「ごめーん、お待たせっ!」
そう言ったのは、僕の口だった。
聞き覚えのある言葉に、聞き覚えのある声。なのに、明らかにこの口がそう言ったんだ。
呆然として見下ろすのは、開け放ったドアの先。尻餅をついた少年の姿。かざした腕を、おそるおそる下ろしている。鏡の中でのみ、見知った顔。
どういう状況なのか、頭では理解できているような気がする。だって、身に憶えのある場面なんだから。
けれど、視点が違うことの理由を、明らかにこの口から出た声の理由を、心が受け入れてない。
そのギャップに叫びだそうとした途端、使徒が浮き上がった!
「乗って!早く!」
その手を掴んで引っぱる。膝の上を通して助手席へはたきこんだ。
ハンドルに手をついて、ためらう。けれど、一瞬後には急発進していた。車の運転なんて出来ないと思ったけれど、自然とこの身体が動いてくれたんだ。
認めたくない。認めたくないけれど、アクセルを踏み込んでいるのはハイヒールで、左手にした腕時計は見知った女物で、地肌が引っぱられて頭が重かった。
なにより、折々の爆発で一瞬だけフロントグラスに映る姿。
サングラスをかけているけれど…
僕は今。ミサトさんだった。
シンジのシンジによるシンジのための補完 オルタナティブ
いったいどうしてこんなことになったのか、見当もつかない。
確か僕はエヴァのパイロットを辞めて、第3新東京市から去ろうとしていたはずだ。そこへ使徒がやってきてシェルターへ避難した。
そして気付いたら、目の前に僕が、今となりに座る僕が居た。
窺うような視線を感じるけど、僕のほうにそんな余裕はない。
車の運転の仕方は判るし、道順も僕の知らない記憶が教えてくれた。けれど、猛スピードでカーブだらけの山道を走る感覚に心がついていけなくて、それどころじゃないんだ。
僕の記憶じゃ、この後すごい爆発が起こるはずで、そのときに避難できる場所まで辿り着かなくちゃ。
カーブで、体が自然とドリフトをかける。大丈夫だと、確かなハンドル捌きが教えてくれるけど、迫ってくるガードレールが怖くて指先の震えが止まらない。
カウンターを当て、わずかな側溝まで利用して次の切り替えしをクリアすると、脳裏に僕の知らないメロディが流れた。
この身体がミサトさんだってことは疑いようがない。
例えば、1時間前のコトを思い出そうとすれば、この山道を逆に飛ばしていた記憶がありありと浮かんでくる。緊急事態宣言でリニアトレインが止まったことを聞かされて、そこのシェルターの避難者リストに僕の名前がないことに驚いて、慌ててこっちに向かってきていた。
そうしてドアを開けるまで、この体は確かにミサトさんの物だった。
山陰に入ったので、すこし息をつく。これで少なくとも爆風に吹き飛ばされることはないと思う。
それにしても、これからどうしたらいいんだろう。
いきなりミサトさんの身体で、使徒が来ていて、隣りにはまだ何も知らない……僕。…僕…だよね?
バックミラーをなおす振りをして、助手席に座る僕の様子を盗み見る。そんなに長い時間無視したわけでもないのにもう、こちらを窺うことすら諦めて俯いている。
やっぱり、僕だよなぁ。何考えてるか、解かるような気がする。きっと、僕が相手をする余裕がないことを、自分への関心がないとか、事務的に迎えに来るぐらいの価値しかないとか、そう云う風に受け取っているんだろう。
僕のときはミサトさんが沢山話しかけてくれたから、この時点でそんなに思い詰めなくてもよかったんだけど……
バックミラーの中で戦闘機が退避するのが見えたので、念のために車を停める。次の瞬間周囲が光で塗りつぶされ、次いで爆音と爆風が駆け抜けていった。
「なっ…!?」
驚いた僕が振り返って、それからこちらを向く。
視線が痛いけど、逃げちゃダメだ。
なんでこんなことになったか解かんないけど、どうしていいか判らないけど、それは隣りに座ってる僕のほうがもっとそうだろう。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
父さんに呼ばれてここに来た時の、飛行機の爆発に巻き込まれそうになった時の、ミサトさんと一緒に車ごと転がった時の気持ちを思い出す。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
なんでこんなことになったか解かんないけど、どうしていいか判らないけど、今なにかをしなきゃいけないのは僕だ。
逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
今やらなきゃ、覚悟を決めなきゃ。
逃げちゃダメだ。
ゆっくりとサングラスを外して、僕に向き直る。
「…ごめんね、シンジ君。これに巻き込まれるわけにはいかなかったから、余裕なかったの。ホントにゴメンネ」
「…いえ」
納得してくれたらしい僕が、なのに僕の視線を外そうと目を伏せる。
これからどうするか、が問題だった。
できることなら、エヴァなんかに乗って戦いたくはない。戦わせたくはない。
だけどミサトさんの記憶が、今戦えるのは初号機だけ、それに乗りうるのは僕だけということを突きつけてくる。
僕が乗らなきゃ、僕を乗せなきゃ、この街が使徒にやられてしまう。
そのためには、僕がミサトさんになりきらないとダメなんだ。
やたらと乾く口中から、むりやり唾を搾り出して飲み込む。
「シンジ君、お願いがあるの」
向けられた視線が痛くて、今度は僕が目を伏せる。
「……エヴァンゲリオンという兵器に乗って、あれと、あの使徒と呼ばれる敵と、戦って」
つづかない
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「シンジのシンジによるシンジのための補完」が、もともとはシンジをTS化する為の思考実験から生まれたことは以前書きました。いくつかの論理的・設定的・作劇的・感情的帰結から、TS物としては成立しなくなったことも。
では、「シンジがミサトに憑依する」この作品の基本設定を生かしつつTS物として機能させるにはどうしたらよいか?という思考実験の元に辿り着いたのが上記、オルタナティブです。
試しに書いてみた結果、TS描写に行き着く前に、シンジの葛藤と緊急避難的な決意を導き出すまででお腹一杯になってしまいましたが。
こうやって試し書きをして感触がよければ執筆を続けるところですが、難しそうな上に使徒戦も大変そうだということでこの試みは終了しました。