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8月10日。正式に辞令が下りました。
石原莞爾中佐への昇進と共に関東軍作戦主任参謀を拝命。着任は10月より。
さっそく、宮本社長との交渉です。
まず、石原中佐閣下から、辞令の件と、満洲へ私を連れて行きたい旨、宮本へ伝えます。
ここで数時間の押し問答が展開され、結着つかないので、本人の意見も聞くべきだと、ようやく主役が呼ばれます。
神妙に、お二方の話を聞きます。
石原閣下は冷静に。宮本社長は、やや取り乱しながら。
私は答えます。
お二人のご意向はしっかり受け止めましたが、自分も今すぐここで結論は出せません。2~3日、考える時間をいただいてよろしいでしょうか。と下がります。
石原閣下が帰ったあと、宮本社長とまた面談。
「実際のところどうなの?もし、ちょっとでも、今の待遇に不満があれば、何とかするから言ってほしいし、たまに石原さんへ会いに行くくらいだったら全然大丈夫だから。でも完全にあっちへ行かれちゃうのは困るんだ……」
と哀願されます。
胸痛む思いで聞きます。
私の心はすでに決まっているので。
実際、閣下と示し合わせてる出来レースなので。
宮本社長を騙してるに等しい状況なわけです。心苦しいです。
私は生涯最高の恩人のひとりに、一生明かせない嘘をついている。
その申し訳なさをこらえながら、お言葉を聞いていました。
まる二日それが続いて、
さすがに社長いいかげんワンパターンの泣き言ばかりでうざいっすよ、あと何かといちいち私に気を遣って敬語で世話やくのやめてもらえませんか気持ち悪くて職場にいづらいです。
という気分になってきたところで、自分の意志を伝えました。
おいとまを、ください。
シンプルに。
そして、具体的な約束をします。
必ず戻ってきます。私の家はここです。
地下室は片付けてはいきますけど、そのままにしていただけると嬉しいです。
毎日とは言いませんが近況はこまめに報告します。
技術的な相談事でも手紙なり電報なり電話なり、ください。
ただし関東軍の人たちにいつ勝手に見られても問題ないよう、気をつけてください。我々にだけわかる符丁いっぱいありますよね。それを駆使して、のほほんとしたお便りだけください。
ときどき休暇をもらって内地へ遊びに来ます。サノのことよろしく。
ちなみにサノとはすでに、もっと詳細な符丁をいろいろ決めてます。
そんな段取りを全部まとめておいたので、社長も諦めが早かったです。
泣かれちゃいました。
ほんとに、申し訳ないです。でも、コダマは、必ず、戻ってきますよ。
しかも今より数段、支那にも世界にも明るい、スーパーコダマとなって戻ってきます。
生きていられればですけど。
そんな誓いを立てました。
さて、次なるプロセスは、私の引越の準備です。
持って行くものは、実は大して無いんですけど、今後は特別、気をつけなくてはいけないことが増えます。
私は旅順司令部の近くにアパートを借りて住む予定ですけど、関東軍の保護対象、イコール監視対象になるので、手紙も日記も含めてですが、不審な目で見られる要素は極力、排除したい。
勉強と情勢理解のため、日本の企業が支那語で発行している新聞を読むまではいいですが、アパートに支那語の本がやたらと積んであったら怪しまれるわけです。
まして、アカに関する文献なんて一冊でも持ってるだけでヤバい。
そんな世風なんです、今の日本て。
いやしかし、支那人が支那で日本語の本持ってたら、たとえそれが宮澤賢治の童話でも、日本語だっていうだけで即射殺されかねない支那事情にくらべたら、まだ言い訳の余地はあろう分、マシかなと思うところはありますけどね。
私は、今世では、日記ってつけないんですよ。
日特地下室ですら油断はなりません。17年間、警戒しながら生きてきました。
お手本は、華氏451。
速記文字も自己流です。
10月からは、その警戒レベルを上げます。くれぐれも慢心はしない。
こんな心づもりです。
考えてるんですよ。これでも。いろいろとね。