第48話 「“消えた”女神」
【学園敷地内・山中】
「それで茶々丸殿は見つかったでござるか?」
「いや、エヴァンジェリンの家にも、ハカセの所にも戻っていないらしい」
フェンリルと楓は川原で焚き火を囲んでいた。話題は先日ネギとの戦闘の後、姿を消してしまった茶々丸についてだ。脱走したラタトスクを探すついで………ではなく、茶々丸を探すついでラタトスクを探していたフェンリルだったが、学園魔法関係者の捜索の甲斐なく茶々丸もラタトスクも見つけることができなった。
見つけることができないのならば、向こうから出てくるように仕向ければいいのだと考えたフェンリルは、茶々丸がいなくなってしまった原因に頭を巡らせた。
そして行き着いたのが、茶々丸に贈った「石」を採った、この河原だ。壊れてしまったペンダントを修復すれば、きっと茶々丸も戻ってくるはずだと、川底と河原を何度も往復していた。しかし満足のいく「石」はなかなかみつからなかった。
今は休憩も兼ねて濡れた体を乾かし、暖をとっている。
「たぶん、そういうことではないと思うでござるが……」
「ん? どういうことだ?」
楓は溜息混じりの呆れ声でフェンリルを諭した。
「茶々丸殿にとってきっとその石は掛け替えの無いものだったのでござろう。例え形は同じでも、別物は別物。壊れてしまったものは二度と元には戻らんでござるよ」
「………そうかもしれん。だが、それでも気休めにはなる。俺にとっても、たぶん茶々丸にとっても。気休めであいつが戻ってくるなら安いものだ」
フェンリルは焚き火に当たって暖まった体を一度大きく震わせて気合いを入れると、再び川に向かって歩きだした。
壊れたモノ、失ったモノは二度と手に入らない。死者の国から舞い戻ったフェンリルが感じるには少々矛盾のある言葉だが、一度尊いものを失ったフェンリルだからこそ真に実感できる言葉でもあった。
(しかし、茶々丸も石が壊れたぐらいで姿を眩ますとは……事前に言っておくべきだったな)
贈った「石」をそれだけ大事にしてくれたということは十分に感慨深いものだったが、「石」についてなんの説明も茶々丸にしていなかった自分の迂闊さが悔やまれる。
フェンリルが茶々丸に贈った「石」には持ち主が命の危機に晒された際にそのダメージを肩代わりするように念が込められていたのだ。つまりペンダントが壊れたということは「石」が己が役割を十二分に発揮することができたということ。
「フェンリル」
「なんだ?」
フェンリルは背中を向けたまま、楓の声に応える。
楓は「石」の採取を手伝いに来たわけではなく、自身の修行の一環としてこの場にいる。それに例え、修行という目的が無かろうとフェンリルを手伝うことは無かっただろう。
「拙者にはその「石」……くれぬのでござるか?」
楓の声はどこか拗ねたようでもあり、冗談めいたようでもあり、つかみ所の無いものだった。楓の意図を正確に汲み取ることができず、軽く困惑してしまうフェンリル。
「…………採れたらな」
「期待しないで待ってるでござるよ」
楓は今度こそ冗談混じりの声でフェンリルに応じると、自身の修行と食料調達のためにこの場を離れていった。
「目標は最低2個。がんばりますかね」
楓の消え去った虚空を見つめながら、フェンリルは一人、ポツリと呟き、水中へと身を踊らすのだった。
数時間後、すっかり日も暮れて街灯もない山中を星の明かりだけが淡く周囲を照らす。ただ河原だけは焚き火の光で明るかった。
「して、首尾はどうだったでござる?」
「…………1個」
焚き火に翳されていた岩魚の焼け具合を確かめながら、楓がフェンリルに問いかける。
フェンリルは言いづらそうに一拍置くと、一日掛けてようやく川底で見つけた一粒の「石」を楓に見せた。拘らなければいくらでも手に入る白く濁った石だが、納得のいくものはたった一つだけだった。
「それは残念でござるな。では、拙者の分はまた今度の機会ということで」
口では残念と言っているが、楓の表情はいつも通りの笑顔であり、まったく残念そうではなかった。石採取の費やした時間の80%は見つからなかった2個目の探索時間だったので、実らなかったとは言え努力を無駄にしたような気分になるフェンリル。いつもはそれなりに癒される楓の笑顔だが、今回ばかりは腹が立った。
「欲しくないなら、そう言え」
たった一つの「石」を指先で転がしながら、いじけた声を出すフェンリル。確かにどんなに厳選したと言っても、緒戦はただの石。現代の女子からすればなんの値打ちも無い屑石だ。
現物を見て、楓が「石」に幻滅するのも無理からぬこと。しかし頭では理解しているが、簡単には納得できず精神が荒む。
(楓も茶々丸も女。こんなものを贈ること自体間違っているのかもしれんな)
見れば見るほど、悩めば悩むほどに見窄らしく見えてしまう手元の石。茶々丸がいなくなった原因も実はこれではなかったのではと、当初の推測を自ら疑ってしまう。
「欲しくないわけではござらんよ」
「………ん?」
楓の声が鬱に入りそうになったフェンリルの精神を引き留める。
「寧ろ、その茶々丸殿の分を拙者によこせと言いたいところでござるが、それは人として如何なものかと思うので、口には出さずに心の奥に仕舞っておくでござる」
「出てる出てる」
「やはり重要なのは気持ちだと思うのでござるよ」
フェンリルの指摘などまったく意に介さず、楓は星空を見上げて独り言ちる。
「どんなものであろうと、いや、モノが無かろうと、そこに気持ちさえ籠もっていれば問題など無いのでござるよ」
楓は長時間水に浸かり過ぎてフヤケてしまったフェンリルの肉球をフニフニと握る。度合いはともかく、フェンリルが石を探すために努力していたことは容易に想像できた。
「……それは金の無い奴の詭弁だ……と、俺の親父は言ってたな」
「フェンリル……人が折角良いことっぽいことを言ってるんでござるから、水を差さないでほしいでござる」
フェンリルは不意に手を握られた気恥ずかしさを誤魔化すように茶々を入れるが、楓に気にした様子は無い。まだ乾ききらないフェンリルの体を自分の元へと引き寄せて服が濡れるのも気にせず抱き締める。
「おい、服が濡れるぞ」
「茶々丸殿もきっと、石が壊れたことがショックだったのではなく、フェンリルの気持ちを知ることが怖かったのでござるよ」
楓はフェンリルの忠告を受け入れることはなく腕の力を緩めることもなかった。
苦労して作り上げた贈り物を私闘の末に壊されたとなれば、人によっては気分を害する者もいるかもしれない。茶々丸がそのような考えに至り、フェンリルが怒ることを恐れて姿を消したのではと指摘する。
「俺はそんなことで怒るほど、狭量じゃないぞ」
フェンリルは心外だとばかりに抱き締めてくる楓の顔を見上げた。最近は楓の拘束から脱出する努力も悩むことも止めてしまっている。
「なら、それを茶々丸殿に伝えればいいだけでござるよ。しっかり口に出して。気持ちを込めることは重要でござるが、それが伝わらなければ意味が無いでござるからな」
「………そうかもな」
楓の助言を頭の中で反芻させて噛みしめるフェンリル。一度、楓の顔から視線を外し、もう一度楓を見上げた。楓もフェンリルの視線をしっかりと受け止める。
(俺の気持ちは)
(拙者の気持ちは)
交錯する視線と共に重なり合う二人の疑問。
(お前に伝わっているのか?)
(お主に伝わっているのでござるか?)
声に出さずとも伝わる気持ちもあれば、声に出さなければ伝わらない気持ちもある。
二人の感情が重なるには、あと少しの時間と、僅かな勇気が必要なようだった。
「………クシュン!」
臆病な二人の心が生んだ短い沈黙が楓の小さなクシャミで破られる。
「だから言っただろ。早く風呂に入って来い。風邪引くぞ」
フェンリルの濡れた体が楓の体温を奪ってしまっていた。逆にフェンリルの体は楓の体温と内から沸き上がる高鳴りでかなり体温が上昇している。
「そうでござるな。それでは少し失礼して」
今度はフェンリルの忠告を受け入れた楓は先程から準備していたドラム缶風呂に目をやる。そしてフェンリルから手を離すと、おもむろに衣服に手を掛けた。
……その場で。
「向こうで脱げ」
最近はこの楓の無防備とも言える楓の行動にも慣れたもので、楓が服を脱ぐ前に顔を背けて視界に入らないようにする。
しかしフェンリルの忠告などどこ吹く風。楓は瞬く間に一糸纏わぬ姿になってしまった。
「どこに行くでござる?」
楓は背を向けたままこの場を去ろうとしたフェンリルの尻尾をむんずと掴み動きを封じる。そしてそのまま引き摺るようにして湯の給ったドラム缶へと連れて行く。
フェンリルも地面に爪を立てたり、必死に拘束から逃れようともがく。しかし結局、抵抗することを半ばで諦め、いつも通り楓と一緒に入浴することになってしまった。
本気で抵抗すれば逃げることなどいくらでも出来る。しかし男の欲望の前には男のプライドなど綿埃にも似た軽さしかなかった。
(俺はやはり男として認識されてないのかもな)
楓の異姓を意識しない大胆過ぎる行動に心が折れそうになるフェンリル。
(拙者には女の魅力が足りないのでござろうか?)
いくら積極的になってもはっきりした反応の返って来ないフェンリルに自信を失いかける楓。
「……フェン……リルさん フェンリルさん~!!」
「ん?」
どこかから自分の名を呼ぶ声が聞こえて、フェンリルは俯き半分湯に浸かっていた顔を上げた。
「誰か近づいてくるでござるな」
楓の言葉通り、最初遙か遠方から聞こえていた声は徐々に近づき、はっきりとしたものになってゆく。近づいてきた人物を視界で捉えるまでもなく、フェンリルはその匂いで誰なのかを知ることができた。
「フェンリルさん! やっと見つけた……大変なんです! すぐに学園に戻ってください!!」
「少し落ち着け、高音」
近づいてきていたのは高音・D・グッドマンだった。息を切らせながら必死にこちらに向かって走ってくる。その後ろにはヨームが同じように息を切らせて走るヨームがいた。
ヨームは高音についてくるのがやっとといった疲労困憊状態だったが、フェンリルの姿を視界に捉えると大きく目を見開く。そしてそれまで肩で息をしていたのが嘘のように猛然と走り出した。
「ヨームまで、一体どうしたんだ?」
ヨームは高音をアスリートのラストスパートの如く、高音を抜き去ると、フェンリルと楓の浸かっているドラム缶風呂の前に仁王立ちする。目を大きく開いたまま、湯船に手を入れると首を傾げるフェンリルを風呂から引きずり出した。
濡れて重くなったフェンリルを落とさないように必死に抱えたヨームは、一度楓をじっと見つめる。そして次の瞬間にはきびすを返し、高音の後ろへと走っていった。
「高音、状況の説明を頼む」
一連のヨームの行動に呆気に取られてしまってフリーズしてしまっていた高音だったが、後ろから掛けられたフェンリルの声に我を取り戻し、向き直る。
「は、はい。実は……」
「実は?」
本人にそんなつもりは無いのだろうが、高音は勿体付けるように大きく間を開けた。自身を落ち着かせるように目を閉じて一度呼吸を整える。
「……エヴァンジェリンさんが……"闇の福音”が学園を占拠しました」
「………………」
フェンリルは高音の言葉を耳にするのと同時に、久しく感じていなかった脳を焦がすような焦燥感を覚えるのだった。
【学園長室】
高音に連れられて学園長室に来たフェンリルと楓を迎えたのは肌に刺さる様なピリピリと緊張した空気だった。心なしか部屋の温度は外よりも低く、湯上がりの二人には少々肌寒いものだった。
部屋には向かい合うように置かれたソファにエヴァンジェリンと学園長がそれぞれ座り、エヴァンジェリンの横には少女を模した人形がソファにもたれるようにして鎮座している。学園長の後ろには高畑としずなが守るように立ち、エヴァンジェリンの後ろにはどこか茶々丸に似た雰囲気のある二人のメイド姿の女性が控えていた。
(こいつら人間じゃないな。あの人形も……ゴーレムか)
フェンリルはエヴァンジェリンの後ろの二人とソファに座る人形を一瞥する。見た目だけでなく匂いも茶々丸に似ているが、茶々丸と違って魂の匂いが混じっていた。この部屋に来る途中にも数人同じような格好をした女がいたが、メイド服のせいで占拠といった殺伐とした雰囲気はまるでなかった。学園内の掃除がいいところだ。
(茶々丸がいない?)
室内をもう一度見回してみるが、いるのはそっくりさんばかりで茶々丸本人はいなかった。エヴァンジェリンがいるのだからてっきり茶々丸もいるものだと期待していたのでフェンリルは無意識に肩を落としてしまう。
「それでなにがあったって?」
フェンリルと楓が来てからも誰一人として声を出すことなく睨み合いが続く。フェンリルは一人、腕組みをして壁に背を預けていたスルトに声を掛けた。高音はとにかく着いて来いと言うだけで理由を説明しなかったので、この状況のわけは分からないままだ。高音に質問しようにも高音は室内の緊迫した空気に呑まれて動けなくなっている。
「…………………」
「なんだ?」
声を掛けられたスルトは一瞬フェンリルに視線を送ったが、無言のまま、すぐに目を伏せてしまった。いつもの豪放磊落な雰囲気からかけ離れたスルトの態度に疑問符を浮かべて理由を問うフェンリルだったが、今度は顔を上げることすらなかった。
カラン
「…………?」
小さく軽い音が沈黙が支配する室内に響いた。フェンリルは音にした場所、二つのソファに挟まれたテーブルの上に視線を向ける。
そこにあったのは一辺2cmほどの六角形の小さな電子部品だった。僅かにではあるが、一部が欠けて綺麗な六角形ではなくなっている。
「フェンリル……これがなにか分かるか?」
ずっと黙り込んだままだったエヴァンジェリンが初めて口を開いた。視線はテーブルの上に向けたままで声だけフェンリルに向けて発する。
「俺が分かるわけないだろ」
ただでさえ現代の物品には疎いというのに、機械の、それも一部だけでそれがなにか分かるはずもない。フェンリルは憮然とした表情でエヴァンジェリンを見る。しかしエヴァンジェリンはテーブルを見たまま、フェンリルを見ようとしない。
「これは……茶々丸だ」
「…………なに?」
「正確には茶々丸だったものだ」
「何を……言っている?」
エヴァンジェリンの言っている意味がまるで理解できず、問いかけ返すフェンリル。
いや、言葉の意味は理解できていた。しかしもし理解してしまえば、意味を分かってしまえば受け入れ難い現実と向き合わなければならない。
「茶々丸は死んだ。これで理解できたか? 駄犬」
エヴァンジェリンはより簡潔に事実を伝える。その声に抑揚は無い。自嘲しているようでも、激昂している様子も無い。ただ淡々と事実だけを口にする。
「そんなわけあるか。茶々丸は俺の“石”が……」
確かに茶々丸は本来ならば破壊されてもおかしくない攻撃をネギから受けていた。しかしそれはフェンリルが茶々丸に贈った石がしっかり身代わりとなっている。それはフェンリル自身がその目で確認しているのだ。簡単に信じることなどできなかった。
「それは聞いた。だが、茶々丸はお前と別れた後にもう一度襲撃されたらしい。砕けたペンダントでは守りの効力は得られなかったようだな」
「そんな……馬鹿な」
「嘘だ、信じられない……といった顔だな。だが、これは紛う事無き事実だ。なんならハカセの研究所に行ってみるといい。教会近くのドブ川に架かる橋のたもとで見つかった茶々丸の残骸が収容されているぞ。まぁ、ほとんど原型は留めていないがな」
エヴァンジェリンは声を出せなくなって固まるフェンリルを一度視界に納める。そしてフェンリルの表情を見て、歪んだ笑みを浮かべる。
口元は笑っているが、瞳の奥は冷たく濁り冗談を言っている様子はまるで無かった。
フェンリルの頭の中は怒りも、驚きも無かった。ただなにも考えることができなかった。与えられた情報が処理できず、視線が部屋のあちこちへと揺らぐ。その過程で室内にいる人間達数人と目が合うが、誰もエヴァンジェリンの言葉を否定しようとはしなかった。
「誰がやった?」
エヴァンジェリンが最後に声を発してから数分、再び誰も話すことなく沈黙が続いていたが、フェンリルがそれを破る。誰に問うわけでもなく室内の全員に向かって声を掛ける。その声にはエヴァンジェリン同様に抑揚がまったくなかった。
「随分冷静だな」
不気味な程落ち着いたフェンリルの様子に首を傾げるエヴァンジェリン。茶々丸がガンドルフィーニに傷つけられただけで、我を忘れるほど激昂していたフェンリルの姿を見ていたエヴァンジェリンにとって今の落ち着きようは違和感があった。
「俺が冷静に見えるならあんたの目はただの硝子珠だ」
本当は心の臓が張り裂けそうなほど怒りが体を支配しているのだが、殺す相手が分からなければ暴れたところで意味がない。フェンリルから漏れ出る殺気が凍えるような室内の気温を徐々に高めてゆく。
「誰がやった」
フェンリルは回答の返って来なかった問いをもう一度口にする。溢れる殺気はさらに増しているのに声の調子はどこまでも冷静で抑揚がなかった。それがより不気味さを助長させる。
「お前もよく知っている奴だ。いや、お前だから分かると言うべきかもな」
「…………ネギか」
誰も答えようとしなかったが、不意にエヴァンジェリンが口を開き、問いに答えた。明確な答えではない曖昧なものだったが、それでもフェンリルには想像がついた。
茶々丸が破壊される前日にネギは茶々丸を襲っているのだ。容疑者として名前が挙がるのも無理はない。フェンリルがこの場に呼ばれたのは、茶々丸がネギに襲われた事実があることを確認するためだった。
「待ってくれ、エヴァ。まだネギ君がやったと決まったわけじゃ……」
確定的に話すエヴァンジェリンの言葉に高畑が反論する。確かにあるのは状況証拠だけで物的なモノはなにもなかった。
それにもしネギだとすればさらに疑問が出てくる。動機は分かってもどうやってそれをやったのかが分からないのだ。従者である明日菜はフェンリルが寮に送り届けている。戦闘経験の無いネギがたった一人で茶々丸を討つのは不可能だ。
「勘違いするな。私は別にあの小僧を責めているわけでも、茶々丸の復讐をするためにここに来たわけでもない。寧ろ、喜んでいるぐらいだ」
高畑の反論を他所にエヴァンジェリンは確信を持ってネギが茶々丸破壊の張本人であると断定する。
先にネギを殺そうしたのはエヴァンジェリンの方なのだから、自身の命を守るために行動を起したネギを責めるつもりなど毛頭無かった。ネギは降りかかる火の粉を掃っただけ。それは今までエヴァンジェリンが行なってきた生きるための術に他ならない。
勝つためならば手段を選ばず、自身の生徒ですら手を掛けるその覚悟は、「決闘」などという言葉遊びに逃げていたエヴァンジェリンにとって感嘆すらも覚えるものだった。
エヴァンジェリンが怒りを感じるとすれば、それはネギを甘く見ていた自分自身に対してだ。
「この学園に囚われ……いや、守られて過した15年、私は弱くなった。力だけでなく心までも」
エヴァンジェリンは自分の小さな掌をじっと見つめた。
「だが、ネギ・スプリングフィールド。奴のおかげで思い出すことができた。私が何者であるのかを、私自身の生きるべき姿を」
誰に言うわけでもなく、独白するエヴァンジェリン。見つめていた掌から視線を外すと、ゆっくりと立ち上がった。そしてポケットから純白のハンカチを取り出してテーブルの上にある「茶々丸」を丁寧に包んだ。
「今日は別れの挨拶に来ただけだ。近日中に学園を出て行く。騒がせてしまったことは謝罪しよう。だが、これが私の覚悟だということは忘れるな」
学園からエヴァンジェリンが出るということはネギを襲うということだ。これまで隠してきた計画をなんの躊躇も見せずに暴露してみせる。
エヴァンジェリンは武力こそ用いていないが、従者を引き連れ学園内に配置したことを謝罪した。これで学園の魔法関係者でエヴァンジェリンの力が復活していることを知らない者はいなくなった。ガンドルフィーニがフェンリルを襲撃した時のように学園の安全のために独自に動き出す人間が現れたとしても不思議ではない。一歩間違えば、学園とエヴァンジェリンとの間で全面戦争が起こってしまう危険性すらある。
一見、まったく意味を成さないようなエヴァンジェリンの力の誇示だが、エヴァンジェリンの揺るがぬ瞳が彼女の意思を示す。
“来るなら来い、相手になってやる”、と。
エヴァンジェリンはスルトそしてフェンリルを順に一瞥すると、従者を引き連れ、学園長室を後にした。
殺気の元凶の一つがいなくなったことで、ほんの少しだけ室内の空気が弛む。しかしもう一方の殺気は未だ健在なままだ。
「ネギはどこだ?」
「ま、待ってくれ! さっきも言ったがネギ君がやったと決まったわけじゃない!! 話を聞いてくれ!」
「お前こそ少し落ち着け。俺は小僧がやったとは思っちゃいない。少なくとも一人ではな」
再び沈黙がフェンリルの短い質問によって破られる。言葉と共に放たれる殺気に危険を感じた高畑は焦り、声を上げる。しかし高畑が思っているよりもフェンリルは冷静だった。
茶々丸にネギが一人ではどうやっても太刀打ちできないのは実際に見ていたフェンリルが一番よく分かっている。
「まずは会って話をさせろ。どうするかはそれから決める」
ネギを殺すのか、殺さないのか。
傍観するのか、しないのか。
学園側につくのか、エヴァンジェリンに味方するのか。
決めなければならないことは多々あったが、選択のための情報が少な過ぎる。最良の選択をするためにフェンリルは壊れそうになる精神を必死に押さえ込みネギの下へと向かうのだった。
【学園地下・独房】
ネギは数日前までガンドルフィーニが収容されていた独房に保護の名目で入れられていた。壁の至る所に突貫工事での修繕の跡があり、形の上では堅牢な独房としての姿を取り戻していた。
その中心に設置されている椅子に座って、ネギは俯き考えていた。
茶々丸を破壊したのは一体誰なのかと。
独房に収容された当初、ネギは茶々丸を明日菜と一緒に襲撃したことが学園にばれたのだと思っていたが、よくよく話を聞いてみると、事態は想像以上に悪い物だった。
確かに茶々丸の破壊をネギがしようとしたのは事実であるが、ネギにはそれが成功したような記憶は無い。破壊ではなく撃退程度が関の山だ。
そして破壊された茶々丸の写真を見せられて確信した。これをやったのは自分ではないと。
高畑や、しずな、刀子が何度となく情報を得ようと同じ質問を繰り返してきたが、記憶に無いのだから答えようが無い。
それは今目の前にいるフェンリルに対しても同じことだった。
「信じてもらえないかもしれませんが……僕はやってません。あの後、すぐに寮に帰りました」
「何故信じてもらえないと思う?」
「それは……僕が茶々丸さんを攻撃したのは事実ですし……でも、僕はやってません。あんな……ひどいことを」
ネギは破壊された茶々丸の姿を思い出し、恐怖に身を震わせた。
ちなみに独房にいるのは、ネギ、ネギを監視するための高畑、フェンリル、フェンリルを監視するためのスルトだけだ。前回の教訓をもって、室内にいるのは最小限の人間だけだ。
「一緒にいた小動物はどこに行った?」
「カモ君ですか? それは僕にもちょっと。いつの間にかいなくなってました」
独房なのだから当たり前ではあるが、エロオコジョの姿はどこにもなかった。ネギによれば寮に戻った時にはすでに姿が見えなくなっていたらしい。
「………なにか思い出したら、教えろ。いいな?」
「は、はい」
フェンリルはネギに背を向けると扉に向かって歩いていった。そしてネギから感じた言いようの無い違和感に思考を巡らせる。
前とはどこかが違うだが、それがなんのか分からない。もやもやと堆積していく疑問に頭を悩ませながら扉をくぐり外に出た時、神器のリストにあった文字が頭の中で形を作りだした。
「アンドヴァリ」
頭の中に浮かんだ文字を読み上げるフェンリル。ネギに感じた違和感との関係を確かめようと後ろを振り返るが、独房の扉はすでに堅く閉ざされネギの姿を見ることはできなかった。
あとがき
またしても学園を巻き込んだ抗争になりそうです。ただし今度は敵になるのか、味方になるのかわかりませんが。
エヴァンジェリンVS学園。力が戻ったからこそできる全面対決をどうやって書こうか頭を悩ませたいところです。