潮風にさらわれて足元まで転がってきた野球帽に、つま先で上向きのベクトルを加えてやる。転がってきた勢いそのままにワタシの脚を駆け登ってきたソレを、膝の辺りで捕まえた。
輸送ヘリに向かって歩き出す。3歩目で、野球帽を追いかけて来てたトウジが射程圏内。4歩目で、押し付けるように返してやる。
「はい」
「おっ…おおきに」
おざなりに指先だけひらめかせてそれに応えるけど、歩みは止めない。前にも思ったケド、パンプスって飛行甲板を歩くには向かないわねぇ。
「ハロゥ、ミサト。元気してた?」
「まぁねー。あなたも、背、伸びたんじゃない?」
そぉ? って答える頃には、シンジの目の前だ。
今日のこの日を一日千秋の思いで待っていたから、感情の昂ぶりを抑えるのが大変。ちょっと気を抜くと涙腺が緩みそうになる。ダメよ、アスカ。今はガマン。
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレィよ」
輸送ヘリのダウンウォッシュが弱まった瞬間にワタシがしたのは、バカケンスケのカメラを逸らすことだった。この距離で写せるとも思えないケド、まっ念のタメね。
シンジは? と確認すると、ほんのり頬を染めて視線を逸らしていた。ミサトが洗わせてる煽情的なヤツとは比較しようもない可愛らしいノなんだけど、刺激が強かったかしら?
「アンタが、碇シンジ?」
「う…っ、うん」
こちらに向けた視線をあっという間に戻して、シンジがワタシを見てくれない。それどころか、うつむいてワタシの視線から逃れようとする。…それがシンジだから、しょうがないか。
でも、いつまでもそんな性格で居られると思ったら大間違いよ。
「そう。 大変だったわね」
えっ? と、シンジが顔を上げた。揺れる視線を、やさしく受け止めてやる。
「アンタの記録は全て見せて貰ったわ。 ひどい目に遭ったのね」
ワタシの言葉が沁み込みやすいように、ゆっくりと間を取りながら話す。
「ロクな説明も受けずにいきなり乗せられて、 それでもアンタは良くやったわ」
シンジの目尻ににじみ出てきた涙は、ワタシの言葉が届いた証。
「褒めたげる。 今まで、よく頑張ったわね。 つらかったでしょ」
感極まったらしいシンジが、顔を伏せた。左の手の甲で、懸命に目元を押さえてる。くぐもった嗚咽は、喰いしばった歯の間から漏れ出てきてんだろう。
今シンジにかけてやった言葉は、どれもワタシがシンジの中に居た頃にかけてやったモノだ。そのときは、寂しそうに笑うばかりで取り合ってくんなかった。
同じ言葉なのに、こうして目の前に立って想いのかぎりを込めて口にするだけで、シンジの心に届くなんてね。
一歩詰め寄って、シンジを抱きしめてやる。驚いて泣き止んだシンジが離れようとするケド、それは許してやんない。シンジはこういうスキンシップを怖れるけれど、それはただそう云うことに慣れてないってだけ。自分にそんな価値はないって、思い込んでるだけ。
ぽんぽんとその頭をやさしく叩いてやると、あきらめたらしいシンジが体の力を抜いた。
「ワタシが来たからには、もうアンタをつらい目に遭わせやしないわ」
ぽたり。と左肩に落ちてきた涙が、熱い。
「…なっ なん^で?」
さかんにしゃくりあげるシンジが、なんとかそれだけ搾り出した。
「一目で判ったわ。アンタ、あんなことに向いてるタイプじゃないでしょ。でも、自分以外に乗れるヒトが居なかったから、仕方なく戦ってきた。…違う?」
静かにかぶりを振ったシンジに置き去られて、ぽとぽたと涙が落ちる。
「それがどれだけつらいことなのか、ワタシには解かんないわ。…だけど、想像はできる」
やさしくシンジを引き剥がして、その涙を拭ってやった。もちろんハンカチなんか使わない。その顔を包むようにして、親指の腹で、やさしく。
「向いてないって解かってんのに、ダレかのために戦えるなんて立派なことよ。ワタシは尊敬してる。アンタも自信を持ちなさい」
視界の隅に、あんぐりと口を開けたミサトの間抜け面。ミサトがドイツ勤務の時、それなりにやさしく接してあげてたケド、まさかここまでシンジに好意的に接するとは思ってなかったんだろう。
…だけど。と口答えしようとするシンジの唇を、人差し指で塞いだ。
「結果は出してるんだもの、それで充分よ。だって、ココロん中は想像するしかないじゃない」
想像しようとすることすら、最初の時にはできなったケドね…
…でも。なんて、まだ口答えしかかったので、シンジの唇をつねり上げそうになるトコだった。どうどうと荒ぶるココロを抑えつけ、人差し指を少し押し込むだけで黙らせる。
…ワタシも、ずいぶんと丸くなったもんだわ。
「じゃあ、アンタは。10年間、使徒を斃すための訓練と、エヴァ開発のための実験に明け暮れた女の子の気持ち。…解かる?」
えっ!? と、漏れでたシンジの吐息が、指先に熱い。
少し呆けていたシンジは、それが誰のコトを指すのか判ったんだろう。ワタシから、目を逸らそうとした。…でも、逸らしきれてない。
そのココロの動きが、手に取るように判る。
正式な訓練を積んだ人間が居て、なぜ自分が…。とか、エヴァに乗るために10年も訓練してきた人だって居るのに、その間自分は…。とか、これで自分もお払い箱になるんだろうか。とか…。なにより、なんでこの人は、自分なんかのコトをこんなに気にかけてくれるのだろうか。…などとまで思ってんじゃないかしら。
もちろん想像に過ぎないケド、そう外れてないって自信があるわ。
その唇から人差し指をノけてやると、つられたシンジがワタシを見た。眉尻下げて、口を弓なりにして、答えを待ってるって顔をしてやる。
…
ぎゅっと閉じたまぶたが、涙の残りを搾り出す。きっと、ワタシの視線に耐えられなくなったのね。
「解かるわけ、ないよ…」
それは当然のコト。だけど、傷ついた女の子の代わりに戦えるヤツだって、ワタシは知ってるもの。
「…けど、解かってあげられたらいい…って思う」
おずおずと上げられた視線に、頷いてやる。
「それでいいのよ。でも、大事なコト」
あの…。と上げたシンジの戸惑いを、ワタシだから解かってあげられる。
「アスカって呼んで」
それでもシンジは途惑ってるみたいだから、後押ししてあげるわ。
「ワタシも、アンタのことシンジって呼ぶわ。いいでしょ?」
うん。って頷いたシンジが、おずおずとワタシの名を口にしてくれた。
「アスカ…は、僕のことを解かろうとしてくれてるんだよね」
いったん甲板に落とした視線が、上目遣いに見上げてくる。ほんのり、頬なんか染めたりして。
「その…、ありがとう」
あっ…ダメ。鼻の奥が熱くなるのを止めらんない。
前回の経験のお陰で、ワタシは自分の身体を完全に支配下に置ける。不随意筋だって自由自在で、心臓の鼓動すら思いのまま。
なのに、溢れ出る涙をとどめらんなかった。
だって、ワタシのコトバがシンジに届いたから。シンジのコトバが、ワタシに届いたから。カラダを完璧にコントロールできても、ココロから溢れ出るものは止めらんない。
誤解したシンジが慌ててるけど、…ゴメン。今は泣かせて。素直になるためにやり直してて、泣くことも笑うことも思いのままにやってきたけど、嬉し泣きできる機会はなかったんだもの。
…もうちょっと泣いてても、いいよね?
終劇
2007.10.1 DISTRIBUTED
2008.02.18 PUBLISHED
【第九回 エヴァ小説2007年作品人気投票】にて、過分なご支持と評価をいただきました。
投票してくださった方々への感謝の気持ちを、この一篇に添えて、御礼申し上げます。ありがとうございました。