初号機と弐号機のATフィールドに挟まれるようにして自爆した零号機は、第3新東京市の西南部をかすめるような溝を残した。定規を当てたようにきれいな一直線は、全長2㎞を越えるんだとか。
今では芦ノ湖の湖水が流れ込んできて、まるで運河みたいになってる。高熱に晒されたせいで岸辺は焼成されてて、さながらガラスの岸壁って感じ。
問題は、この運河がちょっとした市民の憩いの場になってるってコト。
どこぞのタウン誌が夕陽に染まった運河のパノラマ写真に【第3新東京市を彩るリボン・思い人と同じ色に染まりに行こう】なんてキャプションを付けたモンだから、夕暮れ時になるとカップルが岸辺にたむろするようになった。
水面があると糸を垂れたくなるのが釣り人の習性だそうで、釣れるかどうかも判んないのに朝まずめ夕まずめに夜釣りとひっきりなしにアングラーが陣取ってたりする。
水際で涼しいからって、朝夕のジョギングコースに組み込む人。
向こう岸まで届かせるのを目標に、水切り遊びに興じる子供たち。
果ては観光コースの一部になって、大型バスが停まってることもある。
最初のうちは立入禁止地域だったんだけど、押し寄せる市民に対応しきれなくなって諦めたらしい。今や、おざなりに【危険】って看板が立ててあるだけになってるわ。
さて、じゃあなんでワタシたちがこの運河のほとりを歩いてるかっていうと、普段使ってる第七環状線の一部がこの運河のせいで途切れてるからだ。
他の交通機関や代替運行してるバスを使ってもいいんだけど、ちょっと寄り道するくらいいいじゃないって言うアスカの意見で、こうして夕涼みを楽しみながらネルフへ行き来することが多くなった。
♪♪♪♪ ♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪~♪♪~
運河を望む云わば河原のような空き地に、誰が持ち込んだか知らないケド、ベンチがある。
そこに片膝立てて座ってる少年がハミングしてんのは…、ベィトホーフェンのズィンフォニー ヌンマー ノイン?
♪♪♪♪ ♪♪♪♪ ♪♪♪♪♪~~♪♪~~
苦悩を突き抜け、歓喜に至れ…か、…言うは…ううん、唄うは易し…ね。
「歌はいいねぇ」
気にかけず通り過ぎようとしていたシンジが、えっ? と振り返る。
「歌は心を潤してくれる。リリンが生み出した文化の極みだよ。そう、感じないか? 碇シンジ君」
「僕の名を?」
夕陽に染まってて気付かなかったけど、その瞳は赤く、髪は白い。…なんだか、レイに似ているわね。
「知らないモノはないさ。失礼だが、君は自分の立場をもう少しは知ったほうがいいと思うよ」
まるでシンジを守ろうとするかのように、アスカが間に割り込んできた。
「アンタ誰よ」
シンジの後ろにレイが廻り込む。イザというときに引き倒せる位置っぽい。
「僕はカヲル。渚カヲル。君たちと同じ、仕組まれた子供。フィフスチルドレンさ」
「フィフスチルドレン? 君が? あの、渚君?」
「カヲルでいいよ、碇君」
「僕も、シンジでいいよ」
…
…なんで頬っぺたが熱くなったのか、あすかおねぇちゃんに話してみなさい。シンジ君?
***
自爆した零号機の代わりに、伍号機が来ることになったらしい。そのためのフィフスチルドレン選抜だってさ。
かつてのこの頃、ワタシは壊れてさまよってたはず。
だから、伍号機もフィフスも知らない。
どう判断していいものか判らないまま、シンジの求めるままにこうしてフィフスの少年を待っているってワケ。
アスカはさっさとシャワー浴びて帰っちゃったし、レイはそのアスカに引き摺られていってしまったから、シンジは独りベンチでSDATを聞いていた。
≪ 現在、セントラルドグマは開放中。移動ルートは3番を使用してください ≫
テープの走行音だけになったSDATが、B面に切り替わる。でも、次の曲が始まる前にゲートが開いた。
「やぁ、僕を待っててくれたのかい?」
「うん。不案内だろうと思って」
それは助かるよ。と目を細めるような笑み。…だから、なんで頬っぺたが熱くなるのよ。
「それで?」
「うん。折角だからここの大浴場で一汗流して、今晩は僕のところに…って言っても僕も居候の身なんだけど…泊まったらどうかなって思って」
「そんな体裁は大事なコトじゃないよ。シンジ君がカエりたいと思う場所があることが大切なのさ。
それがどこであれ、帰る家…ホームがあるという事実は、幸せにつながる。良いことだよ」
そうだね。って、シンジの微笑み。
そうね。今ならあの家は、家庭と呼べるような気がするわ。…シンジがお母さんで、ミサトがお父さんってのが、なんとも締まんないケドね。
***
シンジがお風呂の時とか、着替える時は、プライバシーを尊重して五感を断つ。
だけど、フィフスと一緒の今、そんな無防備なマネはできない。ワタシが復活した時、伍号機の存在もフィフスのコトも一切話しにでてこなかった。それはつまり、その短期間でコイツはここから居なくなったってコト。それがどういうことなのか、よく判んないケド、油断してイイってわけじゃないわ。
だから、フィフスの少年を監視するため、何かあったときのためって言い聞かせてるんだけど…
男湯を覗き見してるようなこの後ろめたさはどうしたものかしら…
…いや、実際覗き見してるわけだけどさ…
へぇ~、渚カヲルって言ったっけ、フィフスの少年もなかなか…って、ちっが~う!!バカシンジ!そいつの方ばっかり見るんじゃないわよ!だからついワタシも、って、もうイヤ~
うぅ…どうしよう… 汚れちゃってるよぅ……
…覗いてんじゃない。…覗いてんじゃない。ワタシは決して覗いてんじゃないわ。必死にシンジの視界の隅、ネルフマークの湯桶に意識を集中して、自己暗示をかける。
God's in His heaven All's right with the world. God's in His heaven All's right with the world. God's in His heaven All's right with the world. God's in…
体を流し終えたフィフスが、シンジのすぐ傍に身を沈めた。パーソナルスペースがヒトより大きめのシンジは、それが気になるんだろう。窺うような視線を向けている。
「一時的接触を極端に避けるね、君は。 恐いのかい? 人と触れ合うのが」
これまでずっとシンジとともに過ごしてきたけれど、男の子は、友達同士でもこういうスキンシップをとらないんじゃないかしら。だから、シンジのこの反応は特別じゃないと思う。
だけど、シンジの沈黙を肯定と受け取ったか、フィフスが言葉を継いだ。
「他人を知らなければ、裏切られることも互いに傷つくこともない。でも、さびしさを忘れることもないよ…」
シンジが、わずかに頷いた。
他人をどう捉えるか? それは、シンジがずっと思い悩んできたことだ。加持さんが語ってくれた人生観は、きっとシンジの中で醸造されて、蒸留される時を待ってる。
「人間はさびしさを永久になくすことはできない。ヒトは独りだからね。ただ忘れることができるから、人は生きていけるのさ」
湯船の中で重なり合わされた手に驚いて、シンジが息を呑む。
もし、このフィフスの少年が、…ううん、渚カヲルが、シンジの友になってくれるというのなら。…シンジは、自分の問いに答えることができるかもしれない。
唐突に大浴場の照明が落ちた。
「時間だ…」
「もう、終わりなのかい?」
「うん、もう帰らなきゃ」
「君と、一緒に。…だね?」
うん。と、シンジが頷く。少し嬉しそうなのは、今夜はヒトの気配を感じながら眠れそうだからかしら。このところ、ちょっとマシになってきたとは思うけど、やはり拭い難いのだろう。
カヲルが立ち上がった。…この無頓着な所作…、なんだか振る舞い方までレイに似てるわね。
「常に人間は、心に痛みを感じている」
実にやさしげな視線で、シンジを見下ろす。
「心が痛がりだから、生きるのも辛いと感じる」
シンジの頬が熱いのは、湯あたりなんかじゃなさそうだわ。
「ガラスのように繊細だね。特に君の心は」
「僕が?」
「そう。好意に値するよ」
コウイ…? カヲルの言葉を理解し損ねて、シンジが呟いた。
「好きって事さ」
あ~? っと、その… やっぱり友情じゃなくて、そっちの方?
えー!えー? えー♪そうなの? そうなの?
だから誰も、カヲルのことをワタシに教えてくれなかったの? シンジをそっとしときたかったから?
ということは…、シンジがフラレた? …それともフッタのかしら?
…ええっと? これって表記は【カヲル×シンジ】でいいのかしら…? でもでもヒカリの話によるとサソイウケとかヘタレゼメとかいろいろ有って一概には言えないっていうし…、ああん、わかんない!だって、こんなの向こうの大学じゃ、教えてくんなかったんだもん~~
やだ、ワタシどうしたらいいの? こっこのまま温かく見守るべきかしら? それともいっそ積極的に応援すべき? …なんだか、あるはずのない心臓がドキドキしてきたような気がする。
こんなことならヒカリの蔵書、すべて読破しとくんだった…なんて、よく分かんない反省してるうちに2人ともお風呂から上がっちゃってた。
***
常夏の日本では、オープントップの車ってけっこう快適ね。ドイツだと、真冬でも幌を仕舞ったままで走ってたりするのを見かけるケド、正直そのスタイルはよく解かんない。
「助かりました。加持さん!」
シンジが、運転席に向けて声を張り上げる。屋根がないから、後部座席から呼びかけようと思ったら、風圧に負けてらんない。
「いやいや、偶然だよ」
ゲート前のロータリーでバスを待つか、環状線の駅まで歩くか。バスの運行表とニラメッコしてた2人を照らしたのは、加持さんのバルケッタのヘッドライトだった。
「偶然も運命の一部。…なんですよね。じゃあこれも、僕の才能なんですか?」
はっはっはっ…て、加持さんが心底愉快そうに笑う。
「こりゃまた一本とられたな。いやいや、案外笑い事じゃないかもしれないなぁ…」
「シンジ君のことが心配なんだよ。…誰もね」
加持さんのバルケッタは後部座席が狭いから、カヲルの顔が間近。カーブのたびに身体が密着しちゃう。
「心配しなくても、何もしませんよ」
「…そう願いたいよ」
カヲルは特に声を張り上げたわけじゃないのに、その言葉はちゃんと加持さんに届いたみたい。
「何の話し?」
「託言だよ」
カヲルの笑顔に、シンジがはにかむ。だからって、ワタシまでは誤魔化せないわよ。
こいつ、加持さんと何らかの繋がりがある? それにこの状況で今の言葉。…焦点はシンジよね?
いったい。コイツは何を企んでるの? 加持さんは何を知ってるの?
シンジの不興を買ってでも、引き離しとくべきだったのかしら?
疑念は尽きないのに、情報が少なすぎる。
答えの出しようもないまま、ミサトのマンションに着いてしまった。
***
例によってリビングに布団をひいて、常夜灯を見上げてる。
「君は何を話したいんだい?」
え? …と、シンジが顔を向ける。手枕を重ねたカヲルも、常夜灯を見上げてた。
「僕に聞いて欲しいことがあるんだろう?」
見上げなおす常夜灯は頼りなげで、なのに視線を放させない。
「いろいろあったんだ、ここに来て」
そうね。本当にいろいろあったわね。
「来る前は、先生のところにいたんだ。穏やかで何にもない日々だった。ただそこにいるだけの…」
少し懐かしむような口調。もう、そんな平凡な生活には戻れないでしょうね。
「でも、それでも良かったんだ。僕には何もすることがなかったから」
「人間が、嫌いなのかい?」
「別に、どうでも良かったんだと思う」
ただ、今は違うと思う。自分の言葉を上書きするように、付け足した言葉は早口だった。
『どうしてカヲル君にこんな事話すんだろう…』
顔を向けると、いつから見てたというのか、カヲルがシンジを見つめていた。やさしげに漏らされた吐息に、シンジが息を呑む。
「僕は、君に逢うために生まれてきたのかもしれない」
不思議と、その言葉に嘘はないように思える。だけど、ワタシが復活したときに、コイツは居なかった。そのことがシンジにとってよくない未来を暗示しているようで、恐い。
****
翌朝、シンジが起きた時にはカヲルの姿はなかった。
実に几帳面に畳まれた布団。書き置きのひとつもない。いつ出て行ったのか、ワタシも気付かなかった。
純粋に心配するシンジをヨソに、ワタシはなんだか湧きあがる不安を押さえきれないで居たわ。
「嘘だ嘘だ嘘だぁっ!カヲル君が、彼が使徒だったなんて、そんなの嘘だぁっ!」
ぎりぎりと握り締めたこぶしで、シンジがインダクションレバーを叩いた。
本部に着いた途端に初号機に放り込まれ、前置きもなしに告げられたのが、カヲルの消息だったなんてね。
≪ 事実よ。受け止めなさい ≫
シンジは、…シンジはぎりぎりのところでミサトの言葉を受け入れたんだろう。ううん、まずは自分の目で確認しようとしたのかもしれない。
≪ 出撃、いいわね ≫
…
シンジの応えはなく、ただゆっくりと持ち上がる視界が、徐々に開けていった。
≪ エヴァ初号機、ルート2を降下、目標を追撃中! ≫
「裏切ったな…僕の気持ちを裏切ったな…父さんと同じに裏切ったんだ!」
あのシンジが、あんな短時間で打ち解けたのだ。きっと、巡り会うべくして巡り会った相手だったんだろう。
だからこそ、シンジはこんなにも怒りを露わにしてる。だからこそ、こうして己を奮い立たせているんだと思う。そうしてないと、逃げ出したくなる気持ちを抑えられないに違いない。
≪ 初号機、第4層に到達、目標と接触します ≫
「いた!」
弐号機の腕の中、護られるようにしてカヲルの姿。
「 待っていたよ、シンジ君 」
外部マイク越し、水中スピーカー越しなのに、まるで目の前で話してるかのよう。
「カヲル君!」
初号機が伸ばした左手を、弐号機の右手が迎え撃つ。弐号機の左手は初号機の右手が迎え撃って、まずは力比べだ。
とにかく、弐号機を黙らせないことには始まらない。
「アスカ、ごめんよ!」
ほぼ同時に、両機のウェポンラックが開いた。
「 エヴァシリーズ。アダムより生まれし、人間にとって忌むべき存在。それを利用してまで生き延びようとするリリン。僕には解からないよ 」
小さな呟きなのに、不思議とよく聞こえてくる。
振り下ろされたプログナイフの刃を、初号機のナイフが横殴りに貫いた。
「カヲル君!やめてよ、どうしてだよ!」
「 エヴァは僕と同じ体でできている。僕もアダムより生まれしものだからね。魂さえなければ同化できるさ。この弐号機の魂は、今自ら閉じこもっているから 」
!
…誤魔化したわね? 今アンタ、話題をすりかえたわね? 理由を欲したシンジに、訊いてもない手段を語ったわね。
…
アンタ、後ろめたいんでしょ。こんなことしてるのが心苦しいんでしょ。
だから、ナゼこんなことをしてるのか、シンジに話せないのよ。
…つまり、アンタ。ホントにシンジのことが好きだったのね。
滑ったナイフが、カヲルの目前で遮られる。ううん、今のは違う。なんだか急に弐号機の力が抜けたみたいだった。
「ATフィールド…!?」
肉眼で確認できるほど空気をゆがませた、ヒトならざる、使徒の証。
「 そう、君たちリリンはそう呼んでるね。なんぴとにも侵されざる聖なる領域、心の光。リリンも解かっているんだろ? ATフィールドは誰もが持っている心の壁だということを 」
カヲル、アンタわざとATフィールドをシンジに見せ付けたんじゃないの?
「そんなの解からないよ、カヲル君っ!」
初号機の胸部装甲にプログナイフが突き立った。
「くっ!」
いつの間にか刃を捨てて、替え刃で突き刺してきたのだ。
「…うわぁぁぁ!」
お返しとばかりに、シンジが弐号機の首元にプログナイフを突き立てた。
***
弐号機ごとゲートを蹴倒して、カヲルが入ってったターミナルドグマの奥へと踏み込む。
なにもかもが色褪せてくシンジの視界の中で、カヲルだけが色彩を持っていた。スポットライトみたいに、そこだけ光が当たっていた。
だから狙い過たず、その身体を掴み取ってしまったんだろう。
「 ありがとう、シンジ君。弐号機は君に止めておいてもらいたかったんだ。そうしなければ、彼女と生き続けたかも…しれないからね 」
「カヲル君…どうして…?」
「 僕が生き続けることが僕の運命だからだよ。…結果、ヒトが滅びてもね 」
ちょっと待って!カヲルの向こっ側で十字架にかけられてる巨人は、ナニ!?
「 だが、このまま死ぬこともできる。生と死は等価値なんだ、僕にとってはね 」
それに、カヲルと巨人の間で宙に浮いてるのは…、ロンギヌスの…槍!? こんなトコにあったの!?
「 自らの死、それが唯一の絶対的自由なんだよ 」
「何を…、カヲル君。…君が何を言っているのか解かんないよ。カヲル君…」
「 遺言だよ 」
地球に重力が有ることを今知った。と言わんばかりの唐突さで、ロンギヌスの槍が落下した。
「 …さぁ、僕を消してくれ 」
赤い水面を蹴立てて、あっという間に水没する。
「 そうしなければ、君らが消えることになる。滅びの時を免れ、未来を与えられる生命体は一つしか選ばれないんだ 」
もうカヲルを見ていられなくなって、シンジがうつむいた。
「 そして君は、死すべき存在ではない 」
使徒…? アンタ、ホントに使徒なの? ホントにワタシたちの敵なの?
「 君たちには、未来が必要だ 」
なぜ、待っていたの?
なぜ無抵抗なの? …ううん、なぜ自ら斃されようとするの?
なぜ、そんなに哀しそうで、そんなに嬉しそうなの?
なぜ、シンジに逢いに来たの?
なにを、シンジに見出したの?
解かんない。解かんないわ!
…だけど、解かりたいと思う。解かってあげたいと、願う。
「 …ありがとう。君に逢えて、嬉しかったよ 」
見えないけど、アンタ、微笑んでんでしょうね。あのひどく優しいまなざしで、シンジを見やってんでしょうね。
そしてシンジは、友達を自らの手にかけた。
****
カヲルと出会った。あのベンチの上で、シンジは膝を抱えてた。
赤い、…赫い、血の赤のような夕陽に染められて、誰も寄せ付けず。
『カヲル君が好きだって言ってくれたんだ…僕のこと』
今はただ、聞いてあげることしかできない。
『…初めて。…初めて人から好きだって言われたんだ…』
そっか…、それがアンタのココロに開いた穴ってワケね。エヴァに乗ることで寄せられる皆の関心で埋めてた、心の欠けたる部分。
だからこそ、あんなにも心を許したのね。
『僕に似てたんだ…、綾波にも…。好きだったんだ。生き残るならカヲル君のほうだったんだ…』
自分よりも相手のことを大切に思えるってコト。…大事なコトだと思うわ。
『僕なんかより、彼のほうがずっといい人だったのに…カヲル君が生き残るべきだったんだ』
『シンジ…』
…
シンジは応えない。
『…シンジ。カヲルも、そう思ったんだと、思うわ』
『カヲル君、…も?』
視界が、ようやく焦点を結んだ。夕陽に照らされて赤く染まった運河に、どこから流れ着いたのかプラスチックのフェンス。水面から覗かせた一角が長く影を伸ばして、十字架のよう。
『カヲルが使徒だってコト。これは…いい?』
こくん。と、シンジ。
ワタシたちにとって、カヲルがシトだろうがヒトだろうが、それはもうどうでもいいことだった。カヲルはカヲル。だから、アイツが使徒だってことを、シンジも受け入れられる。
『カヲルが言ってた。生き残るのは人類か、カヲル独りかってのは?』
なんとなく…。とシンジの呟きは力ない。
『カヲルはね。本当にシンジのことが好きになったんだと思う』
『本当に、…僕のことを?』
きっとね。ワタシはまだそんな思いを抱いたことはないから…、ううん、カヲルの選択を見た今なら、ワタシでも…
『本当に大切な人ができれば、何をなげうってでも護りたいと思うものだもの。それこそ、自分の命を投げ出してでもね』
「そんなっ!僕に、そんな価値なんかないよ!生き残るならカヲル君だったんだ!!」
開けた水面は、シンジの叫びを吸い取って返さない。
『…そうは思わないわ』
「そんなことあるもんかっ!カヲル君はっ!カヲル君は…僕なんかより、ずっと…」
声を詰まらせて、シンジが呻いた。
『…シンジ、アンタ。カヲルを侮辱するの?』
「僕が、なんで…!?」
胸に、叩きつけるように手のひら。
『シンジより、ずっといい人だったのよね? カヲルこそ、生き残るべきだったのよね?』
そうだよ!と頷いて、掻きむしるように胸元で握りしめられる。
『そのカヲルが生きていて欲しいと望んだアンタが、アンタ自身の価値を認めてないじゃない』
「そんな…!?」
『カヲルのことが好きだったんなら、カヲルの願いを叶えてあげなさい。アイツの想いを受け止めて、生きるの。精一杯!』
…
徐々に、…徐々に下がったシンジの視線に、もはや映るものなどなく。
抱えた膝に顔を埋めて、シンジの目頭が熱い。
今の今まで、シンジは泣かなかった。きっと、本当に悲しかったんだろう。悲しすぎたんだろう。あまりにも悲しいとヒトは泣くこともできないって、本当のことだったのね。
麻痺させてた心を、ようやく溶かして、シンジがすすり泣いた。
…
うん、泣きなさい。思いっきり泣けばいいわ。
心が弱いと、泣くことすらできないもの。かつてのワタシが、そうだったように。
いつか泣き止んで、立ち直れるって自信がないと、泣くことに逃げ込むことすらできない。そこから帰ってこれなくなりそうで、恐いから。
だから、泣きなさい。
泣けるだけの毅さが、アンタの裡にあるんだから。
…
すっかり陽が落ちて、ようやくシンジが涙を拭った。
まるで、それが合図でもあったかのように、人の気配が近寄ってくる。
3人分の足音。
ひとつは大胆に、おびえながら。ひとつは気がなさそうに、まっしぐらで。ひとつは無雑作に、途惑いながら。
…
気付いたシンジが、振り向きながら笑顔。
むりやり作ってるのが判るけど、雨の後に雲間から覗く太陽のような、きっといい笑顔。
つ
づ
く