頬を濡らした涙を袖で拭った彼女が呟くその言葉にコウは驚きを隠せなかった。たとえ小さくとも人には全く届かない領域で演算を行う供給端末、果てしない進化を遂げる人類の英知の塊にも解析できないその暗号を彼女は家の鍵でも開けるかのように言う。
しかしコウはそれが嘘偽りや出まかせの類のものではない事を知っている。他の事ならともかくプログラムやシステムに関して職人として携わってきた彼女が嘘をつく必要はない。モビルスーツの運用に一切の妥協を許さなかった自分と同じように彼女もまた専門職としてのプライドがあるのだ。
そんな彼女が自分に向かって口にした『開ける』 ―― 『手伝う』でも『試す』でもない、つまりニナはこの暗証を自分の力で即座に開くことができると言っている。それを実現するための様々な可能性を脳裏で思い浮かべるコウ、正当な物から邪な物まで数々立ち並ぶ中で彼はすぐにその文言へとたどり着いた。
『 ―― 彼女が『ニュータイプ』だからだ。オークリーが抱えた秘密兵器、それがニナ・パープルトンその人なのだ』
電話の向こうに立つその男から聞こえてきた不愉快な言葉。一企業に勤めていた、他の人よりほんのちょっと才能があるシステムエンジニアのどこかで眠ってきた神秘の力 ―― 誰もが夢物語だと思いながらも現に現れたならと思い焦がれる、世界を変えていく力。
本当に? ニナが?
「でもそのかわり条件がある」涙を拭き終えたニナは眩しいくらいの輝きに溢れるその蒼い瞳を真っすぐにコウへと向けた。「あたしがあなたと一緒にこの機体に乗り込む。それが条件よ」
「ばかなっ! 君は自分で言っている事がわかっているのか!? 俺がいつどうなるかもわからないのにそんな事っ」
「だからだわ」そう言うとニナはそっとコウの体に両手を回して自分から抱きしめた。耳を押しあてた分厚い胸板の下で彼の鼓動が速くなっていくのが聞こえる。初めて自分から手にしようと望む、愛する者の命の営み。
「あたしがそこにいる限り、今日のあなたは死ねない」
彼女が放った覚悟にコウの体が頭の先までしびれた。それは命をかけるというよりも命を共にするという、重い ―― 。
「 ―― 今日だけじゃない、あたしがあなたの傍にいる限り、あなたは死ねない …… あたしがあなたを、死なせない」
あの日。
オークリーのあぜ道で自分自身に誓ったあの言葉をあたしはもう一度、心の底からあなたに誓う。
あたしはあなたの ―― 本当の枷になる。
* * *
スカイブルーの制服に身を包んだ彼女は誰よりも真剣で自分が目指した目標に対して貧欲だった。一号機以下の試作機全ての基礎理論を構築したアナハイムのシステムエンジニア、そして二号機奪還作戦に帯同するためにアルビオンへと乗り込んだただ一人の民間人。ガトーになすすべもなく退けられた事への劣等感と仲間を殺された復讐心で一号機に乗り込んだ自分を体のいいテストパイロットとして利用した彼女 ―― コウはその事を知っていた。
だが一号機の運用試験という名の実戦を通じて繋がる彼女の本当の姿は決して冷淡冷酷な責任者ではなく、人も機械も共に同じ次元のものだと平等に愛情を注ぐ博愛精神に満ちた物だった。次々に降りかかる難問や障害 ―― それはコウがシーマに宇宙で一方的に袋叩きにされた時も含めて ―― を乗り越えて必ず最適解を導き出す、そこに至るまでのアプローチがどんなに苦しくても歯を食いしばって這い上がろうとするあり方。そしてこれ以上ない最高の答えを探そうとするその生き方がコウにはとても眩しかった。どこかあいまいな覚悟で物事をやり過ごそうとする自分とはまったく対極にある彼女の生きざまは彼の人格を、戦い方を時と共に変貌させていく。
それが彼女の影響であると分かった瞬間にコウは彼女に惹かれた。
コウはその全てを落着直前のアイランド・イースで失った。傷を負ったガトーと共に自分の目の前を通り過ぎるニナ、ハッチの向こうへと消えていく二人の背中に手を伸ばす事さえできずにただ理不尽を嘆くだけの自分。不甲斐なさを噛みしめて彼女が心変わりした理由を自分の内へと自問自答する日々は、あの小道で出会う瞬間まで続いた。
作り笑いを浮かべながら自分の下へと駆け寄ってくる彼女は自分が憧れたニナではなく、最後に出会った時の彼女のままだった。そして彼女が頼ったガトーはもうこの世にはいない。
変わってしまったニナを見てなんとか元の彼女に戻ってほしいと願い、しかし自分の拙い人生経験ではどうしていいのかもわからない。唯一できる事と言えば ―― 。
モビルスーツに乗る、と彼女に言った。
あんなに強がりだった彼女が自分に向ける愚かしいまでの優しさと一途な思いやり、出会った頃には知らなかった彼女の内面に触れた自分に訪れた突然の病。モビルスーツに乗ってもう一度あの日の彼女を取り戻したいと思う願いも誓いも全てがだめになったと思い知らされた時にコウは存在価値を見失った。彼女の世界に加わることすらできなくなった自分の居場所はもうどこにもないのだと ―― そして何よりも自分の価値を値踏みされてしまう事が怖かった。対等であったはずの天秤が大きく傾いてその惨めさを押し隠すためにいつも喧嘩に明け暮れる自分を支え、慰めてくれるニナ。
苦痛と屈辱の日々 ―― 逃れるために選んだ予備役、それが二人のために一番正しい道だと信じて。
その全てが間違いだったのだとコウは腕の中にいるニナを抱きしめて気づいた。
自分の決意も覚悟も、それら全てをねじ伏せる強さを掲げる彼女こそコウが取り戻したいと願ったあの日のニナ・パープルトンだった。大海原で波頭を切り裂き目的の港へと突き進む巨大で優雅な大帆船、邪魔しようとする何もかもを蹴散らしてひたすら突き進む彼女がそこにいる。代償として二人が支払う物は ―― お互いの命。
突然脳裏に浮かんだその閃きはあまりにも眩しく、コウは思わず目を閉じた。それでも瞼の裏にひとりでに書き綴られていくあの一節。
“ 一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにて在らん、もし死なば多くの実を結ぶべし。おのが生命を愛する者はこれを失い、この世にてその生命を憎む者はこれを保ちて永遠の生命に至るべし ”。
枯れた麦の穂を手にしてからそれを知りたいと思い、しかしどうしてもわからなかったその言葉 ―― ヨハネという伝道者の手で人々へと伝えられた福音は三年にも及ぶ彼の過ちを優しく静かに解き明かす。
未来を得るという事はすなわち自らを犠牲にしてこそ初めて手にすることができる報酬である、と。
* * *
「頼む、ニナ」
その声に、その言葉に何の迷いもない。コウの声にはっと顔を上げたニナは心の底から嬉しそうな笑顔で応えた。長い睫毛の下から見上げる青い瞳は光を放ってコウの瞳を貫き通す、間違いない。あの日のニナだ。
ニナは力強くうなずくとコウの体を解き放ってすぐにシステムモニターへと近づいた。最初に見た時と変わらない十六文字の認証コードは今も激しくモニターの上を踊り狂っている、だがそんな物にはなんの意味はない。もうラップトップを使わなくても ―― USBを差し込まなくたって答えは頭の中にある。
黒い球体から次々に吐き出されて並べられる文字列を、あたしはその通りに打ちこんでいくだけ。
電卓のキーを叩くように何の迷いもなく次々に文字を打ち込むその姿にコウは圧倒された。何の脈絡もないアルファベットの羅列が正しいと認められた時に浮かびあがる真の認証コード ―― それが一体何を意味しているのか興味深々でニナの肩越しから窺うコウ。
しかし第一認証である最初の八ケタが合致した瞬間に組み変えられる文言を見た瞬間に二人の顔色がサッと変わった。
忘れる事のないその言葉、二人の未来を変えた道標。
『STARDUST』
第二認証のパスワードとして現れる八桁の数字をコウは見る事ができなかった。いや、見る必要もない。
真っ暗になる視界と遠ざかっていく意識の底に刻まれるその数値はもう決まっている。心の趣くままに蹂躙し、その命をことごとく握りつぶしてもなお血を欲するように戦い続けて全てを失った ―― あの日。
00831113。
「コウッ!? 」糸の切れた人形のように背後で崩れていくコウを慌てて抱き止めようとしたニナがもろともに床へと倒れ伏した。必死で名前を呼び掛けながら何度も体を揺さぶる彼女の背中に向かって、その日の最後に誰かの手によって設定された難攻不落を誇る暗号認証は回答者の健闘を称えるかのようにその文言を誰も見ていないモニターへと書き記す。
“ 認識番号、000124。パイロット、エギーユ・デラーズ本人と確認。 ―― お帰りなさい、大佐殿 ”
* * *
深く、深く。底知れぬ暗闇。
強い決意も、必死に手にしようとする望みですらもかき消してしまう冥い深淵が彼を包み込んだまま離さない。
それはコウ・ウラキという人格をコウ自身が否定した事による意識の喪失だった。兵士とは命令一つで人の命を奪う可能性のある職業だと士官学校でも常に教わってきた事でもあり、デラーズ紛争の際には実際に自分の掌下で目の当たりにしてきた事実だ。しかしあの日、敵とは比較にならないほどの強大な力を手に入れた彼は自分の預かり知らない領域でそれを存分に駆使し、ガトー以外の命を害虫でも駆除するかのようにもろともに捻り潰した。
連邦初のモビルアーマーに連邦軍で一番初めに搭乗したパイロットであるコウ・ウラキ戦時中尉。しかし初めてであるが故に運用方法を説明する事はできてもそれに『乗る』という事がどういう意味を持つのかという事を誰も彼に教える事ができなかった ―― 『戦闘時間単位における総撃破数』もその為につけられた二つ名も彼にとっては名誉ではなく、自分につけられた『罪状』。
だから彼は紛争の後に行われた軍法会議で検事に向かって口を閉ざした、自分の犯した罪がそんなあやふやな物ではなくはっきりと『殺人』だと告げてくれた方がどんなに楽だった事か。
心に深く刻まれたその傷跡、極めつけの衝撃。一瞬で人事不詳の領域まで誘うそれがコウの不退転の決意に立ちふさがる最後の、そして最強のトラウマだ。自らを英雄ではなく殺人者と認めて生き続けてきた彼にとってあの日の出来事こそが原初の罪。
だが今にも昏りに落ちそうな意識の底で必死に抗おうとする何かがある、まるでパンドラの匣に残された希望のように強く彼の心に呼び掛ける、何か。
「貴様はどちらを選ぶんだ、コウ・ウラキ? 」
それは彼が忘れようとしても絶対に忘れられない、懐かしい聲だった。
* * *
照りつける日差しと無機質なコンクリート以外何もなく、そして誰もいないトリントン基地。その声の主は穏やかな微笑みを浮かべてコウから少し離れた場所で腰に両手をあてたまま立っている。
「 …… が、トー …… 」
じかに出会ったのはたった二度、二号機強奪の直前とあのソロモン。だがたとえ連邦軍の制服に身を包んでいても彼にはそれが誰だかはっきりとわかった。そして驚くことに他の全てを置き去りにしてまで自らの心を埋め尽くしていた妄執の焔がどこにもない。
「久しぶりだな、コウ・ウラキ」
驚いたコウは反射的に直立不動になって右手を額へと押しあてる、その光景を見たガトーは思わず声を上げて笑った。「おいおい、俺は貴様の上官でもないしむしろ敵だった男だぞ? 貴様の礼を受けておいそれと返礼する訳には ―― 」
「いえ。それでも …… 今はっきりとわかりました。自分とあなたは敵同士ではありましたが、自分はどこかで …… あなたの事を尊敬していたのだと」
「おまけに敬語とはな。いつぞやの貴様とは全然違う ―― いや、むしろそれが本当の貴様だという事か」そう言うとガトーは緩やかに右手を額へとかざした。
「自分はどうしてもあなたにお聞きしたい事がありました」自販機から転がり出たコーラの瓶を投げて寄越すガトー、コウは冷たく冷えたそれを片手で受け取りながら真剣な眼差しを彼の背中へと向けた。ん? という表情で振り返りながらガトーは胸ポケットから取り出したツールで器用に蓋をこじ開けるとそれをコウにも投げ渡した。
「むう、地球圏のこれはどうにも合成物が多すぎる、ジオンのやつはもっとスパイシーで体に優しい感じがするんだが」一口飲んでこぼす感想にコウの表情が思わずほころぶ。「ま、今さら体に優しいどうこう言える身の上ではないがな ―― で、聞きたい事とは? 言っておくが俺もここに長くいられるわけではない。士官ならば尋ねる事は手短に、その一言で真意を自ら解き明かせ」
やはりこの人は指揮官として本物だ、と心の中で呟いたコウは胸襟を正してその表情を引き締めた。
「 ―― どうしてあなたはそれほど誇り高く立っておられる事ができるのですか? 『ソロモンの悪夢』とまで連邦に二つ名を名づけられるほど多くの兵士を殺してきた、あなたが」
それを聞く事は敵国の教本にまで記載された撃墜王 ―― ジオンにとっての英雄に対して不敬である事は十分に承知している。『英雄と殺人者の違いは戦争かそうでないか』という事はコウ自身もよく理解しているが、しかしそれはあくまで当事者ではない人々からの評価であり当の本人はその事についてどう思っているのか? 「俺の手は血まみれです、どんな理由があったってその事に変わりはない。自分さえいなければそこで死すべきではない多くの命もあったはず、降りかかる火の粉を払うだけならあれほど大勢を殺す必要さえなかった。自分はどうすればよかったのか ―― これからどうすればいいのかさえもわからないんです」
苦脳に満ちて視線を落とすコウの表情をガトーは優しく、ただ見守っている。「できることならば自分に教えてほしい、あなたとの違いを。英雄であるあなたと人殺しでしかない自分との違いは何なんですか? 」
「貴様は正しい」ガトーはそう言うと嫌がっていたコーラを一口飲んでから笑った。「ジオンにも深紅の稲妻やら白狼やら二つ名持ちが幾人かいるが皆必ず貴様と同じ悩みで苦しんだ、そして俺も例外ではない」
えっ、と驚くコウが顔を上げた先にある彼は少しはにかんだ表情をしている。「驚くことはない、俺も貴様も国や主張は違えども同じ人間だ。触れ合う魂の距離が近くなればなるほどその悩みは深くなるのだ、命が軽い戦場では特にな ―― では俺からも尋ねよう。もしそれを選ばなければ貴様は俺に届いたか? 」
答えるまでもなくNOだとコウが頭を振る。「命が惜しければ立ちふさがらなければいい、逃げる選択も彼らにはあった。だが貴様と同じく自分のせいで命を落とした連中は決してそうしなかった …… 貴様も逃げる奴らを背中から討つ趣味はあるまい? 他の奴らは知らんがな」
俺とおまえは同じなのだと含みを持たせて告げる彼の言葉にコウは深くうなづいた。
「俺と貴様の手、どちらも血で染まっている。しかしその違いは明確だ、自分が進むその道の先にある夢を語れるかどうか ―― それが英雄と殺人鬼の違いだ。誰はばかる事のない信念がある行いに人は頭を垂れて命を賭けてつき従い、卑劣な行いには唾を吐きかけ背を向ける …… だがな、そうして皆の先頭に立つ者を『英雄』などと美辞麗句で他人はもてはやすが本当は違う」
強い眼差しだった。コウはガトーの本当の強さが技量などではなくその精神に由来するものだと知った。
「自分やその世界、未来に危害を及ぼそうとする理不尽に立ち向かおうとする者全てが英雄だ、その栄誉は先頭を行く者が志半ばで倒れた後に次の者へと受け継がれていくのだ」
文言は違えども彼の言葉が意味するものと同じ言葉をコウは月での戦いで耳にした記憶がある。
「矜持、ですか? 最期にケリィさんが教えてくれました。あなたに近付くごとにそれを持った仲間が立ちふさがる、と。それでも自分が間違っていないと信じるのならそれを貫き通せとも」
「今の貴様と同じ事で悩んでいた時にそう言って励ましてくれたのも、あいつだ」
そう言うとどこか懐かしそうな表情を浮かべて青く澄み渡った空をガトーは見上げた。
「だから前を向け、コウ・ウラキ。過去の罪に囚われるな、自分の選ぶ道が間違っていないのだと心の底から信じるのならば」
* * *
泡の弾けるような音と共に世界は元の暗闇へと戻った。ただ違うのはそこにある意識が少しづつ上へと浮きあがっていくような感覚。
“ どんな強者にもどんな偉人にも等しく与えられるもの、それが死だ ” 目の前にある深い闇の底から彼の声が耳に届く。 “ ならばそれまで与えられた生をどう使う? …… 背を向けて力尽きるその時まで逃げ回るのか、それとも自分がそうでありたいと望む物を守る為に、戦い続けるのか ”
全身の感覚が戻ってくる、耐え難い苦痛と共に自分の名を呼ぶ彼女の声が水面から。
“ 貴様はどちらを選ぶんだ、コウ・ウラキ? ”
どうしてあたしはパスワードなんか解いてしまったのだろう、と体の下で震えるコウの体を掻き抱きながらニナは後悔した。白眼を向いて口角から泡を吹く、てんかんの症状をこれ以上なくひどくしたその様を見て彼を苛んでいた不調の正体に自分の想像力のなさを思い知る。機能停止などとは次元の違う、これではまるで生死にかかわる症状ではないか。
どうしてもっとドクにいろいろ教わらなかったのか、連邦屈指の救急救命医の傍にいながら自分が教わった事は傷の手当だけ。他には何もなかったのかと膨大な記憶の中から使えそうな項目を拾い出そうとしてもそのアーカイブにある物は乏しかった。焦った彼女が思わず掴んだ知識はまるで見当違いの代物 ―― 二つのOSの統合による矛盾の解消、火器管制の制御に於ける命令系統の単純化、各状況下に最適な武装の自動選択プログラム、そんなのどうでもいいっ!!
あたしが今欲しいのはそんなんじゃないっ、人を ―― 彼を助ける知識なのよこの役立たずっ!! 消えてしまいそうな命を目の前にして何もできない無力な自分が疎ましい、それはトンプソンやマリアの死を見送った時と同じだ。人の命を奪う事は簡単に思いつくくせに助ける事はできないなんてなんて酷い!
あまりの悔しさにニナの眼からまた涙がこぼれおちる、それでも何とかコウを助けたいと願う彼女の眼は一心不乱に震え続けるコウの姿を捉え続けた。彼の背中に置かれた手が蘇生を求めて何度も往復を繰り返して声は幾度となく彼の名を呼び続ける、頬を伝う涙が顎の先から真っ白になった彼の頬にぽとりと滴り、小さなしみを作る。
その変化は突然に訪れた。
今までニナの体さえも震わせていた強烈な痙攣が急に収まってコウの眼が何度かの瞬きを繰り返して大きく開く、そのあまりの変わりようにニナは彼の体を大きく揺さぶった。
「コウッ! しっかりしてっ! 」叱咤にも似た彼女の声に体の下のコウは何度か浅い呼吸を繰り返す、それでも動き出した瞳はゆっくりと動いて泣き顔を晒したまま覗き込んでくるニナをはっきりと捉えた。「 …… ニ、ナ …… 」
息も絶え絶えで彼女の名を呼ぶコウの両手が床に倒れたままの体を起こそうとしている、慌てたニナは彼の体にしがみついてその先へと進む事を押しとどめようと必死で叫んだ。「だめよコウッ! あたしの事はもういい、もういいからっ! 」
しかしそれでもコウの腕は止まらない、こんな死に体のどこにそんな力が残っていたのかとニナが驚くほど圧倒的な膂力が体を床から引きはがす。ペタンと床に尻餅をつくニナを置き去りにしたままコウは震える両ひざに手を押しあててそのまま一気に立ち上がった。
「コウッ! お願いだからもうこれ以上はやめてっ! そんなことしたらあなたが ―― 」
よろよろと再びシステムモニターへと歩を進めるコウの背中を追いかけてニナが立ち上がる、その彼女の眼の前で弱った体を支えるようにパネルへと両手をついて支えた彼はじっと目の前のモニターを見つめたまま呟くように言った。
「もう、大丈夫だ …… たぶん、やれる」
あなたの言うとおりだ、ガトー。
俺はもうとっくに選んだ、彼女の未来を守る為にこの命を使い切ると。
「ニナ、この機体の全部のデータを呼び出してくれ。操作マニュアルと …… スペック一式、そして操縦系統の、セッティングデータをプリントアウト」
少しづつ戻っていく生気にニナは驚きながらもすぐさまコウの言うとおりにモニターへと取り付いた。よろけるコウに肩を貸してキーボードへとコマンドを打ち込むニナの耳にコウの嬉しそうな声が忍び込んでくる。
「夢の中で …… 彼に会ったよ」
ニナの手が思わず一瞬止まった。コウに気づかれないように平静を装う彼女、しかしその眼は遂にその日が来た事を知って悲しみに打ち震える。
「選べ、と言われたよ。 …… いい人なんだな、彼」
そうよ、コウ。
彼はとてもいい人、だった。
でも今のあたしにとっては彼はこれ以上ない最悪の相手。
あなたが「彼」によって目覚めてしまったというのなら。
ニナはガトーの手で撒かれた種が、ついにコウの中で芽吹いた事を知った。