一度は凍結していたように見えた劇場版が息を吹き返すほど、長い時間をかけてしまったBlumenGartenもようやく完結しました。もともとは「小説家になろう」の二次創作専門チャンネル「にじファン」で完結したものを、ほぼフルリメイクで書き直したのが今作になります。当時不満であった点を重点的に改めることができた点には満足しています。それもすでに10年前の出来事で前作をご存じない方も多いと思いますが、前作はSEED編のみを予定していたため、急遽、Destiny編を執筆しようとしたことで無理が出てしまいました。それが、プラント側の主要人物、アスラン・ザラ、ギルバート・デュランダル、ラクス・クラインなどの描写の薄さに繋がってしまっていて、そのあたりの描写の強化が主な目的だったのです。
ただ、この10年でやはり感じたのは、自分の中におけるガンダムというものに対する熱が冷めていったことでした。そもそも、自分がガンダムという作品に感じていた、魅力やメッセージ性が、昨今のガンダムから感じられず、新作が出る度に期待を裏切られ続けてきたからです。約4年にわたって執筆が滞ったのも、言い訳にはなりますがそのことが理由に含まれます。
では、私の求めてきたガンダムとは何か?
それは、人に対する深い絶望と、それでも捨てきれない希望の物語です。
ガンダムにおいて描かれるのは戦争です。それは人が宇宙にまで歩みを進めて続けられる人類の宿痾です。富野監督は戦争を経験した世代であって、その愚かしさを体感してきた人のはずです。そんな人が、人はどこまで行っても戦争をやめられないと描くこと事態、人に対する深い絶望を感じさせます。
しかし、同時にガンダムにはイデオンに代表されるような他の富野作品にはない、希望のある終わり方が特徴です。
「ガンダム」ではホワイトベースのクルーを人の心の繋がりが救ったように、「逆襲のシャア」では心の光が地球さえ救ったように。
富野監督という人物は、人に一切の希望なんて抱いていないのです。ただそれでも、この人の中には、自分でさえ理解できない、得体の知れない希望が眠っています。人類なんてどうしようもない、それでも、なぜか、心のどこかで期待を捨てきれない、そんな葛藤がガンダムからは感じられます。
シャア・アズナブルはアムロ・レイに対して、「人類に叡智を授けて見せろ」と問いかけ、しかしアムロは具体的な方法を明示しません。富野監督自身、人がどのようにして戦争をやめられるのかわかっていないからです。
だとしても、富野監督は、人はいつか戦争をやめられるのではないか、そう考えています。自分でもその理由がわからないまま。
では、このことをテーマに作品を描くとしたら、それはどのような形になるでしょうか?
ここで、富野監督は嘘をつきました。「ニュー・タイプ」という荒唐無稽な存在を頼ったのです。人がニュー・タイプになれば互いに分かり合い、戦争を捨てることができると嘘をついたのです。
ただ、実際、そうでしょうか? たとえば、ある神秘の薬草を巡って2人の人が出会いました。2人はニュー・タイプです。お互いに大切な人のため、あと1人分しか残されていない薬草を必要としていたのです。そのことを、2人はお互いに理解しました。さて、どうなるでしょう? お互いがお互いに、「君は私に事情を理解してくれましたね。では、譲ってくれますよね?」と言って薬草に同時に手を伸ばすのではないでしょうか?
相手のことを理解できることと、相手を思って行動できることは別の話なのです。
富野監督はニュー・タイプが人類を救うなどこれっぽちも考えていません。単に自分の中の得体の知れない人類に対する希望、それをアニメ的に強引に表現したにすぎないからです。
富野監督はガンダムの続編制作をいやがったという話も聞こえてきます。これが事実なら、その理由の一つは、嘘がばれるからでしょう。いいえ、ニュー・タイプの嘘を描かなければならなくなるからです。
ガンダムゼータでは、その点が徹底していました。平和の担い手であるはずのニュー・タイプ、それを人工的に作り出した強化人間は平和どころか完全な戦争の道具でした。シロッコは優れたニュー・タイプであるその相手のことを理解できる能力を、自身のサディズムを満たすためだけに利用しました。カミーユ・ビタンとハマーン・カーン、この2人は精神感応によって互いを完全に理解した結果、戦いは激化しました。ハマーンの触れられたくない心の傷に、カミーユが土足で踏み込んだからです。
このように、富野監督による凄惨な子殺しが行われたのです。
実際、ニュー・タイプが何か平和に貢献するでしょうか?
相互理解と言います。私には、これがひどくおぞましい概念に思えてなりません。人は何か理解する際、理解できないものを必ず自分よりも下位のものと置換して把握しようとします。「訳わかんねえ!」という言葉が、自分の理解を超えたすばらしいものに対するほめ言葉に使われることはありません。「南蛮人」という言葉は、自分の理解の外にある人を野蛮人と決めつけたものです。人に人のことなんて理解できません。その人の価値観とはその人が体験した人生によって決定されるからです。その人の生きてきた軌跡なしにその人のことを知ることはできても理解なんてできません。
そして、理解できないからこそ、人は自分と異なる価値観、人生を生きてきた別人格を認識することができるのです。
反対に、他人を自分の理解できる程度のものに貶めてしまうことはそれだけで危険なのです。
富野監督は自分の中の得体の知れない希望をニュー・タイプとして誤魔化し、その嘘を後悔しました。そう、ガンダムとは嘘であり、ガンダムゼータとは告白なのです。そして、ダブルゼータを抜かして、逆襲のシャアでは回帰が行われました。
アクシズを地球に落とそうとした理由は、地球から宇宙へと人を移動させ、ニュー・タイプへの進化を促したかったから。そんなとんちんかんな解説をする方も散見されますが、そんな方々はあまり信用されない方がいいでしょう。必要最低限の理解力さえ備えていないからです。
シャア・アズナブルが地球寒冷化作戦を実行しようとした理由、それは、単なる無理心中です。彼はとっくに、ニュー・タイプが人類の希望などではない、単なる嘘だと見限っていました。
実際、シャア・アズナブルと言う人物の歩んだ人生は過酷です。早くに父を失い、そのことからも父の提唱したニュー・タイプという理想に傾倒していきました。ザビ家への復讐を誓い、戦争の中でこれこそが父の望んだニュー・タイプの姿だと思えるララァ・スンと出会い、また失いました。そして、グリプス戦役ではアムロ・レイに対して「お前はニュー・タイプの有り様を素直に示しすぎた」と危惧していたように、ニュー・タイプの戦争利用が活発に行われるようになりました。そして、バプテスマ・シロッコのような戦争を望むニュー・タイプの存在、カミーユとハマーンの相互理解の否定、そして、カミーユのような次世代を担うはずだったニュー・タイプが戦争に潰されていく現実を目の当たりにしてしまったのです。
シャアは、やがて父を否定しました。ニュー・タイプが人類の希望でないことに気づいてしまったのです。残されたのは圧倒的な悔恨でした。
父の理想を信じ、シャア・アズナブルと言う男はあらゆることに手を染めました。ガルマ・ザビという友人を裏切り、ハマーン・カーンと言う少女の人生さえ狂わせてしまいました。それもすべて、父の理想をかなえるためだったのです。
そして、まだ多くの人々がそんな嘘の理想に踊らされています。これが、シャア・アズナブルという男にとってどれほど腹立たしかったことでしょう。嘘に翻弄された自分を見せつけられているかのようで。
ここに、シャアによる逆襲が始まりました。
ハマーン・カーンのネオジオンを引き継いでいるとはいえ、シャアは戦争の道具でしかない強化人間を使用することに躊躇いを見せませんでした。父の理念を強力にサポートしてくれるであろう存在、つまり自分の母になってくれたかもしれないララァ・スンの死を目の当たりにしておきながら、クェス・パラヤを戦場に出し、最高のニュー・タイプと同じ死に様を経験させようとまでしています。ララァの死に苦しみ続けているはずの彼が、です。
このように、富野監督の絶望と悔恨によって刻まれた作品でした。
戦争を捨てられない人類に対する絶望を描き、自分でも理解できない希望をニュー・タイプと言う嘘で包みました。それが嘘八百だと知りながら。
そして、その嘘のすべて告白したのです。ニュー・タイプなど戦争の道具でしかない、相互理解が戦争を終わらせるどころか時に激化させる危険な概念なのだと。
最後に、そんな嘘の理想に踊らされる愚か者を相手に無理心中を図りました。
しかし、ガンダムにおいて人類は滅びませんでした。あれほど人類に絶望し、希望さえ理路整然と否定しておきながら、それでも、富野監督は人類を滅ぼせなかったのです。人への希望を捨てられなかったのです。
その点、結局、ガンダムと逆襲のシャアで描かれた顛末は同じことでした。戦争、あるいはアクシズという圧倒的な絶望を、心の声であったり光が打ち払う、そんな曖昧な救済が行われたのです。
ガンダムにおいて、進化した人類は登場させてはいけません。
富野監督は人に対して深い絶望を抱きながらも、それでも、人に戦争を乗り越えてほしいという願望をいつまでも捨てられずにいました。
それが、人類には対する深い絶望と、それでも捨てきれない希望の物語としてガンダムを形作ってきたのです。
もしもここで、新人類なんて登場させたらどうなるでしょう? 居もしない新人類に戦争根絶の望みを丸投げすることになります。
それは正反対のメッセージになるのです。
人に戦争は乗り越えられない。だからすべて新人類に任せてしまえばいい。それは、人類への深い絶望そのものです。希望なんてどこにもないのです。
富野監督が伝えたかったことは、人は戦争を捨てられない、それでも、戦争根絶の願いを諦めたくないし、諦めてほしくもない、ということなのです。
この価値観、考え方はすでに役目を終えた古いものにすぎないのでしょうか。私はそうは思いません。時代が変わっても普遍的に引き継いでいかなければならないテーマなのだと考えます。
しかし、近代のガンダムはどうでしょうか。
ガンダム00では、覚醒したイノベーターであるセツナ・F・セイエイによって世界は救われました。ユニコーンガンダムではガンダムと一体化し神となったバナージ・リンクスは世界を救う存在と描かれました。
ではお聞きします。
戦争根絶のため、私たちは何をすべきでしょう。
無理と諦めますか? それは富野監督が伝えたかったこと、示したかったこととは違います。
では、何もする必要がないのでしょうか。覚醒したイノベーターや、神となったニュー・タイプの誕生をただ何もせず待っていればいいのでしょうか。どうせ、人には無理な話だからです。
そして、現実として私たちが戦争根絶のためにすべきこととはなんでしょう? たとえどんなに無理に思えてもその思いを持ち続けることでしょうか? それとも、ありもしない新人類にすべてを丸投げにして諦めることでしょうか?
かつてのガンダムにはあって、今のガンダムが失ってしまったもの、それは戦争を見せ物にしているという罪悪感ではないでしょうか。
だからかつてのガンダムは戦争根絶に対する願いを、その作中に織り込みました。
だから今のガンダムは戦争という現実から目を背けているのです。いいえ、背けていることにさえ気づけていないのです。
ガンダムが受け継いでいるべき反戦の思い、それを失ってしまえばガンダムを名乗る意味がなくなってしまいます。自分たちが何を手放したのかさえ気づかず、安っぽいヒーロー・ショーを描くでしかない制作者たち、その程度の人々が描いたものにすぎないからです。
実は、私が初めて触れたガンダムは、機動武闘伝Gガンダムでした。そして、私はこの幸運に感謝しています。アナザーガンダムにおいて、この作品ほど、ガンダムの魂を受け継いだ作品はないと考えるからです。
マスター・アジアは強力でした。その圧倒的な力でシャッフル同盟を圧倒し、ドモン・カッシュさえ歯が立ちません。幾度もの敗北を味わせました。
それでも、ドモン・カッシュは倒れませんでした。
マスター・アジアとは人類に対する絶望の象徴でした。自然環境を破壊し、自らの欲望を満たすことをやめない人類に対する絶望そのものでした。それは、富野監督が一年戦争で描いた、圧倒的な絶望そのものなのです。
対してドモン・カッシュは弱い存在でした。それでも立ち上がり続ける存在でした。どれほど圧倒的な力を見せつけられても倒れない希望の象徴でした。
マスター・アジアと富野監督はよく似ています。人類に対する絶望を語れと言われればいくらでも語れることでしょう。それでも、マスター・アジアの前にドモン・カッシュが立ちふさがったように、富野監督の中にも潰そうとしても消えない希望がくすぶり続けたように。
ドモンも、希望も問いかけます。人はどうしようもない。それでも、まだ諦めるには早いんじゃないかと。
ガンダムとはあまりに無責任で丸投げされた、反戦の思いなのです。
敵がどれほど巨大か示し続けて、具体的な手段も教えないまま、それでも戦い続けることをやめないでほしいという。
でも、そんな思いが、ガンダムという作品群を形作ってきたはずなのです。決して、進化した人類にすべて託せばいいと諦めることなく。
それでも私は、そんな曖昧な願いの込められた作品こそがガンダムであり、他のロボット・アニメとは違う魅力にとりつかれました。
ここまで書けば、私がなぜガンダムの二次創作ではなくて、ガンダムSEEDの二次創作を描いたのか、おわかりいただけるかと思います。私はピカソの絵に筆を向ける度胸はなくても、クレヨンを握る園児からキャンパスを取り上げることに躊躇いはないからです。
もっとも、ガンダムSEEDは駄作としか判断できないのですが。戦争を描くとしておきながら、自分たちこそヒーローであり、自分に理解を示すディエイン・ハルバートンのような人物は有能な人格者、敵対するムルタ・アズラエルは無能な小物に描きました。まさに、私が危惧した相互理解の形です。自分たちが正しい以上、相手方は言いがかりをつけているだけと矮小化して捉えることしかできない、まさにニュー・タイプの問題点をまざまざと見せつけ、そんな連中が平和を語る滑稽さはもはや目も当てられません。
私の作品がプラントをさも悪役かのように描いていると感じられた方もおられるとは思いますが、別に原作としていることに大きな違いはありません。ただ、地球側の登場人物を増やしただけです。原作では、プラントの、より正確にはクライン派の主張にそぐわない人物は登場しなかった、その穴埋めしたにすぎないと考えています。
アスラン・ザラやパトリック・ザラのように血のバレンタイン事件の遺族は登場します。だから、ザフトの行動は悲しみに狂ってしまった悲しき悪なのです。
地球側では、1人としてエイプリルフール・クライシスの遺族は登場しません。だから彼らの蛮行は許されないのです。
なお、血のバレンタインの犠牲者は約20万人、エイプリルフール・クライシスは10億と言われています。
このように、私がガンダムSEEDを題材にすることには理由があったのです。ちょうど、小説を描く題材がほしかったこと、内容が稚拙でいくらでも改変する余地があったこと、ガンダムを堕落させた一翼を担った作品であったことなどなどです。
ただ、ガンダムSEEDが爆発的なヒットを飛ばしたことは誰の目にも明らかです。同時に、そのブームのただ中でさえ毀誉褒貶入り乱れたことも確かです。私はそこに不幸なすれ違いを見ています。
賛成派は、反対派を糾弾します。なぜ新しいガンダムを認められないんだと。では、本当にガンダムSEEDは新しい価値観だったのでしょうか。初代ガンダムをなぞった展開に、デザイナーズ・チャイルドというすでにSFでは取り上げられた設定、ガンダムそのものも当時でさえ20年前のものです。
では、なぜそんなものがヒットを飛ばすことができたのか、いいものだったからだという意見もあると思います。ただ、Destinyでそのブームが急速に去ったことをここでは付け加えるにとどめます。
反対派は、ではガンダムSEEDが新しいから認められなかったのでしょうか。その判断は半分正解で、半分間違いです。たしかにこれまでになかったガンダムであることは間違いないでしょう。ただ、そのこと自体が問題ではないのです。たとえば、これまで最低でも70点代を出していた作品が、いきなり30点になったらどう思いますか? たしかに新しい点数ではあります。ただ、そのことが問題なのではありません。低い点数そのものが問題なのです。
つまり、賛成派は、どうして新しい点数を認められないんだ、と主張していましたが、反対派は新しいかどうかではなくて低い点数を問題としていたのです。その落差が、なかなかかみ合わない議論に繋がってしまったのでしょう。
少なくとも私は新しいかどうかなんて問題にはしていません。それならGガンダムの方がよほど挑戦的だったと思いますし。
アスランがデスティニーには出演しなかたことが、やはり問題なのだと思います。
アスラン・ザラという人物は未熟な少年でした。世界を見ることもないまま父に言われたことを妄信し、母の死を嘆くだけの。しかし、いくつもの出会いが彼を変え成長させていったのです。
父に言われたから、カガリに、ラクスに言われたからと流されながらも成長していった少年だったのです。
ただ、アスランはデスティニー編でも同じことを繰り返しています。議長に言われたから、キラに言われたから、ラクスに言われたからとあっちこっちにふらふらとしています。
しかし、本来のアスランはこうではないはずなのです。多くの人に助けられて、ニコルの死さえ乗り越えて成長したはずだったのです。そしてそんな出来事から1年がすぎてさらに大きくなったアスランが、デスティニーには登場するはずだったのです。
ところが、結果はどうだったでしょう?
SEED編と何も成長してないのです。本来いるはずの成長したアスランが、Destiny編にはいるはずのアスランが存在せず、SEED編のままのアスランしかいなかったのです。Desitny編のアスランはどこにいったのでしょうか。
脚本家の無能と言わざるを得ません、人を一人の人としてではなくて、キャラクターとしてしか描くことができていないのです。結局、アスランを「迷いながら成長していく少年」というキャラで捉えることしかできず、人の変化を描けないのです。
ただ、SEED編まではそれで誤魔化しがきいたのです。過渡期と言い訳できたからです。それもDestinyにまで移ってしまえば話は別です。飽きられるというか、お話の稚拙さがメッキが剥がれるようにばれていったのが、Destiny編の失敗であった気がします。
他にもイザークやディアッカも同様です。そもそも背負った背景が何もないため、Destiny編ではいる意味がまるでありませんでした。
そもそも、シンについてもこれで主人公かわからないレベルの手抜きぶりでした。マユ・アスカって、必要な人物でしたか? 具体的には、妹である必要がありましたか? 別にマユ・アスカが姉でも話は通用してしまいます。一緒に逃げてた幼馴染であっても問題ありません。飼ってたネコでも話に与える影響が皆無なのです。つまり、主人公の設定の完成度が驚くほど低い。いまだにマユ・アスカというキャラクターの存在理由がわかりません。
同じこと言うならステラも問題です。Ζにはフォウ・ムラサメという似たポジションのキャラがいましたが、こちらはあくまでもサブ・キャラクターで、おまけに人工ニュー・タイプという、世界観に密接に結びつく重要な要素を持っているキャラクターでした。ただ、ステラは物語への重要度がより高められているにも関わらず設定量としてはフォウ以下になっています。ステラは地球連合の強化人間でなくて、プラントの開発した戦闘用コーディネーターにした方がもっと世界観に踏み込めたと思うんですけど……。実際、シンがデスティニー・プランを支持するということは、ステラのように戦いを望まなくても戦う力があるから戦場に送り込まれる悲劇で世界を覆うことになるのですが、そんな点も登場人物の造りこみの浅さ、そこから来る物語の薄さが問題でした。
そもそもデスティニー・プランやロゴス自体、伏線が必要な設定でもないので、第1話から議長が言い出しても通ってしまうんですよね。地球側の登場人物が驚くほど少なく、世論だとか地球側の反応を気にする必要がないので。シンとアスランの関係にしても360度回って同じ場所に戻ってくるというだけでしたし。シンがステラとの別れからデスティニー・プランについて何らかのアクションを起こす、などあれば前半と後半が繋がってくれたのですが。
実際、デスティニー・プランの説明のためにステラの存在は一切不要で、スキップしてしまえることが問題です。
とにかくお話の密度が薄いため、よく言われることですが劇場版の敵が誰になるのか、見当がつきません。地球連合をはじめとした敵の描写がまともにされていないことの弊害です。そもそも、コーディネーターをどこの誰がなんの目的で作ったのかもまだ不明のままというありさま。そのため、コーディネーターを創り出すまでの犠牲など、負の面を意図的に隠したまま、さもコーディネーターは薬物なしでは生きられないエクテンドッドのような失敗作とは違い、完成されているかのような不自然な扱いになってしまっています。
いまさら劇場版をするというならそんな点も解消してもらいたいところですが、せっかくなので展開予想をここでしてみましょう。
ギルバート・デュランダル議長の戦死にともなう大戦終結後も、世界は戦乱に明け暮れていました。大西洋連邦という大国が戦争によって疲弊し、重石の外れたことで各地で軍事衝突が勃発していたのです。
プラントもまた高みの見物とはいきません。それどころか、プラントの戦いは次第に常軌を逸し始めていました。戦争というよりは、まるで虐殺を目的とするような破壊行動が目立ち始めていたのです。
ジェネシスにエイプリルフール・クライシスと大量虐殺を繰り返してきた国のことです。だとしても、それは異常と言えました。
特にシン・アスカが率いる部隊の殺戮は徹底していました。非戦闘員を含めた、目につく人はすべて殺害に及ぶというスタンスで殺戮部隊として敵味方から恐れられていました。
この現状にキラ・ヤマトはザフトの指揮官の一人としてこの現状を憂いていました。しかし、ラクスを含めた上層部の動きは鈍く、シンの行動は事実上、容認されていたのです。事実、殺戮行為に手を染めるザフトはシンの部隊だけではなかったのです。
まるでプラントという国そのものが人を殺すことを目的としているような雰囲気が醸成され、世界各地で虐殺を繰り広げていたのです。
この現状に、キラは確信します。コーディネーターに何かが起きていると。
そんなときのことでした。ファースト・コーディネーター、ジョージ・グレンのクローンを名乗る人物からの接触があったのです。
直ちに指定された地点に向かうキラは、シンの部隊が街を襲撃している場面に出くわします。これはもはや戦いではありませんでした。その街には軍事施設などなく、逃げ惑う人々をガンダムの機銃掃射がひき肉へと変えている有様だったのです。
思わずとめに入ったキラに対して、シンは何と攻撃を加えてきたのです。もはや正気を失っているも同然でした。まるで殺せるならば誰でも構わないようにキラへと襲い掛かって来たのです。
応戦するキラですが、トップ・エースを相手に手加減などできるはずもありません。キラは全力を出すほかなく、シンの部隊を壊滅させてしまったのです。
瀕死となったシンは、キラへと詫びます。どうしても自分をおさえることができなかったと。キラには、シンが嘘をついているとは思えませんでした。しかし、人が突如、殺戮衝動に突き動かされることなどあるのでしょうか。
心に靄を抱えたまま、キラはジョージ・グレンのクローンを名乗る男性と接触することに成功します。その人物はなぜか、拘束具に身を包んでいる、異様ないでたちで現れました。彼は語ります、コーディネーター誕生の真実を。
それは現在より100年ほど前にさかのぼります。人類は外宇宙より飛来した小惑星に生物の痕跡を発見したのです。秘密裏に採取された未知の遺伝子は、SEED因子と名付けられました。研究を始めて間もなくSEED因子の有用性が明らかになりました。因子を生物に組み込むとその能力を飛躍的に向上させることがわかったのです。研究は進められ、ついには人間に組み込むことが提案されました。無論、反対の声はあったものの、結局、研究は進められることになりました。
SEED因子を組み込まれた人間は期待以上の性能を発揮し、その人物はジョージ・グレンと名付けられた個体でした。そう、ファースト・コーディネーターの誕生です。その後のことは誰もが知るところです。
しかし、近年になって火星の近郊から特殊な波長の電磁波が地球圏へと照射されていることが明らかになりました。この電磁波を受けたコーディネーターは、SEED因子に含まれていた特殊な遺伝子が活性化するのです。それは、殺戮遺伝子としかいいようのないものでした。
SEED因子を組み込んだ犬に電磁波を浴びせると、犬に対する異常な攻撃性を示すことが明らかになったのです。それは猫であっても変わりません。SEED因子の猫は、同じ猫を襲うのです。
SEED因子には、同種を殺害せよ、そう命じる遺伝子が組み込まれていたのです。
シンが、コーディネーターが虐殺行為に手を染めたのはそのためだったのです。エイプリルフール・クライシスでは10億、ブレイク・ザ・ワールドでは1億、未遂とは言えジェネシスでは90億もの人命を虐殺しようとしたコーディネーターの異常とも言える殺戮行為の説明がこれでついてしまうのです。
では、この電磁波とは何なのか、クローンはすでに仮説を立てていました。SEED因子そのものが罠だったのだと。人類がSEED因子を手にしたのは偶然ではなく、宇宙人による侵略の仕込みにすぎなかったのです。
その宇宙人は、侵略する星を定めると、まずSEED因子を送り込みます。その星の知的生命体は喜んでSEED因子を自身に取り込みコーディネーターを増やすことになります。そして、数が十分に増えたところで殺戮遺伝子を活性化する信号を送り込むのです。その結果、コーディネーターによる極端な虐殺行為が実行されその種は大きく力を落とし、その機を見計らい本格的な侵略に乗り出す。それこそが侵略宇宙人の計画だったのです。
クローンが自ら拘束具を身に着けているのは、SEED因子の影響をもっとも強く受けた人物のクローンであり、その影響をひときわ強く受けているからです。自らを縛り付けなければいつ人を殺害してしまうかわからないのです。
クローンは信号の発信源の座標を提示するとともに、キラこそが人類の希望であると告げます。
通常、コーディネーターは遺伝子調整を行ってもその通りに生まれてくることはありません。必ずバグが生じてしまうのです。それを克服すべく作られたのがスーパー・コーディネーターであり、偶然にもSEED因子から免れることができる唯一のコーディネーターだったのです。すなわち、コーディネーターに生じるバグとは、SEED因子が殺戮遺伝子を確保するために宿主を作り替えるがゆえに起きていたことだったのです。
しかし、ここまで語った時、施設が襲撃を受けクローンは殺害されてしまいます。
辛うじて脱出に成功したキラはただちにプラントに帰国、ラクスにすべてを伝えたうえでこの事実を世界に公表すべきと進言します。この世界は狙われているからです。
ですが、ラクスの反応は冷たいものでした。そんなことを発表できるはずがないと拒否したのです。コーディネーターが異星人に操られている、そんなことを公表できるはずがないのです。そんなことをすればプラントが掲げた理想も戦いもすべて異星人の侵略の手助けでしかなかったと示すことになるからです。
キラがどれほど言ってもラクスはききれません。彼女もまた、信号によって殺戮衝動に突き動かされていたのです。もしかすると、クローン殺害もラクスの手によるものではないか、そう疑ったところでどうなるものでもありません。
だとしても信号を野放しにはできません、極秘に特殊部隊が結成され、火星圏への遠征が開始されたのです。
途中、地球軍による妨害がありました。事態を隠したままでは、地球軍からは兵器を隠蔽しているようにしか見えなかったのです。
今ここで人と人が争っている場合ではない。そう考えるキラでしたが、その事実を相手に伝えることなんてできません。アスランをはじめとした特殊部隊の仲間たちは構わず戦いを始めました。信号が近づくにつれ殺戮衝動も抑えがきかなくなっていたのです。
そうして敵部隊を殲滅したのち、今度は仲間同士で殺し合いを始めたのです。もはや信号の発信源が間近でコーディネーターは誰であっても殺戮衝動に、人を殺したいという欲求に逆らうことができなくなっていたのです。
アスランは仲間をすべて殺害し、その刃をキラにまで向けます。かつて刃を交えた友に再び刃を向けることが、キラにはどうしてもできませんでした。しかし、アスランにキラの声は届きません。アスランを止められるのは、悲しい記憶だけでした。ニコル・アマルフィの死に、かつて友でありながら戦ったことが思い出されたのです。キラへと突き立てるはずだった、刃を自らへと突き立てたのです。
もはやこの広い宇宙にキラだけが残されたかのようでした。しかし、まだ何も終わっていません。信号を発する装置、それは巨大な機動兵器そのものでした。
これが、キラの愛する人も、信じた仲間も変えてしまったのです。
コーディネーターとは一体何だったのでしょう? その思いも戦いもすべて異星人の掌でしかなかったのでしょうか? そんなはずはありません。キラの流した涙も、乗り越えてきた戦いも決して嘘ではないのだから。
キラは戦ったのです。人の「自由」を取り戻すために。
破壊された巨大起動兵器を破壊したキラに勝利の喜びはありませんでした。たとえ信号装置そのものを破壊したところでこの戦争で命を落とした10億の命が帰ってくることはありません。異星人もまた装置の一つを失っただけで、その勢力は依然として健在なのです。
だとしても、キラのスーパー・コーディネーター技術を用いれば今後、SEED因子の影響を軽減することは可能でしょう。何より、人類はまだ生きているのです。
たとえ未来にどれほどの困難が待ちぬけているとしても。
こんな感じにすれば強敵不在とか火のついた火薬庫なんて呼ばれてる現状をどうにか誤魔化すことができるはず。
ただ、劇場版を私が見ることはないでしょうから答え合わせは他の人に任せるとします。まあ、コーディネーターに都合の悪い設定を出してくるとは思えないので絶対に違うと思いますが。エイプリルフール・クライシスがなかったことになったなんて話もききましたけど、さすがにどうなんでしょうか。
言いたいことの10%くらい言えたので、ここまでにしておきます。