後になって考えてみれば、あるいは気付くだけの余地はあったのかもしれない。
仕切られた打たせ湯のブース、その一つ一つから聞こえてくる、お湯が落下して床を打つその音が、しかし一か所だけ聞こえてこなくなっていることに気が付くことができたならば、あるいは竜昇も、その異常をもっと早く察知できたのかもしれない。
「――なッ!?」
上から流れ落ちる打たせ湯のお湯、それがまるで糸のように連なって上から真っ直ぐと伸び、その下にいる城司の顔面に、まるで毛糸玉でも作るようにまとわりついて包み込んでいる。
己の頭部を丸ごと水の塊に飲み込まれた城司の表情は、しかし呆れるほどに安らかだ。
どう考えてもこの状況、呼吸などできていないはずなのに。
すでに吐き出す空気もなくなって、顔色が悪くなり、手足がけいれんし始めているにもかかわらず――。
「――ッ、城司さんッ!!」
一瞬の硬直のあとに慌てて思考を再起動させ、竜昇はとっさに城司の腕をつかんで彼の体を引っ張り出す。
幸い、ただ座っているだけだった城司の体はさほど抵抗することもなく引っ張り出され、半ば竜昇の方へと倒れ込む形で救出された。
あまりのあっけなさに竜昇自身も尻餅をつきながら倒れ込んできた城司の様子を確かめると、明らかに水を飲んでむせながら、しかし城司は直前まで自分が溺れかけていたことにも気づいていないかのように不平の言葉を述べてくる。
「ゴホッ、ゲホッ――。なにすんだよ……。せっかく人が気持ちよくお湯に浸かってたって言うのに……」
ぞっとするほどに、自身の危険に無頓着なその物言い。
実際彼は、自身が溺れて死にかけていたことに全く気付いていなかったのだろう。
彼にしてみれば、ただ普通にこの入浴エリアのお湯の一つを使っていたのに、それを竜昇によって無理やり中断させられたような、そんな感覚なのだ。
その事実にうすら寒いものを覚える竜昇だったが、しかし今はそんな問題すら呑気に考えていられる余裕もない。
なにしろ今はまだ、城司の頭部を丸ごと取り込んでいた水塊が、まるで重力など物ともしないかのようにそのままの位置に浮かんでいる。
「――!?」
と、そう思った瞬間、驚くほどにあっけなく、浮かんでいた水塊が真下の床へと、重力に引かれて落下した。
一瞬危機が去ったのかと思いかけた竜昇だったがすぐにそれが違うことに気付かされる。
なにしろ床に落下してできた水たまりの、その広がり方が明らかにおかしい。
まるで樹木が根を張るように、水が幾本ものラインを形作って、それが床のタイルの溝などの細かい凹凸を全て無視して、放射状に真っ直ぐに広がっているのだから。
(こいつ、俺達を探してやがる――!!)
木の根状に広がる縦の線に、やがて横に走る別の線が追加され、蜘蛛の巣のような形を形成した水の線がさらに伸びてその範囲を広げていく。
恐らくはこちらに接触することでその位置を割り出すつもりなのだろう、目や耳といった感覚器官をもたない水を媒介に行われる、広がる水線による接触感知。
(まずい――!!)
みるみる広がっていく水でできた蜘蛛の巣の姿を見ながらそうと理解して、即座に竜昇は現状のまずさを理解する。
このままでは水の線がこちらに接触するまであと十秒もかからない。
加えて城司がこの調子では、彼を連れて素早く距離をとることも難しいだろう。
なにしろ今の城司は自分が命の危機にあることすら認識できていないのだ。それどころか、このままいくとノコノコとこの水の糸に自分から掴まりに行きかねない危うさすらある。
(【雷撃】で水そのものをふっ飛ばして――、いや――!!)
右手を構えかけて、しかし実際に魔法を使うその寸前に、竜昇は自身のとろうとした選択の、その危険性にようやくと言った遅さで気が付いた。
(馬鹿か俺は……!! こんなびしょ濡れの状態で電撃なんか使ったら、二人まとめて感電するぞ――!!)
よくよく考えれば簡単にわかるような事実を今まで見逃していたというその事実に、竜昇は否応なく自身の油断を自覚させられる。
なぜ今までこんな簡単なことに気付かなかったのか、その自分の迂闊さが今は酷く呪わしい。
周囲が水浸しで、さらに自分たちがびしょ濡れの状態で電撃を使ったらどうなるかなど、本来ならばもっと早くに気付いていてもよかったはずの常識だ。
加えてまずいことに、今は魔本などの装備品も、濡れないようにと少し離れた場所に置いてきてしまっている。距離としてはほんの数歩しか離れていないが、それでも今の状況ではその数歩の距離が致命的な隙となりかねない。
(クソッ、なにが状況に先手を打つだ……!! こんな簡単なことすら見落としてるなんて――!!)
思いつつ、打開策を探して急ぎ周囲に視線を走らせる。
魔本による思考の補助すら受けられない現状が酷くもどかしい。自分がどれほど油断していたのかとそう思いながら、自身の装備品の方へと視線をやって――。
(――あった!!)
視線をやった魔本の手前、そこにあった自身のもう一つの装備品の存在に、ようやく竜昇は現状を打開する唯一の手段を見出した。
即座に体勢を立て直して立ち上がり、一目散にその装備品がある場所へと走り出す。
「おいおい、あぶねぇだろうが、風呂場で走るんじゃねボボボ――」
「――!?」
直後、呑気な城司の言葉が不自然に途切れたのを耳にして、竜昇は目的のものを掴みながら急いで振り返る。
見れば、半ば予想した通り城司の体に、床を広がっていた水が集まって蛇のような形を取り巻き付いて、まるで頭を突っ込むようにへらへらと笑う城司の口の中に入り込んでいた。
城司の口から再び空気が漏れ出して、彼の命を貪り食うように気泡が水流の中を通って外へと逃げだしていく。
(クソッ!! コイツ声にも反応するのか、それとも水に接触するのが早かったのか――!?)
城司の足先が水の線に接触しているのを見ながら、竜昇は急いで踵を返して問題の城司の元へと走り寄る。
掴み取っていた己の武器、詩織から譲り受けた【応法の断罪剣】を鞘から抜き放ち、城司の足元から彼の体にまとわりつく水流の、その足元部分にある太い水の供給ラインを魔力を込めた剣でもって一閃する。
「――応法ッ!!」
瞬間、剣に込められた魔力を吸収する効果が発動し、城司に向かって伸びていた水のラインが力を吸い取られたかのようにただの水へと回帰する。
城司の体に蛇のように巻き付いていた水流が形を崩し、口へと飛び込んでいた水がむせた城司に吐き出されて周りに飛び散り、動きを止める。
(――やっぱりッ!!)
水流から城司が開放されたのを横目で確認しながら、竜昇はすぐさま【探査波動】を発動させて周囲の魔力を洗い出す。
恐らくは寸前まで隠纏系の魔力で隠蔽していたのだろう。魔力の気配が問題の水流と、その上にあるだろう水道管から一斉に発せられて、そこでようやく水を動かしていた魔力の存在が露わになった。
それはそうだろう。いくらなんでも魔力抜きでこんな芸当ができるわけがない。
そしてどんな事象であれ、魔力でもって起こされた現象ならば竜昇が詩織から譲り受けた【応法の断罪剣】の効果は致命的だ。
剣に込められた術式でもってして、魔力そのものを吸い取ってしまえるこの剣ならば、限度はあれあらゆる魔法を確実に一度は無効化できる。
唯一問題があるとすれば、それはこの方法で無力化できるのは剣接触した周辺の水に込められた魔力だけで、それ以外の支配下にある水は変わらず敵の魔力の影響下に残り続けるということか。
魔力の気配の消えた周囲の水とは対照的に、未だ魔力の気配を放ちながら零れ落ち、一つにまとまって蛇のように鎌首をもたげる水流を前に、竜昇はこの場で使える唯一の武器である【応法の断罪剣】を構えながら考える。
(それにしてもこいつ、いったいどこから攻撃して来てるんだ……? 水道管を伝ってずっと遠くから仕掛けてきているなら、こいつの本体はそもそもどこなんだ……?)
魔力の気配は感じられるのに敵の本体の気配が感じられず、ただ水道管があるのだろう位置から、その中を水と共に流れる魔力の気配だけがずっと遠くまで続いている。そんな自身の感じる感覚から、竜昇はこの敵の能力の、その射程の長さに改めて戦慄させられることとなった。
(水に込められた魔力の気配しか感じないってことは、少なく見積もっても敵本体の居場所は【探査波動】の射程の範囲外……。いや、下手をするとこの敵の能力、媒介になる水がある場所なら、どこまでも自分の勢力を広げられる可能性もある……)
下手をするとこの能力、それこそ地価の排水口の奥底に潜んだまま、このウォーターパーク中の水を操ることすら可能かもしれない。
そしてもしそうならば、この敵の居所を探るのはなおのこと厄介だ。
あるいは、魔力の気配をたどっていけばあるいは敵の居場所にまでたどり着けるのかもしれないが、城司を守らなければならないこの状況ではそれも難しい。
どうする、と、油断なく敵の様子に神経を研ぎ澄ませながら、竜昇は必死になって現状を打破する方法を考える。
恐らくこの状況、例え電撃の使えない、剣の腕も素人のものでしかない今の竜昇でも、守りに徹すれば城司を守り続けるのはそう難しくない。
様子を見る限り、敵はこちらの位置をそれほど正確に把握できていない様子だし、水の動きはそれほど速くなく、加えて即座にこちらを殺害できる攻撃手段でもないため、別の場所の水を操るなどの不意打ちにさえ警戒すれば凌ぎ続けるのはそう難しくないはずだ。
だが一方で、この敵を倒すとなるとそれは相当に困難だ。
そもそも居場所がわからない上に、その居所を探そうにも竜昇自身が身動きが取れない。
(さて、この状況、どうしたものか……)
――と、そう竜昇が考えていたそのとき、なにがきっかけだったのか、眼の前で宙に浮かんでいた水塊がいきなりその物理法則に逆らう力を失って、重力にひかれてあっけなく床へと落ちてぶちまけられた。
同時に、まるで潮が引くかのように、水道管の中を遡るように、今しがた暴いたばかりの魔力の気配が消えていく。
再び気配を隠したのかとも警戒し【探査波動】を発動させる竜昇だったが、しかし一方でこの現象が何を意味しているのかについて、竜昇自身大体の見当がついていた。
案の定、放った魔力は一切の気配を暴き出せず、竜昇の周囲に再び魔力の気配がない、一定の安全が戻って来る。
(退いた、ってことか……。こっちが気付いた以上、この方法じゃいくらやっても無駄と見たのか)
安堵と共に息を吐いてから、竜昇は動揺も冷めやらぬ中、すぐに確認のため握ったままの剣を近くの湯舟へと突き立て魔力を込める。
そうしてすぐさま引き抜くと、予想通り【応法の断罪剣】の周りには、先ほど生き物のように動いていた水流と同じようにごく少量の水がまとわりついていた。
恐らく先ほどの襲撃に使われた魔力をこの剣で使うとこのようになるということなのだろう。
すぐに魔力が切れたのか、あるいは細かく操作しなくては効果を保てない性質の魔力だったのか、水が剣の周囲からすぐに落下して湯船に戻るのを確認してから、竜昇はもう一度大きく息を吐いて放り出していた鞘を拾い上げ、慎重な手つきで使い慣れない刃物をその中へと収めて戻す。
(詩織さんからこれを譲り受けておいてよかった)
先の戦いで詩織が【青龍の喉笛】と言う、彼女本来の武装を取り戻したことにより、装備者不在となって残された【応法の断罪剣】。
そんな長剣一振りを、竜昇は護身用の武器として自分用に譲り受けていた。
正直な話、竜昇自身に剣術系のスキルが無いため使う機会はないかもしれないと思っていたほどだが、今となっては他に装備者がいないからと言う消極的な理由でも装備することに決めていて正解だったと言える。
とは言え、いつまでも思わぬ形で武器が役立ったことを喜んでいるわけにもいかない。
むしろこうして予想外の形で襲われた以上、竜昇にはこれからやらなければいけないことが山ほどあるのである。
「城司さん、大丈夫ですか?」
「――ん、ああ。悪い。のぼせて溺れたかなんかしたか? あぁ……、なんか水呑んだみたいなんだが……」
相変わらず自身が危険な目に遭ったことなど微塵も理解していない呑気さで、水を派手に呑んだことの辻褄を適当に脳内で合わせたらしい城司がそんな発言をしてくる。
そのことに忸怩たる思いを抱きながら、とりあえず竜昇は、城司をいったん安全と思われるホテルにまで連れて戻ることにした。
「大分長くお湯につかっていましたからね。いったんホテルに戻って休んだ方がいいでしょう」
「ああ、まあ、そうかな……」
城司を適当に言いくるめ、彼に手を貸しながら竜昇が考えるのは、先ほど城司を襲っていたあの水流の存在、そしてその目的だ。
(なぜ。なんで今このタイミングで襲撃をかけて来たんだ……?)
この階層のコンセプトはいまだによくわからない点が多いが、しかし精神干渉を行ってきたことから考えて、こちらが骨抜きになって油断したところを狙って襲うというのは十分に有効でありうる戦術だ。
けれど、果たして今のこのタイミングが襲うのに適切かと言われると、その部分に関しては疑問が残る。
確かに竜昇は言い訳のしようもなく油断していたが、一方で城司のように正気を失っていたというわけではない。
二人そろって正気を失っていたのならばいざ知らず、片方がもう一人の護衛として張り付いているこの状況は、襲撃をかけるには少々成功率の低い状況だったはずなのだ。
にもかかわらず、この敵は護衛として竜昇が近くにいるにもかかわらず、今、このタイミングで襲撃をかけて来た。
万全を期すならばもっと適したタイミングを待つ手もあったはずなのに、このタイミングで敵が仕掛けて来たその理由は何なのか
「ッ――!!」
と、頭に浮かんだ疑問の答えを探しながら、同時にこの場を離れるべく荷物を回収しようとしていた竜昇の耳に、拾い上げた荷物の中から聞き覚えのあるアラームが鳴り響く。
一瞬、驚きによって手を止めた竜昇だったが、しかし直後にはこのビル内でこの音が鳴る条件を思い出して、急いで荷物の中からスマートフォンを取り出し、その画面を起動させた。
案の定、表示されるのはある意味では予想通りのメッセージ。
「――? なんだ……?」
ただし今回送られてきたのは、予想に反してそれだけという訳ではなかった。
「これは、どういう――、ッ――!!」
その内容に一瞬思考を混乱で満たされて、しかし直後にその意味を察して、竜昇の思考に巨大な焦燥感が押し寄せる。
否応なく、そのメッセージの存在に自身が後手に回ってしまったらしいと理解させられた。
鈍間な自分を置き去りにして、事態が厄介な方向に動き出してしまったのだと、突きつけられたような気がした。