第61話 「双山の長、人を踊らす」
【関西呪術協会・本山】
フェンリルと愛衣に対する警告の声が周囲に響くが、声を発している人物の姿はどこにも見当たらなかった。聞こえてくる声もなんらかの術を用いているらしく、全包囲から二人を囲むように聞こえてくる。
「一体どこに……探査魔法にも反応がありません」
相手を確認することのできない不安感から愛衣は身を竦めて周囲を見渡すが、位置を特定することはできなかった。
「あんたの場所から見て右斜め前に一人、俺の左斜め前にもう一人」
「「っ!?」」
視覚と聴覚を塞がれようともフェンリルには関係がない。優れた嗅覚を用いて、場所を割り出す。そしてわざわざ相手にも聞こえるように愛衣に教えてやるのだった。
位置を特定されていることに息を飲む警告者。隠れていても意味が無いと判断したのか鳥居を囲む茂みの中からゆっくりとその姿を現した。出てきたのは巫女装束を着た二人の少女だった。年齢は愛衣と同じぐらいといったところだが、張り詰めた二人の雰囲気が年齢をさらに引き上げて見せている。
「よく分かりましたね」
現れた二人の片方が感心したようにフェンリルに語りかけてくる。しかし、一応誉められているはずフェンリルの反応は冷ややかなものだった。
「貴様等には俺が狼以外の姿にでも見えるのか?」
二人の巫女はフェンリル達の視界に入らず、聴覚を惑わせ、気配を完全に消していたが、臭いだけは誤魔化すことができていなかった。狼であることが分からずともフェンリルが犬に類似する獣であること理解できれば、臭いで場所を特定したことなど明らかなのだ。別段感心するようなことではない。どうやら二人の巫女は自信のあった隠遁の術をたやすく破られたことで動揺しているらしい。
「………再度警告する。早々にこの場を立ち去れ、化け物。貴様のような邪悪な気を放つ存在がこの地を踏むことは許されない」
小馬鹿にしたようなフェンリルの態度に片方の少女の顔が赤く染まる。しかし、軽く頭を振って雑念を振り払うと、すぐに平静を取り戻し警告を繰り返す。警告をした少女の手には薙刀が、もう一人の少女の手には和弓がそれぞれ握られており、どちらも臨戦態勢で構えられている。フェンリルも下がるつもりはないらしく、寧ろ挑発するようにさらに一歩前へと踏み出した。
フェンリルから滲み出る殺気に息を飲む二人の巫女。事態は一触即発に陥っていた。
「待って下さい! 私達は関西呪術協会の長より依頼を受けてここに来ました。不審者ではありません」
愛衣は巫女とフェンリルの間に体を滑り込ませると、両者の視界を遮るように両手を広げる。一度だけフェンリルを振り返り、視線で手を出さないように告げるのだった。
「……暫く待て」
巫女は互いに視線を合わせ一度頷き合うと、薙刀を持った巫女が一歩下がり無線のようなもので連絡を取り始めた。和弓の巫女は変わらずフェンリル達に矢を向けている。
会話の猶予ができたことで緊張が解けたのか、愛衣は広げていた手を戻し、肩をなで下ろす。
「愛衣、無茶するな。あんたが死ぬとヨームが悲しむ」
「私の仕事はフェンリルさんを戦わせないことですから。
できればフェンリルさん自身も無駄な戦いを避ける努力をしてもらいたいのですが」
戦端を自らの体で遮った愛衣を窘めようとしたフェンリルだったが、逆に窘められてしまった。
「向こうが仕掛けてこなければ殺る気はない」
「仕掛けてこないようにする努力をしてほしいんです。誰だって死にたくはないんですから」
「努力はするが確約はできん」
「今はそれで十分です」
「失礼した。確認が取れたのでまもなく本殿より迎えが来る。それまでここで待機して頂きたい」
通信の終えた薙刀の巫女がフェンリル達の元へと戻る。臨戦態勢こそ解いたものの、警戒は怠っていない。迎えと言ってはいるが、フェンリルを本殿へ招くのにも無防備にではなく増援を待ってからだ。
「お待たせしました」
「「っ!? 長!?」」
数分後、その場にやって来たのは増援などではなく関西呪術協会の長、近衛詠春だった。二人の巫女はまさか詠春自らが出迎えるとは思っていなかったので、目を見開いて驚いている。
巫女と別れた後、未だに続く鳥居の道を詠春に連れられてフェンリル達は進んでいく。
「申し訳なかったですね。知らぬこととは言え、あの者達が失礼をはたらいたようだ。学園を発つのは今日の朝だと聞いていたもので。これほど早く到着されるとは思っていませんでした。警備の者に連絡が行き届いていなかったようです」
先を歩いていた詠春は前を向いたままフェンリルに謝罪した。フェンリルが到着した時間は一般の交通機関を利用したとすれば絶対に来ることのできない時間だった。詠春からの依頼自体が急だったため来客があるという連絡が伝わっていなかったのだった。
「気にしなくていい。それに俺みたいな不審な怪物には例え連絡があったとしても今日のような対応をするべきだ。常に警戒し、常に威嚇するのが最良の選択だ」
「ご理解頂きありがとうございます」
関西呪術協会は京都神鳴流と同じく退魔を生業とする組織が母体となっている。その敵の多くが協会に恨みを持つ人外の者となるのは当然のことだ。協会の人間が復讐を警戒して人外を寄せ付けないようにするのも、また当然のことだ。
「それに入り口にいた二人の女。あいつら、俺と殺り合えば確実に死ぬと分かっていながら一歩も退かなかった。いい戦士だ」
フェンリルが巫女から感じていたのは緊迫した殺気だけではなかった。逃げるべきか戦うべきかの戸惑い、明確な死を目の前にした隠しきれない恐怖。武器を握る微かな震えさえもフェンリルには感じ取ることができていた。
「そこまで分かっていたのにあの人達を挑発してたんですか? なんというか……趣味が悪いです」
愛衣は非難するようにフェンリルを睨んだ後、もう見えなくなっている巫女達がいるであろう後方に視線を移し、彼女たちを哀れんだ。
「俺の趣味が悪いかは知らんが、媚びを売るのは俺の趣味じゃない」
「媚びを売るんじゃなくて、友好的な対応をですね……」
普段は高音の陰に隠れていてあまり目立たない愛衣だったが、初の単独任務ということで少しだけ気が大きくなっていた。旅の道中で恐怖を感じなかったせいか、対峙した相手に死を連想させるフェンリルに臆することなく食ってかかるのだった。フェンリルがヨームの兄であることを知っているのも愛衣がフェンリルに恐怖をあまり感じない一因だろう。
(すごい娘だな。あんな異質な存在と普通に会話している……)
詠春は背中で二人の会話を聞きながらもフェンリルの魔力の異常さを感じ、またそのフェンリルに臆することなく応じる愛衣に驚嘆していた。
殺気があるわけではないが、フェンリルの気配を感じるだけで肌は粟立ち、手のひらにじっとりと汗が滲む。
(刀を持ってこなくてよかった……)
武器の類を一切持たず、無防備な状態であることは詠春にとって大いに不安なことだったが、それ以上にもし今刀を手にしていればそれを抜かずにいる自信もなかった。
闇の福音・エヴァンジェリンに劣らぬ魔力、そして嘗て一度だけ感じたことあるこの世の理から逸脱した異質な存在感。
詠春はフェンリルが本物の「フェンリル」であることを知らない。だが、平静を装いながらもフェンリルに畏怖を感じてしまっていた。
その後、フェンリルと愛衣が案内されたのは絢爛豪華な本殿ではなく、そこから少し離れたところにある竹林の中に立てられた庵だった。
「あ! フェンリルさん、ダメですよ。そのまま上がっちゃ!」
詠春に続いて庵に入ろうとしたフェンリルだったが、愛衣に止められてしまう。
「なにがだ?」
「足ですよ、足。その足で上がったら畳が泥だらけになります」
「ん? おお、そうだな」
「すいません、長さん。雑巾かなにかを貸していただけませんか?」
「え、ええ、ちょっと待ってください」
詠春は庵に一人だけいる使用人に白い布巾を持って来させると、愛衣に手渡した。
「………くすっぐってぇ」
「我慢してください、もうちょっとですから」
美化委員の血が騒ぐのか、愛衣はフェンリルの足に付いた泥を丁寧にぬぐい取る。まずは前足、次に後ろ足と拭いて、肉球の隙間までしっかりと拭いた。一拭きする度に、フェンリルが身を捩って逃げようとするが、愛衣はそれを許さずがっちりと足を抑えてしまう。
「はい、もういいですよ」
「………おお」
ようやく解放されたフェンリルは最後に体一度大きくブルブルと振るわせて全身についた埃や砂をはらい落とした。
(………勘違い……だったかな?)
詠春は犬まるだしのフェンリルの姿を見て、それまで感じていた畏怖が自分の勘違いだったのではと首を傾げてしまう。
「では、こちらへ」
「お邪魔します」
庵の一室へと通され、フェンリルと愛衣は詠春と対面する形で座った。使用人が愛衣とフェンリル、そして詠春の順に緑茶を出すと退室していく。
「頂きます」
敷地内だけでもかなりの距離を歩いたので喉が乾いていた愛衣は出されたお茶をゆっくりと傾け、喉を潤わせた。
「……………アチっ」
同じようにフェンリルもお茶を飲もうとするのだが、舌先を近づけただけで顔を退けてしまう。湯呑みという形状だけでも厄介だというのに、加えてかなりの高温ですぐに冷めるような温度ではなかった。
「……アチッ…………アチっ」
「冷たい物の方がよかったですね。すぐに取り替えさせます」
何度も緑茶に挑んでは退けられているフェンリルの姿に詠春は使用人を呼び戻し、容器を皿に、中身を麦茶に替えるように言いつける。
「いや、これでいい」
出された物は平らげるという男気なのか、お茶程度に負けてなるものかという負けん気なのか、それとも愛衣が飲んでいるのに自分がやめられるかという無意味な意地なのか、フェンリルは詠春の好意を断り、再び緑茶に勝負を挑む。
「フ~~~~ フ~~~ フ~~~~」
今度は念入りに息を吹きかけて、温度を下げてからだ。
「では、先に御依頼の確認を……学園長のお話では魔獣の討伐だと伺っていますが」
なんとかお茶をちびちびと嘗め啜るフェンリルを横目に愛衣は詠春に向き直る。
「あ、はい。そうですね。まずはこちらを見ていただけますか」
詠春は一枚の写真を取り出すと愛衣に渡した。最初はフェンリルと愛衣の間に置こうとしたのが、フェンリルには写真を見る余裕は無さそうだったのでとりあえず愛衣にだけ見せるのだった。
「これは?」
「我が協会の宝物庫に保管されていた呪具の一つです」
写真に写っていたのは「猪」の置物。対象物が写っていないので大きさは分からなかったが、素材は金で出来ているようだ。しかしこの写真だけで依頼内容を知ることなどできるはずもなく、愛衣は詠春に視線で先を促す。
「この呪具…強力な魔力を内包していることは分かっていたのですか、いったいどのような効果があるのかも、使い方も、名前すら分からず宝物庫の隅で埃を被っていたのですが……。数日前にまるで命を得たように動きだしたのです」
「この置物が?」
「置物が動き出したのか、それとも魔獣が置物に擬態していたのかは定かではありませんが……」
詠春は「猪」についても情報がほとんどないことを臭わすと、呪具がもたらした影響について語った。
突如動き出した「猪」は宝物庫の障壁を突き破って外に出ると、それこそ猪突猛進といった勢いで協会の敷地外にまで出ようとしてしまった。銀行の金庫よりも頑強に造られているはずの障壁を易々と砕き、暴走して走り回る猪をそのままにするわけにもいかず、呪具の回収に乗り出したのだが……。
回収は困難を窮め、なんとか捕縛結界を用いて捕獲することには成功したが、多くの重軽傷者を出す事態となってしまった。死者が出ていないことが不幸中の幸いだったが、捕縛結界はいつ破られてもおかしくない状況で、呪具の再捕獲もしくは破壊を行う戦力は協会に残されていないとのことだった。
「情けない話ですが……私自身、あの呪具相手では防戦一方で破壊することなどまるで叶いませんでした」
詠春は苦笑しながら着ている服の袖をまくって愛衣に見せる。それまでは袖の長い狩衣のせいで見えなかったが詠春の腕には包帯が巻かれており、軽くない怪我を負っていることが見て取れた。
「そんな……長さんまで。それに学園と並ぶ魔術組織をそこまで追いつめるなんて……」
愛衣は驚きを隠さずに大きく目を見開く。そして学園と並び日本の魔法組織の双璧である呪術協会が壊滅的な打撃を受けているという事態の深刻さに顔をしかめた。
「あ、すいません、言葉が足りませんでしたね。正確には戦力が無いわけではないんですよ」
「……というと?」
神妙な面持ちで唸る愛衣を見かねて詠春が説明を続ける。
「近々呪術協会をあげての大きな計画を予定していまして。その計画が実行されるまで戦力を温存しておきたいのです。詳細については機密となっているのでお教えできませんが」
「では、被害はそれほど大きくないと考えてよろしいでしょうか?」
「怪我をした者達には申し訳ないが、人的被害としては許容の範囲内といったところです。ですが、次の計画を成功させるためには学園の協力を仰がなくてはならないという微妙な状態ですね」
「分かりました……フェンリルさんも特に問題ありませんよね?」
「ん? おお、つまりは置物をぶち壊せばいいんだろ? 依頼に関しては別に意見も質問もねぇよ」
フェンリルは湯呑みを器用に口にくわえると、舌の届かず残ったお茶を一気に煽った。そして湯呑みを置くと、中身の無くなった湯呑みを勝ち誇った顔でじっと見つめる。
愛衣も詠春も、湯呑みに向かってドヤ顔をしているフェンリルにどんなリアクションをしていいやら分からず、苦笑するしかなかった。
「ああ、そうだ、おっさん。依頼以外のことで一つ聞きたいことがあるんだが。いいか?」
「おっさ!? フェンリルさん!」
「なんでしょうか?」
一組織のトップをおっさん呼ばわりするフェンリルを愛衣が窘めようとするが、詠春は片手を上げてそれを制する。
「関東と関西って仲が悪いんじゃなかったのか? 聞いていた話と大分印象が違うんだが」
昨晩フェンリルは学園長、エヴァンジェリン、後藤と酒を飲みながらネギに課せられた任務を聞かされていた。西洋魔術師一人が関西に足を踏み入れるだけで大騒ぎしていたにも関わらず、総本山である呪術協会自らが学園に応援を求めている今の状況が不思議で仕方なかった。
「ええ、確かに関西と関東は過去に大きな諍いを起こし、数年前まで緊迫した間柄でした。しかし、今では互いに依頼を請負合うまでに関係は修復されています。学園に来たばかりのネギ君は知らないでしょうが」
「それじゃあ、小僧は無意味な任務をさせられていると?」
「いえ、残念なことですが呪術協会の中には未だに西洋魔術師を恨んでいる者がいます。そういった者達に対して、関西と関東がすでに和解しているということを形として示す必要があるんです」
「それなら小僧がやる必要は無いだろ? 愛衣に持たせればすぐにでも和解成立だったんじゃないか?」
「今回の任務にはネギ君の修行の意味も含まれているんです」
今回、ネギに課せられた任務には複数の意味が込められている。一つは東西の和解を形として示すこと。もう一つは反対派の妨害を乗り越えさせ、ネギに修行をさせること。そして最後にもう一つ……。
「小僧をエサにして不穏分子を燻り出すわけだ」
「エサという表現はどうかと思いますが、否定はしません」
詠春は常に絶やさなかった笑みを消すと、真剣な表情でフェンリルに応じた。
ネギが親書を持って呪術協会を訪れることは公式にではなく、魔法関係者の中でもさらに裏のルートでリークされていた。西洋魔法使いに反感を持つ者はネギを妨害しようと、情報につられて出てくるというわけだ。後は行動を起こした者を片っ端から捕らえればいい。
「ですが、これは関西と関東、東洋呪術と西洋魔術の関係改善にとって必要なことなのです」
「まぁ、その辺は勝手にやってくれ。俺は自分の目的さえ果たせればそれでいい」
詠春は子供を囮とすることや、自らの組織に属する者を罠にはめるようなやり方にある程度後ろめたさがあるようだった。それを誤魔化すように計画の正当性を熱弁しようとしたが、フェンリルはどうでもいいとばかりに聞くことを拒むのだった。
「………それでは、こちらの準備ができましたら呼びに参りますので。それまでここでお待ち下さい」
詠春は愛衣と依頼の最終確認を済ませると、庵を後にする。
「「………………」」
二人きりとなったフェンリルと愛衣の間に妙な沈黙が生まれる。
「あの……怒ってますか?」
「なんでだ?」
「いえ……なんというか……雰囲気が」
詠春との会話を終えてからというもの、フェンリルは一言も発することなく黙ったままだった。詠春と愛衣が打ち合わせをしている間も殺気とまではいかないが気配には緊張を帯びていて周囲を威圧していた。
ネギを囮にすることに関しても、詠春の葛藤に関しても、フェンリルが怒る要素があるとは思えず、愛衣は首を傾げる。
「別に怒っちゃいない………だが……」
「え?」
フェンリルは真剣な表情で愛衣を見つめた。怒っているわけではないことに安堵する愛衣だったが、見つめてくるフェンリルの瞳にまるでなにかに追い詰められたかのような危うさがあることに気づく。
「やっと二人きりになれたな」
「え?」
「もう……我慢できない」
「え? え?」
フェンリルは座っていた状態から立ち上がると、ゆっくりと愛衣に向かって歩きだした。呼吸が荒く、興奮しているようにも見える。愛衣はフェンリルの異常な様子に気圧され、一歩また一歩と後ろに下がっていく。
(ど、どういうこと!? これまでのことはやっぱり演技だったの?!)
「耐えられない……頼む……愛衣」
「う……え……あ…」
いきなり本性を剥き出しにしてくるフェンリルに対し、愛衣は恐怖で声を出すことができなかった。フェンリルからは学園からここまで来るまでの道中で見せていた気さくな雰囲気は消え失せ、血肉を求める飢えた捕食者と成り下がっている。
ついに壁際まで追い詰められ、逃げ場もなくなった愛衣は下手に抵抗することもできずにゴクリと唾を飲み込んだ。
(ダメだ………私……食べられちゃう)
フェンリルがさらに一歩踏み出したところで愛衣は自分の人生の最後の瞬間を確信し、恐怖のあまり目をぎゅっと閉じてしまった。自ら視界は遮ったが、耳にはフェンリルの荒い気遣いが届き、恐怖をさらに加速させてしまう。
(お姉さま………助けて……ヨームさん……)
恐怖による混乱のあまり今現在恐怖を感じている対象であるはずのフェンリルの兄妹であるヨームにまで助けを求めてしまう。
「………水、くれ」
「…………え?」
「水を持ってきてくれ。できれば、氷の入った冷たいやつを」
「み、水? あの……食べるんじゃ?」
「食べる? 飲むんだよ。さっきの茶で口の中火傷しちまった。だから水」
恐る恐る閉じていた目を開けた愛衣に少し赤くなった舌を見せるフェンリル。息が荒かったのは呼吸で舌を冷やそうとしていただけだ。
「あの……二人きりになれたっていうのは?」
「啖呵きった手前、おっさんがいる前じゃ言い出し難くくてな。深い意味は無い」
かなり無理をしてお茶を飲んでいたことは誰の目から見ても明らかだったが、それでも一応「これでいい」と言い切ってしまったので意地で水を貰うのを控えていたのだった。詠春の話を聞かなかったのも興味がなかったというよりは早くこの場から立ち去って欲しかっただけ。
「そう…ですか。は、はっはは……はぁ、水貰ってきます」
愛衣は自分の勘違いを乾いた笑いと溜息で誤魔化すと、フェンリルに見送られて、水を貰いに庵を出ていく。
以前ヨームに同じような勘違いをさせられたことを思い出し、気恥ずかしさで顔を赤らめた。
(私って結構バカなのかなぁ)
足早に走り去る愛衣の背中を見送りながら、フェンリルは笑いを堪えるのに必死だった。
「からかいがいのある奴だな。今度またやってみよう」
フェンリルは愛衣が見えなくなったのを確認してから一人呟く。愛衣がフェンリルから感じた捕食者のプレッシャーは彼女の勘違いなどではなく、フェンリルが愛衣をからかっていただけだ。楓やエヴァンジェリンが相手だと逆に手玉にとられることばかりなので、愛衣をからかうのがおかしくて仕方ない。
「しかし、"こいつ”が暴れ出したのって俺のせいか?」
ニヤニヤと笑うのを止めたフェンリルは詠春の置いていった写真に視線を移す。
写真に写っているのは当たり前ながら金で出来た猪の置物。
「グリンブルスティ」
フェンリルが口にしたのは持ち主である詠春も知らなかった呪具の名前であり、フェンリルの頭の中に浮かぶ神器のリストの中で次に回収を指定されている名前だ。
「まぁいいか」
もし「猪」が暴れ出した原因が自分にあるのだとすれば、今回の依頼の報酬を減らされるかもしれない。それどころか呪術協会が受けた被害の補償を求められるかもしれない。そんな打算もあって、フェンリルは「猪」が神器であることを黙っていることに決めるのだった。
「舌……痛ぇな」
【京都駅】
時刻は日も落ち、夜の帳が下りる頃。
新幹線内、清水寺、ホテル嵐山と立て続けに関東呪術協会の一派による任務の妨害を受けてきたネギだったが、ここにきて刺客である天ヶ崎千草はさらなる暴挙に及んでいた。
ネギ達が宿泊していたホテルから近衛木乃香を誘拐したのだ。ネギ、明日菜、刹那の三人は誘拐された木乃香を追い、京都駅でようやく千草を追い詰めることができた。
千草は呪術協会の中でも決して弱いわけではない。強力な式神を複数同時に召還したり、高位の呪術も容易に使いこなす強者だ。
だが、それでもネギ、明日菜、刹那が三人で連携を取り、一人一人が本来の力を発揮することができれば、倒すことは容易なはずの相手だった。
そう、三人が本来の能力を発揮できれば………。
「この! 離しなさいよ! 離せって言ってるでしょ!?」
「明日菜さん!!」
千草の操る猿の着ぐるみのような式神によって床に押さえつけられ、明日菜は身動きすることができなくなっていた。ネギは明日菜を助けようとするが、このかを奪われたままの状態で千草から目を離すこともできず、判断が着かないまま硬直してしまっていた。
「くっ! このままではお嬢様が……!!」
「ダメですよ、先輩。今は私だけを見てくれなくちゃ………殺しちゃいますよ」
悪化していく現状に歯噛みする刹那だったが、彼女にも明日菜を助ける余裕も、このかを奪い返す余裕もなかった。
千草の式神である熊鬼だけでも厄介だというのに、そこに加えて千草の護衛として雇われていた神鳴流剣士・月詠が参戦してしまった。さらには小猿の式神まで加わってしまい、刹那は打開策を見い出すこともできず防戦に回るしかなかった。
小猿一匹に力は大したことはないが、腕や足にまとわりつかれれば僅かばかりは動きが鈍る。その僅かに生じた隙を狙って、月詠の高速の二刀と熊鬼の鋭い鍵爪が襲いかかってくる。
いくら戦闘に長けている刹那と言えど、この波状攻撃を回避しながら千草からこのかを奪うことはできなかった。
なんとか攻撃を受け流し、このかの下へと向かおうとするが、その度に月詠によって行く手を遮られてしまう。
「ふふ、先輩、もっとがんばらんと……大事なもんが遠くに行ってしまいますえ~~」
「チッ!」
月詠は刹那に斬りかかりながら、実に楽しそうに刹那を挑発してみせる。その挑発に刹那は苛立ちを隠そうともせずに珍しく舌打ちをするのだった。先ほど、月詠が口にした「殺す」という言葉は刹那に向けられたものでない。自分が負ければこのかの命が危ないという焦りが刹那の剣筋をさらに鈍らせていく。
「ふん、大文字焼きが消されたのには驚かされたけど。パートナーもあの様じゃあ西洋魔術師も大したことないなぁ」
千草は勝ち誇ったように鼻で笑うと、ネギを一瞥する。パートナーとは言え、ネギと明日菜に契約は仮のものであり、さらにその仮契約でさえ不十分な形でしか交わしていないのだ。アーティファクトを使えなければ、身体能力の強化も微々たるものでしかない。今の明日菜は足手まとい以外の何者でもなかった。
ネギはこのかを傷つけることなく奪い返すことができる魔法を放つ機会を探っていたが、明日菜や刹那に気をつける必要がない千草はネギに隙を見せることはなかった。
呪符を用いる東洋呪術は呪文を唱えなければならない東洋魔術よりも術の発動までにかかる時間が短い。同時に動けば打ち負けるのは確実にネギだった。
(どうすれば……どうすれば!?)
焦るばかりで答えが出せず周囲を見回すしかないネギ。幸いだったのは千草が優位を確信していたことで逃げる素振りを見せないことだろう。もしここで千草に一目散にこの場を去られればネギ達は打つ手が無い。
「手を貸そうか? ネギ坊主」
「ッ!? 長瀬さん!?」
突然背後から聞こえた声にネギが振り向くと、そこには明日菜と同じく旅館の浴衣を着た楓が立っていた。普段とまったく変わらない細目の微笑みが緊迫した空気を僅かに弛緩させる。
「なんや、あんたは?」
楓が人払いの術を施しているはずの場所に侵入していることと、いつ近づいてきたのか分からなかったことに千草は眉をしかめて警戒する。
「助けが必要でござるか?」
「………あ、あの」
楓は千草を一瞥することもなく、ネギを見たまま再度問いかける。開いているのか分からない楓の糸目が僅かに開き、ネギを見据える。まるでネギの覚悟を試すかのようにネギが答えを出すまでじっと見つめ続ける。
「…………力………貸してください……このかさんを助けるために……力を…貸してください!」
ネギは最初は絞り出すように、最後は叫ぶように声を上げた。
ネギにとって、そして魔法使いの倫理として一般人を、しかも自分の生徒を危険に巻き込むことなどしたくはなかった。しかもすでに明日菜は千草の式神に組伏せられ、危険に晒されているのだ。しかし今の状況を打開するために楓の身体能力にかけてみるしかなかった。ネギは自身の信念を曲げて楓に助けを求める。
実際のところ楓はすでにフェンリルと契約を交わしていてすでに一般人と言えるような立場にはなかったが、ネギがそれを知る由もない。
「承知したでござる」
楓は己が信念を曲げてもこのかを救いたいというネギ覚悟を受け取ると、不敵な微笑みで破顔してみせる。
「それじゃあ、僕が囮になって注意を曳きますから、長瀬さんはその隙にこのかさんを……って、あれ?」
ネギが小声で楓に簡単な作戦を告げようとしたが、最後まで言い切ることはできなかった。
なぜならネギの視界から楓の姿が忽然と消え失せたからだ。ネギは楓から目を離していない。千草に気を配りながらも、ずっと楓を視界の中に捉えていたはずだった。にも関わらず、楓はまるで幻であったかのように消えてしまった。
「か、かえ 「ウキッ!?」……え?」
グシャリ
ネギが楓を再度視界に捉えるより先にネギの耳に獣の泣き声と何かが潰れるような破砕音が届く。
音の正体を確かめようと音のした方向、明日菜がいるであろう方向へと視線を移した。
そこにはネギの視界から消えた楓、その場に組伏せられていた明日菜、そして明日菜を拘束していた千草の式神・猿鬼がいた。
だが、猿鬼の様子は先程までとは明らかに違っている。
頭が無いのだ。
頭部を失った体だけがあるだけ。よく見れば特徴的な大きな頭部が長い階段を下へと転げ落ちていた。
頭を失った体はダラリと脱力し、明日菜の上に崩れ落ちながら煙のように消え去った。頭部もそれと同時に消えて無くなる。
「大丈夫でござるか?」
「え? あ……うん、ありがと……うわっ!」
楓は明日菜に手を貸して立たせると、乱れた浴衣を直してやる。目の前で起きたことがいまいち理解できずキョトンとしてしまう明日菜だったが、なんとか楓にお礼を言おうとする。しかし礼を言い切る前に楓は再び視界から消え去り、驚きの声を上げてしまった。
「クマッ!?」グチャ
再度響きわたる破砕音。ネギと明日菜が視線を移すとそこにはやはり楓の姿があった。
猿鬼の時はなにが起こったのかまるで分からなかったネギ達だったが、今度は楓の動きを目にすることができていた。楓の拳が熊鬼に顔面に深々と突き刺さり、ファンシーなその顔を原型を留めず破壊していた。しかも拳は顔にめり込むだけでなく後頭部を突き抜けて頭部を貫通していた。
「ふむ、案外もろいんでござるな」
楓が腕を引き抜くと、熊鬼は猿鬼と同じく煙となって霧散した。他にも群がっていた小猿がいたはずだが、いつの間にか楓が放っていた手裏剣やクナイによって残らず紙に戻されていた。
「邪魔が入りましたなぁ~。でも、そっちのお嬢さんもとっても美味しそう」
楓の参戦により刹那との戦闘を邪魔された月詠は不満気に口を尖らせる。だが、楓を一瞥すると今度は舌なめずりをしそうなほど目を輝かせるのだった。
「楓…なんでここに?」
危機を救われた刹那だったが、楓に礼を言う前に疑問が先に出てしまう。
「そんなことよりそのメガネっ娘は拙者が引き受けるでござるから早くこのか殿を…「大文字焼き!!」…っ!?」
「楓!!」
楓が刹那にこのかの救出に赴くように促した瞬間、楓と刹那の間に一枚の呪符が投げ込まれた。呪符は一瞬にして苛烈な炎を出現させると階段に巨大な「大」の文字を描き出す。
刹那は楓に突き飛ばされ、なんとか炎から逃れたが楓自身は完全に炎の中に呑まれてしまった。直撃となった千草の符術は容赦なく楓を襲った。
「ウチの式神を素手で屠ったのには驚かされましたけど。お仲間を助けようとしてウチから気を逸らすわ、お仲間のために攻撃を避け損なうわ。まだまだ甘ちゃんですなぁ」
「楓ちゃん!!」「長瀬さん!!」「楓!!!」
視界が歪むほどの炎の勢いによって火の中心にいる楓の安否を確認することができず、それぞれ悲痛な声をあげる明日菜、ネギ、そして刹那。三人から見えるのは楓の体が容赦なく燃え上がる姿だけだ。
「ホンマは殺すつもりまではなかったんやけど……あんたはちょっと危険過ぎますなぁ。悪いけど、死んでもらいますえ……ん?」
だめ押しとばかりに呪符を構える千草。だが、その手から呪符が放たれることはなく動きを止める。炎に照らされ、赤くなっているはずの千草の顔から血の気が引き、青ざめていく。
「なんや……あんた……一体何者や!?」
激しく燃え盛る炎が大きく揺らめく。その中から炎に焼かれたはずの楓がゆっくりと現れた。ゆっくり、ゆっくりと、焦ることもなくただただゆっくりとした歩みで炎から出てきたのだ。
術を放った千草にも、それを見ていたネギ達三人にも楓が炎に呑まれた姿は見えていた。その証拠に彼女の着ていた浴衣は一片も残さずに燃え尽くされている。下着も胸に巻いているサラシも無くなり楓は一糸纏わぬ姿だ。
「今のはちょっと熱かったでござるよ」
業火に晒されたにも関わらず、楓の体には火傷一つなく綺麗なままだった。そのことに驚きながらも楓が無事だったことに安堵するネギ達。しかし、炎が治まり楓の姿がより鮮明になったことで安堵はまた驚きへと変わってしまう。
楓の体に傷は無い。だが、あるはずのないものがそこにはあった。
「耳に………尻尾!?」
驚愕に静まり返る周囲に明日菜の声だけが響くのだった。
あとがき
大分更新が空いてしまいました。