「母上、お帰りなさいませ」
「もう母ではないというに。契りを交わし”つがい”となったのじゃから、妻として扱って欲しいのじゃがのう?」
頭目の挨拶に女は苦笑した。
今や一揆衆の頭目となった青年は、幼少の時に補陀洛に漂着したところを、女に保護され宮中で育てられた身の上である。
和国に来訪するまでは、二人の間柄は頭目の言う様に”母子”の関係だった。
和国への遠征を機に、夫婦として二人の関係を改めたのだが、いくら男女の関係を結んだからといっても、意識は改まらないらしい。
「一月も留守にすれば、妾への接し方を改めるかと思うたがの。あてが外れた様じゃ」
「頭目殿は主上が養育なさったのですから、無理もないかと」
「そうかも知れぬが、妾とこの子が夫婦として対等の立場に並ぶ事こそが、人間と他種族の共生の証となるのじゃからのう」
「ならば”この子”呼ばわりは不味いでしょうな」
「う、うむ」
茨木の指摘に、女は気まずそうにした。
女の側もまた、幼少の頃から十数年育て上げた頭目を、母の目で見てしまいがちなのである。
「もはや、息子として母上を慕う事はならぬのでしょうか?」
頭目は女に、すがる様な目を向けた。
「二人きりの時は、これまで通り甘えても頼っても良いがの。頭目殿の願いを叶える事が妾の悦びじゃ。じゃが、人前では毅然とし、妾を妻として扱うのじゃ」
「どうすれば良いのでしょう?」
「そうじゃな。口調を丁寧にせず、妾の事も呼び捨てで呼ぶのじゃ。まずは呼んでみよ」
「う゛、弗栗多(ヴリトラ)…」
女に従い、頭目は女の真名を、消え入る様に呼んだ。
母として敬い慕って来た相手を呼び捨てにする事は、かなりの抵抗があるらしい。
「頭目殿。もっと胸を張り、堂々とした口調で呼ぶのじゃ。那伽摩訶羅闍を娶った漢を侮る輩など、和国、否、世界の何処にもおりはせぬ」
「しかし、母上を呼びつけにするのは、どうしても外道の振る舞いに思えてならないのです」
「妾が母の立場を取れば、頭目殿と立場に上下が生じるからのう。それでは、頭目殿は民から妾の傀儡と見なされてしまうじゃろう?」
神属を束ねる那伽摩訶羅闍と、人間を束ねる頭目が、夫妻として対等の立場で双頭統治を行う事こそが、伊勢で始める新体制の要なのである。
頭目一人の情で、それが損なわれてはならない。
「確かにそうですが…」
「では、今後は教えた通りに振る舞うのじゃ」
「はい、ははう…」
「頭目殿、口調を改めよと申した筈じゃ!」
頭目の問いかけに、弗栗多は首を横に振り厳しい口調で叱責した。
「済みません…」
頭目が消え入る様な声で謝罪したところで、茨木が割って入った。
「良いではありませぬか。兵や侍女共の前ならともかく、ここには三人のみ。頭目殿が萎縮してしまっては話が続きませぬ」
「茨木、甘やかすでない。いいつけを守れぬ子は躾けが肝心じゃ!」
頭目に対して自分を”母”ではなく”妻”として扱えと言った筈の弗栗多自身が、完全に母の思考になってしまっているのだが、当人は矛盾を感じていないらしい。
弗栗多のさらなる怒りに頭目は消え入りそうだったが、茨木は毅然として切り返した。
「なればこそ、臣の前で頭目殿に恥辱を与えてはなりませぬ。側仕えを許されていても、吾はあくまで臣ですからな」
「確かにそうじゃのう。頭目殿、以後は気をつけるのじゃぞ」
納得し矛を収めた弗栗多に、頭目は胸を撫で下ろした。
「では、やり直しじゃ」
「改めて、弗栗多よ。尾州はどうだったか」
弗栗多に促され、頭目は抑揚のない冷たい響きで言い直した。口調同様、目つきや表情も氷の様に冷たくなっている。
弗栗多はそれに頷いて、我が子の成長を見守る慈しみの目で微笑んだ。
(やれば出来る子じゃからな)
人間とはいえ那伽摩訶羅闍の養い子として多くの神属に傅かれて育ったのだから、頭目はこの様な言動が出来ない訳では無い。
ただ、弗栗多に対しては躊躇っていただけである。
弗栗多は、行商人としての尾州での活動を報告した。
もっとも、経過を報告する文は伊勢に逐次送っているので、概要は既に伝わっている。
街道沿いの行程だったので、通信の面で不自由はない。
頭目が聞きたいのは、尾州全体についての所感である。
「うむ。尾州の治世は、まずまずの様じゃ。貧しい者、身売りする者等はそれなりにおる様じゃがの」
「隣接する他州も、内政は落ち着いていると報告を受けている。尾州が善政を敷いているというより、神宮の治世が周囲に比べて劣悪だったのだろう」
「乱世なればこそ、民の限度を超えて税を取る愚か者は稀じゃの」
「その様な事をすれば、敵対する他州が不満を持つ民を裏から扇動するのは明白」
「伊勢は皇家に安堵された社領という立場故に、民を如何に搾り取ろうと他州の介入は有り得ぬと考えておった訳じゃ。まさか異国の神属が、救民を大義名分に来襲するとは思わなかったじゃろうな」
諸州が互いの隙をうかがっている状況で、領民への圧政は敵から足をすくわれる元である。
伊勢の場合は社領という特殊な立場故に、他州からは不可侵と見なされており、州外の目を気にする事無く重税を課す事が出来た。
しかし、国外の勢力である那伽摩訶羅闍一行にとっては、神宮への武力行使に何の躊躇も感じなかったのだ。
「茨木、州外の勢力は伊勢にどう出ると思うか」
頭目は、外部勢力の行動予測を茨木に尋ねた。
弗栗多が国元から連れて来た家臣は教養を積んではいるが、和国の情勢にさして詳しくない。
一揆衆の幹部には、民衆を代表する立場として村々の庄屋も加わっているが、彼等は生活の向上ばかりに関心が向きがちであり、大局を見る視点に欠ける。
結果、和国の出自で五百年以上の齢を重ねている茨木が、対外政策の相談役として重宝されていた。
茨木が抜擢されたのは、その様な事情もある。
「皇家、幕府、そして諸州は、伊勢の一揆衆に対して使者を立てる事もなく静観しておりますな。今暫くは様子見と言うところかと」
「”触らぬ神に祟りなし”か。だが、いつまでもという訳ではあるまい」
「皇家にしてみれば、皇祖を祀る神宮を滅した一揆衆の伊勢統治を追認する事は出来ぬでしょう。皇家に任じられた幕府、そして諸州の守護も同様かと」
「では、戦となるかや? 妾を屠って伊勢を奪い、神宮を再興した勢力は、和国再統一に大きな一歩を踏み出せるのじゃしな」
伊勢の内政安定に力を注ぎたい今、自ら戦を仕掛けるつもりはないが、攻めて来るならば受けて立つ。神宮に次ぐ見せしめとして、徹底的に叩きのめすまでだ。
また、武力衝突は贄を得る為の良い機会でもある。中長期的に贄を確保する手段は講じつつあるが、備蓄が多いに越した事は無い。石化してしまえば、生かしたまま半永久的に保存が可能なのである。
「いえ。主上を討伐する力がない事位は自覚しているかと。故に、放置する他に道無しという訳でしょうな」
「もしそうなら、つまらぬが賢明じゃのう…」
茨木の答えに、弗栗多は少し落胆した。
「では、こちらから使者を出し、伊勢の支配を認める様迫るかや?」
「その必要はないかと。他勢力は吾等と公的な交渉を持とうとしない一方で、通商を絶とうとはしておりませぬ」
「尾州に至っては、熱田に商売の拠点を構える事すら黙認しているからのう」
「左様です。報復を恐れての事もありましょうが、医薬が手に入らなくなって困るのは先方ですからな」
伊勢は、皇祖を祀る神宮が治める社領という特殊性の他、医薬の産地としての一面も持っている。
一揆衆による伊勢統治を公に認める事が出来ないからといって、完全に断交して後者も失う程、周囲の為政者は愚かではなかった。
まして、那伽摩訶羅闍一行が持ち込んだ医薬は、従来の物に比べて効能が格段に高い。
不治とされている病すら完治させる物もある為、どの勢力も喉から手が出る程欲しいだろう。
「交易に支障がない以上、あえて交渉をこちらから持ちかける必要もありますまい」
「では、現状を維持するのが当面は良いという訳じゃな」
「幕府や他州、そして皇家とは公の関係を持たず、商人同士による交易は続けると言う現状の維持を、このまま暗黙の落とし処とすべきかと」
「そうじゃな。こちらから譲る必要はどこにもないのじゃからのう」
頭目は二人の言葉を受け、暫く目を閉じて考えた後、決断を下した。
「公の約定を交わせば、こちらも縛られる事になる。故にこの意見を是とする」
「いずれは廃する相手ですからな」
「時を要する。では茨木、下がって良い」
「では、後はご夫婦水入らずでごゆるりとお過ごし下され」
「うむ。大義であった」
頭目の決断を受け、茨木は席を立つと、一礼して本殿を後にした。