第38話 「乙女の嗜好と淑女の悩み」
【学園中等部・女子寮】
「随分遅かったな、龍宮」
寮の自室の戻った龍宮真名を迎えたのは、同室の桜咲刹那の声だった。部屋の電灯は付いておらず、刹那の声はベッドの中から聞こえてくる。
「起こしてしまったか? 悪かったな」
時刻は深夜、良い子は寝ている時間だ。
だが、刹那の声には起きたばかりなような寝ぼけ声ではなく、はっきりしたものだった。真名の謝罪も本心からではなく形式的なものに過ぎない。
「結界が消えたな」
「…………ああ」
真名が部屋の電気を点けると刹那は愛用の野太刀を脇に置いたままベッドに腰掛けていた。刹那はベッドから立ち上がると真名に近づきながら、今ある事実と自分が何故起きてしまったかを告げる。真名は一度目を閉じ、小さく息を吐き出すと刹那の言葉を肯定した。
「今夜の仕事が原因か?」
「たぶんな。今回は私のミスだ」
「龍宮が? 珍しいこともあるものだな」
「小遣い稼ぎのつもりだったが………とんだ貧乏くじだったよ」
真名はガンドルフィーニから依頼を受けて侵入者の排除を請け負っていた。刹那にも同様の依頼が来ていたのだが、学園長からの正式な依頼ではなかったので請け負わなかったのだった。その点、真名は金さえ貰えればなんでもするので特に気兼ねすることなく侵入者捕獲に参加していた。
結界の存在する学園の中で自由に動ける時点で侵入者が大したことがないと考えていた真名だったが、実際は予想を遙かに上回るものだった。
「それで、侵入者は仕留めたのか?」
「逃がした……いや、逃がしてもらったと言うべきだろうな」
真名は失敗に終わった作戦を思いだし溜息を吐いた。当初の作戦では捕獲を目的としていたので、真名はフェンリルの脚を狙って動きを止めようとした。しかしそれがいけなかった。始めから頭を狙って狙撃していれば、その時点で決着は着いたはずだった。
スコープ越しに子犬の姿を持つフェンリルを見てしまったら、どうしても引き金を引くことができなかった。しかも、友人である楓が懸命に看病していた犬となれば裏の世界では冷酷無比で知られる真名であろうとも躊躇いが生じるというものだ。
だが、今その迷いが真名を、そして学園を窮地に陥れている。
「じゃあ、未だに侵入者は学園内にいるということか?」
「ああ、私が死を覚悟するほどの大物がな」
刹那は体を前に乗り出しながら真名に問いかける。真名は苦笑を漏らしながらも、刹那の問いに応えた。
「これから学園はどう動くんだ?」
「さぁな、それは私にも分からない。結界が消えた以上、警備のために人が必要だろうから、また依頼が来るかもしれないな。私は願い下げだが」
「………少し出かけて来る」
学園内にいる危険人物、そして結界消失によるさらなる侵入者の可能性、どちらも軽視することのできない事態だ。刹那は自身の本業である重要人物の警護を行うために片手に野太刀を持って、入り口へと向かった。真名も刹那がどこに行くか分かっているので止めることはなく、黙って横にズレて刹那に道を譲った。
「……ん?」
真名の横を通り過ぎようとした時、刹那は真名がガンケース以外にもう一つ麻袋を持っていることに気づき、目を止める。ただの袋ならば特に気にすることもなかったのだが、袋の様子に足を止めざるを得なかった。
真名の持つ麻袋はモゾモゾと動いていたのだ。
明らかに中になにかいる。
すぐにでも主の下へ赴きたい刹那だったが、袋の中身がどうにも気になってしまい、扉を潜ることができなかった。
「ん? ああ、これか?」
真名はなかなか出ていこうしない刹那に首を傾げるが、その視線の先に気づくと納得したように袋を持ち上げてみせた。
「なにが入っているんだ?」
「今回の報酬だな、いや保険と言った方が正しいか?」
「報酬? 保険?」
真名の言葉の意味が分からず、今度は刹那が首を傾げる。現金命の守銭奴真名が報酬を物で、しかもおそらく生き物を報酬に貰うということが信じられなかった。真名はおもむろに袋に手を入れると中のものを引っ張り出した。
「……子犬?」
真名が取り出したのは紛れもない犬だった。特徴的な低めの鼻に、焦げ茶の体毛、南の森から姿を消したヴァーリがそこにいた。
「というか、この犬って楓が拾ってきた犬じゃないのか? この前教室に連れてこられてた奴とは別みたいだが」
「そのこの前教室に来たのが侵入者だ」
「は?」
またしても真名の言葉の意味が分からず、疑問符を浮かべてしまう刹那。
教室に来たのはもちろんフェンリルのことだが、その時は刹那も、魔眼を持つ真名でさえもフェンリルに異常を感じることはできなかった。真名の話では侵入者は学園の結界を破壊するほどの力を持っているのだ。そんな実力者に気づけぬようでは裏の世界では生きていけない。
「私も初めは気づかなかったよ」
「しかし、その子が侵入者の仲間なら取り返しに来るんじゃないのか?」
「どうだろうな。ただの化け物には見えなかったし、可能性は高いかもしれないな」
真名は茶々丸とフェンリルの会話を聞いていたわけではないが、それでもフェンリルの怒りの中にもしっかりとした理性の伺える紅い瞳とても印象的に捉えていた。
記憶に残るその瞳が真名に語りかけてくるのだ。
『待っていろ』と。
「真名、私には危険を侵してまでその子をここに連れてくる理由が分からないんだが……人質にするつもりなんてないんだろう?」
「……必要とあらばそうする」
「………ふぅ」
幼少の頃から数々の戦場を駆け抜けてきた龍宮。同年代の少年少女より遙かに「現実」というものを理解している。人質をとって相手の動きを封じることも辞さないだろう。
だが、一年半以上同室で寝食を共にし、仕事でも関わることの多くある刹那の目を誤魔化すことはできなかった。刹那は溜息を吐きつつ疑いの眼差しを真名に向けた。
「なんだ?」
真名は目を細めて見つめる刹那の視線を受けて居心地悪そうに一歩後ろに下がると視線に抗議するように問いかけた。
「本当の理由はなんだ? 龍宮」
「本当の? 何を言っているんだ、刹那」
真名の真意を確かめるために一歩前に踏み出し問い詰める刹那。真名は言っている意味が分からないと、肩を竦めてみせる。しかし刹那は真名の額に浮かぶ汗を見逃さなかった。
刹那が真名を疑うのは、普段とは雰囲気が微細に違うということもあったが、しかしそれ以上に刹那に疑念を抱かせたのはヴァーリを寮へと連れてきたことだ。
ヴァーリを人質として使うことに疑問があるわけではない。刹那が分からないのはそこまでして真名がフェンリルと争わなければいけないのかということだった。
真名はあくまで金で動く傭兵であり、作戦の成功よりも自身の生存が優先されるのは自明の理だ。そんな真名が命の危険を冒してまで学園の結界を破壊しうる魔獣と戦う理由などどこにもない。それにも関わらず真名はフェンリルの弟であるヴァーリを攫い、あまつさえヴァーリを楯にすると明言しているのだ。
「龍宮真名……私にも守らねばならないものがある。それ阻むと言うならば、例えお前でも容赦しないぞ」
「………………」
刹那は野太刀の柄に手を掛け抜刀の構えを取る。刹那の本気を表す殺気に思わず唾を飲み込んでしまう真名。額に浮かんでいた汗は頬を伝って流れていった。
真名が誰とどこで死のうがそれが真名自身の意思であるのならば、止めることなどない。だが事はすでに一個人の命で済む問題ではなくなっているのだ。刹那は自身の使命を果たすためにさらに一歩踏み出し腰を落とした。
「………龍宮」
刹那は野太刀を構えながらも、懇願するように真名の名を呼んだ。
「………いや、その、なんだ…理由というか…その」
いつもどこか年齢に似合わぬ余裕さを持っている真名だが、この時は口籠もりなかなか応えることができなかった。刹那は先を急がせたりはせずに、ゆっくりと真名が理由を話すのを待った。
「…………ったんだ」
「え? なんて言った?」
なんとか言葉を発した真名だったが、あまりに声が小さく刹那の耳まで届かない。
「………いかったんだ……」
「も、もう一度。できれば大きい声で」
真名は覚悟を決めたように目を閉じると大きく息を吸い込んだ。
「かわいかったんだ!!」
「………………は?」
意を決して行なわれた真名の告白だったが、刹那の頭上には今日一番の巨大疑問符が浮いてしまっていた。
「だから、かわいかったんだ!! この子が!!!」
真名はヴァーリを両手で持つと、刹那の前に突き出し声を張り上げる。普段は表情のあまり変わらない真名だが、今は頬を染めて、瞳を潤ませている。
一方刹那は真名の言葉の意味を理解することがなかなかできず、目が点になってしまっており、口は大きく開いて閉じなくなってしまった。
「……あ~一応、確認するがその子犬が可愛かったから思わず連れて帰ってきてしまったと、そういうことか?」
しばらくしてフリーズから回復いた刹那はこめかみをヒクつかせながら真名に問いかける。
真名は無言のまま一度だけコクリと首を縦に振って肯定を示した。
「はぁ~、一体なにを考えているんだ、龍宮。それじゃまるで変質者か、下手をしたら犯罪者だぞ」
可愛かったから連れてきてしまったなどという理由が許されるのは子供だけだ。年齢的に言えば、真名も刹那も十分子供と言って差し支えない年齢だが、普段の真名があまりに大人びている。可愛かったからという理由では,幼女を誘拐するような変態の心理と同じだ。
「………変質者」
犯罪者という言葉よりも変質者と思われることにショックを受けたらしい真名はその単語をポツリと口にするのだった。
「はぁ~、まったく。いつもの冷静なお前はどこに行ったんだ?」
「待て、少し私の話も聞け」
刹那は呆れたようにもう一度大きく溜息を吐くと、構えを解いて頭を掻いた。
だが真名としても見下されるのは我慢ならない。自分の趣味嗜好が理由の一端であることは認めるものの、どうしてここに連れてくることになったのかを説明し始めた。
真名曰く、ヴァーリを先に見つけたのは学園の魔法関係者だった。ヴァーリから魔力こそ感じられなかったが、それでも侵入者の住んでいる洞穴にいるのだから何らかの関係があるのだろうと拘束しておくこと決定した。
真名はそれを横からかっさらったのだということだった。
つまり真名はヴァーリを浚ったのではなく、助けたということを言いたかったのだ。
「……その話が本当で、それのその子の仲間に伝えることができるならば、確かに侵入者と敵対することはないだろうが……それでは、逆に学園と敵対することになるんじゃないか?」
「私がやったという証拠を残すようなヘマはしないさ」
真名の表情からは先程までの動揺がなにかの冗談だったように消え去り、冷静というよりは冷徹な表情となっていた。表情とは裏腹に胸に抱えるヴァーリを優しく撫でる動作があまりに矛盾しているので、刹那はまるで幻術をかけられているような感覚に陥るのだった。
「侵入者と学園、どちらに事態が転ぼうがお前にとっては問題ではないということか」
「まぁ、そういうことだ」
表面上は学園側についておき、状況が悪くなればヴァーリを餌にフェンリル側につく。刹那は真名の生き残ることに対しての姿勢に軽い戦慄を覚えたが、それで真名の行動を否定しようとは思わなかった。目的の達成のためならば手段を選ばないのは真名がプロであることの証だ。
「しかし誰がそれを証明する? 状況から見れば龍宮がその子を浚ったことに変わりはないぞ」
「この子が証明してくれるさ」
「その子が?」
真名の言う証人、それは腕に抱かれているヴァーリだ。刹那は他の学園関係者同様にヴァーリがただの子犬にしか見えなかったので、犬がどうやって真名の疑いを晴らすのかと首を傾げてしまった。
真名は予想通り疑問符を浮かべる刹那の表情を見て、ニヤリと笑うとおもむろにヴァーリの顔を覗き込んだ。
「君は言葉が話せるかい?」
唐突な真名のヴァーリへの質問。刹那には真名がふざけているようにしか見えなかったのだが、首をブンブンと大きく横に振るヴァーリの姿に沈黙を守ることしかできなくなってしまった。
【世界樹前広場】
「あなたが我々のことをどれだけ知っているのかはわかりませんが、これは我々魔法に関わる者が身を守るために必要なことなのです。そして同時にこれは魔法を知ってしまった者の安全を守るためのものでもあります」
刀子は再び殺気を放ち始めたフェンリルを諫めるように楓の記憶を消去しなければいけない理由を語った。
一般人に対する記憶の消去は魔法に関する機密を守るために必要不可欠なことだ。そして魔法の存在を知り、魔法に関わるということは、多分に危険を伴うこと。今の楓にしてもその類希な身体能力と技術によって致命傷こそ受けていないが、魔法使いとの戦闘で体に少なからぬ傷を負ってしまっている。魔法に関わることの危険性を示す証拠としては十分過ぎるものだ。
「……………」
フェンリルにとっては立場すら捨てて着いて来てくれた楓を失うことは耐え難いものだが、自分に関わることの危険性は十二分に理解している。だから声高に刀子の言葉を否定したりはしない。ただ無言で刀子と高畑を見つめ、最後に楓に視線を移した。
楓はフェンリルの視線を受け止めると微笑みを浮かべて大きく頷く。そして腕を掴んでいる刀子の手をそっと外す。あまりに自然な動きで楓が拘束から逃れたので、刀子は楓を止めることができなかった。
楓はフェンリルの横に立ち教師二人と対峙した。
「お二方……拙者、記憶を消されるのは御免被るでござる」
「………楓」
楓ははっきりと記憶の消去に拒絶の意志を示すとフェンリルに向かってもう一度微笑んだ。
「長瀬さん、あなたは自分の立場が分かっていません。今回の一件であなたは学園のブラックリストに載ることになります。記憶の消去に関してあなたの意志は関係ありません」
「刀子先生」
「なんですか、高畑先生?」
記憶消去に関しては消すべきかどうかの判断を現場の魔法関係者の裁量に任せられることが少なくない。魔法のことを知っても問題無いと判断されたのならばその時点からその人物も魔法関係者となる。逆に知っていることが学園に害となると判断されれば強制的に記憶は消去されることになる。
刀子は離してしまった楓を再び捕らえようと近づいて手を伸ばしたが、高畑がそれを制してしまった。
「刀子先生、楓君がブラックリストに載るかどうかはまだ決まったわけではありません。そもそも今回は学園側にも問題があったことは学園長も認めていることです。ここは我々が判断するのではなく学園長に判断を仰ぎましょう」
「………わかりました。但し拘束はさせてもらいます」
「待て」
「今度はあなたですか」
刀子は一応は納得して見せたが、すぐに高畑を押し退け、楓に向かって手を伸ばす。しかし今度はフェンリルが楓と刀子の間に入り、拘束を阻止した。刀子は、またかと溜息を漏らすと視線を足下のフェンリルに向けた。
「楓の記憶は消させないし、拘束もさせない」
フェンリルも睨むような刀子の視線に、強い口調で応じた。
「あなたにそれを決める権利があるとでも?」
刀子もフェンリルが今まで出会った中では「闇の福音」に次ぐ程の力を持っていることは理解している。しかしだからと言ってそれを理由に屈するようなことは決してない。刀子はフェンリルに臆することなくさらに一歩踏みだそうとした。
「それ以上楓に近づいたら、その綺麗な顔に傷が付くことになるぞ」
「…………今、なんて言ったの?」
刀子は出そうとしていた足を止めて俯くと、震える声でフェンリルに問いかけた。一瞬にして雰囲気の変わった刀子に思わずたじろいでしまうフェンリル。
「だから、それ以上近づくなと「そこじゃない!」……は?」
フェンリルは刀子のカットインに困惑を深める。それは高畑も楓も同じことで頭の周りは疑問符でいっぱいだ。
「え~と、顔に傷を付けるぞ?」
「行き過ぎ! ワザとやってるの!? この朴念仁!!」
「え~と、あ~と…………
綺麗?」
「もう一度!」
「………綺麗」
「もっと大きい声で!!」
「綺麗!!」
「あ~~~~なんていい響き!!!」
刀子は両手を頬に当てると恍惚の表情で昇天しかけている。フェンリルと刀子のやり取りを楓と高畑はポカンと見つめるばかりで、刀子に応じていたフェンリル自身も完全に引いてしまっていた。
「おい、高畑。この女は精神に疾患でもあるのか?」
「……いや、僕は聞いたことがないな。でも、ほら、教師ってストレスの溜まる仕事だから。刀子先生も年齢的にお肌が気になるお年頃というか」
「知らねぇよ」
エクスタシー寸前の刀子を他所にかなり失礼な会話を繰り広げる男二人。肌が綺麗だと言われるのがそんなに嬉しいのかと二人で顔を見合わせ、首を傾げる。楓は始めは刀子の豹変ぶりに驚いていたが、今はどこか生温い目で刀子の発狂ぶりを眺めている。
「……ハッ……ゴホン、私としたことが少し取り乱してしまいました」
「「「少し……」」」
突き刺さる6つの眼球から放たれた視線に気づき、刀子は咳払いをして誤魔化すが、おかしくなってしまった空気はそう簡単には元に戻らない。
「ゴホン、あ~、今回の一件ですが、きっとあなたにも、長瀬さんにも止むに止まれぬ事情があったのでしょう。私も学園長に酌量するように掛けあいますからご安心を」
「はぁ、そりゃどうも」
刀子はなんとか空気を変えようと、もう一度咳払いする。そしてフェンリルの前に片膝を着くとフェンリルの前足を両手で包みフェンリルの顔を覗き込んだ。
フェンリルにしてみれば別に悪いことをしているという意識は無いので、酌量などしてもらってもなんの意味も無いのだが、ここでそれを刀子に告げても詮無いことだ。これ以上状況を複雑にしたくないという思いが、フェンリルに適当な受け答えを実行させた。
「それでは参りましょう」
刀子はフェンリルの前足を離すと先陣を切って歩き出した。高畑は肩を竦めて楓とフェンリルに向かって苦笑してみせると、刀子を追って歩き出す。
特に監視するわけでもなく、どんどん先に進んで行ってしまう教師二人の背中を見つめた後、フェンリルと楓は互いに視線を交錯させる。
「この学園には変な奴が多いんだな」
フェンリルは楓を含め、転生してからこれまで出会ってきた人々を思い出し、高畑と同じように苦笑を洩らした。
「それはフェンリルも同じでござろう?」
「あれと一緒にされるのは心外だがな」
あまり離れすぎるのもまずいと、フェンリルは高畑達を追って歩き出した。
「フェンリル」
「ん? どうした?」
出発した順番から自然と最後尾となった楓からフェンリルの背に声が掛けられる。フェンリルが振り返ると、楓は顔を前に突き出し、指で自分の顔を突いてみせた。
「? なんだ?」
楓の行動の意味が分からず、問いかけるフェンリル。しかし楓は問いに応えることなく、再び顔を突いてみせるのだった。
「あ、あ~~」
フェンリルはしばらくしてから漸く楓の意図に気付いた。しかしなんとなく気恥ずかしくてなかなか楓に応えられず口篭る。
楓はそんなフェンリルの様子をニヤニヤと見ながら、フェンリルが言葉を発するのを待った。
「綺麗だ……これでいいか?」
「ニンニン」
楓は満足したのか、足早にフェンリルを追い抜くと高畑を追って先を歩き出した。
「肌を褒められるのが、そんなに嬉しいのかね」
今度は楓の背に向けてフェンリルが独り言を呟く。
なんとか楓の求める言葉は発したものの、いまいち女心は理解できていないフェンリルだった。
【学園長室・隣室】
高畑に連れられ、学園長室まで来たフェンリルと楓。楓にとっては見慣れた妖怪爺であり、フェンリルにとっては見るのは初めてでも嗅いだことならある加齢臭の老人がそこにはいた。
「直接会うのはこれが初めてじゃのう。改めて名乗るほどの者ではないんじゃが、ワシはこの学園の長をさせてもらっておる近衛近右衛門じゃ」
「………フェンリルだ」
例え気に食わないことがあろうとも相手が名乗ったのならば、名乗り返す。
部屋にいるのは全部で6人。フェンリルと楓は応接用のソファに腰掛け、向かいに座る学園長と対峙していた。学園長の後ろには高畑としずなが警護するように並び立ち、部屋の入り口には刀子が門番も如く佇んでいる。
「フォフォ、そう殺気立たんでくれ。老体にはなかなか厳しいものがあるのでのう」
「…………」
学園長は冗談めかした口調で、フェンリルの威嚇を受け流す。フェンリルはいくら殺気を送ってもまるで動じない学園長に拍子抜けさせられてしまっていた。
「何か飲むかな? 茶なら各種取り揃えておるし、なんなら酒もあるぞい」
「結構だ」
「楓君はどうかの?」
一触即発とまでは言わないものの、仲良く茶を飲み交わすほど気を許したわけではない。フェンリルは学園長の誘いには取り合わず、早く本題に入れと睨みを効かせる。しかし、やはり学園長には暖簾に腕押し。茶を断った一瞬だけ残念な表情をした学園長だったが、すぐにその表情は消え、にこやかに微笑んだまま今度は楓に向き直り、茶を勧める。
「拙者は緑茶を頂くでござる」
「うむ、しずな君頼めるかの?」
「はい」
学園長は嬉しそうに顔を綻ばせると後ろを振り向きしずなに指示を出した。
「この状況でよく飲めるな」
フェンリルは楓にだけ聞こえる程度の小声で話しかけた。
「別に毒を盛られるわけではないでござるよ。それに大事なのは冷静でいること。交渉事で重要なのは強力な手札を持つことではなく、どれだけ熱くならずにいられるかということでござるよ」
しばらくするとしずなが緑茶をそれぞれの前に置いていった。何故か断ったはずのフェンリルの前にも緑茶の入った湯呑みが置かれている。
「器の方がよかったかしら?」
「…………」
確かに皿に入れてもらった方が飲みやすいのに違いはないが、元から飲む気など無いのでどうでもいいことだった。フェンリルはとりあえず視線だけで茶を入れてくれたしずなに礼をすると学園長に向き直った。
「まぁ、そう焦らずに。もうすぐお主のお目当てもここに到着するのから、それまでちょっと待ってくれんか」
学園長はフェンリルの視線の意図を把握したようだが、応じようとせずに自身の前に置かれた緑茶を啜り始めてしまった。
横目で隣に座る楓を見ると、楓も同じように臆することなく緑茶を啜っていた。
(焦ってどうなるものでもないか)
実際の年齢は自分とは比べることのできない程若い楓の堂々とした態度と先程の助言が気持ちを落ち着かせてくれる。もうすぐ来ると言うならば、力を蓄えながら待てばいいだけだ。そして待っても来なかったのなら蓄えた力を解放すればいいだけ。状況は面倒なようで至極単純明快なものだ。
トントン
しばらく湯呑みから立ち上る湯気を眺め、楓と学園長が茶を啜る音を聞いていると、部屋の扉が叩かれた。
「開いておるよ」
学園長がノックに応える。
「失礼します」
扉が開かれるとそこには高音、そして眠い目を擦りながらなんとか立っているヨームがいた。
「こんな時間に呼び出してすまんかったのう」
しっかりとした足取りで入室する高音とは対照的に焦点が定まらずフラフラと歩くヨームの姿に学園長は謝罪を言う。時刻は夜更かしにしては遅すぎる時間で、早起きにしてはあまりに早過ぎる中途半端な時間だ。
高音は部屋の中にいる人間を見回して首を傾げる。結界の消失については学園に正式に雇われている魔法関係者にはすでに緊急連絡で知らされていて、高音も例外ではない。呼び出しもそれについてのことかと思っていたのだが、部屋の中にいる見覚えの無い楓の姿が高音に疑問を抱かせた。もちろん高音の知らない魔法関係者が学園内にいることも十二分にあるのだが、状況が理解できるまで自分から言葉を発するのは控えようと学園長の言葉を待った……
「あ、ヨーム!」
のだが、眠気でふらついていたはずのヨームが高音の横をすり抜けて駆けだしてしまい、慌てて呼び止める。しかし、ヨームの向かう先になにがあるのか気づくと手を伸ばしたまま静止してしまった。
『兄様!』
高音は始め大柄な楓の陰に隠れて死角になっていて気づかなかったが、そこにはソファの上に座っているフェンリルがいた。
ヨームはいつものように駆けだした勢いのままフェンリルに飛びかかる。
「ふむ、やはりお主がヨーム君の言っていた『兄』で間違いないようじゃのう」
フェンリルに飛びつきもみくちゃにしているヨームの姿に納得の表情を浮かべる学園長、高畑、そしてしずな。楓もフェンリルにじゃれつくヨームを微笑ましく見つめている。
だが、『兄』と『姉』の心情は納得や安堵とはかけ離れたものだった。
(なんでヨームがここに? こいつらが言っていた俺の目当てはヨームのことだったのか? じゃあヴァーリは一体どこに?)
(なんでフェンリルさんがここに? 結界の消失となにか関係が? 私達が会っていたことがバレてる?)
フェンリルと高音の頭の中は疑問が湧いては答えを出す暇も無く、流れていってしまうのだった。
あとがき
龍宮と刀子ファンの皆さん、すいませんでした。キャラが崩壊してますよね。
ただ龍宮のプロフィールを見たときからどうしてもやってみたかったネタだったんです。
今回はシリアスから少しギャグ路線に戻してみました。(シリアスばっかり書いてると無性にギャグが書きたくなります……)