第64話 「それぞれの価値」
【嵐山旅館2班客室】
「楓はいるか!?」
ボスッ!! 「ゲフッ!!」
「あ、すまん。古さん」
「ムニャムニャ…もう食べられないアル~」
ノックも無しに勢いよく開けられた扉から現れたのは桜咲刹那だった。大きく肩で息をしながら、部屋の中に入ってくると、左右に視線を動かして周囲を見回している。
就寝時間は過ぎていて電気が消えて暗くなっているので室内を全て見通すのは難しそうだ。
嗚咽を漏らしたのは扉のすぐ近くで寝ていた古菲のものだ。足下を確認せずに入ってきた刹那に鳩尾を踏み潰されてしまっていた。それでも古菲は目を覚ます気配は無い。さすが昨年のウルティマホラ覇者といったところだが、誰かがいたずらしたのか額にはベタに「肉」の文字が描かれ頬に髭が描かれてしまっている。
夕飯も食べれていないので空腹のはずなのだが、胃が押し潰されたことで一瞬だけの満腹感を味わえたようだ。
「ってなんだ、桜咲さんか。巡回の先生かと思ったよ」
戸が開けられるのと同時に布団の中に潜り込んだ春日美空だったが、聞こえた声で先生ではないことを知り這いだしてきた。
ちなみに2班は班長に古菲、班員は春日美空、超鈴音、葉加瀬聡美、四葉五月、長瀬楓、そしてヨームだ。
この班で一番のうるさ所の古菲は清水寺で酒を飲まされ、すでに寝こけている。
四葉は普通に就寝してしまっているのでこの部屋で起きていたのは、春日と超、葉加瀬の三人だけだ。
「楓がどこにいるか知っているか? 知っていたら教えてもらえないだろうか」
刹那は部屋中を見回し、楓がいないことを確認すると春日に再度問いかけた。先程大きな声を出してしまったことを反省したようで今度は少し丁寧な声になっていた。
刹那は京都駅から戻った後、このかを部屋へと送り、明日菜に警護を頼んだ後、旅館の周囲に最初よりもさらに強力な結界を張り巡らせてからこの部屋に赴いていた。
すでに部屋に戻っていると思っていた楓がその場にいなかたので聞きたいことが聞けず、少しだけ苛立っていた。
実際の所、結界を破壊してしまったのはネギであり、どんなに外側からの攻撃に強固な結界を張り巡らせたところで意味などないのだが、刹那がそんなことを知るよしもない。そもそも内側から扉を開けただけで進入可能などというマンションのオートロック玄関のような安易な結界を張る刹那にも大いに問題がある。
しかし残念ながら今ここにそれを指摘できる人物はいない。
「長瀬さんなら随分前にヨームさんとお風呂に入りに行ったまま戻ってきてないよ。ねぇ」
美空は同意を求めるように超と葉加瀬に声をかける。二人は顔を見合わせた後、同時に刹那に向かって頷いてみせるのだった。
「まだ……戻ってきていないのか」
「うん、そういえば遅いね。ノボセたりしてなきゃいいけど」
「そうか。就寝中すまなかったな。では」
寝ているのは古菲と四葉だけで、しかもその二人はまったく起きる気配は無いので刹那が謝らなければならない理由などないのだが、刹那は律儀にペコリと頭を下げると3班の部屋を後にした。
「おお、刹那。遅かったでござるな」
「楓! どこに行っていた!?」
次はどこを探そうかと思案する前に部屋を出たところで楓に出会した。その隣にはヨームが当然のように佇んでいる。もう少し冷静に急がず行動していれば、部屋に乗り込む前に会うことができたのだ。
本人は覚えていないだろうが、古菲は完全に踏まれ損だ。
「風呂でござるよ。さっき言ったではござらんか」
「む、そうだったな」
確かに京都駅ではそんなことを言われたが、あの場を逃れるための言い訳だと思っていたので本当に風呂に行っているとは考えていなかった。
ただ、楓とヨームの格好はその考えを完全に否定してくれる。二人ともしっかりと新しい浴衣と丹前に着替えているし、肌はほんのり赤く、全身からユラユラと湯気が立ち上っている。
楓の髪はいつものまま後ろ髪を乾かして結わえただけだが、ヨームは長い髪をバスタオルで束ねてインド人のターバンのように頭に巻いていた。
極めつけは二人に持っているコーヒー牛乳の瓶だ。温泉の風呂場にある自販機で買ったのだろう。半分ほどに減った瓶が二人の手には握られている。
ヨームは楓と刹那が会話をしている間もクピクピとコーヒー牛乳に口をつけては至福そうに笑顔を浮かべていた。
「刹那も風呂に入ってきたらどうでござる? ここの風呂は24時間入れるでござるし、今なら貸し切り状態でござるよ」
風呂に入り身綺麗になっている二人とは対照的に刹那は戦闘の時のままの格好だ。浴衣は直してあるのでぱっと見はなんの問題もないが、走り回って汗はかいたし、全身びしょ濡れにもされたのだ。刹那自身はさぞ気持ちの悪い思いをしているだろう。
「私のことなどどうでもいい………さっきのこと、説明してくれるんだろうな?」
「さっきのこと?」
「とぼけるな!! お前のその頭と腰についてる…いや、ついていたものについてだ!! それに何故お前はあの場所にいたんだ!?」
楓の頭にはすでにケモノ耳は無く、フサフサの尻尾もなくなっていた。部屋に戻る前に薬を服用していたのだ。
「冗談でござるよ。こんな所で話す内容ではござらんし、あんまり大きな声を出すとヨーム殿が怯えるでござる」
「あ、いや……すまん。グッドマンさんも……」
楓に諭され、口を噤む刹那。ヨームにも謝ろうと視線を斜め下へと移動させた。
「………………」
そこにいたのはコーヒー牛乳の瓶を180度傾け最後の一口を飲みきり、ぷはぁと息をはき出すヨームだった。
その顔は今までにないほどの至福顔になっていた。どうやらコーヒー牛乳がかなり気にいったらしい。
ぽわぽわと光のエフェクトを放ちながら幸せを噛みしめるように遠い目をしている。
「………怯えているようには見えないんだが」
「そうでござるか? 拙者には怯えているようにしか……」
「超幸福そうなんだが……」
「超怯えてるように見えるでござる」
二人に不毛なやり取りの間にヨームにかけられた至福の呪いは効果が切れたようで、遠くにいっていた視線がゆっくりと移動していく。
その視線が移動した先、それは隣に立つ楓………
の手に握られているカラスでできた物体………
の中身に入っている茶色い液体だった。
完全にロックオンしている。
『………………』
声を出せないヨームが放つ無言の圧力。瓶に穴が開くのではないかというほどじっと見つめ続ける。そしてその視線はさらに移動し、今度は瓶を持っている楓の顔へと注がれる。瓶を見ていた時のハンターの目から何かを訴えるようなウルウルとした小動物の瞳となって。
そんなヨームの様子に楓はいつもの微笑を浮かべたまま小さく息を吐き出した。
「あんまり飲み過ぎると、お腹を壊してしまうでござるよ」
とは言いながらも特に躊躇うこともなくヨームに残っていたコーヒー牛乳を渡してしまうのだった。替わりにヨームの持っていた空瓶を受け取る。
『ありがと! カエデ』
うれしさのあまりその場で兎のように飛び跳ねると、ヨームは両手でしっかり楓のコーヒー牛乳を受け取る。
すぐに口をつけるのではなく、瓶を持ち上げたり軽く振ってみたりして視覚で楽しんでから、ようやく飲み始めるのだった。
「むむ、ヨーム殿には茶道の才能があるかもしれんでござるな。今度茶々丸殿に手ほどきをお願いしてみるでござるよ」
「……牛乳瓶と云十万もする茶碗を一緒にされたら怒ると思うぞ。普通」
楓のあまり開かない糸目がキラリと輝る。楓はヨームの行動に茶道の才能の片鱗を見出すのだった。刹那はもし楓とヨームが茶道部に出向いたとして、どういう説明をして見学させてもらうのか心配になってしまった。
(絡繰さんはともかく、エヴァンジェリンさんは絶対怒るだろ……)
エヴァンジェリンの正体を知っている刹那にとっては封印状態であっても絶対に怒らせてはいけない対象だ。今は封印は無く、全開状態なので近づくことすら憚られる。
そんな刹那の心配をよそに当の二人はどこ吹く風だ。
ヨームは楓からもらったコーヒー牛乳をちびちびと味わいながら飲んでいて、これまで以上の至福顔だ。ぽわぽわエフェクトも3割増で放たれている。
「ヨーム殿、口の周りが」
楓はそんなヨームの様子をニコニコと見守り、牛乳で汚れた口周りをちり紙で拭いてやっていた。一応同じ年……ということになっているはずなのだが、楓の行動は完全に子供にするそれだ。ヨームはヨームでされるがまま、楓に口を拭いてもらうとくすぐったそうに身じろぎしていた。
「……ちょっと過保護なんじゃないか? というか二人はどういう関係なんだ?」
「いやぁ、昔から妹がほしかったんでござる」
「答えになってないぞ、はぁ、まったく……」
二人のやり取りにすっかり毒気を抜かれてしまった刹那は大きく息を吐き出す。先程まで混乱のせいで苛ついてしまっていたが、一呼吸おいただけで随分落ち着けたような気がした。ただそれは表面上のもので心の中ではいくつもの疑問や疑念が浮かんでは消えてを繰り返している。己の未熟さを反省しつつ、取り繕うように呼吸を正した。
「大きな声を出してしまってすまなかった」
「謝罪はさっき聞いたでござるよ」
楓は気にするなと片手をひらひらと刹那に向かって振ってみせる。
「それよりその手の話をするなら場所を変えた方がいいのではござらんか? 新田教諭にでも見つかったら面倒でござるし」
魔法に関係する内容は基本的に外部に漏らしていいものではない。それに就寝時間はとっくに過ぎているので廊下で雑談などしていたら、確実に注意を受ける。
なら風呂はいいのかと、ツッコまれそうだがその辺のことは自由人・楓と奔放娘・ヨームには通じない理論だ。
「いや、さっきまでは、その……すまん、少し気が動転していたらしい。楓が言いたくないのならば無理にとは……」
語尾を濁して答える刹那。本当は真相を聞きたくて仕方ないのだが、よくよく考えれば自分にそれを無理に聞き出す権利など無いことに思い至り口を噤む。
誰にでも他人に教えたくない秘密があって当たり前なのだから。それに楓が口を開かない理由が個人的な理由ではなくなんらかの組織に関わることならば楓が話すことを躊躇うのも理解できた。
「ふむ」
黙り込み俯いてしまった刹那の様子を見ながら楓は顎に手を当てて思案していた。
楓の脳内ではオコジョのカモが京都駅でやっていたのと同じように短い前足で×を作っている。
さながら”絶対言っちゃダメっす”と言っているようだ。
それと旅行に出発する前に楓はフェンリルから『俺の眷属になったことを誰かに言うかどうかは楓の判断に任せる』と言われていた。特に誰かに話せとも、話すなとも言われていない状態だ。
絶対秘匿をフェンリルから厳命されている後藤教諭が聞いたらキレそうな内容ではあるが……。
楓はもう一度必死に懇願していたオコジョの姿を思い出していた。
(あの怯えよう……きっとこのことがバレたらカモ殿はとんでもない罰を受けるのでござろうな)
カモは直接的にはないが楓を生命の危機から救うのに一役買ってくれた。恩を仇で返すわけにはいかない。
とも考えたのだが………
「ん?」
不意に思案していた楓の鼻先がピクリと動いた。その動きは俯いている刹那にも、コーヒー牛乳に夢中になっているヨームにも気づかれることはない。
(まぁ、いいか)
楓が出した結論に楓の脳内のカモが絶望の絶叫を上げているが、これまた脳内にあるゴミ箱の中にドロップされてクシャっという音ともに消えてなくなった。
「………楓?」
長考して黙り込んでしまった楓を不審に思い、顔を上げた刹那が首を傾げる。
「拙者も刹那に聞きたいことがあったでござる。刹那さえよければ少し話さないでござるか?」
「あ、ああ、ならやはり場所を変えよう」
これまで逃げたり、はぐらかしたりしていた楓が急に積極的になったことにさらに首を傾げてしまう刹那だったが、自分の知りたいことを教えてくれると言うのだから断る理由はない。提案を受け入れ頷いてみせる。
「そうでござるな。ヨーム殿はどうするでござる? もう部屋に行って休むでござるか?」
ヨームは風呂に入って体が温まったことと、コーヒー牛乳により腹が満たされたことで急激な眠気に襲われていた。時間帯も深夜になろうとしているので無理はないのだが、目をゴシゴシと擦ったり、頭を軽く振ったりして睡魔を撃退しようとしている。
先程までの至福で遠い目をしていたその顔は今は眠気で虚ろになってしまっていた。今にも立ったまま船を漕いでしまいそうだ。
「無理しなくていいんでござるよ?」
楓の言葉にヨームの頭がカクリと下がる。これは頷いたのか、それとも寝そうになっているだけなのか楓にも刹那にも判断がつかなかった。
だが、明らかに限界間近なので楓はヨームを部屋に連れていくため、抱き抱えようと手を伸ばした。
しかし楓がヨームを抱えるより先にヨームの手が伸び、楓の丹前の裾を摘むように掴んだ。
『一緒に……行く』
片手は楓の袖、もう一方の手は牛乳瓶で塞がってしまっているヨームは手話をすることができなかったので、パクパクと口を動かし、楓にだけ聞こえる『声』で話すのだった。
「眠たくなったら言うんでござるよ」
『うん』
今度はしっかり了解の意を込めて頷くヨーム。摘んでいた袖を離し、今度はしっかりと楓の手を握る。楓もヨームの手をそっと握り返した。そのままヨームは楓に寄り添うように腕を絡めた。
(いったい……どういう関係だ?)
訝しむように二人を見る刹那。一度口にした疑問が再び脳裏をよぎるが、答えが返ってくるとも思えず、心に思うだけに留めておく。
仲が良いだけならばそれほど気にすることもなかったのだろうが、どちらかと言えばヨームと楓はあまり良好な関係ではなかったはずなのだ。ヨームが一方的に楓を避けていただけなのだが、今はそれが幻だったかのように仲睦まじい。
ただのクラスメートには見えないし、ただの友達という風にも見えない。最も適当なのは保護者と子供といったところだろうが、ぴったりと寄り添う姿は恋人(?)のようでもある。
刹那はここから移動するため歩きだした楓とヨームの後ろ姿を見ながら二人の関係を想像してみるのだった。
(私はなにを馬鹿なことを……。二人は女同士だぞ。恋人などという関係なわけが………)
「どうかしたでござるか? 刹那」
立ち止まってしまった刹那を振り返り、首を傾げる楓。
「いや………なんでもない」
刹那は軽く頭を振ると自身の“妄想”を振り払うのだった。
(そうだ……女同士でなんて………なれるはずが………)
【旅館嵐山・屋根】
三人が移動した先は旅館の屋根の上だった。旅館の中ではどこも人目に付くし、旅館から離れれば刹那はこのかの護衛ができなくなってしまう。
屋根の上には照明など存在しないので、階下の部屋から漏れ出ている僅かな光と、薄雲のかかった月明かりだけが周囲を仄暗く照らしていた。暗く、足場の悪い瓦屋根の上を刹那と楓は危なげなく歩き、ヨームだけが何度も瓦に足を取られて屋根から落ちかけるがその度に楓がヨームの体を支えて引き揚げていた。
三人が屋根の最上部に達すると、楓はその場に腰を下ろし、ヨームを自身の両足で挟み込むようにして座らせた。ずり落ちないようにしっかりと抱え込む。浴衣姿の女子が足を開いて座るのはいかがなものかとも思うが、ヨームが楓の股の間に座っているので下着が見えてしまうことはない。そもそも暗闇の中、屋根の上にいる三人を見ようとするものなどいるはすもない。
「どうしたでござる? 刹那?」
自分が座ったので刹那も座ると思っていた楓は立ったままでいる刹那に問いかけた。
「………………」
刹那は何も言わないまま、楓とヨームに向かってゆっくりと頭を下げる。会釈のような軽いものではなく、腰が曲がるほどに深々と頭を下げてみせるのだった。
「だから謝罪はさっき聞いたでござるよ。ヨームも別に怖がっていないでござるし」
当然のことながら刹那の声でヨームが怯えたなどという事実はない。そもそも謝る理由事体存在しないのだ。冗談で言ったことにそう何度も謝られてはこちらが恐縮してしまうと気まずげに指先で頬を掻く楓。
ヨームは楓に名前を呼ばれて楓を振り返るが、ヨームはコーヒー牛乳の魅力に心奪われていたので二人がどのような会話をしていたかなど覚えていない。刹那が頭を下げる意図も楓の言葉の意味も分からず、とりあえず楓の真似をして頬をポリポリと掻いてみるのだった。
「これは謝罪ではない。これは………礼だ」
刹那は頭を下げたままようやく声を発した。
「礼?」
「あの時、京都駅で楓とグッドマンさんが来てくれなければ、お嬢様は敵に連れ去られていた。本来なら何を措いても先に言わなければならないことだったんだが………」
「お嬢様? ああ、このか殿のことでござるか」
「本当に感謝している。何度礼を言っても足りぬほどに…………だが」
下げていた頭を上げた刹那は楓の言葉を肯定するため一度小さく頷いた。
顔は上がったが視線は瓦屋根に落ちたままだ。悔しげな表情を隠すこともせず、野太刀を握る手には力が入る。
自身の主君となるこのかの護衛を務めるため血の滲むような修行の日々を耐え抜き、研鑽に研鑽を重ねてきた。しかし、いざこのかに危機が及ぶと己が鍛え上げたと思っていた力はまるで役に立たず、主君を危険に晒してしまった。
「私は……認めたくなかった。認められなかった。私が………お嬢様をお守りすることができなかったということを」
「守れたではござらんか。事実このか殿は無事に戻ってこられた」
「守ったのは楓……お前だよ。そしてグッドマンさんだ。私はただ敵の策にはまって手も足も出せなくなっていただけだ」
座っている楓と俯く刹那の視線が交錯する。刹那は自嘲するように暗い笑みを浮かべた。それとは対照的にいつも笑顔を絶やさない楓の表情は険しいものになる。
「確かに直接的にはそうかもしれんでござるが。あの時、刹那達が敵を足止めしていてくれなかったら、拙者もあの場には間に合わなかったでござる。それに魔法が使えるとはいえ、ネギ坊主はまだまだ子供。言い方が悪いかもしれないでござるが、明日菜殿は素人でござる」
楓は刹那の様子を伺うように一度言葉を切る。刹那はただ無言のまま楓の言葉の続きを待っているようだった。
「いくら刹那でも実質一人で準備万端のプロとやり合うのは荷がかちすぎるのではござらんか?」
「それでもだ!! 例え相手がどんな強敵であろうとも、私に敗北は許されない! お嬢様を守ることのできない私に価値などない………」
『ッ!!』
刹那は楓の言葉に声を荒げて反論する。最初こそ激しい口調だったが、後になるにつれて消え入るようになっていった。
刹那が求めた自身の存在意義。それは命に代えても近衛このかを守り抜く。ただその一点だけだった。関西呪術協会から刹那がこのかの護衛に任命されたのも刹那が護衛に足る能力を持っていたからではない。
刹那はこのかの護衛に選任されるだけのために研鑽を重ね、相応の力を身に着けたのだ。
(このままでは私は……お嬢様のお側にいることもできなく………)
呪術協会に今回のことが知られれば、護衛の任務を解かれる可能性もある。このかと仲良くなれなくともただ側で見守り、危険があれば人知れず排除する。ただそれだけでよかったというのに………。
「っ! すまない。またやってしまった。今日は冷静になれそうもない。悪いが話はまた後日……」
先程と同じように大きな声を出してしまったことに気づき、今日何度目になるかわからない謝罪を口にする刹那。一度は冷静になれたはずだったが、燻る焦燥はやはり消し去ることができなかったらしい。ふとした切っ掛けで再び表面に出てきてしまう。
ヨームは刹那の声に今度は本当に驚いてしまったらしく、空になった瓶を両手で握りしめながら、体を縮こまらせている。
そんなヨームの姿を目にした刹那はばつが悪くなり、此の場を去ろうときびすを返した。
「っ!?」
屋根から降りるため一歩足を踏み出そうとした刹那だったが、自身の両足が凍り付いてしまったかのように動かないことに気づき目を見張った。動かないのは足だけのようで体の他の部位は自由に動く。異変の理由を知ろうと視線を動かしていくと、月明かりでできた刹那の薄い影に一本のクナイが突き立てられていた。
「影縫でござる。時間を置いたからといって冷静になれるわけでもないでござるよ。立ち話もなんでござるし、座ってゆっくり夕涼みでも……」
楓は自分が座っている場所の隣をポンポンと叩いて刹那にそこに座るように促す。すでにクナイは影から抜かれていて刹那の自由を奪うものはない。
先程混乱していた刹那はすぐこの場から去ろうとしていたが、なんの情報も得ずにただ一人で思い悩んだところで解決策など生まれるはずがない。再び同じような状況に陥って、さらに最悪な結果を招くのが落ちだ。
「………………」
刹那はクナイの刺さっていた影をじっと見下ろしていた。体が自由になった瞬間またすぐにこの場を去ろうとも考えたが、刹那は実行することができなかった。
何故なら刹那には楓がクナイを取り出したのも、クナイを影に向かって投げたのも、影に刺さったクナイを抜いたのも、いったいいつやったのかまったくわからなかったからだ。
逃げだそうとして再びクナイを影に打ち込まれた時、刹那にはそれを止める手だてが無い。楓がもし敵であったなら自分がすでにこの世にいないであろうことに戦慄を覚えながら、楓との実力の差に焦燥と無力感を味わっていた。
「『馬鹿の考え、休むに似たり』という諺もあるでござるよ」
頭の悪い人間がいくら知恵を巡らしたところで意味が無いので無駄なことだ。というような意味の諺である。内心では「お前にだけは言われたくない!」と言いたかったが、
ここで怒っては馬鹿であることを認めてしまったような気がしてしまう刹那。額に浮かんだ血管を無理矢理抑え込む。
「ふん!」
楓から逃げ遂せる方法も思いつかず、最大級の抗議の意を込めて叩きつけるように屋根に腰を下ろす。打付けられた臀部が痛んだが、元々顔を顰めているので表情に変化は無い。
ムニッ
「………えっと……グッドマンさん?」
刹那は憮然としたまま黙り込んでいたが、不意に頬を抓られ顔を上げた。頬に触れている手を視線で追っていくと、楓の股に挟まれているヨームが手を伸ばして刹那の頬を抓っていた。正確には痛みを感じないほどやんわりと摘ままれているので、触れられているといった方が正しい。ヨームは刹那が自分の方を向いたのを確認すると、口の両端を吊り上げ、ニンマリと笑って見せるのだった。
ヨームの行動の意図が分からず、どうしていいか分からない刹那はヨームの真似をするように笑顔を作ってみせた。もちろん自然に出た表情ではないので、引き攣ったようなものになってしまったが。それを見てヨームは満足げに頷き、刹那の頬を離して楓の足の間へと戻っていった。
「???」
ヨームの行動の意味がまったく分からず、疑問符を頭上に大量発生させてしまう。自身の目的を達成したヨームはすでに刹那を見てはおらず、手に持った空の牛乳瓶を大事そうに握り締めているだけだ。
「折角のかわいい顔が台無しだ。怒った顔より、笑っていた方が魅力的だから笑顔を忘れないようにね………って言ってるんでござるよ」
戸惑う刹那を見かねた楓が助け船を出す。
楓の言うようなプレイボーイ的な言い回しをヨームがしているかは大いに疑問ではあるが、言いたいことは概ね間違っていないだろう。
楓はヨームが刹那にしていたように頬を両側からムニムニと引っ張って遊んでいる。ヨームはヨームでそれが嬉しいらしく楓にされるがままだ。
「刹那、自分に価値が無いと言ったが、拙者はそれは少し違うような気がするでござるよ」
ヨームの頬を弄びながら楓は刹那に声をかける。
「人の価値を決めるのは自分自身ではなく、周囲の人間……他人がすることだと思うでござる。自ら評価した自分の価値など、それこそ無意味でござるよ」
自分で自分を評価してしまうことが絶対悪であるとは言えないだろうが、全ての判断をそこに委ねてしまうのは、高評価であれ、低評価であれ、独りよがりでしかない。例え自身を卑下したとしてもナルシストと大差無い行為だ。
「同じことだ。例え他人……協会の人間があの戦闘を知れば私を不要なものと判断する………護衛失格だと」
「その前提が間違ってるでござる。刹那の言う他人は、刹那を剣の技量だけで評価する人間だけでござるか? ネギ坊主は? 明日菜殿は?それに………このか殿が刹那を無価値な存在だと判断すると思うでござるか?」
「それは………」
「たまには頭の中を空っぽにしてなんにも考えずに心の赴くまま動くのも悪くないでござるよ」
楓の問いに口ごもる刹那。答えることはできなかったが、答えは刹那自身が一番よくわかっている。このかの優しさは刹那が誰よりも理解している。刹那が護衛としてでなく、一人の友人として近づけば、このかが拒絶することは絶対に無いだろう。だが自分という“存在”が心根の優しいこのかを不幸にしてしまうのではないかという危惧が消えることはない。
誰よりも自分がこのかのことを想っていると考えているからこそ、このかとの間に一線を引き、ただの護衛という立場を選んでいるのだ。何も考えず自由気ままに生きれたなら、それはなんと魅力的なことかと思ってしまうが、それでこのかが不幸になるかもしれないならば天秤にかける必要すらない。
(すべてはお嬢様のため………)
楓のどんな言葉も刹那の頑なな意思を曲げることはできなかった。一度はヨームにつられて笑みを浮かべた表情も全てを諦観したような感情を映さないものへと変化してしまっていた。
「楓、忠告はありがたいが……私には私の信念がある。それがお嬢様にとって最良だと考えている」
「ヨーム?」
「…………?」
楓が不意にヨームの名前を呼び、それを聞いた刹那も自然と隣に座るヨームへと視線を動かしていた。いつの間にかヨームは楓の足の間で立ち上がっていて、雲のかかった月を見上げていた。
『セツナはいいよね』
「え?」
数瞬の後、ヨームは月から刹那へと視線を移し、震えぬ声帯で言葉を紡いだ。手話もしていないので刹那にはわからなかったが、『声』を聴くことができる楓が通訳してくれていた。
『このかは頑張り屋さんだから、いっつもいっぱい笑ってくれるから、セツナはただ見守ってるだけでこのかの笑顔が見れる』
刹那に聞こえている声は楓のもののはずなのに、刹那にはそれがヨームの本当の声のように聞こえていた。それほどに刹那はヨームの言葉に引き込まれていた。
『でも、このかは………見れない。一番笑顔でいてほしい人が笑わないなんて………そんなの全然幸せじゃないよ』
この世に転生し、初めて皮肉を言ってみせたヨームだったが、その言葉とは裏腹に表情は悲痛に歪んでしまっていた。
あとがき
刹那が情緒不安定な感じに(._.)
ヨーム、楓、刹那のやり取りもう少しあります。というか核心の話なんにもしてない。