※すまん敷波、遅くなった。 ※ブルネイのシキシキおじさん提督。チャットで言った通り名前お借りしました。 帝国海軍の建築規定によると、基地と要塞の差異は明確にされていない。 元々、海軍というのは自国のシーレーンを守護し、他国のシーレーンを破壊するのがお仕事なのである。つまり、1年365日お外を駆け回って泳ぎまわって何ぼの職場であり、一ヶ所に引き籠っていつ来るともしれない敵を待ち構えるのは給料外の仕事なのである。 なので、南の小島の外れにプレハブ小屋を一つおっ建てて、仮設要塞港なんてご立派なカンバンをえいやっと地面に突き立てただけでも、書類の上では何の問題も無く通るのだ。通っちゃうのだ。 帝国陸軍の施設課の人間からすれば助走をつけてブン殴りたくなるような噴飯ものの話であるが、まぁ、そういうもんだと納得してもらうしかない。 翻って、その帝国陸軍の建築規定に照らし合わせてみると、軍事基地と軍事要塞の差異は実に明確である。ざっくばらんに述べると、基地とは軍隊が作戦行動上の拠点にしたりする施設の事で、要塞とは、戦略上重要となる地点の守備・守護を目的とした構築物の事である。なので、野戦迷彩柄のテント一枚に寝袋と無線機材を詰め込んだだけの物を『これが基地です』と言い張る事は可能でも『これは要塞です』とは決して言えないのである。帝国陸軍の書類上の話では。 なので、ブイン島の中央に位置する山の山頂付近に大型の対空早期警戒レーダーを設置し、同山腹の至る所に正規量産型の戦艦娘『大和』から剥ぎ取った46センチ3連装砲と同期レーダーとVLSと20ミリバルカンファランクスの1セットを基本とする対艦・対空迎撃システム群でハリネズミのように武装し、余った山麓には対爆コンクリートと重合金製の複合装甲で建造された拠点施設を設置し、本土では期待の新星だの若き英雄だのと言われている比奈鳥ひよ子准将と目隠輝准将の2人が指揮するそれぞれの艦隊を配置したとしても、海軍では名目上『ブイン基地』のままだし、陸軍からすればこんなのはどこからどう見ても『ブイン沿岸要塞』となる。なっちゃうのだ。 そして、そんなブイン基地だか要塞だかの中を見てみれば、外箱同様に内側にもかなりのカネが使われているのが窺い知れる。 例えば廊下。現在の基地司令である比奈鳥ひよ子准将が縄張りとしている2階最奥の執務室から続く一本の真っ直ぐな廊下。一見するとただのリノリウム製の質素なクリーム色だが、実は何の変哲も無い質素なクリーム色のリノリウムでしかない。内部に機械式の感圧センサーが埋め込まれている事以外には。 次に視線を天井を向けてみると、そこにある蛍光灯は一見するとただの蛍光灯だが、実は使われているガラスに細工がしてあって、ちょっとやそっとの衝撃では割れない上に、もし割れたとしても破片が大きく丸っこくなるようになっているため、破片で切ったり目に入ったりといった重大な怪我に繋がる可能性が極端に低くなっている。 窓ガラスも蛍光灯と同様に分子配列からデザインされた素材で出来ていて、夕雲型駆逐艦娘からの対地攻撃にも5秒は耐えるという触れ込みの、数週間前にTKT外殻研究員達の手によってXナンバーを外されたばっかりの最新モデルの奴だ。所々に設置された火災報知機とスプリンクラーに偽装した無音監視カメラ群も24時間体制で熱と光と音と波への警備を続けており、おまけに、先の窓ガラスには盗撮・盗聴対策用として特殊なプリズム被膜と防音シールが一切の隙間無く張られていた。普通は無色透明だが、いざ写真やカメラなどに収めようとするとその部分だけ真っ白になって映るという代物だ。TKTの九十九里本部やラバウル基地の地下茎区画とそう大差無い機密の保持っぷりである。 無論、理由はある。 かつてラバウルの地下茎区画にTKTの人員がいたように、今度はブインにもTKTから人が来たのである。 かつての戦艦凄姫の進撃によって壊滅させられたラバウル基地を一から復旧させるよりも、そこそこの面積と立地条件が確保されているブインに新しく建物を作った方が安いし早い。と上の人間が判断したからである。何時の時代の、どこの組織でも、かかる予算と時間は少ない方が美徳とされているのだ。 そして、市販の光触媒ペンキとシールで外装全てを、本土でもよく見る無害な二階建てのごく一般的な鎮守府にカムフラージュされた、対爆コンクリートと重合金製の複合装甲と対爆隔壁で鎧われたブイン基地(?)の正面玄関を出てから右に歩いて3分かそこらの所に、一つの廃墟がある。 かつて、目隠輝准将がまだ少佐だった頃に、ブイン基地と呼ばれていた物の成れの果てである。 窓ガラスという窓ガラスの全てが割れ、壁面という壁面にはツタが蔓延っている二階建てのプレハブ製のそれの一階部分には3つの部屋がある。 一番大きなそれは、かつて食堂であったと思わしき一番大きな部屋で、この部屋の隅っこには真っ白なお皿が納められたままの戸棚や、時間と土埃と雨風に塗れたコンロや冷蔵庫の成れの果てがあるのでそうと知れる。 二つ目の、食堂の半分程度の大きさの部屋には通信機器や業務用の大型ファックスと思わしき機材の化石が転がっているから恐らく事務室か何かだったのだろう。誰かが書き残した『追加の弾薬陳情書書き直し 24日の午前中まで!!』『お願いだから井戸少佐も少しは手伝って!!!!!』という黄ばんで劣化したメモからもその事が伺える。ヤケクソみたいな筆圧で走り書きされている事から、このメモの筆者の怨恨は相当に深いものであると窺い知れる。 そして一番端にある、一番小さくて一番豪奢だった部屋について語る事は無い。入り口付近に転がっている日光劣化しつくしたネームプレートには基地司令の執務室とあったから、きっとそうなのだろう。 続けて2階に視線を移してみる。 ペンキが剥がれて赤く錆び果てた軽金属製の階段を上がると短い廊下があり、4つの部屋がそれぞれ廊下に面している。 まず階段から最寄りの201号室。 ここについて特に語る事は無い。扉のネームプレートはまだしっかりとくっついているし、部屋の中も、廃墟にしてはかなりきれいな分類になる。 というか、ブイン島に来た当時の比奈鳥准将らが仮の執務室兼寝室として手入れしていたため、やろうと思えば今でも寝泊まりは可能だ。 ただ、執務机の背後の壁に掛けてあった、一枚の巨大なタペストリーだけは頂けない。そこに刺繍されているのが『微妙な笑顔を浮かべている猫の両前足を掴んで勝ち誇ったような顔をしている、二頭身にデフォルメされた少女』と言うのだから、この部屋のかつての主は何を考えて生きていたのだろうか。 次に202号室。 この部屋のかつての主は何を考えて生きていたのだろう。酷く理解に苦しむ。 ここもやはり朽ちて果てた机やロッカーなどの共通備品はあるにはあるのだが、これらはすべて隅っこに追いやられており、劣化具合がそこそこで抑えられているキングサイズのダブルベッドが1つ、部屋の中央に置いてある。当然枕は二つ、掛布団は1つである。枕元のティッシュ箱とゴミ箱の存在が無言でかつてのこの部屋の主の行動を意味深に語っていた。 隅っこに追いやられたその6人分の机の内、4つの上には小さな花瓶と花が活けてあった。発見当初はとうに水も花も枯れ果て、ガラスも曇って埃で厚く覆われていたが、それでもこの部屋の主は、その4人の事をそれだけ思っていたのだろう。少なくともそう信じたい。 そして、入り口近くの壁に紐で吊るしてあったのであろうホワイトボードは千切れた紐もそのままに床の上に落ちて放置されており、土埃に塗れたその表面には 龍驤: 暁:パトロール中 響:パトロール中 雷:パトロール中 電:出撃。B隊 金剛:出撃。B隊 の文字が辛うじて読み取れた。 続けて203号室。 ここまで来るともう、ここのかつての主は本当に軍人だったのかとまず疑ってかかった方が良いのかもしれない。 提督用の机があって電話線が引かれていて、壁には汎用ロッカーが並んでいるのはいいとして、部屋の中央には艦娘達の作業机の代わりなのか、若干足の長さの違う大きな丸ちゃぶ台が二つ置いてあり、部屋の片隅にはお布団が畳んでおいてあり、その隣には段ボール一杯に山と詰め込まれた何かの書類や古雑誌がいくつも放置してあり、お布団共々小動物や虫の良いねぐらと化していた。 そんな腐海の苗床の第一歩目を踏み出している紙束の中にあるゴミ箱の中に、一枚だけ様子の違う紙が存在していた。不思議な事に、この一枚だけは虫にもカビにも喰われておらず、うっすらとホコリの積もった紙面にはこうあった。『Team艦娘TYPEからのお誘い:(このチラシは、艦隊運営費や資源備蓄が赤字になった提督への専用のご通知です) 当Team艦娘TYPEでは、常に新しい被検体を募集しております。採用となった方はその場で赤字運営費の代払い、不足分の資源配給、各種触媒の無償譲渡などを行っております(※1) サポート体制も万全であり、どなた様でもご安心してお申込できます(※2) あなたもこの実験で生まれ変わってみませんか? 興味のある方、借金や資材の過剰借用で首の回らなくなった方は是非、以下のアドレスもしくは電話番号までご連絡ください(※3)※1:なお、支払上限はありませんが、支払い目的はあくまで不足分の相殺のみと限定させていただきます。あらかじめご了承ください。※2:なお、サポート内容は被験者の戸籍の改竄、被験者の回収担当員のアリバイ工作などに限定させていただきます。あらかじめご了承ください。※3:なお、人体実験の都合上、心身の保証は一切いたしません。あらかじめご了承ください』 野生すらも避けて通る怪しさ大爆発である。 そして最後に、204号室。 このブイン基地の副司令である目隠輝准将がまだ目隠輝少佐と呼ばれていて、その秘書艦が艦娘式陽炎型駆逐艦娘8番艦『雪風』ではなく、特Ⅰ型駆逐艦娘4番艦『深雪』だった頃に使っていた、正真正銘の、本物のブイン基地の204号室である。 本土では『救国の少年提督』『一族中興の祖』などと持て囃されている彼の輝かしい経歴とは裏腹に、部屋の中は閑散としていた。 部屋の天井には人の頭ほどもある大穴がいくつも開いてていたし、窓ガラスの嵌っていた穴はもはや四角形を成しておらず、床全体にうすく土埃と落ち葉が積もっていた。とはいえ、それでも前3つの部屋に比べると置いてあるものの数が少なかった。 小動物の巣と化した執務机が部屋の奥にあり、その上まで電話回線が引かれていて、10個もの汎用ロッカーが壁一面にずらりと並んでいた。そして、支給品の蚊取り線香一缶と陶器の蚊やり豚と、敷布団とシーツと枕と日焼け止めクリームと、ダンボール箱が壁沿いにいくつかと、深雪のセーラー服とスカートの予備が吊り下げられていた安物のプラスチック製のハンガーがいくつか。たったそれだけだった。 そして、この部屋のどこにも、タオルケットは無かった。 そんなブイン基地の裏にあるかつてのイモ畑だった雑草畑の先にあるヤシの木の防砂林を抜けると、そこには、島の人間しか知らないような小さな砂浜と、そこから直接海の遠くまで伸びている、丸太製の桟橋がある。その桟橋こそが、かつてのブイン基地の正式な出撃港である。そして、その防砂林の中に一ヶ所だけ、不自然に開けた箇所があった。浜辺に接した、そこそこに大きなスペースと、朽ち果てた丸太の残骸が。 そこに、かつてブイン基地と呼ばれた、一番最初の丸太小屋が立っていた事を知る者は、もう誰もいない。 このブイン基地の先代総司令がまだ健在であり、金(キン)の密輸なんてこれっぽっちも思いついていなかった頃で、ファントム・メナイ少佐がまだ大佐だった頃から少し後。 帝豪合同海軍演習にてメナイ大佐がZ旗に猫の絵を描いて敵味方を大混乱に叩き落してから少佐に格下げされ、ブイン島のブイン基地なる聞いた事の無い島へとまさしく島流しが決まって、かつての古巣『ストライカー・レントン』の艦長の座から引き摺り下ろされ、当時すでに博物館級の旧式と化していたヨルムンガンド級輸送艦『プラウド・オブ・ユー』号一隻とその僅かばかりのクルーだけを押し付けられ、事務方の人間ですら所在地を把握していなかったブイン島なる僻地へ行って来いという辞令が下ってから、少し時間が進んだ頃。 故 水野蘇子准将がまだ水野蘇子候補生ですらなくただの一般人で、新発売のリップスティックのTVCMに出てた戦艦娘『陸奥』の唇のアップシーンに悩殺されてた頃。 故 井戸枯輝大佐がまだ井戸少佐で、彼を含めたTeam艦娘TYPEの面々がまだ第三世代型深海凄艦のサンプル確保を諦めていなかった頃。 北方海域でようやくタイプ=エリートの存在が噂され始めた頃で、東部オリョール海がまだオセロ海域と呼ばれていて、敵味方の支配権が当たり前みたいにクルクルと入れ替わっていた頃。 まだ、南方海域自体が二級戦線で、月に何匹かのはぐれ深海凄艦が迷いこんでくるだけでも大騒ぎしていた頃。 これはそんな時代の、そんな南の島の物語である。 ブイン基地連載に追われてずっと宙ぶらりんだった敷波追悼SS『嗚呼、栄光のブイン基地(番外編) ~ 正義の価値は』 頭は『O』 腕は『r』 足は『z』 横に三つ並べて『orz』 これが今現在のファントム・メナイ少佐の心境と体勢を如実に表したアスキーアートである。「……嘘だ」 メナイの喉から絞り出されるようにして微かに聞こえてきたのは、短い否定の言葉だった。 辺りに広がるのは深い紺碧色の海と澄んだ青空、そしてそれらと明確なコントラストを描く純白の雲。背後の波打ち際では穏やかで静かな磯波(not艦娘)が寄せては返すを繰り返し、優しく吹く海風に煽られて防砂林代わりのヤシノキ林が、それこそ波のような葉擦れの音を立てていた。 メナイの身体で出来たアーチの真下を一匹のヤドカリがそそくさと通り抜けていったのが、彼自身にも見えた。「嘘だ!」 力強い叫びと共にガバリと勢い良く顔を上げてみれば、そこにあったのは二軒の丸太小屋、あるいはログハウスと呼ばれるものだった。片方は小さくて若干古びたような印象があり、もう一つは大きくて真新しさがハッキリと見て取れた。どちらも拵えはまぁ上等な方で、単純に組み木しただけではなく、針金やかなり太い釘で入念な補強が施してあり、多少の強風や嵐程度ではビクともしなさそうだった。サイズは多少手狭だが、最近の輸送艦は少人数でも動かせるようにできているし、多分全員入るだろう。雑魚寝確定だが、揺れない床は陸酔いしない船乗りにとっては宝も同然だ。嫌がる奴はいないだろう。多分。 だが。 だが、しかし。 この丸太小屋は許しがたい事に、入り口脇の柱に『帝国海軍 ブイン基地』と達筆で書かれた真新しい看板が堂々と吊るしてあった。つまり、この丸太小屋だかログハウスだかが、まぎれもない軍事施設であると言う事の証左なのである。「嘘だッ!!」「……おっちゃん、何してんの?」 突然頭の上から掛けられたその声に顔を上げてみると、そこには一人の少女がいた。 見た目だけなら帝国人の少女だった。 短いポニーテールで纏めた少し長めの栗茶色の髪。ほぼ同色のスカーフと襟のセーラー服。どことなくイモっぽく、これといって特徴の無い目鼻顔立ちに、思わず指先でつつきまわしたくなるようなふにふにとしたほっぺた。 そして、背中に背負った巨大な煙突型の金属筒。 かつて、艦娘と共同で作戦を行った事のあるメナイには彼女が吹雪型とよく似た艦娘であるとは分かったが、それ以上の詳細が分からなかった。なので少し誤魔化して聞いてみた。「……タイプ=トクのカンムスかい?」「あ、分かるんだ。艦娘式特Ⅱ型駆逐艦2番艦『敷波』です。ブイン島仮設要塞港の総司令官、正志木 清(タダシキ キヨシ)の秘書艦を務めております!」 帝国人でもないのに珍しいじゃん、えへへー。と、その少女は、はにかんで笑っていたかと思うと、急に表情を真面目なものに戻して敬礼をした。 そしてメナイは、分かっていても知っていても、年端もいかない少女が軍人顔負けの敬礼をして見せるその光景に――――そして、戦場に立っているという事実に――――慣れる事が出来なかった。 敬礼を続けていた敷波が、ふと何かに気付く。「ん? あたしら艦娘の事知ってるって事は、もしかして、今日ここに着任してくるっていう人?」「ああ。私の紹介がまだだったな。オーストラリア海軍、太平洋方面艦隊所属、ファントム・メナイ大佐……………………ではなく少佐だ」 もの凄く嫌そうな顔でメナイが階級を言い直す。対する敷波は『ふーん』と心底どうでもよさそうな表情で相槌を打ち、じゃあ司令官の所に連れてくね。とメナイに背中を向けた。「失礼します。あなたがファントム・メナイ少佐ですか?」 背中を向けた敷波が第一歩目を踏み出したちょうどその時、メナイ達の背後から声が掛けられた。振り返ったメナイ達のその目線の先。そこには、常夏の島だというのに長ソデ長ズボンの真っ白い第二種礼装と礼帽をかっちりと着込んだ、白髪交じりの初老の帝国人男性が立っていた。 そして、その隣には、桃色の髪をした全身ズブ濡れのセーラー服の少女が片手に銛を手にし、もう片方で極彩色の巨大な魚を小脇に抱えて立っていた。 いろんな意味で不審人物全開だった。「……そうですが、あなた方は?」「失礼しました。自分は帝国海軍、南方海域方面ブイン仮設要塞港総司令官の正志木 清インスタント少佐であります」「同じく、エスコートパッケージの駆逐艦『漣』でーす」 常夏の島で厚生地の第2種礼装を着こなす初老一歩手前のジジイと、かつて見た事のある特型駆逐艦娘よりも幼いセーラー服少女(と小脇に抱えたイキの良い極彩色の巨大魚)。 ファントム・メナイ少佐の新生活は、最初から不安と絶望の中にあった。 案内されたブイン基地(という名の丸太小屋)の内部は、予想していた通り、予想を遥かに下回る酷さだった。 大きい方は何も問題は無かった。メナイ達が配属されるという通達を受けてから建築されたばかりのそれの中には何も無かったからだし、高さや広さにも問題は無かった。 だが、流石に個室までは用意出来なかったのか、内部には部屋が二つしかなく、ドアを開けたら大きな執務室が一つと、壁で仕切られた奥側の寝室の二つだけだった。ただ、トイレだけはやけに豪華で、温便座に自動消臭機能までついた水洗トイレ(海水濾過システム搭載)だった。勿論ウォシュレットは標準装備である。トイレ先進国たる我らが帝国に栄光あれ、トイレ後進国に慈悲あれ。 問題は、もう一つの方だった。 元々からあった方のブイン基地(という名前の丸太小屋)には、基地司令の正志木と秘書艦の敷波、そしてエスコートパッケージの漣の計3人が寝泊まりする寝室と、執務机の置かれた部屋に、その部屋の壁に設置された雑貨類を置くための戸棚くらいしかなかった。台所はどうしたとメナイが聞けば、外に簡易の石窯を組んであると答えが返ってきた。ここもまた、トイレだけはやたらと立派だったが。「……これもう、基地じゃないな」「ははは。よく言われます」 その戸棚の上に置かれた、所々のペンキが剥がれて赤錆まみれになったブリキ製のバケツこと、高速修復触媒の詰まった2種類の密閉容器を眺めながらメナイが呟く。たしか、緑色のは艦娘状態でも使えるタイプで、黄色は艦艇状態で使う溶剤タイプだったか。(……シドニー解放作戦の後に立ち寄った野戦病院の艦娘区画だと、これの奪い合いに近い事起こってなかったっけか?) メナイの心を読み取った訳ではないのだろうが、正志木基地司令は『そのバケツは平和の証なんですよ』と笑って答えた。どういうことかとメナイが問えば基地司令は、「その2種類の高速修復触媒(バケツ)は、私がこの基地に配属された時に、敷波と漣それぞれの緊急修理用として受領されたものなんですよ。以来数年間、これを使う事無く無事に過ごせてきました」 そもそも、こんな二級戦線でこれを使うような事態になったら、もうお終いでしょう。と基地司令は締めくくった。「だからと言って、この設備はいくらなんでも……」「それには心配及びませんよ。ここは南方海域の外れの外れ。かつての世界大戦当時はいざ知らず、今では平和な田舎ですよ」 少し基地を案内しましょう。と基地司令が丸太小屋の外に出る。 基地という名の丸太小屋を出て、浜辺沿いに歩くこと数分間。メナイが辿り着いたのは、太く生い茂るツタで覆われた海沿いの断崖だった。が、よくよく目を凝らしてみるとツタの下にはぽっかりと空洞が空いていた。海と浅瀬で繋がった大きな洞窟だった。ただ、浅瀬とは言ってもそれなりの深さがあって、大型空母は無理でも、天井を少し削れば戦艦位ならなんとかギリギリで一隻は入りそうな程度の水深と幅を持った、天然の海蝕洞穴だった。 奥に進むにつれて上り坂になっている洞窟の壁面沿いに増設された、木板の渡しの上を進みながら、メナイは口を半開きにして呑まれたように天井を見上げていた。 イタリアにあるという青の洞窟とは違うものの、思わず息を呑むような光景が広がっていた。「おお……」 洞窟の奥深くまで入り込んだ海面は静かに波打っており、外から入り込んだ光がそこに反射して天井や壁面が青色に揺らめいており、水面自体も光の反射で青白く発光しているように見えていた。さらには天井と壁面や、海底の揺らめく青の中にはまるで夜空の星のように小さく瞬くメタリックブルーの箇所が何ヶ所もあって、まるで、深い海と満天の星空を同時に眺めているような、幻想的な光景が一面に映し出されていた。「海蝕洞……それもこんな大きいとは……」「すごいでしょう。聞いてみたら、島の人達も知らなかったようで、戦争が終わったら観光地化するんだって息巻いてましたよ」 メナイが目元の高さにあった星に顔を近づけて注視する。「これは……何かの金属ですか?」「ナゲットです。詳しい調査はしていないのですが、この洞窟の表面全部を覆い尽くす程度には鉱脈が広がっているみたいですね……着きました。ここです」 宝石にも金属にも地質学にも詳しくないし、周囲も薄暗かったためにメナイは『そういう名前の宝石か天然合金でもあるんだろう』とそのままスルーしてしまったが、ナゲットとは天然金塊の事であると一応の補足はしておく。 そうして基地司令に連れられて辿り着いた洞窟の最奥部。満潮時であっても波飛沫1つかからない程度の高さと奥行きのあるそこは、山と積まれた燃料弾薬に修理用の鋼材、ボーキサイトを初めとした各種金属触媒の類で埋め尽くされていた。 艦娘2人分の補給量としては、明らかに過剰だった。「本土側で書類不備だか連絡不徹底だかがあったらしくてですね。基地そのもののナリはこんなんでも、運ばれてくる物資の量だけはちゃんと一個艦隊――――艦娘6人分があったんですよ。ようやく本土に書類が届いたのか、半年前には元の補給量に戻りましたけど、今まで誤配送されていた分がまだこれだけ残っていましてね。近海警備の合間を縫って敷波と漣で交互に運び出していたんですが……いやぁ、メナイ少佐。あなた(の指揮する輸送船)が来てくださって助かりました。これでようやく全部運び出せます」「?」 お前何言ってんだ。 長年の経験からメナイは思う。何ともったいない。何かあった時のために温存しておけばいいのに、と。加古もとい過去の経験則からすれば、武器弾薬燃料がそれぞれ100必要だと陳情しても、やって来るのは50か60、良くて75であり、いざ蓋を開けてみれば100どころか敵増援に次ぐ敵増援で100どころか300あっても全然足りないというのに。 ハッキリとそう言い切ったメナイに対し、基地司令はそれを理解していたかのように苦笑を浮かべ、敬礼した。「それは――――横領は出来ません。何せ本官、勤務中ですので」 それは実に年季の入った、働く男の敬礼だった。「えー。それでは、ファントム・メナイ少佐と、その部下の方々の~、ブイン基地着任を祝いまして……乾杯!!」「「「乾杯!!」」」 輸送船に積んできた各員の荷を新しい方の丸太小屋に運び終え、着任後の細々とした雑務もようやく終わり、ようやく明日から通常業務に移れるようになったその日の夜。昼間に漣が仕留めてきた極彩色の巨大魚の煮物と刺身を主菜とした、基地司令主催のメナイ少佐と麾下艦隊の着任歓迎パーティは始まった。 最初は誰も彼もが遠慮がちにしていた上に、得体の知れない巨大魚に誰も手を出そうとしなかったのだが、空腹には勝てなかったのか誰かがフォークで木っ端のような切り身を一口摘まんだのをきっかけに箸やフォークが次々と付き出され、美味いだの塩辛いだのもうちょっと淡白な味の方が良いだのていうかメナイ少佐生魚なんてよく喰えますねだのと好き勝手に言い合っている内に自然と場の空気は和み、宴会速度は加速していった。 そんな中、オーストラリア勢の中で唯一刺身を摘まんでいたメナイに敷波がジュースの注がれたコップを片手に寄ってきた。「お。メナイ少佐、箸の扱いが上手ですねぇ」「ああ、実家の都合で何度か帝国人と会食をしたことがあってな」「へぇ~、ご実家は何を?」「畜産だよ。帝國向けの牛肉輸出」「ああ、もしかして、あの『肉ならMッ! ドM印のメナイ牛ッッッ!!』って何処かのグラップラーみたいな筋肉ムキムキのオッサンが、ウェイトリフティング用のバーベル片手で上げ下げしながらもう片方の手で肉のパックをカメラに向かって突き出して叫んでる、あのCMのですか?」「……帝国では、どんな印象持たれてるんだ、ウチの実家?」 ウチの親父、この間電話したら帝国のTVCMに出たぞーって笑ってたけど、まさかなぁ。という呟きを何とか喉より下に押し込め、メナイは何食わぬ顔で2杯目のビールを呷る。輸送艦の冷蔵庫に保管してあったそれは漂う冷気が見えるほどキンキンに冷えており、常夏の島の熱気に当てられてジョッキ表面を流れる汗が覆い尽くしていた。 するりと喉を流れ落ちる心地良い炭酸と苦みにも顔をほころばせる事無く、彼は軍に入った理由を心の中だけで再確認する。(……こんな南の僻地に飛ばされたとは言え、まだ挽回できる! 軍上層部の汚職データはまだ俺が、本国にいる俺の副官が握っている……)「ほら、佳弥。もっと食べなさい。イモネギ鍋は大好物だったじゃあないか」「司令官ー。あたし、敷波なんだけど。っていうかこれ、イモは兎も角ネギ入ってないじゃないじゃん」「……あ、ああ。そうだったな。すまんすまん」「刺身(゚д゚)ウマー」(つまりまだ、将官コースへの道は開いているという事……っ! まずはやれる事をやるしかない。明日からの輸送任務をこなし、やる事やって、本国に残された『ストライカー・レントン』のクルー達と連絡を付けねばっ……! 昇進っ、栄転っ……、機密情報へのアクセス権っ……!!) それが出来なければハナを、娘を殺して『愛宕』に仕立て上げた奴らを見つけられない。殺せない。 胸の奥底でドス黒く煮えたぎるその思いを赤ら顔の下に押し隠し、メナイは己の目的と意思を再確認すると明日からの任務への英気を養うべく、オーガニック・得体の知れない・極彩色の巨大魚のサシミを一度に2つも食べた。(開けない夜が無いようにように、必ずチャンスはやって来る!!) その日の夜、彼は帝国製トイレの便座の上で夜を明かす事になる。 そして次の日、メナイの熱意を裏切るかのように遠征任務は延期された。「……何でさ」「オセロ海域、もとい、オリョール海の制海権が黒優勢になっているようでして」 ほら、この通り。と基地司令の指さす先にあった、軍用周波数帯に合わせられていたラジオでは、男性アナウンサーが南西諸島方面海域の戦況が淡々と読み上げていた。 聞くに、東オリョールから南方海域の入り口であるラバウルへのルートが、硫黄島の新種こと不明ヲ級による数日間にも及ぶ猛烈な空爆によってほぼ完全に敵支配下に置かれた事。それを支えていたのがバシー島沖にて確認された補給専門の新種の深海凄艦であった事。イロハコードに従いそれぞれ空母ヲ級、輸送ワ級と名付けられた事。そのワ級狩りに多大な貢献を果たしたとしてブルネイ泊地のとある艦娘『伊58号』に対して、月桂冠錨ダイヤモンド付き猫旭日勲章が授与された事。途切れた南方資源地帯への海路を復旧させるために帝国本土に残されたゆきなみ型イージス護衛艦『かこ』『げんざい』を中核とする打通部隊が出撃していったとの事だった。「……深海魚の連中は、また知恵をつけたみたいだな」 今にして思えばシドニーの頃もそうだったが、連中、単純な正面突撃からだいぶ変化し始めているな。とメナイは心の中だけで呟いた。「これでは近づくこともままなりませんからね。しばらくは近海待機――――つまり、」「「つまり、遊ぶぞー!!」」 いつのまにか基地司令とメナイの背後に忍び寄っていた敷波と漣の2人が元気いっぱいに気勢を上げる。「ああ。しばらくは遠征も出撃も出来そうにないから2人ともお外で遊んできなさい。お昼前には帰って来なさい」「「はーい!!」」「え、え。ちょ、ちょっと?」「やったー、今日もお休みだー! ご主人様どうもありがとー!!」「煙草屋のバアちゃんところに出っ撃ーき!」 よろしいんですか、あれ。近海警備とかしなくて? と、若干狼狽しながら走り去る2人の背後を指さすメナイ。 対する基地司令は、ははは。と軽く笑うだけだった。「構いやしませんよ。どうせ、こんな南の海に来るような敵なんていませんから」 南方海域のブイン基地から南西諸島方面海域のブルネイ泊地に移動するには、一度南太平洋上にまで北上してから西進するか、パプアニューギニア南側を経由して東部オリョール海を抜けてくるかの2つのルートがある。 太平洋上を抜けてくるルートはその性質上、最前線である太平洋戦線に接近する必要があるため、敵――――深海凄艦側の主力部隊に捕捉される危険が高い。 もう一つのオリョール海を抜けてくるルートは少し複雑でその分危険度は上記のルートほどではないが、その日その日の海域情報を随時更新していないと結構危なかったりする。 詳しく説明すると、かつてはブイン基地を初めとした南方海域各所の基地や泊地と同じく、戦闘なぞ滅多に無い二級戦線として扱われていた東部オリョール海だが、対艦娘兵器である重巡リ級と軽母ヌ級の極悪タッグが世界中の戦線を押しに押し上げた現在では産油地帯の集まる南西諸島方面海域の最前線兼、帝國支配圏の最終防衛ラインと化している。ここを落とされれば破滅へのリーチが掛かるという事を帝国上層部は理解しているから最新鋭の艦娘が優先的に送られてくるし、深海凄艦側もここが人類側の最重要ポイントの一つだときちんと認識しているらしく『泳ぐ要塞』こと戦艦ル級を数隻も投入している。 故に、この東部オリョール海では一日の内に何度も何度も両陣営による艦隊決戦が繰り広げられ、その結果如何では同海域の支配権が二度三度と入れ替わる事は珍しくもなんとも無いし、その事からこの東部オリョール海はオセロ海域などと呼ばれていたりするし、潜水艦娘を中心とした有志一同を募っての奇襲作戦、略してオリョクルことオリョールクルージングは生還率が昔の消費税より少なかったりするのだ。だって3回出撃したらベテラン扱いなんだぜ。「故に、我がブルネイ泊地では資材、人材、いつでもウェルカム。正志木提督、お待ちしておりましたぞ!」「どうもお久しぶりです、四季さん」 ブイン島の洞窟に残っていた残り全ての資材をメナイが乗って来た『プラウド・オブ・ユー』号に積み込み、護衛の敷波を先頭に辿り着いた基地司令とメナイ少佐を軍港で出迎えたのは、粘ついた笑顔と独特の笑い声、極端に太った腹が特徴的な、妙に胡散臭い、中年太りと呼ぶにも甚だしいほど太りに太ったボーレタリア人男性だった。「いやですなぁ。わたくし目の事はもっとフランクに、ウチの駆逐娘達のようにシキシキおじさんとでもお呼びいただければ」 どうせ上の名前も下の名前もシキなんですから。と笑う男に対し、基地司令は素っ気なく敬礼を返した。「それは出来ません。何せ本官、勤務中ですので」「はっはっは。正志木提督もお変わりないようで何より……ところで、そちらの御仁は?」「オーストラリア海軍、ファントム・メナイ少佐であります」「いやぁ、これはこれはどうも。ブルネイ泊地、四季式(シキノ シキ)と申します。親しい者からはシキシキおじさんと呼ばれております」 シキシキおじさんこと四季はそこで、胡散臭い笑みをさらに深めて優雅に一礼をした。「今はインスタント提督などをやっておりますが、今の本業は王の公使……ではなくSTORK輸送ヘリによる単距離快速輸送です。どうですか、ぜひ――――」「おじさーん、シキシキおじさーん! 哨戒中の如月ちゃんから緊急入電ー! 敵の反撃部隊を捕捉したってー!!」「……どうも間が悪い。いや、良いのかな? 申し訳有りませんが、今日はここにて失礼させていただきます」「「アッハイ」」 何かありましたらお気軽にご連絡ください。と、四季が指先をくるりと返すと、そこには手品のように一枚の名刺が挟まっており、それをメナイに押し付けると自身を呼びに来た金髪の長大なポニーテールを持つ黒い制服姿の少女――――艦娘式睦月型駆逐艦5番艦『皐月』を連れてその場を後にした。「いいかガキ共、折角バシーまで繋がった海路だ。盤面を黒に戻されんじゃねーぞ! むしろ本土まで打通させたれや!! ところでプロトは何処ほっつき歩いてやがる!?」「任ぁっかせてよ、司令官! プロトさんなら、艦娘状態でまだ入渠中だよ。入渠明けまでは確かあと15時か」「B型バケツぶっかけて出撃準備!!」 物資を持ってきた基地司令とメナイを、その場に残したまま。「……」「……」 突然の急展開に途方に暮れた二人の背後に、いつの間にか艦娘状態で立っていた敷波が声をかけた。「……どうすんの、司令官。あたし、まだ荷物降ろしてないんだけど」「あ、ああ。そうだな。このままトンボ返りするのも何だし、どこかで昼でも食べてから帰ろうか……と言っても土地勘は無いし、あそこにしよう」 基地司令の指さす先。 そこには商店街の一角に紛れるようにして建っていた一軒の小さな居酒屋の暖簾がそよ風を受けてたなびいていた。 ブルネイ泊地に勤務する者の中で、居酒屋『vivisection』の名前を知らない奴がいたら、そいつはモグリだと考えてよい。 泊地近海の警備任務のついでに獲れた、第一もしくは第二世代型の深海凄艦――――こいつらは死骸が残る――――を使ったゲテモノ料理が喰える所など、糧食事情の切羽詰まった帝国本土を除けば、今のところはここくらいしかない。 そんなゲテモノ料理屋が暖簾を上げたのは意外と身近な理由からで、倒しても倒しても次から次へと湧いて出てくる深海凄艦の死骸処理能力が飽和したからである。 ――――本土じゃ国家が備蓄してた冷凍肉って事にして市場に流通させてんだしさ、こっちでも食えんじゃね? 見た目と由来は最悪だが味だけは最悪ではない事と、金属質の艤装部分を全切除して蝋質の脂肪分さえ入念に除去すれば食用は可能であるという事実から、居酒屋『vivisection』は閑古鳥を相棒に、ごく少数の物好きと、ほんの一握りもいないリピーターに支えられて、今日もまた絶賛開店休業中であった。「ヘラッシェー!」「お、やった。席ガラガラじゃん。司令官、少佐」 ブルネイでは珍しい、硝子のはめ込まれた木製の引き戸が実に建て付けの悪そうな音を立てて開かれ、正志木少佐こと基地司令、敷波、メナイ少佐の順番で3人が入ると、再び建て付けの悪い音を立てて引き戸が独りでに閉まっていった。どうやら見た目はボロでも自動ドアだったらしい。 3人が店内を見渡してみると、厨房の店主の他には、入り口から一番離れたカウンター席に1人の女性が座って食事をしている以外には誰もいなかった。「えぇと、メニューは駆逐イ級(エフィラ幼生体)のタタキ、駆逐イ級(成体)の白子、駆逐イ級の生き胆を高速修復材で浅漬けしたもの……ゲテモノ屋か」「駆逐ロ級のタンシオに駆逐ロ級のテッポウ(塩・タレ)に駆逐ロ級のもも肉スペアリブ……足あったんだ、あいつら」「帝国が追いつめられているというのは聞いていたが、まさかここまでとは……」「おじ様、イ級のヒレカツとタタキと雑穀米、それぞれあと25kgほどお代わり、お願いできますか?」 3人が女性から少し離れた席に並んで座って1つのメニュー表を仲良く眺め、一番左側に座った基地司令がハズレの店を引いた事に顔をしかめ、その隣に座った敷波が駆逐ロ級に足があった事にそれなりに驚き、その隣に座っていたメナイ少佐が深海凄艦すら食ってかないと餓死者が出るという帝国本土の真っ暗な現状に憂いていると、そんな彼らから少し離れたカウンター席に座っていた、彼ら以外で『vivisection』の唯一の利用客である女性が店主に声をかけた。 ストレートロングの黒髪と同色の瞳、所々コゲて煤けた弓道着に胸当て、ちょっと際どい所まで破れたミニスカート状の赤い袴、右肩から生えている肩盾のような形状の穴ボコだらけの飛行甲板の隅っこに書かれた白塗りの『ア』一文字。 艦娘式赤城型空母1番艦『プロトタイプ赤城(中破)』 それが彼女の名前だった。「あいよっ! 今日もいい喰いっぷりだねぇプロトちゃんは。いつも来てもらってるし、今日はちょっとおまけしといたよ」「まぁ、嬉しいっ! おじ様、感謝いたします!!」 花もほころぶような満面の笑顔を浮かべ、プロト赤城は目の前に置かれた山積みのヒレカツを上から順番に行儀よく咀嚼して消化していく。 あんな細い体のどこにこれだけ入るんだろうと店主は常々思っていたが、折角の常連客(しかも一度に落としていくカネも相当な額だ。それに軍票じゃない!)の機嫌を損ねるのは下策だと判断し、その考えを速やかに消し去った。 そして、聞いた。「……ところでプロトちゃん、随分と煤けてるし着てる物がボロボロだけど、また逃げ出したんかい?」「! い、いえ、その……入渠中は、ご飯食べられないので、ちょっと、その……入渠の息抜きに……」「そぉい!!」 目をそらして言い詰まる赤城の背後に音も気配も無く何者かが近づき、水のような液体で満たされた緑色のバケツを奇声一閃、赤城の頭に叩き付けた。 先に基地司令らと別れたばかりの、四季提督だった。「入渠が息抜きだろうが、このバカモンが!!」「げぇっ、提督!?」 頭っからズブ濡れになった赤城が振り返るのとほぼ同時に彼女の体に異変が起こった。何と、先ほどまでボロボロだった赤城の体や衣服や飛行甲板が、まるで時計の針を逆戻すかのようにして、見える速度で塞がっていったのだ。 高速修復触媒B型。 それがこの、緑色のバケツの形をした魔法の名前である。 一般にバケツの愛称で知られる方の高速修復触媒――――艦娘化できないほどの重傷を負った艦娘向けだ――――とは異なり、溶剤を燃料で溶いたり破損部に吹き付けたりする必要はなく、単純に原液をぶっかけるか、お風呂の中に入浴剤としてブチ込んで使用する。つまりは軽傷向けの修復触媒であり、やろうと思えば人間や動物相手にも使用できる。 このバケツの共通点らしい共通点と言えば、どちらも空気や金属に触れると急速に反応してすぐに使い物にならなくなってしまうために、ペンキで表面を完全に塗りつぶしたブリキ製の保管容器に入っている事と、熱着式のプラスチック製の蓋で封印してあるくらいのものである。「シドニーで見た時は何が何だかわからなかったが、改めてみると脅威だな……産業界に革命が起きるどころのレベルじゃあないぞ」 カンムスの展開・圧縮技術といい、道理で上の連中が必死になって帝国にゴマ擂ってる訳だ。とメナイは心の中だけで呟いた。 そうこうしている内にプロト赤城は四季提督に首根っこを掴まれて店の外まで連行されていった。 因みに、残された3人はとりあえず無難にイ級のタタキを注文したのだが、厨房の奥から何かを激しく打擲する音と共に店主の『この! この卑しい駆逐艦め! 英語で言うとバトゥーシップ! バトゥーシップめ!! デストロイアーッ!!』という謎のシャウトが聞こえてきたため、戦々恐々しながら料理を待っていた。 帰り道の海上の事である。 夕焼け色に海が染まり、夜の色が水平線の彼方から徐々に徐々にその版図を広げ始めた時間帯。 駆逐艦本来の姿形に戻った艦娘『敷波』と、メナイ少佐の乗る輸送艦『プラウド・オブ・ユー』号は、オリョール海の中でも一際安全であると公表された最新情報に従って無事にオリョール、ラバウルを抜け、ブイン島まであと少しの位置を進んでいた。「『『……あの店、もう絶対行かねー』』」 基地司令、敷波、メナイ少佐がため息と共に口を吐きだす。ブルネイを後にする直前に聞いた所ではあのゲテモノ屋、以前にイ級のレバ刺しと称して黒ひげ危機一髪的な生き胆のオブジェを客に提供した事があったり、過去に保健所の立ち入り検査を受けた事が何度かあったとか。『すまんなぁ、佳弥。昼御飯があんなので』『いいって、いいって。ていうか司令官。あたしの名前、敷波なんだけど。そんなにポンポン間違えて、司令官のお孫さんに失礼じゃないの?』『……あ、ああ。そうだった、そうだったな。すまん、すまん』 プラウド・オブ・ユー号の艦橋。艦橋の天井付近に設置されたスピーカーから、前方を行く『敷波』内での2人のやり取りが無線越しに聞こえていた。2人のやり取りを聞いてメナイは、基地司令が敷波に何を見ているのか、おおよその予想が付いた。付いたが何も言わなかった。 おそらくそれは、自分と同じように誰にも聞かれたくないし、言いたくない事柄なのであろうと予想できたからだ。「けっ。鉄の化け物風情が。人間様ごっこかよ」 メナイの座るすぐ横の艦長席。そこにふてぶてしく座る、メナイよりもはるかに年嵩のプラウド・オブ・ユー号の艦長が口から酒臭い息と共に吐いた毒だった。「……艦長殿。同盟国の人員に対し、その発言はどうかと思いますが」 ていうか勤務中に酒飲んでんじゃねぇよ。とメナイは鉄拳修正とセットで続けそうになったが、あちらは大佐のジジイである。つまり、階級(ホシ)の数も飯の数もずっと上であり、肩書だけの提督である元大佐の若造の意見なんぞいちいち聞いてやる必要も無いと言う事である。 その事を先方も承知しているようで、横目でメナイをちらりと見やると『ハッ』と馬鹿にしたように鼻で笑い、半分近く中身の減った琥珀色のウィスキーの瓶を傾けた。「何ぁにが “人員” だよ。所詮は喋る機材だろうが。しかも見てくれはイエローのメスガキ。乳もデカく無い。だったら人扱いする必要なんざぁ、どこにもないだろが。あっちのジジイも何考えてあんな態度してんだか。あんなのを人間扱いするなんざぁ、帝国人ってのは変態か何かしかいねえのかっつうんだよ」「……」「……ったくよぉ。俺がくすねたのはポートワインの隅っこで埃被ってたウィスキーのコンテナ一箱だけじゃねぇか。ケチケチしやがって。なのにあのハゲ港湾長、いつの間にか軍に押し付けた挙句に紙切れ一枚でこんな辺鄙な場所に飛ばしやがってよぉ……あ?」 ――――……あの~。すみませんが、どなたか別の方と間違えられていませんか~? その時、メナイの脳裏に浮かんだのは、帝豪合同演習の際に一度だけ会った事のある艦娘『愛宕』の――――愛宕となってしまった実娘の、困惑混じりの笑顔だった。 次に浮かんだのは、目の前の赤ら顔に対する底なしの殺意。 晩年にメナイが水野准将や井戸大佐、当時の輝少佐に語ったところによると、この時艦長に向かって腰のホルダーに収めたP229の引き金をひかなかったのは、長年の軍人生活の中でも指折りで数えられる功績の一つであったという。 もしもこの時、衝動に任せてこの赤ら顔の脳ミソを艦橋にブチ撒けてしまっていたら、その後始末に気を取られて気が付かなかったはずだから。「……あー? んだこれ? 沸騰してんぞ?」 小さな音に気が付いた赤ら顔が視線を向けたその先。そこには、近代化改修の一環としてプラウド・オブ・ユー号の艦橋内に増設された薬液反応式のPRBR検出器が、金魚鉢の中に置かれたエアポンプのようにポコポコと小さく細かい気泡を上げながら沸騰していたからである。 この方式の検出器は深海凄艦が発するパゼスト逆背景放射の距離や線量に反応して薬液が沸騰・変色する使い捨てタイプの検出器である。使い捨てとは言うが専用の触媒石を中に入れて還元させれば完全に劣化しきるまでは繰り返しつかえる上に、動作信頼性も極めて高いので、開戦初期の頃に開発されて以来軍民問わずにずっと使われ続け、電探と連動している新型が世に出回り始めた現在でも第一線で活躍しているという、清く正しく信頼性の高い一品である。「……」「……」 メナイと赤ら顔が見守る中、小さく細かいポコポコは沸騰直前の鍋のようなグツグツグラグラへとゆっくりと変わっていき、薬液自体の色も濃い青紫から青、青から赤紫、そして濁った血液色へと瞬く間に変化していった。 軍学校でも散々教えられたはずだが、赤ら顔はそれが何を意味するのか思い出せていなかったようで、ただぽけっと眺めているだけであった。 対するメナイも似たような物だったが、彼の生存本能と戦闘経験が体をハイジャック。咄嗟に無線機をつかみ取り、全周波数帯で叫んだ。「PRBR検出デバイスにhit! 総員、戦闘配置!!」 言うが早いか、メナイはコンソール脇の、Cの字型をした簡易固定器具にセットされていたPRBR検出デバイスを取り外すと、それを片手に持ち、身体ごと前後左右へと忙しなく向け始めた。なんと薬液の沸騰速度の大小で、深海凄艦の出現方位を見極めようとしているのだ。傍から見ているとただの間抜けか、あるいは何かの儀式にしか見えないが、やってる本人はいたって大真面目である。メナイは、深海凄艦の恐怖をよく知っているからだ。 ソナーも効かない海の底から、対応が間に合わない速度で、超至近距離に急速浮上してくるのが連中の、深海凄艦のお家芸なのだから。「! 見つけた! 11時方向、距離至近!!」『こちらでも確認しました! 5時方向です!!』 無線越しに入った基地司令からの報告に、メナイは疑問を懐いた。反対方向じゃねぇか。と。 メナイと赤ら顔の乗る『プラウド・オブ・ユー号』から見て11時方向にあるのは、戦闘艦本来の姿に戻って先行している護衛の駆逐艦娘『敷波』と、波風穏やかな海面に、すでに夜色に包まれた水平線。ただそれらだけがあった。対して、基地司令と敷波から見て5時方向にはメナイと赤ら顔の乗る旧式のヨルムンガンド級輸送艦『プラウド・オブ・ユー号』に、波風穏やかな海面に、水平線に着くか着かないかの辺りにまで沈んだ太陽に染め上げられた赤い空に、 そして、二隻のちょうど中間地点には、一ヶ所だけが真っ黒に染まった部分があった。 まさか。とメナイと赤ら顔、そして基地司令と敷波の意識がその一点に注目するのとほぼ同時に、その黒い部分を下から押しのけるようにして巨大な物体が浮上し、白い航跡を曳きながら二隻の間を並走し始めた。 上下をひっくり返した人間の頭部のような形状をした鋼鉄の下半身、その口の中から生えている死人色の肌をした頭の無い女性の上半身、ヤドカリの殻よろしく背中に山と積まれた対空機銃と主砲群の塔。 軽巡ホ級。 それがこの深海凄艦の名前であり、世界で初めて確認された軽巡級の深海凄艦である。同時に、深海凄艦側勢力の中で最初に魚雷を装備・運用した第二世代型深海凄艦の先駆けでもあり、世界で最初に『深海凄艦』という名称で呼ばれた種でもある。 特筆すべきはこの、明らかに非自然的で名状しがたきおぞましい外見(これは他の軽巡種にも言えるのだが)と、魚雷という明らかな兵器を搭載している点に尽きる。 分かり易く言うとこのホ級は『深海凄艦=野生動物説』を完全に否定し、それ(深海凄艦)は悪意ある不明勢力の戦争兵器であり、害獣駆除の延長ではなく明確な戦争であると世界的に認識させた、性能的には兎も角、歴史的には極めて重要な種なのである。「あ……あ……!」 赤ら顔は、そのホ級のあまりのおぞましさに、手にしたウィスキー瓶の中身が零れ落ち、股間を濡らしている事にも気付かない。 そんな赤ら顔の事など知る由も無いホ級がプラウド・オブ・ユー号の方を向き、下半身で大きく吠える。 戦咆哮――――ウォークライ。 人間の可聴域を大きく下回る無音の周波数が、かなりの厚みがあるはずの窓ガラスを貫通し、メナイと赤ら顔を、その肺腑の奥までビリビリと振るわせる。その際、ホ級の顎の下に隠れている女性型の頭部があるはずの部分を2人はちらりと覗いてしまった。「「――――ッ!?」」 過去の戦闘で散々見慣れたはずのメナイですら総毛立ち、赤ら顔に至っては顔から完全に血の気が引き、口から泡を吹いた。 ホ級のウォークライを聞きつけて、プラウド・オブ・ユー号より若干離れた後方に、更に3隻の駆逐イ級が浮上してくる。赤ら顔はとうとう『アイエエエエ』と失禁しながら発狂し、メナイはしがみ付いたままだった無線機に向かって『て敵艦見ゆ! 正志木司令、攻撃を!』と叫んだ。『アイエエエエエエ! アイエエエエエエ!!』『し、司令官ー!?』『たくさん! 深海凄艦こんなにたくさんナンデ!?』 無線の向こう側の基地司令も発狂していた。 メナイは唯一の戦闘担当が使い物にならなくなった事に思わず頭を抱えたくなったが、敵はそんな事をする猶予を与えてくれなかった。敵艦発砲。後方から浮上した3匹のイ級が吐きだした主砲から吐きだされた砲弾が、プラウド・オブ・ユー号の周囲に盛大な水柱をいくつも上げる。赤ら顔は相変わらず『アイエエエ』と情けない悲鳴を上げ、盛大に涙と鼻水を垂らして失禁までしていたが、的確な艦体操作で直撃弾を避け、増速して散布界から抜け出そうとしていた。 そしてメナイは、視界の端で追い越しそうになっていたホ級の主砲がわずかに動いた様な気がして、敵の狙いに気が付いた。「! 艦長速度そのまま! このままだとホ級の前に出ちまう、撃たれるぞ!!」「アイエッ!?」 赤ら顔が全力で取舵を切る。ちょうど背後に回り切ったホ級が、ヤドカリの殻よろしく背負った砲塔群からの水平射撃を行うも、辛うじてその殆どを回避。避け損なった対空機銃による機銃掃射でコンテナに醜いミシン目が付くも、被害らしい被害はそれだけで済んだ。どうやら中に積んだままの燃料弾薬は無事だったようだ。もしも駄目だった場合、こんな小さなオンボロ輸送艦など木端も微塵も残さず蒸発する程度の量の燃料弾薬が積まれているのだから。 続けて無線に叫ぶ。『アイエエエエエエ! アイエエエエエエ!!』「正志木少佐! 何時までもそんな悲鳴を上げていると、佳弥=サンに笑われますぞ!!」『敷波。超零距離砲打撃戦用意。まずは最寄りのホ級から片づけるぞ』『えっ? あ、あっはい』 効果覿面。無線の向こう側の基地司令は一瞬の間断も無く冷静さを取り戻し、程なくして敷波の第三砲塔が火を噴いた。水平に寝かせられたままの50口径12.7ミリ連装砲から吐き出された2発の砲弾は即座に着弾。ホ級は咄嗟に片腕を掲げるもまったく間に合わず、顎の中の胸元に着弾した砲弾は死人色をした表皮部分を貫いて即座に爆発した。 ホ級は爆発の衝撃で仰向けに倒れ込みそうになるも、両腕で宙を掻いて何とかバランスを回復。下手人である敷波の方に向き直ると再びのウォークライ。続けて主砲も対空砲も、動かせる砲を全て敷波に指向する。 それに構わず敷波が第二射。次は砲塔群の天辺付近に着弾。再び仰向けに倒れ込みそうになる。ホ級は慌てて手を伸ばしてバランスを取ろうとするも、重心の都合上失敗に終わり、盛大な水柱を上げて横転した。しかもよりにもよって、そのホ級の真後ろを追従する形になっていた駆逐イ級3匹が横転したホ級と正面衝突。辛うじて回避できた1匹を除いて、ホ級とイ級2匹が後方に脱落する。その最後の一匹も敷波と砲撃戦を行うも、数度の至近弾の後に直撃を貰い、内側から爆発四散した。 今までの醜態がまるで嘘であるかのような、その鮮やかな一連の動作に、メナイは呆気に取られた。『いやはや。メナイ少佐、お恥ずかしい所をお見せしました。何せ駆逐イ級以外の深海凄艦など教本でしか見た事が無かったもので。少し取り乱してしまいました』「。ぜ」 絶対嘘だろ。それ。 メナイがそう口を開こうとした瞬間、ずっと手に握りしめたままだったPRBR検出デバイスが、もの凄い高熱を発し始めた。「熱ッ!?」 反射的に手放したガラス瓶は艦橋の床に当たって盛大に割れ、中に封入されていた薬液が放射状に飛び散った。液体は、たっぷりと酸素を含んだ新鮮な血液色に変色し、完全に沸騰していた。 深海凄艦がいる。まだ。近くに。「正志木少佐! まだ敵がいる!!」『司令官! 正面、敵増援! 数1、何か見た事ない奴!!』『あれは……メナイ少佐、アレは一体、何なんでしょうか!?』「あれは――――」 進行方向の先。黄昏時の死に逝く光に照らし出された巨大な水柱の中から何かが出てくる。 怪物の頭のような下半身。女性の形をした上半身。生き物らしからぬほど青ざめた白い肌。灰色の物質で装甲化された右腕と細くて白い生身の左腕。鼻から上を覆い、左眼だけを露出した、白磁あるいは骨のように白くて硬質な仮面を被った黒のソバージュヘア。 艦娘を生み出した元凶。「あれは――――雷巡チ級か!」『あれが雷巡チ級……』『初めて見……撃ってきた!』 既に夜闇に包まれた敷波の前方遠くから、雷巡チ級がその装甲化された右腕をこちらに指向する。手のひらに空いた大穴から発砲。敷波どころかその後方のプラウド・オブ・ユー号のはるか後方に着弾。盛大な水柱を上げる。 チ級は続けて第二、第三射と砲撃を続けるも、至近弾すら得ていない。それに業を煮やしたのか、チ級は砲撃を続行しながら前進を開始。彼我の距離を詰め始める。『敷波!』『了解! 砲雷撃戦、もいちど始めるよっ!』 基地司令も敷波も、雷巡チ級が接近してくる事を悟り、艦前方の第一、第二主砲で牽制。数発では済まない数が直撃するも、第三世代型の深海凄艦が持つ対艦装甲は、ただの一発たりとも致命傷には至らせなかった。挙句、折角ついた幾許かの傷すらも見える速度で自己修復が行われ、結果として、敷波からの攻撃は全て無駄に終わった。「自己再生……! これが深海凄艦の主力か!」 右腕を天高く振り上げたチ級が敷波との正面衝突コースに乗るも、敷波が即座に主砲で顔面を狙撃。左眼付近に生じた衝撃と音でチ級が反射的に上半身を振った結果、直撃は避けられたが、イタチッ屁で振るわれた右腕が敷波の艦橋天辺付近を掠め、そこにあったマスト固定用のワイヤーに引っ掛かかるも、勢い衰えずに腕を振り抜いてそのままワイヤーを引き千切った。 固定の緩んだメインマストが、波に揺られる艦に従って右に左にと、金属が軋む時特有の不吉な低音を立ててしなり始める。「いかん、また来るぞ!」 敷波とプラウド・オブ・ユー号の背後へと通り過ぎたチ級が、人の形をした生身の左手を海面に突き刺して急減速とターン。およそ通常艦艇では実現不可能な鋭すぎるUターンで即座に反転。後方より再追撃を開始。敷波は後部第三砲塔で抵抗するも、チ級は今の一航過で学習したらしく、装甲化された右腕を垂直に構えて顔面から胸元までをしっかりとガードしていた。 そして、チ級の航行速度も加速性能も、敷波やプラウド・オブ・ユー号のそれらを凌駕していた。「押し潰す気か!?」 つまりこの時点で、基地司令には、敷波には、対抗手段は残されていなかった。 たった一つを除いては。『司令官、超展開! 超展開しようよ!!』「……」 敷波が自己判断による砲撃でほんのわずかにも満たない時間と距離を稼ぎながら基地司令に問う。自分は、ひいては艦娘とは、まさにあの雷巡チ級を倒すために生み出されたのではないのかと。 基地司令もまた自問自答する。果たして、敷波を『超展開』させてしまってもいいのだろうかと。今ここで『超展開』を行い、あの雷巡チ級を倒す。軍の教本にも書いてある通り、その方針に間違いは無い。だがもし、もしも万が一、この敷波に何かあったらと思うと、たまらなく怖いのだ。 それに、先ほど水平線の先で大きな光が一瞬走ったのが見えた。恐らくはブイン島に居た漣が『展開』した際の光だろう。つまり異変に気付いてこちらに向かってきているという事だろう。ならば、ならばもう少しだけこのまま耐えていれば、敷波と漣、二隻による数の暴力で例え深海凄艦の主力級といえども、 衝撃。「ぉっおおああっ!?」『きゃあああああ!!』 基地司令の乗る敷波が、地震でも来たかのように激しく揺すぶられる。艦長席から振り落とされそうになっている基地司令が両腕で椅子にしがみつき、艦橋から外を見る。驚愕で目を見開く。いつの間にか敷波に追いついていたチ級が、敷波の艦体に両腕で掴みかかっていたのだ。怪獣映画か何かのような光景が、夕陽の残滓だけが残る夜のブイン島近海に繰り広げられる。 続けてチ級が、絡みつかせるようにして左腕一本で敷波の艦体を固定すると、握り拳を作って右腕を大きく振りかざした。 位置的に見えるはずなど無いのに、基地司令はこの時、艦尾付近にしがみついている雷巡チ級がそうしたのを確かに知覚していた。 ――――まさか、叩き割る気か!? 基地司令の生存本能が、恐怖で過冷却される。この時、基地司令の身体は既に本能的に行動を開始しており、迷路のように複雑怪奇なシートベルトを正しく締め、物理キーボードで敷波に準備を命じていた。 チ級がわずかに上半身を後ろに逸らす。渾身の力を込めて右腕を振り降ろさんとしたその瞬間、死の恐怖に追われた基地司令と全ての準備を完了させた敷波が同時に叫ぶ。「『敷波、超展開!!』」 基地司令と敷波の掛け声に答えるかのように、船体が太陽のように激しい光を放ち始め、輝く。 丁度その時、基地司令の脳裏には次々とありえない記憶と思い出が次々と浮かんでは消えていった。 音の無い雪の夜、さよなら京都、壊れかけのダルマストーブの上に置かれたくすんだ真鍮色のヤカン、楽しかった修学学校も今日でお終い、そのヤカンが噴き出す湯気の音、来た時に乗ったのと同じ新幹線、派出所の入り口付近に吹き込み始めたベタ雪、あそだお父さんに連絡しとこー、戸を閉めようとしたら鳴りだした電話、通路側のミドリちゃんに断って座席を立つ、受話器の向こうから聞こえてきた同僚の声、突然の無重力、何を言っている、迫る壁迫る天井迫るマイナスG鳴り響く急ブレーキ音、佳弥の乗った新幹線が、 そして――――【敷波、超展開完了! 機関出力120%、維持限界まであと3分!!】 光が晴れたその時にはもう、そこには駆逐艦としての『敷波』は何処にもいなかった。代わりに、雷巡チ級に腰を小脇に抱えられた、艦娘としての敷波がそこにいた。 ただ、そのサイズだけが巨大だった。 特撮映画か何かに出てくる巨大ロボットのような巨大さで、左胸付近からは燃え盛る真夏の太陽のような動力炉の輝きが装甲越しにもはっきりと見え、心臓の鼓動の様に規則正しく汽笛と排煙を背中の艤装から吐きだし続けていた。 これこそが超展開――――深海凄艦、ひいては雷巡チ級を打倒するために艦娘に搭載された特殊システムであり、この状況を打開できる唯一の手段だった。 ――――敷波、大丈夫か?【大丈夫、心配いらないって!】 返事と同時に敷波が後ろも見ずに肘打ち。突然の閃光で目を眩まされていたチ級の顎に直撃。その衝撃で敷波の拘束が外れ、全身を覆い隠すほどの水柱を立てながら海中に没する。 敷波が立ち上がると同時にチ級の腰に上半身全てでしがみ付く――――クリンチ密着。振り下ろされかけていたチ級の装甲化された右腕をそれで回避する。 チ級がさらに何かをするよりも先に、敷波がクリンチを維持したまま盛大な波飛沫を立てながら背後に回り込むと、そこで両腕を離して拳をフリーにする。「超展開による近接格闘……そう、それだ! それがいい! それがベスト!!」「ワッザ!? ヘンシン!? ヘンシンナンデ!?」 艦娘の『超展開』など既に見慣れたメナイは何とも無かったが、それを初めて――――しかもこのような至近距離で!――――見せられた赤ら顔は急性のMRS(面妖な変態技術・リアリティ・ショック)を発症。再び『アイエエエ』と情けない悲鳴を上げながらも何とか操舵に専念する。 そんな2人の事など露知らぬ基地司令と敷波はチ級の背後に回り込むと、左手でチ級の頭部の仮面に掴みかかり、残った右手で後頭部に拳のラッシュを叩き込む。漫画やアニメによく出てくるようなそれと比べれば鈍重もいいところだったが、それでも一撃一撃の重さは確かな物であるらしく、少し距離があるはずのメナイと赤ら顔の乗るプラウド・オブ・ユー号の所にも、大岩同士をぶつけた時のような轟低音とビリビリとした振動がはっきりと伝わってきていた。【ふんっ……ぎぎぎ……!】 後頭部へのラッシュで体勢を崩したチ級の腰と首をつかむと、頭上高くに担ぎ上げる。そして前方へと放り投げる。【そぉい!!】 技も何もない、ただ豪快なだけの投げ技。チ級という大質量が海面に叩き付けられた衝撃で、これまでで最も大きな水柱が上がる。「OH、YES!」「「「よっしゃいけ! そこだ、やれ、やっちまえ!!」」」 メナイと赤ら顔だけではない。少数の人員でも運用できるのが数少ない利点である『プラウド・オブ・ユー号』に乗り込んでいた、その数少ない乗組員全員がいつの間にか甲板に乗り出し、敷波を応援していた。 当の赤ら顔でさえいつの間にか全身全霊でウィスキー瓶片手に敷波を応援していた。ここまで見事な手の平返しは早々お目に掛かれるもんじゃあない。 ――――敷波!【オッケー! 61センチ三連装魚雷、発射ぁ!!】 基地司令が命令。それを受け取った艦娘としての敷波が『敷波』の艦体を操作し、海中に隠れていた両太ももに装備されていた魚雷発射管を前方に指向。発射。もがきにもがいてようやく海面に顔を出したチ級に向かって、窒素の気泡で出来た雷跡が6つ、突き刺さる。 爆発混じりの水柱が立ちあがる。水柱が収まった後には、身体を傾げさせ、ゆっくりと水底へと還って逝く雷巡チ級の姿があった。 勝った。終わった。 誰もがそう思った一瞬の隙をついて、水中から隠密接近して来ていた軽巡ホ級が敷波の背後から飛び掛かり、組み付く。「「「「「NOOOOOOOOOOOO!!!!!!?」」」」」 それを見てメナイと赤ら顔、プラウド・オブ・ユー号の乗組員全員が一斉に悲鳴を上げる。 だが、敷波と繋がった基地司令の肉体が反射や痙攣と同じメカニズムで対応。艦体としての敷波が背後を振り向きつつ回された腕を掴み、首元の皮をえぐり取らんばかりの強さで握り掴み、再び上半身全てで前方に振り向きつつ、勢い良くお辞儀をするかのように上半身を振り下ろした。 艦娘式一本背負い。 海底に叩き付けられたホ級の顎の中の顎の下――――女性型の上半身の頭部があると思われる部分に、12.7センチ連装砲を突きつけ、発射。 夜色に染まり切った海中より小さな爆発が起こったかと思うと、名状しがたき冒涜的な小肉片がいくつか浮かんでは沈んで行った。 ホ級は、最後まで浮かんでこなかった。「「「「「YEARRRRRRRRRR!!!!」」」」」 それを見てメナイと赤ら顔、プラウド・オブ・ユー号の乗組員全員が盛大な歓声を上げる。当座の危機は去ったと、敷波が踵を返す。敷波の艦体が色の無い濃霧に包まれ、駆逐艦本来の姿に戻って行く。 その時だった。 最早沈み逝くだけだった雷巡チ級が、最後の力を振り絞って一発の魚雷を発射。敷波は背後を向いていたから気付かなかったし、タイミングも最悪だった。超展開状態から通常展開状態への移行途中に直撃したのだ。存在自体があやふやで、中途半端な、最も危険な状態の時に。 色の無い濃霧の中で爆発。 基地司令はこの時確かに、爆発が背中を貫いて肺にまで達する幻覚を感じ、同時に、その痛覚の殆どすべてを敷波が持っていった事を理解した。 その一撃を見届ける事無く雷巡チ級は力尽き、生物学的な機密保持プロセスが働いて真っ黒いヘドロ状にグズグズと分解されていったが、そんな事を気にしている者はこの場のどこにもいなかった。 霧が晴れ、駆逐艦本来の姿に戻った時、敷波はまだ航行可能だった。 まだ。「し、敷波……敷波!?」 致命傷だった。 魚雷は水の中を進んでいたはずだったが、存在があやふやな瞬間に直撃したためか艦尾付近の甲板上に大穴が開いており、そこから次々と、心臓の鼓動のような一定のリズムで、真っ黒な統一規格燃料が流れ出していた。『ご主人様~。漣、援軍に到着しまし』「漣戻れ! 敷波がやられた!! 早く、早くバケツ!!」 全周波数帯で流された基地司令からの絶叫に対して漣からの返答は無く、代わりに、片舷の係留用アンカーを海中に落としての駆逐艦ドリフトで急速回頭。既に目と鼻の先にあったブイン島にい向けて全開出力で駆け戻る。 そして、敷波もそう間を置かずにブイン島に帰還した。 いつもの桟橋ではなく最寄りの砂浜に座礁するかのように接岸した敷波を再び色の無い濃霧が艦体を包み込む。そしてそれが晴れた時にはもう、駆逐艦としての敷波はどこにもなく、代わりに敷波を背負ってプラウド・オブ・ユー号の医務室に走り出した基地司令達の姿だけがあった。「頑張れ敷波! 今漣がバケツ持って来るからな! だからもうちょっとの辛抱だぞ!?」「……ぉ」「しっかり、しっかりしろよ!!」 敷波の背中、セーラー服に隠れた右肺の辺りには大きな穴が開いており、そこからは敷波の心臓の鼓動に合わせて真っ赤な血――――夜闇の中ではなお一層暗く見えた――――が噴き出していた。「し、司令官……寒い、よ」「ああ、大丈夫だ! すぐに暖めてやる!!」「寒い、けど、何か、昔を思い出す、ね……」「え……?」 一瞬呆然とした基地司令の事にも気が付かず敷波は、彼の背中の上で目を閉じながら、懐かしそうな表情を浮かべて呟く。「ほら、私が 小学生だった頃、しばふ村に大雪、降った じゃん。私、も学校で熱、出しちゃって、こうしてお父さんに 、家まで……」「お前、まさか、記憶が……?」 基地司令の頬に、涙が伝う。 雪の夜。無音の夜。深い呼吸と踏みしめられた雪の足音。白く埋もれた村の公道。背中から伝わる温もり。 思い出すのは、かつての生まれ故郷のありふれた景色や思い出ばかりだ。「ああ、やっぱり。やっぱり、お父さんだ。ごめんね、今まで、何で、司令官だなんて呼んでたんだろ……」「どけジジイ! その娘の背中見せろ!!」 医務室のベッドにうつ伏せに寝かせられた敷波の背中に、赤ら顔が医務室の壁に据え付けてあった救急ボックスから引っ張り出した止血ガーゼとジェルを傷口に押し当て、圧迫止血を試みていた。医務室に入りきらなかった他のクルー達も、廊下で固唾を飲んで見守っていた。 赤ら顔の指の隙間からこぼれ落ちる赤色は、その勢いをまるで減じさせていなかった。「メディック! 早くオペを!」「無理だ! 今お前さんが抑えてる手を離したら傷口から血が一気に噴き出しちまう! 血圧の急低下でショック死するぞ!?」「クソッたれがッッ!!」「ご主人様! バケツ、バケツ持ってきました!!」 雲一つない満天の星空の下、一足先に基地に戻った漣両手に高速修復材の入ったバケツを持って砂浜を駆け抜け、まったくの減速をせずにプラウド・オブ・ユー号に乗り込み、廊下に突撃してくる。 今、この状況を打開できる魔法のアイテムの到着だ。誰もがそう考え、一斉に道を開けた。 そしてあろうことか漣は扉の出っ張りにつま先を引っ掛けてコケた。盛大にコケて、バケツは2つとも盛大にひっくり返り、床に数回バウンドして蓋が完全に外れて取れた。誰もが悲鳴を上げる。 バケツの中身は、一滴たりとも出てこなかった。「え……?」 誰もが状況を理解できなかった。ただ、転がったバケツの底のほんの一部分。そこが真っ赤に錆びていて小さな穴が開いていたのが見えた。 このバケツの共通点らしい共通点と言えば、どちらも空気や金属に触れると急速に反応してすぐに使い物にならなくなってしまうために、ペンキで表面を完全に塗りつぶしたブリキ製の保管容器に入っている事と、熱着式のプラスチック製の蓋で封印してあるくらいのものである。「まさか……ずっと前から……?」 あの戸棚の上に置きっぱなしで、何年間も触ってすらいなかったから。直感的にその答えが脳裏をよぎった漣は立ち上がる力を失い、その場に力無く座り込んだ。「寒い、寒いよ……今日は寒いね、 お父さん ……コタツ、片付け、たの、早まったかな……?」「敷波、しっかり! しっかりしてくれ……!」 基地司令が敷波の手を握って叫ぶ。赤ら顔はただ無表情で止血ガーゼとジェルを傷口に押し当て、圧迫止血を試みていた。 血は、もうほとんど噴き出していなかった。「あ……どうも初めまして。綾波型、2番艦の 艦娘式、艦娘式綾波型、2番艦、2番、2番……敷波です。以後よろ、 しく……。シリアルコードは」 そこからしばらくの間、敷波は、ずっと自分のシリアルコードを繰り返し呟いていた。 そして、その場にいる誰もがそれをただ黙って聞いていた。「GHOST_IN_THIS_SHELL.……我が生涯を戦友と共に過ごし、我が任務を……暁の水平 、に勝利、を、司令官に……お父 さ ん ……」 お父さんの手、あったかい。 敷波は最後に、基地司令の方を向いて確かにそう呟いた。 艦娘式特Ⅱ型駆逐艦2番艦『敷波』の心臓は、夜明けを迎えるよりもずっと前に止まった。 本日の戦果: 駆逐イ級 ×3 軽巡ホ級 ×1 雷巡チ級 ×1(※1) 各種特別手当: 大形艦種撃沈手当 緊急出撃手当 國民健康保険料免除 以上 本日の被害: 駆逐艦『敷波』:轟沈(魚雷の直撃による) 駆逐艦 『漣』:健在 各種特別手当: 入渠ドック使用料全額免除 各種物資の最優先配給 以上 ※1 信憑性に欠ける報告であると判断されました。後日、調査隊がブイン基地に派遣されます。 あの夜から数日後。 ブイン基地は、南方海域は、今まで通り出撃の必要も無いほど穏やかな日々が続いていた。『南方海域に雷巡チ級が出た』という報告を受けて、護衛部隊を引き連れた調査隊がやって来た以外には何の変哲も無い、本当に変わり映えのしない日々が戻って来ていた。 ただ、敷波がいない事を除けば。「隣、失礼します」「……メナイ少佐、でしたか」 ブイン基地(という名前の丸太小屋)から少し歩いた先にある、小さな崖の上の小さな岬。そこが敷波を埋葬した場所だ。 そこにある、墓石と呼ぶにもおこがましい、歪な形をした黒石からは今日も変わらぬ青い空と青い水平線とブイン基地(という名前の丸太小屋)が良く見えた。 そして、そんな丸太小屋の近くに横たわるヤシの倒木を椅子代わりにして海を眺めている、基地司令とメナイ少佐の姿も良く見えた。「……敷波、いや、佳弥はな。あの子が3つの時に死んだ息子夫婦の忘れ形見だったんだよ。夫婦そろって帝国海軍。太平洋戦線のナントカっていう島で名誉の戦死だったそうだ」「……」 基地司令が懐から一枚の写真を取り出す。 四隅がよれて歪み、色褪せ始めた写真には、警察官の制服を着て破顔しながら敬礼する当時の基地司令の姿と、屈託のない笑顔でそれに寄り添う敷波の姿が写っていた。「だからかな。物心ついた時にはもう私の事を『お父さんお父さん』って呼んでてな……」「……」「修学旅行から帰る際の新幹線の事故だと聞いていた。だが、佳弥だけはいつまで経っても指先1つ、骨1つ見つからなかった……」「……」「それから何ヶ月かして、私の元に息子の元部下だという軍人さんがやって来て、一枚の写真を見せてくれた……何が映っていたと思う?」 メナイは、答えられなかった。その答えはおそらく、自分がかつて経験したのと同じ事だっただろうと直感的に予測できたからだ。「その写真を見て、気が付いたら海軍のインスタント提督に志願していたよ。そこで再開した敷波は……佳弥は、もう、昔の佳弥じゃなかった」「……心中、お察しします」「――――ッ!!」 その一言を聞いた瞬間、基地司令は思わずメナイの胸ぐらを掴み上げていた。「貴様に何が分かる!」 それこそまさしく、目に入れても痛くないほどの存在を、失ったこの感覚が分かるものか。 そう絶叫する基地司令に対し、メナイは「分かりますよ」と答え、器用にも掴み上げられた姿勢のまま懐から一枚の写真を取り出した。 そこに写っていたのは、どこかの牧場を背景に、勢いよく水を吐きだしているホースを片手に前かがみになってこちらを向いているタンクトップとジーンズ姿の金髪碧眼の少女の姿だった。バストは実際ぱんぱかぱかぱかぱーんだった。「彼女は確か、高雄型の重巡『愛宕』……」「ハナです」 私の実娘です。と写真を眺め呟くメナイ少佐の表情は穏やかで、そして寂しげだった。「帝国の攘夷過激派によるハイジャックだったと聞いていました。そして、太平洋沖の空中高くで自爆して、乗員乗客の死体は何一つ残らなかったと。ですがその事件の数ヶ月後にあった、帝豪合同海軍演習に出てきた最新型の艦娘のアタゴは、アタゴは……間違い無くハナでした」「……」「だから、私にも分かる。分かってしまうんですよ」 次は、基地司令が絶句する番であった。「それに、私は貴方に希望をいただいた」 希望? 思わぬ単語に、基地司令はメナイの方に向き直る。対するメナイも真顔で続けた。「希望です。カンムスには、カンムスの素体となった少女の記憶は宿らない。何故ならば、その2人が共有しているのはDNAのみ。記憶とは、その個人の経験値。ゲームか何かのデータのように引き継げるわけではない。ですが、」 ですが、あのシキナミは、貴方の事を――――自分の父親の事を思い出したじゃあありませんか。 その一言に、基地司令の胸の中にあった何かがストンと落ちた。 掴んでいたままだった胸ぐらを離す。「……そうか。そう、だったな」「ですから、あの子は間違い無く貴方のお子さんですよ」「ああ。そうだ。そうだとも。ずっと、ずっとそんな簡単な事にも気付いてやれなくてすまなかった。すまなかったな、佳弥――――」 基地司令が敷波の眠る墓を振り返ると、墓が暴き返されている真っ最中であった。「な、何をするだぁぁぁァァァ――――――――!!!!!????」 基地司令の突然の絶叫に、思わずメナイも背後を振り返り、目を見開いた。数日前からブイン沖に停泊していた調査船の連中が、今まさにちょうど黒い死体袋のジッパーを閉め、担架に載せて担ぎ上げていた所だった。 基地司令は、一切躊躇わなかった。 腰のホルスターに収めてあった9ミリ拳銃を抜き、担架の前を担いでいた奴に向けて全弾発砲。軽い炸裂音が9回連続で鳴り響き、吐きだされた9ミリパラベラム弾はしかし、突如割り込んできた人影の背中にあった煙突状の艤装に全て弾かれた。 短いポニーテールで纏めた少し長めの栗茶色の髪。ほぼ同色のスカーフと襟のセーラー服。どことなくイモっぽく、これといって特徴の無い目鼻顔立ちに、思わず指先でつつきまわしたくなるようなふにふにとしたほっぺた。 そして、背中に背負った巨大な煙突型の金属筒。 メナイも基地司令も、よく知った顔だった。 艦娘式特Ⅱ型駆逐艦2番艦『敷波』 そのよく見知った顔が、能面か何かのような無表情のまま、12.7センチ連装砲を2人に向けて構えていた。「抵抗確認。排除」「待て」 敷波のトリガーが引かれる直前、調査員の1人が待ったをかけた。声からして男のようだった。 見上げる二人からは、太陽の光が邪魔で男の顔はハッキリと見えなかった。「正志木清巡査長。入隊前に書類説明はしていたはずだがどういう事だ? 撃破された艦娘の残骸は破片1つ、体液1つに至るまで回収し、不可能な場合は焼却処分されると。これは機密保護のためいかなる状況や理由よりも優先されると、私自らがそう説明したはずだぞ」「説明……!?」 説明自体は正志木こと基地司令もはっきりと覚えている。だが、あの時、薄暗い会議室にいたのは自分と――――「まさか……あなたが何故、何故こんな所にいるのですか!? 警視総監殿!!」「久しぶりだな巡査長。艦娘の死骸を回収するのは機密保持のためだと言ったはずだ。そして、私がここまで来た理由は純粋な人手不足なだけだ」 警視総監と呼ばれた男が片手をかざす。それを合図にして、2人と、その周囲に隠れて調査員たちを包囲していたはずのメナイ艦隊の陸戦隊の面々が逆包囲される。 調査隊の戦闘力は、黒色のガスマスクとボディアーマーと89式自動小銃で統一された人間達と、やはり銃火器で武装した艦娘らによる混成部隊だった。 この距離と状況で人間を殺すのに、大砲はいらない。「「……」」 メナイも咄嗟に拳銃を抜いて照準するも、手出しできない状況だった。 更に最悪な事に、沖合にはいつの間にか駆逐艦娘が『展開』しており、その主砲と対空砲の全てをこちらに指向していた。この状況では、こちらが引き金を引くよりも早く、こちらがハチの巣にされる。「Team艦娘TYPE、保安二課としての権限を持って命令する。この艦娘の死骸は回収する! ……おい、船に積み込め」「了解」「ま、待て!!」「抵抗確認。排除」 そう叫けんで駆け出しそうになった基地司令を、包囲していた混成部隊の一人である敷波がボディを殴りつけて無力化する。見てくれと原材料は少女でも、その実は生物兵器である。 およそ華奢な少女の見かけを裏切る破壊力のボディブローを撃ち込まれて基地司令は一瞬宙に浮き、その場に跪くとそのままずるずると崩れ落ちた。そんな基地司令の脇を通り抜ける様にして、混成部隊の面々が撤収を始める。奇声を上げて漣が死体袋を担いでいた奴に飛び付くも、別の敷波にあっさりと蹴り解かれた。 浜辺に停泊していたボートに調査団の面々が乗り込み始めた頃になって、もうどうしようもないのだと悟ってしまった漣が、蹴り飛ばされた姿勢のまま盛大に泣き始めた。 ブイン基地の面々からは背中しか見えなかったが、警視総監はボートに乗り込む直前、顔をしかめて呟いた。「……巡査長。これは正義の行いだ。艦娘の技術的優位性を守る事は、帝国臣民の安心と安全な日々を守る事に繋がっているのだ。これは、その為に必要な措置なのだ。分かってくれ」「ま、待て……! 待つ、んだ、佳弥……」 どの敷波も、一瞥すらしなかった。 それからさらに数日後。「佳弥は、天使だったんだ。私だけの、天使だったのに……」 今の基地司令に、かつての見る影は無かった。 丸太小屋の近くに横たわるヤシの倒木を椅子代わりにしてうな垂れ、死んだ魚のような目で足元の砂浜に視線を落としていた。 漣はあの日以来、部屋に閉じこもってずっと泣いていた。やっと外に出てきた今日も、基地司令の隣に座って俯き、べそをかいていた。赤ら顔はアルコールの摂取量がさらに増えていた。敷波の事を悪く言っていたとはいえ、年若く見知った顔が死ぬのは流石に応えたようだ。 メナイもメナイで、かつてのコネを通じて何とか敷波の遺体をブインに返還出来ないかとあれこれ暗躍していたが、帝国側から『だったらお宅の秘密軍港に回収してある、シドニー解放作戦の時に沈んだ艦娘全部返せや』と藪蛇な結果に終わっただけだった。世界最高水準のテクノロジーの塊である艦娘は、例え破片1つ、肉片一つであってもどこの国でも喉から手が出るほど欲しい物なのだ。「私は今まで、正しい事をしていたはずなのに……なのに。その結果が、その仕打ちがこれか!!」 基地司令の憎悪に満ちた慟哭に、漣も泣き止み、顔を上げる。「ご主人様……私、悔しいです……本土の連中、ぐすっ、調査なんて嘘っぱちで、敷波ちゃん、何にも、ひっぐ、悪い事してないのに……」「これが正義というならば! 死んだ娘の1人もきちんと埋葬させないのが正義だというのならば! こんなにも苦しく、悲しいだけの正義など、正義など……要らぬ!!」 あれから、3年と半分が過ぎた。「ムッハハハハハハ! ムッハハハハハハハハハ!!」 あの頃と比べてブイン基地は、だいぶ様変わりしていた。 かつての丸太小屋は二軒ともとうの昔に解体され、二階建てのプレハブ小屋(冷暖房完備)に代わっていた。一階には食堂と通信室と基地司令の執務室。二階にはメナイ少佐の執務室と空き部屋が3つ。小屋とは言うが一部屋一部屋がそこそこ大きく、ちょっとした教室くらいの広さがあった。これを設計した奴は小屋という言葉の意味を辞書で調べてから出直して来い。「止まらん、笑いが止まらんのぅ!!」「ご主人様ただいまー! やっぱご主人様の読み当たってましたよー! ミッドウェーの守備隊、豆味噌と粉末アイスの売れ行き爆ageしてますー!!」「ムッハハハハハハハハハ! そうだろうそうだろう! こっちも相変わらずいい調子だ!! 金(キン)はいつでもどこでも富の象徴だからなぁ!!」 ブイン基地だけでなく、基地司令もまた、敷波の死以来変わってしまっていた。 かつては『戦争が終わったらこの島の観光資源にするのだ』と言っていた洞窟を掘り崩して金を掘り出し、口の堅い相手に売り払っていたのだ。 もちろん、基地司令にはユダヤ人の知り合いなどいないので金(キン)が直接カネに代わるわけではない。狙いは東南アジア各国の中小企業や、そこに子会社を置く大企業だ。現代工業――――特に集積回路など――――の製造過程において、金は必需品である。集積回路一つに使う金の量は微量でも、世界各地に出荷するだけの量を作るとなると話は別だ。そして金は、グラム当たりの単価が高い。 基地司令が目を付けたのはまさにそこで、東南アジア方面に顔の効くブルネイ泊地のシキシキおじさんを仲介として金を捨て値ギリギリで提供。見返りとして各種最新鋭・最高級の電子機材や武器弾薬の類をタダ同然の値で入手していたのだ。 もちろん、現金でも金の取引は受け付けており、基地司令が今しがたラオモトめいて笑っていたのは本土にある帝国郵船との大口取引が大成功に終わったからで、秘密口座の通帳に記載された黒字のゼロの数が何か見た事の無いケタ数にとうとう突入してからであった。「基地司令、201艦隊帰投したぞ」「ただいま帰投しました~。うふふ」 基地の戦力もまた充足しており、基地司令の艦隊は相変わらず漣1人だけだったが、メナイ少佐はかつての乗艦『ストライカー・レントン』とそのクルーを呼び戻す事とオーストラリア本国にて運用されている各種軍用機の少数多種輸入に成功しており、空中と海上における打撃力は確実に向上していた。 そして、メナイ少佐の艦隊には重巡娘『愛宕』が一隻、特例的に追加されていた。勿論条約違反なのだが、今のブイン基地と基地司令には、これだけの横紙破りをやってのけるだけの権力と資金があった。「おお、全員揃ったか。ちょうどいい。グッドニュースだ。また戦力が増えるぞ。それも大幅に、だ」 見ろ。と基地司令が一枚の見開きB5用紙を――――帝国本土の文房具屋ではごくありふれた履歴書だった――――突きつける。メナイと漣と愛宕が揃って顔を近づける。 読む。「えぇと何々……本名、ソコ・ミズノ。本年度7月15日に九十九里浜要塞線第12要塞におけるインスタント提督選抜試験及びインスタント提督としての規定訓練を終了。南方海域ブイン島仮設要塞港への配属とす……ほぅ、新入りか」「初期秘書艦は……コレマジ!? 軽空母『龍驤』!? しかもエスコートパッケージとして第六駆逐隊の『暁』『雷』『響』『電』の4隻も派遣!? 南方海域の時代ktkr!!」「あらあら。素敵な事になってるのねぇ」「この彼らが来るのは数日後だ。各員、それまでに歓迎パーティの準備を済ませておくように」「「「了解!!」」」 基地司令は思う。あと少しだ。あと少し戦力の増強と備蓄に専念すれば、本土の連中に復讐が出来る。と 漣は思う。これだけ一杯戦力があれば、もう、誰もいなくなる事は無いかなぁ。 メナイは思う。Team艦娘TYPE。それが娘を『愛宕』に変えた奴らの組織名。しかと覚えているぞ。 愛宕は思う。この提督、何で私の事をハナって呼ぶのかしら。 4人それぞれの思いを余所に、運命の日はやって来る。 ブイン基地は、南方海域は、今日も変わらぬ平和だった。 エピローグ 目隠輝少佐がブイン基地に配属され、戦艦ル級との夜戦で大破していた深雪が完全復活してからしばらくたった、ある日の事である。「おはようございますなのです! 目隠少佐」「なのです!」 肩紐の無い特注サイズの白い礼服に身を包んだ輝がブイン基地(という名前のプレハブ小屋)の一階にある食堂の扉を開けたところ、ちょうど扉に最寄りの席に座っていた、202と203の電から大きな声であいさつをされた。「うん、おはよう。二人とも。あと、僕、あ、いや、自分の事は輝でいいってば」「それは駄目なのです! プライベートな時間なら兎も角、今はお仕事中なのです!」「そうなのです! 公私混合は駄目なのです!」 2人の電は険しい剣幕(と本人達は思っている)で輝に詰め寄ると、輝は『分かった分かったから』と困った様に笑って、自分の分のトレイを取りに配膳台に向かった。「お、司令官じゃん。おっはよーさん!」「うん、おはよう。深雪」 白い割烹着とマスク、そして給食帽子で完全武装した特Ⅰ型駆逐艦娘『深雪』が、ブリキ製の大ナベに入った各種おかずを輝の持ったトレイ上のお皿に大盛りでよそりながら挨拶し、輝もまた、それに返した。本日の給食当番である深雪は、輝よりも早くに起き出して着替えを済ませ、他の艦娘らが当番日にそうするように、こうして給食おばちゃんのお手伝いをしていたのだ。 そして、大盛りによそられたトレイの中身を見ながら、若干ひきつった声で輝が深雪に問うた。「……深雪」「ん?」「今朝のメニューは、いったい、何なの……?」 ホッカホカの湯気が立つ銀シャリは、油不足で流通の息の根が止まりかけてる帝国本土ではもう本土のカネ持ち権力持ちでもそうそうお目に掛かれないのでグッジョブだ。同じく輪切りのイモがゴロゴロと浮かぶお味噌汁も、まぁ、良しとしよう(※翻訳鎮守府注釈:筆者的にはあぶらげと豆腐とネギがとってもOKです)。 だが、この、ナスの山は一体何なのだろう。「今日の朝ご飯はナスの漬物と、ナスの炒め物と、ナスの煮物と、ナスのサラダと……デザートのナスだぜ」 「「な゙っ!?」」 何でこんなにナス尽くしなんだろ。と当番であるはずの深雪が困惑したような口調で呟いていた。 202と203の電が同時に叫ぶ。「「茄゙子゙ば嫌゙い゙な゙の゙でず!!!!」」「……ほほぅ」 輝の後ろで同じくトレイを抱えていた2人の電に対し、復讐の時は来たれりとでも言わんばかりの薄暗い笑みを顔いっぱいに浮かべた深雪が、ブイン基地着任当初にあった訓練中の事故の復讐を兼ねて、わざわざトングでそれぞれのおかずをひっくり返してナスだけつまみ出し、大盛りを超える特盛でよそっていく。「そんな事言うなってばー。好き嫌いがあると大きくなれないぞー? ほれほれ。深雪スペシャル、行っくぞー!!」「「な゙ー! な゙ー!!」」「復讐するは深雪さまにありー!」「何をやっとるバカ者」 嬉々としてナスの山をこさえていく深雪の隣で、味噌汁をお椀によそっていたもう一人の給食当番である天龍が、器用にも肘で深雪の脳天にゲンコツを落としてその場は収まった。「まったく……折角オレが作ったナスの炒め物無駄にすんじゃねぇ。この電共、こうでもしないとナス食わねえんだからよ」「はぁい……済みませんでした」「おう。解りゃいいんだよ。ほれ、オレ達が最後だ。とっとと皿によそってオレ達も喰うぞ」 そして、最後に残った深雪と天龍がそれぞれ自分の分の朝食を盛り付けて適当な座席に着席すると、いつの間にか集まっていた非番連中と一緒に、個人それぞれのやり方で食事前の口上や儀式を済ませ、朝食が始まった。 因みに、2人の電のトレイに盛られたナスの山の返却は、認められなかった。 茄子がマッシュルーム・サンバしてそうなその朝食後。 ブイン基地の裏側にある小さな浜辺に流れ込んでいる小川で、輝が真っ白なブリーフ一丁になりながら己のシャツとズボンを洗濯し、ついでに自分の顔も洗っていた。「うえぇ、ビチョビチョだぁ……」「大丈夫か、目隠少佐?」 流れ落ちた水に目を閉じていた輝に声が掛けられ、頬に柔らかな何かが押し付けられた感触がした。手に取ってみると、それはよく乾いたふわふわのタオルだった。それで顔の水気を拭い去り、声のした方に顔を向けて目を開けて見ると、そこにはメガネを掛けた細面の男が一人立っていた。「あ、井戸少佐。タオル、ありがとうございました」「どういたしまして……しかし、まさか『鼻から牛乳~♪』をリアルで見れる日が来るとは思ってもいなかったぞ」 原因はこうだ。 本日〇七三〇の朝食の際に、第202艦隊、第203艦隊に所属する2人の電が日課の牛乳一気飲みをしていると、203の電よりも小さな背丈の輝も一気飲みに参加。 その際、輝の背後に座っていた201司令官のメナイ少佐と202司令官の水野中佐の2人の雑談が耳に入り、輝一人だけが盛大にむせて鼻と口と耳から盛大に牛乳の噴水を噴き上げる事になったのだ。「いや、だって、メナイ少佐のご実家が農家を営んでいるとは聞いていましたが……種まきの邪魔だからといって、畑から出土したメタトロンの鉱脈を潰すとか有り得ませんって」 知ってますか? アレ、加工方法の無かった時代のプラチナと同じで今はクズ鉄扱いですけど、有澤とかは将来を見込んで結構な量の買い占めに走ってるんですよ? と差し出されたバスタオルで体もついでに拭きながら輝が続けた。「詳しいな」「そりゃあ僕だって、あ、いえ。自分だって目隠の末席でありますから。有澤程じゃあないにせよ、マテリアル関係にはそれなりにアンテナ張っているのであります」「そういうものなのか?」「そういうものなのであります。目隠の主力商品の一つに、各種マザーマシンがありますけど、あれだって材料一つとっても厳選した物を使わないと、とても売り物にはならないんですよ。あ、いえ。売り物にならないのであります……よ?」「? どうした?」 不思議な物を見たような表情の輝が視線を向けるその先。 そこには、海に突き出した小さな崖の上の小さな岬と、車椅子に乗せられた基地司令、そしてその車椅子を押している基地司令の漣の姿があった。「ああ。そういえば今日だったか」「何がでありますか?」「ああ。俺も、メナイ少佐から聞いただけの話なんだが――――」 このブイン基地の先代総司令が金(キン)の密輸を初めてから少しした頃で、ファントム・メナイ少佐が愛宕も敷波のように記憶を取り戻すかもしれないからと『俺の事はパパと呼べ』と命令していた頃。 故 水野蘇子准将がまだ訓練生扱いで九十九里浜要塞線で血のションベンも出ないくらいにシゴかれていた頃で、その秘書艦(内定済)の『龍驤』が胸に秘めた水野への恋心をどうにかして伝えようと乙女乙女していた頃。 故 井戸枯輝大佐がまだ井戸少佐で、彼を含めたTeam艦娘TYPEの面々が第三世代型深海凄艦のサンプル確保はひょっとして無理なんじゃないかと思い始めた頃。 北方海域でようやくタイプ=エリートの存在が正式に認識された頃で、東部オリョール海がまだオセロ海域と呼ばれていて、敵味方の支配権が当たり前みたいにクルクルと入れ替わっていた頃。 まだ、南方海域自体が二級戦線で、雷巡チ級が出たと言っても誰も信じてくれなかった頃。 これはそんな時代の、そんな南の島の物語である。