第57話 「鬼の従者の眠りは深く」
【エヴァンジェリン邸】
フェンリルは学園長室でのスルト達の報告を聞き終わった後、エヴァンジェリンの下へと来ていた。学園長から伝言を頼まれ、つい今し方、それを終えた。
「………これでジジイからの伝言は終わりだ」
「お咎めは無し……というわけだ」
「文句があるならジジイに言え」
「誰も文句など言ってないだろうが」
「仏頂面でなにを言ってやがる」
学園を一時、占拠したことは竜と化したネギを止めることに尽力したことで帳消し。マリオネットを率いて学園に侵攻したことはネギ個人との決闘が目的であったということで大事にはされず内々に処理されることになった。エヴァンジェリンの目的であるネギの血の取得は叶わず、本当の自由は得られなかったが、学園との全面対立は避けることができた。登校地獄に関しても学園が解呪に協力することを約束している。
エヴァンジェリンにとっては失うものはなにもなく、寧ろかなりの好条件のはずなのだが、エヴァンジェリンの表情に喜悦は無く、眉間に皺が深く刻まれていた。ソファに腰掛け、腕組みをして目の前に座るフェンリルを睨みつけている。
「元々、高音と約束してたんだろ? 小僧に勝ったら解呪に協力すると」
「勝ったらな」
「勝ったじゃないか?」
暴走するネギを止めたのだから勝ったと言ってもいいのではとフェンリルは首を傾げる。しかしエヴァンジェリンの表情はさらに険しくなってしまう。
「あれが勝利と呼べるなら、狼に食べられた赤頭巾も大勝利だ」
ネギと戦ったのは事実だが、実際ネギの動きを封じたのはスルトだ。彼女自身にとっては少なくとも勝利などと呼べるような代物ではなかった。ネギにやられた自分は赤頭巾、ネギを倒したスルトは猟師といったところだ。
「俺は布切れなんて食べたことないぞ」
「………ところで、貴様をたったそれだけのことを言うためにここまで来たのか? それこそ電話一本で、いやそもそも貴様が来る必要があったのか?」
例え話が通じなかったからか、それとも自分を赤頭巾に準えたことが気まずかったのか、エヴァンジェリンは言葉を区切り話題を変えにかかる。内心通じなくてよかったとも思っていたりもする。
「ん? ああ、俺にとってはこれからが本題だ」
「………では、指輪が外れた理由はスルトにも分からないわけだ。そして明日菜が外せなかった理由も分からずじまい」
「らしいな。本当なら、指輪を外せるのは小僧と契約した明日菜だけのはずなんだが、お前も知っての通り解呪は失敗。アンドヴァリを外せる人間はこの世に存在しなくなった……はずなんだが」
指輪を外すことができるのは、指輪を填めた本人だけだ。スルトの描いた魔法陣は契約によってネギの魔力が巡っている明日菜をネギ本人だと指輪に誤認させる効力を持っていた。
しかし、明日菜の精神力が足りなかったせいか、魔法陣が不完全だったのか、それとも指輪を誤認させることができるほど明日菜とネギの間に強い絆が無かったのか、原因は分からなかったが、明日菜は指輪を外すことができなかった。アンドヴァリの特性から指輪を外せる可能性があったのはネギ本人と、その契約者たる明日菜だけ。ネギに意識が無く、明日菜に指輪を外すことができなかったとなれば、ネギを助ける方法はもはやない……はずだった。
「だが、指輪は外れた。貴様の妹、ヨルムンガンドの手によってな」
「………らしいな」
エヴァンジェリンはその幼い容姿からは想像できないほど妖艶な笑みを浮かべてフェンリルを見つめる。
エヴァンジェリンの言う通り、外せないはずのアンドヴァリはネギを傷つけることなく外すことができた。
それをしたのはヨーム。
解呪の術式が失敗に終わり、途方に暮れる高音達の前に眠っていたはずのヨームがフラリと現れたのだった。そしてネギの手を握り締めると、指輪に手をかけた。
無理矢理指輪を外そうとすれば使用者は死に至る。そうスルトに聞かされていた高音はヨームを止めようとしたが、それ以上にヨームの動きは素早かった。
ネギの手に填められた指輪は滑るようにしてすり抜け、いとも簡単に外れてしまう。もちろんネギは死んでおらず、苦痛を感じた様子すらなかった。
「外した本人もどうやって外したのか覚えていないのだろう?」
「ああ、外す方法どころか、外した事実すら覚えていないそうだ」
ヨームはネギからアンドヴァリを外した直後、再び気を失うようにして眠ってしまった。高音の呼びかけですぐに眼を覚ましたが、いくら問いかけてもヨームはなにも覚えていなかった。
「無意識の行為だったというわけだ。言われてみれば確かに眼が虚ろだったような、そうでなかったような」
エヴァンジェリンは顎に手を当てて、その時のヨームの様子を思い浮かべるが、いまいちはっきりとした像を結ぶことができなかった。
「どっちだよ?」
「観察日記をつけてるわけじゃないんでな。表情なんていちいち覚えちゃいない」
「お前が虚ろだったかもと言ったんだろうが」
「ヨームのことになるとやけに熱心だな。妹想いの狼さんは」
会話の中身とは関係のない部分に食いついてくるフェンリルをエヴァンジェリンはニヤリと笑ってみせる。指摘された内容とエヴァンジェリンの不敵な笑みが勘に障ったのか、フェンリルは顔を顰めるのだった。
「それで、手柄を姪っ子に奪われたお偉いどこぞの王様は今はどうしておられるのかな?」
顔を顰め、口を噤んでしまったフェンリルに狂った謙譲語で問いかけるエヴァンジェリン。ニヤニヤとした笑みが消えることがないことからもエヴァンジェリンがスルトを馬鹿にしているのは明らかだった。
「術式失敗の原因究明、ヨームの能力の解析、ラタトスクを送り込んできた組織の解明、その他諸々のことについて調べるために一度本国に戻るそうだ。まぁ、一国の王が何日も国を空けるってこと自体に問題ありだがな。今頃はもう学園を出たと思うぞ」
「クックックッ、そうかそうか。奴は国に帰ったか。いい気味だ」
「…………なんでそんなに楽しそうなんだ?」
スルトの失敗を聞く度、スルトがすべきことに追われていると知る度に、エヴァンジェリンの笑みは輝きを増していく。人の不幸がたまらなく楽しいといった姿は悪い魔法使いの正しい姿とも言えなくもないが、エヴァンジェリンの笑みはイタズラに成功した悪ガキのそれに近い。
「あのデカブツには散々好き勝手されたからな。せいぜい帰りの道中で事故が無いことを願ってやるさ」
エヴァンジェリンはスルトとの掛け合いの一つ一つを思い出すと、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。
「随分と嫌われたもんだな。確かに適当で、後先考えてなくて、お節介で、人の話を聞かない大ざっぱな男だが、あれはあれで良いところもあるんだぞ」
「…………とりあえず、あまり尊敬できる人物ではないことは分かった。というか、あいつは学園に何しに来たんだ?」
フェンリルはエヴァンジェリンに嫌われている様子のスルトをフォローしようと試みたが、完全に逆効果だったようだ。エヴァンジェリンは呆れたように溜息を吐く。
スルトがラタトスクの一件を解決することに一役買ったことは間違いないだろうが、元々そのこと自体が目的ではなかったはずだった。
「一応、俺とヨームをムスペルスヘイムに連れて帰って保護するつもりみたいだったがな。こっちにいた方が安全だと考えたらしい」
ラタトスクの言葉を信じるならばラタトスクは単独ではなく複数名から成る集団、もしくはそれ以上に大がかりな組織に属していることになる。再び襲撃を受ける可能性が高い。
「ムスペルスヘイム……ニグラのことだな。だが、軍事大国であるニグラの警護下に入るよりも学園にいる方が安全とはどういうことだ?」
「ラタトスクの持っていたアンドヴァラナウトと"勝利の剣”はムスペルスヘイム……ニグラの中央大禁庫で管理されてたそうだ」
「は?」
フェンリルは問いかけられた質問には答えず、まるで関係ないような回答をする。エヴァンジェリンも話の繋がりが分からず首を傾げたが、フェンリルは気にすることなく続けた。
「ラタトスクに協力者がいるとすれば、それはニグラの皇族の中だ」
厳重に管理されていたはずの二つの神器が十年程前にニグラから紛失した。無くなるはずの無いものがなくなったのだから、盗難されたと考えるのが普通だ。しかし、例え空間を自由に転移できるラタトスクであっても、ニグラ皇国自慢の中央大禁庫から神器を持ち出すことは不可能。それは他の誰であっても同じことで外部の人間は神器を持ち出すどころか、触れること、見ることすら不可能なのだ。
当たり前のことながら犯人が外部の者でないのなら内部の者の犯行ということになる。
そして十数年の間、奪った神器を奪い返されることなく隠し通すことができたことも、ラタトスク単独の犯行でないことを、ニグラ内部に犯人がいることを裏付けるものだった。
ニグラを騙し通すことができるのはニグラだけ。
ニグラに対抗できるのはニグラだけだ。
「冥界から舞い戻り、新たな生を受けたと思ったら身内に命を狙われるとは……。なんいうか、不遇だな、貴様は」
「身内と言っても伯父貴の身内であって俺とはなんの関係もない。それに俺がラグナロクでやったことを考えれば、例え一度死のうが許すことができないと思う者がいても不思議じゃない。黙って殺されてやるつもりは毛頭無いがな」
フェンリルの言葉を聞き終えたエヴァンジェリンは哀れむような瞳でフェンリルを見つめるが、フェンリルはその視線を拒絶するように顔を逸らした。
「伯父貴はこうなることをある程度予想していたらしい」
「貴様やヨルムンガンドが殺されることをか? それとも身内に敵が潜んでいることをか?」
「どっちもだ。俺とヨームは伯父貴にとって目的であり、敵を誘き出すための餌でもあったということだな」
ただニグラにフェンリルとヨームを招くだけなら皇帝自らが出向く必要性など無い。使者に自分の代理であることを示せるものを持たせて送り込めばいいだけの話だ。
スルトが学園に来たのは、学園で起きるであろう混乱を迅速に収めるため、そしてニグラ国内に潜む反乱分子が動きやすくするためだった。今回の帰国にしても慌てて帰ったわけではなく、当初から予定されていたかのように淀みが無い。
「それで、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
スルトが敵を誘き出すためにフェンリルを利用したというのに、フェンリル本人にそれを気にしている様子はまったくなかった。寧ろスルトの計画が成功したことを喜んでいるようですらあった。
そんなフェンリルの姿に呆れつつ、エヴァンジェリンは今後について問いかける。
「本当なら俺もラタトスクを仕向けた奴に会いに行きたいところなんだが……残念ながら俺にはまだ伯父貴と並び立って戦うほどの力はない。それに他の神器もまだ学園の中にあるかもしれないしな。しばらくはここを拠点にして力が戻るのを待つ」
「賢明だな」
「………と、言うのが正しい選択なんだろうがな」
「ん?」
スルトが当事者であるフェンリルを置いていったのは、学園が安全というよりはニグラが危険だからだ。神器を持っていたとは言え、戦闘能力など無きに等しいラタトスクにいいようにあしらわれてしまった今のフェンリルではラタトスクの上に立つ者と相対しても足手まといになるだけだ。
エヴァンジェリンにもそれは理解できる。敵がいるからといって無闇矢鱈と戦いを挑んだところで勝てないのでは意味はない。自身も居城を構え、向かい来る敵にだけ対応していたエヴァンジェリンとしてはフェンリルの選択は合理的なものに思えた。
しかし、フェンリルの紅い瞳には敵を待つなどいう受動的な感情は微塵も感じられなかった。
「待つのには慣れている。何千年と穴蔵で世界の終わりを待ったからな。だが慣れているからと言って我慢ができるわけじゃない」
「我慢?」
「あんたはなんとも思わないのか。仲間をやられて、家族を殺されて」
「…………そういうことか」
「どんなに大きな傷であっても生きているなら、傷は癒える。それが肉体あっても、心であっても。だが、死んでしまえばそれまでだ。全てを失い、取り戻すことはできない」
「転生した貴様が言うのは滑稽に映るな。説得力の欠片もない」
「そうかもな。だが、あんたに死者を蘇らすことができるか? 世界の万物に死者の復活を望ませることができるか? 冥界の支配者の前で膝を屈することなく相対することができるか?」
ヨームは撃たれて死にかけた。龍宮は腕を折られた。ガンドルフィーニは全身骨折。ネギは呪いで死にかけた。楓は斬られて死にかけた。エヴァンジェリンはネギに殺されかけた。
仲間が傷つけられたとしても、加害者が地面に頭をこすりつけ、やられた当人が許すのならば、我を忘れるような激昂はしなかったかもしれない。
だが、茶々丸は死んでしまった。
もはや加害者の謝罪を聞くことはできない。
加害者を許すこともできない。
ならばフェンリルの選択は一つだけだ。
「茶々丸のために、相手が誰かも分からないというのに、どれほどの力を有しているかも分からないとうのに、自分の力がどれほど矮小なのかを理解もせずに、ニグラに殴り込みに行くと言うのだな」
「…………随分な言われようだが、まぁその通りだ。訂正するところがあるとすれば、茶々丸のためじゃあない。誰のためでもない、俺自身のためだ。俺自身の勝手な自己満足のために茶々丸を利用しているだけ」
「ふむ、復讐の理由を他人に求めないのは評価してやってもいい。だが、私も貴様の誤りを訂正してやろう」
「なんだ?」
「茶々丸は私の家族などではない。ただの従者、戦闘のための道具だ。そして茶々丸は死んでなどいない。元々魂の無い人形だからな。始めから生きていないのだから、死ぬこともない。故に私が貴様と同じように復讐を考えることなどあり得ない」
茶々丸は戦闘のための道具。その言葉に偽りはない。
力を封じられたエヴァンジェリンが身を守るため、そして身の回りの世話をさせるための存在が茶々丸だ。力を取り戻した以上、誰かがエヴァンジェリンを守る必要はない。従者はチャチャゼロを始めとした数十、数百のマリオネットがいれば戦闘はもちろん、掃除、洗濯、炊飯、生きるに困ることはないのだ。
「私は家具の一つが壊されたところで壊した犯人を殺そうと考えるような狭量ではないのでな。貴様も人形にうつつを抜かしている暇があったら妹や弟の心配でもしたらどうだ」
必要の無いものに執着するようなことはしない
実りのない復讐に身を委ねるつもりなど毛頭無い。
エヴァンジェリンはフェンリルを嘲るように不敵に笑った。ただし笑っているのは口元だけで、青い瞳は不可思議に揺れ動いていた。
「…………………」
「なんだその眼は?」
フェンリルは口を噤んで、エヴァンジェリンを見つめる。エヴァンジェリンの瞳は内心が読めない不可思議なものだったが、そのエヴァンジェリンが問いかけてしまうほど、フェンリルの紅い瞳は奇妙で読むことのできないものだった。
怒っているようにも、笑っているようにも、驚いているようにも見える。
「いや、あんた意外に可愛いところがあるんだなと、思ってな」
「…………………あ”??」
唐突に放たれた口説き文句に、エヴァンジェリンはヤクザ屋さんのような声を出す。別に色惚けしたフェンリルに脅しをかけようとしたわけではなく、予想していた反応とはかけ離れていたので戸惑っただけなのだが、眉間によった皺は子供を泣かすぐらい簡単なほど深いものだった。
西洋ナマハゲことエヴァンジェリンの威圧を前に怪狼フェンリルも思わずたじろぐ。だが、先ほどまでのエヴァンジェリンを思い出すと、威圧が幾分紛れて感じられる。フェンリルは一度大きく息を吐き出すと、まっすぐにエヴァンジェリンを見つめて口を開いた。
「自分の弱みを見せないように必死……だと思ってな」
「なん……だと」
「あんたがどんな風に生きてきたかは知らないが、そんな虚勢を張らなきゃならないほどあんたの世界は敵で満ちてるのか?」
「貴様」
「俺を煽って、自分を偽って、茶々丸を貶めて。誰かを想うってことは罪なのか? 家族を持つことは悪なのか? それとも、あんた自身が自分の気持ちに気づいていないだけなのか?」
フェンリルの問いかけにエヴァンジェリンの瞳は一層険しくなっていき、フェンリルに詰め寄ろうとする。しかし、フェンリルは矢継ぎ早に問いを繰り出し、エヴァンジェリンが唸るのを止めてしまう。
「…………黙れ」
エヴァンジェリンは喉の奥から絞り出すように声を出してフェンリルを牽制するが、動揺した心で放たれる威圧に威力はなくフェンリルの口を閉ざすだけの効力はなかった。
「黙らねぇよ。あんたは茶々丸のことをそんな風に思っちゃいない。あんたはあんたが考えてるよりも茶々丸を大事にしていたはずだ」
「貴様に私の何が分かる!?」
「あんたのことなんか俺は微塵も知らねぇよ。だが、茶々丸のことなら分かる。あいつは俺やあんたみたいなひねくれ者とは違って真っ直ぐな奴だったから。あいつが誰よりも大事に想っていたあんたが、あいつを大事に想わないわけがない」
「な、なんだそのメチャクチャな理論は……」
エヴァンジェリンは人の話を聞かずに勝手に喋り続けるフェンリルに怒りを覚えていたが、今は怒りを通り越して呆れになってしまった。
フェンリルの理論が肯定されてしまえば、この世に片想いというものは存在しなくなる。ストーカーのような一方的な想いが引き起こす犯罪も存在しないことになってしまう。それはあまりに身勝手で、荒唐無稽なトンデモ理論だ。
「別に確証があって言ってるわけじゃない。これはただの俺の願望。そうであって欲しいと願って、それを口にしているだけだ」
フェンリルは頭を片手で押さえて俯いてしまったエヴァンジェリンの姿に苦笑する。
フェンリルがエヴァンジェリンに語る内容はフェンリル自身も何の根拠もない、無意味なものなのだと理解している。ただ、それでもそう思わなければ、心の均衡を保つことができなかった。
ただ信じたかったのだ。
茶々丸がこの世に存在したことに意味はあったのだと。
茶々丸は大切な人を守るために死ぬことができたのだと。
茶々丸が自分にとっても、世界にとっても、エヴァンジェリンにとっても掛け替えのない存在だったのだと。
例え誰に蔑まれ、呆れられても、信じたかった。
「「………………」」
エヴァンジェリンは俯いたまま黙り込み、フェンリルもエヴァンジェリンを見つめたまま口を噤む。
エヴァンジェリンの頭の中ではフェンリルの勝手な願望が何度も繰り返されていた。自分が本当は茶々丸のことをどう思っていたのか。
ただの道具としか見ていなかったのか。それともフェンリルの言う通り仲間だと、家族だと思っていたのか。自分自身のことであるにも関わらず、いくら考えても答えを出すことができずに思考の海に陥ってしまう。
(私にとって……茶々丸は……)
選択すべき二つの答え。一つは世界を震撼させた悪の魔法使い「闇の福音」としてのもの。そしてもう一つはただのエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルとしてのもの。
これまで誰に頼ることもなく独りで生き抜いてきたエヴァンジェリンにとっては答えなどすでに出ているはずだった。茶々丸はただの道具なのだと、学園長にも今この場でフェンリルにも告げている。世界を敵に回して生き続けている「闇の福音」に家族などいうものは必要ない。自身の弱みとなるようなものは無用。あってはならないものなのだ。理解し、割り切っていたはずだったが、フェンリルの願望はエヴァンジェリンの意志を微かに浸食し、揺り動かす。
「………………」
長い思考の後、エヴァンジェリンは顔を上げると見つめるフェンリルを真っ直ぐに見つめ返した。しかし口は閉ざしたままで声を発することはなく沈黙を守ったままだった。
その表情は笑みも、怒りも、戸惑いも浮かべず、ただ彼女の強い意志だけを瞳に宿らせていた。
フェンリルは別にエヴァンジェリンからなんらかの答えがくることを望んでいたわけではない。エヴァンジェリンが茶々丸を道具だと言い切ったとしてもそれが彼女の生き方ならば非難するつもりなど毛頭ない。ただ彼女の長い沈黙はそれだけでフェンリルの願望を満たすのに十分なものがあった。
「最後にあんたと話せてよかった」
「…………待て」
「ん?」
茶々丸のことで悩むエヴァンジェリンの姿に満足し、この場を後にしようと背を向けたフェンリルだったが、呼び止められ振り返る。
「貴様が行く必要はない。いや、意味が無い」
「……それがあんたの出した答えだとしても俺には関係ない。言っただろ? ただの自己満足なんだよ」
フェンリルはエヴァンジェリンの言葉の意図が、茶々丸が命の無い人形だから敵を取っても意味がないということだと解釈してしまった。フェンリルの眼には憂いと、ほんの少しの落胆が映る。
「いいから、ちょっとこっちに来い。見せたいものがある」
茶々丸に魂が存在せず、"生きている”わけではないということはエヴァンジェリン自身が何度なく口にしていたことだ。フェンリルの声の調子と、瞳の揺れから感情を読みとることは容易だった。エヴァンジェリンは座っていたソファから立ち上がると、フェンリルが着いてくるのも確認せずに家の奥へと入って行ってしまった。応える間もなく歩きだしたエヴァンジェリンをフェンリルは首を傾げながら追っていく。
「ここは?」
エヴァンジェリンの家はそれほど広くないログハウスだ。少し歩いただけで目的の場所に到着する。フェンリルは目の前の扉を指し示して、エヴァンジェリンに問いかける。
「茶々丸の部屋だ」
エヴァンジェリンはフェンリルを振り返ることなく問いに答えると、懐から鍵を取り出し鍵穴に差し込む。そしてフェンリルの反応を待つことなく扉を開けると、部屋の中に入っていってしまった。フェンリルは一瞬どうするべきか戸惑ったがエヴァンジェリンの後を追って部屋に入った。
人形で埋め尽くされた他の部屋とは対象的に室内はとても人が住んでいたとは思えないほどなにもなかった。何も置かれていない簡素な机と使っていたのか疑わしいほど皺の一切無いベッド。窓はあるが分厚いカーテンで外からの光は遮断されており、電気も点けられていないので部屋は薄暗い。
「………ん?」
部屋の中を見回しながら、フェンリルは部屋の様子がどことなく冥界の妹の執務室に似ているような気がした。フェンリルは部屋の最奥の光の当たらない場所に何かあるのに気づき、目と鼻を凝らす。
「…………な!?」
「これで分かったか? 貴様が茶々丸の敵を討つ意味はない」
フェンリルとエヴァンジェリンの視線の先にはクッションすら着いていない木製の椅子。
そしてそこに座る人型。
そこには茶々丸が座っていた。
原型を留めないほど損傷していたはずの茶々丸が傷一つない綺麗な姿で座っていたのだ。しかし二人が近づいても茶々丸は立ち上がるどころか顔を上げることもなく座り続けている。その眼は見開かれたままだが焦点があっておらず、どこも見ていない。
茶々丸はそこに"いる”のではなくただ"ある”だけだった。
元々茶々丸に魂と呼べるものは無いが、今の茶々丸には意志そのものが存在しなかった。
「………茶々丸」
力無くダラリと下に垂らされた茶々丸の腕をフェンリルは鼻先で押し上げてみるが、やはり反応は無い。
名前を呼んでみたものの、フェンリルには目の前の存在が茶々丸であるのかどうか確信が持てなかった。茶々丸自身に体臭と呼べるものはなかったが、それでもエヴァンジェリンや他者の匂いが移り茶々丸の匂いとなっていた。今目の前に座る「茶々丸」は見た目こそ完璧に茶々丸だが、生き物の匂いがまったくしなかった。するのは鼻につくオイルの臭いだけだ。
「体の修理は不可能だったらしくてな。完全に別物の新品だそうだ」
戸惑うフェンリルの心情を察したエヴァンジェリンが疑問に応える。当たり前のことではあるが、茶々丸はアンドロイドであり人造物だ。体がどれほど壊れようがいくらでも換えは利く。それ自体はフェンリルにも理解できたが、問題は茶々丸の瞳に光が無いことだ。
全てに換えが利くのであれば、茶々丸が茶々丸である必要はない。重要なのは茶々丸を茶々丸たらしめるための記憶があるかどうかだ。人間でいうところの脳である茶々丸の思考や記憶を司る部分はボディと共に修繕不可能なほど破壊されていた。それを聞かされていたからこそ、フェンリルは茶々丸が"死んだ”のだと捉えていたのだ。
身体が直ったとしてもそれで茶々丸が復活したことには成り得ない。
「安心しろ。記憶もそのまま残っているから、正真正銘それは茶々丸だ」
「だが……あ~、なんと言ったか、はーどだか、めもりだか言う茶々丸の脳は治せないはずじゃあなかったのか?」
フェンリルは記憶の片隅に残っている現代用語を駆使してエヴァンジェリンに問いかける。
「これのことか? 確かにこれは直しようがなかったらしいな」
エヴァンジェリンはポケットから六角形の電子部品を取り出すと、欠けた部分をフェンリルに見えるように指し示す。
「それが無くても茶々丸は記憶を維持できるのか?」
「茶々丸の記憶装置はメインとサブの二つあって、どちらか一つが壊れても一方が無事なら問題は無い。だが今回はどちらも破損していて完全に復元することはできなかった。しかし茶々丸の記憶装置はそれだけではなくメンテナンスの度に外部にバックアップを取っている。その上、茶々丸は開発者のある目的のために全世界のネットに枝を張り巡らし分身とも呼べる存在を作り続けているそうだ。そういった拡散した情報、つまり記憶を統合させることで茶々丸という一つの個を取り戻すことに成功したらしい」
「…………何を言っているのかさっぱり分からん」
「だろうな。私も開発者の説明をそのまま口にしているだけで自分が何を言っているのかまったく分からん。まぁ、理由はどうあれ茶々丸は元に戻ったということだ。ある意味において茶々丸は私や貴様のような人外よりも不死身に近い存在なんだそうだぞ」
エヴァンジェリンの長々とした説明にフェンリルの脳細胞は混乱の極地だ。無数の疑問符が部屋の中を埋め尽くしていく。途中から聞くのを止めてしまったので、エヴァンジェリンが何語を話していたのかも分からない。
理解不能を示すフェンリルにエヴァンジェリンは同意すると、肩を竦めてみせる。言葉の最後の部分でなんとか状況を理解することはできたが、さらなる疑問が現れ再びフェンリルは首を傾げる。
「何故茶々丸は動かないんだ?」
茶々丸が無事であるのかどうかを確かめるならば彼女と話すのが最も単純で確実な方法だ。だが、先ほどから無事であるはずの茶々丸からは一言も発せられることもなく、反応も無い。
「それに関しては簡単だ。ただ単に動力である魔力を充填していないだけ。ただそれだけだ」
フェンリルを混乱させる疑問は解消されると同時にさらなる疑問を新たに発生させてしまう。宙に浮いた疑問符は消えることなく漂い続けていた。
「なんでだ?」
「必要が無いから、意味が無いから………だと思っていたんだがな。たぶん違う」
エヴァンジェリンは一度言葉を区切り自身の言葉を否定する。
「貴様が望む通り、茶々丸が私にとって特別なのかどうかは私にも分からん。だが、他の人形たちとはおそらく違うのだと思う」
「えらく曖昧だな」
エヴァンジェリン自身、自分の感情に確証が持てずにたぶんやおそらくを多用してしまう。
エヴァンジェリンの茶々丸以外の従者は全て、魂の込められた人形だ。どんなに数が多くとも、どれだけ自立して動くことができようとも、彼女にとって分身のような存在でしかない。主人であるエヴァンジェリンに対して敬意の見られないチャチャゼロですらエヴァンジェリンの一部に過ぎない。
だが、茶々丸は違う。
茶々丸は動力である魔力をエヴァンジェリンに与えられ、プログラムにより絶対服従の姿勢を見せてはいるが、エヴァンジェリンにとっては唯一の「他人」だった。
吸血鬼になってから誰にも心許すことなく生きてきたエヴァンジェリンが唯一心を許した他人。それが茶々丸だった。他の従者はどんなに反抗的は態度をとることがあろうと、エヴァンジェリンはその心を正確に把握できるし最後の一線で裏切ることは絶対にない。しかしエヴァンジェリンは茶々丸の考えていることを読むことはできないし、茶々丸がエヴァンジェリンを殺すことも物理的には十分に可能だった。
数多くの従者の中である意味最も危険な存在だったはずの茶々丸にエヴァンジェリンは力を持たない脆弱な姿を晒していたのだ。
「必要無いなら棄てればいい。意味が無いなら壊せばいい。だが私はそうせず、後生大事にここに置いている。………認めるよ、フェンリル。私にとって茶々丸は特別だ。盾にされれば戦意が鈍るし、傷つけられれば頭にくる。守りたいとも思うし、愛おしいとも思う」
エヴァンジェリンはフェンリルの横に立つと、動くことのない茶々丸の髪をそっと撫でつける。指の先で軽く弄ぶと、頬に触れて手を止めた。
「俺にとっては朗報だが、それなら尚のこと理由が分からん」
エヴァンジェリンが茶々丸を大事だと思うのならば、動けないまま暗闇に押し込めて放置している現状が理解できずに首を傾げる。
エヴァンジェリンは一度小さく息を吐くと、茶々丸の頬に触れたままフェンリを見ずに答える。
「今はまだ学園に囚われたままだが、魔力が戻った以上近い将来私は再び戦いの中に身を置くことになる。そうなれば当然茶々丸も戦うことになる。私を守るために」
「そりゃあ、従者なんだから当然だろうな」
何を当たり前のことを言っているのかと、フェンリルの頭上の疑問符はさらに大きさを増していく。
「私は怖い」
「……………」
エヴァンジェリンの手が僅かに震えていることに気づいたフェンリルは黙って彼女の次の言葉を待つ。
「茶々丸が傷つくのが……私は怖い。例え死ぬことのない不滅の存在であったとしても、それが傷ついてもいい理由には成り得ない。戦うことが茶々丸の意志でないのなら尚更だ」
「茶々丸の意志じゃない? あんたを守ることをか? そんな訳ないだろ。茶々丸はあんたのことを誰よりも……」
「それはこいつの生みの親、開発者が創り上げたものに過ぎない。全てはプログラム。洗脳魔術の類と大して変わらない紛い物だ。その上私は不死身で、茶々丸は不滅。永遠に終わることのない偽りの戦いを続けるよりもここで安らかに眠りにつく方がこいつの為だ」
エヴァンジェリンは茶々丸から手を離すと、爪が掌に食い込むほど強く拳を握り締めた。そして茶々丸に背を向けると扉に向かって歩き出す。
一人で戦い続け、愛した人を一度失ったエヴァンジェリンが茶々丸を失い掛けたことで再び味わうことになった例えようもない喪失感。心に開いた空虚な穴をこれ以上広げないためにエヴァンジェリンがした選択だった。
「………言ったのか?」
部屋を出ようとするエヴァンジェリンの背にフェンリルも背を向けたまま声を掛けた。扉に手をかけたところでエヴァンジェリンの足が止まる。
「……………」
エヴァンジェリンも沈黙を以てフェンリルの言葉の続きを待つ。
「言ったのか? 茶々丸が。自分の心は偽りだと。あんたのことなんかなんとも思っていないと。あんたの為に戦うのは二度と御免だと。言ったのか?」
「言うことができたのなら私も茶々丸もどれほど救われたことか。魂を嗅ぎ分けられる貴様なら、私の言葉の真偽が分かるんじゃないのか?」
「なぁ、なんであんたは茶々丸の心が偽りだと決めつけてるんだ? それしか感情が無いなら真実も偽りもないと思うんだが」
偽りとは真実があって初めて成立するものだ。茶々丸の感情は確かにプログラムをなぞって創られたものだが、茶々丸が自身の感情を偽っているわけではない。だが、所詮は学があるとは言い難いフェンリルの詭弁でしかない。
二人の会話に回答はなく疑問だけが繰り返される。言葉を連ねながらフェンリルはどうやって茶々丸を起こす方法を聞き出すか、どうやってエヴァンジェリンを説得すればいいのか、思考を巡らしていた。
しかし名案と呼べるようなものは出てこなかった。
………チャリン
「………?」
数秒の短い静寂はフェンリルの名案ではなく、乾いた金属音によって破られる。大きな音ではなかったが静まり返った室内ではよく響いた。フェンリルは音の正体を知ろうと視線を巡らす。音がしたのは二人の中間にある床の上。そこには掌大の金属片が落ちていた。
フェンリルが床から視線を上げると、背を向けていたエヴァンジェリンはフェンリルを振り返っていた。そして腕を胸の前で組むと扉の横の壁にもたれ掛かった。
「これは?」
「茶々丸のゼンマイだ。そいつを首の後ろにある穴に差し込んで魔力を込めながら回せば魔力が茶々丸に供給される」
「………??」
説得にはもっと手こずると思っていたフェンリルはいとも簡単に方法と道具を明け渡したエヴァンジェリンの行動に首を傾げる。
「別に理由など無い。自分勝手な貴様を見ていたら人形だとか偽りの心だとか茶々丸の本当の幸せだとか考えるのが馬鹿馬鹿しくなった。ただそれだけだ」
茶々丸の無事な姿を見れば、フェンリルが茶々丸を起こそうとするのは当然のことだ。フェンリルの稚拙な説得が項をそうしたわけではなく、この部屋に連れてきた時からそうすると決めていたのだった。
「茶々丸を起こすかどうか、貴様に任せる」
「……………」
フェンリルは一秒にも満たない時間だけエヴァンジェリンを見つめたがすぐに視線を床のゼンマイへと移し、迷うことなく口に咥える。だが、フェンリルが進んだ先は茶々丸の下ではなかった。
「………誰がこっちに持って来いと言った。駄犬」
ゼンマイを咥えて目の前に座るフェンリルを半眼で睨みつけるエヴァンジェリン。座るフェンリルの姿は尻尾を振っていれば投げてもらうのを心待ちにしているフリスビー犬そのものだ。
フェンリルはただただ無言で、と言うより口が塞がっているので黙ってゼンマイを差し出す。エヴァンジェリンは理由を問いたいところだったが、喋ることのできない者に話しかけても意味が無いのでとりあえずフェンリルからゼンマイを受け取った。
「なんだ?」
「あんたの中でもう答えが出てるなら、どうして俺がやる必要がある?」
ゼンマイを片手に問いかけるエヴァンジェリンにフェンリルも問いで応じる。
フェンリルが茶々丸を眠らせたままでいることに反対するのはこれまでの会話で明らかなのだ。例えエヴァンジェリンの言う通り、茶々丸にとって世界が苦しみに満ちているとしてもその考えが変わることはない。
そのフェンリルに判断を任せるということはエヴァンジェリンが茶々丸を起こすという選択を選んだということに他ならない。
「貴様は茶々丸を起こしたくないのか?」
「そんなわけないだろ。とっとと起こして巻き込んじまったことを謝りたいし、それ以上に俺は茶々丸に何も礼を返せてねぇ。結果が同じなら茶々丸を目覚めさせるのにふさわしいのはあんただ」
「私にその資格は無い。一度でも茶々丸を起こすことを躊躇った私にはな」
エヴァンジェリンは手にしたゼンマイに視線を落とす。
「アホか。家族を助けることにどんな資格が必要だって言うんだ。それとも今の世の中には悪人は人を助けちゃならないなんて法があるのか?」
「…………………」
呆れたように息を吐くフェンリルの声をエヴァンジェリンは俯いたまま黙って聞いている。沈黙はしばらく続いたが、耐えきれなくなったフェンリルは頬を掻く。犬科の構造上、前足では掻けないので後ろ足で掻くことになってしまうのが少々間抜けだ。
「まぁ……あんたが躊躇った理由も分かるがな。生き返った先駆けとして言わせてもらえば、確かにこの世界は神代と同じで相も変わらずクソったれだ。数ヶ月の間で何度もひでぇ目にもあったし、昔の柵も未だに俺を追ってきやがる。茶々丸が死んだと言われた時は自分の無力とクソったれの世界を呪った。結局は世界も俺も変わらない、チンケでどこまで行っても人の想いを踏みにじる」
「それなら何故貴様は絶望しない? 何故そんな世界に友を解き放とうと思える?」
「知らないからだ」
「知らない?」
「ああ、この世界に…茶々丸の未来に絶望しかないのか。それとも僅かばかりの希望が残されているのか。俺は知らない。だから全ての可能性を求めることができる。無知は愚かなことで、罪にも成り得るが、無知が誰かを救えることもある」
神代においてフェンリルやヨーム、ヘルに限らずありとあらゆる者達が決められた未来に縛られ、自身の運命に苦しめられた。それは運命を「決定」してしまった神ですら逃れられない絶対の理だった。
だが、今はもう楔は存在しない。自身で未来を勝ち取ることができるはずのエヴァンジェリンが存在しない運命の鎖に怯える姿がフェンリルには理解できなかった。
「それが今だと?」
「だから知らないと言ってるだろうが。あんたは考えるのが疲れたんだろ? なら考えるな。何も知らず、何も考えず、馬鹿を演じてやりたいことを好きなようにやればいい。問題が起きたらその時考えればいいだけだ」
フェンリルの言葉はこれまでの二人のやりとりを無にするような極論だった。
他人の目など気にせずに、さらに言えば当事者であるはずの茶々丸の意志すらも無視して自身の赴くままに行動すればいいと助言しているのだ。
エヴァンジェリンは茶々丸のためを思い、茶々丸を起こさずにいるのだと自身に言い聞かせていた。しかし自身の苦悩を茶々丸に転嫁させていたのもまた事実だった。そんな苦悩を遥かに飛び越えたフェンリルの無責任さ加減は衝撃に値するものだった。
「………ただ本能のままに、好きなように、か。私にそんなことを言ったのは貴様が初めてだ」
「まぁ、俺もよく悩んで思考が停止しちまうから偉そうに言えた義理じゃあないんだが。それでも自分ではそうありたいと思っている」
最後の言葉で急に薄っぺらくなってしまったが、フェンリルの言葉はそれなりにエヴァンジェリンに届いていた。
何も考えず、ただやりたいことをやる。それがどれほど難しいことなのかエヴァンジェリンにはよく分かっていた。どんなに強大な力を持とうとも己が望むままには生きられない。エヴァンジェリンは望んで吸血鬼になったわけではないし、殺戮を望んだことも、悪名で呼ばれることを望んだこともない。ただ世界の流れに身を任せ、そうしなければならないからそうしただけだ。
世界から蔑まれ、虐げられ続けてきたエヴァンジェリンにとってフェンリルに言葉はまさに福音だった。
「俺はあんたを肯定する。誰がなんと言おうが、茶々丸が信じるあんたを俺は絶対に否定しない」
「まったく、犬に諭されるとは……私も耄碌したものだ」
エヴァンジェリンはゼンマイを持っていない手で額を抑えると、自嘲するように笑った。
「前にも言ったかもしれないが、俺はあんたより年長だ」
「前にも言ったかもしれないが、人生に長さは意味を成さない」
互いに軽口を叩いた後、フェンリルはそっと立ち上がり横にずれると、エヴァンジェリンと茶々丸の間に道を創った。
エヴァンジェリンは一度ゼンマイを強く握り締めると、創られた道に足を踏み出すのだった。
「……………礼を言おう、渇望」
「………こちらこそ、福音」
あとがき
かなり間隔が開いてしまいましたが、何とか57話完成しました。
賛否はあるかと思いますが、茶々丸さんは復活の方向でいくつもりであります。スルトはもっときれいに退場させたかったのですが、力及ばずこの有様です。
最近はパソコンではなく、ポメラで執筆してるのですが微妙に漢字の変換能力が低いので面倒です。おかしな箇所があればご指摘していただけると幸いです。