神代の時代、槍を持ちたる神に知恵を与えた巨人ミーミルの首が守る湖、そして知識の集積地とも言える図書館をその中に称える湖。目的地と目の前にある湖が頭の中で重なってしまっていた。
「あの島自体が神器なんじゃないだろうな」
もしそうならどうやって回収すればいいんだ?と歩きながら頭を悩ませる。
「……ん?」
島がミーミルでないことを祈りつつ、図書館島に続く道に足を踏み入れようとしたとき違和感に気づき、歩みを止める。
「結界……それに監視もいるな」
転生してから犯してしまった幾度もの失敗の経験から、家を離れるときはできるだけ感覚を研ぎ澄ませて気を抜かないようにしていた。今現在も匂いと魔力の両方に集中しながら進んでいたのだが、足を踏み入れる直前に島を取り巻くように張られた結界とそれを監視している人間の匂いに気づくことができた。
今はまだ気づかれてはいないようだが、持ち上げている片足を島の側に下ろせば結界にも、監視にもなんらかの動きがあるだろう。
足を元の位置に戻すと、息を潜めてその場を後にした。
今は小動物同然の姿なので、発見されたとしても特に問題視されないかもしれないが、逆に一度目を付けられたら逃げ切れる保証は無い。今は図書館島に何かがあるということが分かっただけで満足しておくことにするのだった。
「ん?そういえば……」
島には入れないので湖の周辺を探索していたのだが、途中でふと歩みを止めた。
広場ではあったはずのイラつきと焦燥感が綺麗に無くなっていたのだ。
(神器を探していれば、あの嫌な感覚は襲って来ないって訳だ)
イラつきが無くなるのはありがたいのだが、アメと鞭を使い分けて調教し、使命を達成させようとしていることにムカつきを覚えるのも事実だった。
頭に浮かぶ文字とは別の理由でイラついてしまったが、大きく深呼吸をして怒りを体の外に出す。ぶつけ所のない怒りを溜め込んでもストレスになるだけでなので、できるだけポジティブに考えるようにする、のだが、
(これも一種の逃げか?)
ポジティブに考えようとしていることが後ろ向きなような気がしてしまうというネガティブ加減を発揮してしまうのだった。
【住宅地】
早朝、明日菜は眠い目を擦りながら、新聞配達のバイトをしていた。すでに毎日の日課であり体力的には、まったく問題無い。しかし二日連続で眠りにつくのが遅くなってしまったために寝不足になっていたのだった。
折角和解したはずの高音と再び不仲になってしまったことは、明日菜にとって悩み眠れなくなるには十分な理由だった。
特別、高音と仲が良いわけではなかったが、高音が怒っていたのがヨームを想ってのことであることは理解している。ネギが叩かれたことで頭に血が上ってしまったとはいえ、我を忘れて高音に噛み付いてしまったことを後悔していた。
「あの説明で納得しろって方が無理あるわよね」
一夜明け、冷静に考えてみればヨームの怪我の経緯も話さず、ただ許してくださいなんていうことが罷り通るわけがないのだ。明日菜は自嘲気味に呟き、溜息を吐きながら、新聞を配って行くのだった。
ネギは今日、明日菜の新聞配達の手伝いをしようとしていたのだが、昨日の報告書を書くために明日菜が眠りについた後も起きていたので、今も寮で寝ている。
「よし、これでラスト」
明日菜は最後の新聞を配り終わり、体を解すように伸びをする。今日は他の地区の担当の人間が体調を崩し休んでしまった分を明日菜が代わりに配ったので、いつもより時間が掛かってしまっていた。
「あ、学校に遅刻する、急がないと…って、うわ!?」
明日菜が携帯電話で時間を確認していると、足元をものすごい勢いで何か小さいものが通り過ぎていった。かすめ触れるほど近い場所を通っていったので、明日菜は思わず片足を上げて飛びのく。
通り過ぎていったUMAは勢いを保ったまま、明日菜の後ろにあった茂みに突っ込んで行き見えなくなった。
「な、なに?今の……」
「そこの君!ちょっと聞きたいことがあるんだが……」
片足を上げたまま、茂みを見ていた明日菜だったが、別の方向から声を掛けられ、そちらを振り向く。
視線の先にいたのは今朝新聞配達を始めたばかりのときに挨拶をした二人の警察官だった。二人は自転車に乗ってこちらに向かってきている。
「なんでしょうか?」
いつも朝に会う顔見知りなので、明日菜は警官に話しかけられても特に動じることはない。UMAのことも気になるが、上げていた足を下ろして警官に応える。
「さっきこっちに犬が来なかったかい?黒い、小型犬なんだけど」
警官は明日菜の前に自転車を止めると、跨ったまま質問してくる。かなり急いでいたのか、警官の息は二人ともかなり上がっており、大きく肩で息をしている。
(さっきのは犬だったのか……)
警官の質問で、明日菜は疑問の回答を得た。UMAの正体は犬。はっきり見ることはできなかったが、言われてみれば犬であったような気がしてきた。
「その犬、なにかしたんですか?」
「いや、別になにかしたわけじゃないんだが……首輪が無かったからね。小型犬でも危険なのはいるし、飼い主が見つかるように保護しないといけないんだよ。野良犬だったら、その…ね」
息を整えるために休憩する時間が欲しかったのか、警官は明日菜の質問に対する質問にも嫌な顔することなく応えた。ただ、応えてはいるが、最後の箇所を濁したのだった。
警官が何故言葉を濁すのかは明日菜にも察しがついた。
飼い犬・野良犬問わず、飼い主が見つからない犬が保護される場所など決まっている。
保健所だ。
捕まってしまえば、高確率で死刑が待っている、犬にとっては絶望の監獄。
警官だって好きで犬を保健所に送りたいわけではないのは分かるし、職務を全うしようとしているだけだとはいうことは理解している。しかし一市民としては協力するのが義務なのだろうが、明日菜は正直に応えるのを戸惑ってしまっていた。
明日菜は視線はそのままで、耳だけを茂みに集中させた。明日菜の人間離れした聴覚には、警官が息を整える音に混じって、茂みの中で押し殺すように呼吸を整えている音が聞こえてきた。
犬はまだこの場から逃げておらず、身を隠して逃げるための体力を蓄え、逃げる隙を覗っていたのだった。
(ったく、仕方ないなぁ……)
「その犬かどうかわからないですけど、小さいのが向こうの方に行くのは見ましたよ」
明日菜は警官に気づかれないように小さく溜息を吐くと、茂みとはまったく反対の方向を指し示した。
「おお、そうか、ありがとう。では!!」
明日菜の言葉を聞いて、二人の警官はラフな敬礼を明日菜に向かってすると、颯爽と走り去っていった。明日菜は「お仕事、ご苦労様です!」と冗談交じりに警官のマネをして返礼して、二人を見送った。
ガサッ
「……もう行ったよ。逃亡者さん」
警官が見えなくなったのを確認してから明日菜は茂みの中を覗き込み、声を掛ける。
「………………」
茂みの中には、黒い子犬…フェンリルがいつでも逃げられるように足を強張らせながら、明日菜を睨むように見つめていた。
(ん?こいつは……)
見覚えがある明日菜の顔をフェンリルは眉を顰めた。
フェンリルが明日菜を見たのは一昨日、学園のほど近く。名前は知らないが明日菜の特徴がなんであるかは覚えていた。
(確か……パイパン女)
これが今現在のフェンリルにとっての明日菜の名前だった。別にフェンリルは明日菜を貶めようなどとは考えていないし、ただ明日菜という人間の固有名詞を暫定的に付けているだけなのだが、明日菜本人が聞いたらブチ切れること請け合いのネーミングだ。
「あんたって、もしかして……」
フェンリルが明日菜に気づいたように、明日菜も同じように何かに気づき眉を顰める。だが、フェンリルは特に気にした様子も無く、この場を離れるために踵を返した。
警官を誤魔化してくれたことは分かっているが、フェンリルにとって明日菜の第一印象はあまりよろしくない。初めて見た明日菜はネギを木に押し付け、襟を締め上げていて、まさに乱暴者を絵で書いたような姿をしていた。転生してからというもの、女運に恵まれず女性に出会うたびに痛い目にあっているので、かなり警戒していた。気性が荒い女であるならば尚更だ。
それに警官がここに戻ってこないとも限らないのだ。見つかる前に撤退しようと駆け出そうとした……のだが、
ガッ 「ぐっ!?」
一歩足を踏み出した途端に首の後ろを捕まれてしまった。そしてそのまま持ち上げられてしまう。息が詰まり、声が出そうになるが必死に我慢する。
「やっぱり……あんたってちょっと前まで楓ちゃんのところで飼われてたヤツじゃない?」
明日菜は片手でフェンリルを摘み上げると、フェンリルの顔を覗き込んだ。
明日菜はフェンリルが楓の部屋にいたときは、「興味無い」と見に来ることはなかった。だからフェンリルも明日菜を見たのは一昨日が初めてだったのだ。明日菜は直接フェンリルを見たことは無かったが、それでもフェンリルをフェンリルと認識することができた。
それは、フェンリルの容姿によってだった。黒い子犬ならいくらでもいるだろう、本来は狼だと言っても、素人目で狼の子供と犬の子供を見分けるのは難しい。
フェンリルの体で最も特徴的なのは、その眼だ。
その色は、血に濡れたような赤。
ルビーを嵌め込んだような瞳をしていた。
明日菜はフェンリルの特徴をフェンリルとヴァーリが寮にいる間、毎日のように楓の部屋に通っていたこのかから聞いていたのだった。
赤い眼はアルビノなど色素細胞の欠乏によって先天的に持って生まれる動物もいるが、アルビノは体毛や体皮が白くなるので、体毛が黒く、眼が赤いというのは個を特定するのに十分な特徴だった。
(こいつ、楓の知り合いだったのか)
明日菜が顔を覗き込んでいるので、フェンリルの視界には明日菜の顔しか映っていなかった。ふと視線を下に向けると、確かに明日菜の着ている服は楓の着ている制服と同じ物だった。
「……あんたって眼は綺麗だけど、可愛くないね」
「………………」
見入るように瞳を覗き込んでいた明日菜だったが、ふいに瞳から顔全体の視線を移すと軽い暴言を吐く。
別に可愛いと言われたいわけでもないし、可愛くないと言われたところでどうでもいいことなのだが、しかし赤の他人に突然目の前で暴言を吐かれて、気持ちいいと思えるほどマゾでもない。フェンリルは顔を顰めて憮然とする。
「だから、その顔が可愛げ無いんだってば」
明日菜は空いている方の手でフェンリルのしかめっ面の頬を摘むと、ブニッと横に引っ張って無理矢理引きつった笑い顔にさせられる。
(このガキ、指に噛み付いてやろうか)
知性がある分、フェンリルの表情は野生動物よりは感情豊かなのだが、性格が性格なので人間に媚びるような動きはまったくしない。今も犬独特の荒い口呼吸をするわけでもなく、ただ明日菜にされるがまま、見つめているだけだ。
明日菜が動物のくせに無表情なことを可愛くないと言っているのか、動物が顔を顰めているという妙な表情を明日菜的野生の勘で感じ取って可愛くないと言っているのかは分からないが、フェンリルを不機嫌にするには十分だった。
明日菜が魔法の存在を知っていることをフェンリルは知っているので、声を出して悪口の一つも言ってやろうかとも考えたが、ガキと口喧嘩をしている自分の姿を想像して馬鹿馬鹿しくなり再び憮然とするのだった。暴れて無理矢理逃げようかとも思ったが、楓の知り合いであることを考え、怪我をさせるわけにもいかず諦める。
「やっぱり可愛くない」
(……やっぱり噛もうかな)
頬を引っ張ってもなんの反応もないフェンリルを見て、つまらなそうに呟くと頬から指を離した。だが、首を摘んでいる指はそのままだ。フェンリルはガキに礼儀を教えてやろうかと本気で考え出した。
明日菜は再びフェンリルの瞳を覗き込んで見入ってしまう。
「でも……やっぱり眼は綺麗……」
輝く宝石に心奪われた少女にように、フェンリルの瞳の奥に揺らめく紅い炎に魅入られた。
炎に魅入られた少女と早く放せと思いながら脱力している狼、どれほどの時間そうしていたのか二人には分からなかった。
しかし沈黙が支配する空間は他者の介入によって破られる。
「お~い、きみ~」
「っ!?」
ズボッ「っぶ!?」
警官が戻って来たのだ。
明日菜は遠くから聞こえてくる警官の声に驚き、咄嗟に手に持っていたフェンリルを新聞が無くなって空になった鞄に突っ込んでしまった。
フェンリルは再び声が出そうになるのを我慢した。
「ん?どうかしたかい?」
「いえ、なんでもありません!!」
警官は自転車を明日菜の横に止めると、何故か焦っている明日菜を見て首を傾げ、問いかける。明日菜は冷や汗をかき、片手を鞄に突っ込んだまま、もう片方の手で鞄を抱え込むようにして応えた。
鞄の中では鞄の底に顔を押し付けられて呼吸ができなくなっているフェンリルがなんとか抜け出そうともがいているが、明日菜の馬鹿力に押さえつけられてどうにもならない。
警官に自分が嘘を吐いたことがバレるのはマズイので明日菜も必死だ。
警官は明日菜がフェンリルを隠したことに気づいた様子はなく、明日菜の問題無しとの返答で満足していた。
「あの…なにか御用でしょうか?」
先程はまったく緊張しなかった明日菜だったが、今は後ろ暗いことがあるので緊張でガチガチになっていた。身を硬くしたまま、なんとか声を出す。
「いや、時間は大丈夫なのかと思ってね。そろそろ学校に行かなくて平気かい?」
「へ?…あ!?」
警官が自分の腕時計を明日菜に見えるように指し示す。明日菜は警官の腕時計を見てから、自分の携帯電話をポケットから慌てて引っ張り出し、もう一度時間を確認して驚愕する。
「やっばい、遅刻だ!!し、失礼します!!」
「ああ、気をつけて…ねって…すごいな」
警官は深々と頭を下げてから立ち去る明日菜に一言掛けようとしたが、言い終わらぬ内に土ぼこりだけ残して視界から消えてしまった。思わぬ女子中学生の健脚ぶりに、感嘆の声を洩らしてしまうのだった。
明日菜はなりふり構わず猛ダッシュする。
鞄にフェンリルを入れたまま……
やっとのことで息ができるようになった狼が言った。
「この…パイパンおんな~~~~~!!!!」
激しく揺れる鞄の中で響く心の叫びが、明日菜に聞こえたかどうかは、「全知の玉座」にでも座らなければ分からない。
あとがき
19話目にしてやっと神器云々の話になりました。
ただ今回の神器は戦闘にはなりにくいかもしれませんけど。
あれ?フェンリルがまた不幸になってる?
仕事の関係で4月からはこれまでよりかなり更新のペースが遅くなるかと思われます。
それでも書き続けたいと考えておりますので、お眼汚しとは思いますが、これからも読んで頂ければ幸いです。