第59話 「頭隠して尻も隠す」
【学園女子中等部棟・保健室】
時刻はまだ朝の7時半を少し回ったところで授業が始まるまではまだかなりの時間がある。部活の朝練のためにすでに登校している生徒もいるが、一般生徒は自室で惰眠を貪っていても不思議ではない時間だ。
しかし長瀬楓はすでに登校していた。だが、教室には向かわずに真っ直ぐこの保健室を訪れていた。保健室にいるのは楓、この部屋の主である保険医後藤、そしてフェンリルだった。
「他にどこか不調はあるか? 腹が痛いとか、頭が痛いとか、目眩がするとか」
後藤は対面して座る楓を触診しながら、問診を行う。楓に服を捲らせ、腹や胸を触っては聴診器で心音や肺の音を念入りに調べていた。
「特にないでござるな。不調どころか絶好調なぐらいでござる」
肌に直接触れる聴診器の冷たさに楓はくすぐったそうに身を捩る。確かに楓自身が言う通り、後藤が見た限りでは楓の体調に不調はなく、心音も肌艶も健康そのものだった。
「症状が出たのはいつだ?」
「いつ出たのかは拙者にも分かりかねるでござるが。寝る前はなかったから、おそらく寝ている間に"出てきた”のではないかと」
「心当たりは……まぁ、一つしかないか」
楓の推測を補足しようとした後藤だったが、原因など一つしか思いつかず溜息混じりに視線を楓から外す。
そして視線を外した先には一人壁を見つめているフェンリルがいた。
「もうこっちを向いてもいいぞ」
「…………ああ」
後藤は楓が捲っていた服を下ろすのを確認してからフェンリルに声をかける。フェンリルは念のためにもう一拍おいてから後藤に従い、壁に背を向けた。
女性が診療している間に室内にいること自体がマナー違反ではあるのだが、後藤も楓自身も特にそこについて言及することはなかったのでフェンリルは保健室を出ていくことなくその場に留まっていた。壁を見ていたのも後藤に強制されたのではなく自主的に楓に背を向けていたに過ぎない。
「別に見てもいいでござるよ?」
「そういうのは反応に困るからやめてくれ」
楓はシャツの裾をパタパタと揺らしながらフェンリルを挑発してみせる。フェンリルは見え隠れする楓のヘソから顔を逸らして見ないようにするのだった。
別に女性は慎ましい方が好みだとか、人前で肌を晒すのが女性として問題があるだとか考えているわけではない。むしろ微かな喜びを感じてもいるのだが、それを自制するのに必死でうまく感情を表すことができなかった。元々楓はフェンリルに自分の裸を見せることにそれほど抵抗がなかったようだが、今回の行動はいつものそれとは微妙に違っている。
見られても気にしないのではなく、明らかに見せつけてフェンリルの反応を楽しんでいた。
「ほれほれ」
「だからやめろって言ってるだろうが」
楓は顔を背けているフェンリルの視界に入るように回り込むと、先ほどと同じように衣服をパタパタとめくって見せる。その度にフェンリルは顔を反対側へと向けるのだが、それを面白がった楓は飽きることなくフェンリルの視界へと移動するのだった。
「私の診療が受けたくないならそう言えよ。今すぐこの部屋から蹴り出してやるから」
「っ!?」
自分の存在を無視してイチャつく?一人と一匹に向かって後藤は静かに忠告する。声は押さえ込んでいるが、彼女が苛ついているのは一目瞭然だ。後藤は何故か保健室に備え付けられている外科手術用のメスを手のひらで弄びながら楓を睨みつける。後藤の鋭い視線に殺気を感じた楓は急いで元の位置に座るのだった。
「で、"これ”はやっぱりあんたの影響なのか? フェンリル」
「断言はできないが、たぶんそうだ」
楓の誘惑が中断されたことに安堵しながらもどこか残念な気分も感じていたフェンリルだったが、後藤に問いかけられて思考を切り替える。
問いかけた後藤、そして問いかけられたフェンリルの視線が後藤が指し示した「これ」に集中する。
二人の視線の先にいるのは楓であり、さらに言えば二人が見ているのは楓はの頭だ。
そこには一般的な人間には存在しないものがあった。
楓は頭部にあったのは三角の形をした二つの出っ張り。周囲が髪の毛と同じ色の毛で覆われていて、中心だけは地肌と白い毛で構成されている。
楓の頭にあったのは現代で言うところの「ネコ耳」だった。
正確には「イヌ耳」であり、より厳密に言えば「オオカミ耳」なのだが、そのどれであろうとも異常であることには変わりない。
そして異常はそれだけではなかった。フェンリルと後藤の線が同時に動き、再び同じ箇所で視線が止まる。二人が見たのは楓の腰の部分だ。楓の履くスカートからは彼女のすらりとした足だけではなく、本来ないはずの部位が下へと垂れ下がっていた。
それは全体が毛で覆われた細長い物体。
俗に尻尾と呼ばれるものだった。一見すると楓の独特な後ろ髪の一部にも見えるが、よく見れば二つが別物であることはすぐに分かってしまう。
ネコの尻尾のようにスッキリとしたフォルムではなく、長めの毛で覆われた姿がイヌ科の尻尾であることを表していた。
「あんたの眷属になるとみんなこうなるのか?」
「いや、確かに体の一部が変化することはあるが、それは戦闘とかの興奮状態の時だけだな。常時変化して元に戻らないなんてことはなかった」
楓はフェンリルと契約したことにより怪狼の眷属「ウールヴヘジン」となった。その意味は「狼を纏う者」だ。ウールヴヘジンになった者はフェンリルの魔力によって肉体を強化されることで通常では成し得ない力を発現することができるようになる。肉体の変化はその副産物だ。その変化は常態的のものではなく、戦闘などの大きな力を必要とする時、本人が必要とする時にだけ現れるはずなのだが、楓の体は楓自身にも主であるフェンリルにも制御することができていなかった。
「狼男ならぬ狼女か……満月でもないのに変身とは、なんとも節操がないな。長瀬、もう一度聞くが耳と尻尾以外に体で不調なところはないんだな? 例えば無性に肉が食べたいとか、生き血を啜りたいだとか、人を襲ってみたいだとか」
「ん~腹は減ってるでござるが別段肉が食べたいとは思わんでござるな。強いて言えば、白飯に味噌汁、できれば焼き魚が食べたいでござる」
「そうか。なら、いいんだが」
「おい」
「ん?」
「俺の見た目が獣にしか見えないのは重々承知しているし、自分の性格が温厚だとは思ってないがな。俺の眷属になったからって見境無しに誰かを襲うようにはならないぞ」
確かにフェンリル自身に獣に近い一面があるのは否定できない事実だが、契約した相手の肉体を変化させても感情を支配したことなどこれまで一度もなかった。獣の姿をしている、もしくは体の一部が獣になることで心まで獣に近づくのではという危惧を前提として楓に質問している後藤にフェンリルは顔を顰めて抗議する。フェンリルにとって彼の眷属は仲間であり、家族であり、尊敬すべき戦友だ。フェンリルには後藤の質問が楓を、延いては自身の眷属全てを冒涜しているように聞こえてしまった。
「それはすまなかったな。別にあんたの眷属が凶暴だと言いたいわけじゃない………ただ」
「………?」
素直に謝罪する後藤の態度に納得したように小さく頷くフェンリルだったが、後藤が否定の語句を紡いだことで首を傾げる。
「すでに長瀬の変化はあんたの理解する範疇を超えてるんだろ? なら、なにが起きても不思議じゃない。事は長瀬やあんただけじゃなく周りの人間にも関る問題だ。最悪の事態を想定して動くのは当たり前だ」
「後藤、俺はあんたのそんな依頼をしたつもりはない」
フェンリルが後藤に頼んだのはあくまで楓に肉体的な異常があるかを調べることだ。もちろん耳や尻尾は除いてだが。
後藤の診療は魔法を用いることで大学病院並の精密検査を保健室という設備の整っていない場所でも行うことができる。フェンリルがそれを知っていたわけではないが、魔法関係者で医学の知識を持っている人物に他に心当たりがなかっただけだ。
「そうだな。確かに依頼された覚えはない。だが、これが私の仕事だ」
後藤はフェンリルの拒絶を無視する形でさらに詳しく検査をしようと楓の体に手を延ばした。
「診てもらったことには感謝するが、それ以上は俺と楓の問題だ」
フェンリルは後藤を威嚇するように睨みつけ、拒絶の意志を表す。しかし、胆力では後藤も引けを取ることはない。殺気にも似た気配を発するフェンリルから目を逸らすことなく睨み返し、フェンリルの威嚇を正面から受け止めてみせた。
「あんたと長瀬の問題だと? 笑わせるなよ。本気でそう思っているなら、何故長瀬を私に診せた? 他人の心配が欲しくないなら、他人を問題を悟らせるな」
楓が後藤の診療を受けた時点で後藤に耳や尻尾のことはもちろん、契約のことに関してもバレてしまうのはフェンリルも覚悟していたことだ。それでも後藤を頼ったのは契約が明るみになることよりも楓の体に異常がないことを確かめることに重きを置いた結果に過ぎない。
楓が死にかけたのも自身のせい、楓の体に異常が起こっているのも制御ができない自分のせい。
フェンリルの少なからずも存在する自尊心が自分自身で楓の体の問題を解決することを望み、他者の介入を拒んでいた。
しかし、後藤にとってはそんなフェンリルの内心など考える価値もないほどどうでもいいことだ。あくまで楓は学園の生徒であり不調があるなら捨て置くことはできない。
学園で最もやる気のない保険医であり教師であることを自覚している後藤だったが、それでもこのまま楓とフェンリルを帰すことはできなかった。
「………何をそんなに怯えているんだ?」
「ッ!?」
「自覚はあるようだな。今のあんたの気配はな、捨てられた子犬と一緒だ。世界の誰でもいいから助けて欲しくて、外聞もなく鳴き散らす子犬と同じ」
数刻の睨み合いの後、後藤が唐突に指摘した内容にフェンリルは本気で意表を突かれていた。
「あんたが長瀬を心配してるのは分かってるつもりだし、長瀬がこうなったもの長瀬を助けようとしてことだろ。なら、私も一教師として全力を尽くさせてもらうさ」
今問題なのは楓に耳が生えたことでも尻尾が生えたことでもない。いや、普通に考えれば学園の生徒が人の身を捨てて人外になるなど十分問題なのだが、後藤は特にそれを問題だとは考えていなかった。人外となることに楓自身が納得しているのならば、後藤が口を出すことではないし生死がかかった場面ならば尚更だ。人外となることで楓は命を取り留めた。
人間としての死ぬことに、人外となって生きること以上の価値があるとは後藤には到底思えなかった。
「いっそのこと、契約を破棄するってことはできないのか?」
楓の体の変化はフェンリルとの契約が元々の原因だ。ならば単純な話、その契約を無効化できれば肉体も元に戻るのではと後藤が提案する。だが、フェンリルは小さく横に振って後藤の提案が無理であることを告げる。
「俺の契約は魔力を付与するだけの単純な契約とは違う。無理に破棄すれば楓はおそらく死ぬ」
眷属の契約は人間同士の契約とは、意味も強さも違う。ただ単に魔力を付与するだけの契約ではなく、魔力も、肉体も、魂さえも互いに共有することになるのだ。人の体から眷属へと再構成された楓の体はフェンリルの肉体の延長になったと言っても過言ではない。体から腕を切り離して腕だけで生きることができないように、フェンリルから切り離されれば楓は生きることができない。
「それなら無理にじゃなければできるわけだ」
「そうなるな。だが、それもできない」
「何故だ?」
「契約解除の方法は一つ。契約者同士が互いを拒絶すること。心の底から、偽り無く、本気で。だが、俺には楓を拒むことはできない。つまり契約を解くこともまたできない」
「拙者にもできぬでござる」
フェンリルと後藤のやり取りを黙って見ていた楓がフェンリルに同意するように話に割って入った。
「拙者にも、フェンを拒絶することなどできぬでござる。例え偽りの絆であろうとも、拙者には捨てることなどできない大切な絆でござる」
楓は静かに、しかし力強く宣言する。そしてフェンリルの前に跪くと、両手でそっとフェンリルの顔に触れた。楓はフェンリルの真紅の瞳を覗き込み、フェンリルも楓の片方だけ開かれた瞳に目を奪われた。
「……楓」
「フェン」
「…………次に私の許可無くこの部屋の中で見つめ合ったら、目玉を片方ずつ抉り取ってやるからそのつもりでいろよ」
互いに名を呼び合って二人だけの世界に入り込みそうになっている楓とフェンリルの姿に後藤は額に青筋を浮かべて忠告を放つ。その手にはやはりメスが握られていて、今度は両手に一本ずつの二刀流になっていた。二本のメスがキチキチと音を発てて擦れ合い二人を威嚇する。
「長瀬、この薬を飲め」
後藤はフェンリルと楓が離れるのを確認してから楓に向かって掌に収まるほどの小瓶を投げ渡した。
「これは?」
楓は投げられた小瓶を片手で器用に受け取る。小瓶の中には錠剤が半分ほど詰まっている。なんらかの薬であることは分かるが、瓶にラベルは貼られておらずどのような薬なのか察することはできなかった。とは言え、楓にもフェンリルにも現代薬物の知識は無いので名前が分かったところで意味は無いのだが、それでも何も分からない未知の薬はかなり不気味に見えた。
「亜人族を人間に化けさせる薬だ。角を消したり、肌の色を変えたり。お前の場合は耳と尾を消す。根本的な解決にはならないだろうが、そいつを飲めば一時的に元の姿に戻れるはずだ」
「それはまた……便利なものをお持ちでござるな」
「高級品だ。無駄に使うなよ」
後藤が楓に渡した薬は幻術によって姿形を偽るものではなく肉体そのものを変化させるもので使用している間は亜人であることを完璧に隠してくれる優れものだ。その分値段も張るがそれに見合う効果を期待できるものだった。
「なんでそんなものがここにあるんだ?」
いくら魔法学園と言えども在学しているのは人間ばかりだ。後藤本人も間違いなく人間であり、なんの必要性があってそんな薬が保健室に置いてあるのか分からずフェンリルは首を傾げた。
「学園長が魔法世界で買ってきてな。大量にあったからちょこっとだけ貰ったんだ。無断で」
「………あの爺、やっぱり人間じゃなかったのか」
「いや、一応人間……のはずだ。確か」
「自信ないのかよ。というか爺が使ってるってことは欠陥品じゃないのか? 全然隠せてないぞ」
「つまり、この薬は学園長が人間であることを証明したわけだ」
亜人が飲んで人間に化ける薬なのだから、薬を飲んで効果の無い学園長は薬の効能からすれば人間であることが証明されたことになる。
「あんなのが人間だなんて世迷言は断じて認めん」
「フェンリル、失礼でござるよ」
「楓」「長瀬」
学園長を人間扱いしないフェンリルを楓が窘める。
「ぬらりひょんはかなり人間に近いとされる妖怪なんでござるよ!!」
「…………………楓」
「長瀬、お前も大概だよ」
「へ?」
学園長のは効果がなかった魔法薬だが、楓にはしっかりと効力を現していた。耳は髪の毛と同化し、尻尾はスカートの中へと消えていった。
始業時間も近づき、体もとりあえずは元に戻った楓は保険室に後藤とフェンリルを残して自教室へと向かったのだった。
「後藤……楓が俺の眷属になったことは口外しないでくれ。知られると俺だけでなく楓まで狙われることになる」
数刻、楓の出て行った扉を見つめていたフェンリルだったが、不意に視線を外し、俯く。問いかけるフェンリルから言いようのない不安感が発せられていた。後藤には毛で覆われたフェンリルの表情の差違など読み取ることはできないが、声色だけでフェンリルの感情を知ることは容易かった。しかし、その理由を読みとることまではできず首を傾げる。後藤には何故眷属となっただけで命を狙われるのか分からなかった。
「心配しなくてもあんたの正体を知っている奴も、恨みを持っているような奴も、あんたを殺そうとしている奴も私の知り合いにはいない。口外しようにもする相手がいないよ」
「今はいなくともその内出てくる。そうなった時に楓のことを知られていると面倒なんだ」
「つまりこれから誰かに恨まれるようなことをする予定だと?」
「違う。俺から何かをするつもりは無い。だが、俺の過去なんか関係なく俺を殺そうとする奴は確実に出てくる」
「なんでだ?」
何故か自信満々で断言してみせるフェンリルの姿に後藤は首を傾げ、その理由を問いかけた。
「俺が何もしなくても、人間は俺の存在そのものに耐えられない」
「自画自賛?」
「どちらかと言えば自虐とか自傷だな」
フェンリルが巨人族として生まれ持った強大な魔力は人間にとって脅威以外の何者でもない。例えフェンリルに人間と敵対するつもりがなくとも人間は脅威が存在するという事実に恐怖し、耐えきれずにフェンリルを抹殺しようとするだろう。
神ですら耐えられなかった恐怖に人間が打ち勝てるとは到底思えず、自身の凶暴さもそれなりに理解しているフェンリルには自分と人間がいつか破滅的な殺し合いをしてしまうのではと懸念していた。
フェンリルは自身が世界に疎まれようが、拒絶されようが気にしたりはしない。世界の全てを敵に回しても構わない。
全ての中には楓やヨームでさえも含まれる。もちろん進んで敵になって欲しいとか、恨んでほしいとか、思う存分罵ってほしいとか、そういうマゾっ気全開な考えがあるわけではない。
ただ楓が怪物であるフェンリルを拒絶するというなら受け入れるし、人外に貶められたことを恨むと言うのなら自身の全てをかけて償うことも厭わない。
フェンリルの不安は自身に関することではない。
フェンリルが恐れ、焦燥に駆られるのは楓やヨームが世界に拒絶されることだ。
フェンリルはフェンリル自身を拒絶する世界を受け入れることならばできる。それは自身が世界に仇なす者であるという明確な自覚と変えようの無い過去があるからだ。
しかし世界が楓やヨーム、彼の慈しむ者達を拒絶するというならば、フェンリルは世界の在りようそのものを否定し拒絶する。
普通ならば世界を拒絶しようが、そんなものはなんの意味も無い。ただ世界の意志に押し潰され、坩堝の中に溶け込むだけだ。しかしフェンリルには潜在的にではあるが世界を破壊してしまえる力がある。一度行使してしまえば、それは第2のラグナロクに成りかねない力が。
そんな最悪な結果は楓もヨームもフェンリル自身も望みはしない。だが、もし理不尽な暴力が振り降ろされた時、暴力の根幹を食らい尽くし破壊せずにいられる保障も自信もフェンリルにはなかった。
結局のところ、フェンリルが最も不安に思っているのは自身の心の弱さなのだ。
「世界を賭けて殺し合いなんて2度と御免だからな。そうならないためにも楓が俺と契約したことを隠すのに協力してもらいたい」
「なんというか、かなり自分勝手な悩みだな、それは。あんたはそれを覚悟した上で長瀬と契約したんじゃないのか?」
「楓に恨まれる覚悟はあっても、楓が憎まれることを許せる覚悟は無い。楓に手を出そうとする奴は問答無用でブチ殺す」
「まぁ、言いたいことは分からないでもないが」
フェンリルの勝手な感情論に呆れてしまう後藤だったが、その内容を要約すれば謂われのない差別を何もせずに受け入れるつもりはないという極普通の正論でしかない。
後藤はただ呆れていることもできず頭を掻く。
「ん? なぁ、フェンリル」
「なんだ?」
「あんたは自分のことなら恨まれても許容するんだよな?」
「ああ、俺はそれだけのことをしたからな。世界の誰に恨まれても文句の言える立場じゃない」
「じゃあ、なんでこの前の栗鼠に殺されてやらなかったんだ?」
後藤は頭を掻くのを止めて、不意に浮かんだ疑問をぶつけてみるのだった。
自分のことならば許せるが、友や家族に降り懸かる厄災は許せないという慈愛と博愛、そして偽善に満ちたフェンリルの考えは後藤の持っていた北欧神話の「フェンリル」のイメージからは想像もできなかった。そしてつい数日前に自身を襲ってきたラタトスクをフェンリルは殺しているのだからフェンリルの考え方は本末転倒であり、矛盾だらけだった。
後藤は矛盾を分かりやすく指摘したつもりだったが、フェンリルは首を傾げるばかりで後藤の言っている意味が理解できていない。別に後藤を誤魔化しているわけではなく、本気で分からなかった。
「確かに俺は恨まれてもいいとは言ったが、それで殺されてもいいとは言ったことはないぞ?」
「なら、あんたなりのやり方で償いでもするのか?」
「償い? なんで俺がそんなことを? 恨むなら勝手に恨めばいい。俺を殺したいなら殺しにくればいい。俺はそいつらを拒絶することは絶対にしないからな。正面から受け止めてやる」
「受け止めて?」
「恨み言の一つぐらいなら聞いてやるさ。その後、きっちり返り討ちにしてブチ殺してやる」
「………ヨームはどうなんだ? あの子があんたと同格の存在なら世界に恨まれる理由だって盛り沢山だろ?」
「恨むのはそいつの自由さ。ただし、ヨームの前に現れた時点でブチ殺す」
「なら、もし長瀬に恨みを持つ人物が現れたとして。その理由が恨むことを納得できる内容だったら?」
「同じことだ。恨むのは自由。行動に移した段階でブチ殺す。行動に移す前でも可能性があるならその時に殺す」
「はぁ……結局全部殺すんじゃないか」
「だから、そうならないように協力してくれ」
どんなに質問を変えようがまるで禅問答のように同じ答えが返って来ることに後藤は盛大に溜息を吐き出すと、頭痛を抑えるように額に手を当てて俯いてしまった。
結局のところ、フェンリルが恨みを受け入れるというのは仇を討たれてやることでも、相手に謝罪することでもなく、恨むという行為だけを許容するというそれだけのことなのだ。
そこには慈愛も博愛も偽善もない。あるのはただ純然たる暴力だけだ。
後藤は目の前にいるフェンリルが自分のイメージしていた「フェンリル」であることに納得と奇妙な安堵を感じていた。そしてそんな暴君のような考え方をする者が絶大な力を有して目の前に存在していることに純粋な恐怖を感じてしまった。
「……………はぁ」
(こいつは仲間に優しいんじゃない……敵に容赦が無いだけだ)
フェンリルを敵に回すことは絶対にしないようにしようと心に誓い、後藤は再び大きく溜息を吐く。
「分かった。私のできる範囲で協力はする。だが、その前にもう一つ質問を……」
「なんだ?」
「何故協力を求める相手が私だったんだ?」
後藤に脳裏に残った最後の疑問。それが自分がフェンリルの協力者に選ばれた理由だった。フェンリルが自分の身内以外の外部から協力者を選ぶのならば最も有力な候補は学園内で絶対的な権力を持つ妖怪爺学園長・近衛近右衛門だ。学園長はヨームに対しても協力的なのでフェンリルに積極的に協力する可能性はかなり高い。
もしくは闇の福音・エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ。彼女は大きく判別すればフェンリルと近しい存在だし、姿を偽る魔術にも造詣が深い。彼女自身が率先して協力するとは考え難いが、フェンリルと茶々丸の関係からすればエヴァンジェリンが協力する可能性も少なくはないはずなのだ。
しかし、フェンリルが選んだのは権力に関しては学園長に及ばす、魔法の精度に関してはエヴァンジェリンに及ばない中途半端な学園校医の後藤だった。どう考えても利にならないフェンリルの選択に後藤は首を傾げるしかなかった。
「理由はいくつかあるが……爺はいまいち信用できない……」
「まぁ、それは分からんでもないが……」
「福音に頼ると茶々丸にも迷惑がかかるからな」
「私に迷惑がかかるのはいいのか?」
「一応医者なわけだし、人の体にも詳しいと思ってな」
「一応は余計だ。一応は」
「もう一つは、あんたがスルト叔父と契約しているからだな。あんたは半分こっち側の人間になってるみたいなもんだろ」
「なに勝手なことをほざいてやがるんだ貴様は……」
フェンリルの口から選考の理由が紡がれる度に同意とツッコミを入れる後藤。
「それにあんたは自分でこっちに踏み込んだ。唯一の選択肢を蹴って、自分の意思でこっち側に踏み込んだ」
「私が? 自分で? 冗談言うな。私がいつ自分から協力なんて……あ……」
後藤はフェンリルの言葉を否定しようとしたが、これまでの会話を思い出し、ある一点に思い至った。
確かに選択肢はあった。フェンリルは後藤が一定以上関ることを一度は拒んだのだ。それを自ら蹴ったのは確かに後藤自身だった。
「詐欺だ」
「あの時あんたが退いてれば俺はあんたじゃなく別の誰かを頼っただろうな。それと最後にもう一つ……」
「………………まだあるのか」
最後に回されるぐらいだからどうせ大した理由ではないのだろうと、後藤は半ば呆れたまま先を促した。
「………あんたがもし裏切ったとしても、爺や福音を殺すより手間がかからないからな」
「……今のは……笑うところか?」
「笑いたかったら笑ってもいいぞ」
「………そうか」
後藤は背中を汗が伝うのを感じながら、ただ同意することしかできなかった。
あとがき
なんやかんやで2ヶ月ぶりぐらいの更新です。
かなり無理矢理でしたが、どうしてもやりたかった猫耳化。次回はようやく修学旅行篇に入る予定です。