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ドンパチ始まりました。ついに、やらかしましたよ。
現場は、北京です。北平市、豊台。
日本軍と、国民政府第29軍との、軍事衝突です。
市政庁である、宛平県城は砲撃を受け、すでに占領されていると思われます。
表面上、満洲事変に酷似しています。
仮に、日本側が無実で、中国側の謀略工作だったとするなら、余計疑いを持たれぬために戦闘なんてしないで現状保存を優先させるべきでしょうに。
見事なまでに、現場を踏み荒らして、いい気になって暴れまくってます。
アホどもめ!
アホだからしょうがないんですが。情報の断片が入ってくるたびに、6年前の記憶がまざまざとよみがえる。完璧なデジャヴです。
北平市が制圧されるのは時間の問題として、支那方面軍はどこまでやる気だ?北支全土か?石原の仕業か?現地に来てるのか?まさかな。
状況を整理します。
廣田内閣が5月から、上限2000人の支那方面軍に総計6000人ほどの増援を勝手に送りこんで、南京や北平から猛抗議を浴びせられてました。
北平を中心に、抗日運動がますます過激となる一方、現地日本軍は更にとめどないお代わりを要求し続ける。
豊台とは、北平の南部にある鉄道拠点です。日本はここに勝手に兵営をつくりました。もちろん北京議定書に完全に違反してます。
さらに、すぐ周辺に飛行場まで作ろうとして、アコギな土地買収を開始。
目的は、在住者と北平政府の頑固な抵抗を挑発すること。夜間の行軍や砲撃演習を遠慮なく繰り返すという嫌がらせも、二ヶ月間、延々と続けていました。
正直、いつかやらかすかもな、という噂はあったんです。
先月、満洲東部の、ソ連との国境付近で、ちょっと派手めな軍事衝突があったんですが、あれも予行演習だったのかも、と今更思わなくもない。
そして民国26年7月7日。七夕さまの夜に、まあお日柄もよく始めちゃいやがった訳です、北京事変。
いや事変ですまないだろ今度は。
現地へ行きたいのは山々ですが、当面はハルビンで、ラジオと号外、商売フレンズからの情報を掻き集めます。
南崗へも一度、行ってきましたが、小林たち祝杯をあげてました。
日本軍内では、当り前ですけど、中国側から攻めてきたのを懲らしめてるんだって信じこんでて疑いません。ムタグチさんがんばれーって現地の連隊長へのエールを叫んで盛り上がってました。
新聞記事以上の詳細は伝わってないみたいだったので、配達終わったらすぐ帰りました。
満洲事変と異なる状況が、ひとつあります。
満洲では、石原の用意周到な作戦計画のもと、多門中将率いる移駐第二師団は攻撃対象を張学良麾下の軍事施設に限定しました。学良軍の拠点はすべて把握していたので、日本軍の方が圧倒的に兵力数少ないくせに、脇目も振らず突入し、敵は逃げるにまかせました。
当時は国民政府軍全体に、日本軍が向かってきたら逃げるべしという訓令が徹底されていたんですね。
武器を持ちだして匪賊化する兵もいっぱいいましたけど、本格的な戦闘というのは、チチハルでの馬占山との戦いくらいでしか、実はやってないんですよ。
これは軍事作戦として見た場合の、満洲事変の大きな特徴であり、極めて重要なポイントだと思っています。
北平では現在、国府軍の頑強なる抵抗が続けられています。
深夜に戦端が開かれたのは満洲事変と同じですが、第29軍はすぐさま武器をもって応戦。
ラジオから発せられた地点を結ぶと、マルコ・ポーロ橋から龍王廟にかけ、永定河沿いに陣を張って、効果的な防衛戦を展開している模様。
成長したなあ、中国軍。
増兵されているとはいえ、たかだか8000人程度の支那駐屯軍が一人残らず出動中だとしても、戦う意志を持った数万人の第29軍兵士を屈伏させられるかというと、日本側も無駄のない陣形を構えて攻撃せねばなりません。
が、はたして日本軍にそんなドクトリンがあるのだろうか。反語です。
石原莞爾が、北平まで来て直接指揮してると仮定しても、彼に北平の土地勘があるか。
満洲をくまなく見て回り、住民と共に暮らした三年間あっての満洲事変。それと同じことを、内地にずっといた今の石原にできるとは思えません。
北平の地理に通じた現地参謀たちがいて、そいつらにやらせているとしても。
ちゃんと連携が取れているなら、まだ準備不足だと、石原、言うと思うんですよね。
以上の分析から、推察します。
今回の軍事衝突は、「満洲事変に憧れた劣化コピーたちによる杜撰な計画の所産」である。
先人の業績の、上っ面だけなぞろうとした模倣犯が、すでに変化、いや進化したドクトリンを持つ中国軍に、手ひどいしっぺ返しを食らっているわけです。
加えて、民間人の被害も相当に出ています。
満洲事変でも、兵だけでなく民間人にも死傷者は出ました。あのとき私は、青年同盟の人たちと、奉天市内で救護所つくって被害状況とりまとめて名簿作って申請出して、交代で瓦礫の処理もしたんですね毎日。
日本憎しの人たちとも、赦してはもらえなくとも、テーブルを囲む程度のお付き合いは続けてきました。
それもまた、満洲事変を最終的に成功させた、大きなポイントだったと思っています。
でも、まだ、わからない。石原はいま、どこで何をやっている?
内地にいて、北京のバカ共を止めたいなら、参謀本部にいるんだからすぐに手が打てるはずです。打ってない?
満洲事変とは状況が違うけれども、これもまた石原の計画に沿ったなにかであるなら、この先があるはずです。それは何か?
わかるまで、動けない。もどかしい。つらい。