はるか地平線のかなたから聞こえる音と弱弱しく灯るオレンジ色の光、他の誰にも分からなくてもコウはそれが何かを知っている。たとえ場所は違っても空気がなくても意味するものはただ一つ、モビルスーツと共に誰かが。
今、死んだ。
ありありと蘇る過去と行方不明になった未来。眉唾な予言の通りに始まったその攻撃の全てはニナに向けられたもの、このまま何もしなければ遠くない未来に成就してしまう絶望の結果。全身にみなぎる怒りとさまよい続ける心が彼の目を突きつけられた現実から遠ざけ、拳を真っ白に染め上げる。
「こんなっ! こんなことがっ! 」あっていいのか、と強く訴えたコウは必死で瞼の裏に浮かんだ明日を想像した。多分何事もない夜明け、何事もない景色、でももうここにニナは ―― いない。世界中のどこを探しても宇宙の隅々まで追いかけても彼女はもう手の届かないところまで行ってしまう、そう考えただけでも体中の血が逆流して気が狂いそうだ。そんな事になるのなら、そんな未来が明日訪れるのなら自分がここで生きていく意味はなくなる ―― 。
その瞬間コウは初めて自分がニナが生きているという事に甘えて今日まで生きてこられたのだという事を知った。
それはとても大事なもの、多分自分よりも。失ってしまうと考えただけで恐ろしいほどの喪失感に襲われるくらいに、心のよりどころとして自分の中のどこかにいた最後の希望。軍に絶望して捨て鉢になった自分をもう一度正しい道へと導いてくれた小さな道しるべ。
疑った事で辿り着いてしまった自分のわがままが彼女を傷つけ、笑顔を奪い、もしかしたら未来への希望までなくさせてしまったのかもしれない。彼女のために良かれと思って選んだ道が実は自分が逃げるための方便だと分かっていた。
どうして信じてやれなかった。なぜわかってやれなかったんだっ! 彼女とオークリーの小道でもう一度出会った時に、なぜっ!
「うあああぁぁっっ!! 」激発した感情が声になってコウの口からほとばしり、握りしめられたままの左手が大きく宙をなぎ払う。そしてその腕はテーブルの上に置きっぱなしになっていたボトルを跳ね飛ばして水屋へと叩きつけた。割れたはずみで立てつけの悪い扉が大きく開いて中に置いてあった薬箱が床へと投げ出される、はじけた中身が打ち寄せた波のようにガラスの海へとばらまかれた。
息を荒げて床の上の惨状へと視線を送るコウ、その時小さな音と気配が彼の耳へと忍び込んだ。そっと振り返ると彼のベッドの上で丸くなっていたはずのエボニーがいつの間にか上体を起こして丸い目で見上げている。
彼とは麦畑の中で出会った。
まだ幼い黒猫はコロニーの落着で親兄弟を全て失って、彼だけが奇跡的に助かったという話を農家仲間の人づてに聞いた。それ以来その子猫は誰にもなつくことなくたった一人で生きているのだという事も。
だがなぜか彼はよくコウの畑にやってきた。畑を耕している時に、種まきの時に、草刈りの最中に。彼はほんの少しだけ距離を開けてずっとコウの作業を丸い目で眺めていた。手を出せば怯えたように逃げるのだがまたすぐに近寄ってきては同じように、コウが家路に着くまでの間、ずっと。
二人の関係が大きく変化したのはその子猫がどこかの畑で機械に巻き込まれて大けがをした時だった。コウは慌てて彼をバイクに縛り付けて病院へと突っ走り、今日明日の命かもしれないからという医者からの安楽死の勧めも押し切って二日間寝ずに看病を続けた。彼を一人にしてしまったのは自分のせいだと言わんばかりの覚悟で。
三日目の朝、看病疲れでうとうとしていたコウの頬を優しく舐める子猫がいた。おぼつかない足取りで、それでも何とか命の恩人に自分の気持ちを伝えたいと思ったのか彼はコウが目覚めるまで何度も何度もそれを繰り返して。
足に残った大きな傷が消えることは二度と、しかしエボニーは何の不自由もなくコウのそばにいる。その彼があの時の目でじっとコウを見つめていた。
「 …… ごめんよ、おこしちゃったか」優しい顔でそうつぶやくとコウは足元に散らばったガラスの破片を拾い始めた。大きな破片を拾い終わって小さな破片をほうきで集め始めた時、彼は部屋の隅に転がっているガラス片に気づく。まだこんなところに、と何げなく拾い上げた時、それはコウの視線を思い切り縛りつけた。
見慣れないバンドエイドは月の光にきらめくガラスの破片の下にある。そっと摘んで裏返すとそこには、絶対に忘れようのない文字で、小さく。
“ もう怪我しないで ”
唐突に巻き戻されていく記憶。 ―― そう、あの日。
たった一日、それもほんのわずかな時間。でも自分は確かにそこに安らぎをひしひしと感じていた。怒った顔、笑った顔、悲しい顔。くるくると変わる彼女の表情のその全てがたまらなく愛おしかった。
そして ―― 。
それに気づいた時コウははっと顔を上げて慌ててエボニーを探した。彼の姿はもうベッドの上にはなくニナが座っていた椅子の上にあった。くせのある座り方で前足を揃えた彼はじっと同じ目でコウを見上げる。
誰にもなつかないはずの ―― ヘンケンにも、セシルにも。だがニナだけは違った。エボニーは確かにあの時、初めて出会う彼女の足に自分の顔をすり寄せたのだ。まるで昔から知っているような、本当の飼い主であるかのような仕草で。
彼は、確かに。
―― 彼女はあなたの家族じゃないの? 彼はコウにそう言っている。気のせいなのかもしれない、気の迷いなのかもしれない。だが月明かりだけが差し込む静寂の中で啼くこともなく、じっとコウを見上げるその大きな瞳はコウの決断を後押ししようとしていた。まぶしいくらいにまっすぐな金色の目が。
心の中で滞っていた何かがごうごうと音をたてて流れ始める、コウはじっと天窓に姿を現した月を見つめてほう、と大きなため息をついた。迷いもためらいも全てその一息の中に込めて吐き出した彼はじっとコウを見上げたままのエボニーに視線を戻して優しく語りかける。
「 …… ありがとう、エボニー」笑いながら一つうなずいたコウは優しくエボニーの頭をなでる、満足したように小さく喉を鳴らす彼に向ってコウは 、告げた。
「 …… 迎えに行って来るよ、ニナを」
ベッドの上に戻ったエボニーに見送られてコウは出口を走り出る、明かりは消して扉の鍵は開けたまま。蒼い月明かりに浮かぶ麦畑はもうすっかり刈り取られてまるで原野のようだ、だがその景色がいつも見ていた物とは全く違っているのはなぜだろう?
すぐ脇にある小屋へと飛び込んで雑にかけたシートを引き剥がすとそこにはいつもと変わらない輝きを放つコウの愛機が眠っている、キーを差し込んで思いっきり右に回すと獰猛なそれは目覚めたように赤いランプを光らせた。セルを回したとたんにうなり声を上げるそのエンジンはかつて大昔にその名を馳せた名門ドゥカティ、L型2気筒1100ccは後方へと延びるマフラーからその咆哮を存分に夜空へと吐き出す。
「頼むぞ、モタード」声をかけたコウの左足がギアを踏み込みリンケージが動いて一速に。クラッチを繋ぐとその獣は解き放たれたように小屋の外へと飛び出した。自重200キロを超える暴れ馬をコウはみなぎる二の腕と巧みなハンドルさばきで一気に荒野の中を貫く畔道へと導く。
跳ね上がるタコメーターの針と跳ねあげる左足と。ギアが上がる度に本領を発揮するハイパーモタード。エヴォリューションの名を冠したそのマシンは重い車体をいとも簡単にコウの体ごと未曾有の領域へと運んでいく。タンクを彩る赤と白はそれがかつてカテゴリーの絶対王者であったという印、過去の誇りを証明するためにモタードは持てる全ての力を使って主人の今までの努力にこたえようとしている。
だがその頑張りがコウの視野を徐々に変える、景色がゆっくりと流れて足元から響くエンジン音が低くなっていく。それは速度があっという間に危険な領域へと突入して命が危険にさらされ始めたという事と同時に自分の体のどこかに巣くっている『奴』がそれを察知して体を支配し始めたという事だった。だがコウはあえてそれに抗おうとはせず、むしろその恐るべき力に自分のすべてをゆだねたままライトの照らす先の闇を凝視する。荒れた路面に一本しかないリヤサスペンションの減衰はすでに限界へと近付いている、タンクを両膝でこれでもかと押さえつけて彼はパイロットとしての能力全開で今にも崩れそうな車体のバランスを保ち続けた。
間にあうのならばどうなってもかまわない。俺がほしいのならくれてやる、そのかわりお前のその力を俺によこせっ! たとえこのまま人を傷つけるだけの獣になってもいい。でもあの時と同じようにこの右手だけは絶対に緩めないっ!
そこに辿り着くまでは、ニナを取り戻すまでは。絶対にっ!
光の矢のようにオークリーへの一本道を突っ走るコウのモタード、しかしコウの目ははるか彼方の暗闇に光る赤い点滅を捉えていた。地元警察の検問だと理解してブレーキを握るまでのわずかの間に魔力に支配された彼の脳は目まぐるしく次の手段を幾通りも模索する。強行突破か、それとも迂回か。
強行突破を試みればその辺で同じように検問を張っている警官を呼び寄せてしまうだろう、しかし迂回路はオベリスクを大きく回って今の倍以上の距離 ―― 。
いや、ある。たった一つ。でもその道は。
迷っている暇はなかった。コウはハンドルを左に切ると脇へと伸びるもっと小さな畔道へとモタードを乗り入れる。ライトを切って月明かりだけで走るにはその道はあまりにも狭く危うい、だがそれでもオークリーに最速で届くその道を誰にも気取られずにたどり着くにはここを通るしかない。
あの時のようだ、ガトーを探してたった一人で三号機のコックピットに座っていたあの時と。真っ暗な宇宙でかすかな星明かりを頼りに俺は必死で奴の居場所を探した。そこに辿り着くまでの道は細くて険しい一本道、なにも言わないモニターと悪戯に過ぎてゆく時間と。
そんな時でも俺は彼女の声に救われた。ニナはそうやって何度も何度も俺に救いの手を差し伸べていたはずなのに、俺は。
パトランプの光が遠ざかってコウの視界から消えたところで現れた十字路、彼は迷わず針路を右にとる。そのまままっすぐ行けば選択肢として除外したオベリスクの周回路に、T字路を左に曲がって少し行った先に目的の場所がある。
そこはオベリスクの脇を通る軍関係者以外誰も知らない基地へのショートカット、ヘンケンがこっそり使うその道をコウは知っていた。だがアイランド・イーズ落下の爆心地であるそこは地形が大きくえぐれて波打ち、粉々になった岩が大小の瓦礫となってあたり一帯を覆い尽くしている。四輪駆動車ならともかくこいつで行くには ―― 。
「 ―― もう、ここしかない ―― 」曲がる事すら困難なグラベルを目の前にしてごくりと喉が鳴る、しかし彼はそのまま一気呵成にモタードを右へと傾けた。開きっぱなしの錆ついた門が道行きの険しさを暗示する、しかしコウはそのまま車体を滑らせながら猛然とその荒野へと突っ込んだ。ドリフトに長けたマシンといえどもグリップのほとんど効かない砂利の上を駆け抜けるのは至難の業、コウの視界が一気に左へと流れたまま止まらない。
「くそっ!つかめっ! 」空転する後輪が星空を覆い隠すほどの土煙を巻き上げて悲鳴を上げる、ここで倒れればおろし金で卸したよりも酷い事になるだろう。右側に迫る地面を身近に感じながらコウはアクセルを煽ってドリフトのコントロールを試み、そしてそれは間一髪成功した。前後に履いたミシュランのごついトレッドは石つぶての下に隠れたわずかな地面を思いっきり掴んで後方へと蹴り飛ばす。体勢を立てなおしたモタードから再び灯るヘッドライトが指し示す忌まわしいオベリスクの根元へと向かいながらコウはその先で見え隠れするほの明るい地平線を睨みつけた。
* * *
ディスクを握りしめたニナが立てた膝に手を当てて渾身の力を込めた。こめかみがずきずきと痛んで全身の関節はきしんで動き辛い、でも。
―― まだ走れる。
ラップトップを拾い上げたニナが思いっきり廊下を蹴った。何度も足がもつれて転びそうになりながら、それでも必死に通路の端を目指して瓦礫の海を駆け抜ける。逃げ切れる自信なんかない、生きる事はもっと。だけど。
何でもいい、あたしが今日生きるための理由を。
コウがマークスに譲ったシャツを彼に返すために、前へっ!
男が仕掛けた爆薬の破壊力は彼が想定していたよりも強く激しいものだった。モンロー効果によって吐き出された衝撃波は確かに耐爆扉の破壊には成功した、が通路で圧縮された空気が出口側の扉まで吹き飛ばしてしまうとは考えてもいなかったのだ。照明ごと廃墟と化した通路内を彼らはハンディライトで照らしながら、そしてそこにあるべき女の死体を捜しながら出口まで歩かざるを得ない、その時間がニナがその場から逃げだすために役立った。
「いたぞっ! 」ポイントとして先行していた兵士の叫び声に導かれた分隊は渡り廊下を駆けていくニナの姿を見るなり一斉射撃を始める、しかし廊下のガラスが全部壊れるほどの弾で追い撃ちをかけても彼女の足を止める事は出来なかった。狩りの獲物になったニナはそのまま次の建物へと飛び込むと見せかけてすぐ脇の階段から上の階へと消えていく。
「ちっ、さすがに賢い」
苦虫をかみつぶした男がそうつぶやいたのには理由がある、もし彼女がそのまま次の建物へと飛び込んだのなら自分達は壊れた壁から部隊の半分を送り出してそのまま挟み撃ちにできた。だが階上に上がった事で自分達は彼女の後を追わなくてはならない。なぜならその建物には階段が一つしかなかったからだ。
もしかしたら撤退したこの基地の陸戦兵たちがこの上で待ち伏せしているかもしれない、その可能性を考えるとウサギ狩りよろしくめったやたらと獲物の後を追いかけるのは危険だ。
「こちらの動きは限定されるが追わない訳にはいかないからな。全員全周警戒で女の後を追うぞ、各階での敵のアンブッシュに注意しろ」
つづら折りに各階に設置された階段はそこが本来のオークリーの格納庫であった名残でもある。今は増えてきた兵士の数に対応するために建て替えられて夜勤専用の仮眠所等にはなっていたがなぜか通路の構造はそのままになっていた。雨の日になると陸戦隊やらマークス達が混じってこの廊下を走っているところをみるとここを設計した誰かはこの建物を雨天用のトレーニング施設にしたかったのかもしれない。ゆえに五階まであるその通路を全力で走る事は普段運動していないニナには厳しかった、現に太ももはパンパンに張ってふくらはぎは今にも痙攣しそうだ。
それでも彼女は一縷の望みをその出口に賭けていた。次の建物に通じる連絡通路は一階と五階、そこから次の建物に侵入してもすぐに非常ハッチが待っている。つまりメインサーバーにハッキングをかけてハッチを開けるまでの時間をどうしても確保する必要があった。一階ではその時間をあの状況で確保する事は難しかった、でも最上階まで登ればもしかしたらその時間が稼げるかもしれない。
中央電算室の扉を通り過ぎてつきあたりの階段を駆け上がって五階の廊下に、そこからは出口まで一直線。
顎が上がって息が苦しい、みぞおちの辺りが猛烈に差し込む。しかし残りわずかとなった体力が底を尽く前に彼女はなんとかそこに辿り着いた。古びたドアノブに手をかけて思い切り握りしめる。
だがそこだけがニナの予想に反していた。今まで閉まったところなど見た事のないそのドアが、びくともしない。
慌てたニナが何度も何度もドアノブを捻るがカチャカチャと音を立てるばかりで開こうともしない、全ての体重をドアに預けても薄っぺらな鉄の板は何の反応も示さない。おろおろと途方に暮れたニナがせめてどこかに隠れなければとあたりを見回した矢先にその声は聞こえた。「主任か!? 」
すぐ脇のドアの陰から声の主は廊下へと飛び出してきた。軍服の上着の裾はズボンの外に出したまま、いかにも慌てて身支度した形の男はアサルトライフル片手に部屋のベッドをニナの前へと押し出した。
「トンプソン曹長!? 」びっくりしたニナが彼の名を呼ぶ、かつてコウが出て行くのを止められなかった門番の名を彼女ははっきりと覚えていた。
「俺がしんがりだと思ってたがまだ後ろがいたとはな。まだ誰か残ってるのか? 」そう尋ねるトンプソンにニナは小さく首を振る。「そっか。 …… ずいぶんと派手にやられちまったモンだ」
淋しそうな口調で彼はそうつぶやくと急いで部屋の中へと取ってかえして小さな弾薬箱を持ってきた。スナップを外して鉄の蓋をあけると中には装弾された予備の弾倉が整然と並んでいる。トンプソンはそれを取り出してベットの影に並べた。
「しかし俺も逃げだそうと思ったら足元で大きな爆発がしてここの扉がこのざまだ。ま、それでも主任がここまで来れたのなら運がいいのやら、悪いのやら ―― チッ、もう来やがった! 」肩づけにしたライフルから弾が三発、反対側の通路の壁を削って火花を散らす。撃ち返してくる弾は拳銃弾にも使われている9ミリ、その弾ではこの鉄製のベッドは抜けない。
「曹長、このままじゃ ―― 」ぷすぷすとマットレスにめり込む着弾に頭を低くしたニナがトンプソンへと目を向けると彼は少し深刻な声でニナに訪ねた。
「主任、あんた銃を握った事はあるか? 」
驚くニナの目の前に差し出された拳銃は彼女が見た事もない形をしていた。連邦の制式拳銃とは一線を画した無骨なフォルムと銃口の大きさ。蒼く光るスライドにはかすかにコルトの字が見て取れる。「こいつでドアの鍵を撃ち抜くんだ、ほんとは俺の仕事なんだが今回は主任、あんたに譲ってやる」
「でもその後は? いつまでもここで敵の足止めなんてできっこない」
「俺はC-4を三分の一だけ預かってる、あんたと俺が連絡通路を抜けたら向こう側からこいつでズドン」そう言いながらもトンプソンは正確な三点バーストで敵の頭を押さえている。「な? 簡単だろ? 」
あっさりというと彼はライフルの引き金を引きながら左手でその拳銃をニナへと差し出した。ずっしりとした鉄の重みと冷たさに驚きを隠せない彼女に向かって鋭い口調で指示した。「セフティは外してあるからスライドを引いてっ! グリップは絞り込むように両手で握るんだ、手を伸ばして照準を合わせてっ! 絶対にひじの内側が自分の方を向かないように、45口径だから反動がすごいぞっ! 」
まるで教官のような口調に「はいっ! 」と大きな声で答えてニナは彼の口調の手順通りに銃を構えた。「引き金はそっと、強く握るなっ! 」
「はいっ! 」
こんなものを建物の中で撃っちゃだめだ、とニナは思った。
* * *
「一番二番、キャニスター装填。目標、敵施設任意」ハンプティの指示に従ってAIは忠実に命令を実行する、タンク後方の扉が開いて今までとは一風変わった弾頭が薬室へと送り込まれる。「どうやらブージャム達がハンガーに辿り着くまで彼らの援護ってところか」
「 “ ならば俺はここでは用なしだな ” 」今後の展開を退屈そうに予測するハンプティの耳にラース1の暗い声が届いた。「 “ じゃあここからは俺も時間つぶしをさせてもらう ” 」
「 ―― 明確な命令違反だな、そりゃ。ダンプティがお前に割り当てた仕事は俺の護衛と弾着観測、不測の事態に備えて指令車との連絡中継。それ以外の行動はぜーんぶ命令違反だ。違反を犯した者がどうなるかはお前が一番よく知ってるはずだろう? 」
「 “ 知っている。では ―― ” 」ラース1はするりと黒塗りのマチェットを腰のハードポイントから外すと瞬時に隣に立つガンタンク最上部のコクピットめがけてその切っ先を突きつけた。「 “ なぜサリナス組は生きてこの作戦に全員参加している? ” 」
砲撃手はいかなる状態に置かれたとしても常に冷静沈着でなければならない、ハンプティはモニターに映り込んだマチェットの切っ先を横目で見ながら冷や汗を流した。「まさかそれで俺をズブリ ―― ってこたぁねえよな? 」
「 “ 見逃してくれるのならばそんなことはしない。だがお前は俺たちを最後に殺すためにこの丘の上に陣取った。全員の姿を常に射程の中に収めておけるこの場所をな ” 」
「ご明察。で、お前さんは俺に命乞いか? 」白状したハンプティの表情はAIと繋がる巨大なバイザーに隠されている、だが命令を下すためにむき出しになったその口が強がったように大きく歪んで笑った。
「 “ 無意味だな、俺たちはもう死んでいる。一人残らず ” 」
崖を滑り降りる黒いクゥエルの背中を眺めながらハンプティはほっと溜息をついた。どうやら当面の間の命は保証されたらしい、だがこれからが問題だ。むざむざと命令違反を見過ごした自分の事をダンプティが知ったらどうなるか、多分この作戦が終わった後に自分もラース1と同じ裁定が下るだろう。それを回避するにはどうすればいいか? 最も確かな方法はどういう形であれ彼を撃破する事だ、だが自分を狙っているのが俺だと知ってしまった以上彼のスキルを超えて狙撃を成功させることは難しい。なんせ至近距離からの銃撃でも何なく躱すだけの技量と機動性能をあの機体だけは持っている。
「 …… 一応ダンプティには状況を説明しといたほうがいいか」
「どうも今回は予想外の事が多すぎますな」ハンプティからの通信を切ったケルヒャーがしみじみとこぼした。「ラース1が持ち場を離れるとは …… だから私は反対したのです。最前線でこそ持ち味を発揮する彼を最後方に置くなどどだい無理な話でした、それなのに貴方は ―― 」
「時間つぶしをする、と言ったのだろう? 奴は」ケルヒャーの訴えに答えるダンプティはにやりと笑った。「それでいい、奴をあそこに置いた甲斐があった」
「どういう事です? 」
「もっともらしい理由をつけてラース1をあそこに配置したのには他に訳がある。遠目から施設全体を見渡せる場所で初めて効果を発揮する、奴の持つもう一つのスキルが役立つ。ただどこに行くかまで教えてくれればよかったんだが」
派手な爆発で照らし出された滑走路、炎を吹き上げるゲルググの陰から飛び出したモビルスーツの影を彼の夜目は見逃さなかった。一瞬だけ点火されたバックパックから伸びる炎、機種は分からないが機数は三。そして彼の勘がこうささやいた。
後ろに続く二機のうちのどちらかが ―― アデリア・フォス。
やっと、やっとっ! 誰にも邪魔されずに俺の望みがかなう時が来た。勝つにせよ負けるにせよ俺は今晩ここで死ぬ、だから最後の最後に訪れたこのチャンスを絶対に逃す訳にはいかない。あいつが俺を殺して俺をこの地獄から解き放ってくれる、そして俺はあいつを殺して俺の代りに背負った罪からあいつを解き放つ。そうしてベルファストから続いた俺の願いはやっと叶えられる。
つらかったぞ、苦しかったぞっ! お前もそうだろうっ!
だがそれも今晩で終わりにしよう、お前の正義がお前を全部焼きつくしてしまう前に、俺がお前を穢してやるから待っていろ。
アデリア・フォスっ!
ガンタンクの砲身が動き始める、仰角を大きく取ったそれは装填したキャニスターに仕込まれた子弾を最も効果的に散布できる高さに照準を固定する。「仰角よし。AI.高度100メートルで散布するように設定」
命令を受けたAIから確認と調整が終了した緑のシグナルを目にしながらハンプティはさっきの通信を思い返していた。幾通りもの言い訳と対策を考えていた彼に肩透かしを食わせるダンプティの無関心な反応、まるでそうなる事をあらかじめ知っていたかのような返答に彼は一抹の不安を覚えた。命令違反を二つも見逃すなんていつもの隊長らしく、ない。
もしかしたらラース1の反応こそが彼に与えられた本当の役割だったのか? じゃあ奴は俺の護衛と言う任務を放棄していったいどこへ向かったんだ? タンクを単機で置き去りにするなんて戦術の常道から大きく外れている、もしこんなところに敵が飛び込んできたりしたら ―― 。
「 ―― なーんてこと、ないない。来たら来たで返り討ちだ」すでに衛星使用の許可はもらった。これでどこから近づいてこようとすぐに敵の位置も粛清対象の位置も捕捉できる、奴の腕や勘に頼らなくても。
「一番先行、二番はその三秒後。キャニスター発射用意」
「全員に達する、敵のモビルスーツがどうやら動き出した」ダンプティに先行して傍らに立つトーヴ1のクゥエルに火が入る。「現在ラース1が迎撃のために会敵地点へと移動中、これに伴って敵の戦力は漸減したものと思われる。本隊は作戦をサードフェイズへと移行、敵敷地内前縁に布陣して突入準備に入る」
「いよいよだな」アイドリング位置からミリタリーまでパワーゲインしたダンプティが命令を終えたケルヒャーに声をかけた。「ここからが本当の作戦だ、うまくいけばいいが」
「 “ 予定外も含めてまだこちらの想定内です。ただこれ以上状況が悪くなるならこれはもう実戦経験による直感に従わなければならない ―― 大丈夫、頼りにしてます。そうなった時のための、貴方だ ” 」
「誰かの上官と言うのはしんどいものだな、これなら従っている方がよっぽど気楽でいい」ダンプティはそう言うと偽装用のケブラーシートを自らの手で払ってゆっくりと立ち上がった。
* * *
こんな音は今まで聞いた事がない、バックパックを全開にしたってこれには遠く及ばない。
真っ白になる視界と肩が抜けたかと思うほどの激しい反動、大きな銃口から吐き出された炎と金属が粉々に砕ける音、その全てが一瞬。銃を握った手が大きく持ちあがって尻もちをついたニナが目を白黒させて天井を拝む、通路と言うトンネルを席巻した射撃音は敵味方の交戦を一時的に中断させてしまったほどだ。
耳がキンキンして音が聞こえづらい、しかし一時的に難聴になった彼女の耳に次に聞こえたのは硬い金属が床へと転がる音だった。素早くマガジンを交換したトンプソンがニナへと視線を送る。
「上出来だ、主任」くいっと顎でドアを示すとそこにはつっかえた物がなくなって大きく開いた鉄の扉があった。渡り廊下の向こう ―― 管理棟までの道は完全にクリアだ。
「さ、早いトコ行った行った。ここじゃ主任にゃ用事はないがあっちはあんたが来るのを今頃首長くして待ってるはずだ、ここの時間稼ぎは俺に任せて早いトコ渡っちまってくれ」
ニナが小さくうなずくとトンプソンはにやりと笑って引き金を引く、三点からフルに切り替えた弾着が廊下の向こうで火花を散らす。「五秒っ! いけっ主任っ! 」
連続する射撃音を背にニナが渡り廊下へと駆け出した。多分このワンマグを撃ち終えるまでに彼女はここを渡り切るはず、それから自分は ―― 。
その時トンプソンの耳に昔嫌というほど聞いた恐ろしい音色が飛び込んできた。空の上から徐々に大きくなる笛の音、それは彼を、彼らを何度も窮地に陥れ大勢の仲間を一瞬で殺戮した、あの忌まわしいっ!
「! クラスターだっ! 主任、走れぇっっ!! 」