若衆が目覚めると、闇の中だった。
(ここは……)
傍らには、生暖かい毛皮の壁がある。体温と呼吸が感じられるので、生きている獣だろう。
若衆はどうやら、これに寄り添う様にして眠っていた様だ。
大きさからすると牛馬の類の様だが、それにしては体毛がやや長い。
(何なのだろう、この獣は? それにここは……)
地面は板間となっているので、屋内と思われる。
だが犬や猫ならともかく、この様な大きな家畜を屋内で飼うというのは考えにくい。
藁等は敷かれておらず糞尿の臭いもないので、厩ではない様だ。
何故、自分がこの様な場所で、得体の知れない獣といるのか、若衆には全く解らなかった。
ともかく起き上がろうとすると、身動きが取れない。
緩くではあるが、獣の脚で抱きかかえられているのが解った。
しかし、若衆は不安を感じなかった。
この獣が仮に肉食だとしても、食べるつもりの獲物を生かしたままにしておく筈がない。
抱きかかえているのは、若衆を護ろうとしている為ではないかと思えたのである。
(仲間、いや、子供のつもりだろうか……)
「目を覚ませてしまったか?」
若い女の声がしたので、他に誰かいるのかと辺りに目をやったが、闇に遮られて解らない。
聞き覚えがある声だが、誰の物だったのか若衆には思い出せなかった。
「まだ癒えてはおらぬ。時は充分ある故、今しばらく眠れ」
女の声が優しげに響くと共に眠気が生じ、若衆の意識は落ちていった。
* * *
再び若衆が眼を開けると、まぶしい光がとび込んで来た。
部屋の戸が開けられており、ほのかな風がそよいで来る。
部屋は広めの板間となっており、奥に襖があるので続く部屋がある様だ。
若衆は、敷かれた布団の上に寝かされていた。
傍らにいた獣は、寝ている間にいなくなっていた。
「あれは夢……ではないか」
夢の中の出来事かと思ったが、床に獣の毛が落ちていたので、現実だった様だ。
「起きた様だな」
襖が開き、大きな白虎が入って来た。
「と、虎? それに話す?」
「話す虎は、初めてではあるまい?」
女の声で話す白虎に唖然とする若衆に、白虎は呆れた様に応じた。
若衆は数秒程、首を傾げて考え込んだが、その様な存在に出会った覚えがない。
「記憶がおぼつかぬとは、まだ頭がすっきりとせぬ様だな」
「ええ……」
若衆は、ここ数日の間の出来事が全く思い出せなかった。
ただ、この白虎に敵意や害意の類がないという事は感じられる。
「貴様は重篤に陥り、三日程伏せっていたのだ。無理もなかろうがな」
「じゅ、重篤?」
命が危ぶまれる状態だったと知り、若衆は驚いた。
記憶こそあやふやだが、身体には苦痛も気だるさもない。
「医術は施した故、もう心配は要らぬ」
「もしかして、添い寝して下さっていたのですか?」
「うむ」
白虎が頷いたのとほぼ同時に、若衆の腹が鳴った。
「す、済みません……」
顔を赤くして恥じ入る若衆に、白虎は微笑んだ。
「滋養を取らねばならぬが、臓腑が弱っておる。まだ普通の飯は受け付けぬだろう。私の乳を吸え」
「乳……ですか?」
「そうだ。腹に乳首がある。遠慮なく吸い付くと良い」
白虎は若衆に腹を向けて寝そべり、乳を吸う様に促した。
若衆は僅かにためらった物の、言われるままに、白虎の腹に並んでいる肉の突起の一つに口を近づけて含んだ。
強く吸うと、生暖かく甘い液体が口の中にほとばしって来る。
(美味しい!)
喉を鳴らして乳を吸う若衆を、白虎は優しげな眼で見守っていた。
* * *
若衆が乳で腹を満たし終えると、疲労した脳髄に滋養が行き渡り、様々な事が思い出されて来た。
百姓一揆へ、天竺から来た龍神の軍勢が加勢し、神宮は為す術もなく陥落。
そして若衆は虜囚となり、一度は死罪になりかけるも助命され、龍神の師という阿修羅・計都に、答志島へと連れて来られた。
与えられた役割は、龍神やその眷属の贄となる白痴の種付けの補助。
神宮の虜囚の内、幼子の助命と引き替えに若衆はそれを承諾し、身体を造り変えられたのだった……
短い間に色々な事が起き重大な決断を迫られた事で、心も体も疲れてしまい、物事を思い出せなくなっていたのだろうかと若衆は思った。
そこまで思い出したところで、若衆は白虎が誰なのか気が付いた。
「貴女は、もしかして仕置場にいた……」
「思い出したか。和国の民にとっては、見慣れぬ白虎の顔は見分け辛いだろうからな」
「どうしてこちらに?」
「無論、貴様を仕置にかける為ではないので安心せよ。貴様の後見をする様、主上より拝命したのだ」
「後見、ですか?」
白虎の答に、若衆は首を傾げた。
計都の一門に加えられた自分に、わざわざ近衛の一員であるという白虎が後見につく必要があるのだろうか。
「まあまあ、お目覚めですわね」
「計都師、お早うございます」
白虎が頭を垂れて挨拶し、若衆もそれにならう。
計都は二名に合掌を返した。
「いきなり白虎が隣に寝ていて驚いたでしょうけれども、これは小生が呼び寄せましたの」
「貴女が、いえ、計都師が、ですか?」
”貴女”と言いかけた若衆は、呼び方を改めた。
既に一門に加わる事を承諾した以上、計都と若衆は師弟として接するべきである。
「ええ。貴女、一時は大変な事になっていましたのよ」
「重篤に陥っていたとは聞きましたが、私の身に何があったのです?」
「貴女はまず牝として胤贄と交合し、その胤を体内に溜め込みましたわね。そして下腹に刻まれた術式で胤を作り替えた後、牡として牝贄と交合して胤を注ごうとした。それはよろしいかしら?」
「……そこまでは思い出しましたが……」
若衆は牝贄をあてがわれ、計都の門下である家人に命じられるままに交合した。
仰向けになった白痴の女の股を開き、割って入った刹那。
そこから、若衆の記憶は途切れている。
「自分の物を牝贄の女陰に差し入れて…… そこから何も覚えていないのです」
「女体と交わる事で、貴女の心に秘められていた欲が噴き出し、術式が狂ってしまったのですわ」
「やはり私も、心の奥底で色欲にまみれていたのでしょうか?」
若衆の問いを、計都は首を横に振って否定した。
「色欲は生きている証ですから恥じる様な物ではありませんけれども。貴女から噴き出した欲はそれではありませんでしたの」
計都は問いを否定し、一度言葉を切ると、若衆の眼をまっすぐ見つめた。
重い言葉が続く予感に、若衆は唾を飲み込む。
「これまでの生育を調べさせて頂きましたけれども、貴女は”母の情”を知りませんわね」
「ええ……」
若衆は、生母が既に死んでいる物として育てられ、父である宮司の正妻は、彼を冷たく扱った。
若衆は母のぬくもりを全く知らずに育ったのである。
「牝贄と交わる事により、貴女の心はそれを、母として欲したのですわ」
「牝贄をですか?」
「ええ。ですが、牝贄が孕んでしまっては、胎内の子に”母”を奪われてしまいますものね。貴女はそれを防ごうとして、無意識の内に胤を猛毒に変えてしまいましたの」
「も、猛毒ですか?」
猛毒と聞き、若衆は驚いた。
自分に刻まれた術式は、完全に不随意という訳ではなく、心の状態が影響して効果が歪んでしまう事があるらしい。
「ええ。母たる牝贄を独り占めする為、ひと思いに殺してしまおうとしたのですわ」
「それで、どうなったのです?」
「猛毒を胎内に注がれた牝贄は、一刻の間もがき苦しんで絶命しましたわ」
「!」
自らの行いで交合の相手を死に至らしめてしまった事に若衆は絶句したが、計都の言葉は淡々としていた。
「その事は気に病まずとも宜しいですわ。貴重とはいえ、贄は畜生ですものね」
「骸は私が食したのでな。無駄にはしておらぬ。ああ、この毒は白虎には効かぬ故に問題ない」
「そうですね……」
贄である以上、不慮に死ねば食肉とされるのは当然なのだが、若衆は心の痛みを感じた。
計都、そして続く白虎の言葉は、白痴は贄であって人間としては扱われないという事を受け容れて慣れる様、促している様に若衆には思われた。
神属との共存を選び、協力に際して相応の対価も約束させた若衆としては、受け容れる他ないのである。
「そして貴女自身も、自ら生じた毒が身体に廻りかけましたの。直ちに石化しましたから、死なずには済みましたけれどもね。重篤に陥ったのはそういう訳ですの」
「そうでしたか……」
「交合の際”贄と心を通わせてはならない”と言われましたでしょう? それはこういう事を防ぐ為でもありましたのよ」
「わ、私は、口もきけぬ白痴と心を通わそう等とは……」
「ええ。でも、心の奥底の欲、母に縋りたいという童の欲には逆らえませんでしたわね。それは仕方のない事ですもの、責めたりはしませんわよ」
「……」
己の求めていた物を一言で示された若衆は、言葉が出なかった。
何かにすがりたい、頼りたいという欲求を満たされぬままに、ただ宮司の嫡男として相応しくある様、周囲の求める姿を演じ続けた。
だが、自分でも気付かぬ心の奥で、童の様に泣き叫び、縋り付く慈母を求めていた様だ。
それに気付かされれば、ただ黙ってうな垂れる他なかった。
「とは言え、このまま貴女を胤付けに使えば、同じ事の繰り返しですものね。そこで連れて来たのが、この白虎ですわ」
「どういう事でしょう?」
「……ああ、その、何だ」
「はっきりおっしゃいなさいな」
若衆の疑問に白虎は視線を反らし、言いにくそうに口ごもったが、計都に促されて意を決して若衆に告げた。
「私が貴様の母として、生涯を通じ護ってやろう。遠慮なく甘え、頼るといい」